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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第五章 悪意
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嘲笑


 (ずる)いわ、と思って、(はや)()は泣いた。


 (やかた)向子(さきこ)と戻ってきてから湯を使い、向子(さきこ)が贈ってくれた、赤っぽい(つむぎ)を着ているが、心は晴れず、着換えに実家に戻った向子(さきこ)と、昼に来る予定の(はる)を待っている間、一人で自室に居る早佐は、涙が止まらなかった。


 自分からは(はる)に捧げられるものが無いのに、相手からは、恐ろしく大事なものを貰ってしまったのだ。


 早佐は、怒りの感情が久し振りに起こった自分の心の回復具合と、受け取ったものの大きさに驚いていた。


―息苦しさが全く無い。視界の曇りも無い。私、何時(いつ)も、もう少し苦しくて、視界が()けていたのね。ほんの少しだけれど、気付かなかった。


 恐らく此れから、二度と喘息が出ない気がする。


 そして気付いた。ほんの(わず)かだが、自身の髪の色が暗くなっている事に。

 唇の血色も少し、良くなった。


―本当に、受け取ってしまったのだわ。


 悔しくて愛しくて、腹が立って、仕方が無い。


―狡い。貴男(あなた)が私に、其処までしてくださる必要は無いのに。其処までして、生かしてくださらなくてもいいのに。


 恐らく、そうなのだ。

 寿命を、()()相手が、くれる気になったか、という事が重要だ。


―きっと、そう、長くは無いからなのだわ。何も(おっしゃ)らないけれど。何故、あんな不思議な事が出来たのか、私にも、分かり得ないけれど。


 寿命が長くない事など、最初から受け入れているというのに。(はる)が居てさえくれれば、他の事は怖くないのに。


―此処までしてくださらなくて宜しいのよ。短い間でも、一緒に居られたら、他に、何も()らないの。


 此れが罰なのか、と思い、早佐は泣いた。


貴男(あなた)と一緒に居られて、幸福の絶頂から落とされる地獄は、貴男(あなた)の寿命を、削ってしまう事?…家を焼かれてしまう事?そんな事が有って良い筈が無い。罰は、私だけに。


 どうせ死ぬのだから、出来る限り、相手を守りたい。密通の罪に引き摺り込んでしまった、愛しい相手を。


―だから、一番嫌な事を遣らねば。()()()()()()()()()()()()


 水配り(ミックバイ)の後、自分が如何(どう)なるかは分からない。でも、短い命なら、出来るだけ、(はる)の傍に居て、そして、(はる)の為に出来る事をして、ひっそり消えたい。してあげられる事が無くなったら、負担にならない(よう)に、消えてしまいたい。


 好きなのだ。


 如何(どう)して良いか分からないくらい好きなのだ。

 相手の為にならない自分など、()らないくらい好きなのだ。


―だから、御願い。自分を削らないで。…好きなのよ。


 相手が寿命を削った事に、こんなにも腹が立って、こんなにも無力感が有るのは、好きだからなのだ。

 身が捩れそうだ。

 腹が立つ。

 如何(どう)して、と、繰り返し思ってしまう。


 其れは、本当に、忘れていた、喜怒哀楽のうちの『怒』だった。失ってしまったものだった。


 感情が爆発しそうに、自分の中を渦巻く感覚。


―好きなの。


 でも、同じくらい腹が立つ。


 そんな事は知らなかった。


 やはり、相手を思う時、相手に、地に縫い留められている今、自分は『人間』に戻り、『人間』としての感情を知るらしかった。




 会ったら、嫌な態度を取ってしまうかも、と思うくらいの気持ちでいた早佐だったが、自室で、正座して出迎えた(はる)に、会った瞬間、悲しさと怒りが、スッと消えてしまった。


―…(ずる)い。腹を立てていた筈なのに。


 会うと駄目みたい、と早佐は思った。


 (こと)に、相手の姿が、何時(いつ)もより良く見えたので、早佐は驚いた。

 自分の視力が良くなったか、相手の容姿が良くなったか、両方なのか、悩むくらい良かった。


 素晴らしい(ぎん)灰色(かいしょく)(ころも)の上で踊る光は、静かな青みを帯び、相手の姿を、普段から早佐が居る自室の中で、雪原(せつげん)の中の立木(たちぎ)(よう)にクッキリと浮かび上がらせていた。


―此の着物を作った人は、此の人の良さを、よく知っている人だったのではないか、と思ってしまうくらい、良いわ。恐ろしく趣味の良い人が作ったのでしょうね。


 相手は、申し訳なさそうに、泣いていたのか、と言って、屈んで、早佐の頬に触れた。


 胸が絞れる(よう)に痛んだ。


 泣いていた、とか、腹が立つ、という言葉は、早佐の口からは出て来なかった。

 

 早佐は、結局、黙って、触れてくれた相手の手を、両手で包んで、其の(まま)、自分の頬に当てていた。




(じゅう)、入らない方が良い?」


 聞き慣れた義兄の声に、早佐は、慌てて、(はる)から離れた。


 見れば、白装束姿の顕彦(あきひこ)も、青い訪問着姿の向子(さきこ)も居て、頬を染めて、明後日(あさって)の方を向いていた。


「…皆様、御揃いで…?」


 俺が御呼びしたんだ、と、(はる)が立ち上がって、言った。


「御越し頂きまして、どうも。此処なら、早佐を(まじ)えて話が出来ると考えまして」


 結論から申しましょう、と婚約者は、普段からは考えられないくらい、凛々しい声で言った。


「我が家が焼けました。…焼ける事は、如何(どう)やら、昔から決まっていた定めだったらしい。原因は、苗の神教(ナエンカンきょう)に有るらしい。…此の里が、滅びに向かっている、というのは、御存知ですか?…俺に、隠している事は有りませんか、皆様。例えば…坂本(さかもと)紘一(こういち)という人の事とか。平成五年の米不足の事とか」


 (みち)(あき)は、沈痛な面持ちで俯いている。

 向子(さきこ)は無表情で、(はる)の姿を見詰めている。


 顕彦が、そろそろ良いか、と言って、早佐の方を見てきた。


「仕掛け作り、手伝ってもらおうかな」


 其の言葉を聞いた時に、早佐の額から、ピッ、と、何か、冷たい物が入り込んだ気がした。

 其の感覚には覚えが有った。

 誰かが頭の中で、良かろう、と言い、早佐の口からは、宜しいですよ、という言葉が出た。


 頭の何処かで、『人間』の感情に振り回されなくなる事を悲しむ声と、喜ぶ声が同時にする。


―嗚呼。分離する。でも、此れが、如何(どう)やら、役割なのだわ。…此の人が傍に居るのに。


 頭の中で、声がする。


 人の身で、神を娶ろうとは、其の身に過ぎた大望(たいもう)、と、(はる)(あざけ)る声が。


―御願い、もう少し、十六歳の少女で居させて。此の人の事を大好きな私に。


 頭の中の(あざけ)りの声は、止まらない。


 生大刀(いくたち)(いく)弓矢(ゆみや)(あめの)(のり)(ごと)とを取り持ちて、逃げ出でたとて、天詔琴()()れて(つち)(とよ)()き、行方が知れてしまうだろう、と。


 本当に、御前は、決定事項を完遂する気が有るや、と。


 家を焼かれても、と。


 其れは、声であり、音だった。

 マントルであり、マグマであり、プレートの動く音だった。龍が飛ぶ(よう)に地中を流れ、流れて、流離(さすら)って、罪や穢れどころか、全ての物を焼き尽くし、流し尽くし、大陸の形までもを変えて、流れて行って、何処かで引っ掛かり、地震(なゐ)を起こす、大きな存在が、自分の愛しい者の無力さを、鼻で笑う声だった。


 取るに足らない、と。


―いいえ、私の全て。


 矮小だ、と。


()めて。


 私は、此の人を愛しているの。


 だが、如何(どう)やら、何かの時計の針は、動き出してしまっている。

 今日の早佐には、其れが分かった。


「…御役に立てるなら、立ちましょう」


―短い此の命で、何か、役に立てるのなら。


 (はる)の顔が見られない。頭の中の(あざけ)りの声が止まるまで、早佐は、半眼で、顕彦の方ばかり見ていた。


「仕掛けを作ります。私には恐らく、其れが可能です」


 資料を寄越してください、という、冷たい声が出た。


 (はる)が驚いた(よう)に、此方(こちら)を見るのが、見ていないのに、早佐には分かった。



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