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冥界の太陽たち 冥界から四人の王子が復活する時、災いの蟲が来て世界は崩壊する。そしてゲームは始まっていた!  作者: あべ舞野


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冥界の太陽たち 第五話 上  交差する町 東州ジェール、南州ケッセン

舞台は東州へ。

冥界の太陽復活がシュペトレーゼの回想で蘇る

冥界の太陽たち  第五話 上

     交差する町  ~(オステン)州ジェール、(ズューデン)州ケッセン


 (オステン)州の港町ジェール。まばゆい太陽はそろそろ中天にかかりそうだ。ティーガの神殿跡は、海を臨む丘にある。屋根は既に落ち、残る壁も崩壊が進む。数本の柱が空に伸びるばかりだ。足元にはがれきの山だ。白い敷石はところどころ捲れあがったままだ。緑の草がそれらを押し上げる。内戦開始から観光客が絶えたせいで、手入れをされなくなって随分と経つ。そこにシュペトレーゼとルプレヒトがやって来た。

 がちゃり、と石が崩れた。続いて甲高い悲鳴が上がる。少し離れた二人の子供が飛び上がった。

 金髪の若い男が困った顔で立っている。右手にはぶらぶらとトカゲが揺れていた。

 黒髪の方は尻もちを付いている。瓦礫に手を付いていた。そのまま後ずさりをする。足場は悪い。彼の体はぐらりと揺れ、横倒しだ。

「離して! ソレをどこかへ!」

 裏返った声は懇願調でもある。

「でもルプレヒト、ただの小さい子だよ。いっぱいいるし」

「だからって、わざわざ捕まえなくてもいいでしょう! 早く! 見えないところへ...お願いだから!」

「可愛いのになあ」

 彼は身を屈め、そっと小動物を地面においた。いたいけなトカゲだ。するするとすきまへ逃げていく。

「あなたは完全にインドア派だとばかり思っていましたが、あんな生物を手づかみできるとは。印象が変わりましたよ、シュペトレーゼ」

 ジャケットが白くなってしまった。背中と腰がひどく汚れている。彼はそれを手ではたき、ぽかんと見ている子供を横目で見た。

「だせえ」 

 とマルコが呟く。大の大人がちっぽけな生物に悲鳴を上げた上に腰を抜かしたのだ。シュペトレーゼは何か言いかけたがルプレヒトを見て口をつぐむ。その彼は聞こえないふりをした。だがルチアが追いうちをかけた。

「トカゲが怖いのね、おじちゃん」

「お、おじちゃん?」

 マルコとルチアはまだ七歳だ。ルプレヒトの外見は立派な大人。両親より少し年下くらいだろう。だから彼らには既に『おじちゃん』らしい。

「いいの、誰でも幾つになっても怖いものは怖いのよ」

 物の道理が全て分かったような顔で諭される。ルプレヒトは複雑な顔になった。

「...それは...どうも」

「いつも遊びに来るの? きょうだい?」

 とシュペトレーゼが子供たちに尋ねた。昆虫を思わせるルプレヒトに比べてずっと柔らかい物腰と口調だ。ルチアは素直に頷いた。

「ううん、友達。私は丸い石を並べるの。割れていないのもあるわ。マルコはすぐに壊しちゃうの」

 地面には、きちんと並んでいる。表面に線刻が施されたあの石板だ。ルチアの手の平よりも少し大きい程度だ。模様はほぼ全て同じ。

「きれいにできたね」

 シュペトレーゼはしゃがんだ。少女と同じ目線になる。

「この丸い石は、いつ頃からここにあったの? ずっと前?」

「うーん、わかんない」

 マルコが答えた。

「あったよ。僕がもっと小さい時から」

「そう...」

 それだけでは、いつからあったのかは分からない。シュペトレーゼは石板の列を見た。一つを取り上げ、裏を返す。尖った瓦礫(がれき)も拾って見比べた。ルプレヒトも身を屈めてのぞきこむ。

「ルプレヒト、ほら。この二つは材質が違う」

「ええ」

 瓦礫は、おそらく花崗岩の類だろう。白く固い材質だ。長い間風雨にさらされたであろう表面はやや黄色がかっているものの、割れた断面は真っ白だ。軽く投げたくらいでは割れない。対して石板は灰色だ。欠けている場所も同じ色で、簡単に砕ける。

 釉薬(ゆうやく)をかけずに焼けば、土にもよるがざらりとした手触りになる。

「こっちは素焼き、しかも同じ物ばかりだ」

 ルプレヒトは身を起こした。

「まるでお土産物かのようですね。大量生産した物を廃棄したのでは? 観光客が減っては売れないでしょう」

「うーん...何とも言えないなあ...」

「私にとっては太陽神話を信じる根拠にはなり得ません」

 二人の会話が真剣な響きを帯びてきた。子供二人にはもうついていけない。大人たちから離れた。

 やはりシュペトレーゼには陰ながら護衛が控えている。ここ(オステン)州は中立だが用心は必要だ。この地が内戦に不参加なのは、地形的な要素が大きい。

 東と北の境界は、|海峡(メールエンゲン)《メールエンゲン》と呼ばれる長い入り江で分断されている。内陸へ向かうにつれ細くなって内陸へ続き、ノイエ連峰の麓まで至る。そこでようやく二つの州が陸続きとなる。つまり北は急峻な山脈、西は水路に隔てられている。

 さらに州の南端は海辺だ。海岸線は入り組み、内部へ流れ込む海流がぶつかる。いつも波は荒い。点在する大小の島も潮の流れを複雑にする。北と東を行き交う船のかじ取りが難しい。昔から海難事故の多発場所だった。大規模な軍隊の移動が難しいのだ。

 シュペトレーゼは腰を伸ばした。海風が心地よい。少し汗ばんだ額をこすり、眼下を見下ろす。

「良い眺めですね。平和だ」

 素直な感想を述べてしまい、ルプレヒトにじろっと睨まれる。

「観光ならばそう思うかもしれません」

「...そうだったらどんなに良いか...」

 メールエンゲンを渡るレルヒ橋が見下ろせる。約百年ほど前に架けられた橋だ。橋脚の土台とされたのが湾内のもっとも大きな島だった。険しい岩山だが充分な大きさがある。頂上には黒っぽい石づくりの城塞がそびえる。三百年の歴史を持つ砦だ。かつてグリンクラフト人が東から(ズューデン)州へ攻め込んだ際の足場となった場所だ。

 橋の開通によって物流は陸路中心になった。定期の渡し船は廃止された。移動の全体量も格段に増え、人の交流も盛んになった。平らな土地が少ないが、天然資源に恵まれた東は商業の州になった。軌道と並行して、もう一つの橋が渡されている。こちらは車道だ。歩道も併設されている。道路には幌をかぶったトラックが多い。内戦中にも関わらず個人の車両も、相当数の交通量だ。

 その橋を今また東へ向かって汽車が通り抜けた。煙が流れる。汽笛が響いた。

 (オステン)州の海沿いの街はすぐに岩山が迫る。町は狭い地帯に開発されていた。山肌に白い建物が並んでいる。太陽の光は強い。商店の店先に並ぶ果物がまばゆく輝く。道は狭く入り組んでいる。広告や店の看板は陽光に負けない原色が多い。海辺のわずかな地域だけが平らな土地だ。そこには道路が整備されていた。近代的なビルが多く、空には電線がクモの巣のように張り巡らされている。(オステン)州の州都であるジェールだ。

 昔からの港町だ。波打ち際は岩場ばかりの土地だ。小ぶりな漁船が並ぶ。一部はマリーナだ。主を待つヨットが揺れている。水と戯れるような浜辺は幅も奥行も狭い。人工的に砂を入れて作られたからだ。

 内戦が始まる前は|海峡(メールエンゲン)を自由に遊ぶヨットの帆が見られたものだ。今は娯楽用の船は殆どいない。波間を行くのは南と東を結ぶ貨物船ばかりだ。

 (ズューデン)州からは(オステン)州では取れない色々な品が運ばれてくる。小麦や砂糖など食料と衣料品がメインだ。この州が潤っているのは沿岸部だけだ。内陸部は険しい山岳地帯だからだ。交通の不便さはもちろん、土地が痩せていて農業は厳しい。一国として成り立っていけるほどには経済が回せない。独立となれば|海峡(メールエンゲン)を越える際にそれまでには無かった関税がかけられるだろうし、輸入物資は今の価格では買えない。

 つまり連邦のどの州も単独で建国するほどの規模ではない。支え合ってこそ一つの国だった。歯車は全て噛み合っていた。少しずつ形を変えながらも、五百年もの長い時代を連邦としてやってきたのだ。

「早く内戦が終わるといいのに...」

 シュペトレーゼの呟きは風にさらわれて消えた。

 子供たちは少し離れた場所に移った。

 ルチアはその場にしゃがんだ。クローバーも生えている。四葉をさっそく探し始める。

 かちん。

 背後で石が鳴る。振り返ると、マルコが石を投げていた。石板を拾っては投げている。まだ残る柱に当たって砕けた。

「マルコ、壊しちゃだめだよ」

「いいんだよ。また作ればいいし」

「観光客だってそのうち戻るって、母さんも言ってたもん。今日もあの二人がいるし」

「二人だけか。最近はさっぱり商売にならないって父ちゃんがぼやいていた。内戦が終わらないと」

 手で石板をもてあそぶ。

「父ちゃんは、前は土産物だったって。これ作ったのも父ちゃんかなあ。今は何だか鋳造しているよ。あ、これって今作ってるやつ」

 マルコはルチアの隣に立った。頭一つは彼の方が高い。メールエンゲンを眺める。ぼっやりとかすむ町が横たわる。灰色や茶色の建物が多い。ジェールとは違う色合いだが、立ち上る煙はやはり人々の暮らす場所なのだと示している。彼がポケットから取り出したのは、大人の爪より少し大きい。丸い金属製だ。花の紋章が彫られている。百合だった。

「なあに?」

「分かんないけど、綺麗だろう? いっぱいあるんだ。やるよ」

 それを渡されたルチアは、しげしげと見た後ポケットにしまった。

「うん、綺麗だね」

「土産物にするのかなあ。観光客は戻らなさそうだ。だってさぁ...ニュース聞いた?」

 不意にマルコが声をひそめた。

「北で何度か爆破事件があっただろう? あれって『楽園創世の委員会』がやったんだって。親父が言ってたんだ。だいさんせいりょくだって」

「何、それ」

「第三勢力。三番目の軍隊だよ。北軍と西南軍はもう十年も内戦やってて、王は何もできてないんだ。だから王制をやめて、自分達で国を作る。『委員会』はその為に戦うんだって」

 マルコは大き目の石を放り投げた。柱をそれて床に落ちた。かん、と硬い音がした。端が少し欠けたようだ。破片が散った。

「僕も早く戦いに行きたいな。ここは平和だけど、ここだけじゃダメってフィニーニが言っている。全国どこも安全で平和じゃないと」

「誰、それ? よそなんか放っておけばいいってお母さんが言ってる」

「えー、そんな事、父さんもみんなも言わないよ。だって内戦が終わるのは東の為になるんだって」

 がちゃり、と石が崩れた。

「とかげがいたな」

 マルコが石をひっくり返した。

 がらりと音がする。瓦礫が地面に吸い込まれた。重なったバランスが崩れたようだ。トカゲが飛び出した。二人の足元を走り去る。

「トカゲの巣があるのかしら」

「危ないぞ」

 マルコの制止を聞かず、ルチアが腕を伸ばした。瓦礫が面白いように落ちて行く。二人の足元が揺れた。不意に柔らかくなったようで足を踏ん張れない。逃げるそばから地面は崩れる。地下の土が流出していたようだ。そこだけ空洞だったらしい。マルコの視界からルチアが消えた。

 彼女の悲鳴を聞いたルプレヒトとシュペトレーゼが振り返る。

「近づかないで」

 ルプレヒトはまずシュペトレーゼを止めた。素早く目を巡らせ、静かに足を運ぶ。

 マルコが半泣きで突っ立っている。すぐそばでルチアが泣き叫ぶ。膝から下が埋まっていた。

「痛いー!」

 瓦礫の崩落は止まっている。すぐに彼女の足から石をどかした。それから体を支えてやりつつ、石を穴に蹴って落とす。足場を固めた。幸いに穴はそんなに深くなさそうだ。

「埋めるのかよ!」

 あわてた少年がルプレヒトの腕に取りすがる。涙と鼻水が今にも垂れそうだ。

「穴を埋めるだけだ。もっと崩れたらみんなで沈むぞ。お前は大人を呼んで来い。できるな?」

 マルコはぐちゃぐちゃの顔で何度も頷いた。よろけながら神殿を去る。

「ルプレヒト、僕も手伝うよ」

 近づこうとするのを、またも遮られる。

「必要ありません。私だけで充分です。誰か来たら教えてください」

「ここで見ていろと?」

「安全の為です」

 シュペトレーゼは目を落とす。唇を噛み、ルプレヒトに背を向けた。

 ルチアの足に乗っていた瓦礫の量はさほど多くはなさそうだ。小さいかけらばかりなのも幸いした。ルプレヒトは慎重に残がいを取り除いては投げた。小動物が挟まり、つぶれているのもあった。

「うわ」

 それは石ごと放り投げる。泣いていたルチアがきょとんとする。しゃくりあげながらも言う。

「大人なのにやっぱり怖いんだ?」

「びっくりしただけだ! ...動かせるか?」

 まくれていたスカートを直してやる。左足はぶつけたようで既に腫れ始めている。右のふくらはぎの皮膚が裂けて血が流れていた。体を起こそうとして見えてしまったようだ。ルチアはまた激しく泣き始めた。

「できない、できないよう」

 ルプレヒトは横たわったままの足を慎重に持ちあげて、片方ずつ曲げてみる。ハンカチとネクタイで止血した。神殿の端に目をやる。柱の陰の男に軽く顎を上げた。薄いジャケットを羽織った目立たない容姿の男だ。彼は頷いて駆け寄ってくる。

「家は近くか?」

 こくこく、と頭が何度も頷いた。ルプレヒトはやって来た男にルチアを示す。

「怪我をしたようだ。家に送ってほしい」

 男は無言で頷いた。ルチアを抱き上げる。よいしょ、と片手で肩にかついた。小さな足がジャケットの胸で揺れている。ルチアは懸命に男の首から肩にしがみついた。

「どっちかな?」

 あっち、と指が来た道を指す。男はさっさと歩き始めた。マルコが駆け上がった道だ。

 標高差が大きい地域だ。海と山の中間に少し拓けた場所がある。鐘を備えが高い塔を中心に広場があった。そこを過ぎると、また斜面に造られた町が続く。道は細い。入り組んでいる。車が通れる場所は限られている。

 そこを取り囲むように四角い建物が林立していた。殆どが二階建て、せいぜい三階までだ。ジェールの中でも古い建物が残る一帯だった。壁のあちらこちらには、街並みには似つかわしくないビラが貼られている。『楽園創世の委員会』と大書してある。アジテーションの文言は『格差社会の是正(ぜせい)』『公平な富の分配』など、経済的な内容が多い。経済の町だけに、目端の効く者は成功して富を手にできる。住民の経済格差は大きい。

 路地が続く。同じような家々の間をぬって細い道が丘に向っている。くねくねと曲がりくねり、あちらこちらから道がつながってまるで迷路のようだ。マルコが途中で待っていた。泣きじゃくるルチアの代わりに分岐を伝える。男は足取り軽く昇った。

 金属のぶつかり合う音が聞こえてきた。

 広い間口の建物からだ。ここはこの近隣では珍しい四階建てだ。ドアは二つ。一つは住居へ続く階段への扉だ。もう一つは一階の工場用だ。きらりと光るのは『チェステ製作所』という金色のプレートだ。建物の横は砂利が敷かれている。数台のトラックの荷台は空で出番を待っていた。開け放たれた窓から金属が触れ合う音と鉄の臭いが漂い出ていた。旋盤が唸る。火花が跳ねた。繋ぎの作業着は油がしみて、腕まくりをした男達がせわしく動き回る。

 開いたままの窓からラジオの軽快な音楽が流れていたが、不意に途切れた。緊張した男の声に変わる。

「番組の途中ですが臨時ニュースをお知らせします。一昨日の午前中、(ノルデン)州の南部アディート市中央駅で発生した爆破事件について、新たな情報が入りました」

 金属の触れ合う音は止まない。少しだけゆっくりになった。

「......『楽園創世の委員会』と名乗るグループによる犯行声明が各州のラジオ局に出された模様です。『委員会』は(オステン)州の一部で急速に勢力を拡大し、次回の州議会選挙にも議員を送り込むであろうとされる政治団体ですが、広報の窓口によりますと関与を完全に否定しております。また(ズューデン)州の発表によりますとケッセン近郊で起きた爆発についても関連を調査中で、全力を挙げて犯人の探索中との事です。しかし現場が(ノルデン)州である為......」

 さらにニュースは橋の封鎖について触れた。

 ルチアを担ぐ男は大きく息を吐いた。彼女を抱えなおす。まもなく番組はのどかな内容に戻った。音楽のリクエストタイムだ。

 マルコが窓を開ける。

「おじちゃん! 大変だ! ルチアが怪我をした!」

 数人の声がする。ドアを開けたのは女性だった。母親のビアン・チェステだ。

「ルチア!」

 マルコを押しのけて駆け寄る。男から抱きとった。ルチアは彼女の首に腕を回す。さらに大きな声で泣き始めた。

「何があったんですか?」

「お母さまですか? 遺跡で転んだようです。私は運んだだけです。確かにお渡ししました」

「遺跡でさあ、トカゲの巣があってさあ!」

 マルコが言いかけるが、ビアンはルチアしか見ていない。娘の足を見たのだ。みるみる彼女の顔も白くなる。止血用のハンカチとネクタイはどす黒く変色していた。怪我の酷さを実感したようだ。

 男はさっさと踵を返した。元の道へ戻る。

 取り残された格好のマルコは、おずおずと後ずさりした。それから転げるように自分の家へ向かったのだった。

 昼を告げる塔の鐘が鳴った。青い空を駆け抜ける音だ。すぐに階下で機械音が止まる。ジェール市内が昼休みに入る。だが急患は別だ。ビアンはルチアを抱えて病院へ走った。

 工場の昼食時間は、それで後ろへと大幅にずれ込んだのだった。工場の二階に台所とダイニングルームがある。自宅へ帰る者以外はここでランチタイムだ。先に食卓を整えていたのは、ルチアの父エンリコ・チェステの妹エレノア・チェステだ。従業員の二人とエンリコが手伝っていた。病院から戻ったルチアとビアンが加わった。遅い昼食の始まりだ。

 男の一人が呟いた。

「胡散臭い連中だと思ってたんだよ。何が『楽園創生』だか」

 さっきのニュースを受けての発言だ。

 エンリコが首を振る。

「テロはやってないって言っている。委員長だって愛想は悪いが話せば面白いヤツだよ」

「フィニーニ・ルッソだったか。山岳地帯出身の奴だろう? 金なんかあるのかよ」

「うーん、元々は日用品の卸とかやっていた商売人らしい。その縁で西(ヴェステン)州に太いパイプがあるって話だが...。それでここにも仕事を回してくれるんだ」

 エレノアがそっと席を立った。台所に去る。エンリコはちらりと彼女を見て、手元に視線を落とした。

「...まだ連中の犯行と決まったわけじゃないんだし...」

 男たちはエレノアの彼氏が誰なのか思い出したようだ。静かになった雰囲気を破るように、エンリコが娘に話しかける。

「どうだった? 医者は?」

 ルチアは父の膝の上だ。

「大丈夫よ。私、泣かなかったもん」

 ビアンは肩をすくめた。

「骨は大丈夫だったけど、かなり切れちゃったの。傷が残るかもって...」

 エンリコは優しくルチアの髪を撫でた。

「まあまあ、大事にならなくて良かったよ」

 工員たちも頷いた。ご馳走様、と皿を片付けて一階へ降りる。午後の仕事を再開だ。ルチアはまだ甘えたいのか、父に抱かれたまま一緒に工場だ。

 ビアンは隣の台所へ行く。しょんぼりした夫の妹がいる。エンリコとよく似た色の髪と瞳だ。髪は耳の下で切りそろえている。指輪の無い手で鍋をシンクの下へしまった。

「ありがとう、エレノア。少し焦げてなかった?」

 エレノアはうっすら微笑んだ。秋の夕暮れのようだ。

「大丈夫よ。ルチアは一人で遊んでいたのね」

 ち、とビアンは軽く舌打ちした。他人事のように聞こえてしまったのだ。

「仕事が増えたおかげで、忙しくなったわ。ルチアの相手もあんまりしてやれない。怪我はそのせいではないと分かってはいるけど...。人を殺す道具を作り始めた報いといったところかしらね。それであなた達はいつ結婚するの?」

「...フィニーニは忙しいのよ。肩書が重くて」

「そんなに忙しいのね、委員長ときたら! あなたは秘書なの、恋人なの? 一緒に過ごす時間さえままならないなんてね」

 エレノアの恋人は『楽園創生の委員』委員長のフィニーニだった。彼は各地を飛び回る毎日だ。エンリコやビアンには、彼が何をしているのか判然としない。エレノアのため息が返事だった。

 ビアンは少し乱暴に皿をシンクに突っ込んだ。少しだけ腰をかがめた中途半端な格好だ。そのままで義理の妹を振り返る。いささか戦闘的な目付きだったかもしれない。

 エレノアの唇の端がぐいっと下がった。兄の妻をちらっと見て、手元に目を落とす。

「フィニーニは注文を仲介しているだけよ。兄さんは今までとちょっと違う製品を作っているだけよ」

「エンジンの部品だったら人を殺さないわよ」

「事故が起きるじゃないの。車でも爆弾でも死んだ方にとっては、命が無くなるのは同じよ」

「違う! 『委員会』は実は過激な集団って噂もあるわ。軍事訓練なんかもしているんでしょう? マイン橋の爆破、ソフィア襲撃も彼らじゃないの?」

「違うって訂正したわよ。フィニーニも知らないって」

「どうだか。彼らが同じ国の人を手にかけたとしても、私たちは仕事をしただけって開き直れる?」

 エレノアはしょんぼりと肩を落とした。

「兄さんはとっても良い職人さんよ。決して銃弾や爆弾なんか作りたいんじゃない...。分かってる。でもね、フィニーニは内戦を早く終わらせたいのよ。それで西南軍をより優勢にする手伝いを...そしたら戦闘が終わった後に西(ヴェステン)州とは良い関係を保てるわ。対等の立場になれる。(オステン)州を豊かにできるはず」

 それで中立ではあるが武器供与を積極的に行う。西の資金が東へ流れてくるのだ。

「内戦後を見据えているだけ。自ら破壊活動はしないわ。そりゃ今は武器商人みたいになっちゃってるけど、日用品も扱っているわ。穏やかな政治集団なのよ。信じて」

 やれやれ、とビアンは首を振った。

「洗脳されているんじゃないの? 何が『豊か』よ。結局ここの家に二人揃って居候」

 エレノアの声が高くなった。

「お爺さんが建てた家よ! 義姉さんだけの物じゃない! 仕事も持って来ている。これ以上どうしろって言うの?」

 がたっと音がした。ルチアだ。階段の上で呆然と立っている。二人の言い争いに驚いた顔だ。ビアンは娘に歩み寄る。そっと背中に手を添えて再び階段へ押しやった。

「お父さんの所へ行ってなさいね」

 彼女を見送ってから、ビアンは義妹に向き直った。

「ごめんね。ルチアの怪我に驚いてしまったの。嫌味を言うつもりはなかった。委員会の考えも分かるわ。実際、ウチは儲かってる。海峡(メールエンゲン)の向こうの騒乱なんか放っておけばいいって思う時もあれば、平和になって欲しいとも思う。でも仕事は減るだろうし。複雑ねえ」

 口を動かしながらも、ビアンは汚れものを洗い始めた。エレノアは近くの引き出しから布巾を取り出す。ゆすいだ順に拭く。

「そうね。さらにフィニーニは内戦後に(オステン)州の発言権を強くしたいの。最終的な目的はそこなのよ。自前の自警団を持っているのもその為」

「ふうん。今のままでもいいけどね。ここは上手くやっているし」

 やれやれ、とビアンは首を振った。

「まさかフィニーニと上手く行ってないの? 彼、最近は出かけてばかりだものね」

「だから忙しいだけ!」

 不意にエレノアは口をつぐむ。唇に指を当てて床を見つめた。

「義姉さん...ケンカしたくないの...」

「こっちだって!」

 振り返るとエレノアの頬には涙が伝っている。子供のように手の甲でこすり、歪んだ顔を向ける。ビアンはあわてて洗剤だらけの手を拭った。エレノアの肩を抱く。

「大丈夫? 何かあったの? 誰にも言わないから。話していいのよ?」

「うん...本当は...心配なの。この間、一緒に着いて行った時なんだけど...」

 場所は山岳地帯、ベルヒゲタルと呼ばれる州の北方地域だ。平地は海沿いと、マイン川に沿ってわずかにあるばかり。(オステン)州の殆どは険しい岩山が連なる。北へ行くほど繁栄からは遠くなる。ベルヒゲタルも主たる産業はなく、貧しい地域だ。治安も良くはない。

 彼女の同行をフィニーニは渋った。しかしエレノアは秘書としての活動もしている。強引に付いて行った。いつも留守番なので、たまには山岳地帯の様子も見たいと言い張ったのだ。

「でもね...」

 エレノアは俯いた。

 ビアンは彼女の肩に手をかけ、そっと椅子に座らせた。窓とドアを閉める。洗い物は後回しだ。隣に座って背中に手を添えた。

「どうしたの?」

「...誰にも言わないでね?」

 エレノアは大きく息を吐いた。

「...ベルヒゲタルの奥の方へ行ったのよ...。谷間にたくさん花が咲いていたの、白や青紫...。きれいなんだけど...ケシだったのよ...」

 わずかな土地は全て花が咲き乱れていた。畑の世話をしていたのは、主に現地の女性や子供たちだ。

「ポピーじゃないの? そろそろ花の時期でしょう」

 彼女は首を振った。

「谷へ入る時、銃を持った人が警備しているのよ」

 早めに花弁の落ちた草もあった。緑色の子房は卵型に大きく膨らみ初めていた。傷がつけられ、薄い茶色の液体が垂れて固まる。

「一重咲きですごく臭いの。オピウム・ポピーだって誰かが言っていたわ」

「オピウム...?」

「ケシよ! 生アヘンが取れるのよ!」

 採集用に改良されたケシだ。アヘンはモルヒネを含み、鎮痛鎮静作用を持つ成分を持つ。しかし適切な使用量を守らないと依存症に陥る。ビアンは息を呑んだ。頬に手を当て、首をかしげる。

「そうね...。山の方では栽培しているって前から聞いていたけど...。医療用でしょう?」

 そう言いながらも表情が曇り始めた。エレノアの瞳の陰はなお濃い。

「量が多すぎる...それだけじゃないの。少し歩くだけでも、あちこちに大麻が密生しているの。野生にしては多すぎるわ。栽培しているみたい」

 フィニーニがそこを訪れたのは、商談の為らしい。更には人集めだった。『創世委員会』への参加者を募っているのだ。

「委員会へ参加するだけでも報酬はかなりの額よ。活動資金は麻薬を他の州に売って儲けたお金なの...? 西(ヴェステン)州の太いパイプって...非合法なのかしら...。私、もうどうしていいのか...」

「フィニーニは何て?」

「ただの生花産業と医療用って...。西(ヴェステン)州ならそこそこ需要があるからって。でもそこで見た事は言うなって。ただの花なら口止めなんかする? おかしいでしょう? それに...警備達は...銃を持っているし...みんな深いフードをかぶっていて顔を見せない。怪しい」

 エレノアは首を振って言葉を止めた。立ち上がる。腕組みをしてキッチンのカウンターに寄りかかる。涙は止まっていた。目の縁が赤い。瞼ははれぼったくなったようだ。吐きだして楽になったのか、それとも漏れた秘密をばらしたせいか。エレノアの肩はがっくりと落ち、視線はどこを見るでもなく固まったままだった。

「大丈夫、彼氏を信じなさいよ。好きで一緒にいるんでしょう」

 ビアンは言ったが、本気で言った言葉ではなさそうだ。彼女に背を向け、流しに溜まる皿に手を伸ばす。

「...あなたには黙っていたけど...。心配していたの。フィニーニの側近は(オステン)州の出身じゃないわね? ここへ来たのを見た事あるわ。名前は何て言ったかしら」

 グリンクラフト人はもともと(オステン)州から広がったのだが、それぞれの州には特徴的な訛りがある。副委員長にはそれがなかった。

「コーエン副委員長の事? 彼は西(ヴェステン)州の人よ」

「やっぱりねえ。どうして西(ヴェステン)州の人がいるの? 山岳地帯の経済を立て直すって、彼にはどんなメリットがあるの? ねえ、ちょっと委員会と距離を置いてみるとか。考えてみない?」

 エレノアはぼんやりしていた。椅子に体をぐったりと預けたままだ。ビアンが振り返ると、少しだけ視線を上げた。囁くように言う。

「でも...フィニーニは優しいし...。何より私が必要なのよ」

 手の平で頬を叩いた。うん、うんと頷く。赤くなった目元でほほ笑んでみせる。

「大丈夫。そうね、私が選んだ人だもの。きっと大丈夫」

「エレノア。無理はしないで」

「平気よ。聞いてくれてありがとう。誰にも言わないでね。これからフィニーニが戻るはずなの。それからコーエン副委員長と合流よ。私も行くわ。支度する」

 表情の曇った義姉を背に、エレノアは台所の扉を開けた。四階への階段をゆっくり上がり始める。そこが彼女の部屋であり、恋人フィニーニ・ルッソと暮らす場所でもあった。

 家の前で砂利が鳴った。狭い道路だ。壁をこするように乗用車がやって来た。工場の駐車場に停める。階段の途中にいたルチアは、窓から見下ろした。降りて来たのは眼鏡をかけた男だ。肌の色は白い。角ばった帽子から薄い茶色の髪がのぞく。肩幅が広く、胸板も厚い。頬はこけて薄い唇はしっかり結ばれていた。フィニーニ・ルッソ委員長だ。

 彼は工場の窓から中をのぞいた。エンリコに手を振る。作業を止めて歩み寄る彼に、帽子のつばに指をかけて挨拶した。

「義兄さん、お久しぶり」

「おう、今日はゆっくり出来るのか?」

「いいえ、すぐ出ます。またお願いがあるので、後でエレノアに伝えます。あ、急ぎで詰める物があるので空き箱を三つほどもらえますか?」

「いいよ」

 住居側の扉が開いた。エレノアだ。ルチアに言われるまでもなく、車の音に気が付いて降りて来た。フィニーニは彼女の頬を撫でた。額にキスする。

「すぐまた出かけるんだ。顔を見られて良かった」

「ねえ、一緒に行っていい?」

「もちろん」

 エンリコが外まで箱を運び出した。チェステ製作所と焼き印がある木箱だ。車の後部座席とトランクに積み込んだ。その間にも、エレノアとフィニーニは寄り添っている。

 二階から見下ろすビアンは呟いた。

「仲良しじゃないの」

 義妹への心配を頭の隅に追いやった。まだ残る洗い物の為に袖をまくり直す。

 お茶でも、とすすめるエンリコの誘いを固辞し、フィニーニはエレノアと共に去った。それからマルコの家に行き、彼の父から注文の品を受け取った。それは小箱入りだ。エレノアには何か分からなかった。


 

 その少し前。ルチアを救護した後だ。

「着替えなくては」

 ルプレヒトは歩き始めた。埃をかぶった服は白いし、シャツにはルチアの血が付いてしまった。

 二人の宿は旧市街の中だ。周囲の建物と同じく白い外壁だった。看板はあまり大きくない。ホテルだと知らなければ通り過ぎてしまいそうだ。一階は食堂になっている。駅から少し離れているが、車両とレールが擦り合う音が室内まで届く。

 まずはルプレヒトの着替えだ。

 シュペトレーゼはベッドに腰をおろして待っている。

「元気がないですね。調子が悪いですか?」

 シャツを羽織りながらの問いかけに首を振る。

「大丈夫だよ。次はどこへ行けばいい?」

「ラドクリフへ今度こそ戻ります」

「僕は南へ行ってみたいんだ。もしそちらにも大量の小さな石板が置かれていたのなら、間違いないよ。誰かが故意に置いたんだ。だから、その次は...」

「無理です。ここだって石板が大量に置かれているのは確認できました。でもそれだけです。一体何ができるのですか?」

 断る口調には取りつく島もない。

「ここへ来たのもあなたの要望に応えただけではありません。北へ戻る途中で居場所を特定されるのを避ける為に、敢えて寄っただけです。そもそも太陽神話を調査するのにさほど必要があるとは私には思えません」

 キルヒェガルテンを出て北上し、マイン川を渡って(オステン)州へ入った。キルヒェガルテンではアウゲンという不審者が現れた。だからこそ北へ戻ると言って、途中で東へ進んだだけだ。万が一、情報が洩れていた場合の目くらましだ。

「だけど太陽神話を調べるのは必要なんだ」

「お立場をわきまえていただきたい。学者としての探究心と我々の行き先は別です」

 ラジオが鳴っている。ドラマが終わった。定時のニュースだ。

「橋の封鎖について続報です」

 ルプレヒトがはっと振り返った。

「...正午に発表された(オステン)州と(ノルデン)州間で安全管理の為に全ての橋が封鎖された件につき、(ノルデン)州を代表して声明が出されました。それによると...」

 ルプレヒトとシュペトレーゼは遺跡にいた為、昼のラジオニュースを聞いていない。

 海峡(メールエンゲン)を越えて北と東を結ぶ橋は二か所しかない。そのうちの一つマイン橋は爆破されてしまった。

 封鎖の表向きの理由はソフィア襲撃だ。さらに爆発事件が続いてしまった。(オステン)州としては、テロリストの温床とは見られたくない。中立の立場を表明しているからだ。(ノルデン)州は顧客でもある。二つの州をまたいでテロリストが移動するのを防ぐ為らしい。だがこの封鎖は、南と西の州にとっては(ノルデン)州を孤立させる為に有効となる。どちらの側にも(オステン)州は上手い言い訳ができる。

 (ノルデン)州にとっては打撃だ。農産物を東へ売り、生活用品と武器を購入するというルートが断たれてしまう。いわば兵糧攻めだ。

 またルプレヒトとシュペトレーゼにとっては大きな問題だった。(ノルデン)州へ戻るのが難しくなる。

「レルヒ橋は通れるという事ですね」

 ルプレヒトは眉間をこすった。その橋は東西を結ぶ。東西鉄道は閉鎖されない。だが行き先は、海峡(メールエンゲン)を越えるとまず(ズューデン)州のターミナル駅ケッセンに入る。(ノルデン)州との境に近いものの、陸路ならそこから北上するルートしかない。または渡し船をチャーターするか。

 とりあえず二人は部屋を出た。少し遅いが昼食の時間帯だ。食事へ行くことにした。ルプレヒトはいつも左右を確認してから廊下に出る。右へ進むと階段だ。左は廊下が続いている。リネンの入ったカートを押す従業員が速足で左へ去って行った。

 一階の食堂へ向かう。既にテーブルに着いている人影は少ない。向かい合った男同士は、注文以外は殆ど言葉を発しなかった。シュペトレーゼは時折上目使いにルプレヒトを見るが、相手はテーブルに視線を固定したままだ。ため息交じりにまたフォークを動かすだけだった。このコンビの雰囲気に従業員らも遠巻きにしている。

 厨房に近い席から客が立ち上がった。白髪だが恰幅が良い。やや突き出た腹を揺らして二人に近づく。シュペトレーゼの背中側だ。ルプレヒトが先に気が付いた。軽く頭を下げる。

 シュペトレーゼが振り返る。

「あ」

 彼にしては珍しく、ぽかんと口を開けた。

「ベルクマンさん? なぜ」

 老紳士はラドクリフの歴史研究所職員のヨーゼフ・ベルクマンだった。ルプレヒトが助手に付く前は、研究所前の食堂でランチを時には共にする仲だった。

 知った顔にほっとしたのだろう。シュペトレーゼの頬に色が戻る。少し戸惑いながらも笑顔になって立ち上がる。

「随分と久しぶりにお会いした感じがします」

「全くです、シュルツさん」

 白い眉毛の下でベルクマンの目が細くなった。

「もうお食事はよろしいので?」

 食べかけの皿を示す。

 シュペトレーゼの顔から笑みが消えた。料理とルプレヒトを見比べて視線を落とす。

「その...」

「私はコーヒーをいただきます」

 ルプレヒトは座ったままだった。

「先に部屋に戻っていただいて結構です。私を待っている必要はありません」

 事務的な声だった。

 しかしベルクマンは彼にもにっこりとほほ笑む。

「そうしましょう。よろしいか?」

「ええ」

 ずっと一緒だったルプレヒトと離れられる。見るからにシュペトレーゼの肩から力が抜けた。

 では、と歩き出そうとしたベルクマンにルプレヒトが声をかける。

「食後に少し町に出てきます。後を頼みます」

 ベルクマンは軽く頷いた。シュペトレーゼを促して食堂を横切る。二人が向かったのは二階だ。ルプレヒトと泊っている部屋の隣である。シュペトレーゼは眉をひそめた。左右を確認してから鍵を開ける姿に、独特な雰囲気を感じる。彼もその程度に空気を読めるようになっていた。

 招きいれられるままに室内に入っても、突っ立ったままだ。

「どうしました? どうぞお座りになって」

「ベルクマンさん。あなたは...あなたはやはり軍人ですか? 僕を監視する為に研究所に...」

「今は軍人ではないのです」

 彼はまずカーテンを閉めた。それからのんびりと上着を脱いだ。ていねいに袖畳みにしてからテーブルの前の椅子の背にかける。そこにはまるでいつでも出かけられるように小さなバッグがあった。

 サスペンダーがぱんぱんに伸びきっているようだ。部屋に備え付けのポットを手にする。ティーバッグで二人分の紅茶を淹れて、テーブルに置いた。

「さ、どうぞ」

 ソファに腰を下ろし、向かいの席を指す。シュペトレーゼは数歩進んだがまだ座らなかった。

「シュルツさん? どうしましたか」

「あなたはなぜここにいるんですか? しかも隣の部屋...そうだ、確かキルヒェガルテンにもいらっしゃいましたね? ホテルで見かけた時は他人のそら似かとも思いましたが、あなたですね?」

「左様です」

 ベルクマンはカップを手に取った。シュペトレーゼを見上げる視線は、まるで孫を見るようだ。

「なぜです? わざわざ一緒に来て...僕を監視する為ですか」

「監視など」

「いいえ、そうでしょう。僕は囚人だ!」

 彼は身を屈めてテーブルを叩いた。拳が白くなるほど何度も繰り返す。

「クロイツベルクを出てからずっとそうだ! 寮という名の牢獄に押し込められて! シェレンス公の為のただのでく人形だ。僕という人間が必要なんじゃない。僕の外側だ、王太子の身分だけだ! じゃあ僕は何だ? 中身が無いとでも? 何も感じないとでも?」

「落ち着いて下さい、シュルツさん」

 ベルクマンの制止は無駄だった。彼はさらに激こうする。

「シュペトレーゼ・シュルツ? そんな名前がどうしたっていうんです! ここにいる人間が...僕の中身がアウスレーゼだってかまわないんでしょう? ハンス・ヨアヒムと名付けられた人間でさえあれば!」

「殿下、何を仰る。まずはお座り下さい」

「僕は殿下じゃない! 無期限の罪人じゃないか!」

「落ちつきなさいと申し上げておりますのに」

 ため息交じりに立ち上がった。

「殿下、失礼を」

 わめき続ける若者の襟首をつかむ。強引に腕を取るなり、投げた。

「うわ」

 虚を突かれたシュペトレーゼの体が宙を飛ぶ。ソファにどさりと身が落ちる。背中を打った。一瞬、息もできない。手足をだらしなく広げて、目と口をぱちくりさせているだけだ。ベルクマンの動きには隙がなく、なおかつ的確だった。

「紅茶をどうぞ。ティーバッグにしては香りが良いようです」

 鼻先にカップを突きだされる。のろのろと起き上って受け取った。ぐったりと背もたれに寄りかかる。手の中のカップはソーサーの上で小刻みに鳴っていた。口へ運ぶ指のみならず、全身が小さく震えている。

「あなたご自身が何者であられるのか、一番良くおわかりでしょう。アウスレーゼ殿とはどなたでしょうか?」

 シュペトレーゼは息を吐いた。肩から力が抜ける。改めて自身の呼吸の荒さに気が付く。カップを置いた。両手で顔を覆う。

「...もうしわけありません...つい感情的になって...みっともないところをお見せしました...」

「いえいえ。お元気があってよろしい」

 あい向かいに腰をおろした。ベルクマンは穏やかにほほ笑む。

「半分だけはご推察の通りですな。私は退役軍人なのですよ。歴史研究所に嘱託として入所したのは、あなたが来られると決まるずっと以前です。私は牢の看守ではなく研究者のはしくれなのですよ」

 彼もカップを口に運んだ。

 シュペトレーゼはきちんと座り直した。乱れているシャツを直す。背筋を伸ばした。頬も目も少し赤い。けれども呼吸は落ち着いたようだ。

「でも...ずっと一緒にいらしたんですね?」

「ええ。その通りですな。此度の旅ではキルヒェガルテンからずっとお側におります。あちらには別ルートで入りました」

 バスを追尾していた乗用車だ。ホテルを出る際に迎えに来たのもこの車両だった。

「いくらルプレヒト君が手錬(てだ)れの者とはいえ、一人で殿下を護衛させるのは荷が重いでしょう。何人も交代で務めております。先ほどの神殿にも私は居ました。少女を搬送したのも我ら警護の一人です」

 シュペトレーゼから身を隠して、敢えて接触を避けていたという。例えばキルヒェガルテンではピドーが加わって三人だ。そこへ更に彼が同道するとなると、男ばかりの四人連れだ。周囲からはかなり目立ってしまう。

「シュペトレーゼで結構です...殿下はやめて下さい。どうせ囚人ですから」

「自分を(おとし)める言い方はおやめなさい。未来ある若者にはお似合いになりませんな」

「...未来か...」

 彼は苦くほほ笑んだ。ベルクマンの言い方は優しい。けれども率直だ。それが却って素直に聞ける。

「ベルクマンさん、ティーガの太陽神話についてはご存じですか?」

「いえいえ。残念ながら門外漢です。私の専門は道具の方なのです」

「ああ...古い民具の収集をされていましたね」

「そうです、そうです。(くわ)だの鉢だのかつての生活が見える品に愛着を覚えるのです。例えばグリンクラフト連邦では長く小麦が主食とされておりますが、地域によっては...例えば(ノルデン)州の一部ですな。こちらではもっぱらドングリが食されておりまして、粉にする道具が色々と工夫されたようですな。その先人の工夫と努力に敬意を覚えるのです」

「ドングリよりも栗の方が多いのではないのですか? ラドクリフの古い民家の柱は栗の木が使われているそうですね」

 シュペトレーゼも新米とはいえ歴史の研究者である。いきなり話が逸れた。いいえドングリ、とベルクマンは重々しく頷いた。

「まだ先住民の勢力が強かった頃なのです。連邦統一以前のラドクリフ公国であった頃には、もうドングリの食文化は消えていたようですな。何せドングリは渋が多いのです。食すまでには手間がかかりますな。栗は加工しやすく美味ですが主食となると量産は難しい。そこでジャガイモへだんだんとシフトしたのです」

 興味ある分野であるからこその研究だ。ベルクマンとて例外ではない。二人ともどこかのスイッチが入ってしまったようだ。一時的な現実逃避かもしれない。彼らはのんびりと、しかし延々と食文化とそれに関わる道具の歴史について語り始めた。いつも不機嫌そうで無愛想なルプレヒトから一時でも解放されている。ラドクリフを出て以来、シュペトレーゼにとっては最も充実した会話だった。

 ノックが四回鳴った。少し間を置いて今度は二回。ベルクマンは話すのをやめた。腰を浮かせたシュペトレーゼを手で制す。またノック。一回だ。ようやく立ち上がり、ドアを開ける。町へ出ていたルプレヒトだ。後ろ手に扉を閉める。眉間こすり、腕を組んだ。

「あまり良くありません」

「ほう?」

 色々と情報収集に当たってみた。ラジオで告げられた通りだった。(オステン)州内の交通に制限はかけられてはいないが、海峡(メールエンゲン)を渡る手段が制限される。(ズューデン)州へ渡る東西鉄道だけだ。他に北上して山越えでソフィアへ抜ける陸路がある。しかしソフィアの襲撃者が通ったルートなら、まだ残党がいる可能性がある。そこを抜けるのは危険だ。シュペトレーゼを奪われたら、シェレンス公の大義名分は無くなってしまう。一気に(ノルデン)州へ攻勢をかけられると多大な犠牲が出ないとも限らない。

「船は一気に予約が増えています。数日はキャンセル待ちです」

「定期便は廃止されておりますからな。しばらく(オステン)州に居ますか。応援を呼びましょう」

「はい。ただし橋を封鎖した時点で、(オステン)州は北と敵対とは言わないまでも微妙な関係になったはずです。なるべく早く戻るべきです」

 長居は無用だ。

 シュペトレーゼはおずおずと尋ねた。

「いっそケッセンに行くのはどうかな? 南北線ならアディートはすぐだよ。あそこは(ノルデン)州だ」

 エフェレットきょうだいが使ったルートの逆行だ。しかしルプレヒトの声は冷たい。

「ケッセンは(ズューデン)州です。危険です。それにお忘れのようですがアディートでも爆破事件がありました。警戒が厳しくなっています。南北の州境に鉄条網が張られて検問所が出来たそうです。通過できるのは現在のところ人道的配慮による怪我人と、(ズューデン)州在住で北側に仕事場がある者だけです。逆は移動禁止」

 スパイの可能性があるという事らしい。通行規制が厳しくなった。

 沈黙が重苦しい。また列車の音が室内を横切った。

「ルプレヒト君、お茶でもいかがかな」

 よっこらしょっとベルクマンが立ち上がる。先ほどシュペトレーゼを投げたのとはまるで違うゆったりした動きだ。

 ルプレヒトは首を振った。

「ご用意の必要はありません。電話をかけてきます。すぐに戻ります」

「外ですな」

「はい」

 ドアが閉まった。ホテル内では盗聴の恐れがある。公衆電話を探すのだろう。

「さて、では」

 ベルクマンは両手をすり合わせた。

「どこまでいきましたかな。そうそう、水車が登場してどんぐりを挽く辺りでしたか。臼の材料がどこの産出かといえば」

「あ、あの」

 ようやくシュペトレーゼは遮った。

「ご高説はまた後ほど伺います。部屋に戻って着替えたいのですが。少し休みたいし...」

 シャツには紅茶が少しこぼれていた。

 隣の部屋にも関わらず、ベルクマンは着いて来ようとする。固辞したものの、それでもドアからシュペトレーゼがきちんと部屋に入るのを確認していた。

 久しぶりに一人になれた。それでもおそらくドアは監視されているだろう。

「はあ...」

 ベッドに倒れこむ。ベッドにあおむけになり、ぼんやりと天井を眺めた。隅にクモの巣がある。ちっぽけな黒い蜘蛛がじっと獲物を待っていた。

(そういえば、ピドーがルプレヒトを黒カマキリって呼んでいたな...。意外と似ている、かな?)

 ピドーの契約がどうなったのか、シュペトレーゼには知る由もない。

(『東の赤』が復活したら...後は『南の青』だけになってしまう...。この国は...世界はどうなるんだろう?)

 シュペトレーゼの想いは過去へ飛んでいく。

 クロイツベルクの城は退屈な場所だった。父であるアーノルド王は公務に忙しい。母はもう故人だ。シュペトレーゼはまだ正式に王太子になっていなかったし、すぐに風邪を引く体質だった。そのために公的な場に出る事は殆どなかった。もっぱら城の中で、家庭教師と使用人に囲まれて過ごしていたのだ。父の乳母でもあったハンナ・ティッシュバンはその中でも最も近くにいた女性かもしれない。

 たまにハンナは居室の外に連れ出してくれた。その時はいつも二人きりだ。まるで他の者の目を盗むようだった。城の裏手を抜けると、すぐ近くにあまり手入れされていない林がある。緩やかな斜面を下りると湖だ。湖畔には朽ちかけた建物がある。それはもう一つの城のようだったが壁は崩れ、もはや廃墟である。それでも地下へ続く扉があった。

 階段を下りると冥府のようだ。地上に対する地下の城だ。高い位置にある窓から光は差し込む。だが灯りがなくいつもうす暗い。だからランプや懐中電灯を持っていったものだ。壁には異国の言葉と模様が刻まれている。恐ろしげな模様に最初こそ怯えたが、慣れると可愛らしくさえ見えた。むしろ中央の首が化け物を喰い殺してくれているように彼は思っていた。

 そしてそこには同じ年ごろの住人がいたのだ。鍵のかかった鉄格子の向こうながら、部屋はカーペット敷きだ。ベッドや机が整然と置かれて清潔だった。ハンナはルーカと呼んでいた。どういう身分なのかハンナは言葉を濁す。ルーカ自身も何も分かっていないようだ。

 ルーカは良く笑い、よくしゃべった。またハンス・ヨアヒムの話を聞きたがる。宮殿で何をしているのか。世間では何が流行っているのか。訪問が夜の時は、ルーカが外に出て湖のほとりで過ごす事もあった。二人は滑らかな水面に水切りの石を投げ合ったものだ。この来訪は本当にごくまれだった。またハンナからはきつく口外無用と念を押された。

 だがリョードフ親子が王弟ディーターに招聘されてから、遺跡に至る道の入り口に鉄の柵が作られた。完全に立ち入り禁止だ。そこがティーガ族の遺構だと知ったのもその頃だ。

 やがてディーターとテレジアの間に子供が生まれた。叔父の息子だから従弟になる。ハンス・ヨアヒムは十二才だった。宮殿の中はざわめいて落ち着きがない。自分への関心が減ったようだ。自由な時間が生まれたのがうれしかった。こっそり出掛けるチャンスが生まれた。

 あの日、なぜ出かけてしまったのだろう。

 夕刻だった。城の裏口から林に向かう。湖面を見るだけでも良かったのだ。しかし、なぜか柵の鍵が開いていた。ハンス・ヨアヒムは斜面を下りた。太陽は西に傾き、湖面は禍々しいほどの濃いオレンジに揺れていた。

 遺跡の中から灯りが漏れている。先客だ。そっと階段を下りる。大きな柱に隠れて覗いた。

 その頃の彼は太陽神話を知らない。目の前の光景が理解できなかった。広間のあちらこちらにランプが置かれていて明るい。床の中央に横たわるものが何か、すぐに分からない。見えているのに何だか把握できないのだ。敷石に広がっている黒い液体は、それから流れ出たようだ。

 血だ。

 ハンス・ヨアヒムは息を吸い込んだ。同時によろめく。肘が柱にこすれた。つまづいたのか、石が足元で鳴った。よろめき、懸命に何かにすがる。しかし勢いのまま倒れ込んだ。右手にしびれるような痛みを感じた。両方の掌から血が滲んでいる。柱は石造りだ。角に当たっていたらしい。

 物体の隣に座り込んでいる人物がのろのろと顔を上げた。茫然とした瞳は何も映していない。しかしハンス・ヨアヒムと目が合った瞬間、ぎらりと光を宿す。よろりと立ちあがる様は上から糸で吊られているようだった。ここの住人ルーカが檻の部屋から出ている。両手とも真っ黒だ。指の先からぽたりと深紅のしずくが垂れた。

 ハンス・ヨアヒムは叫んだだろうか。あまり記憶がはっきりしていない。

 不意に視界が真っ白になった。どこまでも輝く白い闇だ。どこかで叫ぶ声を聞いた。人ではない。獣だ。目の前に巨大な首があった。異国の線刻だ。それが実体となって迫る。

『整ったか? 司祭がいる、猿がいる、証書がある!』

 頭の中に直接響く声だった。男女も、年齢さえもわからない。

『足りない! おまえには足りない! おまえではない』

 風景が戻った。途端に風が沸き起こる。白い闇は渦を巻き、嵐となってドームを駆け巡った。そして一か所に凝縮する。人形のように立ちすくむルーカへ向かい、包みこむ。それから全身へ突き刺さって消えた。

 地下に大きな窓はない。階段から吹きこむのでもない。それでも強い風が吹く。行き場を失い、ごうごうと音を立てる。

 誰かが手を叩いた。拍手だ。別の柱の陰からだ。広間にはもう一人いたのだ。ナイフが彼の前に滑ってきた。風が運んだのか、敢えて投げつけたのか。刃は血で汚れている。ハンス・ヨアヒムはそちらを向く事はできなかった。ルーカの甲高い笑い声が響いた。

 あんな笑い方をする子だったか。おかしい。

 逃げなければ。

 風の勢いが増した。石が礫となって飛ぶ。彫刻が砕け、宙を舞う。どこかにあたったのか、水が噴き出す。みるみる床に広がった。

 ついに竜巻となる。壁の一点に集中し、爆発した。天井の一部が崩壊して降り注いだ。

 幸いに階段の近くにいたのだ。いつの間にか彼は座っていた。膝に力が入らない。後ろ向きのまま、座って後ずさりした。階段に手が触れる。途端に跳ね起きた。

 体中の筋肉が一気に筋肉痛になったようだ。速く駆け上がりたいのに、ぎくしゃくとしか動けない。どうやって斜面を上がったのかも記憶がない。

 林の上まで来た。女性が立っている。茶色の巻き毛だ。同じ色の瞳がまん丸に見開いている。話をした事はない。顔もうろ覚えだ。つけているエプロンは王宮のメイドだ。

「どうなさったんです! 血が...!」

 素早く駆け寄る。エプロンを外すと、ハンス・ヨアヒムを包んだ。覆いかぶさるようにする。

「歩けますか?」

 頷くのがやっとだ。本当はその場にうずくまりたいのだが、早く地下の冥界から離れたい。それでもハンス・ヨアヒムは言葉を絞り出した。

「地下で...白い光が...大きな首が...何だか分かりません...いきなり...風が...」

 力なく首を振る。当時は太陽神話さえ知らないのに『西の白』が何を意味するのかなど見当もつかなかった。

 強い声が強引に割って入る。

「お話しは後になさって下さい! まずはお手当です!」

 二人はすぐに城内へ入った。宮殿の中はどこかざわめいているようだ。湖畔でかなり大きな音がしたせいか。使用人が数人走っている。

 一人は老婦人だ。ハンナ・ティッシュバンは使用人のまとめ役でもある。彼らは急いではいても、彼の姿を見かけると足を止めて礼をした。うろたえる者とは違い、血まみれの王子に少しだけ眉を跳ね上げる。しかし感情を表に現さなかった。抑えた声で巻き毛の女性に命じる。

「ロッタ、殿下をお部屋にお連れして。すぐに医者を。詳細は後で聞きます」

「はい」

 ハンス・ヨアヒムの後を追うように、急ぎ足でアナスタシア・リョードフが現れた。その場の面々を順番に目で追う。そして尋ねた。

「重大な何かがあったのですか」

 使用人達ははっと息を呑む。うろうろとお互いを窺うばかりだ。ハンナが逆に尋ねる。

「なぜそのように思うのですか?」

「皆さまがとても急いでいるようだったので、そう思ったのです。もしかしたら、どなたかお探しでしょうか」

 ハンナはまた眉を跳ね上げた。一度は開きかけた唇を閉じる。視線は横を向き、また正面に戻る。アナスタシアの眼とぶつかり、また避ける。

「やはりそうですね? 誰なのです?」

 ついにハンナはしっかりと顔を上げた。息を吐き出すように答えた。

「テレジア様の第一王子殿下でございます」

 アナスタシアは口を手で押さえた。眉をひそめる。吐き出した息は笑いにも聞こえた。

「それで『西の白』が」

 ハンス・ヨアヒムが聞いたのはここまでだ。彼は自室に運ばれ、手当てを受けた。怪我の理由など言えない。自分にさえ分からないのだ。彼はその日から熱を出した。

 翌日にはテレジアの息子が病死したと発表された。葬儀は彼が伏せている間に終わった。まだ名前さえ付いていない子供だ。しめやかに、しかしひっそりと行われたらしい。

 そのニュースを聞いて、ようやく彼は理解した。地下冥府の床に横たわっていたのは生まれたばかりの嬰児だと。網膜で結ばれた映像がようやく形になったのだ。ぐっしょりと濡れたうぶ着から覗いていたのは丸い筒状の肉と、その中心にある白い骨だ。首は白い闇に浮かぶ巨大な首の牙の先で揺れていた。

 その後、またしばらく発熱してしまった。

 見知らぬ男たちに連れられてラドクリフを離れたのは、そのすぐ後だった。シェレンス公爵の勧めだ。ただ言われるままの行動だった。何かを考える余裕などなかった。

 ハンス・ヨアヒム・フォン・グリンクラフトが正式に王太子とされたのは、それからまもなくだ。本人は連邦の首都に居ないままに。ルーカが『(アウス)摘み(レーゼ)』と呼ばれていたのを聞いたのも、やっとこの頃だ。一緒に王都を離れた使用人から聞かされた。一体なにが起こりつつあるのか戸惑うばかりだ。まもなく(ノルデン)事変が起きた。

 身の安全を図る為に、ハンス・ヨアヒムはシュペトレーゼ・シュルツとなった。しかし生活の自由はない。監視が付くのを条件に、ようやく動けるようになったのはつい最近だ。

 地下神殿で目撃した事象は何なのか。アナスタシアの『西の白』という言葉を頼りに見つけたのはティーガの太陽神話だった。冥界に落ちた太陽を人間に復活させる。生まれたばかりの従弟は生贄にされたのだ。

 冥界の太陽が四つとも復活を遂げると世界は破滅する。その前に止める事は叶わないのか? 再び地下へ戻せないのか? シュペトレーゼの研究は始まった。行動の範囲も、目にする資料も限られている。遺跡や神話の残る地域をかたっぱしから出来る範囲で調べた。そして十年だ。

 レクトンの遺跡は太陽神殿ではなかった。北の黒神殿はもはや存在しない。基盤の上にはラドクリフ城がある。そして東の赤神殿も破壊されている。何の手がかりも無かった。

(もう行き詰まりなのか...。いや、違う。ピドーがいる)

 不完全ながら契約を交わしている。『西の白』の復活から長い年月を経て、また神話が動き始めたのだ。

(今まで止まっていたんだ。なぜ動いたのか分かれば逆に止められるのでは...)

 北と南がどうなっているのか、シュペトレーゼには分からない。だが『東の赤』はまだ復活していない。この時点ではエフェレットきょうだいに何が起きているのか、彼はまだ知らなかった。

(僕は彼から離れるべきじゃなかった)

 ルプレヒトが何と言おうとも、シェレンス公の命であろうとも。ピドーもまた冥界の太陽の闇を体験しているのだ。それなら人の死を...首をもがれる生贄を目の当たりにしているはずだ。その不安と恐怖を共有できただろう。

 北事変が太陽神話の復活をきっかけとしているのなら、もうこれ以上太陽を目覚めさせてはならない。

(そうだ、南にも神殿がある)

 シュペトレーゼはぱっと顔を上げた。何もできない、とルプレヒトは言った。本当にそうだろうか? 何かできるかもしれないのだ。クローゼットを開けて上着を羽織る。引き出しから着替えを出してバッグに詰めた。彼にしては素早い動きだ。

 また列車の音だ。それに合わせて細くドアを開ける。彼はしっかり唇をかみしめた。ドアの下にハンカチを敷いて閉まらないようにした。不意に閉まって音が鳴るのを防ぐ為だ。

 人影のない廊下に出た。足音を忍ばせてベルクマンの部屋の前を横切る。ロビーとは逆へ向かう。リネンのカートが通った方だ。しばらく進むとスタッフ用のドアがあった。ノックをせずにそっと開ける。鍵はかかっていなかった。備品の交換や補充を行う為の部屋だ。壁に備え付けの棚には、きちんとたたまれたタオルやせっけんがきちんと並べられている。そろそろチェックインの時間だ。そのせいか無人だった。部屋にはもう一つドアがあった。従業員が利用する階段だ。ここにも鍵はかかっていない。一気に駆け下りた。

 着いた場所では洗濯機が何台も回っている。椅子に腰かけた従業員が大あくびをした。シュペトレーゼにびっくりして、雑誌を閉じて立ち上がる。目を眇めた。部屋に似つかわしくないジャケットの青年を見た。

「何か? 二階に泊っているお客さんだよね?」

「あの...出口を間違えて...」

「ああ? 外に出たいわけね」

 彼は肩をすくめ、ドアを指さした。

「あっちだよ。悪い人には見えないんだけどなあ」

「は? 僕は出口を探していただけで...」

「はいはい。フロントを通りたくないわけでしょ。ここを通ろうって奴は皆そう言うんだよね! 殆どが浮気がばれたクチで大慌てでさぁ。あっ、でもお客さんは男二人で泊まってた人...?」

 彼は少し口をぽかんと開く。だが、すぐ大きく頷いて再び腰を下ろした。

「人生いろいろあるよ。なっ。気を付けて行けよ」

「はあ、ありがとうございます」

 男同士の愛情のもつれとでも勘違いされたようだ。世間知らずのシュペトレーゼには通じていない。けれども首尾よくホテルの裏口から出る事に成功した。やや西に傾いた太陽が目を射る。風が吹き下ろし金髪を乱した。額にかかる髪を掻きあげると、空によく似た輝く色の瞳が覗いた。

 駅の場所は覚えている。ホテルの横を通り、道路を横切る。信号は赤に変わりそうだった。

 その時ロビーにはルプレヒトが居た。受話器を置いたばかりだ。ひと際高くクラクションが鳴った。だが気にも留めなかった。よくある事だ。

 からん、とカウベルが鳴る。ホテルの出入り口の扉についているのだ。若い女性が入って来た。エプロン姿だ。近所の住人らしい。カウンターで何か話している。

 二階へ向かおうとしたところ、受付から声がかかった。

「お客さん、遺跡で何かあったんですって?」

「いや、知らない」

 エプロンの女性が困ったような顔でこっちを見ている。受付が二人を見比べた。

「でもこちらの方が、黒い服の見知らぬ男性に救助されたのでお礼をって」

「何のお話しやら。失礼します」

 女性は首を傾げた。ルチアの母ビアンだ。受付係と話しを再開した。

「観光客といえば今はここしかいないはず。どこかの家のお客なら見つからないかな...」

「他の方にもお声掛けをしてみますよ」

「ええ...」

 ヴィプリンガーの無愛想さに彼女の言葉も途切れがちだ。助けてくれたのなら親切な人...という先入観からすると、恩人は彼ではないようだ。彼女はホテルを出た。ホテルの宿泊者なら受付から言づけてもらえるだろう。路肩に停車したままの車にちらりと目をやっただけで通り過ぎた。この近所では見慣れない車だ。その中にはシュペトレーゼの警備が控えている。

 この時、ルチアを運んだ警備はホテルに戻っていた。しかし監視していたのは出入口の方だった。ルプレヒトは受付で時間を取られた。ベルクマンは定時連絡だ。

 電車が通り過ぎた。直後に、かすかに開いたドアの音を聞きつけた。ベルクマンは通話を投げるように切った。シュペトレーゼの部屋の向かいのドアが開いている。そして今にも階段を下りようとする茶色の後頭部に声をかけた。


 ツヅク! 次回冥界の太陽たち 5話  勝手におでかけシュペートは、ちゃんと切符を買えるのだろうか


お読みいただきありがとうございます。

登場人物がああああ おおおおお多い。すみません。。


エフェレットきょうだいは 今回お休み。

シュペトレーゼの動向を追います。身勝手な行動がどんな結果をもたらすのか、彼はまだ知りません。


今回の初出さん 多い!!

楽園創生の委員:東州の政治団体

委員長  フィニーニ・ルッソ

副委員長 サッシャ・コーエン

チェステ工房 エレノア・チェステ。フィニーニの恋人。

       エンリコ・チェステ。エレノアの兄。

       ビアン・チェステ。エンリコの妻。

       ルチア・チェステ。エンリコ、ビアンの娘


西州軍ケッセン支部

少将(通称は統括) ヒューゴ・ヒンメル

少尉        フランツ・マイヤー

曹長        トビアス・ミレン

軍曹        キーラ・カッツェ


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