冥界の太陽たち 第六話 下 南州ケッセン
ティーガの暦が元になったゲーム、シパクトリ。
ケッセン駅の爆発前、ピドーはそれに触れる。
ゲームの意味を、彼はまだ知らない。
冥界の太陽たち 第六話 下 南州ケッセン 復活の後始末
病棟の中庭で歓声が上がった。白い建物を取り囲む四角い庭園だ。建物に沿って植え込みがある。白いベンチがあり、包帯を巻いた人や車いすの患者が集まっていた。
目映さに目を眇める。立っていた白衣の男に声をかけた。
「何やってんの?」
彼はきっとピドーを見下ろした。視線が強い。けれども焦点がぼけている。うっかり亡霊に声をかけてしまったようだ。
ベンチがすぐそばだ。腕を三角巾で吊った青年がピドーを見た。少し離れていたが、自分への質問かと思ったらしい。笑顔を向ける。
「シパクトリっていうゲームだよ。立体バックギャモンみたいな」
彼は自由な左手を上げて、そちらを示した。中庭の中央に円形の的が立てられている。ピドーに膝ほどの高さだ。ぐねぐねと線がうねっている。冥界の太陽絵図かと一瞬身構えたピドーだが、絵柄は戯画化された動物だった。的の周囲にはます目が描かれたシートが広げられている。升目がぐるりと一周し、四方の角は少し大きい。中央のひときわ大きなマスはどこにもつながっていない。チェスの駒のように立体的な彫刻の駒があちらこちらに置かれていた。その表面は白くてつるつる光っている。金属製のようだ。
「ワニがいるだろう? それがシパクトリだって」
「ふ~ん。面白い名前だな」
「古いティーガの言葉だよ」
暦の中の動物だ。キルヒェガルテンでジーノチカが言っていたうちの一つだが、ピドーの記憶には残っていなかった。
青年は首をかしげた。
「何回聞いても分からないんだよな。ルールが複雑で」
「すごろくだろう?」
バックギャモンなら、サイコロの出た目で進むいわばすごろくである。
「それとボーリングが一緒になったみたいな。とにかく面倒くさいんだ」
ゲーム見物に興じているのは、体格の良くて年かさの男性が多いようだ。松葉杖をついたままでボールを投げている者がいる。一対一のようだ。片方が的に向ってボールを投げる。当たった位置によって駒を動かすのだが、投てきの場所も移動している。交代に投げたり、連続したりと、確かに見ているだけではさっぱりルールが理解できなかった。
どうやら松葉杖の方が優勢らしい。
「だらしねえな」
ピドーの呟きを男が聞き咎めた。
「このゲームを知らないくせに、生意気な口を叩くな!」
「負けているからって八つ当たりすんなよ」
いきなり怒鳴られて黙っているピドーではない。
「ボール投げて当てりゃいいんだろうが!」
「じゃあやってみろ。簡単なんだろう?」
彼がボールを渡した。黒ずんだ皮に包まれている。無理やり掌に乗せられて危うく落とすところだった。片手で充分に持てる大きさだが、ずっしりと重い。感触は固く、どうやら中身は金属のようだ。
「こ、これ投げるのかよ...」
「どうだ、できるのか!」
「やろうじゃねえか!」
どこを狙えばいいのか見当もつかない。適当な場所でボールを構えた途端、男が叫ぶ。
「知ったかぶり野郎、位置が違う!」
「うるせえ!」
白衣の亡霊が近付いてきた。向かい会う。彼は止まらない。さらに接近する。とうとう体が重なった。亡霊の陰がピドーを包む。
手がゆっくり上がった。ピドーの意思ではない。彼が見ているのは、骨ばった手首と筋肉がしっかりと盛り上がった腕だった。白衣の男が袖をめくり、ボールを両手で握っている。ピドーの体を使っているのだ。肘を曲げて、肩の近くにボールを構える。砲丸投げの要領だ。的のどこを狙えばいいのか、男は分かっている。彼の告げるままに宣言する。
「今は二順目、エクアトリだ。君の代わりに投げるならカトル、ゲーム続行か?」
松葉杖の男が首を振った。
「俺は降りるよ。最初からそいつと始めてくれ」
勝ち逃げかよ、とピドーは呟いたつもりだった。言葉は出ない。体をすっかり乗っ取られているようだ。もう仕方が無い。彼の動きに任せる。ピドーはてきぱきと駒を戻した。
「では始める。お前が渡したボールだ。私が最初でいいな?」
「ああ」
男は少し戸惑ったように頷いた。ピドーの声の調子と態度ががらりと変わった。重く、ゆっくりした話し方だ。緊張感はあるものの、瞳はどこか楽しげな光を湛えている。どこか堂々とした雰囲気もあった。
ボールが鳥に当たった。ピドーは駒を動かし、自らの位置に立った。
松葉杖の男が軽く口笛を吹いた。
ゲームは黙々と続いた。ゴールまでには何度も球を投げ、移動をくり返す。かなりの時間と体力が必要だ。しかしまもなく勝負はついてしまった。どうやらピドーは圧倒的な点差を早々に付けたのだ。もう残るゲームを全て行っても、逆転は無い。
「...投了。参りました」
悔しげながら、男がボールを置いた。
彼に憑依していた男がやっとほほ笑んだ。何度も頷く。もう一度、このゲームをやりたくて待っていたのだ。唇が動いている。言葉は聞こえない。けれどもピドーに伝わるのは、満足感と懐かしさだった。
『ありがとう』
唇がそう動いた。ピドーは確信する。亡霊は輝く。魂の存在になり、目映いほどだ。ピドーの心に穿たれたほら穴ではない。上空へ向かって揺らめいた。白い鳥が天を横切ったようだった。
全身の力が抜ける。膝から崩れた。ピドーはぺたんと座りこんだ。彼も笑っていた。そして少し泣きそうだった。
何度爆発しても消えない亡霊たち。発火点となるだけでは彼らの心は満たされず、エネルギーも消耗しきれない。現世にとどまろうともがき続ける限り、その場から離れられないのだ。
だが想いが満たされた時、魂が天へと昇華される。『足掻きの七面鳥』であるピドーはただエネルギーを消費するだけではなかった。死者を足掻きから解放する力をも得ていた。
「おいおい、シパクトリを知っているなら最初から言ってくれれば...」
男が何か言っている。
ピドーは跳ねあがった。
「知らねえよ! それよりあの子!」
勢い良く駆けだす。玄関を抜けた植え込みへ向かった。少女はまだしゃがんでいた。
「おいっ!」
勢いこんで声をかけた。反応はない。それでもその傍にしゃがんだ。
「一緒に探してやるよ」
少女はぼんやりとピドーの方を見た。まるで彼を通して後ろの背景を眺めているようだった。再び顔を伏せる。彼女は幻影だ。そこに重なるようにしゃがんでみた。しかし憑依は起こらない。ピドーは少女の靄の中に居るだけだった。胸のあたりに髪の毛がある。
「う~ん...」
どうやら相手にも、ピドーに乗り移りたいという気持ちが必要らしい。
「おい、ちょっとこっちへ来てみろよ。成仏できるぞ」
下を向いて声をかけるが、彼女はひたすら手を動かしていた。何を求めているのか、延々と続く。
「おいっ、そんなところで吐いているのか? 花壇に吐いてはいかん!」
背後から背中をどん、と叩かれた。バランスを失う。あやうくつんのめるところだった。両手で柵を掴んで耐える。振り返るとジーノチカだ。逆光のせいで顔が真っ黒だ。片手で紙袋を抱えている。
「ジーノチカ! どこへ行ってた?」
「元気そうだな。立てるなら立つがいい。吐しゃ物には胃酸が含まれているのだ。土壌が過度に酸性になってしまうぞ! もちろんそのような土質を好む植物もあろうが、何しろ一度は体内へ納められた未消化のブツだ! 臭うぞ」
「吐いてるんじゃねえよ!」
「では立ちくらみか? 貧血か? 貧血だな。ほうれん草とレバーを食べるがよい!」
「違うって言ってんだろうが!」
ピドーは立ちあがった。脚が少し痺れている。ばんばんと叩き、ジーノチカを睨む。
「ここじゃなかったんだな。どこへ行ってたんだよ」
「例のホテルだ! アディートはかなり落ち着いてはいたが、監視が厳しくてかなわん。しかし僕は行って帰って来たぞ! ほら」
紙袋からは黒い塊が出て来た。煤けているが、ピドーの鞄だ。焦げた臭いがしみついていた。受け取るなりファスナーを開けてみる。着替えや地図などは水をかぶってしまった。さほど高い気温の日々ではなかったものの、やはりカビ臭い。財布や身分証も同じだが、無事だった。
「ありがとう。助かる。それにしてもよく検問を通れたな。またあの免許証を使ったのかよ」
彼はしれっと答えた。
「同じ国内だ。何を遠慮する事があろうか」
ピドーは鼻をこすった。
「ふうん、ラインデルさんになったな。本当にありがとう」
「よろしい。子供は素直が一番だ。それではマリアのお見舞いに行くか。まだ眠っているのだろう?」
「今朝、ちょっとだけ目を開けたって」
「ほほう。あの怪我だ。回復にはどれほどかかるのか決まっているようなものだが、さすが僕も参加した手当だ。予想よりも早いな。僕を誰だと思っている?」
「はいはい、ジーノチカだろう」
「そうだ、ジーノチカ・L・ヒンメルだっ」
ピドーは肩を竦めた。
「俺はもう会って来たからいいや。帽子を買いに行くわ」
「ピドー用にか?」
「小虎にだよ! ピンクはないだろう?」
「そうか? 似合うと思うのだが。そうだ、いっそ女装させるというのはどうだ?」
「へいへい」
数歩だけ行きかけてピドーは振り返った。
「ジーノチカ、シパクトリってゲーム知っているか?」
「誰に聞いているのだ? 僕を誰だと思っている? ジーノチカ...」
「L・ヒンメルだろう! 医者だけど占い師の!」
「惜しいぞ。医者で占い師だ」
腕組みをして頷く。
「シパクトリは千年ほど前のティーガ族の遊びが原点となっている。簡易版なら弟とさんざんやったぞ。おやつを賞品としていたのだ。僕は必ず勝っていた。奴は幼い頃から甘い物には恐るべき執着を抱いていたのだ。それは正しく導いてやらねばならぬ。嫌とは言わさないぞ、僕が兄上だからだ!」
幼少時のハンス・ヨアヒムに対する態度といい、ジーノチカは年下の者には対応が厳しいようだ。ピドーも容赦のない平手打ちを食らっている。思わずそっと頬を撫でた。
「十年ほど前までは盛んな競技だったのだが、今はすっかりすたれてしまったな。たった十年、十年だぞ! 遊びも文化なのだ。作るのには千年だ。しかし喪われるのはあっという間だ。継承の大切さがわかるか、子供! 未来ある青少年よ、いくら大金を積んでも作り出せない物の価値を知るがよい」
さきほどの中庭では簡易用シートを使用だ。本物のコートを設定するには広い場所が必要だし、競技にも時間もかかる。また発祥がティーガ族由来となれば、遊びとしては選ばれにくくなるだろう。平和な時だからこそ行われていたゲームだ。
ジーノチカは怪訝そうに尋ねた。
「いきなりどうした? シパクトリをやりたいのか?」
「もうやった。中庭で集まりがあったんだ」
「ほう。父上に教わったか? 彼は名手だったからな。北の白熊...だったかな? まあ似たようなものだ、そんなニックネームまで持つ伝説のチャンピオン殿だ。そもそも奥方と知り合ったのもシパクトリの全国大会らしいじゃないか。トロフィーと彼女を同時に手にしたとは、なかなかやり手ではないか!」
「へ? あ、ああ。そうなんだ」
もう無くなってしまったソフィアの家。居間の壁には、ジャックがトロフィーを掲げている写真があった。模様は小さすぎて判然としなかった。
(何で親父は黙ってた?)
実績を自慢するような性格ではない。しかし、わざわざ飾ってあった写真だ。シパクトリの大会だとなぜ言わなかったのか。
(くそ親父め...。とりあえず帽子だ、帽子!)
今は父に聞けない。もやもやを頭から追い出す。まずは出来る事からだ。
ピドーは包帯だらけの腕を振り回した。
「じゃあな。俺、小虎用の帽子を買いに行くから」
「あるではないか」
「だから...。あれじゃ女の子に見えちまうぞ」
「アリだな。だから、いっそ女装させるかと言っている。目くらましになるではないか! まったく人の話を聞いているのか」
「...どっちが...」
外出するなら問題は髪だ。それを隠せなければ、スカートを履いてもあまり意味がないだろう。そもそも小虎が女装を受け入れるとはピドーには思えない。
「本当にスカートでも穿かせてやりたいわ。あいつ、未だに名前を教えてくれないんだよな」
「それはそうだ。彼は記憶の殆どを失っているらしい。年齢も名前も」
「えっ......」
「一族郎党が全て目の前で悲劇に襲われたのだぞ。ロッホネスに連行された際、まるで生ける丸太のようだったと...おばあ様に聞いた。話どころか声さえ出さない。立つどころか座る事さえできず、転がっているだけ。寝ているのではない、転がっていると」
「本当か?」
「おばあ様を疑うのか?」
「ジーノチカを、だよ。ハンナさんが『生きた丸太』なんて言う? 大体、小虎はまだその頃赤ん坊だろう」
ジーノチカが何か言いかけた。だがもう聞いていなかった。カビ臭いカバンを背負いなおし、光の溢れている町へ向かった。
病室ではマリアベル・エフェレットがうっすらと目を開いた。ぼやけた視界に白い天井が広がる。体中に重い痺れがある。顔に髪がかかっていてうっとおしい。払いのけたいが腕は動かない。指がわずかに上がっただけだ。首も動かない。
風が吹いた。頬に肌寒い。窓があいているようだ。
眩しい。目を閉じても光が瞼の裏に残る。
指が額に触れた。髪の毛を整えてくれる。頭を撫でられた。壊れ物のように触られているのが少しだけ可笑しい。
父だ、と見なくても分かった。白くて温かく、穏やかな光が脳裏に浮かぶ。ハンナはもっと静かで熾き火のようだ。弟は赤くて燃え立つ勢いだ。まだ意識がはっきりしていない時に、何度か見舞いに来た時に感じた。今は遠い処で光っている。
(ピドーは気が荒いからかな?)
言葉がわれ知らず出ていたらしい。小さな笑い交じりの声が答える。
「ああ...。そうだな。気が荒いか。ピドーは元気なんだな? これから会ってくる。ソフィアに帰そう」
...ピドーのいる場所が分かる。
そう言いたいのに、唇が思ったように動かない。ゆっくり瞼を持ちあげた。父が微笑んでいる。
途端にマリアの上半身が大きく震えた。起きようとしてもがく。腕にぶら下がった管ががちゃがちゃと鳴る。あわてたジャックが点滴のバッグを抑えた。
「どうした?」
マリアは茫然と辺りを見渡す。落ち着かせようと肩を押す手を思わず握った。めまいがする。そして唇を噛み、鋭い瞳で父を見つめた。
「...ピドーや小虎のいる場所が分かる...」
腹を抑えた。内部から裂かれるような痛みが走る。再びぐったりと横たわった。ジャックは毛布を掛け直してくれた。
「ああ、ハンナから聞いたよ。近くのホテルにいるんだろう。お前はゆっくり休め」
「...うん...」
父にはちょっと意味が違って伝わってしまった。だがもう声を出すのが辛い。目を閉じてかすかにうなずくのがやっとだった。
怪我をした時。
何が起こったのか分からなかった。気が付けば自分の体が横たわっている。血まみれだ。サンダルが脱げていた。それを小虎の上から見ていた。銀色の視線が自分にからんでいるようだ。それでその場に留まれる。でも別の方向にも強く引かれる。今にもどこかへ飛んで行きそうだった。
(そうよ、全部見ていた...?)
シーツに包まれた体、ケッセンへの移動、病院で死亡を宣告された事。
そして銀の瞳の呪縛が解けた。小虎から離れた。視界は急に狭まって暗くなった。大きな闇が足元で渦を巻いていた。冥界なのだ...と本能的に悟った。怖くは無かった。何も実感は無かった。ただ落ちて行くだけだ。
不意に落下が止まる。誰かに掴まれた。腕だ。見覚えのあるピドーの手...。いや、肌が真っ黒に焼けただれていて炭と化した肌だ。二つが重なっている。それがマリアを掴んだ。また上に引きずられる。昏い淵がみるみる遠ざかって消えた。
次の瞬間、激しい痛みに襲われた。体が重い。息をするのもやっとだ。動くどころか呻きさえ出ない。思いのままにならず、うっすら開いたままの瞼の隙間から白い天井と眩しいライトが見えた。ジーノチカが叫んでいる。
...生きているじゃないか...
体に戻ったのだ。腹が燃えるようだった。身もだえさえできない。余りの苦しさに、むしろ生き返ったのを恨めしく思ったほどだった。すぐに意識が遠のいたようだが、ひどく長い時間に感じた。
それからはっきりと目覚めた...と自覚はあまりなかった。うつらうつらしていたようだ。ただ自分の周囲で人の光がゆらめくばかり。これが小虎と同じ能力なのだと気が付いたのはこれが初めてだった。
何が自分に起きているのか。全く分からない。髪を撫でる父の手が温かくて涙が出そうだった。
ジーノチカが病院に着いたようだ。マリアの光と一緒になっている。見えるのではない。脳裏のスクリーンに勝手に映る。小虎にとっては知っている者がどこにいるのか分かるのは当たり前だった。今、階下で廊下を行ったり来たりしているのは、ルームメイクの担当だろう。監視役はずっと動かない。
知らない者が自分にとってどのような災厄をもたらすかまでは分からない。だから一人でホテルに待っていてさえ物陰に隠れて息をひそめている。いざとなれば窓から脱出する覚悟だ。でもベッドの下は息苦しい。少し体が大きくなったようだ。ソファの後ろに移動した。ドアが開いてもすぐには見つからない位置だ。ルームメイクは不要とのカードを、ピドーがドアにかけておいてくれた。それでもいつ誰が入って来るかもしれない。小虎はいつでも気を張っている。
マリアは回復するだろう。魂の光が力強くなってきた。
病院に着いた時、支え切れなかった。ついには手を離してしまった。小虎自身も怪我をしていたし、疲れきってその後の事は覚えていなかった。彼女は死ぬはずだった。けれども魂は体に帰り、回復に向かっている。
(どうして戻れたのかな?)
怪我が軽かったとは思えないのだ。
(でも...なんで掴んだんだろう?)
なぜマリアを助けようと思ったのか、自分でもはっきりとしない。食事や寝床を提供してくれる。最初はそれだけだった。嫌になったら逃げればいいだけだ。
そもそもピドーが起こした爆発を、どうして相殺したのか? 見知らぬ人の命など心配していたのではない。ルーカが来る。人が集まる。それは不安だ。
...弟なんだよ...
検問でのピドーの叫びは、姉を助けたいが為だ。小虎が一緒にいなくてはならない。
だからそう言ったんだ...。何度も自分にそう言い聞かせた。ふと自分の手を見る。いつもうす汚れている。床を這っているせいだ。それでもピドーはためらいなく掴む。
(あのきょうだい、いつも突然なんだ)
いきなり頭を撫でられたり、服を脱がされたり。エフェレットきょうだいは意表をつく行動ばかりする。
おんぶなんか、されたくなかったのだ。他人に体を預けるなんて不安だった。それでもピドーの背中は温かい。病院で伸ばしてきた手は血まみれで、幼い子供が迷子になった時のような、すがるような感じだった。振り払う力もないまま握られた。とても強い力だった。とても熱くそして震えていた。ここにいてくれ、と言わんばかりに。
人の温もりなど数年ぶりに感じた。心地よさばかりではない。むしろ不安の方が大きい。一人の孤独がどんなに冷たかったか、より分かってしまったからだ。新品のシャツに、趣味はとにかく髪を隠す為の帽子が用意された。新しい名前もだ。絶望やチビ以外に、名前を呼ばれるのは何年ぶりだろう。彼らと離れたら、また食べ物をあさり、夜の風や雨に打たれながら夜を過ごさなくてはならない。
(大丈夫、また戻るだけ。だって、まだアレ聞いていない)
そう思っているのに、ピドーとマリアを失ったらどうしたらいいのかと心配している。心が大きく揺れていた。西を脱出して以来、初めて感じる気持だった。
窓の外で風が鳴った。小虎は、はっと身を固くする。白い光が遠くで光る。ルーカだ。駅の傍にいるようだ。光が強くなる。眩しいほどだ。瞼の裏でスパークする。青の墓場で管理人を吹き飛ばした程度ではない。
(まずい...!)
小虎の位置からは離れている。しかし大きな被害が出たら、監視や犯人の探索が厳しくなる。小虎にとっても困った状況になる。
窓を開けた。ルーカの方向を伺う。時計のついた塔が見えた。
外の壁に手をついた。心の中のほら穴をのぞく。暗闇から沸き起こる力で、周囲に漂う電気を集める。それを発火点として一気に増幅させた。大きな電流は壁を伝い地面を走り、ルーカに向かう。
尖塔が揺れる。ルーカが集めた風を解放したのだ。カーテンが舞い上がる。小虎のシャツがはためいた。ガラスが揺らぐ。隙間風が口笛のように甲高く鳴った。
一瞬だけ小虎の方が遅かった。咄嗟に爆風を取り囲む。炎が上に噴き上がった。
爆音がかすかに聞こえる。静かになった。
それから一気に音が沸き起こった。悲鳴、怒号、警笛、サイレン、全てが一つになり渦となって空へ広がる。
急いで窓を閉めた。カーテンがマントのように背中にかぶさって重い。数歩下がると、左右へだらりと垂れた。ばさりと落ちて窓の光を遮る。
不可抗力だった。いや、小虎が電撃を送らなくても間に合わなかったのかもしれない。数人の男が巻き込まれたようだ。彼らの光は爆発に呑みこまれ、上空に巻き上げられて消えた。
小虎は知っている。さっきまで生きていた人間の魂が次々と消えていく様を。彼の住居だった『北の黒』神殿での出来事だ。薄れて行く意識の中、人々の光もまたどんどん見えなくなっていく。それから放たれた火が全てを呑みこんでいく。煙はどこかべたついていて皮膚にはりつき、髪のこげる臭いにむせた。忘れていたはずの感覚が蘇る。最後に見た光景、それが何だったのか? 思い出せない。いや、思い出したくない。
小虎は茫然と座りこんだ。まだ風は強い。手でしっかりと耳を塞いだ。
ピドーはホテルの前を駆け抜けた。ちらっと部屋の辺りを見上げる。小虎の光を感じた。ルーカにぶつけた力の爆発だ。
(ルーカがいるんだな)
小虎とルーカがぶつかった。ルーカに会ってみたかった。ピドーはまだその凶暴性を知らない。
冥界の太陽が爆発を起こした方へ進む。駅だ。オレンジの舌が駅舎を舐めている。煙が吹きつける。人々が避難するのとは逆方向へ進んだ。すすやほこりを浴びて、服は白っぽい。駅へ入ると、混乱は最高潮だ。煙で視界は悪い。縦横無人に走り回る人々。火薬の焦げる臭いもする。
この時には、もうルーカの光は感じられない。爆発の瞬間だけだ。冥界への出入り口を通じて繋がっているのだろう。
(同じ処へ出入りしてんなら、引きあうはずだなあ)
煙が充満している中、避難が続く。放送が流れた。
「ただ今、貨物引きこみ線におきまして事故が発生いたしました。被害の状況を確認中です。安全が確保できるまで、列車の運行は全て停止とさせていただきます。お急ぎのところ...」
怒号や何かの爆ぜる音で、ところどころ聞き取れない。きょろきょろしていると、ふと体格の良い老人と目が合った。彼はつかつかとピドーに近寄って来る。
「もしやピドー・エフェレット君では? なぜここに?」
「はあ? あんた誰?」
アディートでジーノチカに叱られた件は教訓になったようだ。だがつっけんどんな返答にも彼は穏やかにほほ笑んだ。ピドーの警戒心丸出しの態度にも動じた様子はない。背後の騒ぎから超越したような存在感だ。
「私はヨーゼフ・ベルクマン。ラドクリフ市立歴史研究所の職員なのだ。覚えてはいないかな。キルヒェガルテンのホテルで隣室であった。そうそう、ラドクリフの食堂前で君が警官に連行された時も」
「わー! 言うな!」
通行人の男ともめた時だ。ルプレヒトに野菜くずの入ったカゴを投げつけられた。結局は留置場に一泊する羽目になった。すっかり忘れていた小事件だ。
「その時、君の名前も上部からの資料で見たのだ。元気でよろしい」
「そりゃどうも。あ、でもそういえば」
ピドーはしげしげと老人を見上げた。髪も髭も白く、顔にも年齢相当であろう皺はある。しかし胸板は厚く、肌はつやつやだ。
「確かにホテルで見たかも...」
「まさに。隠密で行動しておったのに、あやうくシュペトレーゼ殿に見つかるところであった。いや、あわてて席を立ったので食後の一杯を呑み損ねた」
「ふうん。...あれ? ってことは、黒カマキリと一緒に殿下のお守りか」
きょろきょろするが、その二人はいない。ベルクマンは少し眉をひそめた。
「...知っておるのか。その通り。もっとも私は学者なのだが。まずい事にこの騒ぎではぐれたのだ。シュペトレーゼ殿を見なかったか?」
「ううん。あいつら来てるんだ。ラドクリフへ戻るって言ってたのになあ」
「まあ色々とあるのだ」
駅員が消火器を持って走っている。消防車が続々と到着しているようだ。避難や消化の誘導をしている制服は軍人だ。
「外へ行ったかもしれない」
「うーむ...それは困る。他の者が見に行ったのだが」
「黒カマキリ?」
「いいや」
ベルクマンにとっても、ルプレヒトは昆虫のイメージらしい。すっかり黒カマキリという呼び名が定着したようだ。
ベルクマンが唇に手を当てた。また放送が入る。雑音だらけだ。避難の呼びかけだった。電気系統は生きているようだ。ピドーは鼻を押さえた。
「...何だかすげぇ臭う...。火薬と、髪の毛を焦がした感じ...。あと、脂身みたいなのを一気に火に放りこむと、こんな臭いがするんだ」
「ほう。どこでそんな臭いを嗅いだのかな?」
「家! 油なしでフライパンに肉を放り込んだんだ。髪はアルコールランプで。近づきすぎて前髪と眉毛を焼いちまった。どっちも最悪だよ。臭いわ姉貴にはシメられるわ...」
ピドーはぶるっと体を震わせた。
「それはそれは」
ベルクマンも鼻をこすった。
「戦場ではないのだな。子供には味あわせたくないものだ。...この爆発では死傷者がいても不思議ではないな。負傷者がいないのか、駅員に聞いてみよう。シュペトレーゼ殿の手がかりがあるやもしれぬ」
「うん」
彼は大股にその場を去った。
(一度ホテルに戻るか)
だがピドーのすぐ横をぶつかるように駆け抜ける人影があった。長く白い髪がなびく。ジーノチカだ。病院から駆けつけたようだ。大声で叫び続ける。
「怪我人がいるのか? テロか? 僕は医者だ、人助けの為の占い師でもあるがちゃんと資格を持った医者なのだ! 助けが必要な者はいるか!」
ピドーはあっけにとられて見送るだけだ。一メートルほど進んでから彼が振り返る。
「ピドー、さっさとホテルに戻れ!」
ジーノチカに駆け寄り、小声でささやく。
「この爆発、『西の白』がやったんだ」
「なに! ルーカか、ルーカだな?」
「声がでかいよ」
駅員詰め所でも騒ぎが起きていた。運休を知った乗客の一部が詰めかけている。貨物のホームだけが被害を受けたのなら、客車は動かせるというのが言いぶんのようだ。もちろん電気系統も影響を受けて停電だ。いつ出発できるのかなど、駅員にもまだ分からない。
救急車も到着している。怪我が心配なのだろう。しかしたった一人の駅員しかいなかった。みんな出払っている。彼だけでは対応しきれない。取り囲まれて攻め立てられているばかりだ。
「ここではダメだな」
ジーノチカが呟いた。
「僕の能力を役立てる為には、こんな烏合の衆に埋もれていてはいけない! 列車がいつ動くか分からないからどうしたというのか。動かないのだから乗れないだけだ。動けば乗る! それだけだ」
「いや、まあそうだけど」
ジーノチカが向かっているのは貨物ホームを挟んだ建物、検疫所だ。
「ピドー、役に立つのならここに居て使命を果たすが良い。できれば、の話しだ。君は出来そうにない。野次馬になってしまう。つまり邪魔だ! 早く戻れ」
「うん。ルーカの手掛かりが無ければ帰る」
検疫所の受付には人影はまばらだ。電話があちこちで鳴り、足止めを喰ったらしいフランツも対応している。キーラが怒鳴るように喋っている。ちらっと二人を見た。受話器を手で押さえる。
「今、忙しいの! 後にして」
「用も聞かずに後にしろとは何事だ!」
ジーノチカがカウンターに両手をどん、と着いた。相手が電話をしていようがお構いなしだ。
「どうしても後にしろというのなら後にしてやろう。僕は狭量ではないからな。しかし門前払いをするにしても、まずは話を聞け。その上でまだ追い払うというのであれば、僕はここで椅子を投げるぞ! 君ではない。君は一応、見た目が女子だからな! 女性を投げたら世間の目が厳しい。よほどの事が無い限り、非がどちらにあろうとも関係なく、体力的に優れた僕が責められるであろう。それは叶わん!」
「うるさーい!」
キーラは受話器を叩きつけた。
「じゃあ聞いてやるわ。何の御用でございますか!」
フランツが電話を切った。
「何の騒ぎだ?」
ジーノチカとピドーを見る。
「検問を越えた連中じゃないか? 何をしに来た?」
「よくぞ言った! 聞いたか」
と、キーラに嬉しそうに言う。
「これぞ普通の反応なのだ。『何をしに来た』? まさに僕が求めていた質問の答えではないか! 受付嬢たるもの、まずはこのように聞けばいいのだ。そうしたら僕は答えてやるぞ!」
フランツは頭を抱えた。
「もういいよ...。検問でもこの調子だった...。お帰りいただく方向で」
開いたままのドアからヒューゴが小走りで入って来た。
「フランツ、さっきの」
そしてジーノチカを見て、ぴたっと動きが止まった。すっと目を逸らす。ついでに背中も向けてしまった。
「えーと、あの書類はどうしたかな」
そんなわざとらしい呟きを、ジーノチカが粉砕する。平手打ちが後頭部に決まった。
「こらヒューゴ! お前のところのしつけはどうなっている?」
眉をひそめ、片頬だけ少しひきつらせたヒューゴが振り返る。
「どうしてここにいるんですか...。クロイツベルクで大人しく赤ちゃんを取り上げてくれていたらいいんです。いや、各地を放浪していても構いません。ただここには来て欲しくなかったですよ、レオ兄さん!」
「ジーノチカだ!」
「...それでいいですから...」
フランツがキーラに囁いた。
「検問で身分証を見たんだ。苗字がヒンメルだろう? あのすっとんだ感じ...。まさかとは思ったけど...本当に兄弟だったんだな」
ヒンメル兄弟は、外見上はあまり似ていない。ジーノチカが髪を白に染めているのもあるが、背が高くて線が細いジーノチカに比べてヒューゴはがっしりした体躯だ。二人が並ぶとコネ少将と呼ばれているにしろ、いかにも軍人としての訓練を受けている印象を受ける。
ピドーはぽかんとしていた。
「え、ジーノチカって南州の軍関係者...?」
「違う。何度言ったら覚える? 僕は人生の助けをするために存在している医者であり、心身の保健の為に占い師でもある。軍人ではない! コネ少将と一緒にしてもらっては困る!」
「私だって一緒にして欲しくない!」
ヒンメル兄弟に同時に怒られる。低くなった声が似ている。さらに響きというか、雰囲気がとてもよく似ている。
「え、え、でも」
軍の関係者と通じていると分かっていたら、ジーノチカと共に行動していなかったかもしれない。ケッセンは南州だ。彼らの陣地である。
ピドーはただの民間人だ。未成年でもあり、人質になってもあまり戦線に影響はないだろう。しかし小虎は違う。両軍共に探しているティーガの生き残りだ。
(まさかうまい具合に連れて来られちまったとか...?)
検問突破の条件でもある。居場所は南州軍に申請してあった。つまりは彼らの手の内に落ちている。ピドーはすかさず踵を返した。とっととその場を逃げ出す。
トビアスが廊下の奥から駆け戻った。
「失礼いたしますであります! こちらに統括様はおりましてございますか」
間髪入れずにジーノチカが叱る。
「何だ、その言葉使いは! おかしいにもほどがあるぞ! 僕をからかうつもりか、それなら投げるぞ! 軍人であろうが関係ない。人としての礼儀を教えてくれよう!」
見知らぬ男からいきなり怒鳴られ、彼はあわてて敬礼をした。
「すみませんであります! 先ほど落とし物が届けられましたです。拾得場所が検疫所のロビーなのでございますです」
ヒューゴが見るより早くジーノチカが動いた。トビアスの手の平からそれを奪う。百合があしらわれたバロー伯の軍用の階級章だ。
「偽物です。さっきの連中の事もあるのでご報告でした」
ヒューゴの顔が険しくなる。今もロビーは負傷者でごった返しだ。誰がこれを落としたかなど分からない。さっさとジーノチカから奪った。
「私が見るべきものです! うん、確かに造りが甘いな」
それをトビアスに戻す。
「証拠物件として保管しろ。今日ロビーに来た全員の氏名と住所を確認するんだ」
「ぜ、全員ですか? もう帰っちゃった方もいらっしゃるです」
臨時の避難所だ。未記載のまま病院へ向かった者もいる。早めにここを訪れた迷子の少女ももういない。名前も定かではなかった。
(ううん。あの子は荷物を積み込んだと...そうだ、チェステと名乗った!)
トビアスは紋章を握りしめた。彼女が落としたとは限らないし、一緒にいた青年の顔はもはやおぼろな記憶だった。だが名前は印象的だった。
(遅摘み酒だなんて、親御さんの命名センスもいかがなものなのか)
鳴り響く電話の中、トビアスはロビーを飛び出した。焼け焦げたホームへ戻る。木箱の残がいはまだ残っていた。確かに『チェステ製作所』だ
(うーん。何かヤバい?)
避難者全員よりも、彼女の所在を追う方が有意義なのか。トビアスはまた検疫所へ駆け戻った。ジーノチカの姿はなかった。やっと本来の業務へ戻ったようだった。
ピドーはホテルに駆け戻った。もはや顔見知りになった監視が手を振った。
「おかえり、駅は大変らしいな」
「すげえぞ!」
彼の前を駆け抜けてドアを叩いた。
「小虎!」
剣幕に驚いたのか、ベッドの陰から顔を出した。ピドーは弾む息の下、懸命に声を抑えた。
「すぐ逃げるぞ。ジーノチカが軍関係者だったんだ。俺達は奴のせいでここへ連れて来られたのかもしれない」
アディートで爆発があった時、検問を抜けようと即決したのはジーノチカだ。
ピドーは急いで荷物をまとめる。そのあわてぶりをよそに、小虎はまた寝台の後ろに沈んだ。
「違う」
迷いのない言葉だった。
「何でそんなに信じていられるんだよ?」
軽い唸り声が返事だ。彼らの会話をピドーは知らないのだ。ジーノチカがなぜ髪を染めているのか。ティーガ族にどういう思い入れがあるのか。小虎は説明できなかった。
ピドーはソファにどすんと腰を下ろした。
「そっか...。そうだよな。幾らでも俺達を拘束する機会はあったよな...。お前がそう言うなら大丈夫か...」
もしも故意にケッセンに連れて来られたのなら、とっくに確保されているだろう。さっきも先に帰された。まるでヒューゴから護るようだった。
「小虎。お前って何だかんだでジーノチカを信頼しているんだな」
小虎が再び顔を出した。じっとドアの方を見つめている。
「誰か来るのか?」
軽く頷くと、ゆっくり這い出した。ドアに近づく。外を伺っていたが、ピドーをじっと眺めた。
「何だよ」
質問は無視だ。小虎の丸い目がさらに大きくなった。今にもこぼれそうだ。緊張というよりも戸惑いが浮かぶ。
「男」
「知ってる奴?」
「うん...ううん...」
「宿泊客じゃないか? 職員?」
どちらにも首を振る。どうやらここで初めて感じる光のようだ。またピドーをしげしげと見た。
「違う。でも」
「はっきりしねえなあ! 例の監視じゃないのか?」
軍の関係者が拘束に来たのかもしれない。ピドーはベッドから飛び降りた。さっと鞄を掴む。色々と詰め込む時間はないが仕方がない。自分の帽子を小虎の頭に乗せた。
「誰でもいいや。この際だ。いいか、ドアの前で止まったら魂を抜け! 抜いてしまえ! その間に逃げるぞ」
ホテルの廊下にはじゅうたんが敷いてあった。しかし最高級品とはいかないようで、足音は完全には消えない。ピドーにも何者かが近付くのが分かる。足音は弾むようだが、重くもある。ドアの正面で止まった。ノックが二回。小虎が一度目を伏せた。ふっと軽く息を吸う。途端に、どさりと音がした。
「抜いたか。よし、出るぞ」
勢い良く扉を押すが、開かない。倒れた体が塞いでいる。見えるのは軍服ではない。灰色のマフラーだ。二人がかりでドアを押す。
「お、重い~」
ずりずり、と体が動く。ようやくすり抜けるだけの隙間ができた。
「このやろ。どんな顔をしてんだ」
体を思いっきり踏んで廊下に出た。のぞきこんだ瞬間にピドーが叫ぶ。
「あっ、くそ親父!」
ジャック・ドッジソン・エフェレットだ。
「え」
もう数歩は先に行っていた小虎が振り返る。二人でしげしげとジャックの顔を眺めた。ピドーが頭を掻いた。
「何でここに居るんだよ...。俺の親父だ。中に入れよう。まずはどかさないとな...。ドアが開かない」
小虎はジャックをまたいだ。さっさと部屋に戻る。
「おいっ! 俺だけでやんのかよ!」
懸命に父の体を押したり、ひっぱったりして廊下の真ん中まで動かす。やっとドアが全開になった。そして、また何とか部屋に移動させようとする。意識のない父の体はずっしりと重い。なかなかピドーの思うようにはならなかった。
小虎はいつものようにベッドの下に潜り込む。安全位置を確保してから、ようやくピドーに言った。
「戻す」
「は?」
部屋と廊下の間で、妙な格好で横たわっていたジャックの体が大きく跳ねた。はずみで柱に腕を打ち付ける。
「いてっ!」
ジャックは体を起こした。しばらく座ったままだ。ぶつけた腕をさすり、きょろきょろあたりを見回している。
ピドーは隠れた小虎に怒鳴った。
「小虎! 最初から戻せよ!」
そうすれば、意識のない体を苦労して動かさずに済んだのだ。普通に立って歩いてもらえばいいだけだ。
「...小虎?」
きょとんとしているジャックに、ピドーが手招きした。
「父ちゃん、入れよ」
「おう」
やはり手足に違和感が残るのか、屈伸をしたり腕をまわしてみたり。埃のついたズボンをはたく。ようやくドアを開けっぱなしだったのに気がついたようだ。その時にはピドーがもう閉めていた。
二人で同時に口を開く。
「父ちゃん、どうして」
「今のは何だ?」
二人は顔を見合わせた。しばらくして、ジャックがふっと笑った。
「元気そうだな。良かった。マリアにはさっき会って来た」
「目は覚めてた?」
「ああ。ちょっとだけ話した。何が起きたか分かっていないようだ」
「...そう...意識が戻ったんだ...」
今朝は話しさえできなかった。回復が早いとは聞いていたが、ずっと不安だったのだ。怪我の原因はピドーだ。少しだけほっとした。落ちるように腰を下ろした。ソファがぼす、と鳴る。
ジャックは座らなかった。まだあちらこちらを見渡している。
「お前からの伝言は聞いた。この宿はハンナに聞いたんだ。マリアはテロに巻き込まれたそうだな?」
「うん。それより、どうやってここに来たんだ? 検問が厳しくなっているって」
「俺は目立つからな」
体が熊なみに大きいうえ、グリンクラフト人には珍しいプラチナブロンドだ。目立つという自覚はあるらしい。
「北から東へは貨物船に便乗させてもらった。南下してジェールから鉄道。いや時間がかかった」
ラドクリフのカーク商会が東州と取引をしている。その船らしい。
「東西の鉄道は検札だけだったし、まあ何とか着いたよ。ここへは裏口からお邪魔した」
「あれ? 廊下に監視がいるんだよ。そいつどうした?」
「ああ、ちょっと疲れていたようだよ。寝てもらった。これを預かったし」
と、通信機をぶらぶらさせた。勝手に拝借したようだ。
「シメただろ?」
そうだったかな、とジャックは首をかしげた。やったようだ。北ではまだ必要だったのかもしれないが、マフラーは少し暑そうだ。
「ところで俺は夢でも見てたのかな? どうも空を飛んでいた気がする」
腰をさすってじろり、とピドーを見る。
「俺が気絶してんのを良い事に、踏んだろう」
「あ、見てた?」
「踏んだな!」
クッションが飛んだ。さっとピドーが避ける。続いて灰皿だ。ガラス製である。これからもあわてて逃げた。ピドーの頭をかすめてベッドルームに落ちる。床で割れた。
小さく息を呑む音がした。たまたま小虎の鼻先へ落ちてしまったようだ。
「小虎! 大丈夫か?」
ピドーが急いで駆け寄った。彼が覗いたのとは逆の方から小虎が這い出す。あまり感情をあらわにしない小虎だが、さすがに眉間にたて皺が寄っている。鼻のてっぺんを気にしている。ほんの少しだけ横に赤い筋が走っていた。それでもジャックを警戒してか、物影から出ようとはしなかった。
「すまん」
ジャックが声をかけた。ピドーの背後から覗きこむ。さっと逃げたが、銀色の髪がちらりと映る。
「...君、もしかして」
ようやく顔を出した。ベッドの向こうだ。安全距離を保ったつもりだったろうが、ジャックの体は大きい。がばっと腕を伸ばし、小虎の肩を掴んだ。不意を突かれた。小虎はやすやすと引っ張り出され、ジャックの腕の中だ。
「生きていたのか!」
ぎゅっと抱きしめる。一瞬手足をばたつかせたものの、すぐに大人しくなった。諦めたようだ。体を固くしているのはピドーにも分かった。顔が少し赤い。おそらく息が詰まっているのだろう。ようやくベッドに降ろされたが、小さく呟いた。
「...同じ...」
小虎に対して遠慮がない。しかも行動が唐突だ。
「何だって?」
ジャックの問いに、つんと横を向く。
「親父、知り合いだったの?」
小虎がまず首を振る。ベッドの下に戻った。
ジャックが苦笑した。
「いやいや。聞いただけだ。...ランデスヴァルトでたった一人、七歳の子供が生き残った。そしてクロイツベルクに連行されたと...」
ベッドの下をのぞく。続く言葉はくぐもり、ピドーの耳には届かなかった。小虎が何か言ったようだ。起き上がったジャックの顔が厳しくなった。
「やっぱりそうか。この子だ」
「え?」
もし彼が生き残りなら現在は十七才。だが小虎の外見はせいぜい十歳程度だ。
「七歳? え? 嘘! えーっ、お前、もう十七歳か! 俺より一つ年上なの? 検問所で弟だとか言っちまったよ」
見かけが実年齢と一致するとは限らない。ジーノチカの見立ては当たっていたのだ。
「親父、名前を知っているか?」
「そこまで聞いていない。お前は聞いたか?」
「ううん。マリアが小虎って名付けた」
その小虎が頭だけ出した。ジャックを見上げるが、目が合いそうになるとまた沈む。ゆっくりと言った。
「...ティーガかと...」
やたらにジャックを気にしていたのはそのせいだ。ピドーとジャックの光はとても似ている。親子だと聞いて納得だ。見知らぬ光なのに逃げなかったのはそのせいだ。
ピドーは腕を上げた。くんくんと嗅いでみる。
「ニオイとか?」
「違う。...そんな...感じが...」
感覚的な物なのだろう。きちんとあてはまる言葉が見つからないようだ。
「...マリアとピドーも...ティーガ...」
「はあ?」
「...『東の赤』...光って...。ティーガ...」
込み入った話は小虎には難しいようだ。長いセンテンスがうまく出てこないらしい。しかも声は細く途切れがちだ。ジャックが辛抱強く細かい質問を繰り返し、何とか答えを引き出した。
ソフィア襲撃の日、小虎はまだ西州にいたのだ。『東の赤』が最初に復活しかけた時の爆発を感じた。そこにティーガ族の気配があった。見えた光を目指し、追いついたのがキルヒェガルテンだった。どこに移動しようが、一度覚えた光は分かる。
小虎がピドーとマリアに聞きたかった『アレ』とはこれだ。なぜピドーがティーガの気配をまとっているのか、なぜ『東の赤』を復活させようとしたのか。
「感じか。凄いなあ、良く分かるもんだ」
ジャックはシャツのボタンも緩めた。やはり暑いようだ。額にじんわりと汗も浮いている。
「俺のひい婆さんはティーガ族だからな。えーと、1/8でティーガだ。おまえとマリアが1/16になる」
「えー! 俺もか!」
ピドーが跳ねあがる。
「そんなの初耳だぞ!」
「ああ。言ってなかった。そもそも婆ちゃんだって俺が生まれる前に亡くなっているし」
ティーガ族の文化や風習などは、家庭内に全く無かった。
「ひい婆さんの写真は!」
「無い。絵は残ってたかな? でも晩年になってからのだ」
まだカメラが普及していない時代だ。また庶民には肖像画を描く習慣は一般的ではなかっただろう。年老いてからの絵なら、髪がティーガ特有の銀色のままだとしても、年を経ての白髪とは区別がつきにくい。
「そもそもティーガ族は内戦で反乱分子として虐殺されたんだぞ。その流れを汲むなんて大声で言えるか」
「そうだけどさ...。でも大事な事じゃないか、くそ親父! ジーノチカがシパクトリの白熊だって言ったけど...そうか、ティーガのゲームも得意なはずだ」
「ちょっと待て」
ジャックの顔が少し歪んだ。不審と笑いが同居しているようだ。
「白鬼...と呼ばれた事はあるが...。シロクマだと?」
「似たようなもんだろ!」
ピドーはジャックの正面に立った。
「ちゃんと教えろよ。北事変の事も、母ちゃんがどうして殺されたのかも。子供だからって仲間外れにすんな! 俺をキルヒェガルテンに行かせたのも、犠牲者が出たんだって知らせない為じゃないのか!」
父はあっさりと頷いた。
「まあな。マリアに聞いたのか。お前は頭に血が上っていたし、マリアがこっち方面に偵察に行きやすいだろう?」
ピドーの顔が丸めた紙のようにクシャクシャになった。体の良いやっかい払いをされたのだ。そしてあの結果を招いた。
「親父...言っておかないと...。マリアの怪我、俺のせいなんだ」
「爆発が起きたんだろう? お前がやったとでも言うのか?」
「そうだ。俺がやっちまった。太陽神話は本当にあったんだ。ほら」
マントルピースの前を示す。亡霊はずっとその場にとどまっている。ピドーは心の中のステージに立つ。ほら穴の入り口の見える場所へ。すると風景は赤く染まる。そして亡霊はきっちりとした輪郭を取り、火花を発して散る。ジャックは腰を浮かせた。
「...どうやったんだ?」
「冥界の太陽の力だ。『東の赤』がここにいる」
自分の胸を示す。
「冥界の太陽が俺に復活しちまった。亡霊を使って爆破を起こせるんだよ! 俺はそれが分からなくって...すごくでかいのを一発やっちまった。それがアディート郊外のテロって呼ばれてる爆発だ。マリアは...そのせいで...。小虎がいなかったら...。小虎が『北の黒』だ。次の爆発を抑えてくれたし、マリアを助けてくれた」
ジャックは床に目を落とした。指を組み、しばらく無言だった。
「...そうか。まずキルヒェガルテンから話してくれるか? 一体何が起こっている?」
「うん...あ、でも始まりはラドクリフなんだ。あれ? そういえば食堂の名前『シュルツの店』だったな」
困ったら行けと言われた場所は、シュペトレーゼと同じ苗字だった。
ジャックは腕時計に目をやった。
「後で話す。まずはここを離れよう。もう少し傷が良くなったら、もっと監視が厳しい場所に連行される恐れがある。小虎の処遇もどうなるか」
「うん。親切にしておいて油断させるつもりかも」
ピドーに異論はない。監視付きとはいえ、かなり自由に行動できる今の状態の方が特別扱いなのだ。戦時中なのだ。用心は必須だ。
小虎がまた窓の外を伺った。ピドーが尋ねた。
「どうだ? こっちに向かっている奴はいる?」
黙って首を振る。ジャックが答えた。
「しばらく来ないぞ。駅の騒動で出払っているし、ここの見張りはぐっすりと狭い場所でお休みだ」
くるっと後ろに手を回してみせる。気絶させたうえに、縛ってどこかに閉じ込めたか。
通信機が鳴った。焦った様子もなく、ジャックが出た。
「...了解、こちらは異常なし」
短く答えて切る。さほどクリアな音声ではないようだ。これなら違う人物の声だとばれにくい。
「定時連絡だな。もうしばらく時間を稼げそうだ」
ピドーとジャックはカーテンをそっとめくった。ホテルの裏手は小さな路地だ。人影はない。
「よし、移動だ」
ジャックは小虎に自分のマフラーをかけた。
「巻いてろ。髪が隠せる」
小虎は顎をうずめた。鼻先だけが覗いている。
「...ん」
ジャックはドアの前に立って外の気配を伺っている。ピドーは首を振った。
「このホテル、裏口ないぞ」
兵士らと行きあってしまう。
「ある。厨房の食材搬入口だ。大体はあるもんだ。俺はそこから入った」
「シェフがいるだろう?」
「配達人には無防備だよ。ちょっと制服を借りた」
「よくサイズがあったな! 用意したのってどこの? もしかしてカーク商会?」
そこの船に便乗したのだ。便宜を図ってもらったのは自然な流れだろう。だが父は少し肩をすくめただけだ。
すばやく荷物をまとめるピドーの背にジャックが言う。
「ハンナが部屋を用意してくれたんだ。ひとまずそこへ行け。場所はここだ」
と、手帳を取り出した。素早くメモを書いて破く。鍵や財布と一緒に押し付ける。
「そこで二人とも服を着替えろ。部屋にある。持って来た。二十分経っても俺が来なかったら部屋を出ろ。鍵は...そうだな。かけなくていい。洗面所の棚にでも入れておけ。それからジェールへ渡れ。カーク商会の支店に行ったらオスヴィン・ゲープハルト氏を呼んでもらえ。俺の名前を出せばいい」
「誰? どんな知り合い?」
「本人に聞け。上手くやってくれるはずだ。ソフィアへ戻れ。いいな」
「でも」
「早くしろ」
着替えはありがたい。どんな服装か、記録されているかもしれない。
「制服は俺一人分だな。お前らをどうするか」
小虎が既に窓を開けていた。空はもう暗い。目に付きにくいだろう。ここは三階だが、躊躇なく身を乗り出した。雨どいにつかまる。彼は慣れた様子で滑り下りた。見下ろすピドーに手招きする。
「マジかよ」
鉄の感触はひんやりしていた。ふとソフィア襲撃の時を思い出す。工場の屋上に鉄の梯子を伝って上がった。カイとピドーを追いかけてくれたレイナーはもういない。
一気に下りるつもりだった。だが、まず二階でひっかかる。樋を壁に取り付けてある金具に掌がぶつかった。
悲鳴をあげそうになる。ぎゅっと唇を結んだ。
一階の途中まで滑ると、もう手の皮が熱い。これ以上は痛くて無理だ。途中で壁を蹴り、地上に下りた。勢い余って転がる。あわてて跳ね起きた。小虎は無言のままだが、視線が合いそうになるとすっと目を逸らせた。
「...笑ってもいいんだぞ!」
ピドーは泥をはらい、小虎の肩を軽く叩いた。
「一緒に泥棒稼業はできそうにないな」
見上げるとカーテンが翻っている。手が布を掴んで引き込む。バタンと窓が閉まった。漏れていた光も同時に見えなくなる。ジャックには、この脱出方法は無理だろう。目立つだろうし、雨どいが折れそうだ
「行こう」
足早に歩きながらメモを開いた。
空は真っ黒だった。騒乱の影響だろう。早じまいする店も多いようだ。それでも町の灯りが天を照らす。星があまり見えない。空気も何となく淀んでいる感じだ。救急や消防のサイレンはおさまったが、ケッセン駅の方向はさらに明るい。
小虎が呟いた。
「髪、切る」
「へ?」
マリアに勧められた時はきっぱり断っていたはずだ。彼にとって髪の色は民族の証である。失った一族と彼をつなぐものだ。
「染めてもいいのか?」
「うん」
相変わらずちゃんと目を合わそうとはしないし、最低限の言葉しか言わない。だが小虎がそう決めたから言葉にしたのだろう。ピドーにはもう分かっていた。
「分かった」
ハンナが用意してくれた場所は、そこからさほど遠くなかった。病院に近い場所を選んでくれたようだ。家具が備え付けの小さなアパートの一階だった。鍵を開けたら、すぐにジャックが指定した場所に隠す。ダイニングキッチンと寝室兼リビングがあるだけだ。
「二十分はきついな」
髪を染めるには、最低でも三十分程度はかかる。ピドーは急いでタンスや引き出しをかたっぱしから開けた。裁縫用の小さな鋏がベッドのサイドボードにあった。
小虎を洗面室に連れて行き、浴槽の縁に座らせる。
「切るぞ」
返事はないが、小さく頷いたようだった。
ざくり、と鋏が鳴った。銀色の髪がちらばる。小虎の足がそれをかきまぜた。ピドーが唸る。長いのはつかんでトイレに流す。残りはシャワーで一気に流した。
「上出来だ!」
小虎は首に手を当てた。ちくちくする。立ちあがり、鏡をのぞいた。彼にしては珍しく、わずかにしかめっ面になった。長さを調整できる技術などピドーにあるはずがない。頭頂部は長いままでうなじの方は短かった。出来そこないのおかっぱである。
「何だ? 何か言う事があるか?」
小虎は首筋を撫でているだけだ。一度ちらりとピドーを見たが、すぐに目を逸らす。
「ないよな! 染めるのは時間ができてからだ」
ピドーはさっさと部屋に戻った。ジャックの鞄をあさり、適当な服を小虎に放り投げた。
「俺用だな。ちょっとでかいけど我慢しろよ」
小虎にはサイズが合わない。シャツは何とかなったがズボンは履き替えられずそのままだ。最後にピドーの帽子をかぶり、準備完了だ。
「よし、南へ行くぞ」
ソフィアに戻る気は、さらさらなさそうだ。さっさと戸口へ行って振り返った。小虎はただ立っている。
「どうした? 俺達の未来の為に行くぞ!」
「...みらい」
オウム返しに呟く。
浴室のドアは開いたままだ。散らばった銀の髪は、もうそこには無い。小虎は頭に手をやった。切ったばかりの髪は皮膚に突き刺さるようだった。
(未来? 大人になったら?)
室内から目を逸らす。ピドーは、もう戸口の前だ。背中を追いながらも、未来、未来? と心の中で何度も繰り返した。その日を生きるのに精いっぱいだった。先ほど鏡に映る自分は、もう何年も外見の変化はない。それでも月日は流れて、自分もいつかは大人になる。将来がある。生きているのだから。当たり前の事なのに、改めて意識すると不思議な感じだった。
「ソフィア?」
「ああ。これが片付いたら行こうな。何も無いとこだけど」
ピドーは少し寂しそうに笑った。
「もっと何も無くなっちまったな。だから、また作らないと。またぶっ壊しに来る奴がいるならぶっ飛ばしてやる」
ごちん、と開いた掌に拳を叩きつけた。
『東の赤』七面鳥が背負うのは足掻きだ。どんな環境に落とされようと、そこから逃れようと懸命にもがく。小虎は横目でちらりとピドーを見た。
(ぴったりだな)
マリアも足掻きの七面鳥がピドーにふさわしいと言っていた。冥界の太陽がそれぞれにふさわしい人物を選んで復活するのだとしたら。
ただでさえ大きな帽子をさらに深くかぶった。自分の瞳が誰からも見えないように。マフラーが温か過ぎる。首筋が汗ばんでいるようだ。布が肌にまとわりついて鬱陶しい。
(じゃあ僕には絶望がお似合いか...)
未来がどこにあるのか見当もつかない。
どん、と扉が鳴った。ピドーの肩がびくりと震える。現れたのはジャックだった。うまく脱出したようだ。接近がわかっていた小虎は平然としている。
「遅くなったな。まだいたのか、良かった」
小虎のヘアスタイルを見て、ちょっと唇が歪む。
「小虎、ちょっとおいで」
ひょいっと体ごと持ちあげられてしまった。洗面所へ逆戻りだ。浴槽に服のままで入れられた。逆らえる対格差ではない。小虎はあきらめの表情だ。タオルを肩にかけられた。ピドーが使った鋏が、器用に髪を整えていく。
「格好よくしてやるからな。安心しろ。マリアとピドーの調髪は俺の役目だ。上手だぞ。その間に、ピドー。さっきの話だ。聞かせてくれ」
「うん」
ピドーはリビングの床に腰を下ろす。開いたままのドアから、浴室の二人が見える。ジャックは背中を丸めて前かがみになった。側頭部もていねいに切る。確かに白熊のようだ。
散髪が終わった小虎は浴槽から逃げ出した。ジャックが渡したタオルで首をこすっている。ちくちくするだろうに、すぐにフードをすっぽりかぶった。そしてベッドにもたれた。
ジャックも来た。ソファが大きくきしんだ。ジャックの巨体が沈む。
そもそもラドクリフでのちょっとした騒ぎが発端だった。シュペトレーゼやルプレヒトとの出会いで、太陽神話を知った。そして『東の赤』の石がピドーの手に渡る。ソフィア襲撃での仮の復活。ハンナ、ジーノチカとの出会い。アウゲンとの邂逅。小虎の不可思議な能力。そして大爆発。わずか十日余りの出来事だ。事実だけを伝えるつもりだったが、時には感情が溢れて言葉が詰まった。
「これで全部。信じようが信じまいが、俺の本当の体験だ」
しばらく沈黙が流れる。時計の針が動き続けるばかりだ。ジャックは腕組みをして、床を見つめていた。
ようやく体を起こした時には微笑んでいた。小虎に顔を向ける。
「小虎、実は...」
口をつぐむ。少し何か考えているようだ。小さく首を振る。また笑いかける。
「なるほど。ティーガの力か。それで俺は空を飛んだのか。マリアを、俺の大事な娘を助けてくれたんだな。ありがとう」
言いかけた言葉ではなさそうだ。
ピドーが口を挟む。
「実は何だよ?」
「いや...」
なおも言いよどむ。
「ソレが何を意味するのか、俺にはまだ分からん。はっきりしたのなら伝える」
「了解」
父は相手が誰であろうと誠実だ。伝えると言ったのならきっと守るだろう。ピドーは頷いた。
小虎は無表情のまま、すーっとベッドの陰に隠れた。消えた方向に向って、ジャックが軽くシーツを何度か優しく叩いた。まるで赤ん坊をあやすような手つきだった。
「今度は親父の番だ」
「ああ...」
ジャックは小虎に声をかけた。
「出ておいで。君にも関係のある話だ。ちゃんと座って聞くんだ」
手だけがシーツの上に出た。ピドーが声をかける。
「出て来ないと引っ張り出すぞ。俺は早く聞きたいの!」
小虎はおずおずと姿を現した。体を半分ベッドに隠したままで床にちんまりと腰を下ろした。膝を抱えて丸くなっている。それでもちゃんと出入り口に一番近い場所を選んでいた。
「小虎。追っ手が来たら教えてくれ」
ピドーの脳裏にちらっと金髪の青年の面影が浮かんだ。床に押し倒されたピドーと目線を同じく話そうとしていた。真面目で、しかし融通がきかない。
(シュペトレーゼはどうしているかな?)
ジャックは座りなおした。そして大きく息を吐いた。
次回 第七話 過去の西州・クロイツベルク 内戦前夜、不穏に満ちた王都
お読みいただき、ありがとうございます。
もう少しで折り返しとなります。
誰が敵やら味方やら。混沌としておりますな。
シパクトリのゲームのルールも、一応考えてみました。
もう少し後の話になりますが、そのうち解説いたします!
なぜシパクトリか? 語呂が気に入ったのです。
今回、初出さんはナシです。




