第十話 上 北限の土地 ランデスヴァルト・グレンツェ
北州、ランデスヴァルト。
山中からかつての惨劇の舞台へ。
そこでジーノチカとピドーが遭遇したモノたちとは?
第十話 上 北限の土地 ランデスヴァルト・グレンツェ
ランデスヴァルトは、ソフィアよりも北東に位置する。
灰色がかった空の色は、ピドーにとって見慣れた色だ。日差しは強いのに、少しでも日陰に入ると空気がひんやりする。白茶けた岩肌の山道は、人が一人通るのがやっとだ。さらに砂利だらけで足を取られる。もう随分と通行する者もいないようだ。わずかな緑は地面にはりついた草むらのみだ。しかもまばらだった。
ジーノチカの髪の色は相変わらずだ。茶色の髪が生えてきているが、まだ気になるほどではない。
「いい度胸だよなあ、その髪」
「何を言う。僕にとっては当然の事なのだ」
いつもの四角い鞄を持ち替えた。髪は一つに束ねられ、背中に馬の尻尾よろしく揺れている。動きやすいジャケットとスラックスで足元はデッキシューズだ。さすがに定番のエナメル靴を履くのをやめた。
「ちゃんと聞いてなかったよな? どうしてその髪でジーノチカなんだよ?」
彼はつんと顎を上げた。
「その必要があるからだ! 何度も言ったぞ。優れた占い師だからだ!」
ピドーは大きく息をついた。朝からずっと登り道が続いている。既に山間で一泊している。かつてのティーガ居住区は遠い。
「どこまで登るんだよ!」
「中腹ほどだ。頂上を征服するつもりはないな。なぜならいわゆる登山を楽しむ目的ではないからだ」
いかにもインドア派のようなジーノチカだ。実際、顔は真赤で少し辛そうだった。カバンから地図を取り出した。
「安心しろ。登りきったら後は下り、また登って到着だ」
「そりゃ楽そうだ...ってわけあるか!」
南州からの移動はかなり時間がかかった。東州に一度戻ったからだ。ジーノチカの意向で誰にも一切知らせなかった。
彼はそこで誰かと公衆電話で連絡を取った。そこからは細かい移動を繰り返す。とある飲食店に入るなり裏口から出たり、屋台と屋台の隙間を無理やり通り抜けたり。ほぼ丸一日その状況だ。そして廃屋にも見える商店跡で出会ったのは老人と青年だ。ジーノチカとは知己があるようだが、彼らの名前も正体もピドーには明かされなかった。彼らは『一切の事情は聴かない。そちらも何も聞かない事』を条件に、北州へ渡る手筈を整えてくれたのだった。
二人の体格に合わせた服が用意された。カーク商会の運搬員の制服だ。本物かどうかはピドーには分からない。内戦中にも関わらず、全国展開している商社だ。陸路も水路も幾らでも抜け道を用意できるらしい。
ジーノチカにはかつらも用意されていた。
それから青年と共に東州を陸路で北上。マイン川へ出たところで水路。こちらはもう北州の陣地だ。そしてマイン川の支流の一つをさかのぼる。レクトンやソフィアへ行ける川ではない。そしてランデスヴァルトへ近い土地まで送ってもらった。
グレンツェは迂回した。北軍の駐留地だからだ。見つかれば厄介な騒動ともなりかねない。母の終焉の地でもある。ピドーにとっては残念なようでもあり、ほっとしてもいた。もし母の死霊に会ってしまったら、と考えるのが怖い。彼らは亡くなった時の状況のままなのだ。
上陸してからは二人きりだ。もう丸一日は山道を歩いている。
「うおぉ!」
突然ジーノチカが叫んだ。
鳥が鋭く鳴いた。枝が揺れ、羽ばたきが響く。
「どうしたんだよ?」
「靴に石が入った。しばし待つが良い」
「大げさな...」
「取らなくては歩けない。歩くから取る!」
少しの休憩になった。
また無言の縦走を再開する。
ピドーははっと身を引いた。
「どうした?」
「...別に」
息を吐く。上目遣いに見たのは、今まさに彼の前に立ちふさがった死霊だった。ぼんやりした影ではある。実体としてぶつかることはない。ピドーよりも少し大きいだろうか。そいつはゆっくりと片腕を挙げた。傍らの藪を示す。
「こっちへ行こうか?」
不意の提案に、先を行っていたジーノチカが首をかしげた。地図に目を落とす。
「そちらではないと思うが」
岩が張り出し、背の低い木々が地面すれすれに枝を這わせている。
「ちょっと気になる」
「待て! 待て待てこら」
止めるのを聞かずに大きく一歩を踏み出した。かかとが枝を踏む。枯れた音で折れた。ピドーの体を支えてはくれない。小石が転げ落ちる。体が浮く。一瞬の浮遊感。かろうじて手近の木をつかんだ。さらにジーノチカが片腕をつかんでいる。リュックが肩から抜けそうになって揺れた。
「何をしている! 高所から飛び降りる趣味があるのか? そんな趣味があってもここで披露してもらっては困るぞ。パラシュートもなくて生身でやるつもりか。僕は君を救助するために崖を降りるなんて真っ平だ! いや助けるのはいい。しかし敢えて飛び降りたのを助けるのは道理が違う! 最初からやらなくても済む行動を取るな!」
脈絡が不明だ。それだけ驚いたのか、不満だったか。文句が次から次へと振ってくる。実際、ピドーの足元はなかった。断崖である。ビルの五階程度だろうが、もし落ちていたら無事ではすまない。或るいは...という状況になっていただろう。
ジーノチカに助けられつつ、上に這い上がった。改めて見ると、藪の向こうに地面が続いていないと分かる。今更ながら背筋を寒気が走った。
ぎろっと亡霊をにらむ。
すると、そいつは笑っていた。顔の上半分はぼやけてわからない。口元だけがはっきりと笑みの形だった。
「わざとだな!」
怒鳴るなり、そいつが弾けて飛んだ。爆風が吹き抜ける。ジーノチカが頭を抑えて伏せた。
「君だ。君がわざと爆発させているではないか! ルーカに居場所がばれてもいいのか」
「そんなこと言ってられっか! そこの亡霊が俺を落とそうとしたんだよ!」
亡霊に向き直る。
「俺はグリンクラフト人だ。だけどお前らに恨みを買う覚えはない! 俺の母親だってこの近くで亡くなってる。俺まで殺そうったってそうはいかないからな! 小虎と姉ちゃんを迎えに行かなくちゃならないんだ!」
怒鳴っている方向には、ジーノチカには何も見えない。だが頭が良いだけに、すぐに状況を理解したようだ。
「亡霊か? 亡霊があっちへ行けと言ったのか?」
そして同じ方向へ向かって、一緒に怒鳴り始めた。
「そうだ! 我々は死した君らに尚も鞭打とうと来たのではない! 見えないのは残念だ。顔を見て話すのは礼儀だろうが見えないのだから仕方ない。よっっく聞け。グリンクラフト人を恨む気持ちはわかるが、直接的に関係のない我々をどうこうしようとたくらむのは八つ当たりだ、八つ当たり! 僕らはむしろ原因を理解したうえで現況を打破しようとしているのだ、民族融和だ! 分かっているのか!」
反応はない。亡霊はただ立ち尽くすだけだ。
言うだけ怒鳴ると気が済んだようだ。ジーノチカは鞄を持ち直した。
「さ、行くぞ」
何事もなかったような風情だ。彼には亡霊が見えないのだから、居ないのだとも言える。
ピドーは何となく脱力感を覚えた。
「見えないんだから気楽だよなあ...」
「そうだ、見えない。事実だ。見えない亡霊よりも生きている人間だ!」
「へいへい」
しばらく同じような道を進む。人がやっと一人通れるような細い砂利道ができている。ところどころに落石がある。水の流れる音も近い。
やがてピドーは顔をしかめた。鼻をこする。
「焦げ臭いな」
視界が開けた。谷が現れる。ランデスヴァルト、かつてのティーガ居住区だ。細い川の流れに沿って、黒焦げの廃墟が広がっていた。
家々の屋根はすべて落ち、石の壁が半ば崩れて残っている。四角い基礎の床はがれきで埋め尽くされていた。十年を経てなおも惨劇の跡は誰にも拭えない。
高く上った太陽がまばゆく照らすばかりだ。
家々を繋ぐ通路も煤けている。端だけが白い。元の色のようだ。家の数は少ないが、きちんと区画されている。
二人のいる斜面からは谷へ下りる階段があった。岩を削ってある。中央はすり減っていた。そこには木々や雑草が緑の葉を伸ばしていた。
かつての町へ入る。足元で虫が跳ねた。風が吹き抜ける以外、音はない。耐えがたいほどではないが、火災の臭いが残っている。いまだ家具や生活道具が散乱したままだ。
焦げたぬいぐるみが転がっていた。ウサギだ。風雨にさらされて、表面の布は今にも破れそうだ。片目がない。拾い上げて煤を払った。ギクシャクと曲がった手足をそろえてやる。
(カイのウサギちゃん、どうしたかな...何て名前だっけ...)
一度失くしたら、もう二度と取り戻せない所へ去ったものたち。ランデスヴァルトもソフィアも、その場所へ行ってしまった。
横で覗き込んでいる影は小さい。幼い少女だ。ウサギの持ち主らしい。髪は真っ赤に染まって垂れ下がり、顔を隠していた。上半身は血まみれだった。すっとピドーの中に入ってきた。ぬいぐるみを抱きしめる。繊維と水が腐り、朽ちていく臭いがこみ上げる。それでも、わずかに残る布の感触に切ない懐かしさがこみ上げた。勝手に涙がこぼれた。
体が軽くなる。少女が離れた。ピドーの正面に立つ。ティーガ族独特の長い上着は真っ白だ。銀の髪が陽に透けて輝いた。濁りのないまっすぐな瞳でピドーを見つめる。胸には、白く眩いウサギをしっかり抱いていた。片手を軽く振る。全身が光に満ちた。輪郭がぼやける。彼女の思いは満ちたのだろう。どんどん像は薄くなり、やがて一筋の光が空間に吸い込まれた。
目をこすって立ち上がった。
「来てみろ」
ジーノチカが呼んでいる。少し先の角にいた。一軒の家の軒先で手招きをする。
彼が示したのは残った壁だ。玄関付近らしいが、ドアは無い。大きな石などはそのままだが、中に入れるほどにはがれきが片づけられ、家の前に積み上げられていた。更にはまるで表札のように、表面が平らな石が立てかけてあった。煤をきれいに拭った表面には、ティーガ族の文字が書かれている。ペンキのようだ。
「ジーノチカ、読める?」
「誰に聞いている? 僕は...」
油断すると、また自己紹介だかアピールが始まる。あわてて首を振る。
「分かってるから! ジーノチカ・L・ヒンメル様だろう。で、何て書いてあるんだよ?」
「名前だな。カチン家。アレクセイ、ペトラ、および男子二人」
「表札?」
「だな。ここだけではないぞ」
見渡せば他の家の前にもあった。ピドーがウサギを拾った家もだ。
表札のついた家は、いずれも中にも手が入れられていた。床は掃かれたようにきれいだ。壁のすす払いがされた後もある。壊れた家具も、修復が可能な限り修復されたようだ。屋根もなく、がれきばかりの室内に並んでいる。
同時に作業したのではなく、時間差がありそうだ。ある家は再び枯葉が積り、敷石の隙間から雑草が顔を出している。
「誰かが管理してるって事か?」
「そうと考えるのが妥当であろう。亡霊が自らほうきを持って掃除したとでもいうのなら別だが」
「...ないよ。ところで神殿ってどこ?」
点在するのは民家ばかりだ。しばらく二人は廃墟を歩き回った。三千人程度の集落だ。六十~七十軒程度だろうか。家の間隔は離れているので、それなりの広さはある。しかし神殿らしき建物は見当たらない。
ピドーは首をひねった。
「亡霊が少ないんだよな」
ふらふらと浮遊する者はいる。先ほどの少女もそうだ。あまり死んだ実感がなく、死んだ場所ではなくてある程度は自由に漂っていたようだ。また、自然死を迎えただろう姿の者も見える。だが、一族が滅ぼされたにしては少なすぎる。
「そうか、そうなのだな。遺体はとっくに埋葬されているだろうが、それにしてもずいぶんきちんと管理された村だな」
「うん。ところで北の神殿ってラドクリフ城跡じゃないの?」
「うむ。そうであろう。しかしここには神官一族が住んでいたのだ。遺物があるに違いない。どこにあるのか知らんが」
「へ?」
北へ行こうと言い出したのはジーノチカだ。神殿を調べると。当然ランデスヴァルトの地理にも詳しいとピドーは思っていた。
「ここまで来て知らねえのか!」
「知らんもんは知らん。だがランデスヴァルトなのは間違いないではないか! どこかにあるはずだ」
「地図はないの?」
「ない。そもそもクロイツベルク辺りにここの詳細な地図があろうか。ましてや内戦中にあるはずがない!」
かつては首都にはあったかもしれない。だが北事変の後、ここは集落ではなくなった。訪れる人もない。ジーノチカの言う通りだ。地図の調達は無理だっただろう。
「でもなあ...」
抗議しようとしてあきらめた。まともな話が通じないのはよくわかっている。それよりもさっさと探した方が、気力、体力ともに無駄がない。太陽は西に傾き始めている。谷間には、すでに夕暮れの風が吹き始めた。こうなれば初夏とはいえ夜は早い。北国の谷に住んでいたピドーには慣れっこの情景だ。
「おそらく集落の北にあるのではないか? 『西の白』神殿は旧市街から見て西だ」
冥界の太陽には、それぞれ方角の名がついている。南神殿は確かに町の南側にあった。
「『東の赤』は?」
「街の中だが...。もともとの町がどこにあったかもよるな」
ジェールはそもそも平地が少ない。斜面に市街地が広がっていった町だ。ジーノチカは鞄から全国版の地図を取り出した。内戦後の出版だ。ランデスヴァルトはもう谷間の名称扱いだった。そこを飛ばし、ジェールのページを開く。
「うん。やはり東だ、もとあった町から見たら東だ。となれば北の黒は北。パンはパン屋、占いはジーノチカ、迷える者は北だ、北!」
彼の無意味な言葉はもはや枕詞なのだろう。ピドーはBGMだと割り切り始めていた。太陽の傾き加減を見て、さっさと歩きだす。
「北っていうと、こっちか」
家の間隔が広くなる。北側へ向かうにつれ、光景は悲惨になっていく。まったく手つかずで荒れ放題だ。雑草が茂り、家の中からも木が伸びている。敷石が剥がれて草が根を張っているのだ。
同時に霞のような塊が増えてきた。死霊だ。チャンネルを合わせまいとしているのに見えてしまう。感覚に強引な割り込みをしてくる感じだ。影はくっきりした像を結ぶ。『部屋』を移動し、ぶれさせてもすぐに戻ってしまう。その繰り返しだ。しかも数はどんどん増える。彼らの死した場所が近いのだ。
これまでの経験から、死霊は想いが強い場所に留まる傾向がある。だから最期の地から離れられない。
「近いな」
ピドーは立ち止まって大きく息を吐いた。亡霊はほとんど実体に見える。前後も左右も取り囲まれた。しかも全員が無残な姿だ。体中に銃撃の跡がある。服は裂けて血まみれだ。男女の別もわからないほど顔を撃たれた者もいる。ピドーは前に進めない。
「どうした?」
「多すぎるんだよ...」
吐き気がこみ上げた。彼らの外見はもとより、脂肪や髪の焦げるにおいを感じる。亡霊が放つのか、十年前の残りなのか。さらに彼らが一斉に体に侵入しようとしてくる。皮膚の下を虫が這うような感覚に襲われる。それもまた、吐き気に拍車をかけていた。
鳥が鳴き、飛び立つ。
「あー、もう...うるさいっ!」
ジーノチカが急いで地に伏せた。同時に爆風が彼の頭をかすめて過ぎる。
「危ないではないか!」
叫ぶそばからまた爆発だ。それは二度、三度と続いた。付近の木々がきしんで裂けた。岩肌が崩れ、廃墟の壁が飛ぶ。どこかで金属的な音がした。
導火線とはなっても、すぐ戻る。それでも亡霊はピドーから少しだけ離れた。遠巻きにして眺めている感じだ。
立ち上がったジーノチカは、ぶんと頭を振った。垂れた白髪が揺れる。
「君のパターンだな。うるさいと言う自分が一番うるさい騒ぎを起こす!」
「ふん、なめんなよ。寝ててもうるさいって黒カマキリにも言われた」
「うん? 僕は気が付かなかったが。むしろ君は起きている方がうるさいと思うぞ。殊に自分でうるさい、という時が一番うるさい! 今も君は唸っているではないか?」
「しゃべりながら唸れるか! あんたならやるかもしれないけど...あれ?」
「うむ」
二人は口をつぐんだ。かすかに唸り声がする。裂けた木の辺りだ。ピドーがゆっくり近づいた。白い布が地面に広がる。ばっと翻るなり、銀の髪が起き上がった。初老の女性と目が合う。彼女は素早く目を巡らせた。横の岩場に銃が落ちている。彼女が手を伸ばすと同時に死霊が爆発した。銃が舞い上がる。駆け寄ったピドーが掴んだ。だが握るなりばらばらに崩壊した。
「おっとぉ」
さっきと今の爆風を受けて、あちこちが緩んでいたようだ。
女性はその場に座り込んだ。唇をかみしめてピドーをにらみあげる。今にもかみつきそうだ。顔のしわは深く、白いはずのティーガの肌はくすんだ灰色だ。長い上着も砂にまみれていた。ジーノチカの髪に一瞬だけはっとした表情を見せる。だがすぐに元の表情に戻った。
「やっぱり住民がいたのか...」
ピドーは彼女のそばにしゃがんだ。目を覗き込む。緑や青が入り混じる、ホワイトオパールの輝きの瞳だ。
「ああ、小虎と一緒だ。ごめん! 爆発、俺のせいだ。大丈夫か? 怪我なんかさせるつもりは無かったんだ」
彼女はじろじろと見返してくる。
「言葉が分からないかなあ」
さっそくジーノチカがティーガの言葉であいさつをした。けれども返事はない。逆ににらんでくる。しかし逃げようとはしなかった。腕で体を支えているだけだ。眉根を寄せて顔をしかめている。
「どこが痛い?」
ジーノチカが触ろうとすると尻で後ずさりした。足が動いていない。
「大丈夫だ。僕は医者だ」
ピドーが継いだ。
「しかも占い師だからな。おばちゃん、こいつは医者であり優れた占い師であるところの天下のジーノチカ・L・ヒンメル様だぞ」
彼女は、はっと口を開いた。目を見開く。しげしげとジーノチカを眺めた。
「ジーノチカ...?」
「そうだ、僕はジーノチカと名乗っている。なぜならそれが素晴らしい占い師の名前だからだ。ご婦人、ジーノチカ・スルツカヤを知っているだろうか? 少数民族帰還命令によりここへ戻ったはずだ」
「はあ?」
やっと女性が口を開いた。クロイツベルクの言葉は分かるようだ。しわがれてかすれている。咳払いをして、もう一度言い直す。
「グリンクラフト人が、どうして探す?」
「前提がおかしいぞ! ナニ人だろうが尋ね人がいれば探すものだ」
ジーノチカが叫んだ。
「とにかくまず見せる! 僕は医者だ!」
有無を言わせず女性の足を掴んだ。顔がゆがむ。足首が少し変な角度になっていた。そっと動かす。じわじわと元に戻した。
「はずれてはいない。骨にも異常はなさそうだ。改めて言うぞ。ジーノチカを探しているのは、僕がグリンクラフト人だからではない! 人としてだ、人間の情としてだ! 彼女は僕の占いの師匠だった」
女性の両頬に手をかける。下瞼を下げ、貧血状態の確認をする。顎の下のリンパ線を探り、頷く。
「よろしい。異常はない。脈を取らせなさい!」
手首を取り、時計とにらめっこだ。きっちり一分。
「いささか速いようだな。ご婦人に年齢の話をするのは失礼だ。だが僕は医者だ、言うぞ! 適度な運動量を守るが良い!」
ぽかんとしていた女性はピドーを見た。二、三度口をぱくぱくさせてから言葉を押し出した。
「あんたら...誰? 兵士じゃないね」
「だから言っておろう! 僕は」
ジーノチカを遮る。ピドーはやれやれと首を振って立ち上がった。
「俺はピドー。で、こっちは本当に医者らしいぞ。行きがかりっていうか...このシロ頭に連れられてここへ」
「正規の資格取得済の医者だ!」
女性は、今度はピドーをじっと眺めた。
「ピドー...。出身は? どこから来た?」
「ソフィアだよ。あんたの名前は?」
「...リギーでいい」
彼女はため息をついた。
「北の出身かい。で、あんた! いい加減にお放し! ジーノチカ達を探してどうすんだい!」
「ううむ。それだけ元気があれば大丈夫だな」
ジーノチカも立ち上がった。足がしびれたのか、二、三度膝を屈伸した。
「なぜジーノチカを探すのか! 僕は彼らの友人だ、人と人との関係だ。それだけではない。僕はジーノチカを愛している!」
唐突な発言ながら彼の表情はいつも通りに大真面目だった。
「ただ当時、僕は医学生に過ぎなかった。一方的に教えを乞う立場であった。愛を告白するには時期尚早だった。やっと研修医になったら、その間に彼女はいなくなってしまったのだ。帰還は命令だったが、彼女は自分の意思で故郷へ戻った、親族が心配だと言っていたのだ! そして消息不明だ! こんなことがあっていいのか? 僕は医者になり、占い師となり、彼女にふさわしい人間になった。もはや再会するしかないではないか! そうしたら彼女の前にひざまずいて愛を誓うぞ、一生を伴に生きてほしいと願うぞ!」
リギーは険しい顔で聞いている。ジーノチカは続けた。
「この髪はその誓いの現れでもあり、目印でもある。僕は灯台なのだ! 僕がこの髪でジーノチカと名乗っていれば、誰かが気が付き、聞きつけ、僕に会いに来るであろう。ご婦人、君のようにだ! ジーノチカという名前と僕の髪に反応したではないか! 教えて欲しい。彼らはどうなったのだ?」
十年の間、レオポルト・ヒンメルは髪を染めて女性名を名乗り続けた。ただ会いたい。それだけが理由。それだけが州を越えてまでも活動し続ける原動力だ。
ピドーはただ黙って彼の白い後頭部を眺めていた。彼もまた消えた日々を見つめる者だった。だから遠い目つきで見えないはずの過去を見る。小虎もその一人なのだ。それで大人のような顔つきをする。彼らの目は未来に向いていない。胸が痛くなった。
亡霊が集い始めた。ジーノチカを取り囲む。じっとしているだけだ。その中で彼は堂々と胸を張っている。
リギーは座りなおした。いてて、と小さく呟く。背中が少し丸くなった。肩が下がる。どこか遠くを見る目つきだ。
「ジーノチカ...。懐かしい名前だね。母親はよく知っているよ。...残念だが...どうなったのか、あたしは分からない。帰還命令なんぞ知らなかった。たまたま戻ったらすぐに北事変で...軍が来るのを見て逃げた。だから生き延びたんだ。帰ってみたらこの有様さ」
「遺体は?」
「もうとっくに片づけられていたよ。東側の斜面に行ってみな。みんな投げ込まれているよ。一族の三千人が!」
村を破壊し、命を奪った。全てはグリンクラフト人のせいだ。二人はしばらく言葉がなかった。
ジーノチカはピドーを見た。
「彼女の死霊はいたか?」
事務的な口調だった。ピドーは唇を噛んだ。母ロッタの死霊を見るのにおびえている自分がいる。彼も、愛しい人の死を知りたいと同時に恐れてもいるのだろう。同じ想いだ。感情を表には出さないながらも理解できる。しかし。
「あのなあ...。俺、ジーノチカさんを知らないんだぜ...。分かるか! 写真ぐらい携帯しとけ!」
「心のアルバムにしっかりと収まっているから写真など必要ないのだ。彼女は美人だ。髪が長い。大概は結い上げていたな。両耳に赤いピアスをしている」
ご丁寧に自分の耳たぶを引っ張ってみせる。
「それだけかよ!」
とりあえずは確認してみようと『部屋』を移動する。亡霊の像がクリアになった。目があってしまう。とたんにあらゆる方向から手が伸び、近寄って来る。体に重なり、入り込もうとする。また吐き気がこみ上げた。咄嗟に『部屋』を出る。
だが遅かった。数体が火花を散らせた。リギーは無言で頭を抱えた。
ジーノチカがピドーの頭を両手で掴んで揺すった。
「またか! 自制という単語は、この肩の上に乗っているかぼちゃの中には入っていないのか!」
「ああ! このかぼちゃは中身が詰まり過ぎて、そんな単語がもう入らないくらいに一杯なんだよ!」
リギーの髪が乱れている。整えようとしたのか両手を宙に浮かせたまま尋ねた。
「今のは...?」
武器を使用した気配は無いのに爆風が吹き抜ける。
唇を噛んで黙ったピドーに代わってジーノチカが答える。
「うむ。これはおそらく空気の圧縮による爆発ではないかと思う。一見、何の熱源もない場所から飛び出すのだ。駅だのホテルが発火したのは、電気系統のショートやガス管破裂による引火であろう。小虎やルーカも爆発は起こす。大変だ」
「駅はどっちも俺じゃないぞ!」
「いや僕が言いたいのは爆破の内容だ。君がその場にいたのは間違いなかろう!」
「全部俺のせいにすんな!」
リギーが怒鳴った。
「やかましいよ! 脱線するなら二人きりでやっとくれ! 連中が来ちまうじゃないか!」
ほっぺたを少し膨らませる。ピドーはむすっとした。
「太陽神話のおかげだよ! 俺は『東の赤』。冥界の太陽を背負ってる」
「...あんたが...そうかい...」
冥界の太陽だと聞いても、あまり驚かない。けれども背中がさらに丸くなったようだった。
「太陽神話について何か知っているのか?」
「詳しくはないね。『忌むべきもの』の知識だから」
ジーノチカが眉をはね上げた。
「何だと? ティーガ族の生活は暦で決まる。行動規範を示すのは神官ではないのか?」
「大昔の話だよ。『花の戦い』の後は全てが変わった。『忌むべきもの』のせいだよ」
「どういう事だ?」
「ティーガは人数でも戦況でも勝っていた。東から来た連中なんぞに負けないくらいには強かったんだよ。なのに冥界の太陽を呼び出したんだ。でも、それがティーガの敗戦と衰退の原因になったんだと」
具体的にはどういう事なのか。それ以上の事情を知らないと言い張った。初対面のグリンクラフト人に対して、これだけ話してくれたら充分かもしれないが、二人にとっては疑問が残る。顔を見合わせた。ジーノチカは首を振る。
「やはり冥界の太陽を使っていたのだな。無敵のはずではないか」
「さあね。なんだかやり損ねたんだろう。北事変でも、皆が集められたのは神殿だろう。そこで殺されたんだ。やっぱり奴らは『忌むべきもの』なんだよ!」
小虎にとっては穏やかな家族の時間が流れていた場所だ。しかし立場が違えば感覚も違う。
「ご婦人、我々はティーガ族の子供を保護している。十七才で北事変の生き残りだ。神官の子供らしい。知っているだろうか?」
「さあね」
彼女も首を振った。唾でも吐くような語調だった。
「子供がいたのは知っているけど、名前も人数もわかりゃしないよ。連中と交流するのはタブーだった。会いに行くような物好きはギデオンくらいだよ」
「リョードフだな?」
「知っているのかい」
「ああ。娘のアナスタシアとも顔見知りだった。二人とも残念だったが」
ピドーが口をはさんだ。
「夫婦だとさ。本人から聞いたって親父が言ってた」
「なに?」
ジーノチカには初耳だったようだ。
リギーは頷いた。
「そう。夫婦だよ。年は離れているけれど、仲は良かった」
あっさりと認める。故郷では特に秘密では無かったらしい。
「親子との触れ込みだったぞ。では子供は...ギデオン・リョードフの...」
ジーノチカの顔が凍りつく。北事変はアナスタシアの妊娠がきっかけとなったのだ。誰の子供なのかが大きな意味を持つ。
「どういう事だ! 情報が足りん!」
まるで何かを振り払うように首を振った。
「ご婦人、とにかくお宅へ送ろう。詳しい話はそれからだ」
「放っといておくれ。ジーノチカはいない。分かったならさっさと戻りな」
「立てないだろう。分かるぞ。僕は医者なのだ」
「医者なんか要らないよ。薬草の湿布を貼ればすぐ良くなる」
「だから、どうやってそれを貼れる場所まで行くのだ? ご婦人、良いお年なのだからくだらない見栄を張らずに大人しく僕に背負われるがよい! マリア嬢だって僕に背負われたぞ」
「誰だい」
見知らぬ人の名前を出されても説得力は全くない。
「余計なお世話だよ! あたしは忙しいんだ。話はもう充分だろう! 帰っておくれ! 帰りな。二度と来るんじゃない」
「用が済めば帰る。僕らは神殿を見に来たのだ。そもそも僕は行きたいところへ行くぞ。他人に指図される筋合いはない! なぜなら僕が僕であるからだ!」
二人のやり取りをピドーは半ば呆れて聞いていた。
傍らの藪が揺れた。死霊ではない。そっと覗くと、銀の瞳が見返してきた。少女がしゃがんでいる。切れ長の涼やかな目元だ。いつの間に隠れていたのか、目があうと屈託なく笑った。ピンク色の頬はふっくらしている。少し厚めの唇はつやつや輝く。リギーと同じ服装だ。長く白い上着に白い靴。ただ彼女の服は真っ白だ。しわも無い。生きている人間だ。
「よう」
片手を上げて挨拶すると、ぴょんと立ち上がった。ピドーの肘ほどの身長だ。小虎とあまり変わらない身長ながら、まとう雰囲気ははるかに幼い。弾むように頭を下げた。
「こんにちは!」
リギーの肩が大きく跳ねた。目が飛び出しそうに丸くなる。
「オリガ! どうしたんだい! やたら来るんじゃないって言っているだろう!」
しっしっと手で払う。怒鳴りながら身をひねった。やはり足が痛いのだろう。顔をしかめる。
「ごめんなさい、リギー。でもね」
無邪気にリギーの背中にとびかかる。
「爆発が聞こえたの。心配だったの。だから来ちゃった!」
まったく悪びれた様子はない。見知らぬ二人にも屈託のない笑顔を向ける。
「お客さんなんだ。グリンクラフト人なのね」
「お客じゃな...」
「そうだ客だ!」
ピドーが叫んだ。言葉をかぶせてリギーに最後まで言わせない。
「リギーおばちゃんに話を聞きに来たんだぞ! だけどおばちゃんは怪我をしちゃったんだ。これからおうちに送って行くところなんだ!」
「わあい! お客さんだ! 私はオリガよ」
「俺はピドー」
オリガはピドーの腕につかまった。
「ピドーね、ピドー! オリガの宝物、見せてあげるわね。行きましょう。こっちこっち!」
「オリガ!」
リギーの制止を聞いていない。『お客さん』と自ら手を繋ぎ、嬉しそうに大きく振った。振り返ったピドーはにかっとジーノチカに向けて笑った。
「あんたの真似をしてみたんだ。相手が何か言う前に断定する」
「結構だ。僕が正しい証拠である」
オリガは友好的だった。もしも他の住人がいたとしても、いきなり撃たれるような事は無いだろう。彼女はさっさと歩き始めた。藪の中を通り、道のない場所を踏み分ける。
「ねえピドー。あのね、オリガはお花が好き。いっぱい咲いている場所があるの」
「へえ、どの辺?」
「おうちの近く!」
二人の他愛のない会話がどんどん遠ざかる。
「全く...」
舌打ちしそうな勢いではあるが、もう止めようとはしない。どうやらオリガにリギーの頭は上がらないようだ。
「ご婦人の子供...ではなさそうだな?」
「違うに決まってるだろうが。それにあたしにはリギーって立派な名前があるんだよ! ご婦人なんて呼ばれちゃ気味が悪い」
「ではリギー殿。子供たちは行ってしまったようだが? 這って行くか、腕を引っ張って差し上げるから地面を引きずられて行くか。うむ、仰向けかうつ伏せかという選択もあるな。どれがいい?」
「...肩を貸すってのはありかい?」
谷間の日暮れは早い。そびえる岩山の影に太陽は隠れ、赤い光が西の空に残るばかりだ。闇を含む風が流れるけもの道を四人は下って行く。岩の裂け目を通り抜けた。
白い砂利が広がる。岩壁に囲まれた広場だった。少し歪んだ円形で、二十歩も歩けば横切れる。小さな滝が落ち、広場の隅をせせらぎとなって流れていく。家は石を積み上げてあり、隙間は土で塞いである。四角い窓にガラスはなく、跳ね上げ式の木の板が貼られている。ドアは木製だ。玄関のそばに岩で囲まれたかまどがあった。木の枝を組んだ覆いがかかり、伏せた鍋が二つ。どちらを向いても茶色の岩だ。外界からは遮断された場所だ。日当たりも十分ではないのだろう。湿った匂いがこもっていた。だが死霊はいない。ピドーはほっと息を吐いた。
オリガは嬉々としてドアを開けた。
「ただいま!」
迎える声はない。薄暗い一部屋だけだ。壁には絨毯や厚手の布が貼られている。保温のためだろう。室内に火の気はない。隅には布の袋が幾つかある。中身は野菜のようだ。壁の一角には銃と長い刀がかかっている。質素な木のテーブルと四つの椅子、二つのベッド、小ぶりの洋服ダンスと整理ダンス。床に無線機が直置きされていた。それで全部だ。
テーブルの上にはランプが乗っている。オリガは整理ダンスの上からマッチを取り、ランプに火を灯した。窓の板を下す。
その間にも、オリガはピドーから目を離さなかった。何かをする度に見上げてはにっこり笑う。人に会うのが楽しくてたまらないようだ。彼女はベッドに駆け寄った。枕の下を探る。
「ねえ見て。オリガの大事なもの」
青みがかった小石だ。丸くてすべすべしている。幾つかあった。ピドーの手のひらに乗せる。ひんやりと冷たい。
「きれいだな」
「でしょう? 川で拾ったの」
二人はベッドに並んで座った。オリガが身をもたせかけてくる。柔らかい温かさだ。カイを思い出させる。
オリガは良く笑い、よくしゃべる。内容は天気の事や山の様子ばかりだ。老婆と二人で山奥にこもっているから、世界は狭い。幼い少女の宝物は小石。
ソフィアも相当の山奥だが、人々の交流や温もりがあった。
「他におもちゃとか持っている?」
「あるわよ」
次に出てきたのは小さなウサギだった。両手で包んでピドーに渡した。
(手作りなんだ)
タオル地だ。灰色であちこちがほつれている。縫い目の部分がピンク色だ。これが、おそらく元の色だろう。繊維がすっかり薄くなり、潰れた中身の綿が透けそうだ。お腹の中央にはへそでもあったのか、バッテンの形に布がへこんでいる。芯が入っているようだ。手触りは意外と硬い。
裏返してみた。糸の抜けた跡が二つある。はっきりしないが、片方はPのようだ。
(Rかも? それにしたって彼女のじゃない?)
オリガがじっと見ている。にっこり笑って返した。
「大事なんだな」
「そう、特別なのよ」
すぐに元の場所にしまわれた。
「ふーん。宝物だな。...子供って、皆こんなの持っているよな...」
先ほどの亡霊の少女の宝物もそうだった。ピドーはしばらくウサギがしまわれたベッドを眺めた。
かなり傷んでいた。古い物なのだろう。これをオリガに与えた家族はどうしたのか。
「二人きりで寂しくないか? 家族は...」
困ったように眉を寄せる。曖昧な笑顔を浮かべた。オリガはちらりとリギーを見た。どうやら話してはいけないようだ。
彼女は椅子の一つに座っていた。薬草は整理ダンスの引き出しに入っていたようだ。すでに練ってある湿布用らしい。ジーノチカは布に塗って伸ばし、患部に貼る。彼の手つきは手早い。さすがに本職だ。
「効くかどうかは知らん。だが冷やすのは理にかなっている」
「効くんだよ!」
包帯を巻きつける。足首をさすり、リギーは上目使いにジーノチカを見上げた。
「お礼は言わないよ」
「構わん。僕はお礼が欲しくて医者と占い師をやっているのではないからだ。僕はあくまで手助けをするだけなのだ! 大体、怪我の原因は彼。彼を連れてきたのは僕。手当くらいは当然だ。だから礼などされた方が困る」
「素直じゃないねえ」
「お互い様だ」
それにしても、とリギーは子供たちを見た。
「普通の子供じゃないか。冥界の太陽だなんて...」
「リギー殿こそティーガ族言うところの『忌むべきもの』のそばに留まって何をしているのだ?」
「弔いだよ。あたしは商売をしていて、よくここを離れていた。ここに確かに一族が暮らしていた。それを残すのが、生き残ったあたしの役目だと思ってるんだ」
荒れ果てた家屋を可能な限り修復し、掃除をする。そして住民の名前を記した表札を付けていくのだ。村中は知り合いだったものの、外を飛び回っていたリギーの記憶は年々あいまいになる。確かめようにも相談する相手はいない。それでも記憶の糸をたどり、かすかな思い出を拾い集めては名前を石に記す。ランデスヴァルトに生きた人々を忘れないために。
「リギー殿。もう少し詳しく『花の戦い』の件を伺いたいのだが。なぜ神官たちは儀式に失敗したのだ?」
「知らないね。そんな昔の事なんか興味がない」
「それはいかん! 過去の積み重ねで今がある。しかもご自分の一族の事ではないか! 知らんわ興味ないわでは先がないぞ!」
「先なんかあるか! 今だけで手一杯だよ!」
リギーは椅子の背もたれを平手で叩いた。頬が赤い。
「グリンクラフト人のせいだ。あんたらがあたしたちをここに押し込めて殺したんじゃないか! みんな死んだ。親も、きょうだいも、親戚も、友達も、全部だ! 家も焼けた。見ただろう、村の有様。今更、将来なんか考えられるかい!」
怒鳴り声は容赦なく壁に叩きつけられる。オリガが身を固くした。隣のピドーにもはっきり分かるほどだ。背中を軽く叩いてやった。
「ちょっとリギーさん」
「うるさい」
「いいや、聞けよ」
ピドーは立ち上がった。
「グリンクラフトに冥界の太陽って石を投げ込んだのはギデオンだ。五百年前の復讐の為にな。それでグリンクラフト人はたくさん死んだ。俺の母親もだ。だけど、ここであんたやオリガにやり返そうだなんてこれっぽっちも思わない。小虎...俺と一緒にいるティーガの奴は何を考えているのか...あ~よく分かんないけど」
小虎は何も言わない。
「でもなあ、俺はあいつが安心していられる場所を一緒に作りたい。内戦が終わらなくちゃティーガ族はいつまでも追いかけられる。あいつに未来を見せたいんだよ」
「平和になんかなるもんか」
「する! オリガだってまだ子供じゃないか。一緒にずっと弔いをさせるつもりなのか? こんな山奥の閉じ込めておく気か? 違うだろう! どうしたらいいかって考えているんじゃないのか? 俺たちもだ。その為には太陽神話を調べなくちゃならないんだよ!」
風が吹き抜ける。窓枠がきしんだ。リギーはピドーを睨みつけていたが、ふっと目を伏せた。炎が白い髪にシルエットを描いて踊る。
ランプの芯がちりちりと鳴った。
軽いため息が聞こえた。
「神殿は一番北だよ。地下なんだ。今日、会った場所からもう少しまっすぐ進んだらある。もう暗いよ。何も見えやしない。明日にしな。そしたらとっとと帰っておくれ」
オリガが手をたたいた。彼女からも力が抜ける。俯いていた顔が明るくなった。
「お客さん、お泊りね!」
「余分な寝床は無いよ」
ピドーは大きく伸びをした。
「床に寝るのも慣れたよ、こん畜生!」
「よし、話はまとまった! 夕飯の用意だ!」
ジーノチカも手を打つ。
夕食の支度は外のかまどだ。野菜だけではなく、パンや紅茶の葉なども用意してある。オリガはかいがいしく家とかまどの間を往復する。ピドーとジーノチカは火の番だ。煙は上がるが、夜なので目立たない。さらに窪地なので明かりは外には漏れにくい。封鎖が解かれたとはいえ、隠れて棲んでいるのだ。それだけ十年前の襲撃は苛烈だったのだろう。
見上げれば丸い空に星が瞬いている。
(親父はどうしただろう...)
今までいた場所のどこよりもソフィアに近い。けれども最も離れているようだ。冬の終わりの出来事がひどく遠い。
ジーノチカが鍋をかき混ぜている。イモやニンジンの根菜と干した肉を一緒に、塩味で煮込んでいるのだ。
「どうせ火を使うのなら牛の一頭でも焼きたいものだ」
「羊もだろう? あとはアヒルと豚だったか」
オリガは中だ。ピドーは声をひそめた。
「ティーガ族は、二人以外にもまだ居るんじゃないか?」
「ほう? その通りだと思うが、なぜその結論に達したのだ?」
「塩やパンがあるじゃないか。肉まで。これ牛だろう。どこにいるよ? 銃弾だってここでは手に入らない。無線で連絡を取るんだろう」
リギーが外で入手しているとは考えにくい。こっそり買い出しに出るとしても一日で済む距離ではない。その間、オリガを一人で留守番させないだろう。彼女の人懐こさは、おそらく人との交流に飢えているせいかもしれない。だとしたら、リギー以外の誰かが定期的に訪問していると考えるのは整合性がある。
「その通りだな。君がバカではないという事だ。援軍は来るだろうか? ピドー、来訪者に注意だぞ」
「ハイハイ、猫でもわかるだろうが!」
誰かを呼んだだろうか? ティーガ族の可能性はある。
「...小虎を知っている奴がいるといいのにな」
「そうだな。それにしても、『花の戦い』には何があったというのだろうか」
ドアが開いた。オリガが顔を出す。重ねた皿を持っている。
「出来た? ねえ出来た? ねえねえピドー、隣に座って。一緒に食べましょう」
「そうするか!」
ジーノチカが皿に煮込みをよそう。一つ盛るごとにオリガは部屋へかけていく。テーブルにきちんと並べるのだ。
食卓ではオリガとジーノチカがそれぞれ勝手に話し始めた。
「昨日は雨が降りそうだったの。でもねえオリガは出かけたの」
「羊の丸焼きはうまいぞ。そもそも肉は丸焼きするものだ」
「きれいなお花畑もあるんだから」
「ああ、ワインも欲しいな。チーズがあれば完璧だ」
会話は全く成り立っていない。ピドーは頭がくらくらしてきた。それでも食卓を囲み、ゆっくり食事ができる。ずいぶんと久しぶりのように感じた。
料理の腕はマリアよりもピドーの方が上だ。だが手際では負ける。急かされながら用意をしているうちにイーブが戻る。まちまちな帰宅時間のジャックを待って夕食だ。クリストやロルフもしょっちゅう訪れた。
度々ハイケが料理を差し入れてくれる。もっぱらシチューだ。レイナーのミートパイは絶品だった。転げるようにカイが走って来て、そのまま一緒に食事をする事もあった。もう二度と帰らない風景だ。
(くっそ~、俺も過去を見ちゃってんのか! 明日を見てやるぞ、こん畜生!)
リギーはもくもくと手を動かすばかりだった。ジーノチカとオリガのかみ合わない話が続く。ピドーは無理やり食事を喉に押し込んだ。そうでなければ何かが胸の奥から飛び出してしまいそうだった。
(いや...でも今だけ。ちょっとだけ...)
少しの間だけでも感傷に浸りたかった。ピドーは幻影と食卓を囲む。
小さな広場では水の流れは絶え間ない。岩肌や木々の様相が似ている。ほんの一瞬だけソフィアに戻ったような錯覚を覚えた。
ツヅク! 次回 第十話 中 ランデスヴァルト・グレンツェ
いよいよ小虎の居住地へ。冥界の太陽とは何か、ピドーの心にかすかな疑念が涌く
お読みいただきありがとうございます。
ここまでお付き合いいただけるとは、本当に感謝、感謝です。
ジーノチカの策略?により、ピドーともども北州へ入りました。
行き当たりばったりながら、何とかなった模様です。。。
はい、出ましたウサギ。また後で出てきます。
ちなみにカイ・マーティンのウサギの名前が出てこないのは、作者が忘れていたからです。ココちゃんでした。設定を見直してきました。。




