第九話 上 海辺の町 グリュースゴット
南の青神殿に残された線刻は何を告げるのか?
西の白、北の黒、東の赤が初めて一堂に会したが…
第九話 上 海辺の町 グリュースゴット
列車に飛び乗った三人は、首尾よく南州グリュースゴットに到着した。
水平線の果てに入道雲が沸いている。太陽は中天に近い。波が押し寄せては黒い岩で砕け散る。背後には水辺に沿った道路があり、さらにその奥は平らな土地だ。ところどころにソテツが植えられている。建物はまばらだ。せいぜい二階建てで壁は白い。屋根は赤や青の原色が多いようだ。開いた窓を風が通り抜け、時折白いカーテンが翻った。ジョギングや犬を散歩させる者が過ぎる。だが人数は多くはない。光景のうららかさとは裏腹に閑散とした雰囲気さえ漂っていた。
海岸は湾曲し、湾になっていた。一角には帆を畳んだヨットが並び、ゆったりと揺れている。陽光を浴びて眩しい。はるか西の端は沖へ向かって長く付きだしている。その先に岩山がそびえていた。
岩場の隙間に小さな灰色の砂浜があった。ここだけは穏やかに波が寄せては返す。小虎が浜に背を向けて水際にうずくまっている。染めた髪だが、白い陽光に銀に透けていた。
派手に水飛沫が上がった。ピドーが波打ち際を走る。まるで子犬だ。ズボンだけではなく、シャツも汗で色が変わっていた。小虎の横を通り過ぎるついでに、頭をポンとたたいていく。彼は無反応だ。
「おいおい、少しははしゃげよ」
海を見るのは初体験のピドーは、朝から騒ぎっぱなしだ。
ズボンの裾をめくってから浜辺を横切る。数本のソテツが岩場に日陰を作っていた。シャツを脱ぎ、枝に引っ掛けた。
比較的平らな岩にシュペトレーゼが横たわる。もっとも横になれたのは上半身だけだ。足はだらりと日向に垂れている。麻のジャケットは脱ぎ、白いシャツだ。肘までめくった右袖から赤黒い肌が覗く。顔に乗せたタオルを左手で外してピドーを見上げた。右の額から頬にかけてはれ上がっている。別人のような人相だ。
「大丈夫か?」
「...体中が痛い...」
走る列車に飛び乗る荒技は、シュペトレーゼには荷が重かったようだ。上半身から着地してしまった。石炭にまともに顏を突っ込んだ。ピドーに掴まれ、列車からは何とか落ちずには済んだ。しかしダメージは大きかった。自分のタイミングではなく、ピドーに付き落とされた格好だったのが悪かったのかもしれない。
さらに就寝したのは浜辺の岩だ。二晩続けてまともに眠っていない。
「腕はどうだ?」
痛みは引くどころか、さらに痛みが増したようだ。ゆっくり持ち上げるのは出来る。握ったり開いたりすると電気のような痛みが走るものの、何とか動く。
「うん。痛いけれど、まあ大丈夫そうかな」
「そりゃ良かった。...けど」
覗きこんだピドーの顔が歪む。
「心配しなくても大丈夫」
「せっかくの色男が台無しだあ」
「それは褒め言葉かなあ...。僕がイイ男って意味だよね...」
ピドーの苦笑をよそに、あくまでも前向きに考えるシュペトレーゼだ。タオルを当てたままで体を起こした。自然と呻き声が出てしまう。
「本当に大丈夫なのかよ?」
「...うん...。何であんなに無謀な真似をしても二人は平気なんだろう?」
「つーかお前がトロイんじゃないの?」
「そうかなあ...」
ソフィアでの手合わせでは、ピドーの完敗だった。きちんとした型のある試合ならシュペトレーゼはかなりの腕前なのだろう。しかし問答無用の現場では咄嗟の判断や臨機応変の動きが必要となる。もちろん思い切りも重要だ。ピドーにはそれがある。ましてやたった一人で生き延びた小虎は言うまでもない。
波が金色に光る。シュペトレーゼは目を細めた。
「小虎はずっと海を見ているね」
「そうだな。初めてなのかもしれない。お前は?」
「グリュースゴットには何度か来た事があるよ。あそこの」
と、赤茶けた岩山を目だけで示す。首も痛くてよく回らない。
「向こう側に別荘があるんだ。子供の頃に叔父上達とでかけた...けど...まだあるのかな...」
ピドーも岩に腰を下ろした。むき出しの背中はもう赤い。日陰は少しだけ涼しい。タオルをぐるぐる回して風を顔に送る。
「あるだろ。王家のモンなら。ここを越えても南州か?」
「そうだよ。あちら側は長い砂浜があるんだ。夏にはとても賑わっていた。別荘やホテルがたくさんあったよ。店の数はここよりずっと多いね」
岩山を挟んで海岸の様相が違うらしい。こちら側は観光地化されていないそうだ。この地域は、シュペトレーゼが訪れた頃から変わっていない。向こう側に今も観光客がたくさんいるのかは分からないものの、人目を避けてこちらの駅で下りたのは彼の意見だった。
「ところでさ」
一応、周囲に人がいないかを確認する。
「お前が本物のハンス・ヨアヒム殿下だとしたら、キルヒェガルテンで俺が見た写真は誰なんだ?」
「僕はちゃんと見ていないんだよ。何とも...。どんな感じだったかな?」
「古い写真だ。栗色の髪で、栗色の眼。ほっぺが丸くって、とっても可愛い」
「...君?」
「そんなわけあるか! 俺の眼は茶色だ、よく見ろ!」
ぐいっと顔を突きだす。両目をあっかんべーだ。シュペトレーゼは真面目に頷いた。
「ああ...。でも栗色の瞳もよくある特徴だね。......もしかしたら」
「誰?」
シュペトレーゼは下を向いた。しばらく黙りこむ。タオルに顔をうずめるようにして海を眺めた。突然腰を浮かせる。
「ああ...!」
小虎が倒れていた。少し大きめの服が砂に広がり、まるで衣類だけが捨てられているようだ。
あわててピドーが駆け寄る。肩を掴んで顔を覗く。小虎は目をつぶったままだ。眼鏡がずれ、頬は砂まみれだ。顔は赤い。火照って熱かった。服は汗で湿っている。
「おい、寝ているのか?」
頬を叩いても、うるさそうに少し唸っただけだった。体中から力が抜けている。
シュペトレーゼは立ち上がろうとして呻いた。再び腰を下ろす。
「ピドー、日陰に運んであげようと思うんだけど」
「座ってろ。俺がやる」
決して抱き上げるには重くないのだが、四肢がぐったりしている。砂地を幸い日陰まで引きずった。シュペトレーゼが上着を脱がせた。人に触られるのを極端に嫌がるのに、ちょっと首を振っただけだ。意識はあるようだ。ずっと太陽を浴びていたせいで具合が悪くなったのだろう。
「医者に連れて行こう。お前の怪我も診てもらわないと」
「だめだよ。僕なら何とかなる。でも」
言葉を濁す。シュペトレーゼは手にしたタオルで小虎の顔を仰いだ。
「眼鏡をかけっぱなしにはできないよ?」
「あ~そっか...」
急いでシャツを羽織る。結局ピドーが近くの店まで走った。シュペトレーゼの助言に従って氷と飲み水を買って来る。蓋を開けるなり、小虎の顔に浴びせた。
「...!」
片目だけ開け、無言でピドーを睨んだ。口元に押し付けられた氷だが、首を振って拒む。水を渡すと自分で呑んだ。あまり重体ではなかったらしく、しばらく休むと起き上がった。そして眩しすぎる日差しに懲りたらしい。それからは氷の袋を首筋に当てっぱなしだ。日向に出ようとしなかった。移動する日陰と一緒に座る場所を変える。
やがて太陽は中天まで来た。日陰は小さい。男三人で寄り添って座っている。これからどうするのかはっきりとした当てもないままだ。
怪我人と病人を背にして、ピドーは海を眺めていた。
(来ちゃったけど、どうやって石板を置いた奴を探せばいいんだ?)
勢いだけで行動してしまった。
ソフィアへの攻撃は一カ月ほど前になる。しかしあまりにもたくさんの出来事があり過ぎて、もっともっと以前のようだった。既に日常の生活が懐かしい。
(今ソフィアに戻ったら、何もかも元通りなんじゃないか)
そんな妄想さえ浮かぶ。
ラベンダー畑に新芽が出る。繊細なバラはまだつぼみには早い。レイナーはミートパイを差し入れてくれる。カイがぬいぐるみを抱えて飛びついて来る。機械油の匂いをまとったジャックが工場から戻り、イーブが二階から降りて来れば夕食だ。家のリビングには家族の写真...。
全ては遠くに流れ去った。
少し灰色がかった海面に白く波が立つ。海から逃れられない数多の白い腕が天に向って指をぎくしゃくと曲げている。意識して見ないようにはしている。だからぼんやりと薄い陰でしかない。しかし視界に居続ける。数々の亡霊こそが現状を夢ではないと教えてくれる。
心の中に意識を集中すると、いつも覗くのとは違う部屋がある。スポットライトが当たっている先にはほら穴が開く。自分と冥界の太陽をつなぐ出入り口だ。
亡霊たちのシルエットがくっきりとなった。『部屋』を移動したからだ。
ピドーは不意に立ち上がった。途端に水の上で爆発が起こる。一度ではなかった。何度もほぼ同時にくり返す。まるで爆竹だ。巨大な王冠の形に水が跳ねあがる。
初めて爆発を見るシュペトレーゼは、口をぽかんと開けているだけだ。
小虎が頭を抱えている。相殺する気力はなさそうだ。
「あれは? あれが...『東の赤』...」
小虎は頷いた。もうとっくに溶けた氷の袋を首に当てて、また寝転がった。肩をいからせて戻って来たピドーにため息をつく。
「...ルーカ...ばれる...」
「それがどうしたよ? 今の俺ならそいつとやりあえるんだろう? さっさと来ればいい」
ピドーの頬は赤い。太陽に照らされただけではなさそうだ。大きく振り上げた手の先で、また火花が弾けた。
「ホテルを一つ吹き飛ばして、姉ちゃん怪我させて! 俺の力はそんな物なのか? レイナーを犠牲にして手に入れたのに。ルーカにばれるだと? 使うなって? じゃあ何の為の力なんだ?」
シュペトレーゼがおずおず尋ねる。
「ばれるってどういう事?」
「太陽同士が引きあうんだ。太陽の力を使うと、どこにいるのか相手に分かっちまう。ルーカは...」
ふっと空を睨んだ。
「ずっと西にいたな。あいつは遠慮なしだ。おい小虎! 逃げてばっかりでいいのかよ?」
返事がないどころか、シュペトレーゼのタオルを取って顔にかぶせてしまった。
「聞けよ!」
小虎の傍に屈み、タオルをむしる。小虎は離さず、引きあいになった。ピドーが諦め、たたきつけるように手を離す。
「俺達の力は同格なんだろう? だったら逃げずにぶちのめしてやればいいじゃないか。今は二対一だぞ。勝てる」
シュペトレーゼが口を挟んだ。
「戦うつもりなんだね?」
「もちろん。何のためにここまで来たんだよ? 残った太陽は『南の青』だけだ。石板をたくさん用意されてんだろう。作った奴も待ち構えている。だから乗り込んでやるんだよ。おい小虎。元から叩かないと一生逃げ回る事になる」
人が集まって来た。おそるおそる海岸を伺っている。爆発のせいだろう。
「移動するか」
小虎は嫌々と首を振る。体が思い通りに動かないようだ。
「じゃあいるのかよ。来いっての。とにかく神殿を見よう」
結局シュペトレーゼの手も借りて、ピドーの背中に背負われた。しがみつく気はないらしく、両手がだらんと垂れている。
二、三歩だけ進み、背負い直す。
「ちょっと重くなったな」
一緒に行動するようになってから食べる量が増えているのだろう。
「まだまだ伸びるんじゃないか」
返事はない。頭が肩に当たる感触があった。背中全体が暑い。
荷物はシュペトレーゼが持った。見物人が何事か囁いている。海を見ているので、彼らにはあまり興味を示していなかった。それを幸い、急ぎ足で海岸を抜けた。岩山を目指す。
さほど遠くはなかった。麓には小屋がある。薄い木の板に青いペンキが縫ってある。『南の青神殿』。今は無人だ。色は剥げ落ち、壁は腐りかけだ。窓口のガラスは割れたままに、料金表の切れはしだけが壁にへばりつく。
「以前は観光地だったんだな。シュペートは来た事があるか?」
「ないよ。初めてだ」
小屋横には鉄の扉があり、岩を抉った階段が上に続く。入り口はそこだけだ。天然の岩壁は急な断崖だ。専用の道具でも無ければ上れない。
鍵は壊れている。三人は階段へ向かった。岩の中をくりぬいた通路は天井が低くて狭い。誰とも行き会わない。先を行くシュペトレーゼは首をすくめるように歩いていた。
「ピドー、代わろうか?」
「大丈夫」
そう言いつつも足を止める。二階か、三階分は上ったろうか。息を吐き、片手で額を拭った。ところどころの壁に丸く穴が穿たれている。換気と明かりとり用だろうが空気はやはり籠る。
また階段上りだ。岩をくりぬいた部屋が左右にある。かつて人が住んでいたのだろうか。内部には座れるようなくぼみがあった。壁には煮たきをした後が黒く残る。
「サンハチみたいだ」
ソフィアを思い出す。ティーガの遺構を元に、何年もかけて基地と避難所を造った場所だ。岩の種類は違っても、雰囲気が似ている。
「向こう側には登り口があるのか?」
「分からない...いや、反対側からならこの山を見た事がある。出入り口は無かったかな」
窓から風が吹き込み金髪を乱す。海の匂いだ。眼下にグリュースゴットの町と海が見える。
「この町を越えて西へ向かったら首都だね」
十年前に離れた故郷に近づく。どこに行くのかも分からぬまま、シェレンス公爵に城から車で連れ出された。北州へ駐留しているはずのフェリックスがいた。彼の部隊に同行してラドクリフへ。シュペトレーゼ・シュルツは、その移動中に便宜的につけられた名前だ。
「誰かの息子という立場にしたそうだよ。名前だけの父上とは...会ってみたいな」
「会ってるだろうが。ラドクリフの研究所の前って『シュルツの店』だろ? コックは宮殿にいたシュルツさんかも」
「ああ...そうなんだ」
王宮では面識がなかったから分からなかった。研究所職員となったシュペトレーゼが食事をとる場所にも適当な人物が配置されていたわけだ。彼の正体を知っている。もちろん毒なぞしこまない。
「...本当に僕は守られていたんだね...」
「いまさら何を抜かしてる」
先に進んでいたピドーが振り返った。
「そろそろ頂上か」
「そうだね」
自然の地形を活かした要塞ともいえる雰囲気だ。少し広い場所に出た。四角い広場になっている。丸天井は高い。床には白い石がはめこまれている。殆ど剥落してはいるが、壁の漆喰には太陽神話の線刻が刻まれていた。そして大量の石板だ。広間の中央に山盛りになっている。見るからに、ただ運び込んで置いた形だ。
「やっぱり持ち込まれたみたいだな」
「そうだね」
シュペトレーゼは壁に触れた。
「間違いない。描かれているのは『南の青』だ。今から千年くらい前、ここに神殿を築いたと書かれているよ」
「文字かソレ」
丸や四角の組み合わせだ。鳥や、得体の知れない動物もある。
「うん。でも僕には難しい。全部は読めない」
「ジーノチカなら読めるかもな」
階段の下から声がする。軽い足音がした。ピドーとシュペトレーゼは身構えた。
人影は二つだ。彼らを見るなり、シュペトレーゼは飛び上がった。顔が真赤になる。唇が震えた。言葉も出ない。
ピドーもあんぐりと口を開いた。
まず叫んだのはルチアだった。息が弾んでいる。
「ええっお兄ちゃん? ひどい顔!」
シュペトレーゼは首をがくがくさせて頷くだけだ。
もう一人が一歩進んだ。黒服の男だ。息を吐く。ルチアの横を通り過ぎ、シュペトレーゼの前に立った。
「やはりここですか。何という顔で......」
固まっている二人を冷静な視線で見つめる。ルプレヒト・ヴィプリンガーだ。少し眉をひそめていた。
「なに、なな、なんで」
言葉が上手く言えず、おろおろしているばかりだ。
ルプレヒトは眉間をこすった。
「ケッセンでベルクマンさんとモリスが随分と探したそうです。二日がかりで見つからない。ジェールに戻るはずはない。アディート方面は通行禁止。動いている列車は大陸横断列車だけ。だったら西へ、少なくとも南の青神殿に寄るだろうと思いましたが」
ぎろり、とピドーを睨む。
「ドッジソン氏がソフィア師団経由で情報をくれたんだ。北州軍、歴史研究所と回って私まで来た。まさか二人で企んで抜け駆けしたんじゃないだろうな」
「何で俺が」
「そうだよ!」
やっと言葉が出た。シュペトレーゼは大きくかぶりを振る。
「僕が勝手にやったんだ。ピドーは何も知らない」
自分が責めを負うのは構わないのだ。しかし他人に迷惑がかかるのを嫌がる。彼の性格だ。
「ジェールでは...抜け出してごめん。悪かったよ、ルプレヒト」
「全くです。北にすぐ戻りましょう」
「...うん」
シュペトレーゼはうなだれた。自分の行動が軽率だったと反省している。念願の南の青神殿も見た。南州にいるのは危険な立場だ。追いかけて来たルプレヒトも、身分が分かればただではすまない。
「結構! で」
ピドーの背中を見る。
「そいつは?」
「弟!」
ルプレヒトから見える髪は茶色だ。彼は興味なさげにすぐ視線を逸らした。
「では行きましょう。ベルクマンさんとエイミールが近くにいるはずです。少し離れた場所には北州の応援も待機中です」
「上までは行かせてくれるかな」
「まあ仕方ないでしょう。そのお怪我はどうなさったんですか?」
「ああ...まあちょっと...無茶を...」
ピドーは素知らぬふりだ。
ルチアは部屋のあちらこちらを飛び回り、探検している。足の痛みはかなり和らいだようだ。
シュペトレーゼが話しかけた。
「ルチアはどうしてここに?」
「お父さんが連れて来てくれたの。ケッセンで荷物がダメになっちゃったでしょ? エレノア叔母さんが委員長に教えたらすっごく怒られたんだって。それで何か確かめるって、お父さんと一緒に来たの。そしたらこの人が」
とルプレヒトを示す。
「ここに入るのが見えて。上がってごらんって言われたの」
ルプレヒトがルチアに尋ねた。
「委員長とは? もしかして『楽園創世の委員会』のフィニーニ?」
「もちろん! エレノア叔母さんの恋人」
「...そうか」
ルチアはきょろきょろしている。
「爆発はもう終わりね」
足には包帯が無い。ばんそうこうが貼ってあるだけだ。もう傷はかなり良いらしい。元気に駆けている。石板の山の近くにしゃがんだ。幾つか手に取る。東ではこれで怪我をしたのに、恐怖心は残っていないようだ。
ピドーがきょとんとしている。シュペトレーゼは東州での出来事を手短に説明した。それから石板を手にしたルチアに声をかける。
「帰らなくていいの? お父さんは?」
「下で待ってるって」
彼女はしげしげと模様を眺めている。
「やっぱりウチのとは違う」
東の赤神殿の事だろう。
「マルコのお父さんが作っているのよ」
「神殿で一緒にいた男の子?」
「そう」
シュペトレーゼとピドーは顔を見合わせた。
「誰が作らせたんだろう?」
「さすがにそれは知らないんじゃねえか?」
しかしルチアは首を振った。
「知ってるもん。黒い服の人」
一同の視線がルプレヒトに集中する。彼はあわてて首を振る。ルチアが笑った。
「違うわよ。黒いメガネをかけて、花の紋章を持って来た人。百合かな」
百合の花が組み合わされた模様は、バロー伯爵の家紋だ。
「マルコがもらったって言ってたの。見せびらかすから叱ってやったわ。大人げないわよ。ねえ? もらったんだけど、どこかで無くしちゃった」
随分とおしゃまな発言だ。年端もいかない少女だからこそ微笑ましい。だが二人は笑うどころではなかった。奇妙な雰囲気に気が付いたのだろう。ルチアは立ち上がった。
「お兄ちゃんたち、どこへ行くの? 二人...三人だけ?」
ピドーの背中を覗きこもうとするが、小虎は首を振って避けた。
「二人はお兄ちゃんのお友達なの?」
「ああ」
「ふうん」
ルチアは興味を失ったようだった。周囲は石ばかりだ。彼女が見ても面白い物ではないだろう。
「じゃあ、また東州へ来てね」
石板を片手に、彼女は降りて行った。
ピドーは眉をひそめた。
「ゲルシュニアウプまで一緒だった子か? なぜ居るんだ? どうせ来るなら、ここまで送って来てくれてもいいんじゃないか?」
「一度別れたんだよ。東州に戻ったはずなんだけど」
「ふうん。何かすっきりしねえ」
石を蹴る。
「おかげで誰の仕業か分かったけどな。メガネの奴ってまさかアウゲンじゃないよな?」
眼鏡の人物は対象が広すぎる。
「うーん。とにかくもっと奥まで行ってみようか」
さらに奥へ階段を上がる。ほら穴のような造りだったのに、きちんとした四角い部屋が連なる。壁が岩というだけで普通の建物になってきた。石板はもうない。やはり故意に置かれた物らしい。それが誰なのか、どうやって探せばいいのか。
「誰が置いたか...なんてヒントは無いか」
空が見えた。頂上近くは大きく崩れている。屋根はない。瓦礫の山の向こうにやはり崩れかけた壁がある。全体が一つの模様になっていた。大きな円形だ。破壊された中央の円を囲む四つの首。太陽の石の模様だ。あちこちが欠けている。
ピドーとシュペトレーゼは並んで見上げた。
「太陽の石だね。全体は初めて見た...」
「ふうん。でも真ん中が壊されている」
「...うーん...なぜだろう。現世太陽と『破滅』が描かれているはず」
「へえ。お前は何で太陽神話を調べ始めたんだ? 『西の白』のせいか?」
「うん。何が起こったのか知りたかった」
ピドーは黙って頷いた。父の話が本当なら生贄にされたのは彼の従兄弟だ。
ここで彼は首をかしげた。
「おかしいな。僕の記憶違いかな」
瓦礫を乗り越えて少し離れた。そこから全体を眺める。
「ロッホネスとは違うような...」
「どこが?」
「中央の配置だよ。逆みたいだ」
冥界の太陽が四つとも復活を遂げると、現世太陽が冥界に引きこまれて世界が終わる。ティーガの神話だ。だから太陽の石では、食べられているのは現世太陽で、食べているのは冥界を象徴する顔のはず。しかしここでは、食べているのが現世太陽を示す。もちろん破壊されている絵図なので、残る線からの推察だ。
ピドーにはどれも同じだ。
「何を喰ってんだ?」
「分からない。初めて見たよ」
研究所には資料自体が殆どなかった。シュペトレーゼにとっても謎の文様だ。
「色々なパターンがあるのかもしれない」
小虎が呻いた。
「戻る」
相変わらず体が火照っているようだ。腕はだらりと垂れたまま。
「どうした? 辛いか?」
「...似てる...家...」
石に囲まれた建物。薄暗い明りに浮かぶ線刻。祈りの言葉。不意に押し寄せた人々、硝煙と血のにおい。放たれた火、くすぶるのは横たわって動かない人々...。潮騒が断末魔の呻きを思い起こさせる。
かたり。小石が転がった。
小虎が身を固くする。ピドーの背中から滑るように降りた。
「ルーカ...」
「何? いつ来た? どうして気が付かなかった?」
返事はない。具合が悪かったのはもちろん、注意が全く現実に向かっていなかったようだ。ぼそぼそと声を出す。
「へいたい...」
「ええっ? どうして?」
岩陰から浜辺を見下ろす。岩山の麓には十数人の兵士が集まっていた。制服は西南軍だ。野次馬も集まっているものの建物のある道路まで下がっている。規制がかかったらしい。
「つけられたのか? そんな馬鹿な。列車に飛び乗ったんだぞ!」
瞼の裏で白い光がスパークした。ルーカだ。岩山の一角が吹きとんだ。ピドーは素早く身を屈めたが、シュペトレーゼはぼんやりしている。ルプレヒトが急いで彼の頭を押し下げた。
「屈んで下さい!」
ピドーが前に出た。
「あの野郎! 次はやり返すからな!」
死霊はたくさんいる。かつて戦場だった場所だ。しかも海から死霊が上がってくる。また太陽が爆発しそうだ。今度は言葉通り、ピドーが力を解放した。岩山の頂上で炎と風が渦を巻いた。
「小虎!」
足元にうずくまっている。一点を見つめたまま、ぶつぶつ呟いているようだ。襟首を掴んで揺すった。
「しっかりしろ! 二対一だ、絶対勝てる。起きろ!」
のんびりしていると兵士たちが上がってくる。ピドーは麓を爆破した。入り口を塞ぐ。制服の列が崩れて少し下がった。
「裏に出口は無いんだな?」
「うん」
「じゃあ作る」
浜辺と逆側の山が一部崩れた。小さいながらも通路ができる。
「行けよ」
しかし、ルーカの攻撃は続いている。白い渦巻にピドーの赤が絡まっては弾け飛ぶ。こちらを相殺するので手一杯だ。小虎は動かない。またこの状態では、待機している北州の応援達は上がって来られない。
「ちくしょー、ルーカって誰なんだ?」
岩陰からシュペトレーゼが覗く。黒衣の姿は兵士たちの前に立ち、嵐を巻き起こしていた。
「ピドー、ルーカのベールをめくれないかな? 顔を確認したい」
「やってみる」
彼女の周囲も死霊だらけだ。その一つを爆発させる。ルーカに相殺されたものの風が吹き抜けた。上着とベールが翻る。幾重に重なるチュールが揺れた。咄嗟に抑えた布の隙間からちらりと細い顎が見えた。
ひゅっ、とシュペトレーゼの喉が鳴った。
「...やっぱり...早摘み酒...」
「知り合いか?」
言い淀む顔に畳みかける。
「俺達はもう巻き込まれているんだ。あいつが『西の白』だと分かってる。誰なんだ?」
まだ少し迷いがあるようだ。
「言えよ!」
また突風が押し寄せる。三人の髪が乱れた。シュペトレーゼは押し出すように言った。
「キルヒェガルテンで王太子の写真を見たと言ったね? 栗色の瞳だったと」
「そうだけど...ルーカが王太子? え? そんなご身分がどうして『西の白』なんだ?」
「...ロッホネス湖の西の白神殿跡...誰かが儀式を執り行った。僕はその場に居合わせた...」
シュペトレーゼは考え込んだ。テレジアの赤ん坊を連れ出せる者は誰なのか。乳母は常駐していたはずだが、当時はリョードフ夫妻も宮殿内にいた。アナスタシアは、いつも小さな籠を腕に下げていたのものだ。
(やはり彼女か。でも、もう亡くなった。では石板を作ったのは誰だ?)
その間にもルーカはひっきりなしに嵐を送り込む。ピドーの爆発が迎え撃つ。岩が砕けては飛び散った。
浜の兵士たちは茫然としているばかりだ。ルーカのはるか後方に下がって眺めるだけ。その中にはフランツ・マイヤーとキーラがいた。正式に配属となったトビアス・ミレンの顔もある。腕組みをして様子を見守るのはヒューゴ・ヒンメルだ。
ルーカに声をかける。
「やり過ぎないでくれ。中の連中は無事なんだろうな?」
「知らないよ」
振り返りざま彼のすぐ横で小さな爆風が起こる。ピドーだ。ベールが一瞬めくれた。あわてて抑えたが容姿の大部分が露わになった。すぐに布を抑えたものの栗色の眼がヒューゴを睨んだ。丸くて愛らしい瞳だった。唇がへの字になる。
「少し待てって言うのは聞いてやったんだよ。山と一緒に潰しても良かったんだ。少しは遊ばせてもらおうか」
「しかし殺してしまっては」
「うるさいなあ」
突風が吹き抜けた。ヒューゴは数歩よろめいた。微動だにしないルーカを腕の陰から見つめる。
「何だよ、その目は! 『あの人』が生きてさえいればいいって言うんだよ」
「...じゃあ殺さない方向で」
「ふん。絶望のチビはいないのかなあ?」
電撃が来ない。情報によればいるはずだ。反撃のタイミングを図っているのか。だったら早く決着をつけたい。小虎の方がピドーよりも力を使い慣れている。互角の相手だし二対一になれば厄介だ。また岩山に向き直る。再び嵐対爆発が始まった。
トビアスは爆発の度に首をすくめる。呆れたように見ているフランツに尋ねた。
「なぜ王太子殿下がここにいらっしゃると分かったでありますか?」
「アウゲンの御注進と、奴だよ」
と、離れた場所にいるエンリコ親子を示した。父はしっかりとルチアを抱きかかえて茫然と攻撃と防御のせめぎ合いを眺めている。
エレノアが家に入れた電話がカギとなった。シュペトレーゼ・シュルツという名を伝えたからだ。
「ケッセンで統括は疑ってはいたらしいんだ。シュペトレーゼ氏が王太子殿下じゃないかと。そんな名前はそうそうないし、会った事があるらしい」
「なぜその場で拘束しなかったのでありましょうか?」
「するはずだった」
一度は検疫所のロビーに入った。シュペトレーゼ・シュルツが王太子の偽名だとはもう分かっている。身分が本当に王子なのか。だったら一人で行動しているはずはない。似た他人か、影武者の可能性もある。本物だとすれば、どれだけの護衛がいるのか。ケッセン駅はただでさえ混乱していた。
「それでキーラが身分を確認、俺は外で北州の連中がいないか確認。その手はずだった」
目を離した隙にいなくなった。
「統括の兄も来て大騒ぎだっただろう」
この時点では、身分を未確認の状態だ。
しかし北のスパイから情報が入った。彼は西南軍に情報を流している。シュペトレーゼがジェールからケッセンへ移動し、その後見失ったと。ゲルシュニアウプに軍が向かったのは、やはりマリアンナの失言が原因だ。万が一の可能性でも、王太子を確保する為だ。そしてまたもスパイが位置情報をもたらした。『南州へ入り、海辺にいる』と。
「北にスパイがいるのでありますね?」
「詳しくは知らない。でも情報は確かだった」
面通しの為にエンリコ親子を昨日のうちに呼び寄せた。ジェールの遺跡でルチアと遭遇している。それもアウゲンの情報だ。
一方ルーカはピドーの爆発を追っていた。ケッセンでは二対一。やはり不利だ。市街地でやり合うと、混乱が大きくなる。市民の被害などルーカの知った事ではない。ただとどめを刺せないままに逃げられる可能性がある。襲わなかったのはただそれだけだ。今は違う。思い切り二人と遊べる。
ヒューゴとルーカは合流して、ついに居場所を特定したのだ。海辺で数回の『東の赤』を確認した。間違いない。ルチアを一人で上がらせたのは顔と人数の確認の為だった。
トビアスは大きく息をついた。
「さすがでありますね。コネ少将と自虐発言を繰り返しながらの頭脳作戦! やはりただ者でございません」
「その誉め言葉、後で問題にしてくれる。でも思ったよりは手間取りそうだな」
ルーカ対ピドー。どちらも引かず、爆風が吹き荒れる。
小虎はまだ動けない。茫然としているだけだ。周囲に浮かぶ光が誰なのか判断ができない。それどころか、普段は全く関知しないはずの陰を感じる。ぼんやりと黒い靄のような固まりだ。神殿の中に溢れている。更に海面からも、波が打ち寄せる度に亡霊が手を伸ばす。ピドーの引き寄せる死霊を小虎も感じとってしまう。神経が尖っているせいなのか。
(本当は見えてた...? 見ないふりをしていただけ? こんな...こんなにたくさん囲まれて...)
十年前。住居である神殿は崩壊した。集められた人々の光が一つ、また一つと消えて行く。そして死霊に変化していくのだ。打ち捨てられた神殿がランデスヴァルトの記憶を蘇らせる。
朽ちかけた壁の太陽が見下ろしている。小虎はぼんやりと見つめた。
死体の山から這い出した時と同じだ。あの時もこの壁があった。中央の顔がまるで睨んでいるようだった。太陽の復活に巻き込まれて、ただ茫然としているばかりだ。誰かが呼んでいた。
誰かが。そして『行け』と。その正体が、今にも脳裏のスクリーンで像を結びそうだ。
「...小虎!」
現実の声が耳を叩く。嵐が周囲で吹き荒れる。
「小虎! 起きろ!」
かつて呼ばれるままに行動した。そして何かがあった。心がひどく騒ぐ。体が動かない。
「...破滅...」
「なに? そんな真似させるか!」
小虎はうずくまったまま壁を見上げるばかりだ。ルーカとピドーの爆発が瞼の裏でスパークを続けている。それがひどく遠い。
振り返れば見てしまう。
「...冥界の太陽が起きる...『破滅』が来るだろう...『災いの蟲』だ...」
単語がすらすら出た。自分の口から出たのに遠くで聞こえるようだ。なぜそんな言葉を知っているのか。両手で顔を覆った。ランデスヴァルトの神殿では高笑いのルーカが傍に立っていた。その前に何かが起きた。確かに見た。夕べの夢のように、頭の周囲に残っている。けれどもどうしても思い出せない。
「来ましたね」
ルプレヒトの冷静な声がする。その視線を追ったピドーとシュペトレーゼは飛び上がった。
千鳥格子の上着に茶色の砂が散っている。ここでも白い靴だ。ジーノチカ・L・ヒンメルはうるさそうに髪を払った。そこからも細かい粒が落ちた。
「な、な、なんで」
シュペトレーゼは言葉にならない。ピドーも口をぱくぱくさせるばかりだ。
「いたぞ! ビンゴだ! ほら見ろ!」
ジーノチカが叫ぶ。さらに彼の背後から熊のような体格がのっそりと現れた。肩から細い腕がぶら下がっている。背中に細い体。マリアを背負ったジャックだった。エイミール、ベルクマンも続く。だが通路は狭くて入れない。
「やっぱり帰らないよなあ...」
平らな処を探す。マリアを下ろした。背中を軽く叩く。彼女の頬は真っ白だ。足元もおぼつかない。こけた頬に丸い瞳が酷く目立った。彼女は強い視線でピドーをとらえるなり怒鳴った。
「この愚弟ども! 間抜けな事をやってんじゃないの! ...いてて」
やはり傷が痛むのだろう。腹を抑えた。ジャックが支える。
「大丈夫か?」
「平気よ」
振動が山に響く。ピドーが崩した階段を、ルーカがまた吹き飛ばそうとして進入路を作っているようだ。
ピドーは父に怒鳴った。
「どうして姉ちゃんをこんな所へ連れて来るんだよ!」
「...ああ...失敗したな...」
マリアの頬が真っ赤になった。
「何を言っちゃってんのよ! 私がいたからあんた達を見つけられたのよ!」
「へ? 何で? まさか魂が見えるわけじゃないだろうが」
きょうだいもティーガの血をわずかながら継いでいる。
「見えるのよ! 怪我をした後から」
「ええ~。俺はできないぞ」
「鈍いんでしょ! 私たちは裏手から山を登って来たの」
ジャックとルプレヒトは頭を下げ、外を伺う。ルプレヒトは手りゅう弾を持っていた。華麗な放物線を描いて飛んで行く。ルーカがすぐに気が付いた。空中で爆破する。強い風が吹き付けた。しかしこちらへの攻撃が手薄になった。
シュペトレーゼは眉をひそめ、口を少し開いたままで固まっている。ジーノチカはびしっと裏手を指した。
「話は後です。裏から迎えの者と降りるのです、ピドーがこっちを何とかしている間に。あなたが行かなければ、彼らも動けないのですよ!」
北州軍側は、圧倒的に人数が少ない。交戦すればどのような結果になるか。また、逮捕状が出たままのジャックもいるのだ。
「ほらさっさと! かつての如くに背中を棒で突いて差し上げましょうか? お許し下されば喜んで!」
「で、でも」
「そのお顔は...随分とやんちゃをされたようですな」
少し顔をしかめているが、口元はわずかにほほ笑んでいるようでもある。春の日差しのような初めて見せる表情だ。
(もしも僕に兄がいたのなら、このように弟を見守るのだろうか)
ジーノチカを心配させたのだ。後ろめたい。シュペトレーゼは目を逸らした。
「ああ...うん...」
護衛の二人は待機するだけだ。ベルクマンは息が少し早い。額の汗を拭った。ピドー達が居る場所は狭いうえに砕けた石まみれだ。先にジャックが入ってもう一杯だ。上がって来られない。
「ああ、ようやく追いついたというのに」
ピドーが怒鳴る。
「早く行けよ! 連中の目当てはてめえだろう!」
ジャックがシュペトレーゼの肩に手を置いた。
「さあ、行こうか」
「しかし...」
マリアは座りこんだ。息が荒い。肩を上下させながらシュペトレーゼを見上げた。
「あなたの光も白いのね。少しだけど分かる」
家族や近しい人だけ判別できる。赤の他人なら光っているかどうかさえはっきりしない。それでもわずかに継いでいるティーガの血のおかげだろう。何がトリガーになったのか、大怪我の後からまるで開眼したようだ。
ケッセンのホテルでジャックは何とか追手をやり過ごした。そこから病院へ。そこでピドーが南へ移動したとマリアが告げた。半信半疑のジャックだったが、マリアはジーノチカの居場所も的中させた。放っておけば、娘は一人ででも病院を脱走しそうな勢いだ。
ジャックも同じ場所には長くとどまれない。北州では一般市民だが、元は西州軍人だ。逮捕状が発行されている。なおかつグレンツェ事件被害者の家族だ。やむなくマリアを強制的に退院...というよりは殆ど夜逃げで飛び出した。マリアは近くにいたルプレヒトの所在も突き止めた。
「ぜ~んぶ私のおかげだからね!」
ルプレヒトは、エイミールとベルクマンに連絡を取った。ピドーとシュペトレーゼが一緒だと知り、合流してこちらへ急行したのだった。
ジーノチカの言葉の流れが止まった。小虎の横に立ち、壁を眺める。
「んん~?」
彼も首をひねっている。
シュペトレーゼが尋ねた。
「やはりロッホネスとは違いますか?」
「違うようだな。どういう事だ? 壊れすぎだ、ヒントが欠片ほどしかない。小虎! 何か分からんか?」
まだ彼は座りこみ、顔を覆ったままだ。
「...だめ...だめ」
「何を言う? 何について言っている? とにかく」
彼はヴィプリンガーに言った。
「早く行くがいい。のんびりしている暇はないぞ。とっとと連れて行け、黒後家蜘蛛」
「私にはルプレヒト・ヴィプリンガーという立派な名前があります!」
弾かれたように顔を上げたのは小虎だった。ゆっくりと首を回す。黒髪の男と目が合うなり、体がびくりと跳ねた。
「...ヴィプリンガー...?」
爆風、焦げた火薬の臭い、崩れた神殿。そして一段高い場所に立つ男。黒髪。倒れた人々を睥睨している。呼びかけているのは部下だろうか。
...ヴィプリンガー中佐...
小虎の眼が虚ろだ。唇がぱくぱくと動いた。
「...いた...家に...黒い...」
「...何だと?」
シュペトレーゼの腕を取ったルプレヒトが振り返った。
「ヴィプリンガーと名乗る者が神殿に居たのか? いつ?」
ピドーが驚く番だった。父親によれば、グレンツェ事件の後に規制をかけたのは北軍。当時のヴィプリンガー中佐だ。なぜランデスヴァルトにも居たのか。小虎が見たというのなら、北事変の時だ。村を襲ったのは北と西のどちらの軍なのか。
「どういう事だ、黒カマキリ! グレンツェに居たのか?」
「私じゃない。兄だ。詳しい事は分からない」
ジャックの顔にも緊張が走った。
「やはり兄弟か。とにかく早く降りろ」
今一つ話の流れを理解していないのか、ジーノチカとマリアだけはじっと推移をみている。
小虎が立ち上がった。まるで上から糸で吊られたようなぎこちない動きだ。ふらふらと歩き始める。どこへ行こうとしているのか自分でもおそらく分かってはいないだろう。
岩山の壁が崩れた。数度の爆発のせいだ。重心のバランスが崩れ、自らの重みで崩壊したようだ。空間が開き、空が広がる。
軍との境界が無くなった。小虎は無防備なまま立っている。
「小虎、下がれ!」
ピドーが背後から呼びかけた。
...振り向いてはダメだ...
そう思っていたのに、反射的に振り返った。ピドーが手を伸ばしている、はずだった。しかしそこにあったのは黒焦げの腕。のろのろと目で追う。炭となた肌は肩へ続き、首、そして肉のすっかり落ちた顔。落ちくぼんだ眼窩。髪は無い。それがピドーの声で小虎を呼ぶ。
(幻だ...現実じゃない、違う)
ルーカの爆発が迫る。
いくら否定しようと、同じ状況だ。
あの時、焦げた手が肩を掴んだ。漆黒の闇の中で、首をもがれたのは誰だったか。
小虎は過去の幻影に翻弄される。
悲鳴を上げた、つもりだった。恐怖と不安が全身から寄り集まり、喉元で固まりになった。そこで留まる。声は喉を通ることなく、再び体に拡散した。手足の先まで行きどころのない感情が満ち、全ての自由を奪った。ゆっくりと倒れる。口は悲鳴の形のままだった。足を滑らせ、岩山を滑り落ちる。
ピドーの前に突風が吹き抜けた。
ジャックはマリアを抱いた。咄嗟に後ろに下がる。シュペトレーゼはその場に倒れた。ルプレヒトがかばうように前に立つ。少し後方に立つ護衛の二人も服がはためいた。
すさまじい風に小虎の体が浮く。ルーカが素早く岩山を駆けあがる。倒れた小虎を引き寄せ、首を抱え込んだ。
「おやおや、どうしたのかな? 絶望のチビさんは。またお人形さんになっちゃった」
ヒューゴが前に出た。声を張り上げる。
「そちらにシュペトレーゼ・シュルツはいるか? 彼がこちらに来れば我々は撤収する」
「てめーら...」
ピドーが歯ぎしりした。すかさずルーカが叫んだ。
「動くんじゃないよ! 爆発なんかさせてごらん。どうなるか?」
最後まで聞かなかった。ピドーが力を解放する。ルーカの鼻先で火花が散った。一瞬の遅れで風が対抗する。すかさず駆け寄ったピドーがルーカの腕を掴んだ。両手でしっかり肩を抑えた。その場に押し倒す。小虎から手が離れた。だが横たわったままだ。
「起きろ! 小虎!」
呼びかけに反応がない。ピドーとルーカの太陽がぶつかり、小虎の髪を乱す。
ルーカの刃が閃いた。ピドーの額をかすめて空を切る。のけぞって避けた。腕の力が抜けた瞬間、ルーカがピドーの腹を蹴る。そしてすぐに数歩下がった。素早く小虎の首を抱えなおす。
「動くなって言っただろう?」
ルーカの口元は笑うように歪んでいた。小さなナイフが小虎の頬をすべる。一筋の血が垂れた。
「次は鼻へ行くよ」
ピドーは唸った。打ち付けた肩を無意識に掴む。爆発を起こしても一対一だ。ルーカを吹き飛ばせない。その上、小虎にも被害を与えてしまいそうだ。
一同は動けなかった。シュペトレーゼを渡すべきではないのは分かっている。彼の身柄が合同軍に移動すると、力の拮抗は大きく崩れる。北州は内戦の大義を失う。また現在公開されている王太子の肖像は、ハンス・ヨアヒム名義ながら幼いルーカである。
だから顔どころか髪と瞳の色さえ違う。そこでシュペトレーゼはどう扱われるのか。
ピドーが身を乗り出した。
「小虎! 起きろ! 目を覚ませよ!」
しかし目は虚ろだ。何も映してはいない。岩が砕け、銃声が響いてもぴくりともしない。岩肌でこすったのだろう。腕や顔には擦り傷があった。
銃が弾けた。軍からの発砲だ。あわてて頭を下げた。岩に弾が当たって硬い音を立てる。
「ルプレヒト...」
寝転がったままのシュペトレーゼが小さく呼んだ。
「ダメです。出ないで下さい」
「でも...。ちよっと見て欲しいんだけど...」
「何です?」
屈むなりシュペトレーゼが肘を突きあげた。みぞおちにもろに入る。ルプレヒトは無言で倒れた。
シュペトレーゼは跳ね起きた。ピドーの横をすり抜ける。止める暇もなかった。ベルクマンが軽く悲鳴を上げた。
彼はゆっくりルーカに近づいた。
「...その子を離してくれないかな、早摘み酒。ルーカと呼んだ方がいいかな?」
「どっちもお断りだ。気安く呼ぶな。久しぶりだね。こんな処で会えるなんて嬉しいよ。さらに男前になったじゃないか」
とんとん、と自分の頬を示す。顔の怪我を揶揄しているのだ。ルーカはナイフをひらひらさせた。
「さっさとコネ少将に掴まっちまいな」
「約束して欲しい。ここにいる皆に何もしないと」
「僕と? 約束? 本物の王子様が?」
刃の切っ先が小虎の目じりに刺さった。それでも反応はない。むしろシュペトレーゼの表情の方が痛々しい。
「やめてくれ。お願いだ!」
「ふざけるんじゃないよ。取引できるような立場かい? ぐずぐずしていると足元に銀色の目玉が転がるよ。来い」
ピドーが叫ぶ。
「シュペート!」
止めたいのか行って欲しいのか。自分でも分からない。
シュペトレーゼは唇を噛んだ。
岩山の影では、ジーノチカがジャックを指で呼んでいた。
「中尉殿、黒後家蜘蛛を頼む。背負うなり抱えるなりして先に下りて欲しい。貴殿の体格と腕力なら出来るであろう」
ルプレヒトはまだ失神している。シュペトレーゼ相手で油断したのだろう。抗議を上げようとしたジャックを手で制する。
「この人数でどうにかなるか? 殿下が向こうに渡っても命に別条はないだろう。大事な本物の王子様だ。それよりコレ。あのヴィプリンガー大佐の弟ときた!」
と、ちょいちょいと足でルプレヒトをつつく。
「それからアレ」
と、後方の護衛二人を示す。
「北の軍人たちだぞ。中尉殿だってお尋ね者だ。とりあえず逃げねばならん! ピドーは冥界の太陽なのだから一人でも何とかなる。僕だって何て事はない。いや、あるぞ。マリア嬢なら背負えるが、黒後家蜘蛛は無理だ! そもそも男なんぞ背負いたくもない。どうしてもと言うならやらんでもないが、数歩歩いて潰れるだろう。しかも岩山で」
「もういい...わかった」
長々と回りくどいが、要するに逃げるならルプレヒトを背負ってくれ...という事だ。無理やりにでも起こせば、彼の立場として黙って引き下がりはしないだろう。やはり一度は引いた方が良さそうだ。
エイミールが踵を返す。ベルクマンを促して元来た岩山を降り始めた。シュペトレーゼを奪われた今、彼らもすぐに撤収する必要がある。
せめてマリアを麓まで...という願いをジャックは飲みこんだ。彼らにも行動目的があるのだ。彼らを無言で見送り、大人しくルプレヒトを抱えた。マリアが手を貸す。ちょっと目が怖い。
「父さん、お尋ね者なの? いつから?」
「いや...何も悪い事では...。後で話すよ」
「何をしたの?」
「後で!」
マリアも抱えようと手を伸ばしたが、彼女は首を振った。平地ならまだしも、岩肌を下らなければならない。幾らジャックの力が強くても、成人男性が背にいる。危険だ。
銃声が弾けた。シュペトレーゼが合同軍の制服に取り囲まれている。彼らに身柄を拘束されたのだ。と同時に攻撃が始まった。
「マリア嬢は任せろ。僕を信じるのだ! 僕を誰だと思っている?」
ジャックはじっとジーノチカを見つめた。瀕死のマリアを手当したのは彼だ。
「...分かった。信じよう。ジーノチカ・レオポルト・ヒンメル」
「全力を尽くす」
大きな背中が裏手に消えた。それを確認してから、もう一度眼下の軍勢を見下ろした。ルーカは岩山から下がった。小虎を引きずったまま、軍の後ろへ下がった。シュペトレーゼと小虎を得たのだ。収穫としては充分だ。
「兄がいると分かっていてドンパチ飛ばしてくるのか、あの弟は...」
それから、隠れているピドーに声をかけた。
「こっちへ戻れ!」
「でも」
「伝えておかねばならない事がある!」
「何だよ」
這うように戻った。彼はきょろきょろする。
「あれ? 黒カマキリと親父は? 姉貴、大丈夫か?」
「とりあえずはな」
背後に回る。首の根元を掴んだ。
「実はな、ピドー。ここには大きな血管が通っているのだ。ここを締めると血流が滞る。するとどうなるか?」
もう片方の腕がしっかりと顎の下に食い込んでいる。
「何を...」
「だから教えてやろうと言っているのだ! 貴重な実地体験だぞ。血は酸素を運ぶ。脳にもだ! それが滞るのだ! 脳は苦しくなるぞ。ああ、首も締めているからな。呼吸もしづらいだろう」
彼の言う通りだ。実況通りに視界が暗くなり、頭がぼんやりしてくる。喉が苦しい。声が出ない。ジーノチカは冷静だった。
「そろそろか? そろそろだな? 視界が暗くなってはこないか? 思考力が無くなっただろう? 手足はしびれているのではないか? 格闘技などで言う処のいわゆる『落ちる』という状態だ」
マリアが叫んでいる。地面が近付いてきた。ピドーは意識を失った。
砂浜ではエイミールが目を丸くしている。
「統括閣下、撤収すると仰ったのではありませんか?」
「言ったよ」
ヒューゴは涼しい顔だ。
「撤収はする。でも攻撃しないとは一言も言ってないからね」
銃撃の指揮をしていたフランツの背中が、少しだけ動いた。笑ったのか肩をすくめたのか。エイミールは大きく頷いた。
「さすがですね! その腹ぐろ...詭弁!」
ほめてない、とフランツが呟いたようだった。
岩の間から棒が付き出た。白い布が揺れている。フランツが叫んだ。
「撃ち方、やめ!」
顔を出したジーノチカには、まるでマリアがおぶさるようになっていた。両手で彼をひっかき、殴り、めちゃくちゃに叩く。頭をかばいながら彼は怒鳴った。
「ヒューゴ、早く助けてくれ! この、このお嬢さんは確かに北の白鬼の子供だ...!」
ツヅク! 次回 第九話 下 海辺の町 グリュースゴット ジーノチカ、やぶ医者疑惑? そして新たなる旅路へ
お読みいただきありがとうございます。
勢いで南の青神殿まで来てしまいましたが。
無計画はよろしくないですね。
現状が小虎の精神の限界を超えてしまいました…




