第七話 上 過去の町 クロイツベルク
内戦前の王都 クロイツベルク。
北から招かれたティーガの親子。
平和なアーノルド王の治世に、不穏な空気が忍び寄る。
第七話 上 過去の町 ~西州クロイツベルク~
時は内戦前にさかのぼる
クロイツベルク市に茜色の光が落ちる。
西州の州都であり、グリンクラフト連邦の王都でもある。山脈が近く、高原に拓けた都市だ。気候は温暖で、春ともなれば山脈から吹き下ろす風が芽吹きの匂いを運んで来る。
兵器開発研究所のテーブルの上に数本のガラス瓶がある。ジャック・ドッジソン・エフェレットは、そのラベルを丁寧に確認した。それらを棚に戻してカギをかける。
ジャックの専門は化学だ。ロッタと結婚するのと同時にここへ就職した。前職は農薬や化学肥料の開発だった。こちらは化学兵器の開発がメインだ。だが王宮内の敷地で危険な実験などできるはずもない。実質的には資料室を兼ねている場所だった。
それでも一応は実験室がある。ジャックはもっぱらここで勤務だ。病院のような白い壁や天井だ。床も白い。壁には試料の入った引き出しが並ぶ。アルコールランプやビーカーも備品棚に揃う。
「さて、と」
大きく伸びをした。西州軍軍服は濃紺で、腹がはち切れそうだ。月桂樹の葉に囲まれた二つの百合の紋章が揺れる。バロー伯爵の家紋を元にしたデザインだ。
仕事は終わった。愛想のない白い廊下を進む。ごつくて重い軍靴の音が響く。玄関の近くの廊下に立つ兵士が敬礼した。ロルフ・バウマンだ。
敬礼を返した。
「お疲れ、ロルフ」
ジャックの立場は少し複雑である。もともとは軍人ではない。工業系の大学卒業だ。クロイツベルク市内の民間研究所に居たのを、こちらの研究所に少尉相当の身分で迎えられた。軍事用兵器の開発が主な業務だ。軍の施設であるから軍属となる。定期的な軍事訓練も受け、現在は中尉だ。ここの所属である限り、戦場への出動はないだろう。
「中尉はこれからお子様のお出迎えでありますか?」
「まあな」
ジャックは軽く手を振った。西日を背に受けて、仕事場である建物を後にした。物騒な研究内容にも関わらず、塀や柵はない。広々とした芝生が広がり、同じような建物が点在している。外観は美術館とか博物館とのような雰囲気だ。中には凝った彫刻や塔が付いている建物もある。
ここは王宮の敷地内なのだ。仕切りなどないなだらかな丘陵が連なる。
王家の人々の居城は、ひときわ高い丘の上にあった。そこからなら市内を一望できるだろう。西日を浴びて白く輝く。見上げたジャックは目を細めた。
(今日もまぶしいな)
王宮は幾つかの丘陵を利用して設営された。一つの町を形成するほど広い。メインの建物は王の居室や執務室などがある宮殿だ。二百を超える部屋と大広間が三カ所ある。自然のままの森や小川も残され、いくつかの庭園は様式が様々だ。
(広いなあ。歩くのが大変だよ。カートが欲しいね)
などと愚痴半分ながら、美しい景色の中を歩くのは楽しい。
城塞としてより居城としての設計だから、凝った造園だ。王族のみならず主だった貴族は、宮殿内に部屋を与えられて住んでいる。メインの城に近いほど身分が高いか、或いは王宮での発言力を示す。
城の基盤は、先住民ティーガ族の手による。彼らは、山脈のふもとにある湖のほとりにまず神殿を造った。ロッホネス湖だ。切り立つ断崖に囲まれ、山側からの侵入を許さない。背後の守りは万全だ。それから、この城の元となる城を設営した。
『花の戦い』後は、グリンクラフト人が城を再利用した。だが遺跡には興味が無かったようだ。放置されて久しい。
ジャックの歩く庭園からは、歴史の現場が見えない。
さらに平和な道を進む。緑豊かな茂みからウサギが飛び出したりもする。ジャックは丘を越えた。だんだんと城に近づく。
やがて温室が見えた。隣接するのは四角い建物だ。ここだけはごくありふれた近代的な造りだった。警備兵はいない。ドアの横には『絵フェレット工房』と札がかかる。ジャックは扉をノックしてから開けた。鍵はいつも掛かっていない。ジャックの妻の父、ゴドー・エフェレットは王家お抱えの調香師だ。王宮内の居住を許されている。ジャック夫妻のどちらとも仕事の時は、ここで子供たちを預かってもらえる。
ジャックの地位はさほど高くはなく、貴族でもない。だから市内に家がある。宮殿に近い軍関係者の団地だ。そこまで子供たちを連れて帰る。
中から子供の泣き声がする。
「いたいよ、いたい!」
「あんたがイタズラするからよ!」
顔中を涙で濡らした子供が転がるように駆けて来た。片手でしっかりとウサギを握っている。ぬいぐるみというほどしっかりした作りではない。今は亡きゴドーの妻の手作りだ。タオルを縫って綿を詰めた。耳も申し訳程度についているだけ。サイズも四歳のピドーが握ってちょうどいい大きさだ。マリアも使っていたので、元のピンクはやや色褪せている。へそを示すのだろう。腹の中央に赤い糸でバツ印の刺繍があった。背後には二人の頭文字MとPもあった。
「ああ、ここからもウサギか」
笑うジャックの膝にすがり、ピドーがすすりあげる。
「マリアがおこる~」
「ピドーは負けちゃったか」
ジャックは息子を抱き上げた。腹からズボンにかけて濡れている。おまけに濃厚な甘さに鼻を攻撃された。顔をしかめつつも背中をとんとん叩いてやる。腕組みをしたマリアが仁王立ちで睨んだ。
内部はまるで病院か薬局のようだ。全体的に白い。テーブルにはフラスコやアルコールランプが置いてある。壁はラベルが貼られた瓶がびっしりと並ぶ。息子の体から漂うのはイランイランだろうか。もちろん良い薫りなのだが、原液が大量にぶちまけられたら強すぎる。
床に散らばったガラスを集めている青年が顔を上げた。笑顔を浮かべる。
「あ、中尉。こんにちは」
調香師の一人、ヨハンだ。濃い茶色の髪がいかにもグリンクラフト人らしい。彼は手早く破片をまとめると、隅にあるごみ箱に放り込んだ。
「じゃあ、僕はこれで」
彼は軽く頭を下げて奥の部屋に消えた。従業員用の休憩室と専用の出入口がある。そこに荷物や上着を置けるのだ。数人が働いているのだが、もう夕方だ。残っているのは、まだ片づけをしているクリスト・ディンケルだけだった。彼は古株の一人で、髪にはそろそろ白髪が混ざっている。屈んでいると、腹が少し重そうだ。ヨハンに手を振り、ジャックには片目をつぶってみせた。
「待ちかねたよ。おかえりジャック」
モップをかけていた細身の老人が腰を伸ばす。調香士のゴドー・エフェレットだ。ジャックの妻ロッタ・エフェレットの父である。柄で体を支えて腰を叩いた。それから部屋の窓を開ける。かつて茶色だった髪はすっかり白い。しかし巻き毛の名残は薄くなってもしっかり残り、孫たちとよく似ている。
「いつもありがとうございます。しかし...この匂いは...。何か子供たちが粗相でも?」
マリアが叫ぶ。
「こいつ! ピドーが悪い子だった!」
「うわーん!」
ピドーはジャックの首にしっかりしがみつき、更に泣いた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
どうやらピドーが香料の瓶をひっくり返したようだ。ゴドーは苦笑した。
「まあ仕方ないさ。飯でも食っていくか...と言いたい処だが、このありさまじゃなあ...」
窓を開けたくらいでは匂いはすぐに飛ばない。クリストも奥のドアを開けた。
「それじゃ、私も帰るとするかな。ゴドーさん、お疲れ様」
クリストは肩をすくめてモップを片付けた。すぐにドアが閉まる。
彼を見送り、ゴトー達も廊下に出た。やはり白い壁だ。休憩室を横目に曲がる。その先は一気に雰囲気が変わる。ここからはゴドーの居住部分だ。ごく普通のリビングルームが現れる。壁は柔らかいベージュで、今は火の入っていない暖炉の前にロッキングチェアがある。
ゴドーはさらに奥の部屋に行った。こちらはベッドルームだ。タオルと着替えを出してマリアに渡す。
「ピドーとウサギを風呂に入れてやれるかね?」
「うん。できる」
なかなか父親から離れようとしない弟を引きずるように、マリアは風呂へ向かった。
「さあ来るのよ! このお馬鹿な弟!」
「いたたたたた」
ウサギごとピドーが浴室に消えた。
ジャックとゴドーは向かい合ってリビングのソファに座った。
「ご迷惑をおかけしてすみません、お義父さん。託児所代わりにしてしまって...香料は弁済をさせて下さい」
頭を下げるのを制する。
「いいや、ピドーの出世払いにしておくよ。子供らは賑やかでいい。一人で住み込みというのもつまらんもんでね。何せ娘を連れて行っちまった奴がいるからねえ」
ロッタはここで生まれて育った。就職も宮殿のメイドになった。結婚を機に、初めて市内に居住だ。
「...すみません...。やはり町で一緒に住みませんか? お一人では何かと不便でしょう」
ゴドーの妻は二年前に亡くなったばかりだ。
「いやいや。クリストがいるし、ロッタもちょくちょく顔を出してくれる。やれるうちは一人でやるよ。温室の面倒を見なくちゃいけないし。そりゃそうとピドーは楽しみだね。とにかく鼻がいい。一度嗅いだら忘れないし。良い調香師になる」
「お義父さん似ですね」
「ああ。で、マリアはロッタに似ているよ」
おりしも玄関から叫びが聞こえた。
「何、この匂い! 父さん? 父さん! いるの?」
玄関はもちろん、居住部分にも鍵はかけていない。
ロッタがやって来た。かつかつと足音を立てて、リビングのドアを開ける。白いエプロンだ。宮殿用に糊を強くかけて、襟を立ててある。まだ仕事中の格好だった。背後には、ロッタを見下ろすように銀色の髪の女性がいる。ほっそりした肢体に長い上着を羽織っている。ざっくりした麻の織物だ。赤やオレンジなど暖色系の糸で細かい刺繍が施してある。ひざ下までの生成りのスカートに、同じ色のパンツスーツを合わせてあった。足元は、上着に似た素材と刺繍の布の靴だ。ティーガの伝統的な服装だ。瞳ばかりがきらきら光っているようだった。
「アナスタシアさんか。こんにちは」
ロッタが体をかわして、女性を前に出した。
アナスタシア・リョードフだ。彼女はゆったりと頭を下げた。
「お忙しいところ恐れ入ります。お世話になります」
ていねいな言葉に異民族の響きがあった。所作もグリンクラフト人とは少し違うようだ。
「...『先生』?」
首をかしげるジャックにゴドーが伝えた。
「ほら、ディーター殿下の。アナスタシアさんは娘さんだ」
現王が長男アーノルド。次男マクシミリアン。そして三男、末弟がディーターだ。
「ああ、そうでした。殿下は学者でもいらっしゃる。歴史の研究をなさっているとか」
「そう。殊に最近は、ティーガ族にご興味があるそうだ」
そこでティーガ族から詳しい者を呼び寄せた。それがギデオン・リョードフだ。娘のアナスタシアは助手兼身の周りをする為に同行している。ゴドーは彼女に笑顔を向けた。
「今日はどうされたかな? まずはお茶でも飲むかね」
「ありがとうございます。でも...あの...」
アナスタシアは、ちょっとはにかんだように、また頭を下げた。
ロッタが父に言う。
「今日はアロマオイルをお探しよ。よく眠れないって。薬は嫌だそうなので、安眠とかリラックス効果のある物ってなにかしら。それにしてもこの匂い...」
マリアが転げるようにやって来た。
「お母さん、おかえりなさい!」
「あらあら、どうしたの? ...これ...」
しゃがんで娘をのぞきこむ。
「あのね、ピドーがね...」
まとわりつく娘をジャックが受け取った。そしてロッタの頬に軽くキスする。アナスタシアが目を伏せた。指がもじもじしている。
「ロッタ、まだ仕事中だろう?」
「夜勤前の休憩なの。さっきコーエン物流が来て大騒ぎよ。大きな貨物が北州から来て...あ、何でもない。すぐ戻るわ」
「お母さんとおじいちゃんは、仕事のお話があるから。先に帰ろうな」
弟の世話をマリアは頑張った。まだ五歳にしては。頭をびしょびしょにしたピドーの頭をタオルで覆ってやる。マリアの手を引き、ピドーを抱いてジャックは外に出た。
すると、マクシミリアンが立っている。皺のない白いシャツでネクタイはしていない。少し余裕のあるジャケットは濃紺で、金色の髪が映える色だ。靴はシンプルなデザインながらよく磨かれ、革はなめらかそうだ。
敬礼の為にピドーを下ろそうとすると、彼は手を振った。
「いいよ。ドッジソン・エフェレット中尉だな? ゴドーの娘婿だろう?」
「そうであります」
マリアとピドーがきょとんとしている。父とお爺ちゃんを知っているこの人は誰だろうと戸惑う。王弟だとは知らないのだ。一介のお抱え職人といえエフェレット家は代々王家に仕えている。それでマクシミリアンもゴドーを知っているのだろう。
「えーと...その、リョードフ嬢がこちらだと聞いたのだが」
敢えて追いかけて来たらしい。
「はい、奥におられます。お呼びいたしましょうか」
「あー...うん...。そうだなあ」
彼は口ごもる。熊のような体躯のジャックを見上げた。マクシミリアンの太陽の輝きのブロンドは、夕日でさらに茜色に透けていた。
「君も外国から来たのか? ドッジソンというのは珍しい名前だし、その髪もグリンクラフトではあまり見かけない色だな」
「はい、ノルン山脈のさらに北側、ノーザンベルの出身です。今は妻の苗字を名乗っております。アナスタシアさんはティーガ族だそうですね」
「ああ。うん」
腕を組み、しばらく彼は唸っていた。だが、くるりと踵を返す。
「後でいい。うん」
少し行きかけて、振り返った。
「中尉。君はリョードフ嬢と親しいのかな?」
「いいえ。しかし妻は話をするようです」
不眠の相談をできるのだ。ロッタには心を開いているのだろう。
「じゃあ、その...黙っていて欲しいんだが...知らなければいいんだが、もし耳にしていたら...。ほら、誤解があるといけない」
どうにも歯切れがよくない。あっ、と察したジャックは深く頷いた。
「何の事か分かりません。テレジア様との婚約についてなど、私は」
「してない!」
自分でも思わぬ声だったらしい。唇に指を当てる。
「バローが勝手に言っているだけなんだよ。二人きりで会った事すらない。とにかくテレジアの話はリョードフ嬢には黙っておいてくれ」
「ロッタには伝えておきます」
芝生に落ちていた赤い光は、そろそろ闇の色を帯びている。宮殿内の工房に住む義父の家から、石敷きの道を彼らは歩き始めた。ジャックの一家は市内に居を構えている。しかし王宮はロッタの仕事場でもあるので、工房に子供達を預けられるのは便利だ。仕事が早く終わる方が迎えに行くのだった。通用門へ急ぐジャックの後をマクシミリアンが付いてくる。
「ロッタとはどこで知り合ったのかな?」
「シパクトリの大会です」
「ほう? 大会のマスコットガールとか、プレゼンターをしていたのかな?」
「まさか! 選手です。彼女は女性では無敵の上、男に混じってそこそこの成績を上げていましたからね」
「ほう。デートはどうした?」
「ジムで一緒に走ったり、ボクシングの試合観戦をしたりとか」
「う~ん。リョードフ嬢にはどうだろうか?」
「少し違うようです」
ジャックは首を振る。あの優雅なたたずまいの女性が、リングサイドで歓声を上げるとは思えない。
「うむ。ではウサギ狩りに誘おうか」
またもジャックは重々しく首を振った。
「繊細な女性のようです。小動物を狩るよりは愛でる方に楽しみを感じる方なのでは?」
「そうか。優しい人なのだな。それでは動物園や牧場などどうだろう。そろそろ羊の毛刈りの時期だ。ちょうど良い」
「...毛刈りですか...」
動物に対する行動としては、愛でる部類に入るのだろうか。動物を抑えつけて丸刈りにするのだ。デートで見物しても、ロマンチックなムードになる可能性は低そうだ。
「むしろ庭園で花などご覧になる方が宜しいのでは?」
大の男が二人。真剣にまだ申し込んでもいないデートの場所を検討している。王子というマクシミリアンの身分では、自ら女性を誘うのは初めてらしい。
マリアは大人しく待っている。内容がよく分からないながらも、大人同士の大事な話だと思っているのだろう。しかしピドーはもうぐずり始めていた。すっかり飽きてしまったようだ。身をよじってジャックの腕からすり抜けた。走り出そうとしてマリアに捕まる。
「待ちなさいよ!」
襟をひっぱられる。ピドーはカエルが潰れたような声を上げた。恨めしげに姉を見上げる。ケンカが始まりそうだ。
「おい、こらこら」
ジャックが割って入ろうとした。マクシミリアンがひょいっとピドーを抱き上げる。少しずれた頭のタオルを直してやった。
「すまないな。父上を独占してしまった。飽きてしまったか?」
きょとんとしている茶色の瞳をのぞきこみ、マリアと見比べる。グリンクラフト人は大多数が濃淡の違いはあっても茶か黒髪だ。マクシミリアンは笑い声を上げた。
「そっくりだな」
「はあ。ロッタに似ているとよく言われます」
「いやいや、きょうだい同士だよ。楽しそうだ」
マクシミリアンはピドーをそっと芝生に降ろした。
「兄上とは年が離れているし、幼い時から特別に帝王教育を受けられていたからな。一緒に過ごした記憶はあまりない。ディーターとはよく一緒にいたものだが、最近はすっかり書斎に閉じこもりだ。リョードフ先生と家族よりも長く過ごしているのではないか」
アーノルド王には既に男子がいる。十二歳になるハンス・ヨアヒムだ。まだ正式な王太子になっていないものの、王位継承者第一位だ。マクシミリアンとディーターが王位を継承する可能性は低い。負うべき義務から多少の自由はある。さりとて王家の一員だ。外出はもちろん、行動の制約も多い。いわば足元に描かれた円の中で暮らしているようなものだ。その中では自由にふるまえても、決して線の外に出るのは許されない。
マクシミリアンはピドーの頭を撫でた。ジャックの方が、むしろ肌は白いだろう。しかし骨ばってたくましい。それとは対照的に、きめの揃った形の良い指だ。
屈んでいた腰を伸ばして、彼は片方の肩だけをすくめた。
「もっともディーターがティーガの神話になぜあんなに傾倒するのか、分からなくもないな。先生のお世話をしているのが、あの美しい人だからなあ...」
背後で声がする。工房のドアが開いた。ロッタとアナスタシアだ。声は聞こえるのだが、内容は聞き取れない。もう夜の気配が地上に忍びより、人の輪郭をぼかしている。ロッタのエプロンとアナスタシアの髪が亡霊のように浮かんでいた。
ロッタが呼んだ。
「ジャック? まだいたの? 冷えてしまうわ、子供たちを」
そこで言葉が止まった。夫の傍らにいるのが殿下だと見てとったのだ。あわててお辞儀をしている。アナスタシアも倣った。彼女の動きはとても静かで、ゆるりとした雰囲気をまとっていた。
軽く手を振ってから、マクシミリアンはまた肩を上げた。
「呼びとめてすまなかった。僕も戻ろう」
「リョードフ嬢にご用事だったのでは?」
「やっぱり後にする」
子供たちにも笑顔を向ける。歩き始めて、またすぐに振り向いた。小声になる。
「さっきの話、くれぐれも言わないでくれ」
「もちろんです」
闇の中でアナスタシアとマクシミリアンの視線が絡んだようだった。だが確認する暇はなく、ジャックは子供に手を引かれてその場を離れた。
ピドーがジャックのズボンをひっぱった。
「ねえねえ、絵のたくさんあるところに行きたい」
「へえ美術館かい?」
「違う」
マリアが口を挟んだ。
「宮殿の中。王様の絵がいっぱいあるの。今日ね、お爺ちゃんと一緒に行ったの。お父さんも見たいでしょ」
もう父の手を引いて、そちらへ歩き始めている。
「ああ、回廊か。ちょっとだけだよ」
丘を上がった。白い宮殿の外側に回った。使用人通路の出入り口があるのだ。貴族たちが行きかうのは、天井が高くて瀟洒な彫刻で飾られた廊下だ。だがジャック達が通るのはこちらだ。
何の飾りもない白いだけの壁をシンプルなライトが照らす。幅はワゴンの行き違いが出来る程度で、入り組んだ迷路のようだ。扉がたくさんあるのは、どこの部屋にでもすぐに行けるように設計されているからだ。早く移動する為に、所によっては地下通路だったり、逆に少し上がったり下がったりもする。マリアとピドーはもう行き先を心得ているようだ。ジャックは後を追う。
(迷路のようだな)
やがて二人は指を指した。
「ここ!」
ドアを細めに開けた。豪華な廊下の先に大きな回廊がある。左右の壁には歴代の王の肖像画が掲げられてあった。丸い天井には神話が描かれている。ピドーはいきなり走り出す。絵を見るよりは、長い直線を走りたかったようだ。
「おいおい、走るな」
ジャックはあわてて追いかけた。この回廊は王族の居室の出入口となっている。いわば公共の場との境界だ。勝手にその先へ入るのは許されない。実際に回廊の両端には銃を構えた兵が立っている。
ピドーを捕まえたジャックは、あわてて彼らに敬礼した。顔見知りだ。
「ジャック・ドッジソン・エフェレット中尉、ただいま非番であります」
「見れば分かりますよ。あんまり長居しないで下さいね。マリアちゃん、ピドー君、早く帰りな」
兵士らは子供連れのジャックに微苦笑を浮かべる。宮殿に出入りするゴドーの孫だ。この近辺まではちょろちょろと訪れるらしい。
再び敬礼して、宮殿に背を向けた。
マリアがピドーの手を取った。並んで歩きだす。
「ピドー、読める? 初代の王様って書いてあるのよ」
「ふ~ん」
幼い二人の後ろをジャックはゆらゆらと歩く。既に日は暮れてランプに灯りが灯る。豪華に彩られている天井付近は既に闇に包まれ、三人の足元が反響して空気が震える。王の肖像もうっすらとぼやけて彼らを見下ろした。冷たい湿気が内部へ向かって押し寄せるようだ。
いつしかきょうだいは寄り添っていた。最後の肖像は現王アーノルドだ。まだ壁には余地がある。そこでジャックは子供たちに声をかけた。
「ほら帰るぞ」
回廊の先の扉が開いた。ゴドーが顔を出す。
「おや、まだいたのかい」
ピドーは祖父に駆け寄った。
「お爺ちゃんも来た」
手にぶら下がる。マリアは父の脚に抱きついた。
「ピドーが来るって聞かなかったの」
「そうだったか?」
祖父は笑った。
「ここまでの出入りはおとがめなしだからね」
ピドーの肩を撫でる。
「爺ちゃんはご用事で中に入るんだ。ピドーは大人しく良い子で帰れるな?」
「うん」
「よしよし」
祖父の手は温かい。
「ねえお爺ちゃん、中は何があるの?」
「王様たちのお住まいだよ。そうだなあ...。王族といっても家族は家族なんだ。それじゃあ」
ゴドーは手を振り、王室の居住区へ消えた。
数日後、温室の前をジャックが通り過ぎた時だった。半透明の窓越しに二つの人影があった。髪の色は間違いない。アナスタシアとマクシミリアンだった。あえて声はかけずに通り過ぎたのだった。
半月ほどが過ぎた。
花の季節が訪れた。城のあちらこちらでは色鮮やかな色彩が見受けられる。
丘の上で号砲が響いた。王宮の城壁から、昼を知らせる為の空砲だ。
ジャックは研究所を出た。
宮殿内の広大な敷地には、研究所や工房と似たような建物が幾つもある。いずれも宮殿のある丘の下に点在していた。そのうちの一つへ向かった。そこの造りも小ぶりの美術館といった入り口だ。コリント風の柱が三角の屋根を支え、大理石の彫刻が出入り口を飾る。しかしそこは『食堂棟』と愛想のない名前で呼ばれていた。
(あ~腹が減ったな)
王宮の施設らしく、ロビーも白い大理石だ。豪奢な飾りのついたドアの左右に、赤いじゅうたんが敷かれた階段がある。湾曲して二階へ続く。しかし使われているのはドアの向こうの広間だ。二階までの吹き抜けで天井は高い。古い軍記がいかめしい図柄で天井に描かれ、クリスタルのシャンデリアが幾つも下がる。
丸いテーブルには、無地の無愛想なクロスがかかり、椅子も大量生産で造られたような代物だ。それが無ければ舞踏会の会場になっても当然といった風情である。壁のフックにラジオがかかっていて、昼のニュースを伝えていた。
貴族の館ではない証拠に、おのおのテーブルに座っているのは制服を着た者ばかりだ。ジャックのような軍服もいれば、宮殿内の作業員もいる。
壁際には四角い大きなテーブルが置かれ、そこに大皿に盛られた料理が並ぶ。グリンクラフトの家庭料理が多い。煮込んだ野菜や肉だ。食器を取り、好きな分を自分で取り分けるのだ。ボーイが数人控える。ある者は使用済みの食器を下げ、他の者は別室の厨房へ料理の追加などを行っていた。
(今日もうまそうだ)
適当な席に着く。食事を始めてすぐだった。室内が不意に静かになった。現れたのはリョードフ親子だった。勝手がわからないのか、うろうろと辺りを見渡している。いつもの民族衣装だ。制服ばかりの中でとても目立つ。
小太りのコックがやって来た。湯気を立てる大皿で両手がふさがっている。ちらりと親子を見て、顎で空いているテーブルを示した。彼はいつもの通りだ。しかし、初めての者にはいささかつっけんどんに見えたかもしれない。
ジャックは腰を浮かせた。
「アナスタシアさん!」
彼女がほっと息を吐いた。手を振るジャックに軽く会釈をする。ジャックは立ちあがった。
「シュルツはいつもあんな感じです。お気になさらず。その分料理は美味い。今日はこちらで食事を?」
「ええ、ディーター殿下が今日はお出かけになったので」
いつもは王宮でディーターと食事を取っているようだ。二人はジャックが勧めるままに料理を取り、彼の正面に座った。
リョードフの髪は既に光を失って白かった。背中は丸い。少し前かがみでレンズの厚い眼鏡をかけている。上着の刺繍は黒や青色が多い。二人は確認するようにフォークで皿の中をつつきまわす。
「お料理は口に合いますか?」
リョードフは軽く頷く。アナスタシアが答えた。
「美味しいです」
しかし、あまり食は進んでいない。ティーガの料理とは味付けや素材が違うのだろう。
「甘いものはいかがですか? ここのコック長は名パティシエでもあります。パイが得意でね。えーと」
テーブルを見る。今日のデザートはチョコレートブラウニーだ。
「出し惜しみしているな。いや、毎日でも食べたいんですが、しょっちゅう出すとありがたみが薄れるとでも思っているようで」
「パイがお好きなんですね」
「大好きです。サクサクした感じと、中のフルーツのとろっとした食感が何とも...。あ、でも今日のケーキもお勧めですよ。ぜひお一つ」
アナスタシアはやっと少しほほ笑んだ。
「ありがとうございます」
「一日中お勉強ですか」
「はい、いつもは」
アナスタシアはちらっと傍らの父を見た。彼は黙って皿の中をかきまぜている。
「父は殿下のお相手ですので...。私は散歩などします」
「ここは広いですからねえ。庭園もあるし、眺めも良い」
城は高台にある。市内はもちろん北西の山脈も一望できる。
「僕の仕事場からは残念ながら見えないんですが、ロッホネス湖もきれいでしょう?」
二人の手が一瞬止まった。アナスタシアの笑みがすぅっと引く。銀色の瞳がジャックを射るように見たが、視線は胸のあたりに刺さる。それが瞳にまで上がった時、彼女はまた寂しげな笑顔だった。
「崖の下ですから行った事はありません」
ジャックも笑顔を浮かべる。
「勿体ない話です。立ち入り禁止ですからね。夏は水浴びでもしたくなりますよ。もっとも僕は泳げないんですがね」
たわいのない話が続く。しかしあまり長くはなかった。アナスタシアはデザートを取る事なく、父と共に席を立った。
「では、失礼いたします」
彼らがそそくさと出て行くなり、こころなしか室内の雰囲気が軽くなったようだ。周囲の人々は、どこか緊張していた感じだった。
ジャックも軽く息を吐く。リョードフ親子が必要以上に意識されていたのは彼も感じていた。見渡す限り、ジャックほど薄い色の髪の者はいない。あの親子もどうしても目立つ。デザートを取る為に大きなテーブルへ行くと、レイナー・マーティンが顔を出した。ここのコック長だ。
「おう、旦那。食べているかい?」
「うん。これも美味しいな」
「ふうん。後で来てみな。もっと美味しい物があるかもしれないよ」
食堂は忙しい時間帯だ。ひっきりなしに厨房から料理が運ばれる。責任者のレイナーが客席に出るのは珍しい。
「どうした? 俺にじきじきにサービスしに来てくれたか」
「ご希望ならね。いや、ティーガの親子がいるってんで、ちょっとご尊顔を拝みに来た」
「美人だな」
「ああ。ちょっと怖いくらいに」
じゃあ、と手を振る。まだ忙しい時間だ。レイナーは足早に去っていった。
ジャックはちょっと首をかしげた。湖の事は、何の気なしに言ったのだ。しかし親子の反応は少しおかしい。父親は無視。娘は、眺望を褒めたのに『行った事はない』だ。彼らの祖先の遺跡があるのに、訪れもしないとは不自然だ。
(嘘をつく理由でもあるのか?)
彼らに関する情報が少なすぎて、何も思いつかない。とりあえずはケーキだ。吸い込まれるように口に消える。すぐにおかわりを取る為に立ちあがった。
「中尉、おかわりですか」
声をかけてきたのはロルフだった。
「うん。ビュッフェってのはいい発明だな」
「ええ、本当に」
彼はジャックの腹を見下ろして苦笑いした。二人は並んで腰を下ろした。声が低くなる。
「ところでさっきの...」
「ああ、リョードフ親子か? 食事に来ただけだ」
「きれいな人でしたね。父親に似なくて良かった」
「おいおい...。まあ、そうだな」
リョードフの老いに対して、娘の美貌が際立ってしまうのだろう。
ロルフが呟いた。
「それにしても貫禄のある女性ですよね」
言葉の選び方が少しずれてはいるが、彼の言わんとする処はジャックにも分かる。年齢の割には、アナスタシアのまとう雰囲気は落ち着いていた。
ラジオが軽快な音楽に変わった。食堂はいつも通りの賑わいだった。
レイナーには、何か話があるのかもしれない。ジャックは終業後に食堂棟へ向かった。
林は途切れ、灰色の高い壁がすぐ背後にある。食材を運びこむ為に最も低く、また町に近い位置にある。ただし警戒は厳重だ。鉄の門扉は、開門以外はしっかり施錠され、詰め所には兵士が常駐している。ここだけは濠が途切れて車の乗り入れができる。いわば勝手口だ。門は狭く、やはり兵が警護をしている。コーエン物流のトラックが出ていくところだった。
食堂の真っ白な扉には準備中の札がかかっている。まもなく夕食の営業が始まる時間だ。何かを焼く匂いがする。
ジャックは裏手に回ってドアを開けた。
「こんにちは」
そこは厨房だ。この時間帯でも調理をしているが、ランチほど量はない。
鍋や食器は大部分が片付いている。お玉や大きなトングも大きさごとに並べられ、壁際の金具にかかって次の出番を待つ。昼には十人以上はいるだろうコックも、昼に比べて少ない。
なかでも忙しく立ち働いているのは、おそらく明日の仕込みだ。
そこを通り過ぎて、奥の扉を開けた。
「レイナー、いるかい?」
「おう、旦那」
高い帽子をかぶった男が顔を上げた。レイナーだ。こちらは事務室である。書類棚を前に、きちんと整理された机に座っていた。手にしていた書類ばさみを置く。
「中尉! もう半年も前に昇進済みだよ」
「はいよ、中尉の旦那。これからお子さん達のお迎え?」
「いや、今日はロッタが早番」
ジャックの背後から、若いコックが声をかけた。
「レイナーさん。玉ねぎが届きませんでした。遅番メニューをどうしましょう?」
「ん? 天候不順でもあったかな? まあいいよ。仕方がない、もう間に合わないだろう」
な、とジャックにウインクしてみせる。
「もっとも玉ねぎの一つや二つ無くたって、味の違いなんぞ分からないくらいにウチは美味しいよ」
「その通りだ」
「旦那はちょっと座っていな」
「ああ。悪いな、仕事中に」
ちんまりとしたソファがある。一人掛けだ。ジャックは体を押し込んだ。
レイナーは事務室を出た。少し開いたままのドアから声が聞こえる。部下たちへ幾つか指示を出していた。管理者は忙しい。一通りの作業が終わったのか、戻って来た。ドアをきちんと閉めたうえに、鍵までかけた。
「どうした?」
「いやぁ、別に。いつもはもうほぼ終わり。納品が遅れたせいで待たせたな。コーエン物流も、最近気が緩んでいるんだか。ちょくちょく遅れちまって...。とにかく遅番用の用意もこれで目途がついた」
夕食をここで食べる職員もいる。彼らのための準備も終了したようだ。
この部屋には簡易キッチンもある。レイナーはやかんをガス台に乗せた。お湯が沸くまでに、冷蔵庫からパイを用意する。ワンホールだ。お茶と一緒にジャックの前に置いた。カップを持ちあげ、思い切り息を吸い込んだ。
「いい香りだ」
「ゴドーさんからもらったハーブのお茶。パイはブルーベリーだよ。初物だ」
「うまそうだ」
さっそくフォークを動かす。とたんに満面の笑みだ。
「最高だ!」
レイナーはやれやれ、と首を振った。
「その体格で酒よりパイがお好きとはねえ。ま、こちとらどうせ余り物を出すだけだからいいけど」
「わざわざ『余り物』を作ってもらえて、俺は幸せ者だよ」
「旦那は幸せが安上がりだなぁ」
「すぐに幸せになれるからいいだろう。俺の故郷は海沿いだ。塩はたっぷりある。でも砂糖が取れない。甘い物は貴重品なんだ。グリンクラフトは何でもある。豊かでいいねえ」
「ノーザンベルだっけ? ノルン山脈の向こうだな。山を越えてケーキを食べに来た熊かい、旦那は?」
「あはは、その通りだ。ところで?」
まだ太陽が残り火を地上に投げる。窓から差し込む光は赤みを帯びていた。わざわざ誘って来たのだ。何かあるのだろう。
「教えてほしいんだ」
机に腰を下ろした。ジャックを見下ろす。少し身を屈めた。声を顰めて灰色の目を覗きこむ。
「旦那は知っているだろう? マックス殿下がティーガの娘に惚れちゃってるって」
ジャックは素知らぬ顔だ。
「知らんな。そんな噂があるのか?」
「噂も何も、最近じゃおおっぴらに二人で散歩しているじゃないか」
ジャックもそれは知っている。軍人であるから、王族の私的な件については否定しただけだ。アナスタシアはゴドーの工房を訪れているし、温室でマクシミリアンと会っているのも目撃した。まさか羊の毛刈りショーは無いだろうが、二人の距離はいつの間にか近づいていたようだ。
レイナーは続けた。
「バロー伯爵がえらくティーガの娘にご立腹らしい。テレジア様との縁談がつぶれたのは彼女のせいだってな。なにしろ姪っこだ」
バロー伯爵は、親族を王族に嫁がせるのに熱心だ。既に何組か婚姻を結んでいて、宮廷内では発言力がある。姪のテレジアをマクシミリアンに嫁がせようとしていたのは公然の事実だった。
「マックス殿下にその気が無かっただけだろう? どこからそんな話が広がっている?」
「みんな知っているよ」
「噂だ」
「噂だね」
レイナーは首を振った。ティーポットからジャックにお代わりを注ぎ、自分の分も入れた。
「噂といえば、湖に幽霊が出るそうだ。ハイケが見たとさ」
「誰だって?」
「入ったばかりの女の子だよ。これが素直で働き者だ。目がくりくりしていて、とにかく可愛い! 今度の休みに映画にでも誘おうと思っているんだが、来てくれるかな?」
カップに目を落とす。
「まず誘えよ。ああ、どいつもこいつも...春だなあ」
デートの相談なのか。だがレイナーは真面目な顔に戻った。
「宮殿の裏手に遺跡があるだろう? あの親子が来てから、立ち入り禁止のはずの水辺に人影が見えるんだと。ティーガの神殿跡じゃないか? センセイが何か企んでいるんじゃないかって、もっぱらの噂だ」
「また噂か。遺跡で?」
「ああ。亡霊を目覚めさせて国家に仇をなす...とかね」
かつて自分たちを滅ぼし、神殿の上に城を築いた征服者のもとに赴き、文化を指導する。皮肉だ。
「出来の悪い怪談だな」
「いやいや。ハイケは宮殿の給仕もしているから知っている。夕食が終ると、もう外は真っ暗じゃないか」
食器を下げた時など廊下の窓からふと外を見ると、暗い湖面が見える。そのほとりでぴょんぴょん跳ねる人影と、傍には全体的に白い女性も立っている。ハイケは思わず悲鳴を上げてその場を走り去った。
厨房に戻って同僚に伝えた。笑っていた他の従業員だったが、やがて他にも目撃者が現れ始めた。
古い城の倣いとして、幽霊の目撃譚は幾つか伝わってはいる。しかし、今回は少し違っていた。見た者が多い。騒ぎは少しずつ広がっていった。やがては使用人の責任者であるハンナ・ティッシュバンの耳に入った。彼女は直ちに幽霊の話を否定し、これからも興味本位で噂を立てるのを禁じた。
「前々から幽霊譚はあったさ」
レイナーはカップを置いた。
「赤ん坊の泣き声がするとか、小鬼が湖畔で遊んでいるとかね」
それにティーガ族の存在が加わった。リョードフ親子の滞在中だ。彼らはもちろん、呼び寄せたディーターが知る処になったら良くない状況だ。ハンナのかん口令の意図はそこにあるのだろう。
「で、マックス殿下とロマンスときたもんだ」
「めでたいじゃないか」
もうパイは最後の一切れだ。口に入れてぱんぱんと手をはたく。
「ティーガ族はもうずっと前からグリンクラフトに影響を与えるほどの勢力じゃない。アナスタシアが王家に入ったところで問題ないだろう? 継承権がからむと面倒だろうが、その心配も今のところない。遅摘み酒は大事に育てられているようだ」
「うーん、どうかねえ。王妃に似たんだか体が弱いってさ。めったに表に出やしない。無事に成人されるといいが」
クロイツベルクは平和な国だ。しかし万が一のテロや暗殺を警戒して、病弱な王子ハンス・ヨアヒムはめったに公的な場所には出ていない。王妃は出産後まもなく亡くなった。
「そうだね。グリンクラフト人だってそもそも東州から移動してきたんだろう? アナスタシアに王子ができたっていいさ。民族融和じゃないか」
レイナーは鼻をかいた。
「旦那はティーガの娘と仲が良いんだろう。何か知っていたら教えてほしいんだ」
「仲が良いのはロッタだ。民族融和に協力してるよ。世界平和に万歳だ」
「万歳」
すっきりしないレイナーの顔をよそにジャックは立ち上がった。
「まあ心配なら、ちょっと気を付けておくよ。ごちそうさま」
「はいよ」
代金を払おうとしても手を出さない。
「食べっぷりがいいんだよ。気持ちいいね。それで充分」
「そりゃどうも。美味しかった」
再度礼を言ってレイナーに手を振り、外に出る。西の地平がわずかに赤い。火が燃え残っているようだ。
(奴は何を心配しているんだろうな?)
昼間の親子の様子も気になる。
(黙っている事でもあるのか?)
ジャックは周囲を見渡した。芝生は既に黒々となり、ところどころにある外灯が黄色い光を落とす。小石の道が細く白く伸びている。人の姿はない。どこかで鉄のきしむ音がした。
通用門は右だ。ジャックは左へ曲がった。街灯を避け、芝生を踏んで歩く。左右を伺いながら小高い方へ向かった。石積みの基礎があり、城はさらに上だ。石垣に沿って進む。一度上がりきった。風と波の音がする。林を過ぎると斜面だ。城壁は少し離れていて照明はない。足元がうっすら見える程度だ。
黒い鉄の柵はところどころ錆びている。金網が更にはりつけられ、上部には鉄条網だ。柵に沿って進むと扉がある。そこには大きな錠前が下がっていた。向こう側に木の階段がしつらえてある。中央はすり減っていた。
(使われているか。入れるかもな)
もう少し進む。柵は延々と続いていた。とある処で鉄条網が途切れている場所がある。金網に指をかけた。ジャックの体重ではたわんでしまう。だが鉄の棒にくくり付けられているのだ。何とか上がれそうだ。
「よ...っと」
左右に金属の棘が飛び出している。服をひっかけないように注意しながら乗り越えた。もっぱらデスクワークだが軍事訓練も受けているし、元々はスポーツ選手だ。図体の割には軽やかに斜面に降り立った。
木の枝を伝いながら降りる。湖面が見えてきた。小さな町がすっぽり入るほどの大きさだ。ノルン山脈ははるか遠く、黒々とそびえている。星がまたたき始めていた。
湖畔にたたずむのは、蔦と木々の小山である。しかし、緑のカーテンをめくれば、コケむした石組が露出する。城の基礎部分と同じ造りだ。外観は崩れてしまった西の城神殿だった。
(幽霊ねえ...)
ジャックは耳を澄ませた。風が頬を撫でる。湖の湿気を含んだ冷たい空気だ。
がさり、と枝が揺れた。白い影が建物の近くにいる。星明かりの元でもはっきりとわかる白い姿だ。一瞬飛び上がる。喉を空気が通り過ぎたような鋭い悲鳴が上がった。
さすがにジャックはぎくりとした。しかしこの声は人間だ。
「アナスタシアさん?」
彼女は大きく息を吐いた。髪が風になぶられている。それを額のあたりで片手で押さえ、声の主を伺った。
「ああ、エフェレットさん! 驚きました」
「それはすまなかった。そんなに驚くとは思わなかった」
「ここであまり人とは会わないものですから」
彼女は胸を押さえた。片腕にぶらさげた籐のバスケットが揺れる。来た事がないと言ったのを忘れているのか。
「暗くて足元が危ないな。ここで何を?」
「...資料の採集です」
「こんな夕暮れに? 幽霊が出ると噂だ。怖くないのかな?」
「まだ夕方です」
表情は分からない。声の調子は固く、ぎこちなかった。工房でロッタと話しているのとはまるで違う。ジャックが近付くと下がった。
「どんな資料を集めているのかな?」
彼女はカゴをしっかり抱えた。
「帰ります。父が待っていますから」
くるりと背を向ける。足首までのスカートがはためいた。籠からなのか、甘い香りが届く。樹脂系らしいのはジャックにも分かったが、種類までは確定できない。アナスタシアの清冽なイメージとは少し違った個性的な雰囲気だった。
駆けあがる背中を見送る。
神殿はティーガの遺跡だ。アナスタシアが訪れても当然だろう。しかし、なぜこの時間なのか。どうして嘘をついたのか。人目を忍ぶ様子だった。
木の階段が終わる処は、少し広くなっている。草が踏みしだかれ、地面が露出していた。アナスタシアは灯りを持っていなかった。
(と、言う事は帰るところだったか? 彼女はどうやら鍵を持っている、と)
緑の小山と化した神殿だ。びっしりと蔦や草に覆われている。土が踏み固められ、足跡が重なった細い道ができている。行き止まりの壁は蔦がまばらだ。緑のカーテンをめくる。しかし、あるのは壁ばかりだ。
(足跡はここで途切れる...。と言う事は、入り口がどこかにあるはずなんだが...)
隠し扉でもあるのだろうか。ジャックはしばらく壁をぺたぺたと触ってみた。
太陽が稜線に隠れた。冷たい風が吹き抜ける。灯りが無くては、もう探索は無理だった。階段を上がる。
斜面の途中でランプが揺れた。
「誰かいるのか?」
若い男のようだ。声を限りに叫んでいる。
「噂の幽霊か? それとも生きている人間なのか? その大きさは熊か? 返事をしろ。できないのか? だったらやっぱり生きていないのだな? 幽霊か! 初のお目見得だな。僕は幽霊を見た事がない! 見てみるぞ! 待っていろ、顔を見に行く」
「こっちが行きます!」
相手が誰だか分からない。人気も灯りも無い場所で遭遇したくなかった。しかも本来は立ち入ってはいけない場所だ。ジャックは階段を駆け上がった。そこは宮殿の裏手に当たる。庭園の端だ。鉄の柵が設けられている。鍵の束が片手でじゃらじゃら鳴っている。細身の男性が階段を下りて来ていた。ジャックの鼻先ほどの身長だが、段差のせいで同じ位置に顔がある。少し赤味がかった金髪は、地肌が透けるほど短く刈られている。茶色の瞳だ。手足は細く、まだ若い。少しだけ少年の名残が頬のあたりに漂い、夜目にも分かるほど青白い。こころなしか足元がおぼつかないようだ。
「おお、熊ではなかった。人間だな。貴殿も鍵を持参か?」
「持っていません」
「ん? どうやって入った? 施錠されていたぞ」
彼はランプを掲げた。灯りをジャックの顎に突き当てるように大きく腕を上げた。ジャックは敬礼をする。青年には若さに似合わない傲岸さを持つと感じられたからだ。彼は喚くように言った。
「敬礼などする必要はない! 偉いのは僕の父親で僕ではない! しかも去年亡くなったぞ。いや、偉い父の元に産まれたのだからそれなりの扱いを受けてしかるべきかもしれないが、少なくとも軍人ではない僕は、もちろん手柄など立ててはいないし、貴殿と身分の差などない! だから敬礼される筋合いはないし、僕からもしない」
長いセリフの後で息切れしている。中途半端な敬礼のまま、ジャックはあっけに取られた。とりあえずの挨拶だったのだが、敬礼にこれほど言葉を返されたのは初めてだ。
(どこかで見たな。お偉いさんの息子か?)
とりあえず手を下ろして尋ねた。
「どちら様ですか?」
「敬語を使いたいのなら止めはしないが、使わんでいいと言っただろう。何度も言わせないで欲しいものだ。僕を誰だと思っている? レオポルトだ。レオポルト・ヒンメルだ! 研修医だ。どうだ、まだ半人前なのだから君が敬礼する義理も丁寧語を使う必要もなかろう」
ジャックの襟章を見る。
「中尉か。う~む、貴殿には見覚えがある。もしやシパクトリの北の白鬼殿か」
「あだ名はとにかく選手だった。ジャック・ドッジソン・エフェレットだ」
「おおやっぱり。ロッタの御亭主だろう」
レオポルトが手を差し出す。二人は握手を交わした。
「そうだ。君はヒンメル氏か。...と言うと、前将軍閣下の息子さんかな」
彼は何度も頷いた。
「だからそうだと言っている」
「ロッタと知り合いなのか?」
「だから、そうだと言っただろうが。幼い頃には随分と構ってもらったぞ。今でも元気よく声をかけてくれるぞ。もう僕は幼くはないが、知己とは途切れない縁でもあるから、僕もご機嫌よろしく返事をするのだ! だからロッタのご亭主の名も知っている。そもそも中尉殿は、ここで何をしている? 崩れる危険があるから立ち入り禁止だ。知らんのか」
「知っている。警備の為だ」
「制服が違うぞ! 宮廷警護は白だ。君は紺色だ、それは西州軍だ! 何かいたか? 僕はこれから下りてみようと思っていたのだが」
「ふうん? 幽霊が怖くないのかな」
「非現実的だな。幽霊などと言う存在を僕は信用しない。結果には原因がある! 目撃証言があるのだ。何かを目撃するなり、最初に話を流した奴がいるはずだ。とにかく僕は原因を見極めたい。幽霊? 見たいじゃないか。ああ...そういえば温室へ向かって走って行くのが見えたが、あれは人間だった。中尉殿も見たのだな? 見ただろう? こちらから来たのだ、タイミングとしては行きあっているはずだ」
ジャックはあいまいに頷いただけだった。アナスタシアの名前を出したくなかったからだ。
「見たな? 中尉殿、はっきり言え。見たんだな? 腹芸など要らん。僕に欺瞞など不要だ。僕はあらゆる情報から状況を判断するのだ、その為には中立で公平で客観的なデータが必要だ、だから言う。僕が見た背中は女性だ、長い髪は銀色に光っていた、足があったぞ! 幽霊ではない、アナスタシア・リョードフだ。正直に言え。湖畔で何があった? 彼女に悪の企みがあるのだとしたら僕は許さない。成敗してくれる」
言葉が途中で途切れた。ジャックが襟首をつかんだからだ。レオポルトはちょっとぎょっとしたように口をつぐんだ。膝が少し崩れ、見上げるような形になる。何度か揺すられて首ががくがくした。
「良く回る舌に一言だけ忠告しておく。君の言う通りだ、嘘なんぞ言わなくてもいい。だが余計な口も叩くな。幽霊の正体はまだ不明だ。下手な事を言えばただじゃすまなくなる」
手を離すとよろめき、階段から足を踏み外した。数歩斜面を下がり、きっと上げた顔は暗がりでも分かるほど赤かった。
「侮辱だ!」
「それは将軍閣下の息子に悪かったな。でもただの研修医なんだろう?」
手を出した事について言ったのだが、レオポルトの反応はいささか違う。
「何を言っている? さっきも言ったが親父殿は関係ない。僕は僕自身の好奇心と知的欲求から幽霊騒動を探っているだけだ。誰の差し金でもない。指図も受けていない! それを、こんな脅しに屈して尻尾を巻いて逃げだすと思われたのか、僕は! 真の力は暴力ではない、それすら分からないと思われたのか、この僕は!」
いかにも青臭い若者らしい言葉だ。直情的で、そして怒るツボが少しずれている。ジャックはあやうく吹き出す処だった。
「悪かった。レオポルト・ヒンメル殿に脅しや力ずくは効かないんだな。覚えておくよ」
「よろしい。理解が速いな。僕は有能な人間が大好きだ。中尉殿の忠告も、もっともである。受け入れよう。僕もまた有能な質だからだ」
レオポルトはあっさり機嫌を直した。襟を直しながら振り返る。階段に戻り、降りようとしていた。
「中尉殿が何かを疑うのをもっともだ。夕暮れの王宮の隅っこをうろうろと探っているのだ、しかも北方の少数民族が関連しているときた! やはり彼女を見たのだな? 何をしていた?」
名前を出さないまでも、ジャックは素直に答えた。
「分からん。すぐに行っちまったよ。君はここに来るのは初めてか?」
「そうだ。鍵を探すのに苦労したが、甲斐はあったな」
二人はまた階段を下り始めた。やはりレオポルトは右へ左へふらふら揺れる。息も荒い。肩が上下している。時には近くの木に掴まりながら体を支える。
「大丈夫か? どこか具合でも?」
「気にしなくてもよろしい。僕は好んでよろよろしている」
「はあ?」
とにかくジャックは手を差し出した。だがレオポルトはいかめしい表情で首を振る。
「男性と手を繋ぐ趣味はない」
「俺もだ」
それでもジャックは足取りの速さを緩めた。
だが、二人はすぐに足を止めた。
背後が賑やかになったのだ。ざわめく声がする。ライトがこちらを照らしていた。レオポルトの辺り構わぬ怒鳴り声では、隠密行動など無理だろう。やがて一つのランプが建物から出て来た。庭園を横切る。柵の扉から二人に声をかけた。
「誰か居るの?」
「そうだ、僕だ! レオポルト・ヒンメルだ!」
「まあまあ、レオなの」
ハンナ・ティッシュバンだった。ランプの黄色い灯りに顔が浮かぶ。細長い顔をウェーブのかかった白髪が取り囲み、羊を思わせる。表情は穏やかだ。
「立ち入り禁止の場所なのよ。上がってらっしゃい。他にも誰かいるの?」
二人は顔を見合わせた。レオポルトが無言で指を立てた。別の方向へ行け、と示す。鍵のかかっている場所にこっそり入りこんでいるのだ。自分一人で無断侵入の責めを負うつもりらしい。ジャックは首を振った。
「何かを隠せば、更に隠す羽目になるぞ」
そして上に怒鳴る。
「戻ります!」
ざわめきは小さくなったようだ。
「中尉殿は誠実で正直者なのだな。大変よろしい! 僕を感心させたぞ!」
年下の彼から、なぜか上から目線のお褒めの言葉をいただいた。ジャックは苦笑だ。二人が柵まで戻った時には、ハンナしかいなかった。勝手に侵入した孫をかばう為か。人払いをしてくれたようだ。ジャックにしてもありがたい。
二人を見上げて彼女は笑った。
「困った子たちねえ」
しかし、彼女はかなり乱暴にレオポルトの腕を掴んだ。もう片手を差し出す。そこに鍵の束が乗った。腕を取ったまま、ずんずんと歩き始める。言葉は穏やかだが、少しは怒っているようだ。
「レオったらまた詰所に入りこんで、もう。あまりヤンチャをしないでね」
ヒンメル前将軍の息子なら、母親はハンナの娘だ。つまり二人は祖母と孫。ヒンメル家は軍人の家系なので、住居は市内のはずだ。レオポルトはしょっちゅう宮殿に来ているらしい。そこで幽霊の話を聞いて、探検にでかける処だったのだろう。
「城の守衛は快く通してくれたぞ。ちゃんと身分証を見せたし、そもそもおばあ様に孫が面会に来るのをなぜに咎められねばならない? ない! だから僕は来た!」
「はいはい。でも詰所の鍵は、黙って持ち出しちゃいけないのよ」
「借りただけだ! ちゃんと声を掛けた。その場に誰もいなかっただけだ」
それは通常『無断借用』或いは『窃盗』と呼ばれる。ハンナは笑顔だが、額に怒りの一筋があった。
「今度は誰かに、人間に声をかけましょうね」
「おばあ様こそ無茶を仰る。それでは貸してもらえないではないか!」
「貸出が禁止なの。ねえレオ、あなた退院したばかりでしょう。無理をしないでね」
「していない。平気だ! だからこそ医者も退院を許可したのだ! 僕がまだ加療が必要ならまだベッドの上だ! だが違う。地面の上だ!」
やはりレオポルトは病み上がりのようだ。髪が刈ってあるのも、入院の為だろうか。
ハンナが不意に振り向いた。ジャックを見上げる。
「幽霊なんていないの。噂はいつの時代もあるし、もう五十年は働いているけれど見た事は無いわ。ティーガ族の亡霊だなんて、リョードフ先生にも失礼でしょう? ロッタは何か話しているかしら?」
「いいえ。何も」
「でしょうね。ただの噂ですものねえ。あ、そうそう。ゴドーに伝えてもらえるかしら? ミントを少し厨房へ分けて上げてって。あなたはそれを聞きにここへ来ただけ。分かったかしら?」
ジャックの侵入は不問にする。しかし何を見たとしても他言は無用。そういう事だ。ハンナの目は笑っていない。
「了解しました」
話は終わったとばかりに、ハンナはそそくさと孫と去って行った。レオポルトがまだ何か喚いている。その声もどんどん遠くなった。
ジャックは肩をすくめた。神殿の遺跡にはティーガに関する何かがある。人目を避けて暗くなった時間帯に行かなければならない事柄だ。アナスタシアだけではなくハンナも知っている。ロッタはどうだろうか。
(女同士の内緒のお話かな?)
宮殿の丘を下り、工房へ向かった。途中でアナスタシアとすれ違う。レオポルトの言う通り、彼女は温室へ行ったのだろう。ジャックは芝生へ下りて道を譲った。彼女は足を留め、軽く頭を下げた。先ほどの籠を下げたままだ。
「ゴドーさんに香水を作っていただきました。無聊の慰めになります」
笑顔を浮かべている。だが視線ははっきりとは定まらない。俯き加減だ。
「アナスタシア、ランデスヴァルトへ帰りたいんじゃないか?」
はっと彼女が顔を上げた。しばらくジャックを見つめていたが、静かにほほ笑んだ。
「ロッタと同じ事を仰るのですね」
彼女は胸を張り、しっかりとジャックを見つめた。すっと笑みは消え、厳し視線が残る。
「私たちの一族は三千人ほどしかいません。この国では少数なのです。辺境の山は厳しい環境です。国への発言権もなく、交流もさほどなく、教育の機会も少なく、就業も限られています。ディーター殿下に私たちの文化に興味を抱いていただき、お招きを受けました。これは良い機会なのです」
文化を伝え、理解してもらう。ティーガ族にとってグリンクラフトでの立場を改善するきっかけになるかもしれない。少なくともティーガの現状を知ってもらえるだろう。
「あなた方を国がランデスヴァルトに押し込めているわけではない。どんどん都市へ出て交流すれば良いのでは?」
「いいえ!」
語気の強さにジャックは少し驚いた。
「五百年前、グリンクラフト人に征服された時にあそこへ逃げ込むしかなかったのです。かつては我々こそ覇者でした。それが被征服民族になったのです」
「でも今は、同じ国の住人同士だ」
「違います。町に出れば、この目、この髪、私たちの民族の色こそが注目され、グリンクラフト人と私たちを隔てる原因になるのです」
ジャックはすぐに返事ができなかった。プラチナブロンドのジャックでさえ目立つ存在だ。金髪や茶色の髪が多いグリンクラフト人の中で、確かに彼らは目立ってしまう。注目が決して良い方向へのみ向くわけではない。湖の幽霊騒ぎも、リョードフ親子に絡めて噂されているのだ。
「『花の戦い』を御存じですか? なぜ戦闘がそんな名前で呼ばれるかも」
「ああ」
ティーガ族とグリンクラフト人との大規模な戦闘だ。勝敗を決定づけたとも言われている。場所は現在のクロイツベルク城だ。そこに籠ったティーガ族は強烈な爆発によって壊滅的な被害を受けた。ロッホネス湖や現在の旧市街地にまで被害者が飛ばされていたそうだ。
「夜明けに入城した連中が見たのは、血まみれで倒れている人々だった。まるで赤い花が咲き乱れているようだったと...」
「それを過去だと言えますか。私たちはそこから『破滅』を受け入れ、衰退の道をたどっているのです。グリンクラフト国は我々の痛みを、恨みを受け入れるべきなのです。まずはそこからです。そして対等の立場になるべきなのです。私たち親子がその手助けをできるかもしれないのです。その為に、私は自分で決めてここにいるのです」
だから故郷には戻らない...と強い瞳が告げている。ジャックは頷いた。
「分かった。余計な詮索をしてもうしわけない」
「いいえ」
彼女の肩から力が抜けた。また少しさみしそうな笑顔に戻る。ゆっくり、ゆらゆらと去る後ろ姿を見ながらジャックは思った。
(こりゃ、お坊ちゃまが惚れるわけだ)
かよわさと強さ、決意と迷い。どちらも併せ持つ。垣間見せる芯の強さが新鮮な驚きをもたらす。世間知らずの男性には、美貌と合わせてとても魅力的だろう。
風が強くなった。ジャックは襟を立て、工房のドアを叩いた。
マクシミリアンとの見合い話が進んでいたはずのテレジアは、この後すぐにディーターと結婚したのだった。
ツヅク! 次回 第七話 中 アーノルド国王の崩御に続き、不穏な死が相次ぐ
お読みいただきありがとうございます。
過去編です。より人物関係が鮮明になったかと…なれば良いなと…。
頭の白い彼は、当時はジーノチカは名乗っていません。態度は相変わらずです。
主な登場人物 多いです! 一、二話あたりで登場する人ばかり。
レイナー・マーティン 王宮シェフ。
シュルツ 王宮シェフ。
ハイケ・クレーマン 王宮使用人。のちレイナーと結婚。
アナスタシア・リョードフ 招聘されたティーガの女性。
軍人たちも一話に登場しています




