寿命
翌日、実方本家の、岐顕の仕事部屋に治一が、昨晩の黒い着流しの儘で出向くと、岐顕は、白装束姿でラップトップパソコンに向かっていた。
畳敷きの部屋いっぱいに置かれている、パソコンやコピー機といった機械類の中で、親友の白装束は、自宅だというのに、全く溶け込まずに浮いていた。
「あ、御帰り、治。如何だった?」
「…辰じぃに拳骨食らった」
「…だよねー。シャワー浴びればぁ。昼までに、未だ時間有るし」
早佐が、朝、向子の車で、長の館に戻っていった後、病室のシーツの状態で、色々と、芋蔓式にバレ、伊羽子には立ち入りを遠慮してもらい、仕事が始まる前の医局で、治一は辰顕に、水配りの相手が発表される前から、早佐と婚前交渉が有った事を白状する羽目になった。
そして、他人に暴力を振るうところなど一度も見た事が無い、優しい辰顕に、怒りの拳骨を食らったのだった。
治一は其れを、甘んじて受け入れた。
説教を食らう場面に、顕太郎が見ざる、奏顕が言わざる、賢顕が聞かざる、の状態で立ち会っており、治一は、気不味い事此の上無かったが、密通が罪なのは重々承知の上だったので、只管黙って説教を聞いた。
「だよねー、って。予想してたの?…バレるって」
「してたしてた。振袖は兎も角、紬なら自分で着替えられるからね。夜、二人にしておいたら、そういうのを予想しない方が野暮ってもんですよ。まー、病院としては、泊めた側として、色々と確認するだろうし。バレるかなーって。…御愁傷さまでしたー」
午前中だからオブラート多めで御送りしておりますよ、と岐顕が言うので、オブラートって言ったら台無しじゃない?と治一は言った。
「じゃーオブラート剥がすけど。病院でやったんだ、スゲー度胸。心臓に毛ぇ生えてんの?」
「剥がすな。包んどけ」
「はいはい、完成、っと。出来た出来た、マスタ。ゴースト使って、と。昼には一緒に瀬原本家に行くからねー。黒服の奥さんが食事作りに来てくれたから、やっと、こういう作業も出来ますわ」
「あ、其れで、もう白装束着てくれてんだ。有難う。…何の作業してんの?」
「マスタ作ってますぅ」
「…うーん、説明になってないんですよ、ド理系さん。マスタ?」
「不動産屋の支店毎にパソコンを置くんですけども。一個一個設定するのが面倒でしょうや。だから、共通の設定は、こうやって、マスタ、っていうデータを作っといて、此の、ゴーストっていうソフトで、仮設定したパソコンに、共通設定のデータを入れれば、一個一個設定しなくても、共通設定が出来たパソコンが出来るんですわ。で、各支店毎の設定は結局、マスタを作れないから、ゴーストでマスタのデータを入力した後も手作業なんですけども。二十台を超すと、マスタ作って、ゴーストで共通部分のデータ入れた方が楽なんですわ。設定の入力ミスも減るし。情報システム部は俺しか居ないし、慢性的な人手不足なのにパソコン導入するから、こういう工夫も必要なんですよ。壊れたパソコンの入れ替えとかにも対応出来るし」
パソコンの前から立ち上がる親友に、治一は、小さく挙手して聞いた。
「…済みません、ゴーストの説明、良いスか…」
「…オッケー。ゴーストちゃんはですねー、オバケちゃんって覚えてくださいねー。オバケは増える、と思ってください。ゴーストちゃんが、仲間のオバケちゃんを増やしてくれるんです。つまり、マスタというオバケちゃんを複製して、空っぽパソコンの中に、マスタのオバケちゃんを送り込んでくれるんですー。そしたら、あーら不思議、空っぽパソコンにも、ゴーストちゃんが複製してくれたデータが入っているではありませんかー」
「…分かった様な、分からん様な。でも、御疲れ様…。えっと、此のデータを入力しないといけないパソコンが沢山有るって事?」
「そー、隣の部屋がサーバールーム化しちゃってんですけど、床に、発送用の未設定ラップトップパソコンが並んでて、まるで外国人墓地の墓石状態ですよー。送るまで倉庫状態ですわな」
『隣の部屋』というのが、理佐と共有の、夫婦の寝室だったと知ったのは最近の事で、忘れたくてサーバールーム化したのか、本当に機材が置ききれなくて、使っていない部屋をサーバールーム化しなければならなかったのか、其の両方なのか、治一には分からない。
「大変だね…」
「やー、一昨年、サーバーテープの交換を黒服に任せられるようになったから、結構楽になったよねー。始めたての頃は、もう。オマケに、親父が一太郎派だったから、昔の書類データの互換性がさー。ま、一太郎ちゃん頭良いんだけどね。やっぱ漢字変換は一太郎ちゃんよねー」
「一太郎…?」
「未だ未だファンの多いワープロソフトの名前ですよー」
「…そういうの、覚えた方が良い?仕事」
「部署に寄るねー。パソコン苦手な社員のが多いから、気にせんでいいと思うけどもー」
おし、と言って、岐顕は、机の上の紙を手にして移動した。
「パソコン設定用のチェックシートを印刷して、と。五十枚くらいだから…印刷機にすっか」
「そう言えば、此の部屋、コピー機二台有るね?」
「いや、黒がコピー機で、白が印刷機ですよーん。黒の方には交換用トナーの箱が置いてあるでしょ?印刷機はインクだから」
「ん?」
「…コピー機と印刷機の違い、御存知ない?」
「…別の物なの?」
「…オッケー。今から、製版作るところから見せちゃーう。んー、まぁ、コスト的な話でね、大量に刷るなら印刷機の方が安いのよ。うち、ほら、議案書の印刷、二百部とかしてたからー。医療法人社団と、医療法人財団と、学校法人社団と、学校法人財団の議案書、各五十部ずつ。家に印刷機が有った方がコスト的に助かるんですよー」
「いや、凄いよね、其れ…。大変だぁ…」
「今は百部になったし、印刷だけなら黒服に任せられちゃうから、結構楽よー。正直さんのとこなんて、自治会の議案書も作ってるからー。あれなんて、世帯数だから、百戸分以上?」
「うち、自治会入ってなかったから、そういうの知らないなー」
「…あー、病院で回覧板見られればいいしね、結局。坂元本家はゴミ収集が鹿児島市依頼だったし、共有ゴミ捨て場の清掃とかが有る訳じゃないもんね。瀬原集落は、海青さんちが市からの委託でゴミ収集してくれてるけど」
此の狭い集落内で自治会に入っていないというのが、坂元本家の孤立感を可視化させていた気もするが、曽祖父が入らなかったので、惰性で、父も加入せずに亡くなり、治一も未だに入っていない。
印刷機が動いている間、治一は、帰りに焼け跡見て来たよ、と呟いた。
働き者の親友は、ゴーストの接続状況を見ながら、そっか、と呟いた。
病院から、実方本家の黒服の運転する車で帰る途中、寄ってもらったのだが、明るい中で、焦げ臭い焼け跡を見ると、かなり胸に迫るものが有り、結局、治一は泣いてしまった。
だが、同時に、何故か、清々してもいた。
大事な物は、ほぼ実方本家に移し済みだった事と、写真等は元々少ない家で、実方本家で岐顕のアルバムを見れば、自分の写真も有るな、くらいの状態だった事が幸いし、本当に、治一の中では、持ち物の損害は最小限だった。
―火事の事後処理を、宋さんに任せちゃってるのは申し訳ないけど有難いな。
そうだ、あれも焼けたんだ、と、治一は思った。
家族の司法解剖の請求書である。
家族の名前の横に『屍』と書かれていて、見るのが辛く、捨てるにも、如何して良いか分からず、戸棚の奥に押し込めていた紙。
家族の死は、怖い。
だから、意識的に目を背けた紙毎、屋敷が焼けてしまった今、あの紙の処遇に、今後は思いを馳せなくていい事だけは、一つ、救いだ、と治一は思った。
―寿命か。
初めて、早佐を怒らせてしまった。
珍しく泣いて、十分くらい、口を利いてくれなかった。
―こういうのも、自己犠牲って思われて、悲しまれちゃうのかな。そういう心算じゃなかったけど。
治一にも、何故、寿命を少し分け与えられたのかは、分からない。
ただ、思ったのだ。
体が邪魔だ、と。
此れから起こる事による、相手の傷を、肩代わりしたい、と。
だから出来たのだろうと思うが、其れ以上の事は分からない。
ただ、ほんの少し、だ。
与えてあげられた量が、とても少ない事だけは分かる。
多くても数ヶ月だろう。
辰顕から朝、早佐の妊娠の可能性を指摘されて、思ったのだ。
相手の寿命の時計の針を、自分が進めてしまった可能性が有る事に。
そうだとすると、相手の残り時間は、十月十日以下だ。
そして、早佐が妊娠したか如何かは兎も角、出産後、直ぐ死なせない為には、せめて、相手の手に、産んだ子を抱かせてやる為には、此れしか方法が無い。
自分の寿命を渡すしか。
―何で、そんな事、知ってるんだっけ。相手の残り時間なんて。
ただ、一つ言える事は。
相手と一緒に居られる時間が、とても短い、という事だ。
此の場所からの出奔が成功しても、しなくても。
相手も、そして、恐らく、自分の寿命も、長久ではない。
―何で、そんな事、思うんだっけ。
そう、だから、家が焼けてしまったのに、其の事ばかりが気にならないのだ。
自分と相手の残り時間が、頭にチラつく。
―じゃあ、最後の場所は、やっぱり、瀬原集落じゃないよな。
此処を出よう、という事だけは決定している。
そして、心が、とても落ち着いている。
寿命が長くない事を受け入れる事さえ出来たら、他の事が怖くないのだ。
どうせ死ぬのだから、出来る限りの、そして、好きな事を遣らねば、と。
―如何して、自分と相手の寿命を、受け入れられるのかは、分からないけど。
其れは、一つは、きっと、青い場所に、早佐と行ってしまったからだ、と治一は思う。
あの場所で会えたら、きっと、もう一度会えるのだ、と。
そんな気がする。
だが、却って、体があるうちに出来る事を、と、強く思うようになった。
『人間』でいられる時間は、其れ程長くないのだろう、と。
そして、きっと、もう一つは、寿命を与えた時、早佐の一部分を、如何やら、少し貰ったらしい、という事が要因だと思う。
別段、其れで、相手の何かが分かる様になった、という程、多く交換し合ってはいないのだが、今朝、気付いたのだ。
自身の漆黒の瞳が、分かるか分からないか、くらいの感じだが、僅かに、縁の黒い、赤茶色に変じている事を。
鏡を見れば、相手から貰った、ほんの僅かな部分が、垣間見える。
其れで何故か、心の一部分が分厚くなった気がするのだ。
何時でも一緒だ、と。
―其れでも未だ、あいつが、何か仕出かして、俺から離れていこうとする気はするんだけどな。
真名を明かすより、寿命を渡す方が平気だというのは、自分でも不思議だが、治一は、寿命を相手に渡した事を、全く後悔していない。
相手を、傷付けてしまったかもしれないが。
「…うーわー。目が潰れそう。内側から発光してるみたいに似合ってるね…」
「…大袈裟じゃない?」
「いや、初めて見た、其の銀灰色の羽織袴。バケモンみたいに似合ってる」
「褒め言葉として妥当かな?其れは…。でも、有難う。曽祖父ちゃんが作ってくれてたんだけど、目立つから着てなくてさー。家が焼ける前に、此の家に良い着物は移しちゃってたから、皮肉な話だけど、良い着物しか残ってないんだよね…。でも、吹っ切れた。目立ってもいいから、岐が似合うって言ってくれるのを着るよ」
「…いや、吹っ切れるベクトルが色気だとは思わんかった…」
「え?何?」
そういうのって自覚無いもんかもね、と言って、苦笑いしながら、白装束姿の従者は、羽織の襟を直してくれた。
「さて、瀬原本家に行きますか、主」
※散り瓦 台無し、滅茶苦茶、木端微塵、散々、という意味の南九州方言。屋根から落ちてきた瓦が散り散りに割れる様から。ちんぐゎら、とも。




