第九話 下 海辺の町 グリュースゴット
捕らわれたピドーが目覚めた場所とは?
ヒンメル兄弟、エフェレット姉弟が対峙する。
そして新たな旅路へ…
第九話 下 海辺の町 グリュースゴット
焦点の合わない視界に、白い天井が広がっている。ピドーは柔らかいベッドの上だ。むき出しの腕にシーツの感触が心地よい。頬にはタオルケットがかかっていた。
(天井、いつ貼り替えたんだっけ...。もう起きなくちゃ...)
夢うつつの意識の中でソフィアにいた。太陽神話に巻き込まれる前だ。ラベンダー畑に肥料を入れなくてはならない。工場の機械もメンテナンスが必要だ。
(レイナーに借りた鍋、洗って返さなくちゃ...。レイナー...)
格子を挟んでジーノチカの顔が見えた。
(あれ...あいつは)
次の瞬間、がばっと起き上った。腕につながった管ががちゃがちゃ鳴った。点滴のバッグが目の前に下がっている。不用意に肘を曲げたせいだ。左腕に刺さっていた針がずれたらしい。
「いて、いてっ!」
固定用の絆創膏ごとむしり取った。血が垂れるのを手の平でぬぐう。半そでのシャツにゆったりしたズボン。上下とも白い。病院の寝巻のようだ。一気に覚醒はしたものの、頭がふらふらする。ピドーは首を振った。頭を叩いてベッドを下りた。床が裸足に冷たい。ベッドとジーノチカの間には鉄格子があった。そこを掴み、力いっぱい揺すった。
「出せ、こらぁ!」
小さな机の上には、病室にありがちな水差しの他に、布の袋とカップが乗っている。ジーノチカは丸い椅子に座り、優雅にコーヒーをすすった。
「思ったより長く寝ていたな。ちょっと量が多すぎたか」
「毒を盛ったのか! てめえ...」
その場に崩れ落ちた。息がすっかり上がっている。額の冷や汗を拭った。
「違う。薬だ。絞めただけでは不充分だ! 目が覚めたら暴れそうだからな。暴れるだけならいい。君の場合、感情に任せて爆発三昧だ。近所迷惑この上ない。それだけならまだいい! おそらく会話にならないだろう。やっぱりならないじゃないか。爆発しないという事はやっぱり死霊がいないのだな。おお、そうだ」
カップを戻す。しゃがみこんでピドーと同じ目線になった。
「あまり暴れるな。ショックを起こして呼吸困難になるぞ! 僕は専門家なのだ。忠告を聞いた方がいい。いや聞け」
「こん畜生!」
格子を殴りつけようとしたが、腕は鉛でも詰まっているような重さだ。やめた。実際に苦しくて動けない。改めて室内を見渡した。窓は高い位置にある。目の詰まった格子がはまっていた。ジーノチカの背後のドアも普通ではない。頑丈そうな金属で目の高さに小さな窓付きだ。天井の一角には監視カメラ。レンズが光っている。
「ここは?」
「ゲルシュニアウプの医療刑務所だ。ちなみにこの棟は軽傷者と泥酔者用だ。死んだ者はいない。調べておいた。死霊はいない、君は爆発を起こせない。素直に寝ているがよい」
「くそっ」
ベッドに戻る。腰を下ろし、足をぶらぶらさせた。
「俺はどれだけ寝てた?」
「なに一日分の量を投与しただけだ。今日は三日目の朝だ」
「ん~? 計算が合わねえぞ! 薬の量、間違っただろう!」
ジーノチカは格子に寄りかかった。
「細かい事は気にするな。腹は減っていないだろう。何しろ電解質とブトウ糖入りのスペシャル維持液を点滴してやったからな」
水差しからコップに水をくんだ。格子ごしにピドーに渡す。
「毒は入っていないだろうな?」
「ごく普通のH2Oだ。毒が入っていたとしても、どうせ檻の中にいるのだ。また寝るだけだ。とにかく飲め。医師として勧めるぞ。口が渇いているだろう」
その通りだ。空腹感は無いが、喉がカラカラだった。一気に飲み干す。
「マリアと小虎は?」
「ここだ。別の棟に収容中である。中尉殿...父上と黒後家蜘蛛はここにはいない。どこにいるのかは知らん」
「俺達を置いて逃げやがって...」
「違う。逃がした。僕が、逃がしたのだ!」
「よくあんたは無事だったな!」
「当たり前だ。みんなが探しまくっていた本物の王太子殿下及びティーガの生き残りを捕獲させたのだぞ。君も無事だ。みんな無事だ」
恩を着せているのか、威張っているのか。彼のいつものテンションでは全く読み取れない。
「だがあの連中がとっつかまったら無事では済まん事ぐらい、君のカボチャ頭でも分かるであろう! 大事な物は何だ、分かるか? 命だ、全員の命だ。君の為の火打石にさせるなんて我慢できない。だから騙した。彼らは決して卑怯者でも臆病者でもないのだ。僕のやり方がうまかっただけだ!」
壁を睨んでいるピドーを見つめる。
「逃げる方法を考えているな?」
ピドーは無言で親指を立てた。天井の一角を示す。カメラがあるだろうが! と唇を動かすが、ジーノチカはお構いなしだ。
「僕の言う事は分かったのか? 気絶していた黒後家蜘蛛はともかく、中尉殿には非はない。責めるのは筋が違う。だが僕に感謝などしなくても構わない。僕はそれほど狭量ではないからだ。当然の事を為したまでだ!」
彼もいわば合同軍の人間だ。その施設内で敵陣営の者を逃がしたと吹聴している。コネ少将の弟というのは、それほど恵まれた立場なのだろうか。それともジーノチカが特別なのか。ピドーは頭を抱えた。父に腹が立つものの、怒るなら会えた時だ。
「...分かった...」
「よろしい。子供は素直で元気が一番であるというのが僕の信条だ」
「はいはい。ところでマリアと小虎に会えるのか?」
「分からん」
ドアがノックされた。トビアスが顔をのぞかせる。
「ヒンメル先生! お願いであります! またあの猛り狂ったメス山猫が」
「姉貴がどうした?」
冷静な弟の声にトビアスは固まった。目だけでピドーを見て、ジーノチカを伺う。顔がみるみる真赤に染まった。
「お、弟様がお目覚めとは...。あの、その、大変に気が荒くていらっしゃる処のお嬢様が、椅子をひっくり返したりなさっておりまして」
暴れているらしい。
ジーノチカが机の上の布袋を探った。中からピドーの服を出して格子の隙間から押し込む。
「これからマリア嬢をなだめに行くぞ。同道を許す。着るが良い。洗濯してやったぞ。砂まみれだったからな。感謝は要らん。やってくれたのはクリーニング店だ」
「俺をここから出していいのかよ?」
「火打石があればどうなるか知っている。だが君はそこまで馬鹿か? マリア嬢と小虎の立場をよ~く考えるように。檻をぶっ壊したところで、二人を連れ帰れるのか?」
言われるまでもない。二人ともまともに歩けないだろう。
「分かってるよ!」
さっさと服を着替える。ふらつきは少しおさまったようだ。
トビアスが鍵を開けてくれた。二人に挟まれて外に出た。医療刑務所らしく、廊下にも鍵付きのドアがあって守衛が立っている。
階段を上がった。
「あー、こっちには居るわ...」
灰色の顔をした若者が通り過ぎた。背中の銃創から肉が盛り上がっている。感覚をずらしているおかげでぼんやりした霧のようだ。目が合う事はない。爆発も憑依もせずに済む。
「力の発動に死霊が必要なのだな。まあ魂もエネルギーの塊と思えばアリだな。小虎は何がスイッチだ?」
「よく分かんねえ。電気があればいいみたいだ。ほら、服をこすったらバチバチくるだろ? あれだけでも増幅できるじゃないか?」
「静電気か。ルーカは風だな」
服をはためかせる。あるいは手で煽ぐだけでも風は起こる。ピドーは死霊がいなくてはならない。
「不便だな~」
ピドーの歩みが遅くなった。
「冥界の太陽の力って何だろう? 俺はてっきり武器になると思っていた。誰にも負けない無敵ってくらいのさ。だけど、実際...あんまり役に立たない」
足掻きの赤は、マリアに重傷を負わせる処から始まった。死霊を救う事もできるが、ほんのわずかだ。殆どは意思の疎通さえできない。着火剤として、かつては人間で迷える存在である彼らを利用しているだけだ。そして破壊ばかり。今回も、むざむざと合同軍の手に落ちてしまった。
小虎の力にしても同じだ。居場所がばれる。だからむしろルーカの手を逃れる為に使わないようにさえしていた。逃亡に役立つのは太陽の力というよりは、自身の神官の力による処が大きい。
ルーカはどうか? もっとも楽しんで使っているだろう。しかし、やはり破壊のみだ。
「やはり武器ではないか? まさに破壊兵器だ」
「そうなんだけど...」
どうにもすっきりしない。
「あーもう! 分かんねえ!」
先を歩いていたトビアスの肩がびくんと震えた。おそるおそる振り向き、またあわてて前を向く。
三階の一番奥に到着した。ピドーは思わず顔をしかめた。
「すげぇ匂い...」
「え?」
二人はきょとんとした。
「分かんないのかよ? もう...消毒液とバニラって...すげえ取り合わせ...」
鍵は三つも付いている。上と、真ん中と下だ。それでも普通のドアだった。開ける前から罵声が響いている。
「...出せって言ってるのよ! バカ少将は? バカ医者は? 出て来い! バカ兄弟!」
ジーノチカは頷いた。
「僕はともかく、ヒューゴは確かにそう呼ばれるのに値するかもしれない。来いと言っているのだ、呼んで来るか。ピドーが起きたのだ。事情聴取するか?」
ドアを開けたが、トビアスはぶんぶんと首を振った。
「自分が統括閣下を呼んで来ますです!」
さっさと駆けだす。マリアと一緒に残りたくないようだ。鍵は開けっぱなしという不用心さだった。
そこは病室らしくなかった。壁紙は淡いベージュで白と水色の小花が咲いている。窓には格子があるものの、カーテンはパステル系のピンクだ。ダブルサイズのベッドが二つ。それぞれにはレースの天蓋付き。ソファは柔らかそうな革張りだ。テーブルの上の籠にはビスケットが山もりだった。家具はないが、壁に備え付けの扉に全て収納できるようだ。ただし監視カメラは天井からぶら下がっている。
「ここは視察やVIPが訪問した際の部屋なのだ。迎賓室とでも言おうか。うら若き女性と子供に対して、最上級の扱いだぞ」
しかし、そんなジーノチカに対して枕が飛んで来た。頭をかすめ、壁に当たって落ちる。マリアはピドーを見て息を吐く。ベッドの一つに腰を下ろした。それだけで息が荒い。唇は薄い紫色だ。腕と足に繋がれた鎖がちゃらちゃらと鳴った。壁の金具に南京錠でつながっている。
「どうしてピドーは出歩いてるのよ!」
彼女の勢いに、ピドーも応戦する。
「最初の挨拶がそれか? 他に言う事が」
「父さんの言う通りに素直にソフィアに戻っていればこんな騒ぎになっていないでしょう! この愚弟が!」
「捕虜らしく大人しくしてろよ。怪我人の自覚無さすぎ! だからメス山猫とか言われるんだろうが! この怒りのスズメバチ!」
「そんな事を言ってんの、バカ兄弟は! あんたまで一緒になって悪口言わないの! もう治ったわ! そこのバカ医者に聞いて」
ピドーは口をつぐんだ。怪我は自分のせいだ。
「マリア...。ごめん...」
「何が!」
「あの爆発...俺のせいで...」
「冥界の太陽のせいでしょ。父さんに聞いたわ」
目線を落とす。視線の先には、もう一つのベッドに横たわる小虎がいた。ベッドカバーの上に、投げ出された人形のように転がっている。半開きになった目が時折瞬きする以外、動きはなかった。
「マリア、まだ痛いだろう?」
すっかり頬がこけている。目の下には深いクマが出来ていた。年齢よりも幾つも老けて見える。マリアは目を見開き、ピドーを睨んだ。
「平気。枕、拾ってよ」
素直に渡すなり、それで殴られた。全然痛くない。力が無いのだ。ピドーは枕を受け止めて抱きしめた。
「姉貴、痩せたな...」
「はあ? あんた、大けがしている私に何て抜かしたのよ? ダイエットしろって二回も言ったわね!」
アディートからケッセンへの移動中だ。マリアに意識は無かったはず。しかし魂が小虎に掴まっていたので、状況は全て知っている。枕を叩き返すわけにはいかず、ベッドに乱暴に投げた。
「それ、今言うか!」
「いつ言おうかお待ちかねだったのよ!」
ジーノチカがソファに腰を下ろした。入って来たヒューゴに軽く肩をすくめてみせる。
「仲の良いきょうだいだ。見ろ、あんなにじゃれあって再会を喜んでいる」
「そう...ですか...?」
ビスケットに伸ばした手を兄にひっぱたかれる。
「お前は休憩に来たのか?」
さらに、ピドーが振り返りざま飛び蹴りを喰らわせてきた。
「てめえっ!」
するりとかわされた。着地するなり方向を変えた。しゃがんだまま足払いをかけた。逆に蹴られる。バランスを崩した。腕を掴まれる。そのまま床にうつぶせに倒された。背中に膝が当たった。全身の重みと、腕をねじあげられた痛みが走る。コネ少将とはいえ、ちゃんと軍事訓練は受けているのだ。幾らか場数を踏んだだけのピドーが敵う相手ではない。開いたままのドアから覗いていたトビアスが小さく拍手した。
「放せよ、こん畜生!」
「全く君達きょうだいときたら、しつけがなっていない。親の顔が見たいよ」
「じゃあ冥界へ行け! てめえも死んで見て来い!」
「この状態では君の方が先に行けるぞ」
ヒューゴは立ち上がった。
「トビアス! ドアに鍵がかかっていなかったぞ。気をつけろ!」
彼は飛び上がって敬礼をした。あわててドアを閉め、その前に立つ。
さらにヒューゴはのんびりビスケットを口にしているジーノチカを睨む。
「レオ兄さん! この動物、少しは止めて下さい!」
「僕は獣医じゃない。しかも専門は産婦人科だ!」
ヒンメル兄弟の間ではピドーはすっかり動物扱いだ。ヒューゴはやれやれと首を振った。
「はいはい。あなたとまともに話をしようとした私が馬鹿でしたよ」
「そうか馬鹿か。馬鹿だな。自分で馬鹿だと認めたな。自覚があるならよろしい」
「ふー...」
今度こそ兄との会話を諦めたらしい。腕組みをした。座ったままのピドーを見下ろす。
「ピドー・エフェレット。なぜ君らを留置所にぶちこまないのか分かるか?」
「へえ~ここは違うのかよ」
「違うとも。君らは捕虜ではないからだ」
確かにピドーには手錠さえない。
「そちらのお嬢さんも客だ」
すかさず鎖をじゃらじゃら鳴らす。
「じゃあ何よ! これ! トイレに行くのも一苦労じゃないの!」
長さは充分あるようだ。しかし、その分重いだろう。
「大人しくしてくれればいいんだ」
またビスケットに手を伸ばしてはジーノチカにぶたれる。
「...マリアベルさんは調香師協会の事務にすぎない。スパイだとしてもさほど情報は持っていないだろう。人質としての価値は低い。そっちの子供も逮捕したのではない。あくまで保護だ。これは合同軍の目標の一つでもあった」
マリアは内戦ぼっ発の当時は八歳だ。現地にも行っていない。またソフィアから殆ど出ていないのだ。情報源にもならないとヒューゴは判断した。それから小虎を顎で示した。
「彼がいればいい。北事変の時には生まれたばかりだろうが、関係者が生き残っている可能性が高い。何とか目を覚まして欲しいのだが...。レオ兄さん! 彼を起こす方法は無いんですか?」
「お前は間違っている。やはり自分の言うように馬鹿だな。第一に彼...小虎は西州に監禁されていたではないか! 少将なら知っておろう」
「その子供ですか?」
「そうだ、既に十七歳らしい。第二、小虎の関係者は死亡。北事変で皆殺しだ。それも知らんのか? 第三だが、一番問題だな。彼は眠っているのではない! おそらくゲシュタルト崩壊という状態だ、精神が参っているのだ、揺すったり目覚まし時計で起こせる状態ではない!」
目の前での惨劇はわずか七歳の時だ。たった一人で西州へ連行され、監禁された。さらに見知らぬ土地で、孤独な逃亡生活だ。今回、北事変と似た状況を追体験してしまった。彼の精神状態は現実を放棄したのだ。
「十七歳ねえ...」
ヒューゴは首をひねった。横たわる小虎はせいぜい七歳か、いっても十歳前後の体つきだ。
「ティーガ族はもともと小さいとか?」
「いや。発想が短絡に過ぎるぞ、ヒューゴ。無知まで追加だぞ。むしろグリンクラフト人よりも平均値としては大きいくらいだ。ティーガと接触が無かったから等とは言い訳にならん。コネだろうが甘物大好きだろうが名目は軍の中枢に居座っておろうが。もっと自国民について勉強すべきだ。やっぱりお前は馬鹿だ!」
コツコツ、とテーブルを指で叩く。
「小虎が成長していない原因だな? 可能性は三つだ。一、先天的な疾患。遺伝的、あるいは身体的機能の故障だ。二、極端な栄養不足。三、過剰なストレス及び壊滅的な愛情の不足。いずか、或いは複合的な理由により成長ホルモンの分泌が阻害され、身長が伸びない。小虎の場合、七歳までは通常に成長しているようではないか? だとしたら二と三の可能性が高いな」
マリアとピドーは顔を見合わせた。アディートで初めて一緒に食事をした時、彼は全く食べようとはしなかった。以降も、隠れて短時間で口に押し込む。まともな栄養を取っているとは思えない。愛情についても同じだ。北事変以降、触れ合いどころか人としての交流も殆ど無かっただろう。
ピドーが床を殴りつけた。
「何とかできねえのかよ! 医者だろう、ジーノチカ!」
「休養と栄養補給、及び長期にわたるカウンセリングだな」
「あの状態でか?」
口を利くどころか、指一本さえ動かそうとしない。
「環境を穏やかになるよう整えるのだ。戻って来るのを待つ。それだけだ。体の怪我は目に見えるから、手当てすべき場所も、治癒の経過も明白だ。しかし心はどこだ? 手を突っ込んで掴み出せるか? 患部を切り取るか? 消毒して薬剤を塗布して治せるのか? 出来るのなら僕はやる。それで完治するのなら喜んでどこにでも手を伸ばそう。だが無理だ! だから小虎次第だ、彼が手を伸ばすのなら、僕は幾らでも握り返そう。医者として占い師として、人として、ジーノチカ・L・ヒンメルとしてだ!」
ぱちぱち。ヒューゴが無表情に手を叩く。エフェレットきょうだいの噛みつくような視線を物ともしない。
ち、と舌打ちをする。ピドーが尋ねた。
「ちゃんとメシ喰わせて、専門の医者にかかれば戻る。大きくなれるんだな?」
「可能性はある。男子は二十歳過ぎまで身長が伸びる。もちろん人によるが」
「...んん?」
そこにひっかかる。ピドーは首をかしげた。小虎の年齢だ。彼が連行された時には、既にジャックはクロイツベルクを離れていたはずだ。それなのになぜはっきり七歳だと断言したのか。小虎は名前さえも憶えていない。連行された時に話せたはずがない。
それに初めて会った時のジャックの様子もおかしい。もともと感情表現は大げさなほどだが、まるで久々の再会のような喜びようだった。
...『ソレ』が何を意味するのか...
父にも不明確な何かがあるのだ。
「どうしたのだ?」
「いや。...姉貴をどうすっか...」
マリアが顔をしかめた。
「できるでしょうが! 『東の赤』なら、この口数がやたら多い兄弟を吹っ飛ばして」
ジーノチカが遮った。
「今の小虎に必要なのは、安心・安全が担保されたベッドである。危険な逃避行ではない! 人の話を聞いとらんのか? もう一度小虎を見るが良い。安静にさせてやりたくなるだろう。ほらなった! ここでそれを為せるのは君だけではないのか?」
あっ、という顔になった。マリアは小虎を見下ろす。頬には絆創膏が貼ってある。ルーカが付けた傷だ。腕にも無数の擦り傷だ。少しだけ開いた瞼の間から銀色の瞳が覗いている。髪を撫でると、唇がわずかに震えた。反応している。触られているのが分かっているようだ。
「もちろん私だけよ!」
挑むように答える。岩山では圧倒的に不利な戦いだった。怪我をしたマリアを助け、ジャックとルプレヒトを遠くに逃がす為には掴まる必要があった。また小虎を助ける為でもある。
ジーノチカがヒューゴを指さした。
「そもそもこいつを誰だと思っている? 少将だぞ、天下のコネ少将! 誰が何と言おうがもう少将だ! 少将様の捕虜をどうこうできるか? 誰が? どこの馬鹿が手出しする?」
コネといえども階級は少将だ。軍の中で口出しできる者は少ない。つまりヒューゴの元にいれば、マリアと小虎はしばらく誰にも手出しされずに休養できるのだ。囚人扱いではあるが。
「ピドーならこう言うわね。...こん畜生!」
一転、マリアの表情から緊張が抜けた。兵士から普通の女の子に戻った。片手を振る。鎖が揺れた。
「取って。これじゃまともな看病なんかできないわよ」
ヒューゴが腕を組んだ。
「逃げないな?」
「小虎を置いて? できるわけないでしょ!」
若干逆ギレ気味だ。
「分からないな」
だがヒューゴはエイミールに合図した。腕の鎖が解かれる。床に落ちたのをマリアが蹴った。足はそのままだ。それでも両手足を思いっきり伸ばし、次の瞬間にはエビのように丸まった。
「いたたた...」
「君にも医者が必要なようだな。手配しよう」
ヒューゴは兄から目を逸らして頷く。
「産婦人科医以外を。ピドー君はここに居るといい。ソフィア辺りとは違って温暖な土地柄だ。物資も豊富だし、のんびりしたらどうだ」
姉と小虎は人質だ。笑っているヒューゴの眼は冷たい。ピドーは立ち上がった。
「その間に何をやらかすつもりだ?」
「君に言う必要はないな」
「ルーカとつるんでいたんだな? あの女...」
ナイフを振りかざした時、本当に楽しそうだった。シュペトレーゼが出なければ、おそらく小虎の眼と鼻は無くなっていただろう。そう思わせるのは冷酷さではない。むしろ稚気ゆえの残酷さだった。幼児が戯れに虫を殺す。それに似ていた。だがルーカは大人だ。思い出すと身震いする。
「ほう?」
ヒューゴの目が光った。
「ピドー君、ルーカが女性だと知っていたのか?」
「いいや」
「ではなぜ? 誰に聞いた?」
「言われなくても分かった」
ピドーはマリアを見た。目が合うとさっと逸らす。
「...俺は変態とか、そういうんじゃない」
「いったい何を...あ」
マリアは自分の鼻をとんとん叩いた。
「そいつね」
「うん...」
ばつが悪そうに頷く。
「フランキンセンスを付けてた。キルヒェガルテンにもいただろう?」
小虎によれば『青の墓場』の管理人を殺害したのは彼女だ。
「...あの風か」
同じ事を思ったのだろう。ジーノチカも真面目な顔になる。人体を梢まで運ぶほどの力とは何だったのか。それがルーカの放つ竜巻だとしたら。あの晩、ガラスの窓はきしんで鳴っていた。
「香水だけで女だとは限らないだろう?」
ヒューゴはまだ納得できないようだ。
壁によりかかり、ピドーは鼻をこすった。
「男と女って違うんだよ。肌...汗の匂いっていうか...。女は甘い...」
「嗅いでるの! このド変態!」
また枕が飛んで来る。あまり力は入らないようだ。ヒューゴをかすめ、ジーノチカの膝に着地する。ピドーはソファの背に両手をかけた。ジーノチカを盾にするように、影から怒鳴る。
「あれだけ近づけば嫌でも分かるだろうが!」
取っ組み合いになったのだ。寒冷地居住のピドーはもちろん、フードにマントのルーカも汗ばんでいた。
「私には近づかないでよ、愚弟!」
「頼まれても近づくか。女だって確かめなくちゃならないのは確かだけどな!」
「こんなに女らしくてどこが不満よ!」
マリアははっとなった。手で弟を制する。
「ちょっと待って。ねえ、シュペトレーゼは?」
「あれ? ああ、そう言えば」
ピドーは身を乗り出した。ジーノチカの頭越しにヒューゴに声をかける。
「シュペートはどこだ?」
「それこそ君に言う必要はない。彼は君らと身分が違うんだよ、身分が。分かるな?」
子供相手に露骨な嫌味だ。部屋の中にまた不穏な空気が満ちてくる。
ジーノチカが口を挟んだ。ビスケットの籠を両手で塞いでいる。
「よし、話はまとまった。僕は帰るぞ」
まとまってませんです、とトビアスが遠慮がちに呟いた。
「お嬢様に差し入れたのですが...」
お菓子は半分ほどに減っている。食べたのはジーノチカだけだ。弟に劣らず甘い物が好きなのかもしれない。
「私は戻ります。トビアス、鍵をかけておくように」
ヒューゴは先に部屋を出た。
鎖をまとめているトビアスにジーノチカが声をかける。
「僕が鍵を閉めて行く。預けなさい」
「え、でも、あの」
「コネ少将のお兄様の命令が聞けないのか。僕の命令が聞こえないか。聞こえないというのか、こら。安心しろ。後で返す」
「しかしでありますね、僕は統括閣下から鍵を閉めよと仰せつかりましてですね、いくら兄上であらせられましても、統括閣下の御命令なのでございますからして」
「くどい! 返すと言ったら返す。返すと言ったぞ。聞こえたな? か、え、す、あ、と、で! 分かったか? 僕を誰だと思っている?」
お互いに引かない。更にしつこいやり取りが数回続いてから、トビアスは鍵を渡した。ドアが閉まる寸前まで声が響く。
「絶対ですよ、後で、きっと、必ず、お返し下さい!」
ドアが閉まってからピドーが聞いた。
「親父は?」
マリアはカメラをちらっと見上げた。軽く機械の動く音がした。立ち上がると鎖が鳴った。洗面所の戸を開ける。蛇口を一杯に開いた。ピドーに手招きした。ここには、さすがにカメラはない。鎖の為にドアは完全に閉まらない。なおも声を低くする。
「遠くには行ってないかなって感じだけ。黒カマキリさんはどこか分からないわ。近くだったらぼんやり分かるってだけなの」
「ここに来るかな?」
「...さあ...」
父の性格なら、子供を取り返しに来るだろうか。小虎の状態を思えば、しばらくは此処に居た方がいいのかもしれない。マリアは洗面台にもたれた。
「小虎はきっとすぐに戻って来ると思うの。頭を撫でたら反応するし、会話もきっと聞こえているわ」
「ああ。姉貴、ベッドに戻れよ」
ピドーはマリアの腕を取った。それから鎖を蹴飛ばした。彼女が引きずらなくてすむように。
「ま、小虎が正気に戻ったら楽勝だろ? さっさとぶち壊してサヨナラだ」
「そうね」
洗面所の出入り口にジーノチカが立ちふさがった。
「一つだけ聞いておこうか。マリア、きちんと答えるように。非常に大事な質問だ」
「尋問? 助けてくれたの? それとも捕まえる為に騙したの?」
片手でピドーに掴まり、片手で腹を押さえている。前かがみになっていて姿勢が辛そうだ。それでもマリアはジーノチカを睨みあげた。噛みつきそうな眼つきだ。
「どちらでもよろしい! 全員無事だ。それよりも僕の質問に答えるがいい。君にしか答えられないから聞く! 君らの目的地、行動は西南軍にばればれではないか。キルヒェガルテンしかり、アディートしかり、ケッセンも、そしてここもだ! 君は予定を誰かに伝えたのか?」
「何よ! 私がスパイだとでも言うつもり?」
ピドーが肩を押さえる。
「姉貴! 落ちつけよ」
「あんたに落ちつけなんて言われるなんて! 私は情報を漏らしたりはしていない!」
うん、とピドーが頷く。しかしジーノチカは納得するはずもない。
「意図せずそうなっていた可能性は無いのか? 君は本当に行き先について完全なる黙秘を貫いていたのか?」
「当たり前じゃないの!」
ピドーも補足する。
「一緒にいた間は、誰とも接触していない。俺がいない時は小虎が傍にいたよ」
「そうよ、誰とも...」
会っていたのは。
マリアははっと目を見開いた。
キルヒェガルテンに行くと知っていた。アディートへ送ってくれ、郊外では電話をかけた。これから向かう場所を告げた...。
イーヴ・ルパートに。
不意に足元がぐらついた。視界が闇に染まる。上下の感覚が無くなった。ピドーの腕を感じる。大きく息をつき、目を瞬いた。
「姉ちゃん...」
「大丈夫」
弟の腕を支えにしながらも、よろめく足を踏ん張った。
「思い当たるようだな」
ピドーも何も言えない。ゲルシュニアウプでソフィア師団に電話をした時、イーブに伝えてしまった。彼は南の青神殿に行くのでは...と。それが決定打になったかは未確定だ。だがシュペトレーゼに関わる言葉であった。
水が跳ねる。洗面台からしぶきとなって散った。ジーノチカは少し目を細めてきょうだいを見下ろす。少し眉が歪んでいて、眉間にも皺が寄っていた。それでもわずかにほほ笑んでもいる。まるで二人をなだめ、あやしているかのように。例え情報を漏らしていようとも、マリアのせいではないと言わんばかりだ。マリアは目を伏せた。力なく首を振る。
黙って聞いていたピドーが叫ぶ。
「お前は何さまだよ? 何がしたい? 少将の兄貴でバローの甥で! 首尾よく王太子を手に入れたじゃないか。まだ足りないのか? 北をもっと叩きのめさなくちゃ満足できねえか?」
ジーノチカは手を伸ばす。蛇口を閉めた。
「話は終わりだ。君の八つ当たりに付き合うほど姉上の体調はいいのか? 僕だって真っ平だ。もちろん僕の体調はいいぞ。しかし気分が悪くなる。僕は確かにコネ少将の兄だ。だからといってここで喚いてどうにかなるなら喚け、幼児のように拗ねろ。まあ君がお子様の思考回路だと証明するだけだ。しかし相手をするのは真っ平だと言ったな、真っ平! 不毛だからだ、不毛だ、八つ当たりなど何も生み出さない。そうだ、質問の一つには答えよう。僕は医者だ! だから言う。君の姉を休ませろ! 寝かせるのだ!」
腕の中のマリアは軽い。腕や背中も骨ばってひんやりしていた。
「...分かってるよ」
ベッドに連れて行く。
気を張っていたのだろう。心身とも疲れたようだ。シーツに座るなり、崩れるように横たわった。ピドーは何度も宙を飛んだ枕を頭の下へ押し込み、毛布をかけてやった。隣の小虎は相変わらずだ。
「...小虎...。起きろよ...」
肩を軽く突いた。小さな指がぴくっと動いた。しかしそれだけだ。表情に変化はなかった。
ジーノチカが立ち上がっている。
「行くぞ」
どこへ、という言葉を呑みこんだ。ここにいても仕方がない。
「はいよ。マリア、また後で」
彼女は微笑んで手を振り、目を閉じた。
廊下に出るなり、ジーノチカはしっかりと鍵をかけた。二度、三度とノブを捻って施錠を確認する。
「よし閉まった!」
「あーあ。また監獄かよ」
しかしジーノチカは首を振った。
「何を言う。ついて来い」
「へいへい」
ジーノチカが先に立ってきょろきょろした。階段を降りながら、カメラと警備兵の位置を確認している。一階に着いてしまった。玄関にも警備兵は立っている。ジーノチカは胸を張った。
「御苦労!」
と、身分証を彼の鼻先に突き出す。ヒンメルといえば統括の兄だ。兵士は無表情に敬礼をしてドアを開けた。彼らは普通に建物の外に出た。
玄関の近くの小部屋のカーテンが揺れた。ピンクでフリル付きだ。ヒューゴ滞在の為、急きょ取りつけられたのだ。ピドーとジーノチカが出て行くのを確認した。ヒューゴは楽しそうだ。傍らのトビアスに尋ねる。
「鍵はちゃんと渡したな?」
「はいです。ご命令通り、すぐには渡しませんでした」
あまりにすっと渡すと、出て行くのを許しているのがばればれになる。監視カメラに証拠が残ってしまうのはまずい。あくまでもヒューゴ側ではなく、ジーノチカが無理強いした形にしたかったのだ。
「結構! まあ兄さんの事だ。僕の考えなんか分かった上で、敢えてのってくれるだろうとは思ったよ」
「尾行は付けなくてよろしいのでございますか?」
「付けてあるよ。あの髪型と言動だ。西州か南州に居るのならすぐに分かる。軍には連絡を回しておく。東州に行くならケッセンを必ず通る。僕の足元だ。北州へ行っても情報屋がいるし、幹線道路には検問を設置済みだ。いざとなればまたルーカに聞くさ。ピドー・エフェレットの気性なら爆発を起こすだろう」
山もりの籠からクッキーを取った。
「ルーカはやっぱり女性だったか」
確信は無かった。それをピドーが教えてくれたのだ。
「女性では何か不都合でも?」
「いいや。隠していた事に意味があるのではないか?」
ルーカの靴はごついデザインだった。足のサイズを誤魔化す為だろう。顔はもちろん、性差が分かりやすい手も隠していた。なぜそこまでするのか。
「厄介なのは太陽達だな。戦況に対してどう動くのか全くわからない。ピドー・エフェレットの力を見ただろう? あんなの、相手にするなんて御免だな。ここであれをやられたらたまらないね。全く、とっとと出て行ってくれて良かった」
いつスイッチが入るか分からない爆弾を抱えているようなものだ。ヒューゴとしては、早くピドーを追いだしたかったのだ。姉のマリアを確保している。野に放った所で、ヒューゴに対して手は出さないだろう。
「ティーガの子も王太子も手に入れた。後は北が降伏するのを待つだけだ」
「和平が御望みでありますか」
「そりゃそうだろう? 僕は北のお菓子も心おきなく食べたいんだよ。ラベンダーを使ったクッキーやゼリーを子供の頃に食べたんだ。美味しかったなあ」
ほら、とトビアスにも勧める。
「ありがとうございますです」
「敬語、おかしい」
トビアスは素直にクッキーを受け取った。しかし口にはしない。しげしげと、しかし失礼にならない程度に上司を見ていた。どこか楽しそうなのだ。何を考えているのか全く分からない。
「あのう...そんなに危険でありますなら、『北の黒』をこちらに留め置くよりも、西州へ送って厳重に管理された方がよろしいのではありませんか?」
「分かってないなあ」
ヒューゴは大きく手を広げて肩をすくめた。
「まだ『南の青』が空いている。それを手に入れたいのだ。あの子は神話の知識を持っているかもしれない。それに意識を取り戻せば、こちら側の武器として使える。せいぜい大切に飼うのが良いだろう。ぜひ手懐けたいものだ」
それゆえの捕虜扱いではなく、貴賓室での滞在なのだ。個の人間というよりも、道具のような扱いだ。戦略の観点からは仕方ない事かもしれない。だがヒューゴの表情は、新しいペットを手に入れたような笑みだ。
「トビアス!」
「は、はい!」
いきなり声を掛けられて飛び上がった。少し考え込んでいたようだ。
「フランツを呼んでくれ。尾行に協力させる」
「はい!」
トビアスは駆けだした。
一方、ピドーはあっけに取られていた。それなりに緊張していたのだ。
「アリか?」
「もちろんだ。来た時もここから入った。出るのもまた同じだ!」
「だって...」
「僕は閉めると言った。閉めた! 君も確認したな。確かに閉めた! そして後で返すと言ったのだ。後で! いつと言った? 言ってはいない。後でだ、後!」
嘘はついていない。確かに施錠した。鍵を返す日時は約束していない。いつであろうと、閉めた後なのは間違いないのだが...。
「...でも...あの人の良さそうな兵隊さんに悪い...」
「悪くないっ! ピドー、勘違いしているぞ。僕らが外出するなど、コネ少将は織り込み済みだ。そうでなければ席を外したりするか。わざとらしい!」
客と言われても結局は捕虜だ。その中でピドーだけは動ける。いつ脱走されるか、また取り返しに来るかと警戒しているよりも、泳がせて情報を得た方がいいと踏んだのだろう。
「利用できるものは利用して当然と思っているのだ。我が弟ながら末っ子気質がいつまでも抜けないのは、軍人としてはいかがなものか。しかし出て行けと言わんばかりなのだから出る。僕はもちろん、君もだ」
「だからってあんたに利用されるつもりはない! 残念だったな。親父と黒カマキリがどこにいるかなんて俺は知らない。放っておいてくれ」
「構わん。君が移動出来るのなら」
うっ、とつまる。身一つだ。現金の持ち合わせなど当然無かった。
「戻るか? 戻ってもいいぞ」
「嫌だよ! しょうがない。一緒に行ってやるよ!」
ピドーも戻るつもりはなかった。マリアと小虎をヒューゴに任せるしかない。
空気が温かい。空は抜けるような青さだ。ゲルシュニアウプの街並みが広がっている。医療刑務所の壁は高い。塀の上には鉄条網が巻かれている。その向こうからカメラが覗き、ゆっくりと左右に首を振っていた。幾つか角を曲がると大きな通りだ。後を付ける人影には気が付かない。
南国らしい華やかな色が溢れている。花屋はもちろん、ウインドーに陳列された服も明るい。
二人は通りを歩き始めた。
「空気が違うな~。こっちはあったかくていいや」
「そうか? 寛いでいるのに申し訳ないが、また寒い処へ行くぞ」
「へ?」
「何の為に刑務所から連れ出したと思っている? 南国気分を満喫させる為ではない。ランデスヴァルトへ行くぞ!」
「な、な、何で!」
刑務所方向を示す。
「あいつら放っておくのか?」
「そうだ! 小虎がいるのだぞ。正気になれば僕らの所在なんてお見通しではないか。僕らは安心して勝手に動けるではないか! なら動く!」
ティーガ族の最後の居住地がランデスヴァルトだ。神話のヒントが残っている可能性がある。
「君自身が言っていたぞ。太陽を呼びだすのは力の故ではないのかもしれないと。リョードフは真実を告げなかったのだ。それが南の青神殿で分かった。だったら太陽神話の真の姿はどこだ? 行くしかないぞ」
「で、でも北州だけど...」
ピドーは戻るだけだ。しかし合同軍将校の家族であるジーノチカが行くとなったら厄介だ。
「州の境は封鎖されているんじゃ...」
「知らん。ランデスヴァルトも知らん。グレンツェはもっと知らん。ごちゃごちゃ抜かすな。まずは行ってみるのだ」
「グ、グレンツェ...。あんたの目的は何だよ? 弟の為か? 情報収集だろう。俺を利用するつもりか」
「何だと!」
彼の大声に通行人が振り返る。
「なぜこの僕が、甘ったれで甘い物好きで図々しくて策略家で腹の黒い二枚舌の男の為に働かなければならない! 彼は軍人だ。しかも天下のコネ少将だ。使える手足は僕以外に他に幾らでもある!」
「じゃあ何で俺達にちょっかいを出すんだ?」
「僕に初めに助けを求めたのは君の側だ! 君の父上、ジャック・ドッジソン・エフェレット元中尉殿であろうが。僕は聞きいれた、受け入れた上での行動だ」
ジャックはハンナ・ティッシュバンに頼んだのだ。厳密に言えば少し違うかもしれない。話を聞かせてくれと依頼しただけだ。そこから随分と遠くに来た感じがする。季節は冬の終わりから初夏へ変わった。
ピドーはのろのろと空を見上げた。千切れた雲が流れて行く。
「...俺は内戦を終わらせたかった...。ソフィアを平和にしたかった...それだけだった...」
動機は単純だった。ジーノチカは腕を組み、何度か頷く。
「そうか。もちろん、僕にも目的はある」
「何だよ。内戦を終わらせてやるとか?」
「僕にそんな力はない。もっとシンプルでもっと小さな、いわば個人的な願いに過ぎない」
「なに?」
ジーノチカはそっぽを向いた。
「言ったぞ、小虎には。聞いていないのか」
「どこで? 聞いてない! だいたい、あいつよりもオウムの方が喋るくらいだ」
自分の事さえ殆ど話さない。ジーノチカの発言など全く伝わってはいなかった。
「大事な生存者をオウム扱いか、この野良犬が!」
「何でそうなるんだよ...」
脱力感に襲われる。ピドーは思わずしゃがみそうになった。
「行きたくないのか?」
「行くよ」
戸惑っただけだ。母の終焉の地でもある。ピドーは唇を噛んだ。
「行く。生身の手足を動かさないとな」
「よし! よろしい。子供は素直で元気が一番だ。さて、どうやって北州へ潜り込むか、だな」
話が変わった。珍しくほっとした様子を見せる。そんなジーノチカの横顔を見上げてピドーは思った。
(絶対、目的を聞いてやるからな)
当面の問題は移動だ。
「どのルートで行けば軍の監視を免れるか...。自分の掌の上に僕がいるなどと、ヒューゴが思い込むのが気に入らん。思い通りに事が運ぶとでも闇雲に信じているのか。全く腹立たしい。そうはいかないのだ」
「どうする?」
ピドーには知り合いもいない。
「ん?」
ピドーはきょろきょろした。
「ここはゲルシュニアウプだよな? だったら...」
カーク商会がある。
「一か八かだ。行ってみよう」
もう一度尾行者を確認する。だがジーノチカは逆の方向へ歩き始めた。
「ジーノチカ!」
あわてて追いかける。
「君は本当におバカか」
ジーノチカのいかにも呆れた声が降る。
「相手はプロだ。軍人どもが本当に尾行していないとでも思うか? 君は思うだろう。だが僕は思わない! いつ、どこに誰の目があるか分からない。今も尾行は付いているだろう。誰だ? どこだ? 分からないから下手にカーク商会へ行ったりはしないぞ。いやもちろん頼りにする。しなければ北へもぐりこむのは難しいだろう。そうだ、やっぱりゲープハルトだな」
延々と彼の言葉は流れる。もはや相槌を打つ気力もなかった。
(本当に北へ戻れるのかよ...)
空には白い雲が走っていた。
その頃、ルプレヒトとジャックはラドクリフに戻っていた。ハンス・ヨアヒムが奪還されたのは、すぐに北州軍へ伝えられた。
ツヅク! 次回 第十話 上 北限の地 ランデスヴァルト・グレンツェ 北州へ戻るぞ! 小虎の故郷だ! 事件現場だ!
お読みいただきありがとうございます。
グリュースゴットでの対決の後処理といった回です。
読み返すと、ジーノチカがしょっちゅう『バカ』と発言していますね…。
生まれも育ちも良いはずなのに、言葉が悪いったら。
次回、ついに北事変の現場へ!




