罪
駆け込んだ病院の個室のベッドの上では、治が、実に安らかな顔をして眠っていて、早佐は、心臓を掴み潰されたかと思った。
そっと近寄って、治が呼吸をしているか、確かめた。
辰顕が、賢顕が、顕太郎が、奏顕が、伊羽子が、岐顕が、一人で、向子よりも早く、走って個室に辿り着いた早佐に対して、驚きの目線を向けているのにも、早佐は意識が向かなかった。
―大事にしたいもの程、こんな目に遭わせてしまう。御花が捨てられた様に。
此の儘、相手が目を覚まさなかったら、本当に死のう、と思いながら、早佐は、涙も出ない気持ちで、治の顔を見詰めた。
―如何したら、苦しみを取り除いてあげられるの?あんなに体の強い人が、気を失ってしまう程の思いをしているのに、如何して、何も出来ないの?
相手の苦しみだけ吸い取って、自分のものにしてしまいたい。
そうして相手に、喜びだけを与えられるのなら、自分は、消えてしまっても構わない。
―惨めだわ。与えたいのに、与えるものは持たず、役にも立てなくて。
座ったら、という伊羽子の、躊躇いがちな声が、早佐の耳を擦り抜けていく。
―また、分離していく。そうだわ、此の人が居ないなら、私、地に縫い留めてくれている存在も無くなってしまうのだったわ。
体が罅割れそうな程、辛い。
顔が、体の表面が、本当に痛み始めた。
そろそろ、立っていられない。
―ああ、何も出来ない体で、此の人を失ってまで、此の体に留まっているのは茶番ね。
目を覚まして、と念じると、本当に相手が目を覚ましたので、早佐は目を見張った。
「…早佐」
―此の声だわ。
此の声しか聞きたくない。
此の存在しか、自分を留めない。
目から自然に零れる涙が、治の頬に落ちた。
相手が微笑んだ。
早佐は、ボロボロと泣きながら、治に縋り付いた。
「ごめんなさい、私のせいで、御家が…」
黒い着流し姿の相手は、ベッドに上に半身を起こして、早佐を抱き締めてくれながら、ん?と言った。
「おいおい、自分で火付けを行ったんじゃないなら、簡単に謝るな。頭を下げ慣れると、謝罪の価値が下がるぞ」
御前が火を付けたんじゃないだろ、と言う相手の顔を、相手に抱かれながらも、まじまじと見詰めながら、そうですけど、と早佐は言った。
―意外。帝王学の様なものが、此の人にも有るのね。流石、本家当主。其れを主張する事は殆ど無いけれど、気高くて、自尊心の高い人なのだわ。…ああ、優しい筈なのに、照れ屋で、時々ぶっきら棒なのは、プライドのせい?
何笑ってんだよ、と、珍しく、クスクス笑いながら言ってくる相手に、早佐は、泣きながら微笑み返した。
「此方の台詞ですよ。御実家が全焼されたのに、何を笑っていらっしゃるの?何方かに、八つ当たりなさらないの?家が焼けてしまったのは、御前のせいだ、と」
「…いや、何か、美人のテレオペ?に、丁寧に『死ね』『死ね』って言われる夢を見た気がするんだよ。あんまり覚えて無いんだけど。そんで、何か、…どーでも良くなった。俺のせいで家が焼けたんじゃねーし、って」
「…気絶した時、頭でも打たれました?」
―テレオペ、って、何かしら…。
「おいおい、そんなハッキリ、頭おかしいって言うなよ」
頭は打ってないって、と言って、治は、珍しく、早佐を抱き締めながら、ケラケラ笑った。
「確かに、変な夢だったけど。…何か、ポテトとナゲットをくれなかったんだっけ…?其のテレオペ。ハンバーガーだけ、っつって」
腕組みしながら此方を見ていたらしい、着流し姿の岐顕が、小声で、其れはテレオペじゃなくてマックのドライブスルーのお姉さんじゃないの?と言った。
「あ、岐」
親友の姿に気付いた治は、真っ赤になって早佐から離れたが、遅かった。
早佐も、涙を拭きながら、真っ赤になった。
辰顕も賢顕も、顕太郎も、伊羽子も向子も、あの奏顕すらも、真っ赤になって俯いている。
―しまった。皆様、いらしたのだわ。
んもー、と岐顕が言った。
「めっちゃ心配したのにー。病院に運んだのも、俺なのにー。…でも、起きて良かった」
岐顕が、ボロボロと泣きながら、じゃあねー、と言った。
「退散するもーん。帰って、龍と寝るー。彦じぃに見てもらってるから。詳しい話は、明日しよー。黒服に迎えに来させるから、泊っておけばー」
「え?早佐は?」
治の言葉に、俺には見えない、と岐顕は言った。
「目に見えない、血の繋がらない、非実在の義妹が居るみたいー。って、そんなん居る訳無いよー。此の時間に、長の館から、そんな子が外出する筈無いもーん。見えないから、此処に一晩、治と一緒に居ても、俺は知らないしー。仮に居るんだとしたら、喘息の発作とかで、偶然、別室に来院したんじゃなーい?」
気の回し方が怖い、と言う治に、御休みー、と言って、岐顕は、本当に病室を出て行った。
そして、他の人間も、顔を赤らめながら、ゾロゾロと、病室を出て行ってしまった。
治が、真っ赤になりながら、嘘、と言った。
顕太郎が、去り際に、振り返りもせず、御邪魔しましたー、と言った。
此処、兄ちゃんちだけど、と言う治の言葉は無視されて、個室の照明は、奏顕の手によって間接照明だけにされ、扉は、賢顕の手によって、パタリと閉められた。
「…あの、素敵な御屋敷が焼けてしまって、私、…嫌だわ。本気で、死んだら、あんな地獄に行きたかったのよ。本当よ」
薄暗い、病院の個室のベッドの上で、治に抱き締められながら、そう言う早佐に、そっか、と治は言った。
「…何にせよ、また一つ、無くなっちまったなぁ、俺が瀬原集落に留まる理由が」
そうかもしれませんが、と言って、早佐が、自身の両手で、相手の頬を包むと、相手は、早佐の両手を、自身の両手で掴んでくれた。
黒い着流しは、少し、前が開けていた。
「貴男は、悪くないのに。そんな罪、貴男には…。いえ、誰だって、御自分の家を焼かれる程の悪い事なんて…」
「いや、したんだよ」
「え?」
密通は悪い事だよ、と、囁く、相手の漆黒の瞳に、早佐は、吸い込まれそうになった。
悪い事をしてるんだ、と、更に言われて、早佐は、急に、自分の胸が早鐘を打つのを感じた。
唇が重なった後、珍しく、相手は、早佐の耳を、軽く噛んできた。
黒電話の受話器が当たっていた場所が、清められた様な気分になった早佐は、声を我慢した。
―体が邪魔だわ。
体と言う隔たりが有るから、どんなに重なっても、相手と一つにはなれない。
体が、相手と一つでは無いから、時間が経てば、離れなければならない。
相手の悲しみも吸い取れないし、自分の喜びも植え付けられない。
相手が傷付く事が起きれば、自分の中に相手を隠してしまいたいし、どんな傷も肩代わりしたい。
体が、邪魔だ。
こうして、剥き身で触れあっていても、体が、皮膚が、骨が、血が、互いを交わらせつつ、阻む。
―一つに。なれない。
すると突然、早佐は、体が、水の中に潜っていく様な感覚を覚えた。
―嘘。私、こんなに深く、潜った事など無いわ。
辺りが水色の透明な膜を通して見た景色に思える。
互いの手を取り合った儘、早佐は、治と、深く深く、落ちていく。
コポポ、コポポ、ボー、という音が断続的に聞こえる。
音は次第に、強く、騒がしくなっていく。
―心音だわ。誰のもの?私?貴男?…もう一人?
二人で潜っていた水が、突然、全て青い花になり、足元に、花畑として広がった。
花畑と、空と海とは、境が分からないくらい青く、暖かく、二人を包み、広がっている。
―青い場所に来てしまった。…まさか。
裸身の早佐が目を覚ますと、同じく裸身で、早佐を抱いて眠っていた治の、驚く顔と、目が合った。
「…そんな、嘘だわ、私。如何なっているの…?」
貴男から奪ってしまったの?と言って早佐が泣くと、治は、やった、と囁いて、少しだけ、悪い顔で笑った。
「…寿命を少し、分けられた」
ほんの少しだけど、と言う治に、早佐は、縋り付いて泣いた。
「…私、貴男から、何も取りたくなかったのに」
運命に逆らえた、と言って微笑む治に向かって、何を笑っているのよ、と言って、早佐は泣いたが、治は、微笑んで、早佐を抱いた儘、早佐の頬に口付けし、取り合ってくれなかった。




