嘲笑
狡いわ、と思って、早佐は泣いた。
館に向子と戻ってきてから湯を使い、向子が贈ってくれた、赤っぽい紬を着ているが、心は晴れず、着換えに実家に戻った向子と、昼に来る予定の治を待っている間、一人で自室に居る早佐は、涙が止まらなかった。
自分からは治に捧げられるものが無いのに、相手からは、恐ろしく大事なものを貰ってしまったのだ。
早佐は、怒りの感情が久し振りに起こった自分の心の回復具合と、受け取ったものの大きさに驚いていた。
―息苦しさが全く無い。視界の曇りも無い。私、何時も、もう少し苦しくて、視界が暈けていたのね。ほんの少しだけれど、気付かなかった。
恐らく此れから、二度と喘息が出ない気がする。
そして気付いた。ほんの僅かだが、自身の髪の色が暗くなっている事に。
唇の血色も少し、良くなった。
―本当に、受け取ってしまったのだわ。
悔しくて愛しくて、腹が立って、仕方が無い。
―狡い。貴男が私に、其処までしてくださる必要は無いのに。其処までして、生かしてくださらなくてもいいのに。
恐らく、そうなのだ。
寿命を、何故相手が、くれる気になったか、という事が重要だ。
―きっと、そう、長くは無いからなのだわ。何も仰らないけれど。何故、あんな不思議な事が出来たのか、私にも、分かり得ないけれど。
寿命が長くない事など、最初から受け入れているというのに。治が居てさえくれれば、他の事は怖くないのに。
―此処までしてくださらなくて宜しいのよ。短い間でも、一緒に居られたら、他に、何も要らないの。
此れが罰なのか、と思い、早佐は泣いた。
―貴男と一緒に居られて、幸福の絶頂から落とされる地獄は、貴男の寿命を、削ってしまう事?…家を焼かれてしまう事?そんな事が有って良い筈が無い。罰は、私だけに。
どうせ死ぬのだから、出来る限り、相手を守りたい。密通の罪に引き摺り込んでしまった、愛しい相手を。
―だから、一番嫌な事を遣らねば。今度こそ、誰も巻き込まない。
水配りの後、自分が如何なるかは分からない。でも、短い命なら、出来るだけ、治の傍に居て、そして、治の為に出来る事をして、ひっそり消えたい。してあげられる事が無くなったら、負担にならない様に、消えてしまいたい。
好きなのだ。
如何して良いか分からないくらい好きなのだ。
相手の為にならない自分など、要らないくらい好きなのだ。
―だから、御願い。自分を削らないで。…好きなのよ。
相手が寿命を削った事に、こんなにも腹が立って、こんなにも無力感が有るのは、好きだからなのだ。
身が捩れそうだ。
腹が立つ。
如何して、と、繰り返し思ってしまう。
其れは、本当に、忘れていた、喜怒哀楽のうちの『怒』だった。失ってしまったものだった。
感情が爆発しそうに、自分の中を渦巻く感覚。
―好きなの。
でも、同じくらい腹が立つ。
そんな事は知らなかった。
やはり、相手を思う時、相手に、地に縫い留められている今、自分は『人間』に戻り、『人間』としての感情を知るらしかった。
会ったら、嫌な態度を取ってしまうかも、と思うくらいの気持ちでいた早佐だったが、自室で、正座して出迎えた治に、会った瞬間、悲しさと怒りが、スッと消えてしまった。
―…狡い。腹を立てていた筈なのに。
会うと駄目みたい、と早佐は思った。
殊に、相手の姿が、何時もより良く見えたので、早佐は驚いた。
自分の視力が良くなったか、相手の容姿が良くなったか、両方なのか、悩むくらい良かった。
素晴らしい銀灰色の衣の上で踊る光は、静かな青みを帯び、相手の姿を、普段から早佐が居る自室の中で、雪原の中の立木の様にクッキリと浮かび上がらせていた。
―此の着物を作った人は、此の人の良さを、よく知っている人だったのではないか、と思ってしまうくらい、良いわ。恐ろしく趣味の良い人が作ったのでしょうね。
相手は、申し訳なさそうに、泣いていたのか、と言って、屈んで、早佐の頬に触れた。
胸が絞れる様に痛んだ。
泣いていた、とか、腹が立つ、という言葉は、早佐の口からは出て来なかった。
早佐は、結局、黙って、触れてくれた相手の手を、両手で包んで、其の儘、自分の頬に当てていた。
「従、入らない方が良い?」
聞き慣れた義兄の声に、早佐は、慌てて、治から離れた。
見れば、白装束姿の顕彦も、青い訪問着姿の向子も居て、頬を染めて、明後日の方を向いていた。
「…皆様、御揃いで…?」
俺が御呼びしたんだ、と、治が立ち上がって、言った。
「御越し頂きまして、どうも。此処なら、早佐を交えて話が出来ると考えまして」
結論から申しましょう、と婚約者は、普段からは考えられないくらい、凛々しい声で言った。
「我が家が焼けました。…焼ける事は、如何やら、昔から決まっていた定めだったらしい。原因は、苗の神教に有るらしい。…此の里が、滅びに向かっている、というのは、御存知ですか?…俺に、隠している事は有りませんか、皆様。例えば…坂本紘一という人の事とか。平成五年の米不足の事とか」
岐顕は、沈痛な面持ちで俯いている。
向子は無表情で、治の姿を見詰めている。
顕彦が、そろそろ良いか、と言って、早佐の方を見てきた。
「仕掛け作り、手伝ってもらおうかな」
其の言葉を聞いた時に、早佐の額から、ピッ、と、何か、冷たい物が入り込んだ気がした。
其の感覚には覚えが有った。
誰かが頭の中で、良かろう、と言い、早佐の口からは、宜しいですよ、という言葉が出た。
頭の何処かで、『人間』の感情に振り回されなくなる事を悲しむ声と、喜ぶ声が同時にする。
―嗚呼。分離する。でも、此れが、如何やら、役割なのだわ。…此の人が傍に居るのに。
頭の中で、声がする。
人の身で、神を娶ろうとは、其の身に過ぎた大望、と、治を嘲る声が。
―御願い、もう少し、十六歳の少女で居させて。此の人の事を大好きな私に。
頭の中の嘲りの声は、止まらない。
生大刀と生弓矢と天詔琴とを取り持ちて、逃げ出でたとて、天詔琴樹に拂れて地動鳴き、行方が知れてしまうだろう、と。
本当に、御前は、決定事項を完遂する気が有るや、と。
家を焼かれても、と。
其れは、声であり、音だった。
マントルであり、マグマであり、プレートの動く音だった。龍が飛ぶ様に地中を流れ、流れて、流離って、罪や穢れどころか、全ての物を焼き尽くし、流し尽くし、大陸の形までもを変えて、流れて行って、何処かで引っ掛かり、地震を起こす、大きな存在が、自分の愛しい者の無力さを、鼻で笑う声だった。
取るに足らない、と。
―いいえ、私の全て。
矮小だ、と。
―止めて。
私は、此の人を愛しているの。
だが、如何やら、何かの時計の針は、動き出してしまっている。
今日の早佐には、其れが分かった。
「…御役に立てるなら、立ちましょう」
―短い此の命で、何か、役に立てるのなら。
治の顔が見られない。頭の中の嘲りの声が止まるまで、早佐は、半眼で、顕彦の方ばかり見ていた。
「仕掛けを作ります。私には恐らく、其れが可能です」
資料を寄越してください、という、冷たい声が出た。
治が驚いた様に、此方を見るのが、見ていないのに、早佐には分かった。




