第七話 中 過去の町 クロイツベルク
アーノルド王の突然の訃報。
ゲーム「シパクトリ」に伸びる不穏。
ロッタの父ゴドーの選択は?
第七話 中 過去の町 クロイツベルク
ノルン山脈は紫色にけむっている。空の青さは濃く、地上の木々はうんざりと枝葉を垂れていた。雨の少ない夏だ。温暖なクロイツベルクだが、その年は太陽の光がいつも以上に強いようだった。
工房に子供を迎えに行くのは、相変わらずエフェレット夫婦の日課だった。だがマリアはまもなく学校に上がる。工房に預けられるよりも、同じ年の子達が通う保育所へ行くようになった。ピドーはきょうだいで過ごしたがるのだが、工房も大好きだ。たびたび一人で工房へ行っていた。
様々な瓶の並ぶ工房も好きだが、温室もお気に入りだ。ジャックが迎えに行った時は、工房で黄色がかった白い花を振り回していた。花弁は十センチほどで、漏斗のような形だ。それをラッパに見立てて口に当てたりしている。
「お父さん、花。温室のもらった」
「へえ、誰に?」
ピドーが答える前にヨハンが声をかけた。
「あれ、ピドー! それ!」
小さい悲鳴を上げた。あわてて小さな手から花をもぎ取る。
「手を洗っておいで」
「何で!」
ピドーは頬を膨らませる。花はいきなりごみ箱行きだ。だが、ヨハンは優しく言い聞かせた。
「ピンクダチュラだよ。毒があるんだ。食べたりすると、お腹が痛い痛いになっちゃうよ」
ナス科の植物で、キダチチョウセンアサガオだ。きれいな花を咲かせ、観賞用であると同時に薬草でもある。アルカロイドの一種を含んでいるのだ。副交感神経に作用する。多く摂取すると幻覚やおう吐の症状が現れる。高熱を発し、最悪の場合は死に至る。触ったくらいでは大丈夫だが、子供の事だ。何かの拍子に口に入れてしまうかもしれない。
有毒だと聞いて、ピドーは急いで洗面所へ向かった。ジャックはやれやれと首を振った。
「ありがとう」
「いいえ。温室には色々な植物がありますからね」
ピドーが戻った。手をズボンで拭いている。ジャックはハンカチを渡した。
「ピドー、誰にもらったって?」
「女のひとが来た。温室にスコップ持って」
「スコップ? 何を掘った?」
「知らない」
ジャックとヨハンは顔を見合わせた。温室には工房同様、鍵をかけていない。王宮の敷地内にあるのだから、不審者は門でチェックされて入れないはずだからだ。
「知っている人か?」
「おっきな帽子かぶってた」
当時のピドーは六歳だ。話が要領を得ない。
「爺ちゃんはどうした? 温室か?」
「どっか行ったよ」
日が長くなった。窓の外はまだ明るい。風もない。ただ湖から立ち上る湿気がこもり、西日にあぶられた空気が淀んでいる。
丘の上に一斉に灯りがともった。王宮だ。まばゆいほどだった。ジャックは眉をひそめた。外に走り出る。ヨハンが戸口から覗いた。
「どうしました?」
「おかしい。あんなに明るくするなんて。何かあったか?」
工房内で電話が鳴った。ヨハンが取るより早くピドーが手を伸ばす。受話器を取るなり、腕をいっぱいに伸ばして耳から離した。きんきんと響くのはロッタの声だ。
「えーと、あの、あの」
受話器を持ったままで振り返る。
「お父さん、お母さんが怒っている」
ジャックが出ると、ロッタの声が低くなった。押し殺した調子になる。感情を無理やりおさえているのか、語尾が震える。
「まだいたのね。早くピドーを連れて帰って。マリアも迎えに行かないといけないわね。悪いけど急いでもらえる? そこに誰かいるかしら?」
「ヨハンとピドーだけだ」
一層、妻の声が小さくなった。
「アーノルド陛下が倒れられたの。侍医たちが招集されたわ。まだ詳しい事は分からないんだけど...」
消えて行く言葉に、切迫した状況を感じる。
「分かった。こっちは任せろ」
「...頼んだわ。ありがとう」
少しだけロッタは安心したようだった。
ヨハンとピドーが不安げに立ちすくんでいた。開いたままのドアから風が吹き込み、夜の湿気が彼らを包む。
翌日の研究室。いつものように仕事が始まる。
引き戸が開く。同僚のボリス・ルパートが顔を出した。白衣だ。彼には階級はない。あくまで研究所の職員だ。きっちり撫でつけた髪と、やや太すぎる黒ぶちの眼鏡がいかにも学者らしい。一応はジャックの部下なのだが、少し年上だ。漂う酸っぱい匂いに眉をひそめる。
「中尉、面会です。応接室へどうぞ」
「おう。ちょっと片付けてから行く」
ジャックはアルコールランプの火を止めた。ボリスは窓を開けた。
「何ですか? また魚を発酵させているわけじゃないですよね? 実験の名を借りて夜食を作ろうなどと。三日ほど臭いが籠って大変でしたよ」
「いや、あれは保存食の研究としてだね...。今度も、ちゃんとした実験だよ。煙幕を作ろうかと思っているんだ。カカオ風味でね。香料の抽出がなかなか難しいんだ。混ぜる割合も色々変えてみているんだよ」
「カカオ? この臭いは違うようですが?」
上司への遠慮があるようだ。言葉を濁す。ジャックは苦笑した。
「う~ん、アルコールと間違えて酢酸を投入してしまったらしい」
ボリスは眉を跳ね上げた。
「それはいけませんね。鼻は大丈夫ですか? そもそも瓶が紛らわしいのかな。間違えた要因を排除しないと」
さっさと薬品の保管棚に向き直る。一つ一つの瓶を手に取ってラベルを確認だ。その背中に声をかける。
「頑張れよ」
ジャックは肩をすくめて席を立った。
応接室に入るなり、そのまま回れ右をしたくなった。そんな気持ちを押し殺し、無表情に敬礼をする。こちらも固い表情のままユリウス・フォン・フェリックスが敬礼とも挙手ともつかない礼を返した。彼はソファの横に立っていた。柔らかな座面に座っているのはカルバート・フォン・フェリックス将軍だった。たかだか中尉に面会の為に来るとは、ただ事ではない。
「御苦労さん」
こちらはおだやかな顔だ。
ユリウスが口を開いた。
「お久しぶりです」
カルバートは少し眉をしかめた。
「ちょっと確かめたい事があるんだよ。ここには色々な薬品があるよね?」
「はい」
「保管と管理はどうなっている?」
ジャックは、眼光鋭い将軍を見た。質問の意図が不明だ。
「内容によって保管状態が違います」
一般の薬品...例えば酢酸やエタノール、精製水など人体への影響が少ない物は、研究所室内に並んでいる。誰でも入室可能な持ち出せる場所にある。
「劇薬などは?」
「地下の別室です。棚及び出入り口にも施錠してあります。週に三回、数量の確認を行い在庫表に記入します」
「鍵の管理は?」
「主に私です。私が不在の日は職員のボリス・ルパートが担当します」
カルバートとフェリックスは顔を見合わせた。
「在庫表を見せてもらえるかな?」
「どうぞ。研究室にあります」
ジャックがドアを開けた。カルバートは座ったままだ。ユリウスが先に廊下に出る。ドアを閉めるなり、彼は大きく息を吐いた。
「あー、やれやれ。肩が凝る。まさか将軍閣下が着いて来られるとは...」
「伯父さんじゃないか。何があったんだ?」
「まだ分からないんですよ、先輩。...それにしても」
と、ジャックを見上げる。口元に手をやっているのは、笑いをこらえているようだ。
「また太ったんじゃないですか? シパクトリは続けてないでしょう? 大学時代の颯爽とした北の白鬼も、今は冬眠前の熊って感じかな」
自分も丸っこい体格なのだが、それは棚に上げての発言だ。ジャックは苦笑いだ。
「うぅ~ん、ロッタが料理上手なんだ。レイナーのご飯も美味しくてなあ...」
二人は研究室に向った。短い時間ながら大学の思い出話になる。
「にぎやかな校風でしたね。マックスと同じ学校へ行きたい気持ちもあったんですけど」
「マクシミリアン殿下と同い年だったっけ?」
「ええ。幼なじみですよ。まあ...でも市民も通う学校へ進学して良かったと思いますよ。視野が広くなったと思いますし。伯父の勧めは間違ってなかった」
貴族をはじめとする上流階級の子弟は、ほぼ一定の大学へ進む。同じような階級が集まる。マクシミリアンは当然そちらだ。ユリウスは伯父の勧めで公立の大学へ進んだ。彼の両親は共に早く亡くなった。その為、母の兄カルバートが後見人だ。ユリウスは大学卒業後、士官学校に入り直して上級軍人となった。
またジャックは故郷で大学を卒業した後、グリンクラフトへやって来た。ユリウスの一つ上の学年だが年齢はかなり上になる。さらにシパクトリのサークルで一緒だった。だから軍の階級にも関わらず、二人きりならユリウスが敬語になる。
「この宮殿にもシパクトリのコートがありますよ」
「ああ、知っている。五連覇した後、御前試合をした。今でもそこは使われているらしいじゃないか」
「ええ、アーノルド陛下はお好きみたいです。僕も卒業後はさっぱりですけどね。何せ学生最後の大会はロッタさんにも負けたし...。ショックでしたよ。シパクトリ界のアイドルだったのに」
「それに負けたんじゃなあ。ショックだろう」
「違いますよ。皆の憧れの女性がシロクマと結婚したからです!」
「あ...そう...」
やがて研究室に着いた。
ボリスはまだ棚を点検中だ。不審そうな視線に頷いてみせた。ジャックは机の一つから在庫表を出した。表にはきっちりと数字が書き込んである。ユリウスが覗く。
「ヒ素...シアン化カリウム...硝酸タリウム...。ホスフィン?」
「リン酸化合物だ。農薬に使う」
「殺人ガスにも?」
「まあな。ここは医療機関ってわけじゃない」
名目は兵器の開発機関である。兵器としてのガス開発用の薬品が揃っている。
「保管庫も見せてもらえますか」
「了解」
ボリスが手を止めた。
「どうしました?」
ジャックが答えた。
「抜き打ちの監査だとさ」
「そうですか」
興味なさそうだ。また作業を続ける。業務をきちんとこなしている自信の現れだろう。
ジャックは在庫表を小脇に抱えた。机の一つに屈む。引き出しの裏に貼り付けた鍵を取った。
「そこなんだ...」
感心した様子のユリウスに、重々しく首を振ってみせる。
「いやいや。毎日毎日、場所を変える。ボリスが当番の後は大変だぞ。隠すのが上手くてな、俺は研究室中を這いまわる羽目になる」
背中を見せたままボリスが言った。
「中尉こそ凝り過ぎです」
お互いに鍵の隠しっこをしている。ユリウスは苦笑いで『平和だ』と呟いた。
保管庫は研究所の一番奥だ。廊下の突き当たりに鉄のドアがある。まずそこを開けて階段を下りる。またも扉を解錠した先の小部屋だ。棚がずらりと並ぶ。ガラスの扉にも施錠してあった。
ジャックが薬品の数を確認し、液剤は重さを計る。そして二人で在庫表と読み合わせだ。数量はぴったり合っていた。ジャックは帳簿をばたんと閉じた。
「で? 何があったって?」
「本当に教えてもらっていないんです。研究所の毒物を調べろ、とだけ」
「ふうん?」
帳簿を抱えたまま応接室に戻る。カルバートはお茶を飲んでいた。お盆を抱えて傍に立っていたのはロルフだ。彼は二人に敬礼して部屋を出た。
「ああ、どうだった? 合っていたね?」
思わずジャックとユリウスは顔を見合わせた。カルバートは手にしたカップをくるくる回す。
「数が合わないとなったら大騒ぎだからね。ただの確認だよ」
二人を見上げる視線は、笑っているのか睨んでいるのか分からない。
カルバートはカップを置いた。腕を組み、ジャックを見上げる。
「ここにあるのは人工的な化合物が多いのかな?」
「はい」
「ふうん。例えばだけど、植物も毒となるのだろうね?」
ジャックは少しだけ首をかしげた。なぜそんな質問をされるのか。
「キノコは危険です。間違えて摂取することで、嘔吐や下痢など引き起こします。重篤ならば」
興味なさそうにカルバートが遮った。
「時期じゃない。他には?」
「代表的な成分ならアルカロイド系かと。アコニチンやスコポラミンです。毒よりも医薬品として使われる事が多いかと思います。ここにはどれもありません」
トリカブトの根のように、命に関わる毒性を持つ種類もある。またアルカロイド系の物質を含む植物は多い。例えばなす科のトマトにも、微量ながら茎や葉に存在する。
「そうか。君は毒物については詳しい?」
「前職は農薬や肥料の開発でした。多少は存じております」
カルバートはしつこかった。
「ふうん。下痢や嘔吐以外に、どんな症状が出る?」
「摂取した種類や量、および体重によっても違いますが、痙攣や幻覚も起こり得ます」
「それだけ? もっと深刻なケースもあるんだろう?」
アーノルド陛下が倒れたばかりだ。しかしジャックは知らない事になっている。素知らぬ顔で答えた。
「使用の条件によるので、一概には言えません。もし重篤な症状が発現するなら呼吸困難、血圧低下、心停止。中毒量など詳細については、医局に確認される方がよろしいでしょう」
「結構!」
カルバートは立ち上がった。ユリウスがあわててドアを開ける。立ち去りかけて、不意に振り返る。
「もう一つだけ。リョードフ親子はここに来るかい?」
「いいえ、一度もありません」
「そうだろうね。それじゃ」
玄関でジャックが敬礼する。将軍が一歩踏み出した時だった。
どん。
宮殿のテラスから大砲が鳴る。
続いて、空に向けて花火が上がった。広がるのは華ではない。青空には黒いシミのように黒い煙が広がる。一度ではなく、何度も何度も打ち上げは続いた。王宮の塔は暗くけむった。
カルバートが足を止めた。じっと空を見つめる。
「...あれは...?」
ジャックの呟きにユリウスが答えた。
「王族の命運を市民に知らせているんです。例えば誕生なら白...」
その後口ごもる。カルバートが引き取った。
「死亡なら黒。...さて詰所に戻るかね」
「...えっ」
地位の高い軍人であれば、王族の一大事に真っ先に駆けつけるはずだ。
しかし将軍はにやりと笑い、踵を返す。
「戦闘じゃないんだよ。必要なのは軍人じゃない。葬儀屋さんだ」
あちらこちらで鐘が鳴り始めた。王宮の黒い煙に呼応している。
グリンクラフト連邦の王アーノルド・フォン・グリンクラフト崩御の報は、まず重奏となって市内を駆け巡った。
その日のうちに死因が発表された。突然の心臓疾患だという。
塔にはうなだれた半旗が上げられた。町角には黒い旗が溢れる。人々は喪章を付けた。学校や商店は喪に服す為に休みになった。映画館など人の集まる場所も休館だ。ラジオ番組はアーノルド王の生涯を伝える特別番組ばかり。通りを過ぎる車も少ない。市内はひっそりとしている。葬儀の日程はなかなか決まらなかった。
警護や葬儀の準備が必要だ。軍の下部組織である研究所は封鎖され、軍属の職員たちは警護にかりだされた。ジャックもその一人だ。
宮殿内は、市内に比べていささか波立っていたようだ。連日、深夜に渡って会議である。
葬儀を執り行ったのは、アーノルドの息子ハンス・ヨアヒムではなかった。彼はまだ十二才である。公式の場にお披露目とする良い機会ではあるが、十五にならないと継承権を正式に得られない。法律の改正を行うのか? 王の息子であるハンス・ヨアヒムを推すのはシェレンス公爵。対して弟のマクシミリアンを擁するバロー伯爵。どちらも譲らず、一週間が経ってしまった。議会はあるが、まずは王宮の意思が統一されないので動かない。
宮廷でどのような過程を経たのかわからない。結局は次男のマクシミリアンが喪主となった。そしてそれが正式な即位の決定ともなった。葬儀はしめやかに、かつ盛大に執り行われた。
そして戴冠式の予定は一ヶ月後と決まった。
研究室は封鎖されたままだった。王宮内への出入りが多くなる為、入退場のチェックが煩雑になるからだ。また、設置場所が王宮の敷地内だ。喪に服す意味もあった。
ジャックは引き続き警護や市内の交通整理に駆り出されていた。この頃の社会情勢は安定していた。悲しみと、新しい国王への祝意が同居している。多少の落ち着きの無さはあるものの、五百年存続する王家だ。王の死による継承なら何代も繰り返されている。
この日、ジャックは王宮内の警備だった。戴冠式までは制服に喪章付きだ。広い敷地内を一日かけて巡る。喪中の為に王宮でのイベントは何もない。王族や貴族も宮殿の中だ。歩いているのは狐やリスなど小動物ばかり。他には警備兵だけだ。
警備のルートはほぼ決められている。
芝生の中の道が二つに分かれた。ジャックは右に曲がった。研究所とは反対の端へ向かう。腹に響く槌の音がしてきた。庭園を抜けると広場があった。四角い石が幾つも敷き詰められている。それぞれに線刻が施されたシパクトリのコートだ。それぞれの石の隙間からは緑の葉が伸びる。
ジャックは足を止めた。
袖をまくり、たくましい腕を露わにした数人の男たちがハンマーを振りおろしている。つるはしで敷石をはがす者もいた。
「先輩」
背後から声をかけられた。木陰に座っていたユリウスが立ち上がる。白い額に浮いた汗をぬぐう。
「どうしたんだ?」
「コートを潰すそうです。ディーター殿下のご意向で。僕は監督を仰せつかってしまいました。ここでマックスと...陛下とゲームに興じたものですよ」
彼は目を細めて、潰されていくコートを眺めた。眩しいばかりではなさそうだ。大した成績を残せなかったとはいえ、ゲームに打ちこんだ事もある。彼は作業員たちに声をかけた。
「休憩にしよう! 二十分だ」
鉄の道具が地面に転がった。男たちは息を吐き、汗をぬぐう。それぞれ木陰に向って行った。
ジャックはコートに出た。石ははがされ、土がほじくり返されている。
「どうして潰してしまうんだろう?」
ディーターがティーガの親子を呼びよせた。シパクトリは彼らの文化から派生したゲームだ。
「もしかしたらディーター殿下も、ティーガ娘との結婚に反対しているのかもしれないですよ。だから彼らの文化を排斥しようとして...とか」
「考え過ぎだよ。お前もアナスタシアとマクシミリアン陛下との仲を心配しているのか?」
「そりゃそうですよ!」
横を向き、ユリウスはまるで何かを吐き出すように言った。
「僕とマックスは幼なじみで、一緒に育ったようなものです。それが異民族の女に心を奪われてしまったなんて、心配になって当たり前でしょう」
「きれいな女性じゃないか」
「王室に異民族の系統が入ったらどうするんですか! 王妃として崇めるなんて想像もつきませんよ。万が一王子が生まれたりしたら一大事だ。ティーガ族が付け上がったら大変です」
ジャックは鼻を掻いた。マクシミリアンと自分の立場が違いすぎるのはよく分かっている。しかしユリウスの国粋主義に賛同はできない。
「まだ結婚もしていないうちから、生まれてもいない子供の心配かい?」
「ここはグリンクラフト人の国なんですよ。山奥に住む他の民族になんか」
ここまで言って、はっと彼は口をつぐんだ。目の前のジャックも外国人だ。
「先輩の事じゃありませんよ。僕は、その...自分の国が心配で...」
「俺の家族の国でもある、ティーガ族の国でもある」
ユリウスの顔が歪んだ。ジャックから目を逸らし、足元の石を蹴った。土が付いたままの雑草が飛んだ。
「...まあ...そうとも言えるかも...あ」
声が少し明るくなった。二人は近づいて来る人影に敬礼をする。
栗色の巻き髪が顔の周りで揺れる。黒い上着が風になびいた。膝まで丈がある。
ディーター・フォン・グリンクラフトがやって来た。グリンクラフト家の三男だ。面差はマクシミリアンに似ているが、更に線が細い。彼は作業員にも外国の賓客に対するように頭を下げた。
強い日差しなのに、彼の周囲は涼やかな雰囲気だ。無風の湖面のような表情のせいだろうか。細身の体には少し大きいような喪服だ。手の甲まで袖がかかっている。しかし不釣り合いな感じはみじんもない。もともとそのようなデザインなのかと思わせる着こなしだった。
ユリウスとジャックの前に立つと、肩のあたりまで手を挙げた。敬礼を下ろしてよろしい、という合図だ。
「フェリックス、大義ですね。そしてこちらは」
彼は眩しそうにジャックを見上げた。
「シパクトリの伝説のチャンピオン殿だ。お会いできて光栄です」
少し高くて透明感のある声だ。差し出された手をジャックが握った。細くて冷たい肌だった。
「恐れ入ります」
シパクトリのチャンピオンであるジャックに敬意を払っているようだ。
「ここを潰さなくてはならないとは、僕も残念なのですが。あなたには理由を告げる必要があるでしょうね」
ディーターの物憂げな視線が工事中の庭を巡る。
「リョードフ先生の為なのです。ティーガとの『花の戦い』については知っていますね?」
二人は黙って頷いた。
「シパクトリはティーガの暦から発生しました。さらにあの戦闘後に発達したとも言います」
暦通りに一つずつ的に当て、陣地を広げる。征服者が被征服民の文化を基盤に遊ぶのだ。
「彼らにとって暦は神聖な物だから、遊びに使うのを見せるのは忍びないでしょう。お兄様...兄上にも了解は得ました」
王となればゲームに興じる時間も取れなくなるだろう。
ユリウスが言った。
「そこまでお気を使うのですか?」
彼がそう言えるのは、彼自身も貴族という身分だからだ。しかもマクシミリアンとは親しい。
「ええ、私の先生ですから」
「ディーター殿下、マックス陛下とティーガ娘の件はご存じですよね?」
「心配は無用です」
柔らかい調子ながらも、はっきり言い切った。どういう意味なのか。ユリウスは二の句が継げないようだった。
そろそろ休憩の時間が終わりそうだ。作業員達が立ち上がっている。作業を再開したものか、三人の様子を伺う。
「兄上が即位...」
ディーターが呟いた。壊されていくシパクトリの庭へ顔を向けている。しかし視線はどこかをさ迷い、今はそこにない何かを見ているようだった。
「少し寂しいかな。これまでのようにお会いできなくなる」
まるでひとり言のようだった。長兄が亡くなって間もない。さらに次兄は王位に付く。国の長として公務は従前よりもずっと増える。自由な時間はかなりせばめられてしまうだろう。年の近いマクシミリアンとディーターは、アーノルドよりも親しみのある存在だった。それが遠くへ行ってしまうようでもある。ディーターは二人の兄を失う気持ちだったのかもしれない。
「兄上にとってはおめでたい。僕も心よりお祝いしよう」
彼はほほ笑んだ。振り返った先にはギデオン・リョードフがいた。離れた建物に隠れるように顔だけ出している。ジャックと目が合うと頭を下げた。親しげな笑顔だ。食堂での警戒感などみじんもない。歩み寄って来るのはにこやかな顔だ。そんな表情を見るのは、ジャックには初めてだった。
風に乗ってギデオンの声が届いた。
「跡地はどうされるのですか?」
彼にとっては、シパクトリのコートを潰すのに何の感慨も、もちろん感謝もないようだ。ディーターが答える。
「庭師に任せます」
「よろしいですね」
「ところでお部屋は気に入っていただけましたか?」
そしてゆっくりと歩み去る。後ろ姿が見えなくなってからユリウスが言った。
「宮殿の西に小さな邸宅を増設したらしいですよ。内装はティーガ風にして、それぞれ浴室まであるホテル仕様です。しかも四部屋も! 誰を泊める気なのか。各部屋を何だか神様の色と名前にして『西の御屋』と呼ぶらしいです。偉そうに...」
「へえ」
「これ以上ネズ...ティーガを呼ぶつもりなんですかね」
彼はすぐに言い換えたが、ネズミと言いかけたようだ。
「さあな」
そこから会話が途切れた。残された二人はしばらく並んで立っているだけだ。思い出の地が無くなっていくのは、悲しさよりも虚しさを感じる。さらにジャックはユリウスとの考えの差をもろに見せつけられた気分だ。それが憂鬱な気分に一層の拍車をかけていた。
久々に工房へ向かったのは、落ち込んだ気持ちを抱えたまま帰宅したくなかったからだ。勤務は終わったが、足は重い。
窓に明かりは見えなかった。ノックすると、ああ、とかうう、とか声がした。中は薄暗い。ヨハンが椅子に座っていた。首だけで振り返る。いつも白衣ではなかった。ピンクと水色のストライプのシャツだ。派手な色合いではない。若者らしい爽やかな感じではあるものの、仕事場の服装ではなかった。
「一人かい? クリストさんは?」
「帰りましたよ。随分久しぶりじゃないですか。僕に会いに来た...わけじゃないですよね?」
「いやいや、会えて嬉しいよ」
「へえ。そりゃ良かった。僕も嬉しいですよ。もう会えなくなりますから」
「え。やめるのかい?」
「そう! いよいよ独り立ち。市内へ自分の工房を開くんですよ」
「そりゃおめでとう。急だな。ちょっと驚いたよ」
市内へ自分の工房を開く。彼はちょっと不自然なほど腕を立てて髪を撫でた。手首が露わになる。白衣の袖からキラリと光ったのは腕時計だ。太いバンドは白く光る金属で編んであり、竜頭にはダイヤモンド。文字盤は黄金に輝き、長針と短針を止めているのもダイヤらしい。数字の代わりに青い石がはめ込まれている。装飾品には詳しくないジャックにさえ、一目で分かる高級品だ。
「すごい時計だな」
「ええ、まあ」
彼は手首で時計をくるくる回してみせた。
「独立に協力してくれる人がいるんですよ。その人からのプレゼント。僕をえらく気に入ってくれて」
「良かったな」
王宮内の工房だ。貴族に気に入られる事もあるだろう。
「ところで義父さんは? 奥かい?」
「温室じゃないですか」
ヨハンは嬉しそうに時計をさすっている。
床を埃の塊が滑って行った。室内は湿気がこもっている。ジャックは窓を開けた。工房内の流しには、ビーカーやフラスコなどの器具が雑然と置かれたままだ。
「洗っておいてくれ。掃除も」
ジャックの言葉に、ヨハンはきょとんとした顔をむける。
「え? 僕は、もうやめるんですよ?」
「それまではここの職人だろう? 自分も使っていた道具に感謝の気持ちがあるなら、きれいにするんだな」
ち、と舌うちが聞こえた。ジャックが振り返ると、あわてて袖をまくった。露骨に目を逸らし、大きな音を立ててロッカーを開いた。ほうきを出す。ジャックを睨みながら、おざなりに動かした。
「その顔、新しいパトロンに見せる前に鏡で見た方がいい」
ジャックは工房を出た。
温室には鍵がかかっている。ガラスは少し曇り、中の緑色が滲んでいる。
「義父さん! いますか? ジャックです」
しばらく間があった。ゆっくりと人影が近付く。ガラス越しに訪問者を確かめたようだ。鍵を開けた。少し額が汗ばんでいるようだ。腰には作業用のバッグを提げている。鋏の取ってが見えていた。肩は落ち、頬がこけていた。
「久しぶりだな」
ジャックが入るなり鍵をかけた。
「体調はどうですか?」
「すこぶるいいよ」
ゴドーは目をこすった。言葉とは裏腹にくっきりと青黒いくまができている。
「仕事の方は?」
「...ああ、順調だよ」
ゴドーは腕を組んだ。じっと地面をみつめている。
出入り口近くにはハーブが植えられている。チャービルやレモンバームなど食用に使う物が多い。
「良い香りですね。ちょっとお茶でも飲んで一息いれたくなるような場所だ」
顔を上げ、ゴドーは義理の息子を眺めた。目をぱちぱちさせる。足元を見て、周囲を見る。自分が育てた草花を、自らの生活の糧でもある小さな世界を。緑に包まれ、芳香が漂う彼の温室を。最後に天井を見る。太陽は歪んでいるが、限りない光と温もりが降り注ぐ。ここはゴドーが手塩にかけた楽園なのだ。
やがて彼はにやりと笑った。
「そうだったな。ここはそういう処なんだよ。忘れていた」
彼はその場にしゃがんだ。腰のバッグから鋏と、折りたたんだ袋を出す。辺りのハーブを摘み、どんどん入れていく。それが一杯になると、ジャックに差し出した。
「持って行け」
「あ、ああ、どうも」
「しばらく此処へは来るな」
表情はさばさばしていた。
「もし何かあったら、ロッタと子供たちを連れてクロイツベルクを離れるんだ。いいな?」
「そんな、何があるって言うんですか? もしやヨハンに関係が?」
「あいつが何か言ったか? 気にするな」
ゴドーは上を見上げた。天井もガラスだ。曇り空から薄い光が歪んで見える。
「親父さーん!」
外でヨハンが呼んでいる。薄く開いたドアからジャックを見ると、目を眇めた。
「洗っておきましたよ、お坊ちゃま。もう、自分でそんな下働きする必要はなくなるんですけどね」
ゴドーは首を振った。
「ヨハン...小さな事ほど難しいし、大切なんだよ」
「僕はもっと大きい事をめざしているんです。ちょっと出かけてきますから」
「パトロンに会うのかい?」
彼は片頬だけで笑った。
「ええ。まあ見ていて下さい。立派な工房を建ててみせますよ」
左手を振る。時計が陽光にきらめいた。彼はゆるやかな丘を登っていく。そちらは宮殿だ。後ろ姿を見送り、ゴドーはそっとドアを閉めた。声をひそめる。
「遺跡には近づくな」
「...どうして?」
「言えん。だが...さっきの話は分かったな? 今日はもう帰れ」
ゴドーは背を向けた。わずかな間に、すっかり丸くなった。もう話はないと、拒絶が漂っている。
「また来ます」
ジャックの言葉に、わずかに頷いたようだった。
そしてヨハンは二度と帰って来なかった。
クロイツベルク市内、新市街地ブリエンツ地区。整然と道が作られきちんと区割りされている。同じデザインの平屋が立ち並ぶ団地だ。殆どの住人が軍の関係者だ。窓を開ければ高台の城が見える。
二人の子供はとっくにベッドの中だ。台所の片づけが終わり、ロッタがリビングにやって来た。ソファに埋まっている夫の前に立つ。彼がつまんでいるマカロンの皿を取り上げ、腰に手を当てた。
「また、寝る前にこんな甘い物を食べて!」
「おいしいんだもん」
「食べ過ぎ。没収!」
ロッタは皿を持ったまま、ジャックの隣に座った。
「やっと落ち着いて来たわ」
「ああ。急な事だったからな。俺の方はまだ閉鎖中だよ。義父さんはどうしている?」
「う~ん、ずっと元気が無いのよ。それにあんまり来るなって」
「そうか...。ヨハンがいなくなって落ち込んでいるのかな?」
「それも妙なの。父さんったらクリストさんにも自宅待機命令よ。ヨハンはもともとやめるって言っていたじゃない? でも行方不明だし。ご両親にも、取引先の人に会いに行くって。でもまだ家にも帰ってないって。問い合わせがあったけど、工房にも来てないから返事のしようもないわね」
「ふうん...」
彼を最後に見たのは、宮殿に向って歩いて行く処だ。パトロンが誰なのかは聞いていない。
「アーノルド陛下は心筋梗塞だったっけ?」
「らしいわよ。お若いし、持病も特になくてお元気だったのに。病気って怖いわね」
王の倒れた日、温室を訪れた人物がいるらしい。しかし、それをロッタには告げていなかった。目撃者がピドーしかいない。しかも渡されたというピンクダチュラは毒草だ。考えたくなくとも、王の死と関連を考えてしまう。
(誰が来た? まさかヨハンも見たのか? 義父さんも心当たりがあるとか...)
ロッタがマカロンを口に入れた。
「あ、俺の...」
「美味しいんだもん!」
「ほらほら、美味いだろう。カフェオレを入れようか? 君の好きなミルクたっぷりではちみつ入りの」
「ありがとう。でも今はいいわ。あれは休憩中に控室で作って飲むのよ。カフェオレにはちみつなんて邪道って言われるけど、好きなのよねえ」
ロッタは皿をローテーブルに置いた。
「正直ね、結構モメているのよ。バロー伯爵とシェレンス公爵! まだマックス殿下は独身でしょう? 後継ぎをどうするって」
葬儀の騒動はまだ終わっていないようだ。
「遅摘酒がいるだろう? 問題ないじゃないか? あ、アナスタシアか...」
「そうなの!」
バローは、自分の血縁であるテレジアをマクシミリアンと結婚させたがっていた。しかし結局、もくろみははずれた。テレジアは弟のディーターと結ばれた。
「テレジア嬢はバロー伯爵の姪だよな」
「そう! 最初はマックス殿下と結婚させるって意気込んでいたのに、王家なら誰でも良かったのかしらね。テレジア様ったら可哀そうよ。マックス殿下が大好きだったみたいだから。それにね、マックス殿下は、まだアナスタシアと正式に結婚したいみたい。遅摘酒が王太子になるなら、問題はないって」
「まあ、そうだな」
王位継承権の一位がハンス・ヨアヒム。王位は長兄アーノルドに続く系統のままだ。ただしアナスタシアと国王マクシミリアンの間に男児が誕生したら、ハンス・ヨアヒムの優先順位は下がる。
「継承権を与えないわけにはいかないでしょう。今の法律ならね。だからバロー伯爵ったら、結婚するとしても法の改正をするべきってうるさいの。継承権を持てるのはグリンクラフト人が産んだ男児だけとするって」
異民族が王室内に入るのを避ける為の方策提案だ。
「そのせいばかりじゃないけど、アナスタシアは婚姻自体を迷っているの。他の民族と結婚すると、もうティーガを名乗れないんですって。生まれた子供も、もちろん一族とは認めてもらえない。彼女はティーガ族であることに誇りを持っているのに、それじゃ考えてしまうわよね」
被征服民である...と語る彼女の瞳は、怒りに燃えているようだった。あの感情を自分自身で納得させられない限り、マクシミリアンとの婚姻など考えられないだろう。少なくともジャックはそう思った。ロッタはもっと楽観的だ。
「私は二人が結婚してもいいと思うんだけどな」
「お互いその気があればな」
ロッタはまたマカロンをつまんだ。
「彼女が言うの。グリンクラフトでは全ての民族が対等になるべきだって。その為には何でもするって。そういう人こそ王妃にふさわしいんじゃない?」
「アナスタシアの話ばかりだな」
ジャックは苦笑した。
「ええ。彼女はとても意思の強い人よ。自分の進むべき道をちゃんと分かっていいて、その為に居るの」
彼女の話をする時、ロッタの瞳はきらきら光った。アナスタシアの美しさはもちろん、強さをジャックは垣間見ている。そしてつい助けたくなるような脆さも感じる。目的を持って、まるで挑むような姿勢がロッタの共感を得たのか。
「う~ん...彼女には、どうも何ていうか...得体の知れなさっていうか...」
「何を言ってんのよ! 宮殿の堅物たちみたいな事言わないで」
ぱしっと平手が飛んでくる。後頭部を叩かれた。ジャックは乱れた髪をさらにかきまぜた。かつて湖畔で彼女を見かけた話をする。
「行った事がないって話だったのに」
「え? そりゃ行くでしょ? 自分の民族の遺跡よ?」
「じゃあ幽霊騒ぎはやっぱり彼女か?」
「かもね。お化けにされちゃうなんて失礼だけど」
そこで何をしているのかロッタは知らなかった。
「神殿跡でしょう? 『西の白』で...何だったかしら? 動物の名前を名乗る太陽の神話があるらしいの。その葬祭殿を掘り返して、再現するんですって」
「ふ~ん...初耳だ」
「ええ。少し前だけど北州からティーガの遺物が届いたのよ。リョードフ先生が来てからすぐかな。岩みたいだったわ。それを遺跡に持ち込んだのよ。けっこう大きかったの。専用の台車を作って、斜面を引き下ろして...門から遺跡まで二日がかり! 機密条項とやらで作業は夜だけ。あ、言っちゃった。内緒ね」
ロッタがアナスタシアを伴って工房を訪れた前後らしい。彼女はペロッと舌を出した。
ジャックは幽霊騒動を思い出していた。夜間にリョードフ親子やディーターが湖畔へ下りていたのなら、幽霊に見えなくもないだろう。アナスタシアはもちろん、彼らは湖の遺跡を訪れていたのだ。
「どうして秘密にする必要があった?」
「今さら異民族の神殿を再建するなんて、貴族の反感を買いかねないからじゃない? 完成してからお披露目でもするつもりだったのかしらね」
「完成披露はしてないな。リョードフ親子は、もう一年は滞在しているか?」
「そうね。長いわね」
ロッタは立ちあがった。お菓子の皿を持っている。
「それ、置いてってくれ」
「だめ。それ以上太ったら、熊じゃなくて象よ」
ジャックの頬に軽くキスする。ウインクを残し、彼女はリビングを出て行った。
いよいよ戴冠式当日だ。その日は休日となった。グリンクラフト連邦の旗が街角ではためいている。建物の窓辺には色とりどりの花が飾られた。空は晴れ渡り、穏やかな風が吹いていた。通りには着飾った人々が溢れる。あちらこちらに屋台が店を出す。椅子とテーブルが歩道に並べられ、ごちそうの匂いが漂う。
会場は市内の聖堂だった。王族や外国からの客が見守る中、マクシミリアンが王冠を抱く。市民が周囲に集まっている。式の後のパレードを見る為だ。
そんな市の喧騒とはジャックは無縁だった。王宮内の警護の担当だった。裏門で立ち番をしていた時、宮廷の警備兵が呼びに来た。白い制服だ。
「応援お願いします」
制服と同じくらいの白い顔だった。
「湖に不審物が浮いているのです。引き上げに人手が必要なんです」
目映い日差しの下、緑がいきいきと腕を伸ばす。パレードが始まったのか、祝いの歌舞か。ほんのかすかだ。穏やかな風が音声を運んで来る。
その場を同僚に任せて、ジャックは警備兵と丘を登った。そして林の斜面を下る。
ロッホネス湖は陽光にきらめき、はるかなベルント山脈をうっすらと水面に映す。周辺には深い緑が芽吹き、うららかな陽気だ。湖畔へ行くには、斜面の階段しかない。遺跡を横目に水辺に行く。黒い鳥が騒ぎ、湖面にたかっている。カラスだ。何かが浮いているようだが、よく見えない。
ボートは既に用意されていた。数隻で浮いている物の近くへ寄った。強烈な臭いが立ち込める。鳥を追い払った。脱げかけた服と背中が見える。人体だ。
ジャックが警備兵に声をかけた。
「引っ掛ける物はあるか?」
「とび口があります!」
先端に鉤状の金属が付いた長い棒だ。それで引き寄せた。既に腐乱し、発生したガスで体中が膨張している。シートを広げてから船に引き揚げようとしても、なかなか上がらない。
「このまま運ぶぞ」
数本のとび口で水中を引きながら岸まで運んだ。やっと上陸だ。
全身が露わになる。一同は息を呑んだ。首がない。さらに、足には人の頭ほどの石がくくり付けられていた。
シャツは泥と血で茶色く染まっている。模様は縦にストライプが走っていた。すっかり濁っているがピンクと水色だ。
「...ヨハン...?」
腐敗ガスのせいで、スラリとした若者の体躯の面影はどこにもない。シャツのボタンは外れてしまった。膨らんだ腕からは脱げず、シャツが残ったようだ。手首に時計はなかった。もともと少し緩いようだった。抜け落ちたのか、殺害されて取られたのか。
「お知り合いですか?」
「断言はできないが、おそらくは。エフェレット工房の職人だ。数日前から行方不明だった」
警備兵が呻く。
「自殺...には...ならないでしょうかね...」
「おいおい。石を足に縛り付けて入水だぞ。無理がある。どうやって湖の真ん中まで行った? ボートは見当たらない。百歩譲って自分でやったとしても首はどうしたんだ?」
「...水中で断裂した可能性も...」
遺体の状況を見てなお、彼は自殺にしたいようだった。
「そりゃ無茶だ」
「だって...国を挙げての慶事中なのに...。そうだ、明日に発見したという事にしましょう」
警備に隙があったと疑われるのを避けたいようだ。
ジャックは腰に手を当てた。ぐるりと周囲を見渡す。湖に至る道はただ一つ。宮殿裏手の階段からだ。岸辺は切り立つ崖に囲まれているうえ、宮殿の敷地内だ。侵入するには警備をかいくぐっての山越えが必要になる。他殺だとしたら犯人は内部の者を疑わなくてはならない。警備兵としては、警備の隙を突かれたとされるのは嫌だろう。
「どうして重りが付いているのに浮いてくるんだ...しかも今頃...」
さも迷惑そうな口調だ。顔をしかめて鼻を手で覆っている。ジャックは足につながれた石を顎で示した。
「それだと軽すぎるな。体が腐敗するとガスが発生する。このくらいの石じゃ浮力の方が勝つ。あんまり荒っぽい事には慣れていない奴の仕業だな。首の捜索は?」
「続けています」
遺体がシートに包まれた。大型のそりに乗せられ、階段を上がっていく。運ぶ者は、みな口元や鼻を押さえていた。
「ヨハンの家族に連絡をするか」
遺体の面通しをしてもらわなくてはならない。まだ独身だった。息子のあの状態を見てもらうのは気の毒だが、仕方が無い。
「住所は分かりますか?」
「ああ。工房へ行けば分かる。確か市内だ。ご両親にはどこへ行ってもらえばいい?」
「追って連絡しますと伝えてください」
「了解」
ヨハンの遺体は裏門から搬送される。行き先は警察の施設だ。そこには遺体安置所があった。カラスどもはもうあきらめたか。数羽が木々にとまり、黙って見下ろしているだけだった。
重い足取りで工房へ向かった。ドアが半開きだ。
「義父さん?」
室内の電気はついていない。窓が開いている。カーテンがはためいた。熱い空気が室内を掻きまわす。作業室にゴドーの姿はなかった。
奥の部屋をノックする。返事がない。
「いますか?」
カーテンが閉まっている。むっとした熱気がこもり、息苦しい。ドアを開けた。ゴドーはいつものように椅子に座っていた。だが体は斜めに倒れ、両腕が垂れたままだ。指の先の床にコップが落ちていた。半分開いた口からわずかに舌が覗いている。少しだけ瞼は上がっていたが、黒眼は動きを止めて固まり、何も映してはいない。肌はすでに色を失って蝋のような白さだ。
確かに見えるのに、光景の意味を理解するのに時間がかかった。膝が痛い。それで自分がその場に崩れ落ちたのだと気が付いた。半ば這うように近づく。義父の肩を揺すった。
「...起きて...起きて下さい...。どうしたんですか...。義父さん!」
ジャックはただ叫び続けた。
ゴドーの葬式はひっそりとしたものだった。参列したのは家族だけだ。ヨハンの件もあり、職人たちには日時を知らせなかったのだ。
ロッタは子供たちの前では普通にふるまっている。数日間休んだだけで仕事に戻った。じっとしているよりも体を動かしていた方がいい。本人はそう言い切った。
ゴドーの死因は心不全との判断だった。死に先だって職員達を自宅待機させた事などから、健康に不安を抱いていたのではと推測された。ただの病死で、ヨハンの死との関連づける事さえ無かった。
戴冠式という国家にとって一大イベントの陰で起きた小事件だ。警察にしろ軍にしろ、あまり事を公にしたくはない雰囲気だった。
半年ほど過ぎた。マクシミリアンの治世はまずまずの滑り出しと言えるだろう。目立つ事件や事故は無かった。また、つい先日は白い煙が城から打ち上げられた。王弟ディーターとテレジアの間に男児が誕生したのだ。
そんなある日、エフェレット一家はそろってゴドーの工房を訪れた。遺品の整理である。ジャック以外は、家主が亡くなってから初めての訪問だ。ロッタはたった一人の身内を失ったショックからなのか、前を通るのさえ嫌がっていたのだ。
久々の工房の中は空気が重いようだ。ジャックは窓を開けた。季節は確実に動いている。吹き込む風は湿り気を帯び、秋の気配だ。
元気よく駆けこんだピドーはきょろきょろしている。
「お爺ちゃんは? ヨハンは? クリストさんは?」
居ないのは祖父だけではない。無人だ。マリアが知ったような顔で答える。
「お爺ちゃんは天国へ行ったの。そこで調香しているのよ」
それでも二人の子供は、何かを求めるようにあちこちを覗く。どちらも死の意味をあまり理解していないようだった。
ロッタが無言のまま二人を抱きしめた。
棚のガラス瓶は埃まみれだ。作業台に置かれたアルコールランプは蓋が開いたまま、燃料は無かった。フラスコやビーカーの底には何の成分か、白い結晶が乾いてこびりついている。在庫の香水は、もう全てどこかへ持ち出されていた。
奥の居室は、あの日のままだった。ロッタは持参した袋を広げた。クローゼットを開ける。ハンガーにかかった服を一枚ずつ見て行く。まるで隙間に隠れている父親を探しているようだった。大きく息を吐く。手を止めて虚空をにらんだ。それからやにわに手を動かし始めた。ていねいに畳み、持参のカバンと袋に詰めていく。
「ロッタ、とりあえず全部持ち帰るか? ゆっくり家で見るといい」
「そうね。ここは無くなっちゃうし」
ゴドーの個人的な工房だった。ヨハンの死も影を落とす。後継ぎはいない。縁起の悪さからか、取り壊しが決まった。
「温室は残すんだろう?」
「ええ...。でも植物は全部植え替え。薬草とかハーブじゃなくて、観賞用の花を育てるらしいわ。テレジア陛下がお使いになるらしいわよ」
「少し摘んでいくか?」
ロッタは手を止めた。
「うん。そうしようかな」
「じゃあ台車を借りて来る。食堂にあるかな」
「どれだけ持って帰るつもり?」
少しだけ妻は笑った。ジャックは座ったままの肩を叩いた。肉がすっかり落ちていて、骨に手が触れるほどだ。
「少し仕事を休んだらどうだ?」
「ううん。体を動かしていた方が楽なの。アナスタシアを一人にしておくのは可哀そうだし」
「大の大人だろう? 父親と一緒なんだし」
言ってしまってから、ジャックは口を押さえたが遅い。父を亡くしたばかりだ。ロッタは夫をちらりと見た。ロッタに母はいない。マリアが生まれてまもなく亡くなった。また手元に目を落とす。
「ええ、彼女はとても気を使ってくれたわよ。知り合いの一人もいない場所に理想の為にやって来たんだもの。私のできる事なら手伝ってあげたい。それに仕事を休んだりしたら...私、どうしたらいいか分からなくなっちゃう」
「少しなら、子供たちと一緒にのんびりするのもいいんじゃないか」
「う~ん...。それがね、ちょっとまだ内緒...で...」
ロッタは口をつぐんだ。
「何だ?」
「何でもない」
「そんなわけあるか? 妙な事ばかりじゃないか? 俺に隠している事があるのか?」
「聞かないでよ」
ロッタの声が大きくなった。二人の子供が動きを止めた。ピドーが手にしたクッションをそっとソファに戻す。姉に寄り添って、無言になった両親を見つめた。
「おいで」
ジャックは二人に手招きした。そっぽを向いたままの母を伺いながらも、二人は駆け寄って来る。
「食堂に行って来る。すぐ戻るよ」
家を出るなり、マリアがジャックの手をぎゅっと握った。
「お母さんとケンカしちゃダメ」
「すまん」
ジャックは苦笑して娘の頭を撫でた。
「そうだな。お父さんを亡くしたばかりだもんな、寂しいよな」
子供たちを温室に入れた。
「好きなだけ摘めよ」
やっぱり子供だ。父の声に歓声を上げて、好きな物を物色し始める。目を細めていたジャックだが、あわててピドーに駆け寄った。彼が触ろうとしていたのは先端が尖った緑の葉。トリカブトだ。
「ピドー、それはダメだ。食べられない」
「そうなの?」
「ああ。苦いぞ~」
「やめる」
息子が素直に手を放してくれた。ほっとする。ピンクダチュラと比べものにならないほどの強い毒性を持つ。ただ減毒の処理をすれば薬品にできる。それで栽培されているのだ。ジャックがまとめて抜いた。子供たちが触らないように温室の外に捨てた。
「すぐ戻る。ここに居ろよ」
そのまま食堂へ向かった。昼食の時間が終わり、表の出入口は封鎖中だ。裏手へ回る。ノックしても、すぐに応答はない。帰ろうと思った時、ようやくドアが開いた。うっすら開いた隙間からレイナーが覗く。
「旦那か」
それでも左右を見渡してから、やっと中に入れてくれた。
「忙しいのか?」
「まあね」
厨房には彼ら以外いなかった。石の壁は油がきちんと拭きとられ、鍋もぴかぴかだ。所定の位置にかかっている。床も水気がない。
「あれ? 夜の準備は?」
「最近、昼だけなんだよ。湖の事件とか解決していないだろう? 夜の食事は王宮の外にある食堂に出ろと命令があった。不審者対策だよ。旦那、お腹が減ったのかい?」
「いや、すぐ帰るよ。すまないが台車を貸してもらえないか」
「ああ、いくらでも。それよりも、なあ旦那」
レイナーは調理台に腰を下ろし、腕組みをした。
「おかしいよ。変だろう?」
何の事か。どちらも言わなかった。敢えて口にしなくても、おそらくは多くの者が不審に感じている事ばかりだ。
「ヨハンの事件はどうなったんだ?」
「...色々と進めているようだよ」
「旦那。俺に嘘を付くかい?」
レイナーは壁のスイッチを押した。壁際の換気扇が一斉に動き始める。調理台から下りて、台車をジャックに押しやった。
「アーノルド陛下はピンピンしてたんだ。まあ亡くなったのは残念だったとしても...。ヨハン、ゴドーさんと続いてさ。おめでたい事があったと思いきや」
響き渡る騒音の中、ようやく聞き取れる声だ。
「ディーター殿下の第一王子。お生まれが早すぎないかい?」
「月足らずで生まれるって事もあるよ」
「だからさ!」
レイナーは台車の取っ手を平手で叩いた。
「旦那、軍の人間だからっておためごかしかい?」
「いや、そうじゃないんだが...。逆に教えてくれ。早く生まれたからどうなんだ?」
「言わせるのかい! 分かり切った事だ。ディーター殿下のタネじゃない。テレジア様はマックス陛下にご執心だったからな。旦那だって知らないわけじゃないだろう?」
調理室のドアが開いた。小太りのコックが眉をひそめる。シュルツだ。レイナーの部下に当たるが、彼よりも年上のベテランだった。大きな鼻を人差し指でこする。チェックのシャツだ。もう帰る処だったらしい。一瞬ぎょっとした二人に、愛想のない視線を向ける。
「換気扇が付いてるじゃないですか。消し忘れかと思えば...何です?」
レイナーが首を振った。
「クサい話をしてるんだ。空気の入れ替えでもしなけりゃやってられない」
「ほどほどにしてくださいよ。俺達は上手い料理を作ってりゃいいんだ。相手が誰でもね」
ジャックが尋ねる。
「遺跡の小鬼にもだろう?」
目が丸くなった。口をぽかんと開け、シュルツはジャックを見つめた。あわてて首を振る。
「やめて下さいよ、中尉」
「幽霊は随分と前から居たんじゃないのかい」
「カンベンして下さいよ...」
シュルツは襟を合わせた。まるで首筋が寒いかのように。大きく何度も首を振った。そそくさと去る。
レイナーはまた調理台に座った。
「初耳だな。遺跡の幽霊が食事をするとは」
「カマをかけただけだよ。シュルツはベテランだ。何か知っているかも、と思ったんだが...。遺跡には誰かが住んでいるようだな」
「えっ? どうして?」
幽霊騒動はリョードフ親子が来る前からあった。闇夜に光が見えたり子供の泣き声がしたり。またアナスタシアの行動も不審だ。
「義父にアロマの用意をしてもらっていた。でもどうも自分用じゃない感じはしていたんだ。使っている気配がない」
何度か行き会っても、香水の香りはしなかった。
...無聊を慰めになるかと...
彼女の言葉だ。もし自分が使うのなら、この香りが好きだとか言うのではないだろうか。
ジャックは台車に手をかけた。
「レイナーの言う通りだ。変だよ」
誰がピンクダチュラを探しに来た? ヨハンはなぜ死んだのか? パトロンは誰で、彼の死に関係があるのか? カルバート将軍はどうして毒物の在庫確認をしたのか?
「ほら。ざっと挙げただけでもこれだけある」
「ああ。ハイケがすっかり怖がっていて、辞めたがってるんだ」
「...その方がいいかもなあ...」
ジャックは台車を押した。
「悪いな。ちょっと借りる」
「はいよ。返すのはいつでもいいよ」
換気扇はまだ回っている。
子供たちは外の保育所に通うようになった。
たったの一週間で工房は更地になってしまった。併設の温室は残っているが、中途半端に刈られたようだ。濁ったガラスの壁から、茶色く頭を垂れた草や木が見える。そこはジャックの警備のルートでもある。横目に通り過ぎようとした。
どこかで大きな音がした。爆発のようだ。あわてて周囲を見渡すが、煙や火は見当たらない。白い光が城を照らしたようだが、はっきりしなかった。
(気のせいか?)
それでも巡回を急ぐ。ロッタが工房跡の前に佇んでいた。既に日は傾いて、彼女の陰を長く伸ばす。夜の湿気を含む風でスカートがなびく。うなだれた巻き毛が揺れた。
「ロッタ」
声をかけると、彼女は泣き笑いの顔を向ける。
「本当にいなくなっちゃったんだ、父さん...」
家の基礎部分だけ残っていた。石の隙間から既に草が伸びる。肩に手を掛けると、胸に顔を寄せて来た。
「ありがとう。グリンクラフトに残ってくれて」
彼女は両親を残して異国には行けなかった。だからジャックは大学を卒業後も故郷ノーザンベルに戻らず、帰化して残った。
「俺こそ、お礼を言わなくちゃ。こんなに出世の遅い男をお婿にもらってくれて」
ロッタは喉の奥で笑った。
「分かっているのね?」
「こいつ」
人影が転がるように駆けて来た。エプロン姿はロッタの同僚だ。
「ロッタ! やっぱりここね!」
彼女はジャックに形だけの会釈をした。
「もう上がりだと思うけど...。お願い! ちょっと手伝って!」
息は上がり、顔は真赤だ。肩を激しく上下させている。
「どうしたの?」
「一緒に探して欲しいの」
「何?」
「いいから来て!」
袖を引く。うろたえながらも、強引な彼女に着いて行く。何かを耳打ちしているのが見えた。
「えーっ!」
叫んでから、あわてて口に手を当てた。そして、彼女も足早になった。仕事モードの顔だ。もう夫を振り返らない。
気にはなった。だがジャックは帰宅の時間だ。子供たちは外部の保育所だ。祖父に預けてあった時のように時間は自由にならない。
ロッタが帰宅したのは日付が変わる頃だった。顔色は真っ青だった。
「ロッホネスの遺跡が爆発したの」
まず彼女は寝ている子供たちを確認した。全身の空気を吐き出すようなため息を付く。上着も脱がず、ソファにへたりこんだ。ジャックが聞いたのはやはり爆音だった。
「何があったんだ? まさかテロか?」
コップの水を差し出すと、一気に飲み干した。
「明日の朝、黒い煙が上がるわよ」
「なに? 今度は誰だ?」
ロッタは空になったコップの底を眺めていた。またため息をつく。
「生まれたばかりの王子さま」
テレジアとディーターの子供だ。まだ名前もない。
「え? 待てよ、どういう事だ? 夕方に探すって言ってたのは?」
ロッタはコップを持ったままで手に顔をうずめた。
「乳母が目を離したすきに、王子が寝室からいなくなったのよ。それでみんなで探していたの。そしたら湖で爆発があって...」
ジャックが聞いたのはその音だった。
ロッタはハンス・ヨアヒムと行き会った。彼はひどくうろたえており、状況を全く理解していないようだ。爆発の説明もできなかった。怪我をしているので部屋に戻らせ、主治医を呼んだ。
「その後、新生の王子は部屋に戻っていたらしいんだけど...。もう亡くなっていたと...。乳母が見つけたんだけど、パニックになっちゃって話にならないの。侍医はドアを閉め切り。誰も入れない」
「死因は?」
「分からない...。ハンナでさえ遺体を見ていないのよ。ただ乳母が叫んでいたのは...」
ロッタは首を振った。
「まさかね...。まさか...」
彼女の指がすっと、首を横切った。
「首が...無いって...」
また両手で顔を覆う。
ジャックは妻の隣に腰を下ろした。肩を抱き寄せる。はっきり分かるほど震えている。指からコップが離れて床に落ちた。カーペットに鈍い音を響かせる。拾う気にもなれない。妻を抱く手に更に力をこめた。
「何が起きているんだ?」
「分からない。ハンナは王子の事は何も聞くな、何も言うなって...。それにアナスタシアは一人でランデスヴァルトに帰るって言い出して...」
「突然だな」
ロッタが体を起こした。しげしげと夫の顔を見る。コップを拾い、軽くジャックの頭を叩いた。
「ちょっとほっとした? 何でよ?」
「あ...バレた?」
「全くもう! どうしてあなたは彼女に冷たいのかしらね」
呆れたような声を出すものの、ロッタの顔色は少しだけ普通に戻ったようだ。
「もう言ってもいいと思うけど、赤ちゃんができたらしいの」
「へ? 誰の?」
「マックス陛下...なのかなあ...。大騒ぎになっちゃうから、誰にも言わないでとお願いされたの。黙っていてごめんなさい。大好きな人との子供なら遠慮する事ないのに」
ロッタが以前言いかけたのはこの件だった。
王家ではグリンクラフト人以外との婚姻の前例はない。バロー伯爵をはじめとして、異民族との結婚には大反対どころか確執が起きるのは必至だ。アナスタシアが子供の父親の名前を明かさないのは、やはりマクシミリアンだからなのか。
「妊娠したのを陛下は御存じないんだな?」
「言ってないみたい。ハンナは何となく感付いていたわね」
「そうか...」
もし自分の子を宿しているとしたら、普通の感覚の男なら傍に居て欲しいだろう。
「ロッタは誰かに言ったか?」
「ううん。でも周りにばれてもしょうがないかなあ。ずっと風邪気味って言ってごまかしていたけど...あれ、つわりね。腰回りもふくよかになったわ」
個人差が大きいものの、嘔吐や食欲不振が現れる。過剰なまでの眠気もそうだ。お腹が大きくなるのは安定期の後だが、様子がおかしいのは周囲に伝わるだろう。
それにしても父親を残して、不意に一人で帰郷するのだ。理由を詮索する者もいるだろう。
「でも今回の件があるし」
また体を震わせる。
「やっぱり地元に帰って産んで育てたいって。気持ちは分かるわ」
「先生は残るんだな?」
「そうね。ディーター殿下が引きとめたそうよ。ねえ、どうしてあなたはそんなにあの二人を警戒しているの?」
「勘...かな...」
食堂では警戒心を丸出しにしていた。知り合いのいない見知らぬ土地だ。緊張もあるだろう。言葉や慣習も違う。しかし、彼らにはグリンクラフト人への敵対心を感じる。それなのにディーターに見せるわざとらしいほどの親近感。
マクシミリアンはアナスタシアに好意を寄せていただろう。しかし、彼女の方はさほどでもなかったように感じる。男女の仲は第三者からは分からないにしても、ジャックには納得がいかなかった。
座ったままで、ようやくロッタは上着を脱いだ。
「あーあ」
服を膝の上で丸めて足を投げ出す。
「あのね、アナスタシアに頼まれたのよ。ついて来てって」
「ランデスヴァルトへ?」
「ええ。でも送るだけよ」
「そこまでしてやらなくても...」
「冷たい事を言わないで! 友達なんて言えるのは私だけなのよ。ただでさえ妊娠ってナーバスになる時期なのに、可哀そうじゃない。すごく不安がっていたわ。一人でなんて旅行させられない!」
「父親はどうした? 家族だったら奴が行けばいいだろう」
「だから殿下に残ってって頼まれてるし! 男と女じゃ安心感が違うわよ。私は出産経験があるからアドバイスもできるわ」
「うん...まあ...」
ジャックは口ごもった。ロッタは明るくて世話好きだ。アナスタシアでなくても、友人ならば同じ行動を取るだろう。それだけではなく生前のゴドーの言葉も気になる。
...何かあったらクロイツベルクを離れろ...
ロッタがジャックの顔を見上げた。
「でも...子供たちを置いてはいけないわよね...連れて行くのもねえ...」
「いや、行ったらどうだ? 子供たちは任せろ」
宮殿で何かが起きている。義父の忠告に従った方が良さそうだとジャックは判断した。しかし妙齢の女性にジャックが同行するのも色々と問題がありそうだ。やはりロッタを行かせた方がいい。言いだしたら聞かない性格だ。止めても無駄だろう。
「いいの? でも仕事は? 夜勤だったら...」
ジャックは少し笑った。
「もう行くって決めているんだろう?」
ロッタは夫の頭を撫でた。
「お見通しなのね」
「まあな。軍は辞めようかと思っていたんだ。研究所は封鎖されたままだ。もともと軍人になりたかったわけじゃない。何か仕事を探すさ。子供は一週間くらいなら何とかするよ」
「そうねえ...」
ロッタは首をかしげて考え込んだ。色々な出来事が起こった一年余りだった。最も大きかったのは、やはり父の死だろう。仕事は楽しくても、父のいない宮殿にいるのは少し寂しい。ジャックの仕事も、ロッタとゴドーが王宮にいてこそだった。
「少し考えたいわ。今日はもう疲れた...」
全身の力を抜き、ソファにそっくり返る。目を閉じてしまった。
「おいおい、寝るならベッドに行け」
肩を揺すると、ジャックに体を預けてきた。でも瞼を上げない。
「こらこら」
「もう寝たから」
「そうか。奥さまはもう眠ってしまったか」
上着をロッタにかけてやる。それからひょいっと抱き上げた。細い腕が首に回る。青白いながらもロッタの唇は少し笑っている。
「あーあ、本当によく寝ているなあ」
ジャックは足でドアを開け、妻を寝室へ運んだ。
退役願はすぐには用意しなかった。書いては消し、ポケットに入れては机に戻し。結局は自宅に置いたままだ。軍人の身分に未練はない。しかしいつ再開されるか分からなくとも研究所への愛着はある。
結局は迷いつつ出勤の日々だ。与えられる仕事は警備や市中の交通整理ばかり。
ロッタは早々と宮殿の仕事を辞める事になった。北州へ個人的に旅行をするくらいなら休める。しかしアナスタシアへの同道である。宮殿内の派閥に属するつもりはない。そしてバロー伯爵側に睨まれるのも本意ではなかったからだ。
もっとも交代制の仕事であり、即日から欠勤とはいかなかった。勤務はあと二週間になった。その後にアナスタシアが帰郷する運びとなった。
ジャックもロッタの不在の備えに大忙しだった。ロッタの代わりに家事をこなし、子供たちの世話をしなければならない。また長女のマリアの入学も控えている。いっそ南州へ移って土産物屋でも開くか...などと冗談交じりの言葉も出るくらいだ。軍属とはいえ、研究所所属だ。警備の夜勤から免除されたのは助かった。
結局、ロッタが北州から戻り次第の退役になった。彼女は辞めるぎりぎりまで宮廷に勤める。アナスタシアを一人にしない配慮もあるらしい。
出発の日が近づく。ジャックは非番だった。子供たちを保育園に送り届けた後、買い物を兼ねて町を歩いていた。朝食を終えた人々が仕事に取りかかり始める時間帯だ。
天気は今一つだった。一年を通じて穏やかな気候のクロイツベルクだが、秋から冬に向けて季節の狭間だ。空は鉛色で冷たい風が吹く。今にも雨が降りそうだ。
街角に露天が出ている。ラックには新聞や薄い雑誌が並べられている。見出しをちらりと見たジャックは足を停めた。『異民族が君臨する?』
突然、背中を叩かれる。
「ちょっと! おまえ!」
振り返ると若い警官だ。ジャックの鼻先に帽子がある。
「何か?」
彼は答えず、ぐっと顔を近づけてくる。思わずジャックはあっかんべーをした。警官は苦笑いだ。体を戻し、腰に手を当てる。
「結構です」
「だから何?」
と、まだ有効な身分証明書を鼻先に突きつける。
いきなり叩かれ、おまえ呼ばわりだ。違いましたでは納得できない。上背があるだけに、むっとして赤くなった頬のジャックは、怒れる白クマに見えなくもない。警官はあわてて敬礼した。
「申し訳ありません! ティーガ族かと...自分の勘違いでした」
ジャックの髪は、薄い色ながら金色だ。もっと陽が強ければ、銀の髪の反射とは明らかに違うだろう。曇り空のせいでよく分からなかったらしい。それでも瞳を確認すれば一目瞭然だ。
「ティーガは町を歩いちゃいけないのかい?」
「いいえ! 今朝早く中央駅で爆破未遂事件がありましたので警戒に当たっていたのです」
「へえ。そんな事件があったんだ。犯人はティーガなのか?」
「はい、未確定ながらそのようです。それに本日はティーガ族によるデモ行進があるとの情報が寄せられたので...。間違えて申し訳ありません!」
「ティーガのデモ? どこで?」
「王宮前のシュロッス通りです」
彼から予定されている場所を聞いた。
警官と別れて、露天でタブロイド紙を買った。見出しが気になったのだ。
...異民族が君臨する?...
一面のトップだ。歩きながら紙面を読む。宮殿に招聘されているリョードフ親子の紹介と、アナスタシアの妊娠の記事だ。父親がマクシミリアンなのでは? と書かれている。それで彼女はクロイツベルクを追い出されるのだと。王宮から正式なコメントは出ていない。未確認情報ながら...という但し書きは後方に小さくあるだけ。まるで決定事項のようだ。
(どこから漏れた?)
身びいきながらもロッタが発信源とは考えにくい。父親ともども長く宮廷に仕えていたのだから、守秘についてはよく分かっているはず。ハンナも同様だ。
警官の言った事件はまだ新聞には載っていない。
(ラジオで何か言ってたかな?)
朝は子供相手でばたばたしている。ゆっくりニュースを聞いている余裕はない。
デモは宮殿前の大通りだった。ジャックはそちらへ向かった。車道にはみ出して歩いている一団がいた。プラカードや横断幕を掲げた三十人ほどだ。構成するのは銀髪ばかり。男女とも若い。ティーガの伝統衣装である裾の長い上着を着用だ。数人の警官が一緒に歩いていた。
『少数民族に選挙権を』『経済格差の是正』などに交じって『婚姻の自由』という文言もある。ティーガ族に選挙権が無いとは、ジャックには初耳だ。彼らは特に大声を出すわけでもない。むしろにこやかだ。隣の者と談笑しながらそぞろ歩きという雰囲気さえある。
午前中でもあり、さほど通行人は多くもない。しかしティーガ族が珍しいのか、注目は集めているようだ。
ジャックは彼らに近づいた。若者の一人に声をかける。
「ちょっといいか?」
彼ははっとした様子だ。ジャックの眼を覗きこみ、一族ではないと分かると静かに一礼する。動作はどことなくアナスタシアに似ていた。
「話を聞いていいか?」
彼は首を振る。隣にいた青年が答える。
「すみませんが、あまりお話しはしないようにと...。僕が代表かな。何でしょうか?」
「ランデスヴァルトから来たのか?」
「そうです」
列は進む。自然と一緒に歩き始めた。ジャックは、彼が持っているプラカードを示した。
「何て書いてある? そっちはティーガ文字だろう」
彼は困ったように首を振った。
「用意してもらいました。詳しい事は何と申し上げてよいやら分かりません」
「誰が用意したんだ?」
「お答えしかねます」
「リョードフ親子を知っているか?」
「ええ」
彼はジャックをしげしげと見上げた。
「あなたは、どなたですか?」
「ジャック・ドッジソンだ。今は...まあ仕事中じゃない」
彼の視線に気が付くと、苦笑した。髪を見ているのだ。ジャックは頭を撫でた。プラチナブロンドの髪がくしゃくしゃと舞う。
「本当にティーガ族じゃないよ。ノーザンベルの出身でね。迷惑じゃなければしばらく一緒に歩こうか」
「どうぞ」
彼はやっとほほ笑んだ。人懐こい表情になる。自分たち以外にも異民族がいると分かって少し安心したのだろう。
「ランデスヴァルトから出て来たばかりでなかなか慣れません。僕の名前はワシリーです」
ジャックが差し出した右手をきょとんと見下ろすが、すぐに握った。色素の薄い肌は温かい。
「こちらは暖かいですね」
「そうかい?」
彼だけではなく、白い頬が赤らんでいるようだ。ジャックが小脇に抱えている新聞に眉をひそめた。見出しに目を止めたようだ。が、すっと目をそらす。
「ティーガ族に選挙権が無いなんて知らなかったな」
「あなたには?」
「あるよ。帰化したからね」
「そうですか...。選挙権が無いというよりは、中央へ出たくないのです。結果として州議会に議席を持っていないのです」
「出てくりゃいいじゃないか。今日みたいにさ。僕は他の文化と出会えるのは楽しいな」
ワシリーは少しだけ寂しそうに笑った。
「我々はあまり他の民族と交流をしないのです」
「へえ。俺はグリンクラフト人と結婚したよ。民族交流万歳だ」
「そうですか。僕らは異民族とは結婚もしません。生まれた子供はティーガを名乗れませんから」
「厳しいな」
「仕方ないのです。他民族との子供は、我々の特徴を持たないのです」
ジャックはまた髪を撫でた。曾祖母の髪と目の色を継いだ者は誰一人いない。彼のプラチナブロンドは故国ではありふれた髪だ。銀髪と銀眼がティーガと認める文化なら、確かに混血の子供は一族とはみなされない。
「確かに...。俺のひい祖母ちゃんはティーガ族なんだが、銀の目と髪を持つ親戚は一人もいないな」
「そうなんですか。分からないだけで、血を継いでいる方は意外と多いかもしれませんね」
ワシリーは特に驚きはしなかった。
「かつては全土を支配していましたからね。ただ、髪と眼の色を継げなくなったのは『花の戦い』の後とも...。ティーガ族の完全なる敗北になったのです」
「ふうん...。でも遺伝子のせいじゃないのかね」
劣性遺伝であれば発現は不利になる。ジャックはアナスタシアの事を考えていた。マクシミリアンの子供ならティーガとはみなされない。身体的な特徴はグリンクラフト人だ。だったらランデスヴァルトへ帰る理由はあるだろうか? 王妃として留まっても、子供への反発は少ないのではないだろうか。
大きくカーブしていた通りがまっすぐになった。
付きそう警官が大声を張り上げた。
「デモは終わりです! 終わり!」
宮殿の前についた。彼らの態度に変化はない。白い城壁を見上げているが、敵意よりは好奇心が勝っているようだ。
ジャックと話していた青年がティーガの言葉で伝える。一同は掲げていたプラカードを下ろし、見るからにほっとした様子になった。
警官が笛を吹いた。
「移動して! 移動! こっち!」
城壁沿いの道を示す。
仲間がぞろぞろと歩き始めた。ワシリーが追いかける。ちょっとだけ振り向いて一礼をした。手を振り返したジャックに、片手を挙げた。
一行は白い城壁沿いを行く。自分たちの遺跡の上に立つ城の麓を歩いている。デモを見物していた人々も散り始めた。ジャックも立ち去ろうとして、ふと思った。
(解散だよな? どこに行くんだ?)
彼らは団体のまま移動していた。進んだ方向は市街地とは逆の山側だ。そちらには城の通用門がある。ジャックは彼らを追いかけた。通いなれた通用口だ。鉄のゲートの左右に警備兵が立っている。警官が彼らに敬礼をして、門が開けられた。やはり彼らは城内へ入って行く。続いてトラックがやって来た。コーエン物流だ。
ジャックも通用門へ向かった。ゲートを閉じようとしていた警備兵が眼を丸くする。お互いに敬礼をするが、兵士は戸惑った顔だ。
「中尉、その恰好は...。今日は勤務じゃないですよね?」
私服でタブロイド紙を小脇に抱えている。どう見ても非番だ。
「えーと、忘れ物を取りに...」
「取ってきましょう。どこですか?」
門は閉まりきっていない。ジャックはそこから中を覗いた。誰かが来ていないか。ちらりとシュルツが見えた。
「すぐだ。自分で行くよ」
警備兵にもう一度敬礼をして、するりと門内に入った。
トラックは少し進んだ処で停まった。コーエン物流はカーク商会と並ぶ大手だ。もっとも前者は全国展開には弱く、西州の物流を掌握している。運転手兼配送係が、シュルツと言葉を交わしながら荷台から荷物を下ろしているところだ。
「何だかきな臭いご時世じゃないですか。それなのに社長の道楽息子ときたら、家に寄りつかないで何をしているんだか」
「世襲じゃなくてもいいだろうさ。どんな仕事でも俺たちはせっせとこなすだけだ」
「はあ、シュルツ親方は達観されてますな」
台車がみるみる野菜で満載になる。
「おい! シュルツ!」
突然呼ばれて、台車の取っ手を握ったシュルツがきょとんとする。
「おや中尉の旦那。どうしたんです?」
「今、ティーガの一団が来たろう?」
林に邪魔されて庭園は見えない。彼らはそちらへ消えた。
気が無さそうにそちらをちらっとだけ見る。視線はまた台車に戻った。
「さあ、どうだったか。ま、自分には関係ないんでね。こちとら」
二人は声を合わせた。
「美味しい料理を作るだけ!」
シュルツはふん、と大きな鼻を鳴らす。
「おわかりで」
まもなくトラックは空になった。配送係は運転席に戻る。二人に手を振って発車した。シュルツは鼻をこすった。
「今日は? お昼だけ召し上がりに?」
「やめておくよ。この格好だ。そういや、朝早くに駅で事件があったって?」
「はあ? ああ」
シュルツは頷いた。
「不審物が置いてあったらしいですよ。詳しくは知らないですが、いや物騒なご時世ですよ」
「そうだな」
「ところでコック長には会いましたか?」
レイナーの事だ。
「いや、そういえばしばらく顔を合わせていないな。俺がパイを食べてやらないから寂しがっているだろう?」
「ええ。厨房に顔とその腹を出してやったらいかがで?」
「何か変わった事でもあったかい?」
「新作のパイを試作してますよ」
長く宮殿内で働いているシュルツだ。用心深い。世間話には乗るが、それ以上の話は聞けないだろう。
もう彼は背中を向けている。『物騒』という単語を選んだのは、不審物は危険物...おそらく爆破物か。
最も聞きたかった疑問は聞けなかった。
(誰がティーガ族を呼んだんだ?)
クロイツベルクの市中でティーガ族を見るのは珍しい。ワシリーの言葉通りなら、デモの為に大勢で来訪した事になる。しかも帰る場所が宮殿だ。
(分からんなあ...)
ゴドーは何かを知っていたようだ。それでも娘夫婦に告げるよりは遠ざける方を選んだのだ。
レイナーはジャックに話したい事があるのでは? シュルツのもってまわった言い方にやっと気が付いたのは、宮殿を離れた後だ。その後は、会う機会がないままだった。
ツヅク! 次回 第七話 下 アナスタシアの帰郷、そして王都が大きく揺れる
お読みいただきありがとうございます。
不審な死が相次ぎ、情勢はどんどん不穏に…。
1,2話の登場人物がたくさん出てきます。




