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冥界の太陽たち 冥界から四人の王子が復活する時、災いの蟲が来て世界は崩壊する。そしてゲームは始まっていた!  作者: あべ舞野


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第八話 下 再会の町 ゲルシュニアウプ、そして王宮

追っ手がシュペトレーゼに迫る。

そして

長い内戦の疲弊は、王宮にも暗い影を落としていた。


第八話 下 再会の町 ゲルシュニアウプ、そして王宮


「皿っ!」

 ピドーが台所から喚いている。すっかり元気になったようだ。髪が濡れている。シャワーまで済ませたらしい。

「てめえら全部そのまんまで寝やがって! 洗え! 手伝え!」

 服のままで寝ている二人に遠慮なく怒声を浴びせる。

「ここに姉ちゃんがいてみろ。首根っこ掴まれて流しに頭をぶち込まれるぞ!」

 カーテンの隙間から光の帯が差し込み、空気を金色に照らしている。

「…痛い…」

 シュペトレーゼは呻いた。なかなか寝付けなかったが、やはり眠ってしまった。しかも床で。初めての経験だ。体中が痛い。動かすたびに関節がきしむ。しかも容赦なくピドーの声が降って来る。

「起きろ!」

「うう…うん…」

 蹴りが飛んで来た。危うく避ける。

 なんとか起き上り、伸びをする。体のあちこちからぼきぼきと音が鳴った。

「洗うよ」

「任せる」

 シュペトレーゼは目をこすった。こころなしか腫れぼったい。袖をまくった。流しに重なる皿を手に取る。蛇口から水がほとばしった。肌の上を滑り、飛沫が散る。冷たい。むしろ心地良かった。

(ああ…お風呂にも入らなかった…)

 台所の窓を開ける。壁だ。隣の建物が迫っている。隙間を通りぬける拭く風はどこか埃っぽい。それでも朝の空気は清冽さを運んでくれる。わずかに見える空は澄んでいた。

 ようやくシュペトレーゼは顔を上げた。リビングに戻り、床に座る小虎に声をかける。辛そうではあったが、顔はかすかにほほ笑んでいた。

「考えたんだけど…やっぱり謝らせて欲しい。何も知らなかった自分に対してだよ。小虎君、ごめん。本当に申し訳ない」

 聞いているのか、そっぽをむいた横顔には表情が浮かばない。それでもシュペトレーゼは頭を下げる。

「それから、ありがとう。ここに連れて来てくれた…」

 彼は気が付いてしまった。研究所で守られ、決して知る事は無かっただろう感情について。そしてもう自分は保護された内側から出たのだ。

「ピドー、君の言う通りだ」

「え? 何?」

「生身の手足を動かせって」

 ピドーはきょとんとした。しかし、すぐにニヤッと笑う。

「よし。じゃあさっそく動かそうぜ。グリュースゴットへ行こう」

 小虎が俯いた。握った拳を顎に当てる。気配を読む時、しばしば取るポーズだ。

「知っている奴が来たか?」

 首を振る。しかし眼鏡をかけた。

「動かない。ずっと」

「外か?」

「うん」

 と、ホテルの正面と横方向を示す。

「三人ずつ」

「え? 本当に?」

 シュペトレーゼとは対照的に、ピドーは手早く荷物をまとめた。突っ立ったままのシュペトレーゼにも、鞄を押し付ける。

「おら持て! すぐ行くぞ」

 三人はすぐに部屋を出た。手ぶらの小虎が窓を示す。

「出る」

 そこから出たら人がいない、という事だ。大人の肘ほどの高さから天井まである大きな窓だ。

シュペトレーゼが首を振る。

「チェックアウトしていないよ」

 二人の返事を待たずに受付に向って歩いてしまう。すぐに逃げなくてはならないのに融通がきかないのだ。

「しょうがねえな。小虎、先に出てろ」

 ピドーが追いかける。

 管理人は男だ。まだマリアンナとは交代の時間ではないのだろう。細い縁の眼鏡をずり上げては帳面を覗き、なにやかやと計算をしている。会計が手間取っているようだ。

「早く!」

 ピドーがシュペトレーゼの袖を掴む。白い眉毛の下から、男がちろりと二人を見上げる。

「三人で泊まったの? 二人って聞いてたから、代金が変更だよ。計算している。待ってて」

 玄関が開いた。ひんやりした空気が流れ込む。現れたのはマリアンナだった。

「おや、元気そうじゃないか。皿は? もうチェックアウト?」

 彼女はシュペトレーゼを押しのけ、外側から管理人室を覗きこんだ。

「人数じゃないよ。一室幾らでやってるじゃないか。何を計算してんだい。耄碌しちまったかい。まさかあんなヨタ話を本気にしてるんじゃないだろうね」

 窓から逞しい腕を突っ込む。男の骨ばった指から帳面をひったくり、金額を書き込む。

「ほら、とっとと払いな!」

「あんがと! 食事代も付けておくよ。おい、奢っておけ」

 ピドーは素早くシュペトレーゼの財布をひったくった。適当に札を抜き、男に放り投げる。

 男が叫ぶ。

「こら! ちょっと待て! まだ…」

 窓をぴしゃりと閉める。マリアンナが窓口に立ちふさがりしっしっと手を振った。声が低い。

「うっかり他の連中に話しちまったんだよ。殿下がいるよって。冗談だと…まさか、あんたは本物なのかい…?」

 彼女の視線を追うと、玄関のガラス戸越しにホテルへ歩み寄る人影があった。濃紺の制服は西南軍の色だ。

 シュペトレーゼは口ごもった。

「ぼ、僕は…」

 マリアンナは手を振った。

「誰だっていいさ。自分を王太子なんぞと思い込んでいる頭のイカれた客なんぞ、さっさとお帰りいただきたいんだよ」

兵士の手がノブにかかった。ピドーが呼んでいる。

「遅い(シュペート)!」

「行きな。どうせ他の二人もワケありなんだろうが。面倒はごめんだよ。ここはあたしの縄張りみたいなもんなんだから」

「でもあなたが」

「誰かを売るような真似、天国の息子に顔向けができるかい」

 はっとシュペトレーゼは息を飲んだ。彼女の子供の一人は遠くへ行った。二度と戻らない場所だ。おそらくは内戦のせいで。

「ほら!」

マリアンナの手が背中を叩く。ピドーはもう少し先へ行っていた。再び廊下の奥へ走った。背後から男が叫ぶ。

「こら! おい!」

女性の管理人が、来訪者の前に仁王立ちだ。

「なに? ウチはまっとうな商売をしているよ!」

 声が切れ切れに聞こえる。

「…皿をね…病気で…」

 窓は開いている。素早く乗り越えた。向かいの建物から小虎が手招きをした。ピドーがシュペトレーゼの袖を引く。

「早く!」

 そのまま建物の隙間に駆け込む。行き止まりだ。小虎はためらいなく雨どいに手を掛けた。身軽に壁を這うように上る。すぐに壁の向こうに消えた。ピドーも続く。彼もソフィアの自然相手に育っている。木登りは得意だ。厄介なのはシュペトレーゼだ。鞄を小脇にかかえてみたり、地面に置いたり。もたもたしている。途中まで行ったピドーが戻り、鞄をひったくる。有無を言わさず壁の向こうへ放り投げた。

「ああっ!」

「でかい声を出すな! 手足を動かすんだろう!」

 自分も小さくはない声を出し、彼を先に上らせる。下からべんべんと腰を叩いてせかした。

 壁を越えると、似たような路地だ。しかし小虎は迷いなく進む。

 だんだんと建物がまばらになる。彼らは駅から離れていた。

 頭上に電線が走っている。草地が途切れた。小さな谷だ。切りとおしに線路が通っている。小さな橋の下に、列車が近付いている。小虎は平然と欄干(らんかん)に足をかけていた。

「えっ…」

 ピドーとシュペトレーゼは顔を見合わせた。走って来る列車に飛び乗ろうというのか。

「駅に行こう。僕は、昨日の切符を持っている」

「はぁ? 昨日? 使えるのかよ? それに」

 ピドーは大きく息を吐いた。リュックを背中に回す。

「駅はダメかもしれない。お前が王太子だってバレたんなら、見張りがいるかも」

 もうピドーは覚悟を決めたようだ。シュペトレーゼはまだぐずぐずと悩んでいる。

「あの管理人さんに聞かれたみたいだ…ごめん…不用意に話したせいで…」

「どうでもいい。今だ、今! どうするんだ? のこのこ駅へ行くか? 俺達と来るか?」

 汽笛が鳴った。黒い煙が流れる。

 残ればどうなるのか。間違いなく拘束されるだろう。西(ヴェステン)州へ連れ戻された後は? 実質的な王太子を失えば、北(ノルデン)州にはもはや内戦を続ける大義名分が無い。それなら戦いは終わる。しかし自分を守ってくれていた北(ノルデン)州軍の人々は? 逃がしてくれたマリアンナは? シュペトレーゼ一人の問題ではない。たくさんの人々の命運を握る立場なのだと、改めて思い知らされる。

「ルプレヒトと離れるべきじゃなかった…」

「え? 何?」

 考えが浅かったのだ。しかし、出て来てしまったからには留まるわけにはいかない。

「何でもない。行くよ」

 ようやく心が決まる。唇をかみしめた。カバンの短い取っ手を無理やり肩にかけ、両手を使えるようにした。車輪のきしみ、線路を噛む音が轟く。黒い隊列が近付く。橋から車両の天井まで数メートルはあるだろうか。動いている物に飛び移るなんて経験はない。連結部に落ちてしまったら、そのまま線路へ直行だ。命はないだろう。腕を掴まれた。そこで震えている自分に気が付く。ピドーがさらに力を込める。彼にも緊張感が漂う。

「一緒のタイミングで飛んでやるか。着地したらどこでもいいからとにかく掴まれ。一両目が来たらすぐだ。石炭の所へ降りる」

「わ、分かった…。ピドーはやった事があるの?」

「あるわきゃねえだろ! 煙にまぎれるぞ」

 二人も欄干に足をかけた。煙の臭いが立ち込める。

「小虎君は」

「ほっといても大丈夫…っと!」

 煙が橋を包む。とほぼ同時に、ピドーがシュペトレーゼの背を押した。

「うわーっ!」

 黒い鋼の塊が視界いっぱいに広がった。



 ノイエ山脈は遠い。白い冠が少し見えるだけだ。

 西(ヴェステン)州の州都・クロイツベルクは平野に広がっている。ベルント連峰から西に伸びているなだらかな山脈を背にしていた。

 町のはずれにクロイツベルク宮殿がある。町よりも少し高台にあるので見晴らしは良い。背後には大きな湖が見える。今は中天にある太陽の光を受けて白く輝く。西(ヴェステン)州特産の白御影(みかげ)石で飾られているのだ。城の正面には深い掘りがあった。かつては底で熊や虎など飼っていたそうだ。出入り口は、現在は一か所のみ。馬車が一台通るのがやっとの幅で吊り橋が渡されている。もしも敵の襲撃を受けた際、橋を跳ね上げて城を守るのだ。幾つかあった通用門は閉鎖中だ。

 それでも城塞とは呼べない。居城である。防御よりも外見の美しさに重点が置かれていた。だが城郭の一部は変色し、崩れたままになっている。シェレンス公爵が率いる北(ノルデン)州軍の攻撃を受けて十年経つが、修復は進んではいない。

 内戦がこう着状態の今、クロイツベルクは穏やかな昼下がりの中にあった。

 現国王ディーター・フォン・グリンクラフトは執務室にいた。天井には騎士が描かれ、柱は金の装飾で覆われている。机の背後の壁一面は本棚だ。壁にも華やかな黄金の蔦が彩りを添える。しかし色はくすんで埃が薄く積もる。何重にもクリスタルが並ぶ豪奢なシャンデリアも、半分ほどしか電球はなかった。

 半開きの扉がノックされる。バロー伯爵だ。白い髪をきっちり後ろへなでつけてある。長い口髭と顎髭もきれいになでつけられていた。

「不用心ですな。ドアをきちんと閉めておいた方がよろしい」

「閉まらないのです」

 ディーターは振り返ってほほ笑んだ。また街並みに顔を向けた。視線はどこかをさまよい、まるで何も見ていないようだった。

「手が回りませんで」

 バローは肩をすくめた。

「アウゲンから報告がありました。第三の太陽を見つけたと。これは…わざわざ陛下にお伝えしなくてはならない案件なのでしょうか」

 ただでさえ人手が足りない。王宮でさえ一目瞭然だ。神話の話などバローにとっては重要事項でなかった。

「神話を信じていないのですね」

「もちろんです。テロリストの仕業を神話と言い換えているだけでしょう。マイン橋が爆破されたのもおそらく彼らでは? 本体が見えませんが、最近は活動が活発化しているようですな。ソフィアに続いてアディートで停電騒ぎがありました。さらにケッセンです。どんどん南下しております。テロリストの捜索こそ優先しなくてはならないのに」

「アウゲンはアディートとケッセンに入っていたそうですね? 確かにテロリストだったと?」

「おそらく。ティーガ族が現場に居たそうですから。奴らの仕業でしょう」

 曇ったガラスを通しても、城下町にはどこかのどかな雰囲気が漂っている。

「生き残りがあの子の他にもいるのでしょうか」

「さあ。引き続き探索しております」

「…見つかるかな…」

 独り言のようだった。ようやくバローに顔を向けた。

「それより内戦は小康状態ですね。そろそろ和平を考える時期ではないでしょうか」

「もちろん。シェレンス殿が陛下の即位を公に認めさえすれば、すぐにでも。マクシミリアン陛下は既にいないのですから」

「ええ。ここには」

 ディーターは寂しそうに微笑んだ。栗色の髪に陽光が透けてはちみつの色に輝く。

「私は王になろうなどとは考えてもいなかったのです。アーノルド陛下と違って帝王教育を受けてもいない。だからこそ研究に没頭していました」

 ちらりと本棚に目をやる。ここには塵一つない。民俗学についての書籍がきちんと並んでいた。もちろんティーガ族についての書籍もある。色々な民族の言い伝えや文化を調べているうちに太陽神話を知った。そしてより詳しく知りたいとティーガ族の識者を呼び寄せた。そこにアナスタシアがいたのだ。全てはそこから始まった。

「あの女がいなければ…」

 バローが嘆息する。ディーターは首を振った。

「もう死者なのです。尊敬をもって呼んであげてください」

「そう、亡くなった。振り返っても仕方のないことです」

 軽い足音が近づく。栗色の巻き毛が揺れる。青い瞳がくるりと動いた。追い掛けて来る女官のナンネを従えたイザベルだ。今年六歳になる。

「父上! おやつにカスタードクリームをいただいたの」

 彼女はその場でぴょんぴょん跳ねた。

「母上の温室でバニラビーンズが出来たのですって! とても美味しかったです」

「そうかい」

 ディーターは優しくイザベルの頭を撫でた。

 バローがため息をつく。

「テレジア陛下に男児がお生まれになれば…」

 王太子はアーノルドの息子のままだ。法律を変えて女子にも継承権を持てるようにすれば、ねじれは無くなる。王家はディーターの流れとなる。しかし現在の状況で改正を行えば各方面から反発が起きるのは必至だ。

「テレジアには感謝しているよ」

 イザベルを女官の方へ優しく押しった。ディーターはバローに笑顔を向けた。

「私の子供を二人も産んでくれたのだから」

「一人は男児でしたが、残念です。しかし父親がマクシミリアン様だともっぱら噂でした。そんな話を引きずるよりむしろ良かったのかもしれませんな」

「私の子供です。間違いありません」

「それでしたら三度目があっても然るべきでしょう。王妃たる者の務めではないですか!」

 バローの声が尖る。イザベルが身を固くした。二人の顔を見比べてナンネにしがみつく。

「大丈夫、何でもないよ。もう行きなさい」

 遮るように女性の怒号が響いた。

「ちょっと! この扉はきちんと閉じないの?」

 やや赤い金色の髪を結いあげた女性が、無作法にもドアを足で蹴って開けた。細身のパンツは黒だ。踵の低いゴム製の靴を履き、片手に籐のかごをぶら下げている。緑の葉と剪定用の鋏が入っていた。

「話が筒抜け。私がどうしたの? やる事をやらないのはそちらの」

 と顎でディーターを示す。

「誰かさん。私は寝室の鍵を閉めていないのにねえ。この兄弟ったら揃いも揃って、私を何だと思っているの」

「テレジア、子供の前だよ」

「ええ、そのイザベルを探していたのよ」

 鋭い視線が子供を刺す。イザベルは更に身を固くして叫んだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい女王陛下!」

 テレジアは右手を振り上げた。目をつぶったナンネの頬を打つ。彼女はよろめいた。唇が歪む。テレジアを見上げるが、すぐに目を伏せた。王の子供に手を上げられない。代わりにぶたれるのは侍女の役目だ。

「王女殿下はピアノの時間でしょう? 何故ここでお喋りさせているの? おまえにそんなおさぼりをさせる権限があるの? 偉くなったわねえ」

 頬に赤く指の跡が浮きだした。彼女は黙って頭を下げる。泣きそうなのはイザベルだった。

「早く行きなさい!」

 さらに怒鳴りつけられる。ナンネは無言のままだ。軽く膝を折って頭を下げる。ディーターにもおなじ礼をしてからイザベルの手を取り、部屋を出た。ディーターがドアの隙間から見送る。

「女官を代えようか」

「いいの! ディーター、それよりもお願いよ」

 彼女は腕を組んだ。ぐいっと顎を上げる。

「温室を温める為の燃料と肥料が足りないわ。もう少し回してちょうだい」

 バローが答える。

「ご趣味は結構ですが、ハーブ類にはあまり肥料は必要ないでしょう」

「伯父さま。私はディーターに言っているのよ。私の温室には南国の花もあるの、タイムやチャービルだけじゃないの」

 ディーターが頷く。

「うん、分かっているよ。何とかしてみよう」

 テレジアは目を細くしてバローを睨んだ。

「早く城を直してちょうだい、伯父様。もう何年になるの? ティーガのチビにシェレンスの部下。共にやられっぱなしじゃない」

 石を切り出し、加工する職人も減った。さらに賄う財政がない。余裕があれば軍事費に回している。

「ティーガ族の子供とマクシミリアン陛下は本当に居たのですか? テロリストが潜入して爆破させたのでしょう。こんな宮殿の奥にまで侵入を許したのは、確かに警備の隙が」

「違うわ。あのガキは居た。『北の黒』なのよ。よくもあんな化け物を連れて来て…。おかげでマックスまでいなくなっちゃった。いくら瓦礫を掘っても死体は見つからなかったわね。逃げちゃったのよ。馬鹿みたいよね、せっかく捕まえておきながら」

「テレジア」

 ディーターの穏やかな制止は無意味だった。

「面白かったわ。家畜みたいに焼印を押してやった時は。さっさと殺せば良かったのよ。首をもいでやりたいわ。後から何とでも言えるわよね。病気でも事故でも! 私の赤ちゃんみたいにね。まだ名前さえ無かったのに。伯父様、いい加減に認めたら? 冥界の化け物は実在するのよ!」

 彼女はまた足でドアを開けた。閉めないままだ。肩をいからせて歩いて行く。

 バローは大げさにため息をつき、首を振った。

「やれやれ。あそこまで猛々しい子ではなかったのに。女性にとって恋に破れるというのはそれほど苛烈なものなのでしょうかな」

「子供を失ったんだよ。それに…とても強く兄を愛していてくれたのだろうね」

 かつてはバローの仲介でお見合いの話が持ち上がっていた。マクシミリアンは乗り気ではなく、結局ディーターと結ばれた。

「あの女のせいです」

 あたかもアナスタシアが現れなければ話が進んでいたかのような発言だ。バローは咳払いした。

「…失礼を」

 彼は穏やかにほほ笑んだ。

「いいんだよ。テレジアには本当に感謝している」

また、二人きりの時には亡くなった子供の話には触れなかった。第一王子の死は宮殿内ではタブーだ。誰も禁じてはいないのだが。

「ああ、そういえばハンス・ヨアヒム殿下は東(オステン)州へ向かわれたそうです」

「そう…。ソフィアでは無事で良かった」

「ええ。そうそう、一度キルヒェガルテンを訪問されました。ハンナ・ティッシュバンの処です。彼女がこちらへ通報しなかったのは許せませんな。目立たないようにとの配慮でしょうが、伴は二人だけに見せかけていたようです。一人は子供だったのは目くらましでしょう。もちろん他にも警護がいた模様です」

 おそらく伴とみなされたのはルプレヒトとピドーだろう。

 バローはまた首を振った。

「アウゲンはなぜか当地の警察に拘束されまして。連絡を受けて釈放させました。それでも殿下をこちらにお戻しするのは無理でした。しかも邪魔をしたのが」

 ふう、とため息をつく。

「ヒンメル前将軍の息子らしいのです」

「というと?」

「医者の方です。父親は立派な軍人だったのに全く何を考えているのやら。この間もここへ来てちょろちょろしていましたよ。私の名前を使うなと言ってあるのですが…」

「来てくれて構わないよ」

「いやいや、全く役立たずです。もうしわけございません。殿下をお連れすれば良かったのですが…」

「そうだね。なぜ連れて来なかったんだろう」

足早に若い軍人がやって来た。開いたままのドアに立ち、敬礼をする。

「何か?」

 彼は口を開きかけたものの、ディーターをちらりと見た。

「構わん。言え」

「はい。遅摘み酒(シュペートレーゼ)が南(ズューデン)州へ移動したそうです」

 開いたままのドアから冷たい空気が流れ込む。

「こちらの陣地ではないか。チャンスかもしれないな。すぐ人員を手配しよう」

 バローは敬礼をして、踵を鳴らして回れ右をした。二人分の足音が遠ざかる。

 壁が歪んでしまったのか、ねじを締め直しても隙間はふさげない。ディーターは窓枠に腰を下ろした。町は相変わらずだ。市内を走る列車の白煙が流れた。相変わらず視点を定めない目付きだ。時だけが流れる。

 ディーターの部屋を出たナンネは、腕にしがみつくイザベルの手を払った。掴み直したのは襟首だ。声さえ出ず、目を見開くばかりの王女を引きずる。時折、小さな足がもつれた。力任せに引き起こしながら、小走りだ。

 廊下の壁には、数メートルおきにランプ型の電球が付いている。根元が膨らみ、先に行くほど細くなる。つぼみのような愛らしい形だ。元はピンクなのだが、埃とくすみで灰色に近い。

 幾つかの角を曲がった。ようやくナンネは手を離した。一歩下がってイザベルをじっと眺める。伸ばした腕に、少女の体がびくっと震えた。

「直すだけよ」

 乱れた襟をピンと立て、カーディガンの前をきっちり合わせる。まだ頬はじんじんと痛む。テレジアの張り手には、いつも容赦がない。イザベルの手がそっとナンネの頬を撫でた。

「痛い?」

「当たり前でしょう」

「ごめんね、ごめんなさい」

 イザベルの眉は歪み、唇は震えていた。目には涙が溜まっている。今にもこぼれそうだ。

「ナンネは悪くないの。イザベルがきちんとしていないから、母上が怒るの」

 ナンネは体を起こした。腕組みをする。肩をすくめた。イザベルの髪を撫でる。

「さ、ピアノのお時間」

 ドアをノックする。

「どうぞ」

 ひどく間の伸びた男性の声がした。

 イザベルは一度だけ鼻をすすりあげた。それから目をこする。ぐっと唇をかみしめ、ドアを開けた。軽く膝を折って挨拶をして部屋に入った。後ろからナンネが扉を閉める。

「あーあ」

 大きく伸びた。肩を揉みながら歩き出す。しばらくして同僚がやって来た。カートにはリネン類が積んである。

「お疲れ」

 と言いかけて、彼女は眉をひそめた。自分の頬を指でとんとん、と叩く。

「また?」

「また!」

「それで? 小さな淑女に八つ当たりしなかったでしょうね?」

「してない」

 どこかでドアが閉まったようだ。二人は口をつぐむ。目を巡らせたナンネが窓の外を指さした。

 黒いベールをかぶった人影が通り過ぎる。長い上着とゆったりしたパンツも黒い。風に服が揺れる。体の線は細い。

 同僚が声をひそめた。

「見ちゃだめ」

「何で?」

「入った時に言われなかった? 見ても話しかけてもいけない人がいるって」

「理由は聞くな、でしょ。言われたけどさ」

 ナンネは首をかしげた。

「誰? 本当に王太子殿下なの? だってめったに部屋にいないじゃない? グレンツェ事件の後に北(ノルデン)州へ連行されたって噂があるし」

 マクシミリアンはまだ行方不明だ。ディーターの即位は拙速で認められない。正当な王位継承者がいて、北(ノルデン)州は彼を庇護している。それこそがシェレンス公爵の内戦開始理由だ。

「本当に王太子がここにいるなら、何で隠すのよ? シェレンスなんて言いがかりをつけているだけじゃない? とっとと北(ノルデン)州なんか叩いちゃえばいいのに」

「しっ」

 同僚はあわてて周囲を見渡した。ナンネの肩を抱き、耳元に口を寄せる。

「誰にも言っちゃダメよ。噂だから。王太子殿下は本当にここに居るの。でもね…でも実は男性としての能力がない…」

「あーっ。なるほど」

 ナンネは先ほどの姿を思い返した。中性的な体格だった。

「それでバロー伯はディーター陛下を王位につけたのね」

 姪が男児を産めば、自分の血を引く者が王となれる。

「シェレンス公は知っているんでしょうね。自分より下位貴族のバロー伯の身内に頭なんか下げたくない。だから、まだマクシミリアン陛下を王であられると主張するわけか」

 風が鳴った。木々を揺らし、ガラスに打ち付ける。二人は首をすくめた。誰もいないのもまた確認する。

 ナンネは肩をまた揉んだ。

「子守なんて、もうたくさん。ちょっと休憩するわ」

 レッスンは一時間ほどかかる。

「あらそう? じゃあはい、これ」

 同僚が渡したのは羽箒だった。

「ちょっと!」

「よろしく~」

 同僚は笑う。カートを押す音が遠ざかった。

「しょーがないなあ」

 ナンネはおざなりに手を動かし始めた。

 


 バローが去り、ディーターは一人だった。しばらくして本棚に歩み寄る。ティーガ族に関する本はあまり多くはない。長くグリンクラフトと敵対していた部族だ。伝承や文化が研究され始めたのはほんの二十年前ほどに過ぎない。それほど連邦内では軽視されていた文化だ。

 一つの本を引き出す。『ティーガ族の伝承と暦』だ。ぱらぱらめくる。もう何度も開いた頁を開く。一か月分の日付の名称が載っている。指で絵文字を追って数える。

「アナスタシア暗殺はアトルの日で間違いないのか…。ソフィア襲撃がクアウトリ。アディートとケッセンは…おかしいな。何も関連がない。一体だれが…」

 余白には何かの拍子についたか、茶色の染みがあった。ディーターは眉を寄せた。古い記憶が蘇る。

(お兄様…)

 彼がそう呼ぶのはマクシミリアンだ。アーノルドとは十歳以上離れている。一緒に遊んだ記憶はあまりない。物心付いた頃には、長兄は既に王太子として忙しい日々を送っていた。

 共に過ごす時間が多かったのはマクシミリアンだ。アーノルドが健在である限り、二人とも権力を持つ事はない。しかし重い義務も課せられはしない。穏やかな子供時代を過ごせたのだと思う。

 時折こっそりと城を抜け出して遊びに行ったりもした。合図は頁の余白だ。二人は侍従に言づけては本の貸し借りをしていた。その日の日付、たとえば十五日なら十五の倍数の頁のどこかにメッセージがある。それがマクシミリアンの空いている時間なのだ。侍従から本を受け取る度に、幼いディーターは余白の文字を探した。

 二人で庭園を抜け、山肌を落ちるように転がって行けば湖のほとりに出られる。水遊びは楽しかった。しかし、抜け出したのがばれる可能性は高い。共にずぶ濡れだ。しかも雑草や木々がうっそうと茂る傾斜を登るのは骨が折れる。そんな姿をハンナに咎められたものだ。おやつをもらえなかったり、夕飯のデザートがなかったりする。それでも何度もでかけた。遺跡は既にそこにあった。入り口が分からず、子供の頃は入れなかったものだ。

 今さら兄からの印があるはずもない。本を閉じた。静かにほこりを払って元に戻す。二、三歩離れて本棚を眺めた。大きさが揃えられ、巻数は順番通りだ。全てが完璧。満足げに頷く。

 ディーターは部屋を出た。廊下の電球も、半分ほどしか付いていない。壁の白さが逆にさびれた有様を強調しているようだ。延々と凝った幾何学模様のモザイクが続く。区画ごとに違う装飾が施してあるのだ。彫刻の上にはうっすらと埃が積もる。通る者はいない。宮殿で働いているのは最低限の人数だった。

 螺旋の階段にひそやかな足音がする。覗きこむと、黒いベールが急ぎ足で駆け下りていた。更に下を使用人が通りかかった。白いエプロンの侍女だ。階段を上ろうとしてその姿に気が付く。途端に顔を背けた。そのまま廊下の反対側へ走って行った。命令は守られている。

 ディーターは手すりにもたれた。ルーカの去った方向をぼんやりと眺める。

(今日は城にいたんだね)

 やがて自らも階段を降りる。庭園に出た。

 かつてはトピアリーがあちこちにあった。熊、ライオン、キリン…。あたかも緑の動物園だ。庭師が毎日刈り込んでいたものだ。今は雑草が生い茂り、野趣あふれる風情に変貌した。植え込みは伸び放題だ。テレジアの温室は、かつてのゴドー・エフェレットの香水工房の隣にある。研究所と職員用の食堂は閉鎖されて久しい。そちらへ続く煉瓦の道も草に覆われていた。

 城の裏手へ向かう。草が踏まれて人一人分の道が出来ていた。そこの行き止まりは小さな築山だ。そこの横を抜ける。高い鉄の柵が続く。ところどころは朽ちて、針金が巻いてあった。錆びた扉を開ける。真ん中がすり減った木の階段があった。腐りかけた木の葉が積もり、足を乗せる度に滑った。傍らの木の枝につかまりながら降りた場所は湖畔の窪地だ。

 小高い山が蒼黒い水を取り囲む。芽吹きの季節を迎え、木々は若葉を付けている。何かの蔓が絡まり、林はジャングルと化していた。手入れをする者も、ここにはいない。枯葉が長い期間に積もり、ふかふかの地面だ。踏むと水がしみ出す。もう少し季節が進むと、緑の草で埋め尽くされるだろう。

 木々の間に入ってしまえば光景はとても似ている。でもディーターは知っている。進む方向は山の形が教えてくれるのだ。

そしてしばらく進む。足元に固い感触が伝わった。真ん中が窪んだ石が並んで道を示す。ここだけは枯葉が積もっていない。隙間から生えている草も踏まれていた。

(ヒンメルの息子が来たと言っていたな。何を調べた?)

 行き止まりは蔦と木々に囲まれた小山だ。近づけば、それが崩れた石の壁だと分かる。半ば埋もれた入り口は四角く穴が開いていた。茶色に変色した蔦がカーテンのようだ。知らなければ見つけにくいだろう。そこをめくり、足を踏み入れる。石の床を割って数本の木が生えている。土と枯葉の合間からうねる線刻が見える。

 ここがかつての兄弟の隠れ家だ。忘れられ朽ちて行くだけの廃墟、ティーガ族の西の白神殿跡だった。

さらに奥へ進む。地面に穴がある。蔦や木の枝などは脇にどけられていた。石の階段が地下へと続く。ディーターは身を屈めた。壁に手をつき、手探りで降りる。すぐに広間へ出た。天井の一部は朽ちている。昼下がりの太陽が、湿気とカビのにおいに満ちた内部を斜めに照らしていた。ドーム状の上部は暗かった。どこからか水が滴り落ちている。床には浅い水たまりができていた。割れ目があるのだろう。そこからある程度は排水するようで、決して水没はしない。ドームの中央には瓦礫の山が出来ていた。内戦以前に北(ノルデン)州から持ち込んだ太陽の石がある。きっちりくっつけて横たえて、大きなドーナツ状になっていた。中央は空白でドームの床に散らばっている。施された彩色は赤、白、黒、青。うち青以外は崩壊してしまった。

 始めて此処へ入ったのはいつだったか。マクシミリアンと一緒だった。真っ暗で湿っぽく、カビの臭いがした。最初は兄の背中に隠れていた。線刻の絵柄が灯りに浮かんだ瞬間、背筋を何かが走った。それは恐怖だったのか。未知への強すぎる好奇心なのか。ディーターは目を逸らせなかった。

幾度か訪れる度に、これは何なのか興味が強くなるばかりだ。やがて興味を失った兄とは対照的に、ずっと探索を続けたものだ。

 ティーガの遺跡だとは知っていた。わずかな本を探しても満足できる知識は得られない。リョードフ親子を招き、冥界の太陽神話を知った。

 太陽が死す。唯一無二のはずの強大な存在が、人間を道連れに冥界へ下って亡霊となる。グリンクラフト人には無い感覚だった。

目が慣れて来ると、ドームの奥が見えてくる。岩肌にくりぬかれた部屋が幾つかあった。はめ込みの格子は歪み、壊れている。家具が散乱したままだ。天蓋付きのベッドは柱が折れて引っくり返っている。深い飴色に塗られていたチェストは白くカビが生え、飛び出した引き出しの上で裂けたままだ。椅子やテーブルの重厚な彫刻は砕け、破片はドーム中に散らばる。

 ぴちゃ、と水が跳ねた。闇から沸きだしたように人影が現れる。瓦礫(がれき)を蹴り、腕組みをしてディーターの正面に立った。

「早摘み酒(アウスレーゼ)。ここにいたんだね」

 一瞬ベールがずれた。見上げる瞳は栗色だ。黒一色の衣装に身を包んでいるのはルーカだ。布がずれないように押さえる。口元だけがのぞく。笑っているようだった。

「僕の家だよ。好きな時に戻るよ。お出かけ前に寄ったんだ」

「どこへ行く?」

「南(ズューデン)州に決まっているだろう? アウゲンの御注進があったんだ。遅摘み酒(シュペートレーゼ)を今度こそ連れて来る」

「迎えに行くんだね」

「ふん」

 唇が歪んだ。

「首だけ持って来るよ」

「体も付けて欲しいな」

 ディーターの顔は少し笑っている。いたずらをする小さな子供を見る眼つきだ。

「あっはは」

 細い喉がのけぞる。ルーカはベールをしっかりと押さえている。

「分かってる。殺しちゃいけないんだろう? 王太子として必要な体だから。首がくっついてりゃいいんだね? 顔に焼きゴテを当てておくよ。頭の皮は剝ごうか」

「本当にそうしたいならね、早摘み酒(アウスレーゼ)」

「できないと思ってるんだね」

 ルーカは舌打ちをした。椅子の残骸を踏み抜く。腕を組み直し、ぐいっと顎を上げた。

「檻を直しておいてもらおうか」

「ここまで壊れてしまうと…。難しいなあ。雨漏りもする。まさか遅摘み酒(シュペートレーゼ)をここに住まわせるつもりかい?」

「もちろんだよ。僕はずっとここにいたんだ! あいつのせいで、あいつが北(ノルデン)州へ逃げるまで、ずっと! 僕はロッホネスの幽霊だった。同じ思いをさせてやる」

 ひときわ大きな水たまりがある。ディーターは小石を拾った。腕を水平にして投げる。水切りの要領だが、石は跳ねなかった。すぐに沈む。丸い水の輪が広がった。

「君にはそれができる」

 瓦礫の一つを撫でる。赤は、つい最近復活したばかりだ。アウゲンとルーカから報告を受けている。

 ディーターは夢想する。

 …それが夜ならば。湿気を帯びた空気が振動する。太陽の石が震える。ドーム全体が震えた。水が揺れ、瓦礫同士がぶつかって鳴る。水が跳ね、ディーターはよろめくだろう。

 復活の残響が消えたら、泥水の中でディーターは立ちすくむ。耳をつんざいた音は、頭の中にとどまって渦を巻いているようだ。大きく息を吐き、やっと立ち上がる。泥水が腰から下を汚して滴り落ちる…

 彼は小さく微笑んだ。幾ら泥だらけになろうとも、王を叱る者はもういない。

 ルーカが呟いた。

「あと一つか」

 長い上着を翻す。数歩行きかけて振り返った。

「荷物がケッセンでダメになっちゃったよ」

「ああ。バローから聞いたよ」

「石板のレプリカは、もう作らなくていいよね。後は『南の青』だけだし。でもさ、あんなに用意したって太陽神話を知らない奴にとっちゃ意味なんか無いじゃないか。偶然に頼るなんて効率が悪すぎ」

「ちょっと違うな」

 ディーターは屈んでいた。瓦礫の破片を掻き分け、なるべく平たい小石を探している。

「復活の儀式を知っている者にとっては妙な事なんだよ。なぜそんなに石板があるのか? 不思議に思うだろう。何が起きているのか、誰の仕業なのか探りに来たくなるよ。あれはその為に用意させたんだ」

「ああ! で、遅摘み酒(シュペートレーゼ)が釣れたんだ。ソフィアでは面白かったよ。行くのは面倒くさかった、でもそれだけの収穫はあったね」

 口角が鋭く上がった。真赤な唇が割れ、ピンクの舌がのぞく。

「餌を喰ったのは別の奴だった」

「そうだね」

 手の中の小石をもてあそぶ。

「何と言う名前だったかな? 復活の条件を満たしたんだね」

「条件って何?」

 ディーターの手を離れた小石は、またも水を跳ねる事なく派手なしぶきをまき散らした。

「リョードフ先生は教えてくれなかった。でもおそらくは幾つか必要だ。まずは冥界の太陽を示す絵図があること。先生は証書と言っていたのがそれだろう。生贄はなるべく契約者に近しい存在であること」

「僕のは…えーと、あの赤ん坊は従弟になるんだっけ?」

「そうだね。そして契約者の血が必要」

「全部で三つかあ」

 実は全部で五個だ。証書、生贄、契約者の血、司祭。そして最後の一つこそが最も難しい条件なのかもしれない。

かつてこの場で『西の白』が復活した。生まれたばかりの子供が血まみれで床に転がっていた。その場に居合わせたのは四人。アナスタシア、ディーター、ルーカ、そしてハンス・ヨアヒム。全員が白の幻影を見ただろう。ルーカが怪我をしたのは血糊で滑り、刃が手に当たったせいだ。ハンス・ヨアヒムの手にも血が滲んでいたようだ。しかし怨嗟の猿として太陽が選んだのはルーカだった。

「あんたはずるいよ。自分は見ているだけ。まあ、おかげで太陽を手に入れたし、この陰気くさい地下からも出られた。そのうえこの僕が王太子だよ。感謝しなくちゃいけないのかな」

 ルーカの唇はまだ笑っている。何度も手をこすり合わせた。見えない何かを拭うようだ。

「ふわふわだった、もにょもにょ動いてた。このままだったら第一王子として幸せな人生を送るはずだった。それを僕に捧げてくれて感謝している、なんてステキなプレゼントだろう!」

 笑い声は異様なほど高く、朽ちて行くドームに中途半端に響いた。ルーカは背をのけぞらせ、高笑いを続けている。風が巻き起こった。黒ずんだシーツが舞い上がってはためいた。ディーターの髪が逆巻く。背を丸め、頭をかばう。

 しかし立ち去る彼女だけは影響を受けていなかった。轟々と響く風の中を、スキップするような足取りで進む。階段に姿が消えても、小さな嵐はしばらく続いた。

「やれやれ」

 髪を払う。砂だらけだ。やはり埃まみれとなった服を払う。

 階段を上がろうとして身を屈める。ふと足元に目が行った。暗闇に慣れたせいだ。先ほどは気が付かなかった緑の葉が落ちている。どこから落ちたのか、まだ青いままだ。

「ふぅん…」

 葉をもてあそぶ。鮮烈さは既に揮発して、わずかに緑が薫るだけだ。それを惜しむように吸い込む。地上に出ると、もう夕暮れだった。人の気配はない。ディーターは葉を暗い湖面に浮かべた。それが合図のように、どこかで魚が跳ねた。水の輪だけが湖水に広がって行く。

 マクシミリアンは水切りが上手かった。石は湖面を滑るように飛んでいったものだ。コツや投げ方は、腕を取って教えてもらった。何度でも嫌な顔をしないで教えてくれた。けれども、どうしてもディーターは上手くできなかった。いつも力任せに投げ込むばかりだった。

(今もだね)

 黒々とした斜面を眺める。かつてはここにいた人々の面影を想う。兄マクシミリアン、銀の髪の夫婦、早摘み酒(アウスレーゼ)、名前の分からないティーガの子供、湖面に浮いた首の無い死体。彼の名は何といっただろうか?

 永遠に去った者と、いつかは戻るかもしれない者たち。そして自分は追うのか、待つのか。

(あ、『東の赤』の名前を聞きそびれたな)

 頭上にある宮殿の灯りはまばらだ。不意に寒さを感じる。もう一度裾をはたいて、すり減った階段に足を乗せた。

   ツヅク! 第九話 海辺の町 グリュースゴット いよいよ南の青神殿へ。待ち受けるのは敵か、味方か、必然の運命か。でも~海を見るのが初めてでも、浮かれ過ぎには注意!  


お読みいただきありがとうございます。


小虎はとにかく。ピドー、無茶しますね。

さてさて、西州の王宮に場面が移りました。


次回、小虎にさらなる試練が…。

ジーノチカ、相変わらずです。

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