冥界の太陽たち 五話 中 交差する町 東州ジェール、南州ケッセン
出奔したシュペトレーゼの行方は?
東州の第三勢力が大きく動き始めるのか
冥界の太陽たち 五話 中
交差する町 ~東州ジェール、南州ケッセン
フィニーニとエレノアは迷宮のような階段を下った。二人が向かったのはジェール駅だ。この周囲だけは少し平地が広がる。通りに面してビルが並ぶ。こじんまりとしているが、ジェール屈指の繁華街だ。二人は駅に近いビルに入った。何の特徴もない、灰色のごくありふれた三階建てだ。小さな入り口を入ると踊り場だ。壁に戸数分の郵便受けがある。それぞれ入居者の名前を書いたプレートが嵌っている。どれも『楽園創生の委員会』だ。ここは彼らの拠点だった。フィニーニは空き箱を一階に置いた。体格の良い三人の男が迎えた。彼らはにやにやと笑う。まるで夜の店で会ったかのような視線をエレノアに送った。派手な模様の開襟シャツや、下品な言葉がプリントされたパーカー姿だ。
フィニーニの目の合図で、部屋にあった荷物を箱に詰め始める。乾燥した葉や黒い板状の物だ。それらを茶色い油紙に包む。エレノアははっと息を飲んだ。フィニーニを見上げるが彼は優しく彼女の腰を引き寄せただけだ。部屋には銃も乱雑に置いてある。委員会には自警団があり、軍事訓練なども随時行う。エレノアは知ってはいる。だがやはり武器を目にすると心が騒ぐ。それらを横目に階段を上がった。
三階が委員長の執務室だ。シンプルながら茶色を基調にした品の良い内装だ。入り口近くはリビングだ。落ち着いたグレイのソファとテーブル、床は大理石にカーペット敷きだ。壁際にはミニバーがある。続きの間へは壁がない。そちらはデスクが置いてあり、小ぶりの書斎といった雰囲気だ。さらに奥が寝室となっているようだ。ホテルのスイートのような造りだ。
リビングの窓には厚いカーテンが下がっている。それを少しだけめくり、外を見ている男が振り返った。背は高い。後ろ手にカーテンを閉めた。布の隙間からまばゆい光が筋となってさしこみ、男のシルエットを金色に彩る。フィニーニが手を挙げた。
「やあ副委員長。今回は荷物の付き添いをお願いしたい」
「ええ。何でもやります」
男はつばのついた毛糸の帽子をかぶっている。色の濃いサングラスの位置を直した。肩から首元にかけて紺色のストールをまとう。部屋は湿っぽく、空気が籠っている。彼が副委員長のサッシャ・コーエンだった。
エレノアは彼に軽く頭を下げると、書斎の方へ向かった。さっそく机に向って書類をめくり始めた。
フィニーニは、思わず手で顔を仰いだ。
「暑くないか?」
「暑いですね」
男の声の調子は平板だ。務めて感情を排除しようとするかのようだ。西州のイントネーションだ。男はストールを顎まで上げなおした。窓辺に寄りかかったままフィニーニを見つめている。
フィニーニはミニバーに歩み寄った。コップに氷を放りこみ、酒を注ぐ。
「サッシャ、飲むか?」
「いいえ、すぐ出るんでしょう?」
サッシャは首を振った。
「いいや、明日だ。今日は積み込みだ」
一気に飲み干すと、フィニーニは計画を話した。
「あの荷物は東西鉄道でケッセンまで運ぶ。前金はもらっている。後は荷物を確認してから。受け取り人と会ってくれ。彼がさばいてくれる」
「了解。検閲を受けそうだったら?」
「紋章を作成済みだ。荷物と一緒に行く者に渡してある。あれが無いと不便だからな」
「相変わらず手回しがいいことで、委員長」
サッシャは顔を歪めた。だが笑顔のようでもあった。肩を竦める。フィニーニは大げさにお辞儀をしてみせた。
「お褒めにあずかり光栄だ」
彼はグラスをカウンターに置いた。声を潜める。
「ところでマイン橋とソフィア襲撃だ。偽の犯行声明を出した奴らの見当はついたか?」
「さあ。小さなテロ組織なら幾らでもありますからね。マイン橋はとにかく、ソフィアみたいな片田舎を襲う意味があったのかな?」
「分からんな。だが迷惑な話だ。委員会を騙って俺らの立場を悪くしようとでもいうのか」
「俺達が自警団を持っているというのは、全国的に知られていますよ。それだけで疑われてしまう」
「ああ、選挙には不利だ。だが内戦中だ。万が一の為の武装だし、解散は考えていない」
フィニーニはまたグラスを持ち上げた。さらに声を低くする。
「火器の類は北に渡さない。注文書は無視しろ。ケッセンでは南北線に積み替えるな。一部は委員会に備蓄し、残りは全てクロイツベルクへ送る」
「あ~...その為に俺が付き添いか...。前金で幾らかもらっていますが? カーク商会からの発注でね。あそこは全国規模で物流を把握している。あまり敵に回したくないな...。言い訳程度には流しましょう。小うるさいレディがラドクリフ支社にいるんだ」
リリー・コールの辣腕の評判はここにも届いているようだ。
「うん、任せる」
そこでフィニーニは顔を書斎に向けた。エレノアがじっと見ている。
「どうした?」
「いえ、あの、今の話しって...お金だけ北州からもらって品は渡さないように聞こえたのだけど...」
「そんなはずはないだろう? 物流の滞留で納品が滞っているって話だ。発注の先着順に渡すだけだよ」
彼は穏やかな笑顔を向けた。
「エレノア、とても感謝している。君のおかげで手りゅう弾やダイナマイトが入手しやすくなったんだ」
チェステ製作所に入り込んだからだ。多少の無理も聞いてもらえる。
「心配しなくても大丈夫。東州の不利益になるような事はない」
「え...ええ。そうね...」
「奥で伝票をまとめてくれるかい?」
「...分かった...」
彼女は奥の執務室へ消えた。
もう一つリビングがある。さらに奥のドアをそっと叩いた。返事はない。いつもの事だ。静かに開く。狭い部屋に棚がぎっしりと詰まっている。広い窓を背に、茶色の髪の女性が顔を上げた。巻き毛はところどころ白髪が混ざっているものの目が丸く、可愛らしい顔立ちだったと思わせる。しかし眉間には皺が寄り、唇を固くかみしめている。苦労や苦悩がそのまま皺になって顔に張り付いているようだ。地味なシャツとパンツだ。四十を超えた年頃なのだろうが、もっと年かさに見える。
いきなり睨まれた。エレノアの肩がびくっと上がった。
「こっちで伝票を...まとめろと...」
「は? 委員長のアクセサリーにできる仕事なんかない。邪魔。出て行け」
「あ、あの...一つだけ教えてもらったら出て行くわ。今、一階で詰めている荷物ってアヘンと乾燥大麻よね?」
秘書は手を振り上げた。手元のインク壺を叩きつける。それはエレノアの足元で転がり、靴に飛沫が跳ねた。
「西の奴らなんか、元々どうかしている連中だ。大好物を売ってやってる」
「委員会が扱っているのは武器だけじゃないの?」
どん、と彼女が両手の拳で机を叩いた。
「質問は一つ、もう終わり」
また仕事に没頭し始める。
リビングではフィニーニはまた酒を注いだ。
「サッシャ、君はどうして東州へ来た?」
「中立の地域だからに決まっているでしょう。徴兵されるのは真っ平ですよ」
サッシャは息を吐いた。ソファに座り、壁の全土の地図を見上げた。コップを持ったままのフィニーニは立ったままだった。
「やっぱり武器は北州へも送りたくない。橋は封鎖されているが、船か山越えで動かせる。やっぱり全てを西へ、かな」
「いやいや。東州のお偉いさん達だって本気で北と没交渉になったわけじゃないでしょう。俺たち『委員会』があまり経済的に潤うとまずいからじゃないですか」
橋の封鎖を決めたのは東州議会だ。一地方の勢力に過ぎない『委員会』が経済的な力を付けるのをあまり快く思わない連中もいるだろう。元は商品の仲介業でもあり、武器販売を始めたので資金も爆発的に増えた。部分的に物流が滞ってでも、『委員会』を牽制したいのだろう。
「カーク商会は西州に恩を売りたい。良い顧客だから、そっちに肩入れしているふりだ。本当はどっちにも良い顔をしていますよ。戦況はにっちもさっちもいかないが、少しくらいは渡しましょう。北州はそろそろ体力が持たないから、多少武器があった所でもうダメでしょう。内戦終結に向けて、東は西へ良い顔をしておかなくてはね。橋の閉鎖はそんな所でしょう。違いますか?」
「まあそうだろうな。だからといって今の東州政府だけに大きな顔はさせない。俺達の存在感を示さねば」
「ええ」
サッシャはフィニーニを見上げた。
「荷物にガードは付けてくれるんですね? もしも下の連中だったら、服を何とかしてください。あれじゃヤバい物を運んでいるって旗を振っているようだ」
「ああ、着替えさせる。それなりの報酬は渡してある」
ばん、と奥の部屋から音がした。エレノアが青い顔で出て来た。
「エレノア、君も飲むといい」
「えっ、ええ。そうね」
フィニーニがカウンターに歩み寄る。氷がグラスの中を回った。茶色の液体が満ちる。エレノアに渡した。しかし口をつけずに持てあそぶ。
「どうした?」
恋人の肩に手を置いた。フィニーニが言う。
「顔色が悪いな。まだ何か心配があるのか?」
エレノアは酒を一気に煽る。濃かったのか顔をしかめた。
「ちょっと体調が悪くて...一度家に戻るわ」
「残念だな」
フィニーニは彼女の頬にキスした。
「もっと一緒に居たかったが...。君の家は居心地がいい。最新式の温風器やオーブン...全てが揃っている。最近の儲けのおかげだろう? 俺も鼻が高いよ。ああ...でも気を付けないとな。不確実な情報とか口を滑らせでもしたら? 誰かに逆恨みなんぞされたりしたら大変だね。小さな子供もいるし、失くすものは多いな。とても心配だ。君は賢い女だと信じているよ。愛している、エレノア」
顔が更に色を無くした。余計な事を話すなと言われたようだ。まるで脅しだ。頷くしかできなかった。彼女はがっくりと肩を落とす。靴に飛び散る染みを見つめた。フィニーニと出かける為に選んだ淡いピンクが無惨に染まる。フィニーニはこの黒点に気が付いただろうか? 彼女は唇を噛み締めて階段を下りて行った。
サッシャは指を立てた。彼女が去ったドアを指す。
「怯えていますよ。あの秘書に怒鳴られたかな?」
「だろうな。あいつが怒ってないのを見た事がない。有能だし仕事熱心だからいいが。それよりエレノアは...どうするか...。もっと使えるかと思ったのにな。最近、どうも知りたがりでな」
「俺も知りたがりでね。太陽の復活はどうなったか噂でもいい。何か情報はないですか?」
「テロに絡めたただの噂だろう」
「世間ではそう言いますね」
口をつぐみ、顎に手を当てる。もう片手は、またストールを上げていた。帽子の縫い目からはみ出した髪はくるりと巻いていた。それを指でもてあそんだ。
(『北の黒』が復活したのなら...。どこにいるやら。会えればいいんだが...彼だってどう動くか分からないし。四つ揃うのが先か、時が満ちてしまうのか...。十年かかって、やっと『東の赤』が...)
細い唇がさらに鋭く結ばれた。視線が落ちる。眉が少し歪んだ。端正な顔に深い憂いの色が漂った。
しかし、顔を上げた時にはちょっと皮肉な調子を取り戻していた。
「委員長が東の為に動いているのは理解していますとも。でもこのまま内戦を続けるつもりですか?」
「なぜそう思う?」
「北も西も疲弊している。それなのにどちらにも武器や麻薬を供給し続ける。南は西の言いなりで大人しくしているだけ。東ばかりが太る」
「金はいくらあっても邪魔にはならない。そうだ、オピウムの追加が必要だな」
「了解。となると山岳地帯へ戻るんですね」
「そうだな」
エレノアはもう連れて行けないな、とフィニーニは低く呟いた。
一方のルプレヒト。さっさとホテルの階段を上った。
自室のドアは少し開いたままだ。廊下に落ちている紙片に眉をひそめる。
ノックする。返事はない。
腰のホルダーに手を伸ばす。そのままの姿勢で室内に声をかけた。
「シュペトレーゼ? いますか?」
静かだ。銃を引き抜く。構えて足でドアを押した。体が入るだけの隙間を作る。ドアの下から押し込んだらしい紙片が落ちていた。殴り書きの文字が躍っている。
『待機乞う』
「え? 何だ?」
銃をしまう。それでも一応は確認だ。
「誰かいるのか?」
部屋はひんやりとしている。ベッドのシーツは横たわった処だけが乱れていた。
「シュペトレーゼ?」
洗面所にも人気はない。クローゼットを開けて上着とバッグがない。
壁際のテーブルに便せんが乗っていた。ホテルの紋章が入った備え付けの品だ。こちらも走り書きである。
『R・ヴィプリンガー殿 申し訳ありません。僕は太陽神話を止めたいのです。その為に行動します。 S・S』
シュペトレーゼの置手紙だ。彼は監視の目をくぐって脱出したようだ。
「...やられた...今回は私が遅かったか。どうして止めなかったんだ、あの爺様は...」
ベルクマンと部屋に戻ったので安心していたのだ。両隣の部屋も確認する。どちらも無人で鍵がかかっていない。
急いでロビーに戻った。フロントのカウンターに乗り出すようにして受付に尋ねた。
「こことは別の出入り口があるな?」
「いいえ。お客様にはこちらをお通りいただいてます」
「従業員は?」
「あ...裏手の通用口を使いますけど」
ルプレヒトは息を吐いた。
「そっちか!」
「どうかしましたか?」
「いいや」
すばやく身をひるがえす。受付の視線が追っていたようだ。
駅は十分ほどだ。町を出るなら一番便利な交通機関はそこだけしかない。窓口の係員に怒鳴るように尋ねた。
「列車は出たか?」
「どこ行き?」
「そうだな...」
ルプレヒトは窓口の上に掲示されている路線図を見た。ジェールから三方向へ伸びている。東と北行きは東州のローカル線だ。そして海峡を越えて南州ケッセン行き。ここを経由して西州へ入る東西横断鉄道がある。
「三方向全部だ」
「...はあ?」
係員は眉をひそめた。しげしげとルプレヒトを眺める。どっちへ行きたいのかはっきりしない相手に、ため息交じりに教えてくれた。
「東行きは五分後に出るよ。北と西は二十分くらい後だね」
「だから先発は出たのか?」
「行っちまいましたよ。あ、ちょっと!」
切符を買う時間も惜しい。ルプレヒトは改札を駆け抜けた。係員が叫ぶ。
「お客さん、切符!」
停車中の列車に飛び乗る。左右に二列ずつ座席がある。早足で車両を抜ける。乗り込む乗客を掻き分けながら端から端まで確認した。金髪の若い男は見当たらない。もちろんベルクマンの姿もなかった。
数人の駅員が追い掛けてくる。ルプレヒトは唇を噛む。車両から下りた瞬間、駅員らに囲まれた。
「来てもらいましょうか」
肩をすくめる。
「悪かった、急いでいたんだ。人探しで」
彼は大人しく頭を下げた。素直に改札を再び抜ける。険しい顔の駅員達だった。なおも不審そうではあったものの、実害があったわけではない。結局は追いかけて来なかった。妙な言動の男と関わりたくないのか。
『南へ向かったか?』
シュペトレーゼにとっては北上するメリットは何もない。やはり南へ向かったのだとしたら。指示通りにホテルで待っているしかなさそうだ。
宿に戻る。受付はちらりとルプレヒトを見て軽く頭を下げただけだった。
ベルクマンとは逆の隣の部屋に遠慮なく入る。ベッドのシーツは乱れたままだ。クローゼットも引き出しも開いている。壁際の小さな机に紙片が乗っていた。走り書きのメモだ。
『チェックアウトよろしく』
それを丸めて屑かごに放りこむ。
「やれやれ」
彼は肩をすくめた。乱雑な室内でため息をつく。自室に戻り、すぐにでも出かけられるように荷物をまとめた。後は指示が来るのを待つだけだった。閉まったままのカーテンを開ける。シュペトレーゼと居る時はいつも閉めっぱなしだ。狙撃など万が一の事態を想定している。窓を開けた。穏やかな風が吹き込んだ。かすかに潮の香りがする。町は金色に光っていた。白い建物ばかりだ。西日でまばゆいオレンジに染まる。
壁に寄りかかり、光景を眺めた。彼が育った北州とはまるで違う明るさだ。
(太陽神話か...)
まるで信じていなかったのに、気持がぐらついている。キルヒェガルテンでの体験のせいだ。体の中身が引っ張られた。着ぐるみから抜け出すように肉体から離れたのだ。横たわる自分を見た。その感覚は未だ覚えている。全身が実体というくびきから抜けて軽くなった。けれども自由ではない。誰かが自分を捕まえている。見えない力で掴まれて、彼の傍に浮いている。それは小さな子供だ。彼の背中の位置にいるのに、銀色の瞳に見つめられているのを感じる。
夢というにははっきりした記憶だ。しかも、体から離れている間に通った場所と同じ光景を見た。そしてピドーの近くで起こった赤い光。音も熱もなかった。しかし、確かにそれはあった。
本当に超自然の出来事があるのか、まだ確信は持てなかったものの、人を動かす力であるのは確かだ。紙幣の区別さえつかなかったシュペトレーゼがたった一人で南へ向かった。それもまた神話に引かれての事だ。
ルプレヒトは暮れようとする街並みをずっと見つめていた。ただひたすら待つ。それもまた今の彼の仕事だった。
鉄橋を渡る響きが全身に伝わる。細めに開けた窓から潮風が吹き込む。列車から吐き出される黒い煙が時折視界に入っては消えた。シュペトレーゼは飽きることなく車窓を流れる景色を眺めていた。座席は半分ほど埋まっている。彼らには慣れた景色なのだろう。新聞を読んだり、半分眠っていたりそれぞれの時間を過ごしているようだ。
すぐに中州の島にさしかかった。橋脚の支えになっている。鉄橋の脇は岩山だ。黒い断崖が車窓を過ぎる。頂上に古い城塞があるはずだが、座席からは見えなかった。点在する島々にも赤や青い屋根が見える。この地域がメールエンゲン準州だ。
海峡を渡り切った。ひと際高い塔が見えてきた。尖った屋根の下に時計の文字盤がある。町のどの建物より高い。町の全景のみならずジェールまで見えるだろう。
石造りの町が近付く。ケッセンだ。車内がざわつく。気の早い客が何人か立ち上がり、車両を歩いて行った。
何本もの線路が寄り集まり、駅舎へ吸い込まれる。ホームに停車した。
シュペトレーゼは窓枠に肘をついていた。
車両のドアが開く。頭頂部の平たい帽子をかぶった車掌が車両のドアを開けた。軽く帽子のつばに手を当てる。
「これより南州鉄道となります。続けてお乗りの方は切符を確認させていただきます」
切符は鞄のポケットだ。財布の中に入れておいた。隣においたのを引き寄せて、初めてファスナーが開いているのに気がついた。財布がない。違う場所に入れたのかと他も確認してみる。シュペトレーゼは立ち上がった。服のあちこちを探る。しかしどこにもない。
車掌が彼の横に立った。
「切符を拝見」
「見当たらないんです」
「どちらからお乗りですか?」
「ジェール駅から」
品の良さそうな若者を、初老の係員は失礼にならない程度に見つめた。
「どちらまで?」
「ゲルシュニアウプまでです。切符は確かに買ったんですが...」
「結構」
乗客が切符を紛失するのはよくある事だ。車掌は頷いた。
「もう一度買って下さればいいですよ。ジェールからゲルシュニアウプですな」
肩から斜めにかけた黒いガマ口を開く。小さな紙片はゲルシュニアウプ行きと印字してあった。
「あの、でも、財布も無いんです...」
「え、困りますよ、お客さん。全然無いんですか? せめてジェールからケッセンまでの乗車賃をいただかないと」
シュペトレーゼは沈黙してしまった。こんな時どうしていいか分からない。乗車中は鞄を脇に置いたきり、ぼんやり窓を眺めるだけだった。こそ泥の被害にあっても当然だ。しかし彼はなぜ財布が無いのか戸惑うばかりだ。
「じゃあちょっと下りてもらっていいですか。警察に届けるなりしないと」
「警察...は、ちょっと...」
「でもねえ」
列車の発車時刻もある。車掌は腕時計に目をやった。車掌の声がやや尖った時だった。一つ後ろの座席からひょいっと若い男が顔を出す。やや丸い顔で、赤みがかった髪だ。背もたれに肘をかけて乗り出す。シュペトレーゼは目を丸くした。どこかで見た記憶がある。
「車掌さん、僕が払います」
彼はどこか楽しげな表情を浮かべていた。
「そういうわけには」
シュペトレーゼの言葉を遮る。
「いいんですって。僕ら、連れなんですよ」
はい、と自分の切符を差し出す。彼の行き先はジェールの次の駅までしかない。
「あれ、お客さん...」
「ごめんなさい。急いでたんで、一区間だけ買って飛び乗っちゃった」
彼は人懐っこく笑う。
「ここまででお願いしますね、二人分」
何か言おうとするシュペトレーゼをまた制する。
「だって。あなた一文無しでしょう? 行き先を選んでいられませんよ、シュルツさん」
「え」
誰が払おうと金は金だ。車掌は仕事が済む。当のシュペトレーゼを無視する格好でケッセンまでの乗車賃が二人分払われた。
「ちょっと降りてもらえますか?」
「...でも...」
「切符、ここまでですよ?」
その通りだ。シュペトレーゼは文無しで切符を買い足せない。彼の言う通りにするしかなかった。
二人は汽車を降りた。彼らの乗った便は貨物車両も連結されていた。駅員が連結部分を外す作業中だ。機械油の臭いが漂う。
シュペトレーゼがこれまで訪れたどの町よりもケッセンは賑やかだ。人をぬってホームを進む。人ごみに慣れていないシュペトレーゼは、あちこちで立ち止まってしまう。向かってくる人を全てやり過ごしていては進めない。男はシュペトレーゼの肩に軽く手を置いた。丸い目が見上げている。彼の方が頭一つ分ほど低かった。
「もう、しょうがないなあ。行きますよ」
「どこへ?」
彼は素早く左右を見渡した。一瞬だけ眉をひそめる。それから、またにっこりと笑顔を向けた。
「とりあえず駅を出ましょう」
彼は器用に人の波を避ける。シュペトレーゼはただ着いていくだけだ。
「あ、あの、君は...もしかして、キルヒェガルテン行きのバスに乗っていたよね? ピドーと...通路を挟んで隣」
「はいはい、いましたとも」
彼は声をひそめた。
「自分はエイミール・モリス曹長です。エイミールとお呼び下さい」
「え。もしかして北州の」
しっ、と唇に手を当てる。
「そうですよ」
「監視は二人じゃなかったんだね」
「嫌だなあ、護衛ですよ。何人もいますって」
「どこにいたんだい?」
「気が付かれない程度に、付かず離れずって感じですかね。僕らはプロですよぉ。ずっと一緒でしたよ。常勤はヴィプリンガー少尉とベルクマンさんだけですけどね」
交代しながら数人が常に付き添っていたそうだ。ホテルでは、シュペトレーゼの部屋を挟んで宿泊だ。キルヒェガルテンでは夜中にも関わらずすぐ車が迎えに来た。それも運転手はもちろん護衛の一人だったからだ。
「それは...お疲れ様」
「恐れ入ります。でもお仕事ですから」
壁をはさんで常にシュペトレーゼの動向を伺っていたのだ。すぐにでも飛びだせるように荷物はまとめてある。ベルクマンの鞄もすぐ手に届く場所に置かれていたし、上着さえクローゼットにかけなかった。だからこそ飛びだしたシュペトレーゼを追いかけて列車に乗れたのだ。
二人は改札を抜けた。駅舎の中を人々が行き交う。そろそろ陽が暮れる。家路を急ぐのだろう。早足の人が多い。これもまた都会の光景だろう。
エイミールはきょろきょろしている。
「...多分、ベルクマンさんも居ると思うんですが...ホテルで殿下を追いかけた時、声を掛けられましたから」
視線が止まった。シュペトレーゼもそちらを振り返った。だが探そうとする前にエイミールに引っ張られる。速足だ。
「エイミール、僕はゲルシュニアウプに行きたいんだ」
「だからぁ、さっきも申しあげましたよね?」
「う、うん」
財布がない。
「これからどうするかは僕の独断では決められないんですよ。上の判断次第です。ヴィプリンガー少尉はどうするのかなぁ」
やはり彼が護衛の中心らしい。
思いが先走って飛び出してしまった。だが結局は監視の手の平の上だった。
「お疲れ様です」
背後から声がした。ベルクマンが追い付いて来た。頬が赤い。少し急いだようだ。
「ここで下りられたのですな」
シュペトレーゼは目を伏せた。護衛という名の監視人に囲まれているのを実感させられる。現金が無いだけではない。彼は目的地の選択さえままならない。
「何とか北へ戻りたいですな。アディートに入れるのが一番いいのですが」
「そうですね」
これから行く場所も、エイミールとベルクマンが相談している。路線図を見てから、三人は南北鉄道のホームへ向かった。しかしアディート駅の爆破事件を受けて列車は運休中だ。ベルクマンが駅員に何か話しかけた。戻って来て首をかしげる。
「アディート駅では電気系統がやられたらしいのです。それでディーゼル車両が動かせないので不通との事。しかし、それは言い訳ではないでしょうか。西州は南州にも圧力をかけているのでしょう。北州封鎖を徹底するつもりなのかもしれません」
電気がダメなら蒸気機関車を走らせれば良いだけだ。それを敢えて運休させるのは、北州への通行規制だろう。アディート駅以北は通常運行に戻っているそうだ。しかし、まず北州へ入れなければどうしようもない。
「検問所はここから近いようです。聞いてきました」
彼らは駅を出た。尖塔はすぐ近くだ。反射する光が目を射る。シュペトレーゼは目を細めて仰ぎ見た。
タクシーを拾う。助手席にはエイミールが座った。左右は大きな建物が並ぶ目抜き通りである。自動車と馬車が道路に入り混じり、音も声もラドクリフとは比べようがないほど賑やかだ。シュペトレーゼは車窓から空を見た。
「...青い...」
北国のどこか陰った晴天とは違う。紺色だ。刷毛で描いたような雲が流れる。やや西に傾いた陽光を受けている。端だけが黄金に輝く。現世の太陽は光に満ちているのに、冥界の死せる太陽は亡霊となって人に取りつく。
十分ほど経った。車列の動きが止まる。交差点で巡査が笛を吹いている。警察機構は連邦統一の組織なので制服は北州と同じだ。シュペトレーゼは少しの間だけ、自分がどこにいるのか忘れようとした。けれども無駄だった。
運転手が南州訛りで言った。
「あー、こりゃ検問待ちの渋滞だねえ。お客さんたち、検問を通るんだっけか?」
三人は顔を見合わせた。後部座席からベルクマンが身を乗り出す。エイミールが体をさらに縮めた。頭に乗られているようだ。
「通るのは難しいですかな?」
「んー、どうかねえ。さっき聞いた話じゃ時間がかかるって話だ。ちゃんとした身分証があれば通れるらしいけど」
シュペトレーゼがはっとする。ベルクマンの腕をつついた。小声で耳打ちする。
「あの、すみません。僕は身分証が無いんです。財布に入れておいたので...」
一緒に盗まれてしまった。
ただでさえチェックが厳しいのに身分証が無いなら尚更だ。運転手の言うきちんとした身分証とは、南か西州在住を証明する物かもしれない。拘束の可能性は避けたい。三人は検問所を前にしてタクシーを降りた。
通りを横切って遮断機が渡されている。両側の支柱の横には小さな小屋が建てられている。銃を携えた南州の兵士が数人立っていた。一台ずつ車を停めて、運転席のみならずトランクも開けて調べている。
歩道にも列だ。こちらはまだ通勤帰りの時間帯には早いせいか、さほど長くはない。
「どうしますかな。夜を待ちますか」
検問の通過は難しそうだ。
結局は再びタクシーの客になる。駅に戻った。
「東州へ戻りましょう。何とか臨時の渡し船に乗れまいか」
ベルクマンの意見だ。一応は中立地帯だ。北上すればマイン川を渡って北州へ戻れる可能性が高い。
シュペトレーゼを挟んでベルクマンとエイミールが歩いている。二人とも前後に目を配っている。あまり口を開かない。陽気な雰囲気をまとうエイミールも口を真一文字に結んでいた。この二人にとって南州は敵地なのだ。殊にエイミールは軍人だ。偽の身分証を持っていたとしても、正体がばれたら只では済まない。
「...ごめんなさい...」
うなだれた顔から、自然と言葉が漏れた。エイミールの丸い瞳がきょろんと動いた。にこっとほほ笑む。
「どうしました?」
「だって...。僕のせいで...。僕が勝手に飛び出さなければ...二人を危険な目に...」
「お仕事ですから」
「その通り」
ベルクマンが重々しく頷く。
「もっと甘えていただいて結構。私のような立場の者には、むしろ嬉しゅうございますな。この老体がお役に立てるのですから」
と、退役軍人が胸を張る。ぐいっと腕を曲げると、服の上からでも力こぶの盛り上がりが分かる。エイミールが袖をめくり、腕に力をこめた。ベルクマンを見比べて少し脱力した笑いを浮かべる。
「ベルクマンさん、それでご老体ですか!」
「いやいや、私が若かりし頃には...」
「はいはい、お手柄のお話はまた後ほど」
思い出話が始まる前にエイミールが止めた。ごそごそと鞄を探った。
「どうぞ」
「あ、れ?」
シュペトレーゼがきょとんとするのも無理はない。こそ泥に持ち去られたはずの財布だ。
「エイミール、僕と同じデザインの財布を使っているんだね?」
「違いますよ!」
彼は吹き出した。財布をシュペトレーゼに半ば押し付けるように渡した。
「申し訳なかったですけれど、ちょっと失礼させていただきました。シュルツさんは隙だらけで取りやすかったですよ」
「え、あの、でも、どうして?」
「嫌だなあ、お仕事ですよ。途中で下りていただきたかっただけです」
長い距離を走る鉄道だ。どこかで検札がある。切符どころか財布も無ければ、電車から降ろせる。そこがケッセンだったわけだ。
中を確認する。身分証も現金も元通りに入っていた。そして彼が初めて自分の意思で選び、購入した行き先の切符もあった。ゲルシュニアウプという文字をそっと撫でて、紙幣の隙間に押し込んだ。
行き交う人が増え始めた。仕事や学校の終了時間だ。空が昏くなり始める。
「仕方がありませんな」
護衛の二人の協議の結果、この日は宿を取る羽目になったのだった。
ツヅク! 次回 5話 下 ケッセン駅で。そりゃもう大騒ぎさ! ルーカにケンカを売るのは誰だ?
お読みいただきありがとうございます。
前回に引き続き 東州です。
シュペトレーゼは、切符をちゃんと買えました~。
でもまあ掴まりますよね。
東州の人々。後で色々と関わってきます。
北州の護衛さん ルプレヒトの他には、メインでこの二人です。
ヨーゼフ・ベルクマン 退役軍人、歴史研究所嘱託職員。
エイミール・モリス 曹長。キルヒェガルテン行のバスでは、ピドーの通路を挟んだ隣に乗車。
楽園創生の委員
サッシャ・コーエン 西州出身の副委員長。




