第七話 下 過去の町 クロイツベルク
ロッタとアナスタシアの情報がジャックにもたらされる
そして王都の情勢が一気に動く
王都に集合したティーガの若者たちとギデオン・リョードフの
運命は?
第七話 下 過去の町 クロイツベルク
天候は良くなったり悪くなったりを繰り返す。いよいよ空は初冬の色だ。アナスタシアがランデスヴァルトへ帰る日がやって来た。クロイツベルク中央駅から北州へ路線が伸びている。北の州都ラドクリフを経由してさらに北へ。終点でまずは一泊の予定だ。以降は専用の車両に乗り換える。半日でランデスヴァルトの麓へ到達。ここでも一泊。そこから山道を徒歩で丸一日。ほぼ三日がかりだ。
朝早い出発だ。家族で駅に着いた時、辺りはまだ暗かった。マリアは眼をこすっているし、ピドーはジャックの背中でまだ夢の中だ。ホームには霧雨交じりの風が吹きつけていた。
「こんな天気は珍しいな」
「そうね。いやな天気! そうそう」
ロッタはバッグを開いて見せた。一番上に灰色の塊がぐったり身を横たえている。ピドーのウサギだ。ジャックは少し笑ってしまった。
「なに? ああ。よく手から放したな」
「でしょ? この子と一緒なら、僕がいなくても寂しくないよって貸してくれたのよ。本当は自分がさみしいくせにね」
ロッタは眠っているピドーのほっぺたをつついた。
やがてホームにアナスタシアが現れた。いつものゆったりとした白い上着だ。かかとの低い靴でゆっくり歩いて来る。頬の辺りがふっくらしていたが、まだお腹は目立たない。
大きなトランクを抱えたロッタは、ジャックと子供たちにキスして列車に乗った。
白い闇を突きぬけて人影がやって来た。三人だ。軍服のユリウスと若い兵士、階級は曹長だ。後に続くのは初老の男だ。こちらは黒い上着とズボン。白髪交じりの髪をきっちり後ろへ撫でつけ、口髭を生やしている。山高帽を手に持ち、もう片手に四角いカバンを下げていた。敬礼を交わす二人の後ろで、丁寧に頭を下げた。
ユリウスが紹介する。
「部下のコンラート・フライホルトと、僕の家の運転手グスタフ・ノイコムです。我々が同道します」
「ふうん?」
アナスタシアとユリウスには接点がない。彼まで帯同するのは意外だった。顔に出てしまったようだ。
「マックスに頼まれたんですよ。明日は演習の予定があるのに...」
ユリウスは軽く息を吐いた。ちらりと列車を見る。窓が全部閉まっているのを確認した。声が低くなる。
「バロー伯爵はもちろん、シェレンス公爵までですよ? 早く彼女を返そうって言う。今さらでしょう」
もっと早く返せば...と不満がありありだ。
「ま、そりゃなあ...。で、その...父親は...」
「わかりませんよ!」
声がホームに響いた。ユリウスはあわてて首を振った。声を落とす。
「マックスとは電話で話しができました。でもはっきり聞けないですよ。少し落ち込んでいる様子でしたけど、きっと振られたからでしょう」
彼はマクシミリアンが父親ではないと確信しているようだ。
お腹の子の父親は誰なのか。彼女は明言していない。王室が正式な声明を出したとしても、飛び交う憶測は収まるだろうか? やはり彼女を遠ざけるのが賢明だろう。だからこそ軍人を付けて確実にランデスヴァルトへ送り届けるのだ。
汽笛が鳴った。ホームの端にいた駅員が笛を咥えたまま腕時計を見ている。発車時刻が迫っているようだ。
「じゃあ行って来ます」
ユリウス達が乗り込んだ。窓越しに車両を歩いているのが見える。
入れちがいにアナスタシアが乗降口まで戻った。開いたままのドアに手をかけ、ジャックを見下ろす。もう片方の手でお腹をさすっている。風が吹き、顔を隠す。彼女は車両を振り返りながら言った。
「...楽しみ...」
ホームではよく聞き取れなかったが、ユリウスがすごい勢いで振り返るのが見えた。
「何だ?」
「楽しみだと言っただけです」
「そう...ではお大事に、気を付け...」
と言いかけて、ジャックは口をつぐんだ。挨拶のために一度は挙げた手も、所在なく宙を泳ぐ。
アナスタシアの口元はかつてないほど楽しそうだった。まるで舌舐めずりをしているようだ。赤い唇が裂けそうに笑っていた。髪を掻き上げる。瞳もらんらんと光を放つ。黙ったままだ。
不穏な空気を感じたのだろう。マリアがジャックの腕にしがみついた。娘を背後に押しやる。しびれを切らしたジャックの方から尋ねた。
「本当に陛下の子なのか?」
彼女の唇がさらに歪むようにほほ笑んだ。
駅員が笛を吹いた。霧に籠り湿った音だ。汽車が蒸気を吐く。アナスタシアの口が動いた。
「...え?」
唖然とするジャックを尻目に、思い切り扉を閉めた。駅員が確認に来る。彼女は扉の向こうで笑っていた。あわてて客車の前に走る。マリアはそこへ置き去りだ。駅員に怒鳴った。
「ちょっと待て! 列車を止めろ!」
彼はきょとんとしているだけだ。
窓ガラスが下がる。ロッタが笑顔で手を振った。
「すぐ戻るわ。マリア、良い子でね!」
マリアはその場でぽかんとしている。父の剣幕に驚き、声も出ない。
「待てってば! ロッタ、降りろ!」
「え? 何? よく聞こえない」
「降りろ、降りるんだ!」
車輪が回り始めた。ゆっくり列車が動き始める。
ユリウスと兵士が車内で立ったまま敬礼をしている。彼らの表情も少し戸惑っていた。
アナスタシアが客席に戻った。立ったままでロッタの肩に手を置く。
「ロッタ! そいつと離れろ! 次の駅で戻れ!」
「大丈夫よ! ああ、ほら! ピドーが落ちそう!」
ロッタは身を乗り出すように叫んだ。
「もう! これだから男の人って...」
ジャックはあわててピドーを抱きなおした。よく眠っていて体がぐにゃぐにゃだ。片手で小脇に抱えて走った。
「じゃあね!」
手を振るロッタが遠ざかる。
「お客さん、危ない!」
駅員が止めに入る。列車がスピードを上げた。
もう彼女を止める術はなかった。ホームを滑り出し、どんどん加速する。黒い煙を吐き、汽車は北へ向かった。
「お父さん?」
マリアがのろのろと近づく。眉が寄ってしまい、今にも泣きそうだ。ジャックは髪をそっと撫でてやった。
「驚かせてすまないね。大丈夫。お母さんはすぐ戻る」
その場にしゃがみ、同じ目線になる。まだ不安そうな瞳を覗いた。ロッタに良く似た茶色だ。
「ピドーと良い子にしてよう。な」
「...うん」
ジャックは立ち上がり、煙の遠ざかる線路を見つめた。マリアも同じだ。母が離れて行く。子供にとってはただでさえ心細いのに、更に不安がらせてしまった。冷静さを失った原因はアナスタシアだった。
確かに言ったのだ。
...ギデオンは夫なのよ...
それがどういう流れを生み出すのか、ジャックはまだ知らない。
その日、王室から発表があった。アナスタシアの子供について王室は一切関知しないと。
子供と一日過ごし、次の日は仕事だ。久々に宮殿内部の警護だった。午前中は平和に過ぎた。アナスタシアがいなくなっても変わりは何もない。そもそも彼女はあまり出歩いてはいなかったからだ。
広い庭園内は緑が茂り、穏やかに風が吹いている。前国王の死を始めとする一連の悲劇の痕跡などどこにもない。シパクトリのコートは、噴水のある丸い広場になっていた。
昼を告げる大砲が鳴った。
(レイナーに会うか)
食堂へ行く前に詰め所だ。
腰に付けた無線機が唸った。
「中尉! すぐに詰め所に戻って下さい」
ロルフだ。
「何かあったのか?」
「分かりません。フェリックス少佐がいらしてます」
「了解。すぐ行く」
詰め所は遠い。
不安な顔のロルフがドアを開けた。ユリウスが立ち上がる。私服だ。後輩といえども階級は彼の方が上だ。しかし敬礼もそこそこに彼は深々と頭を下げた。
「すみません...先輩、申し訳ない...」
青さを通り越し、頬には色がなかった。
「ユーリ、ランデスヴァルトに行ったのでは?」
どん、と胸が鳴る。
「グレンツェまでは一緒だったのですが...。駅にティーガ族が来ていまして...」
アナスタシアの迎えだ。運転手と曹長だけを残した。ユリウスは演習の責任者である。同族が同道するのならと、とんぼ返りした。
「僕は戻ったばかりですが...連絡が北州軍から来まして...」
「え? 何で北州軍が?」
「詳しい事が分からないんです。まだ速報の段階です」
アナスタシア一行がグレンツェに到着したのは午後遅くだった。北州のはずれでノルン山脈も近い。山の麓にある小さな村だ。一軒だけの宿を予約してあった。アナスタシアとロッタ、フライホルト曹長とノイコムが別れて部屋を取った。小さな宿だ。護衛とはいえ男女四人が同時に泊まれる大きさの部屋は無い。迎えのティーガ族の一行も同じフロアに別の部屋を取った。
異変が起きたのは夜半だ。ざわめきが不意に起こった。就寝中だったノイコムが起きると、曹長の姿は部屋になかった。ぱんぱんと軽い音がした。銃声だ。ドアを開けるなり撃たれて意識が無くなった。
気が付いた時には廊下に倒れていた。傍には顔が血まみれの曹長。既に息はなかった。隣室のドアは開いたまま。アナスタシアとロッタは床で息絶えていた。
ティーガ族の姿は無かったそうだ。
ユリウスの唇は震えている。
「すみません。申し訳ない。こんな...こんな」
咄嗟にジャックは首を振った。
「違う。それはロッタじゃない」
視線が横に泳いだ。そのまま振り返る。礼もせず無言で部屋を出ようとした。あわててロルフが立ちふさがった。押しのけようとしたのか、ジャックが肩に手をかけた。
「中尉!」
それきりロルフは言葉が続かない。口を中途半端に開けたままだ。ジャックとは視線がぶつからない。いくら見上げても、ジャックはドアを通り越した向こう側をみているような眼つきだった。
「先輩」
おそるおそるユリウスが声をかける。
「ノイコムは...入院中です。少しですが電話で話せました。確かなようです...三人は亡くなりました...」
ロルフが唇を噛んだ。うなだれる。針が落ちても響きそうな静けさが室内に満ちる。彼が尋ねた。
「犯人は判明したのですか?」
ユリウスは首を振った。まだ未確定だ。
「分からない。逃げたようだが、おそらく同じ階に宿泊の二人組かと思われる」
のろのろと手を戻す。ようやくジャックは再びユリウスに向き直った。そこに彼がいるのに初めて気が付いたかのような顔だ。腕が小刻みに震えているのにロルフは気が付いた。
「迎えに行く」
ユリウスは首を振った。
「無理です」
「なぜ?」
「北州軍のせいです。立ち入りの規制をかけられました。ヴィプリンガー中佐という奴が責任者です。赴任したばかりの若造が生意気な...。僕は小隊と午後にも向かう予定です」
管轄は違うが、西州の軍人が亡くなっている。立場上、北州に任せっぱなしではいられない。
「先輩は部署が違うので...難しいかと...」
「俺は家族だぞ!」
ユリウスは黙って俯いた。彼にもどうにもできないのだ。それでもジャックは言わずにはいられない。
「じゃあロッタはいつ戻るんだ?」
「まだ...何とも...。その...。現地で...今日中にも火葬にすると連絡が...」
「馬鹿な!」
自分の大声に弾かれたのか。彼はよろめいた。あわててロルフが背中を支える。しかし耐えきれない。ユリウスも手を貸す。二人がかりでジャックを椅子に座らせた。頬は真赤だった。体の震えは隠しようもないほどだ。
両手で顔を覆う。
ロルフとユリウスは顔を見合わせた。言葉が出ない。
しばらくして顔を上げた。頬が少し赤いが、ジャックの声は落ち着いていた。
「じゃあ帰るよ。夕方には子供たちを迎えに行かなくちゃならない。お疲れ様」
何事も無かったように立ち上がる。表情もむしろ穏やかだった。
二人はあっけに取られて見送るだけだった。
その後二、三日はあっという間に過ぎた。しかしジャックの記憶は殆ど残っていない。
一人の夜がやって来る。子供が寝てしまえば、もうする事はない。酒を口にしてみても喉を通らない。あまりに静かなリビングに耐えかねてラジオをつけた。雑音ばかりだ。市内に爆破事件が相次いでいると伝えている。そんなニュースを聞くために調整する気になれない。
マントルピースの上に置いた箱を取り、ソファに座る。箱は手の平よりも小さい。黒いビロードが張ってある。蓋を開けた。中も柔らかい布張りだ。中身は白い糸で束ねられた一房の茶色い髪だ。後に届いたロッタの巻き毛だ。戻ったのはこれだけだった。ユリウスの言葉通りにすぐに火葬された。そして現地で埋葬されたそうだ。他の荷物は調査の為にと押収された。北州軍が保管しているらしい。
箱をそっと両手で包む。何の感慨も無かった。涙も出ない。心のどこかが麻痺しているようだった。まだ子供たちには母親の死を告げていない。ジャック自身が受け止め切れていないのに、どうやって伝えたらいいのか。
箱を戻した。葬儀については全く考えが及んでいない。
壁の写真が眼に止まる。家族の肖像だ。生まれたばかりの子供たちはもちろん、ゴドーと一緒に写った春の日、若いジャックとロッタ。結婚式の色は褪せていない。まだ十年経っていないのだ。
二人の写真で一番古いのは、ジャックが学生時代の一枚だ。知りあうきっかけになったシパクトリの大会だ。ジャックがトロフィーを掲げている傍でロッタが笑っている。
(早く帰って来ないかな)
と、つい考えてしまう自分に少しだけ苦笑した。
ラジオが突然音を止めた。甲高い警報音がなる。
急いでつまみを捻った。はっきりした音声が響く。男の事務的な声だ。
「...臨時ニュースをお知らせいたします。今日の午後から市内視察へ出かけられたマクシミリアン陛下が現在消息不明となっております...」
ジャックは護衛兵ではない。王の行動にも疎かった。行方不明などと知らなかった。
「......先ほどラジオ局及び軍本部に犯行声明が出されました。『赤い虎戦線』と名乗る政治組織とみられます。彼らはティーガ族を始めとする少数民族の権利拡大を求めています。一方、先日暗殺されたティーガ族の女性について、原因を解明し公表するまで国王の身柄を拘束すると一方的に通告してきました。代表者はティーガ族ワシリー・リョードフと名乗っています。軍は彼の身元確認を...」
(リョードフ? 先生と同じじゃないか)
デモで出会ったワシリーはおっとりした雰囲気の若者だった。とても誘拐など荒っぽい行動とは無縁のようだった。
ニュースはさらに暗殺に関する噂についても伝えている。ティーガ族の女性が王の子を妊娠した為に殺された、と。王室は関係を否定しているが『赤い虎戦線』が誤解し、さらに政府側に暗殺されたと疑っている。名前こそ明言していないがアナスタシアだ。
(ロッタも死んだって言わないんだな...。まだ生きているのかな...)
体中が重い。疲れきっているのに、全く眠くない。大変な事態が起きつつあると頭の隅では理解しても、なかなか危機感に変わっていかなかった。思考力のスイッチまで壊れたらしい。
ただいつノーザンベルに戻るか、それともここでロッタを待っていようかと、とりとめもない考えが脳裏を横切るばかりだった。
翌日は非番だった。それでも出動要請だ。警備の手助けが必要らしい。治安維持が手薄になるのは仕方がない。何しろクロイツベルクのあちらこちらで爆破騒ぎが連続している。また役所やラジオ局でも同様の騒ぎだ。『赤い虎戦線』はアナスタシア暗殺の犯人を政府側とし、究明を求めている。
軍と警察による懸命の捜索も続く。まだ国王の所在は掴めていないようだ。
今回の勤務も市中の警備だ。宮殿ではなく、軍の出張所へ赴いた。警察機構と同じ敷地内にあり、留置所も兼ねている。ジャックはその日の警備計画書を手にロビーをうろうろしていた。あくまで応援要員である。邪魔にはされていなくても、あまり歓迎もされていないらしい。勝手が分からないのだ。誰に詳細を聞こうかとしていた。
玄関に緑の装甲車が停まった。窓に格子のはまっている護送車だ。
降ろされるのは皆ティーガ族だ。やはり腕を拘束されている。先日デモをしていた面々だ。一様に硬い表情だ。ワシリーの顔もある。彼はジャックに気が付くと、口を少し開いた。しかし言葉を発する前に、小突かれるように連れて行かれた。
ジャックは茫然と見送るしかなかった。やっと通りがかりの警察官を呼びとめた。
「ちょっといいか? あれは...」
警察官はちらっと玄関を見やった。彼らが通り過ぎるのを待つ。
「どういう事だ? ティーガ族を逮捕?」
「そうであります。ご存じありませんでしたか? 一連のテロはティーガ族の仕業だと判明したのです」
「ああ...ニュースは聞いた。『赤い虎』だな」
「はい。アジトを一斉摘発です。宮殿にいたティーガ族の女が孕んだのを逆恨みしての犯行らしいですね」
ジャックの心臓が鳴った。彼女の口から真実を聞いてはいる。だが世間では、先日の新聞報道にあったように父親はマクシミリアンかと噂されているのだ。
「国王陛下は見つかったか?」
「まだのようです」
さらに護送車が到着した。
両側を軍人に挟まれ、男が連行されて来た。背はあまり高くない。髪が灰色に近い銀色だ。両手は後ろに回されている。ギデオン・リョードフだ。近付いて来る。彼は少しだけ顔を上げた。軍人に敬礼するジャックと眼が合った。少しだけ笑ったようだ。思わずジャックは声を上げた。
「先生!」
一行が立ち止まった。
ジャックは同行の軍人に尋ねた。
「彼と話ができるか? 少しでいい」
敬礼する彼らの階級はジャックより下だ。彼らは顔を見合わせている。
「俺の責任での尋問だ。君らに責任はない」
位に物を言わせる。あまり好きな手法ではないが、これで了解だ。
一同は留置所へ向かった。鉄の扉の向こうに、細い廊下が続く。病院を思わせる白い壁だ。扉も同じ色だ。眼の高さに覗き窓があった。足音や咳が聞こえる。中に人がいるのだ。
リョードフはその一つに入れられた。高い位置にある窓には格子がはまっている。壁際に作り付けのベッド。幅は狭い。枕と、きちんとたたまれた灰色の毛布が乗っている。もう片方の壁には仕切りが付いている。むき出しの便器との仕切りだ。それ以外には何もない。
二人は立ったままで向かいあった。リョードフはにこやかだった。
「お話は何でしょう?」
「なぜ連行されたのです? 罪状は?」
「さっそく尋問ですか。よろしいでしょう。私は捕らわれ人になりました。ロッホネス遺跡の爆発及び第一王子暗殺ですな。あれは私の企みだと判断されたのです」
「誰に?」
「お偉方です。もっとも私を知るほぼ全員がそう判断したようではありますがね」
眼を眇める。
「あなたも...ではないですか?」
見透かされた。ジャックはすぐに返事ができなかった。
「...ディーター殿下は何と仰っているのですか」
「あの方が何か言えましょうか? 宮殿の実質的な勢力者に向かって? 王族の身分はありましょう。しかしどれだけ権限をお持ちなのですか?」
三人兄弟の末弟だ。王になる事もなく、身分の為に職業の自由もない。多少の公務をこなして日々を過ごすだけだ。
「そんな殿下に取り入って...何を...企んでいる?」
「企むなど」
リョードフは首を上に向けた。窓に眼をやる。灰色の空が切り取られているだけだ。彼はベッドに腰掛けた。ジャックに眼を戻す。
「大きな水面がそこにあります。誰も何もしなければ静かなままです。誰かが石を投げ込んだらどうなりましょうか」
「意味が良く分からん」
「水には波紋が広がるのです。水のある限り、延々と波は伝わって行くのです。誰にも止めようがありません」
「...グリンクラフトに...この国に石を投げ込んだというのか?」
一連の王家と王家にまつわる死。頻発するテロ。グリンクラフトは大きく揺れようとしている。
「グリンクラフトという湖を前に、私は石を用意しただけです。ディーター殿下からお招きを受けた時がチャンスだったのです。ティーガとグリンクラフトは対等になれるでしょう」
アナスタシアがロッタに語った理想と同じだ。
「投げたのは誰だ?」
「誰が投げようとも石は石。大した違いはありません。重要なのは、それがもう起きているという事実なのです」
波紋は広がり続ける。これからも混乱は収まらないのだろう。
「じゃあ別の質問だ。アナスタシアの子供...。父親はおまえだな?」
いきなりの直球だ。銀色の眼が見開いた。眉が跳ねあがったが、すぐに戻った。リョードフはうっすら笑った。
「そう、私たちは夫婦です」
やはり彼女の言葉は本当だった。
「なぜ親子と嘘をついた?」
「年が離れております。我々はただでさえ耳目を集めてしまいます。だから余計な詮索をされずに済むと思ったのですよ」
「マクシミリアン陛下に近づける為では?」
「いいえ。私は妻を愛しております」
リョードフの眼が細くなった。肩頬が歪む。下卑た笑顔だ。
「そうそう、あなたの奥さまは残念でしたな」
同情も憐憫も無かった。むしろ嘲笑だった。妻と生まれる前の子供を失った男の言葉に、ジャックの背筋に寒気が走った。彼女に同行したからこそロッタは命を落としたのに、まるで笑い話のようだ。
「...犯人を知っているのか...?」
「さあ。私は知りません」
「おまえ!」
ついにジャックは怒鳴った。
「女房と子供が殺されたんだろう! どうしてそんなに平気な顔をしていられる?」
一瞬老人の肩が震えた。しかし怒りや悲しみではなく、現れたのは笑いだった。彼は喉の奥でしばらく笑っていた。
「失礼。アナスタシアはその波に自ら飲まれたのです。殺されるのが運命だったのです。本望でしょう。我々の一族は破滅の道をただ歩むのみです。そう、私の用意した石の名は『破滅』です。彼女は理解しておりました。全て承知の上でこちらへ赴いたのです」
「殺されるのが役目だったとでも...?」
妊娠し、マクシミリアンの子だと噂を流す。グリンクラフトからは反発を招く。犯人は不明だが、暗殺された事によりティーガ族との対立が深まる。
「犯人は誰だ? 何を企んでいる?」
リョードフは目を閉じた。
返事はない。彼は、もうどんな質問にも答える気はなさそうだった。
ドアの外では兵士が待っていた。視線が泳いでいる。唇の色が薄い。会話が聞こえていたようだ。彼にとっては全く理解ができなかったようだ。
「忘れろ」
ジャックは彼の肩を軽く叩いた。
仕事への意欲などとうに失せていた。
のろのろと廊下を進む。内部からドアをガンガンと叩く音や、怒声もする。異国の響きは拘束されたティーガの若者たちだろう。
その晩、リョードフは拘置所で死んだ。窓の格子にシーツを結び付けての自死だった。遺書は無かったらしい。
ジャックはついに退役願いを提出した。だが北州へは行けなかった。王の所在不明の為だ。戒厳令が発令され、市民の移動は制限を受ける事になった。
そこからは、社会情勢が嵐となって動く。
すぐに新たな法令が制定された。州議会に一定の議席を持たない民族は、居住地を出身地へ限るとの内容だ。ただし外国籍の者を除くとある。つまり少数民族の居住地と移動を禁じる内容だ。
また留学や外国から仕事で駐在した場合は当法令の対象外となる。ジャックのように帰化した場合は、異民族ではあるが国籍がグリンクラフト国だからやはり対象にはならない。
対してティーガ族は北州の一部族だ。戸籍はグリンクラフトだが州の議員はいない。明らかに彼らを排除する法令だった。こんな法律がまかり通るのはグリンクラフトの議会制度のせいだ。実質的には王に最終決定権がある。王が居ない今、王室に縁の深いバロー伯爵のごり押しがあったのだろう。
(ティーガの血を引いてるなんて軍に知られたら、ややこしくなるかもな)
曾祖母がティーガ族だったとは両親から聞いてはいた。しかし家庭にはティーガの文化はかけらもなく、意識した事すらない。黙っていた方が得策のようだ。
マクシミリアンは依然として見つからない。バロー伯爵は何度も北州軍へ捜索を働きかけた。もしやランデスヴァルトへ拉致されたのではとの疑いだ。しかし捜査中との返事ばかり。グランツェ事件の犯人も不明のままだ。
ついにしびれを切らし、西州軍が北へ移動した。先に派遣されていたユリウスの小隊と合流だ。同じ国内とはいえお互いの領域を侵したのだ。一気に緊張が高まった。
それを緩和する為なのだろう。空位だった王太子にハンス・ヨアヒムを据えるとも発表された。長兄アーノルドの長男だ。初めて写真が公開された。栗色の髪と瞳だ。継承権の取得できる十五歳には満たない上に、シェレンス公爵をはじめとする勢力の独断だった。だが大きな反発は起きなかった。この時点でマクシミリアンの子供はいないのだから、順当ではある。
そんな中、拘束中のティーガ族に死刑が宣告された。罪状は国家転覆罪および国王誘拐だ。裁判は非公開で、審議は数分で終わったらしい。
そして今度はバローが動いた。ディーターの即位を突然発表したのである。王の空位を避ける為だ。後になってから摂政を立てる案をシェレンス側が出したものの、議会は耳を貸さなかった。バロー側が優勢なのだ。反対派からは『姪のテレジアを王妃にする為』と陰口をたたかれても、決定は揺るがなかった。
世論は二つに割れた。マクシミリアンを探し続けるべきという意見と、バローの決定に従おうとする側だ。
抗議する人々が王宮前に集まった。悪い事には、どちらの支持派も居たのだ。小競り合いが起きる。騒ぎを聞きつけてさらに人数が増える。トラブルは大きくなる。
遂に暴力を伴う騒乱が勃発した。警察では対処できず、軍が介入した。幸い死者はでなかった。
シェレンスは、バローの独断による騒乱だと主張。自分の息のかかった部隊を市内要所に配置した。対抗するバローの軍勢と睨みあいになる。
首都がその状態だ。国内は一気に緊張し、一触即発の状態に陥った。
風の強い晩だった。ガラスに細かい雨粒が叩きつけられては散る。
呼び鈴が鳴った。ドア横の窓から覗くと、レイナーだ。上着のポケットに手を突っ込んで立っている。傍らにはハイケがいた。
ドアが開くなり、ジャックを押しのけるようにハイケを中に入れた。濃い茶色の巻き毛の女性だ。目を伏せ深々とて唇を固く引きしめていた。黙って頭を下げる。ロッタの同僚でもあった女性だ。下手な慰めを言わなくても哀悼の気持ちが伝わってくる。ジャックはまた心が痛くなった。かなりの努力を必要として笑顔を浮かべた。
レイナーが片手だけ挙げて挨拶する。
「どうした? まあ座れよ」
二人は顔を見合わせた。立ったままでレイナーが口を開く。
「子供たちは?」
「もう寝てるよ」
また二人は目配せをした。
「旦那。明日、大変な騒ぎになる。ハイケが聞いたんだ」
彼女は口を開きかけた。だがジャックと目が合うと、下を向く。そんな彼女を見てレイナーが続ける。
「旦那に軍から逮捕状が出る」
「なに?」
「旦那だけじゃない。シェレンス派の軍人達に研究所の連中、シュルツもだ」
軍人は対抗勢力を削る為だろうが、ジャックは退役済みだ。
「罪状は?」
「くだらない事さ。ティーガ族と通じてたってんだ。コーエン物流の社長はもう連行された」
「何故? 王宮御用達の物流会社じゃないか?」
「奥方がティーガ族だとさ。上級幹部もティーガの血筋がいるかもしれないってんで逮捕された。そもそも、もう解雇されたとさ。さっさとカーク商会が買収を決めた。これでめでたく全国掌握だな」
心臓が嫌な音を立てた。ジャックがデモで同道したのには、たくさんの目撃者がいるだろう。少し言葉を交わしただけだ。嫌な汗が浮く。額をこすった。
「意味が分からない。シュルツなんか、どう関係があるってんだ?」
「全くだ」
「いや...。ああ、そういえば」
ティーガ族のデモ隊は王城に入った。シュルツは同じ処にいて目撃しているはずだ。見てはまずかったのか。或いは彼は遺跡の幽霊に食事を供していた。それがばれたのか。
窓の外を車が過ぎて行った。目映いライトが不意に消えたようだ。窓の外は暗い。
人差し指を唇に当てた。ジャックはカーテンを少しだけ持ち上げる。エンジン音がした。通り過ぎたはずの車がライトを消したままゆっくり戻って来る。
「レイナー、すぐ裏手から出ろ。おかしいぞ」
逮捕状が予定より早く執行されるのか。
あっち、とドアを示す。ハイケがレイナーの腕にしがみついた。いつの間にかすっかり仲良くなったらしい。彼らはデートをしたのだろうか? ジャックは少しだけおかしかった。
行きかけたレイナーが振り返る。
「旦那は?」
車は家の斜め前に止まった。暗くてよく分からないが、誰かが下りて来る。ドアが閉まったようだ。音を立てないようにしている。
「ここは俺の家だ。お出迎えするさ。いいから行け」
ハイケが囁くように言った。
「子供たちを連れて行きましょうか?」
「やめろ。早く行け」
逮捕される者の家にいては立場がまずくなる。ジャックの手が追い払うかのように動いた。緊迫感の現れだ。
呼び鈴が鳴った。彼女の細い体がびくっと跳ねる。
「...ありがとう」
ジャックは笑った。また手を振る。
再び呼び鈴が鳴った。灯りは点いている。居留守は無理だろう。
二人が身を翻した。裏口に向かって消えたのを確認してからドアを開けた。
制服のロルフだった。ジャックに敬礼をする。頬がこわばっているようだ。
「夜分恐れ入ります、中尉」
「もう退役したよ。仕事中か? お疲れさん。何か用事でも?」
懸命に普通の声音を出せるように意識していた。体全体で戸口を塞ぐ。そんなジャックを見上げたロルフの眉が歪んだ。
「仕事の方はどうだ? 相変わらず宮殿の警護か?」
「中尉...」
「今年の天気は全くおかしいよな。そう思わんか?」
がたん。
背後でドアが開く。ピドーが泣いている。ぎょっとして振り返った。
目をこすっているマリアはハイケと手を繋いでいた。上着を着せてもらっている。起こされてぐずっているのは、レイナーに抱かれたピドーだ。こちらは毛布にくるまれている。彼らを玄関に連れて来たのは兵士だった。
ロルフが大きく息を吐いた。
「そちらは?」
兵士が答えた。
「食堂のマーティンさんとハイケさん。裏から出ようとしていたのでお連れしたよ」
「ああ良かった。探していたんです」
やっとロルフの緊張が解けた。いつもの人懐こい表情に戻る。
「ハイケさんにも逮捕状が出るようですね。聞きましたか?」
ジャックは返事をしなかった。
「全員すぐに来て下さい」
「子供たちは関係ない」
「時間がありません。避難のお手伝いに来たんです」
兵士が子供たちを押す。反射的にジャックが怒鳴った。
「触るな!」
マリアが身を震わせた。ハイケの手を振りほどき、ジャックに駆け寄る。抱き上げられると肩に顔をうずめた。
ロルフがリビングを覗きこんだ。
「...素敵なお家ですね...。でも、おそらくもう戻れません...」
がっくりと肩を落とす。
「僕もこのままで出て来ました...。中尉、お願いです。とにかく来て下さい。話は後で。僕らは味方です。信じて下さい」
いやいやをするようにピドーが身をくねらす。呻くように泣いた。レイナーが揺すってやる。背中を何度か軽く叩かれ、少し落ち着いたようだ。口をもごもごさせながら黙った。レイナーの腕の中で身を丸くしている。
軍人が二人。通常の装備だ。腰のホルスターから銃がのぞく。もう逃れようがないのだ。
「...分かった。支度をする」
マリアを抱いたままで中へ入った。大急ぎで鞄に荷物を詰め込む。あるだけの現金や、当面に必要な着替え程度しか持てない。ロッタの遺髪をまず詰めた。リビングの写真を手当たり次第にはずして押し込む。
「行くよ」
ロルフは頷いた。
「こちらへ」
雨が吹き付ける。
裏手へ回ると幌を張ったトラックが停まっている。軍の車両だ。ロルフに促されて幌をめくる。暗がりで人陰が動いた。
「ジャック! 早く乗れ」
クリストだった。ゴドーの工房で働いていた調香師だ。傍らには妻と子供もいる。
「え? あなた方も?」
一行が乗り込むと、ロルフが幌を閉めた。
「では行きます」
車はすぐに発車した。転がらないようにピドーを足の間に挟んで寝かせて、マリアを膝に抱いた。
久々の再会だが、挨拶もそこそこに尋ねた。
「どういう事ですか?」
「粛清だとさ。俺もさっきハンナに教えてもらったよ」
ほぼ真っ暗だ。クリストの表情は分からない。声が震えているのは寒いからか、憤りなのか。
「アーノルド陛下が亡くなったのは、アルカロイド系の毒を盛られたからだと。エフェレット工房から持ち出されたトリカブトのせいらしい」
ゴドーは知っていて、罪の意識により自ら毒をあおって自殺した...というストーリーが作られたらしい。よってそこで働いていたクリストも同罪。
(ヨハンは犯人を知っていたのか? それで消された...? 義父さんは犯人の目星がついていたのか?)
スコップを持った何者かが温室を訪れた際、居合わせたのはヨハンとピドーだ。改めて慄然とする。幼さが幸いしたのだ。誰なのかをはっきり言えたなら、おそらくピドーも無事では無かったかもしれない。
「ハイケは? どうして?」
「私...幽霊を見ちゃったから...」
食堂棟の厨房では、いつも一人分だけ料理が取り分けられている。専用のバスケットがあるのだ。それは一日に一回いつの間にかどこかに消えて、また戻る。それについては誰もが見ていないふりだ。気になったハイケは、ある日ずっと視界の端に入れていた。太陽が落ちて暗くなる頃、持ち出すのはハンナだった。リョードフ親子が来てからは、アナスタシアの時もあった。バスケットは裏口から柵の向こうへ運ばれていく。
後をつけているのをハンナに見つかってしまった。その時は帰るように言われただけだった。どこの誰に運んでいるのかなど聞けるはずもない。また、行方不明直前のマクシミリアンを目撃している。後になってハンナから何も言わないように釘を刺された。
そして逮捕の情報である。
レイナーが言った。
「ぞっとしないな。やっぱりロッホネスの遺跡の幽霊は食事をなさる」
黙って俯くハイケの手を握る。
「彼女の親戚が北州にいる。一人じゃ行かせられないからな」
レイナーは彼女の為に家を離れた。
ジャックはゴドーの家族である事と、やはりデモについて行ったのが見られていたそうだ。研究所もゴドーに近いと思われ潰される。
シェレンスの息がかかった軍人たちは言うまでもない。
「シュルツはどうしたんです? やはりティーガの目撃者として逮捕?」
クリストは軽く笑った。
「違う違う。とっくに脱出済みなんだ。金髪で青い目の息子を避難させる為だと。笑わせてくれるよ。結婚もしていないのになあ。シェレンス公爵が遅摘み酒を北州へ連れて行かせたんだ。その父親役にされたそうだ」
ハンス・ヨアヒムをシュルツの息子にして連れ出したらしい。もちろん二人きりではなく、護衛が付いたのだろう。それに北州にはすでにユリウスの部隊が駐留中だ。シュルツは万が一の囮となって別行動だったそうだ。
「よくあのシュルツが承知したなあ。面倒ごとは嫌いかと思っていたよ」
クリストは首を振る。
「いや、彼はああ見えて筋が通らない事が大嫌いな頑固者だよ」
彼は誰にでも不愛想で本音を吐かないだけだ。王の子供を双子だからいう理不尽な理由で葬るのを良しとせず、ハンナと共に育てた。リョードフ夫妻が初めて食堂へ訪れた時も、ちゃんと席を勧めていた。あまりに素っ気なくて厚意は伝わらなかったが。
彼なりに国の状況が納得できなかったのだろう。だからシェレンスの策に乗ったのか。脱出は首尾よく敢行された。それで現在は西州にハンス・ヨアヒムがいない。王太子として発表された写真は別人だという。
「その情報もハイケから?」
「いや、ハンナだ。こんな馬鹿な事あるかって。みんな逃げろとさ。家族だってどうなるか分からない」
ハンナは逮捕を免れるようだ。息子の妻がバローの娘だからだ。しかし、情報を漏らしたら無事で済むのか。もはや宮中に居場所はないだろう。
「明日の朝、ティーガの連中が処刑されるそうだ。次はこっちの番。だから急いだ」
ジャックの喉が鳴った。ワシリーの顔が浮かぶ。戸惑いと同時に都会へ出て来た高揚感、留置場での怖れ...。言葉が出ない。思わずマリアを抱きしめた。自分たちの逮捕も、おそらく重罪を意味する。脱出するしかないのだ。
トラックが停まった。ロルフが幌をめくる。
「中尉! お願いします。ルパートさんを連れて来てもらえますか? 僕は別のお宅へ伺います」
軍人たちは動かせる車両がある。手分けをして市内を巡っているそうだ。電話だと盗聴の危険がある。それで人海戦術だ。
トラックはボリス・ルパートの家に到着した。子供たちをレイナーとハイケに託して呼び鈴を押す。
玄関に出て来たのはボリスだった。手短に経緯を話すと、首をかしげる。
「同じ国の人間に対して、そんなにひどい仕打ちをするとは思えません」
「ティーガ族はどうだ? 人種は違うかもしれない。でも同じ国民じゃないのか? 罪状もはっきりしないうちに死刑だ。俺は外国人だとしてもハイケはどうだ? グリンクラフト人じゃないか」
「そうですが...。誰かがハンナさんの名前を使って、偽の情報をばらまいているかもしれないでしょう? 逃亡させてのっぴきならない状況を作らせる可能性だってあります」
「クリストさんが直接聞いたそうだ。ロルフやレイナーも来てるんだぞ」
「信じるに足る確証はあるのですか?」
学者だけあって理路整然と反論する。突然の変化に納得がいかないのだろう。ジャックにしても状況の急変に戸惑うばかりだ。
「じゃあ行かないと言うのか?」
「もちろんです」
奥の部屋からボリスの妻と息子が顔を出した。二人の会話が気になったようだ。息子はまだ母親の肩ほどの身長だ。ジャックとは初対面だった。
「大丈夫だ。戻っていなさい」
父親の言葉に息子は首を振った。
「父さん。僕は行きたい」
「不確定な情報で踊らされるのか? そんな教育をした覚えはない」
「そんな事を言っている場合じゃない。お父さんも分かっているはずだ。軍は人民に銃を向けたじゃないか」
ボリスの妻が身を翻す。奥へ走った。
レイナーが駆けて来た。開いたままのドアをなおざりにノックする。無言の室内に少しひるんだ様子だ。
「どうした? 運転手が急げって。時間が迫っているらしいぞ」
「我々は行かない」
ボリスは背中を向けてしまった。こころなしか肩が震えているようだった。
「イーブ! さあ行きなさい」
ボリスの妻が戻った。小さなカバンと上着を携えている。息子に押し付けるように渡すと、背中を押した。
「何もなければ戻ればいいの」
「しかし」
「あなた! 昨今の情勢をご存じでしょう! それでも納得できないと?」
彼女は夫と息子の間に立ちふさがった。
「イーブは逃げるんじゃない、いっとき避難するだけです。私はあなたと義母さんと一緒に残ります」
ボリスは大きくため息をついた。ジャックに向き直り、もう一度息を吐く。
「...母が病気で動けないのです。我々は行きません。中尉を信じましょう。息子を...イーブを預けます。約束していただけますか? きっと無事に帰すと」
イーブは強い目でジャックを見つめた。ボリスに良く似た瞳だった。
「分かった。頼もしそうな息子さんだ。初めまして」
少しだけボリス夫妻がほほ笑む。
おずおずと少年が手を差し出した。
「イーブ・ルパートです。よろしくお願いします。お話しは父から伺っています」
二人が握手を交わす。イーブの手はまだ幼い柔らかさだ。マリアやピドーと大して変わらない。
「じゃあ、またな」
閉まるドアの向こうでルパート夫妻は寄り添って立っていた。
ジャックは呟いた。
「女ってのは強いな」
行動力がある。こうと決めたら迷わないのか。ロッタもそうだった。
(...もうロッタはいないんだ)
改めて思う。
(こいつらを俺が守らなくちゃならないんだ)
もう家族を失いたくない。
荷台でピドーは眠ったままだった。戻ったジャックにマリアが抱きついてくる。真夜中にも関わらず、すっかり目が冴えてしまったようだ。
またピドーを挟んで座る。隣にイーブが来た。知らない人ばかりなので少し怖気づいたようだ。車内は無言になった。
幌に雨が打ち付ける音ばかり響く。時々車体が跳ねた。いつしかマリアはうとうとしている。イーブが肩にもたれてきた。緊張が切れたのか。しかしあわてて起き直った。
「す、すみませんっ」
「いいよ。俺の体はでかくて寄り掛かりやすいだろう」
イーブは少し困った顔で俯いた。照れているようだ。父と同じで真面目な性格らしい。ジャックは少年の肩を軽く叩いた。
「休んでいるといい。先は長いんだ」
「はい」
しかし硬い表情と姿勢は変わらない。
「どこへ行くのでしょうか」
ジャックにも分からない。だが無理に笑顔を浮かべる。
「...安全な場所だよ。大丈夫だ。少し落ち着いたらきっと戻れる」
警笛が三度鳴った。トラックが停まった。ざわめきが聞こえる。かなりの人数がいるようだ。
「到着です。降りて!」
運転手が幌をめくった。水の音が耳を打つ。重油の臭いだ。幌の隙間から白い光が差し込む。ジャックは目を細めた。軍用のトラックや車両が数台停車している。コーエン物流のトラックもあった。幹部は逮捕されたはずだ。配下の主だった者たちは逮捕を逃れる為に動いたか。新しいトップの意向なのか。
マイン川の支流の一つブロイアー川だ。丘のような蒸気船が煙を吐いている。灯りは最低限に落としてあるが、船名が読み取れた。
『カーク商会 一号』
川岸から板が渡されていた。数人の軍人が先導する。甲板に人影が立っている。黒い合羽をすっぽりかぶり、まるで影のようだ。フードを深く下げて顔は見えない。尖った顎だけのぞく。風が服をなぶる。体の線は細いようだ。しっかり組んだ指は骨ばって皺だらけだ。ジャックの視線に気が付くと、軽く頭を下げた。その動作は隙がない。表情が分からないながらも慇懃無礼な雰囲気を感じた。
眠っている子供たちを手分けして降ろした。
今またトラックが停車する。女性や子供が降りて来る。おそらくは逮捕状の出た軍人の家族なのだろう。
ロルフの姿はなかった。誰かを迎えに行っているのだろう。
「来たか」
背後から声を掛けられ、ぎょっとして振り返った。暗闇から抜け出すように現れたのは、にこにこしているカルバート将軍だった。思わず敬礼しかけるのを両手で制した。眠っている子供たちを覗きこむ。ピドーの丸い頬をしなびた指が突いた。雨がかからないよう毛布を直してやる。
「突然で悪かったね。でも急ぐ必要がある。聞いたかね?」
「大体は...」
「結構!」
後ろに手を組み、空を見上げた。雨が顔に降りかかる。カルバートはしばらく動かなかった。やがて眉をしかめて首を振った。
「ダグラス・カークは古い知り合いなんだ。まっとうな感覚の男でね。コーエン物流を買収したのだって、従業員の生活を守る為なんだ」
「そうなんですか...」
「レクトンまでノンストップで送ってくれるよ。しかし随分と古い船を持ちだして来たもんだ」
「何が起きるんですか?」
「...大騒ぎさ」
カルバートは船を示した。甲板の男に軽く手を振った。彼も深々と礼を返す。
「彼は?」
「うん。これから世話になる男さ。カークの腹心だよ。信用できる奴だ。さ、もう出港するよ。子供らも冷える。早く乗りなさい。我々はもう一働きしてから追いかけるよ。また会おう」
先に行ったレイナーが手招きする。その背でマリアが眠っている。
「旦那! 早く」
雨が激しくなった。ジャックは敬礼してから身を翻した。どんどん、と足元で板が鳴る。水面は降りしきる水で泡立ち、黒く渦を巻く。ピドーの毛布をもう一度直した。もう片手でイーブの背中に手を添えた。
甲板には誰もいない。雨を避け、そして人目につかないように内部の船室へ降りるのだ。木の螺旋階段を降りると、ロビーのような造りになっている。壁際には作り付けのベンチ。ある者は座りこんで頭を抱え、ある者はただ立ち尽くす。丸窓が並び、町明かりを映す。やっと足元が見えるほどの灯りしか付いていない。言葉は殆どない。薄暗い中、みんな亡霊のようだった。イーブも所在なさそうに立っている。
景色が動いた。ゆったりと船が動き始める。ガラスに水が涙となって流れた。
レイナーがマリアをベンチに寝かせた。自分の上着をかけてやる。
「ありがとう」
「いや。...これからどうするかな」
職場も家も、家族さえも遠くなる。レイナーはそれでもハイケを選んだ。彼女は壁にもたれてぼんやりしている。
「頑張るさ。落ち着いたら、また美味いパイを焼いてやるよ」
「ああ。楽しみにしている」
お互いに守るものがある。前を向いて進むしかない。
レイナーはハイケに寄り添った。二人で流れる窓の外を眺める。
腕の中でピドーが動いた。身をよじっている。彼は起きていた。
「ピドー?」
はっきりと目を開く。
「おうちは? 僕のウサギは? 母さんは?」
まるで睨みつけるように去りゆく風景を眺めている。浮かんでいるのは怒りの表情だった。
ジャックはただ抱きしめるしかなかった。
ランデスヴァルトで惨劇が起きたのは二日後だった。
ツヅク! 次回 第八話 再会の町ゲルシュニアウプ、そして王宮
ピドー、だから大人の言う事を聞きなさいってのに!
お読みいただきありがとうございます。
長かった過去編、いったん終了です。
あくまでジャックから見た状況ですね。。。
そして アレ? 登場しない? と気が付いた鋭い方々へ。
次回の冒頭で、ピドーが疑問を浮かべています。
でもまだジャック自身も よく分かっていないのです。




