第十話 中 北限の地 ランデスヴァルト・グレンツェ
いよいよ神殿に足を踏み入れた一行。
そして新たな邂逅が。
第十話 中 ランデスヴァルト・グレンツェ
ゴリゴリ。木と石がこすれた。重い音だ。
ピドーは目をこすって起き上がった。寝ぼけ眼で辺りを見渡す。どうして床で寝袋にくるまっているのか、すぐには理解できなかった。閂がきしんだのか。ドアは閉まっている。リギーが布団をかぶり直した。室内はうっすらと明るくなり始めたばかりだ。
動物の鳴き声もする。
ピドーは素早く寝袋から飛び出した。
「ジーノチカ」
低い声だったが、彼もぱっと目を開けた。ドアのきしみは止んでいる。二人でドアに近づいた。隙間から覗く。ロバがつながれていた。消したはずの火が再び燃えている。炎が人影を照らした。赤い陰影に彩られたのは座る男だ。フードをかぶり、眼鏡をかけている。
「おおお!」
突然ジーノチカが雄たけびを上げた。閂を放り出すように開けた。半ばドアを蹴って外へ躍り出る。ようやく東の空が白み始めたばかり。谷底に朝陽は届かず、まだ闇の底だ。燃える光だけがまばゆい。
振り返った男は身構えた。腰から銃を取る。だが叫びながら駆け寄るジーノチカを認めると中腰のまま固まった。ジーノチカは寝起きだ。まだ縛っていない白い髪を振り乱して近づく。数歩の場所で停まった。
男は片手で口を塞ぎ、また下ろした。銃をしまう。しばらくしてようやく言葉を押し出した。
「大きな声を出すな。...やっぱりレオポルト...? レオだな?」
「そうだ。僕だ! そして君はアレクサンドル・コーエンなのだな! そうだのだな、サッシャ!」
二人は愛称で呼び合ったものの、微妙な距離を保って止まった。お互いをじいっと見つめる。
ピドーは呆気にとられて二人を眺めた。振り返るとリギーが半身を起している。目をぱちぱちさせた。
「寒いよ。閉めとくれ」
ピドーも目を丸くする。
「あいつは?」
「サッシャ。あのシロ頭が探しているジーノチカの義理の弟! まだ夜も明けていないじゃないか。大騒ぎして...」
「行方が分からないって言ってただろう?」
「ジーノチカはね」
事もなげに言うと再び布団にもぐりこんだ。確かに語ったのはジーノチカについてだけだった。弟については言及していない。
「あいつどこから湧いて出た?」
返事はない。
オリガは寝ている。
なんだかごまかされた感じだ。ピドーは外に出てドアを閉めた。冷気が体を包む。身震いした。山奥の早朝は寒いくらいだ。
再びサッシャは腰を下ろし、炎に顔を向けていた。背負子が無造作に置かれている。フードをさらに深くかぶった。背後のジーノチカは腕組みをしていた。
「生きていたのだな、サッシャ。ここに住んでいるのか」
「詳しくは聞くな」
「姉君と母君はどうした? 無事なのか?」
「分からん。親父の事は知っているな?」
「ああ。残念であった」
当時は国内最大だったコーエン物流の社長だった。内縁ではあったが、妻がティーガ族だからと逮捕。まもなく処刑された。
彼は小石を流れに向かって投げた。小さな飛沫が上がる。ロバが気のないそぶりで耳を震わせる。
「レオ、東の斜面に行ったか? あれでは誰が誰だか...。母と姉には戻るなと...。一緒に東州へ行こうと何度も言った。けれども聞かなかったんだ」
「母君は婚姻の届を出されていなかったのだな」
「ああ。姓が違えば、少数民族帰還命令の対象から外れた可能性もあったが...」
異民族と婚姻を結んだら、ティーガ族から同族とみなされなくなる。
「ティーガの名前を捨てられなかったんだ。母は姉に教育を受けさせようと首都へ出たのに、結果は...」
言葉を飲み込んだ。また石が飛ぶ。ピドーを顎で示した。
「あの子は?」
自分からサッシャの前に立つ。
「太陽神話を調べに来たんだ」
「なぜ?」
「俺が『東の赤』、足掻きの七面鳥だから。これ以上、冥界の太陽を呼び出したくない。冥界の力は破壊だけだった。内戦を終わらせる力にもなれないみたいだ。それなら第四の太陽を起こす前に、全て封印する方法を知りたい。せめてヒントが欲しい」
サッシャが顔を上げた。フードがずれる。茶色の髪がはみ出した。サングラスをはずす。じっとピドーを眺めた。
「名前は? 出身は?」
ピドーはサッシャの茶色い瞳を睨んだ。
「あんたこそ何者だ? オリガの父親か? ジーノチカ・スルツカヤの弟? なのにティーガ族じゃない。なぜここにいる?」
サッシャは小さく笑った。眼鏡をかけ直す。
「質問がたくさんだな。では、まずは俺からだ。サッシャ・コーエン。オリガの父親じゃない。ジーノチカは義理の姉だ。父と母は子連れ同士の再婚」
「そうなんだ...。あっちのジーノチカとは友達?」
と、白い頭のジーノチカを示す。
「まあな。高等学校までは同じ学校だ。よくウチに顔を出していた。姉目当てだな」
ピドーを見つめているようで、視線は彼を通りすぎる。どこか遠くを見ている目つきだった。ソフィアの住人達と同じだ。過ぎ去った過去を見ている。彼の視線が目の前のピドーに戻った。
「それで? 次はお前だ」
「ピドー・エフェレット。ソフィアから来たけど、生まれたのはクロイツベルク。今は調香師の見習いだ」
「家族はいるのか?」
「うん。親父がいる。姉貴と義弟は南州の軍施設に拘留中」
「レオとはどういう知り合いだ?」
「親父の知り合いから紹介された」
彼はしばらくじっとピドーを眺める。眼鏡をかけ直した。うつむく。フードの陰になった黒い頬に赤い光が反射して揺らめいた。顔を上げずに尋ねる。
「どうしてクロイツベルクを離れた? やはり内戦か?」
「うん。俺はチビだったしよく覚えていない」
サッシャはしばらく考え込んだ。
「...クロイツベルクのエフェレット......有名な香水工房があったな」
「あ、それ。俺はそこの孫」
「では親父はシパクトリの選手だったか?」
ピドーの目がさらに丸くなった。
「え? 親父を知ってるの? 元気だよ」
「そうか......。個人的な面識はないが、競技の世界じゃ有名人だったぞ。北の白鬼だろう。ティーガのテロに加担したと逮捕状が出たうちの一人で間違いないか?」
「うん」
「生きていたのか......」
彼の眉間には深い皺が刻まれた。
「まさか『東の赤』が息子とはね...。なぜだ? なぜ冥界とつながろうなどと」
「行きがかりだよ。神話自体、全然知らなかった」
フードが揺れた。サッシャが顔を向ける。
「知らなかった? それなのに復活の儀式を行ったのか? そんなに簡単なはずじゃないが」
「巻き込まれた」
サッシャが立ち上がった。裾を払う。
「さて七面鳥くん。契約はもう結ばれているんだろう? 神殿へ行くか。俺に何か説明ができるだろう。レオ、お前も当然行くな?」
「もちろんだ」
「その髪はどうした? 勉強し過ぎて色が抜けたか?」
彼は半分笑っている。ドアを叩いた。きしんだ音とともに、中からリギーが細く開けた。サッシャが声をかける。
「神殿へ行って来る」
「ああ」
サッシャの背後からピドーが尋ねた。
「昨日リギーさんが言ってた...爆発を起こすと連中が来るってどういう意味なんだ?」
「北軍の兵士だよ」
リギーはまだ眠そうだ。声はくぐもっている。
「封鎖が解けた後も、集落のちょっと離れたところに小屋を建てて見張っているんだよ。しょっちゅうこっそりのぞいているよ。あたしらが気付かないとでも思っているんだろうかね」
「え...じゃあ俺たちが来ているのもばれてる?」
「そうかもねえ」
「...やばくね?」
さんざん爆発を起こしてしまった。ジーノチカの立場はまずいだろう。西州軍少将の兄だ。軍関係者と接触すれば人質として拘束されるかもしれない。
もうジーノチカとサッシャは歩き始めている。急いで扉を閉めた。二人を追う。
「ちょっと待って、サッシャ。北州軍がいるのか?」
「ああ」
彼は天気の話のように頷いた。
「動向を窺っている感じだな。ここがテロの拠点になるとでも思っているのかな?」
三人は揃って歩き始めた。
「ここに色々と運んでいるのはサッシャだな」
「そうだ。だが北州軍にはルートがばれないように気を付けている。来るのは不定期なんだが、昨日はリギーから連絡を受けて急いで来た」
普段の来訪はひと気のない時間帯を選んでいるそうだ。今回は緊急だ。
「俺達が来てたのって、ばれてたのか」
「ああ。もう一昨日か? 山に入った時点で分かっていたそうだ。普段はひと気のない処で、大声で叫ぶ連中がいるって」
山岳地帯は意外と音が響くのだ。入山してまもなく、二人の存在はばれていたらしい。
「ジーノチカのせいか! それでサッシャはどこから来たんだ?」
「さっさと行くぞ」
自分の属する組織については何も言いたくないようだ。
ジーノチカが口を挟む。
「他にティーガの生き残りはいるのか?」
「答えられないな」
「うん? それは居るという事ではないか! 我々は子供を保護しているのだ。というよりは、いわばピドーの弟分だな。記憶喪失で言語障害もある。キャベツを植えるならやはりキャベツ畑だ。だが今はイモ畑に埋まっている状態といってもいいだろう。それではまずい! いや彼がイモ畑でも充分に成長可能ならばよろしい! だがどうもいかん状態なのだ。なんとか同族に会わせてやりたいのだが。何か思い出すかもしれん」
「答えられないと言っただろう」
「僕は会わせたいと言ったのだ」
「聞こえなかった事にする」
焦げ臭い集落を抜ける。三人は無言で歩く。ジーノチカの髪はまとめられて背中に垂れ下がっていた。
白い朝の光が谷底にも届く。鳥がさえずりゆるやかに風が吹く。藪の中でウサギが跳ね、枝を揺らした。一日の活動が始まる。穏やかな光景とは裏腹に死霊が増えてきた。ピドーはなるべく足元だけを見て歩く。それでも体中に寒気がした。彼らがすり寄って来るせいだ。
昨日リギーと会った場所を過ぎる。そこから日の出の方向へ向かった。
サッシャが足を停めたのは、どこにでもある藪の手前だった。
「見てみろ。落ちるなよ」
ジーノチカとピドーは身を乗り出した。その途端、鼻先で爆発が起きた。死霊が崖に手をかけていたのだ。決して乗り越えられない透明の壁でもあるかのように、藪の上までは来られないようだ。目が合ってしまった。ジーノチカはもちろん、ピドーも自らの爆風でひっくり返った。
「すげーいるんだけど!」
サッシャは素早く下がった。銃に手がかかっている。
やれやれ、とジーノチカが首を振った。体を起こす。
「僕は彼の秘書というわけではない! 何度も説明するのが面倒だ! それでも語ってやろう。これが『東の赤』だ。参ったか。彼の場合は起爆剤となるのが...」
と、サッシャが納得するまで話しをした。
「...こっちからしたら何もないところから爆発させるのか。確かに強力な武器にはなるな」
冥界の力を目の当たりにして、彼の表情に緊張が走った。
「あまり派手にやらないでくれ」
「分かってるんだけど...」
また小さな爆発が起きる。今度は、サッシャがやれやれと首を振った。
「死霊ならたくさんいるだろう。ここに集められ...いわば合葬されたからな。ここが東の斜面だ」
二人は改めて眼下を覗く。大きさの様々な岩が積み重なり、背の低い木々が白っぽく根を張っている。最初は分からなかった。夜明け前の暗さに目が慣れてくると、隙間から岩肌と違う材質の物があると分かる。突き出た骨だ。ぼろぼろになった布がまとわりついていた。それらはもはや服と呼べない。黒く焼け焦げ、裂けていた。そして白い花びらがまばらに彼らを覆っていた。
サッシャがじっと見下ろす。彼はティーガ族ではない。だが義理の母と姉がここに横たわっているかもしれないのだ。
「封鎖が解けて来てみたらこの状態だ。誰の仕業かは分からん。遺体をここに投げ入れた挙句、木の枝をかぶせて隠したんだ」
骨も煤で汚れて燻った色だ。
ジーノチカが踵を付けて立つ。胸に手を当てた。厳かに頭を垂れる。瞼を閉じてじっとしている。眉間にわずかに皺が寄っているようだ。静かに時が流れる。
やがてぱっと目を開けた。同じ姿勢を取りつつも、かなり後ろに下がったピドーを振り返る。
「何でそんなに下がるのだ?」
「聞くか? それ」
「ふむ。骸骨が怖いのか? 怖いのだな? 大丈夫だ、これらは生きていた人々だ、肉体を失ったが畏敬の念を抱けば怖くはないぞ!」
「......へい」
怖いのではない。爆発させたくないのだ。だがどうも話がずれている。いつものジーノチカらしい。
「それにしても、あの花だ。この付近に咲く種ではない。誰かが持ち込んだようだ。サッシャ、君か?」
「違う。もう行くぞ」
ピドーが尋ねた。
「あんたはどうして俺たちに協力してくれる?」
サッシャは目を伏せた。
「今朝、君らの顔を確認したからだ。撃ち殺すつもりだった。レオのようだから止めたんだ」
「えええ~」
閂がきしんだのは、リギーがそっと扉を開けたからだろう。ジーノチカに来訪者に注意しろと言われたが、彼もまた明け方はぐっすり眠っていたようだ。
「古い知り合いだからな。まずは話を聞こうと思った。裏のある男じゃないのは知っている」
「へえ? 十年の間に変わるとは思わなかったのか?」
「アイツが?」
指で示す方には、スキップをする背中だ。白い髪が上下左右に揺れる。
「ごめん。愚問だった」
そこからまたしばらく歩いた。神殿は『忌むべきもの』の住居でもある。一般の居住地からはかなり離れた場所に設営されていた。
「着いたぞ」
彼が足を停めた場所には草木が生い茂っているだけだ。
「どこ?」
彼が藪を押し分けた。石の階段が下へ向かっている。視界が開けた。
その下に焼け爛れた廃墟が現れた。柱が崩れ、土台の敷石はでこぼこだ。黒く焦げている。雑草が茂り、殆ど藪に覆われていた。窪地をさらに掘り、周囲よりも一段と低くなっている場所に神殿跡があった。まるで石切り場だ。敷地を取り囲む壁も煤けて黒い。崩れてしまっているが、かろうじて残っている線刻が見てとれる。
「太陽神殿だろう? どうしてこんな地下みたいにするんだ?」
ピドーにとって太陽は天に輝くものだ。
ジーノチカが答えた。
「冥界の太陽だからか? 地下の住人だな」
南の神殿は高い場所にあった。まさに太陽のための神殿だった。ここは『花の戦い』後に造営された神殿だ。神官が『忌むべきもの』となってからだ。そのせいだろうか。
「ロッホネスも地下だ。南は戦略的に海沿いに建立されたのかもしれない。しかし、やはり岩山の中にあったぞ。東は立地としてどうしようもない、地下にも岩山にも作れん」
「そうか...」
ここに住民を集めて銃撃を加えたのだろう。逃げ場はない。小虎が生き残ったのは奇跡に近いかもしれない。心に刺が刺さったように痛んだ。
三人は階段を下りた。枝を折り、石を蹴りながら進む。下に降り立った時、ピドーはめまいがした。敷地の中央に幻影がある。幾つもの遺体が折り重なっている。彼らはピドーに気が付くと、ゆっくりと山から抜けて立ち上がる。銃撃を受けたようだ。手足が千切れそうな者、顔が半分無い者...。
ピドーは空を仰いだ。空が見えるかと思いきや、真正面に顔があった。男女の区別がつかないほど汚れた顔だ。泥と血なのか。目玉はない。うつろな穴が二つ、じっとピドーを見つめる。
「うわっ」
爆発。
サッシャが息を飲む。咄嗟に伏せた。平然としているジーノチカを戸惑ったように見る。
「慣れたものだな、レオ」
「『東の赤』だと言っただろう。人間爆弾だ。でも普段あまり害はない。むしろ驚いて転んだ方が怪我をするぞ。ああ、でも小虎の電撃は危ないな。サッシャ、北事変の前にここへ来た事はあるのか?」
「無い」
「そうか...」
それなら神官の子供を知る術はない。
壁には幾つもの穴がうがたれている。元からあったのかはわからない。まるでアリの巣だ。木枠が嵌められて、ドアがかろうじて下がっていたりもする。居室として利用していたようだ。
亡霊がわらわらと寄って来る。そのうちの一人がどうしても離れない。爆発させたのに体と霊体が重なってしまう。心の中の洞穴に黒い渦巻を感じる。今にも飛び出しそうだ。何かが引っかかって出られない。渦巻がそれにぶつかる度に青く光る。
(『南の青』か!)
復活していないのは慟哭の鯨だけだ。
(復活しちまったら何が出てくるんだ?)
ティーガの亡霊たちがピドーの手足にからむ。身動が取れない。洞穴のすぐ近くまで引き込まれている自分を感じた。足元に冥界への入り口が渦を巻く。ルーカと小虎の気配も感じる。やはり冥界の太陽に囚われている者同士なのだ。
(俺たちは冥界の太陽を利用しているのか? それとも...)
今まで全く考えなかった。
(利用されているのか?)
ふとウサギが思い浮かぶ。先ほどの少女が持っていたものだ。上の方に白い光が現れた。ピドーの頭のすぐそばに止まった。光の筋に包まれる。重なっていた亡霊が揺らいだ。くすんだ肌が白くなっていく。短く切った髪が銀にきらめく。女性だった。彼女の為すがままに腕を伸ばす。
光の中で二人が抱き合った。親子なのだろうか。少女はピドーに付いて来ていたようだ。そして母と再会したのだろう。少女が満面の笑みで手を振る。それから二人は寄り添い、一つの光になった。すうっとはるかかなたに飛び去る。
視界が戻った。黒い敷石が眼前にある。ごん、と衝撃が額にあった。肩も痛い。転んだのだ。亡霊たちがピドーを見下ろしている。しかし、もう手を伸ばしてはこない。ただ見つめているだけだ。やがて彼らは静かに離れていく。ただし神殿の敷地からは離れられないのだろう。殆どの者は再び黒い石に横たわる。もうピドーにまとわりつこうとはしない。
(ああ...。ここに居てもいいってことか...)
恨みを聞かせようとするのではない。滞在するのを黙認してくれる。彼らは恐怖の存在だけではなかった。感情があり、家族がいて、ふつうに暮らしている人間たちだ。炎の後も、崩れた建物も、彼らが命を奪われた証のみではない。それまではまさに生きていた、という証明なのだ。
さきほどまでは恐ろしかった黒焦げの地面が不思議ほど愛おしくなった。
「ピドー、大丈夫か?」
ジーノチカが駆け寄る。
「いてえ」
体を起こす。頭をさする。たんこぶができていた。
「転んだだけだよ。そんなに長く寝てたか?」
「いや。もちろん僕はすぐに駆け付けた」
「そりゃどうも」
彼はしげしげとピドーを眺めた。
「何だよ?」
「いや...。さっきまでは、おびえた目つきで脂汗を流して背中を丸めて唸って吐きそうにえづいて、まるで飼い主に見捨てられたみじめな子犬のようで」
「そこまでか!」
「そうだ!」
通常の状態ではないと自分でも多少は意識してはいた。やはりそうだったようだ。
「で、何か分かったのかよ?」
「うむ」
彼は床を示した。
「崩れ過ぎてわからんが線刻は施されているようだな」
それから数歩さがる。しげしげと壁を眺める。
「こちらも崩れ過ぎて分からん」
まるで爆撃でも受けたかのような崩壊ぶりだ。
サッシャが手招きをしている。居室跡の方だ。ジーノチカとピドーは付いて行く。
「ここサンハチみたいだな」
少しずつ時間をかけて地面をくりぬいたのだろう。壁には明かりを乗せるためのくぼみがあるのも、ソフィアの防空壕と一緒だ。壊れた椅子、散乱する食器など部屋の中には生活が残っている。リギーはここの片づけには手を付けていないようだ。台所らしい場所には干からびた何かのくずが転がったままだ。
寝室は何か所かある。木の寝台だ。めくれたままの毛布や破れた枕。数家族が過ごしていたようだ。リギーの家のように壁に布が貼ってある。どれも色が褪せ、ちぎれてぶら下がる。
(ここで小虎が暮らしていたんだ...)
机だけが置かれた部屋もある。執務室といった風情だ。ペンやインク壺が転がったままだ。
「紙の類はないな?」
「燃えたようだ。残っていたのは、さらに奥に保管されていた分だけだ。全て持ち出した」
かろうじて落ちている数枚の紙片は焼け焦げていた。
「暦だな」
ジーノチカが覗き込む。日付によって行動が決まっている。この紙はその覚書のようで、あまり重要度はないようだ。ピドーがサッシャに尋ねた。
「ここに居住していた者の名前は分かるの?」
「そうだな...。ここの役場は燃えてしまったが、グレンツェにはティーガの戸籍が残っているかもしれない。交流は盛んだった」
「行こう!」
「そうだな。しかし、まあ待て。『東の赤』で戦った事は?」
サッシャは、またじろじろとピドーを見まわした。
「何だよ、なりたかったわけじゃねえ」
力が欲しいとは思っていた。故郷を守りたいと。しかし太陽神話など知らなかった。巻き込まれて仕方なく...と言っても言い訳にしかならない。もう足掻きの七面鳥は捧げられてしまったのだ。
「あるけど...負けた。力だけあっても、あんまり役に立たなかった感じかな」
「だろうな。ティーガの為の力だ」
サッシャは事もなげに言い捨てた。
部屋を物色していたジーノチカにも手招きする。
「レオ、ちょっと来い」
それから少し唇をゆがめた。
「全く、なんて頭だろうな」
「僕の頭なら君にとやかく言われる謂れはない。幼少の頃より僕は神童と呼ばれていたのだぞ! 周囲の期待を裏切らず、常に成績は上位だった。しかし決しておごることなく研鑽した結果、優れた医者であり占い師となった! 僕の頭はかぼちゃではない! 有用であり、しかも謙遜を知っている素晴らしい頭である!」
ピドーがぼそっと呟いた。
「中身の事じゃないだろう」
「何を言う? 僕の頭について君は異論があるのか?」
今度こそサッシャは吹き出した。
「相変わらずだ。その頓珍漢さ加減で、姉さんによく投げられていたもんだ」
「投げる? 女の人が?」
「そうだ。強かったぞ。相手の勢いを利用してバランスを崩させる。そして投げるんだ。そのうえレオの相手をまともにするのは...いや、論破するのは姉さんくらいだった」
それから表情をひきしめた。
「こっちだ」
岩壁の居室へ入る。階段があった。サッシャは懐中電灯を取り出した。階下へ降りる。人がやっと通れるほどの狭さだ。ジーノチカは身をかがめていた。
足元に水が流れている。天井からも水滴が滴り落ちた。天然のトンネルのようだ。
頭上がひらけた。ドーム状の広場に出た。壁に淡い光の環が当たる。
ピドーとジーノチカは息を飲んだ。
太陽の石があった。中央に大きな顔。半壊状態だ。だが何かを食んでいるのは見て取れる。
「冥界の四つの太陽がこれを取り囲んでいたはずだ。いつ持ち出されたかは知らん」
「親父が言ってたよ。内戦が始まる前に、北州からとても大きい物が運び込まれたって。その時かもしれない」
ジーノチカはサッシャから灯りを受け取る。あちこちを照らしていた。側面の壁にはティーガの絵文字がびっしりと掘り込まれていた。手帳を取り出す。片手でめくる。光がせわしなく壁を行き来する。
「おかしい」
電燈が一点で止まった。中央の首を照らす。
「僕が知っている絵図と違うようだ。これは何だ?」
ピドーにはさっぱり分からない。
「どこが?」
「破滅を喰っているようだ」
冥界の太陽を四つとも呼び出したら、破滅が訪れる。したがって絵文字は破滅が現世太陽を滅ぼすはずだ。しかし、はっきりとしないながらも目の前の図形は構造が逆。
「そうだ」
サッシャは頷く。
「冥界の太陽は地下の亡霊であり、冥界へ続く道を照らす...いわば拓く存在だ。四つ揃えば地上と地下を結ぶ通路が完成する」
「それで現世が滅びるというのだろう? 我々はそれを防ごうと神殿を調べに来たのだが」
今は三つまで復活している。サッシャは首を傾げた。
「ん? 何かずれている気がする」
ピドーも疑問だらけだ。
「そもそも冥界の太陽を呼び出すのはなぜなんだ? 人間の為になるのか?」
「まあそうだ。現世太陽を破滅から救うためだ。時期は決まっている。暦が一巡りした時だ」
「え...救う為...? 現世を滅ぼす為じゃないのか?」
「どちらにも転ぶ儀式かもな」
ティーガ暦とも関わってくる。長期歴が一回りすると、その時代の太陽が力を失って冥界に入る。次の太陽を作り出す力が、冥界に捧げられるものだ。動物に擬せられた人間である。太陽の復活を受けた人間は、冥界への通路の一部を担う。それで冥界の力を利用できるのだ。
四つすべてが揃うと、通路は完成する。そこを通り、冥界から『破滅』が地上へ現れる。
「衰えた太陽はそれに滅ぼされて、新たな太陽が生まれるそうだ。結局は太陽復活の儀式だ。間接的には人間のためともなる。世界を破滅させる為の儀式じゃない」
つまりピドーやルーカが使える力は、あくまで副産物だ。
「ずいぶん詳しいな。ジーノチカから教えを受けた僕より詳しいのはなぜだ!」
「ここに残っていた資料のおかげだ。それにお前が勉強していたのは暦じゃないか。太陽神話とはまた別の話だ。ここを襲った連中は敢えて破壊したのかもしれないが...。文書が無事で良かった。侵略者には興味が無かったのか、誰かが敢えて持ち出さずに残した...とも考えられるが」
奥まったこの広場も被害を受けている。
「資料はどこだ?」
「俺が保管している。見たければ...そうだな、複製なら貸そう」
「もちろんだ、構わん! 見たいぞ。うむ、一つ聞いておくか。冥界の太陽が全部復活しなかった場合はどうなる?」
「分からん。それが『花の戦い』なんだろうか」
サッシャが右側の壁を示す。絵文字がぎっしりと掘られていた。
「代々の神官たちの手になる歴史書だそうだ。俺には読めん。レオ、お前はどうだ?」
「誰に聞いている? 僕はジーノチカ・スルツカヤから直接教えを受けたからこそ名前を引き継いだのだぞ!」
ジーノチカが壁を眺めている間、ピドーはサッシャに話しかけた。
「リギーは『忌むべきもの』だから神殿には行かないって言ってた。なぜあんたは来た? 北事変の生き残りが小虎やリギーさん以外にも居るんだろう? オリガの両親はどうしたよ?」
「とっくに死んだ」
「あの子は...誰の娘なんだ?」
どこかで水が跳ねた。残響が耳にいつまでも残る。返事はいつまで経っても無かった。
ジーノチカが体を伸ばした。
「そうか。分かったぞ。一度出るか」
天井は高いし、風も少しは通っているようだ。しかし少し息苦しい。暗いせいばかりではない。ここには亡霊がいないものの、たくさんの線刻に囲まれている。これもまた、過去の想いが込められた物、すなわち亡霊のようなものだ。
外に出た三人は大きく息をついた。
ジーノチカは眉をひそめていた。
「厄介だな。誰が始めたのだ」
壁には太陽神話がびっしりと彫り込まれていた。サッシャが言った通りだった。長期歴が終わった時に太陽の力が弱るので、復活が必要になる。それで四つの太陽を現世に呼び出す。すると冥界と現世を繋ぐ通路が完成する。普段は地下世界に籠っている『破滅』が地上に現れるのだ。そして弱った太陽を食らい、新たな太陽が生まれる。間接的ながらも復活の力となる。
「暦のタイミングが違う。現世太陽はそこまで弱っていない」
サッシャが引き取った。
「そうだ。それを、五百年前は敢えて前倒しで行った」
侵入者に対抗する為に冥界の太陽を復活させた。それでグリンクラフト人を圧倒していたのだ。
「勝てるはずだったろうな。だが詰めで失敗した」
ピドーは首を傾げた。引っかかる。
「神官は専門家だろう? それがどうして失敗なんかする?」
「分からんな。捕虜のグリンクラフト軍将校が死んだのが関係しているらしい」
「学校で習った。それでグリンクラフトの結束力が強くなって勝ったって。でも『災いの蟲』の話とかもあるし、よく分からない。どうしてグリンクラフト人じゃなくてティーガが被害を被った?」
「冥界の力を呼び出した者に行く。現世太陽を復活できなかった報いが来る」
つまり儀式の失敗を自ら引き受けなくてはならないのだ。『花の戦い』では『破滅』が一気に戦士を襲って戦況は一変した。
「『破滅』を呑んだ者は全て滅びる。つまりティーガ族は、もはや衰退していくだけなんだ」
他の民族と子を成しても、外見の遺伝的特質が継がれない。一地方の少数民族としてひっそりと暮らすばかりだ。
「そっか...!」
ピドーは大きく頷いた。父から聞いたアナスタシアの言う対等の立場という意味がようやく飲み込めた。最初に復活した『西の白』はルーカだ。儀式はグリンクラフト人で始まった。そして四つが復活できなかったら国が、そして民族自体が亡びる。
「くそ~」
リョードフ夫妻が関わっているのは間違いない。
さらにピドーにはまだ色々と納得できない。内戦の始まりには太陽神話が関わっているようだ。だがここを襲った軍は神話には興味がない。
「色々とつじつま合わないじゃないか? それに神官ってプロだろう? なぜ将校が一人死んだからって失敗する?」
「うむ。それは僕も考えたのだが」
ジーノチカは重々しく頷いた。
「勝機なく儀式を執り行ったとは思えない。『破滅』を御する方法はある! だが失敗した。そして『忌むべきもの』となった! 壁にはたくさんの言葉が書かれているのだが、いかんせん僕には読めない! 抜け落ちてしまった」
「え...」
彼の示した通りだ。壁の一部がえぐれていた。肝心の情報は爆発に晒されて奪われた。
「何だよ! このままグリンクラフトにも『破滅』が来るのか! いや...って事は...鍵は小虎か」
事件当時は幼い。しかも記憶を失っている。しかし神官の血筋で生き残っているのは小虎だけだ。何かを知っている可能性がある。
「ダメか...まだ七歳だったらしい...」
「それなら勉強を始めたばかりだろう。どれだけ知識があるか」
さらに今は囚われの身だ。ここへ連れて来るのは不可能に近い。ピドーは拳を掌に打ち付けた。
「くっそ~。どうにかならないのかよ!」
サッシャとジーノチカは首を振った。
サッシャの言う通りなら、冥界の太陽が全て復活したらクロイツベルクに『破滅』が降りかかる。消された中央の絵図に回避するヒントがあるかもしれないのに、破壊されてしまった。
このまま三つだけの復活でもグリンクラフト人が犠牲になる。どちらに転んでも多大な被害が出るのだ。ピドーが言った。
「ギデオンが言ったそうだ。静かな水に投げ込んだ石の波紋は隅々にまで広がっていく。誰にも止めようがないと...。ふん、止めてやる」
「何ができると?」
「もっとでっかいのを投げ込むんだよ! 俺や小虎は石だ。違う水紋を作ってやる」
ピドーは背伸びをした。
「先に出てるよ」
ドームは決して狭くはないのだが、暗いし湿気がこもっている。ピドーにとってはあまり長居したくもない場所だ。
「その辺を歩いて来るわ」
サッシャが声を掛ける。
「あまり爆発させるなよ。兵士が来てしまうぞ」
「へいへい」
二人を残して狭い通路を戻る。朝の白い光が目を射る。夜の空気が一掃されていた。亡霊たちはさらに輪郭をぼかして陽炎となって漂う。陽光の中で闇の力を失い、今はまるでピドーに興味がないように茫洋と彼方を見つめているだけだった。
彼らの望みは何なのか。これほどの人数を、魂の最後の場所へ送れるのか。そこまで自分に力はあるのか。
すり減った階段を上がった。まだ二人は来ない。
しばらくその辺りを歩いた。家屋とは離れている。やはり隔絶した場所だったのだろう。ピドーはふと足を停めた。
「...ここ、どこ?」
どこも同じような風景だ。燃えた家、崩れた壁から覗く木の枝。戻ろうにも目印がない。神殿の入り口近辺は藪だった。あちらこちらの草むらをかき分けて覗く。
気が付けば周囲に建物は無かった。完全に山の中だ。亡霊もいない。
(...迷子?)
清冽な風が頬を撫でた。木々が揺れる。と同時に小枝がどこかで折れた。きらりと何かが光る。とっさに身を低くした。ぱん、と銃声が鳴った。弾は逸れ、木の幹が弾ける。
屈んだままで木陰に身を寄せた。
(どこからだ? まさかリギー?)
追撃はまだだ。相手もこちらの出方をうかがっているのか。
周囲に死霊はいない。
(やばいな)
心の中で冥界のトンネルを覗く。今はあるのが当たり前になっていて、特に意識はしていなかった。改めて覗く。不完全な通路ながらも冥界の力はここから出てくる。
(ん? ...て事は)
点火のスイッチとなる死霊は目に触れる存在として使える。そもそも彼らは死を迎えた時点で冥界とつながっているのではないか。それなら冥界そのものからも『東の赤』の力は使えるはず。
暗い穴へ神経を集中させる。黒いうねりがまるで眼前に迫るようだ。みるみる冥界の入り口が大きくなった。自分自身がちっぽけな存在になって不吉な荒海の間近で漂っている。赤い筋が浪間から伸びた。足にからみつく。光を放った。すると幾本もの線が飛び出し、体中を包んだ。
ぱき。
現実的な音が耳に届く。
「そこか!」
視界が森に戻った。空気の爆発がさく裂する。木々が折れ、葉が散った。爆発の大きさ、狙える位置の正確さは、地上の死霊を使う時の比ではなかった。
「うわぁ!」
悲鳴がする。
そちらへ駆けた。軍人が仰向けだ。爆弾が落ちたかのように、彼を中心にして草が円を描いて倒れている。銃は手元から離れていた。銃身の中を意識して爆発を飛ばす。ものの見事に内部から破裂した。
軍人はまた叫んで顔を腕で覆う。
「おいっ! おまえ誰だ!」
彼の額から血が一筋垂れていた。ピドーは唇を噛む。
「大丈夫か?」
腕がゆっくり下がる。丸い目がさらに丸くなっていた。
「...自分でやっておいて...」
ピドーの頭からつま先まで眺める。丸腰だと分かると身を起こした。体中に絡んだ枝や葉を払う。
「ひどいじゃないか、ピドー・エフェレット君」
軍人にしては少し小柄だ。ピドーよりも少し上背がある程度だった。茶色の髪を両手でぐしゃぐしゃとかき混ぜ、額を手の平で拭う。そこで初めて怪我に気が付いたらしい。赤くなった指を見て肩をすくめた。素早く布を出して押さえた。
「俺を知ってる?」
「つーか、君も僕を知っていると思ったんだけどなあ...。あーあ、銃が...。仕事だからしょうがないけどねえ...」
ばらばらになった部品を拾い集める。それから改めてピドーに向き直った。
「久しぶりだね」
ピドーはぽかんと口を開けた。
ツヅク! 次回 第十話 下 ランデスヴァルト・グレンツェ
あの事件現場ホテル・グレンツェへ。そこでピドーが見た光景は? ジーノチカはどうなった?
お読みいただきありがとうございます。
ジーノチカ・レオポルトとサッシャ・コーエンの再会。
10年経とうが変わらない白アタマ…。
どこにいようが、彼は彼のままですね。




