嘆願
向子の運転する車に乗って、光太郎から贈られた香炉の入った桐箱を手にして、長の館の自室に戻った早佐は、胸を抉られる光景を目にした。
那智から贈られた花が捨てられていたのだ。
花瓶は割られ、無残にも、水と葉が飛び散っており、花の方は、女中達が、手分けをして、廃棄していた。
―嘘。
暖房で暖かいと、花が開き切ってしまうかもと思い、弱暖房にし、水の中に氷を入れて、大事に飾っていた、あの、愛すべき花々が、早佐の目の前で、透明のゴミ袋に詰められていく。
―今更、あんな人にされた事で、涙など出ないと思っていたのに。
分かっていた事だった。
此の花を、令一が気に入らない花を、其の儘、取っておかせる為には、令一の機嫌を損ねてはいけない事を。
―分かっていたのに。私は、此の御花より、治様を取ったのだわ。
早佐が目にする様に、帰ってくる時間帯を見計らって、誰かに花瓶を割らせたのだろう。
見せしめだ。
当然だろう。
兄の目の前で、治の方を選んだ。
黒服の制止を誤魔化して、治の家に行って、二人きりになった。
相手にしてみれば、早佐は、自身の不在中、此処に閉じ籠って居なければならないのだから。
犬小屋の中の犬は、鎖を千切って脱走してはいけないのだ。
―那智さん。
あの儘では恐らく、那智は、閉じ込められて、時間が止まってしまう。
早佐の様に。
雁字搦めになって、委縮して、きっと、那智の良い所が発揮されない。
そう、きっと、あの、篠も交えて、此処で一緒にケーキを食べた時間は、二度と訪れないのだ。
那智は、良家の本妻として自由を失い、此処に那智を招ける日は、恐らく訪れず、実家の庭も、二度と見せてはもらえない。
―私は、御友達が作れないのね、兄が居る限り。此処に居る限り。…思い知ったわ。治様の事も、本当に、危険に晒している。此処に、帰って来たくなかったのに。ずっと、あの人と一緒に居たかったのに。龍ちゃんと、御義兄様と、其れから…。私にだって、同じ年の御友達が…。でも、其れは、叶わないのだわ。今日も私は、此処で夕餉を頂いて、此処で休むのだわ。
静かに涙する早佐に向かって、向子が、如何したの、と問うてきた。
「御姉様。…大事にしていた御花が、捨てられました」
「どうせ、あいつの仕業よね」
今日も泊まるわ、と言う向子の言葉に、早佐は、目を丸くした。
「…泊まってくださるのですか?此処に」
「ええ、貴女が、こんな気分の時に、一人にしないわ。なるべく此処に泊まれる様にするから。あいつって、紀和さんと、あたしには多少の遠慮が有るのよ。由一が丁重に扱ってたもんだから。あたしの事は、本当に苦手なんでしょうけどね。あたしに挨拶もしないで出て行ったんだから、あたしが挨拶もしないで泊っても構わないでしょうよ。泊る泊まらないは、あいつの不在中は、女主人の、貴女の裁量なんだから」
「父の扱い…そういう理由も有ったのですか」
「なーんか、由一の言い付けは守ったりしてたわよねー、あいつ。さ、御夕飯、此処で一緒に戴きましょ?とは言え、ティラミスで、あたしも、そんなに御腹空いてないけど…」
「ティラミス…。やはり、皆様、何か有ったのでしょうか?」
涙を拭いて、そう問う早佐に、何でも無いのよ、と向子は言った。
「プレゼントっていうのは、相手の事を考えて贈るべきだっていう、良い見本ってだけ。あたしの方が、あいつより絶対プレゼント上手なんだから」
向子は、女中達の片付けが終わると、女中達に、幾つもの畳紙を持って来させた。
「ほーら、理佐の普段着の紬よ。全部、貴女の丈に直したんだから。好きなだけ着ると良いわ。動き易いしね。こういうのに慣れたら、何時か、ワンピースだってプレゼントしちゃうんだから。ね、プレゼント上手でしょ?あいつより。御花みたいに枯れないし。治と結婚して、もっと、もっと移動する様になるんだから。そしたら、御振袖なんて、着ていられなくなるんだから」
畳紙を、一枚一枚開いて、中を見せてくれる向子の優しさに、早佐は噎び泣いた。
泣いちゃいなさい、と、向子は、優しく言って、抱き締めてくれた。
「あいつが、貴女に此処に居てほしいなら、水配りの相手なんか、決めなきゃ良かったのよ。如何いう心算か分からないけど、相手を決めるのも、豪く遅かったしね。さ、着てみない?そして、一緒に、何か食べましょう?別に、決まった献立じゃなくたって、いいじゃない。好きな物を食べましょう?一緒に。食事ってね、楽しく食べるのだって、大事なんだから。あたしと、今は、一緒に居ましょ?…泣くのも忘れる様な目に遭い続けて…」
向子も泣いているのが、早佐には分かった。
泣いて、慰めて、共に泣いて、慰め合う、そんな程度の事が、何故自分は、兄とは出来ないのだろう、と、改めて、早佐は思った。
「早佐様。御電話で御座います」
「え?」
帯を選んで、着付けをして、と、女二人で、夕餉も食べずに、只管楽しんでいた所に、女中が、言い難そうに、そう言ってきた。
「…私に御電話?…そんな事、生まれて此の方…」
「長からの御電話で御座います。あの、…御待たせする訳には参りませんので、申し訳御座いませんが」
「…ええ、分かりました。貴女達が叱られてしまいますからね…」
長と聞いて険しい顔をする向子に、丁寧に一礼して、早佐は、女中に案内されるが儘に、古風な黒電話の在る、女中達の休憩所まで行った。
―初めて入るわ、自分の家なのに…。
電話に出ると、女中は遠慮して出て行き、受話器の向こうから、ワーワーとしか認識出来ない、兄の声がした。
鳴き声を認識した瞬間、切りたい衝動に駆られたが、早佐は一先ず、御機嫌よう御兄様、と言った。
「一方的に捲し立てるのは如何かと存じますわ。御顔も見えないもので、何を仰っているか、聞き取り辛いの。先ずは落ち着いて、御用件を述べられては?」
え、という問い返しの声が聞こえた。
―嫌だわ。耳元で聞きたくない。何だか、空間も繋がってしまった様で、とても気分が悪いわ。
「ですから。私が聞き取り易い様に御話になって。もう一度」
冷たい声の早佐に対して、相手の聞き取り辛い声は、実に嬉しそうだった。
「ですから、聞こえない、と申し上げているのですが」
もう宜しいですわ、と早佐は言った。
対面して話していても話が通じない相手と、電話で話が出来る訳が無かった。
コッココッコと鳴いて捲し立てる鶏との対話を試みている気分になった早佐は、向子さんがいらしていますから切りますね、と、更に冷たく言った。
電話越しに、相手の動揺が伝わってきた。
―本当に嫌なのかもしれないわね…。
「此れで如何だ?聞き取り易くなったか?」
急に、聞き取り易くなった兄の声に対して、心底嫌になった早佐は、溜息をついて、言った。
「全く、何かにつけて取り回しの悪い事。…如何いう心算で、私の水配りの御相手の発表が、あんなに遅れたのよ…」
「ああ、藍児の娘の那智とやらを、岐顕の再婚相手に考えていたからだ。岐顕が再婚に全く納得せず、実方本家から、岐顕の再婚自体を断ってきたので、其処から調整したから今月の発表になった。岐顕は、最近まで寝込んでいたらしいからな。那智は、清水本家の後妻に押し付けてやった」
―聞いたら聞いたで、聞かなければ良かったと思うのは、毎度、不思議ね…。よく、そんな、勝手な事を言えるものだわ。妻を縊り殺しておいて、其の夫に再婚を勧める神経は、考えるまでも無く異常だわ。
「そう。御用が無い様なら切るわ。耳が腐ってきたみたい」
「いや、言いたい事は有る。埃っぽい所と花粉には気を付けろ。其れだけ言いたかった。縫い包みなど御法度だからな」
「…御丁寧に燃していたものね」
―今回も、そんな理由を付けて、花を捨てた事を正当化するのでしょうね。
「埃っぽい所とは?」
「古い家だ。御前の事を心配して言うのだぞ、俺は、御前の為を思って。俺は」
御前を愛している、という言葉を、途中までしか聞かずに、早佐は、では御休みなさい、と言って受話器を置いた。
―心配?コントロールの際たるものよ、『御前の為を思って』は。私に贈られた縫い包みを燃して良い理由にはならないでしょう?贈られる前に、保親さんに、縫い包みを御断りする旨を伝えておけば良かったのに、どうせ好い顔をして受け取って、態々燃していたのでしょう?
早佐が自室に戻ると、携帯電話を握りしめた向子が泣いていたので、早佐はギョッとした。
「御姉様?」
「さ、坂元本家が、火事ですって。そ、そんな。了兄ちゃん達の御家が…。治が、気絶しちゃって、今、岐が、病院に運び込んだって」
『俺は、御前の為を思って』
―まさか。
燃したの?と思うと、早佐は、夢中で、玄関から、向子の制止も聞かずに飛び出した。
街灯が有っても尚暗い、夜の本通りを、初めて走っている。しかも一人で。しかし、恐怖も寒さも、何も感じない。
如何して、治と自分は、別々の体なのだろうかと、走りながら、早佐は思った。
体が別々だから、離れなければならないのだ。
そうでなければ。
―やはり、死ねば良かった。坂元本家、あの、美しい所で。そうして、御家毎、燃えてしまえば良かった、私、私。
しかし、そう長くは走れなかった。本通りの前に、ザッと黒服の男達が現れ、早佐の進路を塞いだ。
早佐は、車を出しなさい、と叫んだ。
「病院へ連れて行って!」
こんなに大声を出した事も、黒服達と一人で対峙した事も無い。一度も無い。だが、早佐には、そんな事は関係無かった。
「返事をしなさい!」
背後から、早佐ちゃん、という、向子の声がした。
「あたしが、病院に連れて行くから。あたしの車に乗って」
しかし、そう言う向子を制する様に、黒服達が迫ってきた。
向子が、見た事も無い程に憤った顔で、舌打ちをした。
早佐は、分かったわ、と言った。
「初めから、こうすれば良かった。私を殺しなさい」
黒服達が、いや、向子でさえ、早佐の、其の突然の言葉に怯んだ。
「姉様を失って、辛い中で、囲われて、衣食住を与えられて生き恥を晒すくらいなら、目立つ様に逃げ出して、途中で貴方達に掴まって、殺してもらえば良かったのだわ。そして、今、婚約者の見舞いにすら行かせてくれないなら、今、此の場で殺して。此の場で殺して頂戴。私は、二度と死に後れない。あの人より後には死なない。あの人の居ない世界に、一秒だって生き永らえない。誰でも良いから、今、私を殺しなさい」
女の子に此処まで言わせるんじゃないわよ、と向子が吠える様に言った。
黒服は、驚いた様に、散り散りに去った。
御姉様、と早佐が泣きながら言うと、向子は、涙を拭いながら、車に乗って、と言った。
「あたしのポルシェ、格好良いでしょ。口紅と同じ色なの。凄ーく早く、治の所に着くんだからね。黒服の連中が運転する車なんかより、速いんだから」




