運命
本当に焼けてるなぁ、という感想しか、治一は持てなかった。
隠れ里の敷地内では無いので、消防車は来られたし、病院は、延焼する程は近くない。
本当に、ただ、坂元本家だけが燃えている。
―多分全焼だな。
全国ニュースになっちゃうかな、と、ボンヤリ思いながら、治一は、闇夜の中で、赤々と燃える実家を眺めていた。
自分の黒い着流しの端を、オレンジっぽい、火の色が、チロチロ照らしている。
治、と叫ぶ声がするが、振り返る気力が無い。
後ろから抱き締められる。
岐、と、呟いて、漸く、号泣している親友の顔の方を見る。
花緑青色の着流しが、オレンジっぽい火の色に照らされて、白っぽく見える。
「ごめんな、瑛子さんに、見せられなくなって。木材も、あげられなくなっちゃった。好きだって言ってくれたのに」
「治」
「隠れ里内じゃ、火事は御法度で、消防車も入れないけど。此処なら、何とか消火出来る。…解体料は市から出るみたいだよ」
「治」
こんなの嫌だ、と言って、岐顕は泣きじゃくった。
「俺の好きなものが、大事なものが、あいつに一個ずつ取られてく」
「放火だって決め付けちゃ駄目だよ、岐」
「そんな訳無い、親父が、犯人、見付けてくれる!…あいつ以外に、俺には考えられない!」
「そう。…犯人が出て来たら放火で、…出て来なかったら、そういう事なんだろうな」
性格上、ガスの元栓は確実に締めた。あとは、ブレーカーすら上げていないから、他の火元は思い付かない。証拠が無かったら長が犯人、という事なのだろう。
「治。嫌だ!ちゃんと泣いてよ!怒ってよ!此れは、『酷い事』だよ!酷い事が起きてるんだ!」
こんなの嫌だよ、と、背後で、湿った声がする。
違うよ、と言って、治一は背後から抱き締めて来る親友の手に、自分の手を重ねた。
「挑戦状なんだよ」
「…治?」
「此処までされても、未だ諦めないか?未だ此処を出て行くのか、って。誰かからの」
そう、長からの挑戦状とは限らない。
『御前は本当に決めた事を完遂するのか?』という、挑戦状なのだ。
其れが、何の存在からなのか、何の事象からなのかは分からないが。
腹は括ったよ、と治一が呟くと、岐顕は更に泣いた。
「俺、傍に居るから。傍に居るから。治、居なくなったら、嫌だ、治。…こんなの、嫌だ」
助けて御母さん、という、今まで親友の口から聞いた事が無い言葉を、叫びを、治一は聞いた。
初めまして、という、世にも優しい声を聞いた治一は、声の主に、初めまして、と返した。
気付けば自身は白装束で、相手も、美しい白い衣を着ていた。
治一と向かい合って座っている、内側から発光している様に美しい、其の人物は、肌の美しさが、衣を通しても分かる程に思われた。
長い髪も、美しい瞳も、琥珀や翡翠を削り出して作ったのかと思われる程、透ける様に、明るい色に光っていた。
其の空間自体も、光に包まれていて、光と、其の人物と自分以外、何も存在していない様に思われた。
「玉依姫と申します。依と御呼び頂けて?」
相手は、聞いた事が無い程優しい声で、そう名乗った。
「玉依姫…其れが、名前ですか?」
「いえ、此れは、依り代に与えられる名前でして、私という存在に与えられた名前では御座いませんの。如何か、依、と」
「依り代?」
「偶に生まれるのです、依り代になる女や、依り代を産む女が。そういう役割のみの存在です。役割を果たしたら、消えるか、体の一部を依り代として残して、魂だけ上がります」
「…そんな…酷くないですか?」
「まぁ、誤解なさったかしら?重大な任務ですのよ。私にしか出来ない役割です。生み出したものを、私は、私共は純粋に愛しておりますし、出来る事なら慈しみたい。生み出したものを、育てる、という役割は与えられておりませんが」
やっぱり酷いと思いますけど、と治一が困惑して言うと、相手は、まぁ、と、愛らしい声を出した。
「其れは人間が作った理屈ですので…。次世代を生んで直ぐ死んでしまう生き物も多う御座いますからね。酷い、と決め付けてしまうと、其の生き物の立場も御座いますから…。人間ばかりが特別では御座いませんので。命を生み出す事が何より大事で、生み出す事は私共にしか出来ない素晴らしい事で、生み出したものは全て愛しく、其れが重要ですから…。抑、愛する存在を生み出さなければ、其の存在を愛する事も叶いませんし、私達は、命を、命懸けで生むのです」
命懸けの事に対して酷いと申されますと困ってしまいますね、と、本当に困った様に言う声を聞いて、何か可愛いなと治一は思った。
「いえ、御考えを否定しているわけではないのですが…」
ちょっと俺には分からなかったです、と治一が言うと、相手は、実に優しく微笑んだ。
「人間には分からなくても当然だと思いますわ。そうですね、未だ人間でいらっしゃるのですもの、私と、命の考え方が同じの方が可変しいのかもしれませんわ」
―何処かで見た様な顔なんだけど。誰かな…。
治一は、取り敢えず、相手に微笑み返しながら、ええと、と言った。
「実家が焼けてしまいまして…」
焼けましたねぇ、と、相手は、おっとりと言った。
―あんまり経験した事が無い会話のテンポ…。
実際に会った事が無いのは確実だな、と思いながら、治一は、次の言葉を探した。
「ええと、何で焼けたのかな、と思ってしまって」
「ああ、火を付けられたからですわね。うちの甥が、御免なさい」
「…放火なんですかぁ?」
―甥?
「ああ、まぁ、証拠は出ないでしょうねぇ。ですから、貴男が放火と思えば放火ですし、木が燃えただけ、と思えば、地上の何処でも起きている様な事ですわ」
「…広い。宇宙とか地球的視点で見れば、そりゃ、うちの実家の火事なんて、マッチ棒の火より小さいでしょうけど…」
―木が燃えただけ、って、貴女。
困惑する治一に、相手は、落雷とか御座いますものねぇ、と、おっとり言った。
「放火でなくても、遅かれ早かれ、焼ける予定でしたから。今日焼けてしまったのねぇ、という感じですねぇ。終戦直後も、焼き討ちに遭いそうになっておりましたし…」
「焼き打ち。…如何いう事ですか?あの…御説明頂けますか?流石に『焼ける予定だった』と言われても、納得が難しいので…。何時、そんな予定、決まったんですか?」
「明治四十二年ですわ」
「結構前ですね?!」
「あら、でも、比較的最近では?」
―何と比較して?…ん?此の、思い込みの激しい会話のパターン、覚えが有るな…。テンポは違うけど…。
「宇宙感覚ではそうだと思うんですけど。…人間っていうのは、生まれる前の事って、大昔に感じるもんなんですよぉ」
「そうでしたわね」
相手が、そう言って、優しく笑うので、治一は、続く言葉を探すのに苦労した。
「あっ、うーん…。如何すれば、燃えなかったんでしょうね…。家が焼けると、流石に悲しくて…。如何すれば焼けなかったか、御分かりになりますか?」
「ええ、分かりますわ」
そう言って、相手は嫣然とした。
―…慣れねぇー、此のテンポ。おっとりし過ぎてて、話が進まない。
「…一つ、御教え頂く訳には…」
「まぁ、宜しいですよ。御理解頂けるか否かは分かりませんが…」
「そうですね、何分、未だ人間なので…。何卒、御手柔らかに…」
「貴男が難しい、と感じたら、難しい事ですけれど。簡単だと感じたら、とても単純な事ですから。起きる予定だった事象と、実際起こった事象を、如何様に捉えるかは、御自由になさってくださいませね」
もう難しいんだけど、という言葉を飲み込んで、治一は、優しい笑顔と声の持ち主に対して、はい、と言った。
「瀬原修一が、吉野絹と結婚。清水鞆寿が、吉野周と結婚。以上です」
「え?」
「花嫁が擦り替えられましてねぇ。其れで全ての歯車が狂いました。其処に、芋蔓式に、不幸な偶然と、最善でない選択が重なり、今の様になりました。そのうち、苗の神教も瀬原集落も崩壊します。貴男の家は、其の、崩壊の過程の何処かで焼ける予定が決まってしまいましたから。明治四十二年でズレた歯車を大正の間に食い止められませんでしたからね。焼けない様にする分岐点が、昭和初期に無かった訳では有りませんが、何れも、人間の選択。致し方無い事。貴男が生まれる前に決まっていた事で、貴男のせいでは無いし、貴男が何をしても食い止められなかった事ですから」
御気落としなさらないでね、と言う優しい声に、治一は、はぁ?と言ってしまった。
「は、花嫁の擦り替え?が、もう、よく分からないですけど。…花嫁が違っただけで、こんな結果に?」
「ええ。明治四十二年に、瀬原修一が、坂元本家嫡男となっていれば、抑、教義は守られました。覡の立場の人間が、他人を利用して子孫を求めた事が、抑の崩壊の切っ掛け。覡自身が自分で子孫を儲ければ、時代の変化に対応する事が出来ました。そして、瀬原修一が、巫に邪心を起こさず、吉野絹と結婚すれば、八人の子と、優秀な跡継ぎが生まれ、瀬原本家は安泰。清水鞆寿が、吉野周と結婚すれば、五人の子供に恵まれ、結核で亡くなる事も無く、清水本家も安泰でした。花嫁の擦り替えさえなければ、何とかなったでしょうが…。そして、死ななかった清水鞆寿と、出奔しなかった坂本静吉の活躍で、瀬原集落は、戦時中も、軍と縁を結ぶ事は無く、今も宗教的教義は残されつつも、隠れ里は緩やかに解体され、今は、携帯電話の電波や、インターネット回線くらいは繋がっていた筈です。結果、そうはならず、神々は、上がる事を決めました。我々は、忘れられた神となり、此処では無い次元、宇宙の事象に還ります」
さようなら、と言って、優しい声の持ち主は微笑んだ。
「でも貴男、上がったら、また御会い出来ます事よ。何億年も、何十億年も、皆で仲良く致しましょうね。其れでも万古不磨、永々無窮、というわけにはいかないかも分かりませんが、此の宇宙が消えてしまうまでは、懇意にしてくださいませね。同じ魂の集まりの仲間ですもの」
は、と言って、治一は、口をパクパクとさせた。
「んぇえぇ?え、えっと。一回、整理させてください。昭和初期の分岐点って、何だったか、御聞かせ願えませんかぁ?」
「清水藤寿が、実方初と結婚。坂本栄五が実方仲と結婚。以上です」
「…そ、れだけ?ですか?」
はい、と言って、美しい笑みが、再び治一に向けられた。
「貴男は生まれなくなってしまいますけど…。御家は焼けませんでした」
「…俺の実家が焼けたのは…うちの曽祖父ちゃんが、うちの曾祖母ちゃんと結婚したから、って?」
「ええ。既に出来ている周囲の状況に逆らえなかった、というのは有るでしょうが。木の花の咲き綻ぶ様な美しい姉を選び、自身も美しく賢く、栄華を極めますが、弥栄に、磐の様に長い寿命を持つ子孫を得る事は叶いませんでした。妹の方と結婚した清水本家は五人の子を授かりましたが、そろそろ男児が生まれなくなり、本家の男系は絶えます。緩やかに滅びの方向に畳んでいくには、幸福な方法と言えたかも分かりません。坂本栄五という人は、想い人と一緒になれ、生き死にを共にしたのですから」
「清水藤寿が、実方初と結婚。坂本栄五が実方仲と結婚する。其れだけで、俺の実家は焼けなかった…」
「ええ。どの御宅にも、男女合わせて五人ずつ御子さんが生まれて、跡取りも出来、安泰。抑、瀬原永一も、瀬原由一も、瀬原令一も生まれません。理佐という子は新宿のコインロッカーに入れられてはいましたが、違う方に発見される予定でしたし、鏡花という子も、依り代として選ばれず、今頃二人共、他所で、普通の生活を送っていた事でしょう。美しいから見初められてしまったのですね、瀬原集落に閉じ込められてしまって。其処は気の毒でした」
「…鏡花?…誰?でしたっけ…」
『先週、鏡花が来たばっかりだもんな…。まぁ、扱いにくい奴ですよ、令一ってのは。六歳だが、治より聞き訳が無い』
『此の前来た赤ちゃんの事?』
『そうじゃない?』
「え?依り代…?其れって。…御産の後、直ぐ、死んじゃうんですか?、其の、鏡花って人は」
「…ちょっと、其の言い方は、私には難しいのですが…。役割を果たしたら、消えます。寿命ですね。依り代として、体の一部は残るかも分かりませんが」
「いやいやいや、待ってくださいよ。既に俺には全部難しいんですってば、如何にかなりません?其れ」
「でも、貴男にも、定められた事に逆らった部分が有りますから…」
「…俺?」
「依り代の役割しかない女に、勝手に惚れ込んでしまったのですもの。私共、なれるのは、精々、恋人の役までですのに。妻役にも、母親役にもなれませんのよ。そういう役割が与えられていない女に、貴男が勝手に惚れ込んでしまったのですわ。長生きしてくれと申されましても…そういう仕組みになっていないもので…。申し訳御座いませんが、現在の仕様では御対応致しかねます」
「いや、何、困った顔してんですか。カスタマーセンターのテレオペみたいな事言わないでくださいよ。如何いう事なんです?」
―何屋さんなんだよ。…ん?此の会話のパターンも、覚えが有るな…。テンポは違うけど…。誰かと風味が似た会話、というか…。
「貴男、川を堰き止めたり、雷を操ったり、剣になったりしておりましたけれど。勝手に、戦前に、溶岩の御嬢さん、山の神の末席の姫君が宿る予定の方に懸想してしまったのです。水と火の恋ですわ。御安心なさって、上がったら、打ち消し合って、陸地を作り合って、何億年も、何十億年も、愛し合えますからね。宇宙が消えて、一つの無に戻る時には、一緒に無に還れますよ」
冗談じゃないですよ、と治一は言った。
「…死んだ後、何十億年も愛し合えるからって、生きてる時に、体のあるうちに愛し合えなかったら、意味が無いでしょう?」
はぁー、と、愛らしい声で、相手は言った。
「でも、此度の事は、単なる御褒美ですからねぇ。純粋に楽しまれては如何ですか?生き物ですし、気に入った雌を使って増えるのも宜しいかと…」
「御褒美?」
本当にテレフォンオペレーターみたいな事を言い出したな、と思い、治一は困惑した。
―誰がクレーマーだ。いや、其処じゃない。
ええ、と、相手は優しく言った。
「上がる前の御褒美です。加奈陀人の美人の女の子が御好きらしかったので、洋風の顔の女性を探すのにも、多少苦労は有ったと思いますよ?ですが、願いは聞き届けられました」
笑顔で、良かったですね、と言う相手に、治一は更に困惑した。
「カナダ人の美人の女の子…?…はぁー?」
「ダイアナ・バリーですよ。流石に本物は用意出来ませんからねぇ。後は…グロリア・スワンソンとかコリーン・ムーアとか?今も、古い映画が御好きですってね。女優は兎も角、架空の人物を気に入るというのも、人間ならではで、好ましいですねぇ」
「…ダイアナって誰っスかー?」
「月子ちゃんです。まぁ、御忘れですか?でも、そういうものですよ、生き物ですからね。次の月になったら違う女の子を好きになったりするものです」
「うっ。何か、今の刺さりましたね。いや、今は、そんな事は良いんです。願いって何です?何が聞き届けられたんですって?」
少々御待ちくださいね、と、本当にテレオペの様な事を言い出した相手は、上空を指差した。
白く光る世界の上空に、何やら、数人の若者達が、何処かで見た様な、病室のベッドの様な所に腰掛けて談笑している映像が見え、中でも、一際明るい声で喋っている、若者の姿が、クローズアップされ、更に大きく映し出された。
『おいおい、でも、そういう話なら、俺、美人と大恋愛してみたい。凄い美人と駆け落ちするくらいのやつ。今生じゃ、そんな予定すらないけど。其の代わり、凄い美人じゃないと嫌だぞ』
「…此の…黒っぽい浴衣を着た、内輪受けを狙って笑いを取ろうとしてる、地元の調子乗った二十歳くらいのアンチャンって…。若しかして、俺ですか?」
ええ、と言って、相手は微笑んだ。
「美人でしょう?願いは聞き届けられました」
「え、いや、此の、頭悪そうな事言って、笑いを取ろうとしてるアンチャンって…俺ですか?」
「口元の黒子以外は、よく似ておいでですねぇ。既に七、八割は貴男、という感じの見た目ですわ。でも、そんなに卑下なさる事はないですよ。貴男の経験してきた十八年近い経験を積んでいない人物なのですからね。貴男から見たら、十八年分足りなくて、頭が悪そうに見えるかもしれませんが。弟思いで、素敵な方でしたよ。だからこそ御褒美も貰えたのですし」
俺のアホー、と言って、治一は突っ伏した。
「えー?駆け落ちだけ叶ったんですか?後は?末永く幸せに、とか、畳の上で死ねるとか、オプションはつかないんですか?」
突っ伏した儘、ハンバーガーにポテトもナゲットもつかないんですか、と治一が言うと、優しい声が、まぁ、というのが聞こえた。
「…よく分からないですが、ポテトとナゲットが食べたいなら、ハンバーガーと一緒に御注文頂くのが筋では?頼んだところでオーダーが通ったか否かは分かりませんが。でも、あれが、当時の貴男の一番の本音だったのです。結構女好きでいらしたのですよ。御若いですわね。此れは、貴男が願い、決めてから今生に生まれてきた課題であり、御褒美です。でも、まさか、逃げずに挑戦なさるとはねぇ。そんな苦労をなさらなくても上がれるというのに。御立派ですわ。純度の高い魂が、もっと研磨され、見事な切れ味の剣となる事でしょう。どうぞ駆け落ちなさってください」
「…頭悪ぅ、俺ぇ」
泣きそう、と治一が言うと、順調ですねぇ、と、嬉しそうな声がした。
顔を上げた治一が、順調って?と聞くと、美しい微笑みで、相手は、勤勉でいらっしゃる事、と、何処かで聞いた様な事を言った。
上空の映像は、何時の間にか消えていた。
「今回は、『頑張れ』と『良かったな』で、済まさないのですねぇ」
「え?」
「不遇な状態の相手を見ても、『頑張れ』で済まさないのですねぇ」
「…は?当たり前でしょ?不遇な儘にさせたくないから、実るか分かんない努力をしてるってのに」
「自分と違う相手の事を、相手が好きでも、『良かったな』で済まさないのですねぇ」
遂に、治一は、良くない、と言って、突っ伏して、泣いてしまった。
「相手の気持ちが分からない。何を手放しても、一番にしてもらえる気がしない。俺の気持ちも伝わらない。何時か要らないって言われそうな気がする。…もう、引き返せないのに。死んだ後、何十億年愛し合えても、生きてる時に、体のあるうちに好きになってもらえないんじゃ、納得出来ない。『良かったな』で済ませられる訳無い」
あらあら、と、優しい声が言った。
「眩しい程に人間的で、愛しい方。そうですね、肉体があるうちは仕方が有りませんわ。相手が、どんなに貴男を想っていても、伝わらない」
治一は、え?と言って、顔を上げた。
「相手が?」
「ええ。想いを伝え合うのには肉体は邪魔ですものね。上がれば万事解決です」
「…済みません、要約すると先刻から『死ね』『死ね』って言ってません?上がる、って、そういう事ですよね?」
あらー、と、おっとりした声が言う。
やはり、治一は、此の会話のテンポに慣れない。
「上がる事が魂の目標ですから、そう取られても構いませんが。貴男、他の解決手順としては、良い方法が有りますよ。良い御家に生まれて、良かった事」
「え?」
「相手に真名を御伝えすれば宜しいの。そういう意味では、未だ求婚なさっていないのと同義だわ。真名の交換をなさいな。そうすれば、御互いの一部分を相手に委ねられて、強い絆が得られる事でしょう」
―交換?
「…嫌ですよ。何で、あんな女に、自分の本質を明け渡さなきゃなんないんですか。自分の一部分を委ねるなんて…。何で…。あんな、我が儘で、性格の悪い…。くっそー…。其れじゃ、俺が、あいつにベタ惚れみたいじゃないですか!」
「え?」
絶対嫌です、と言って真っ赤になる治一に、相手は、慈しみ深い声で、泣き止んでくださって良かった事、と言った。
「では、人間の言葉で話しましょうか」
今までのは何だったんですか、と言う治一に向かって、柔らかな笑みを向けてくれながら、相手は、定めの話を致します、と言った。
「運命の相手など居りません」
治一は、うっ、と言った。
「…俺が勝手に、依り代の女を、戦前に見初めたんでしたっけ?…其れは、運命にカウントしてもらえないんでしょうか…」
「そういう御話とも、少し違うのですが。其れも、人間が生み出した観念なのです。運命の相手など存在しないし、袖振り合うも他生の縁とか申します通り、出会う人全てが運命の相手とも言えます。何億人も居る人間全部と、一生のうちに出会う事は不可能ですからね。そして、自分が運命の相手だと思えば、其れは運命の相手になる。そういう『観念』の話です」
今、御決めになったら?と、優しい声が言った。
「御自身の運命の相手を、御決めになったら?」
「…決めたら、そうなる、っていうのが、ピンと来ないんですけど」
見立てって御存知ないかしら?と、愛らしい声が言った。
「名前を付ける事で、概念を高度に抽象化するのです」
難しいかしら、と言って、相手は話題を変えた。
「定めの御話に戻りますわね。外国の言葉を御借りしましょう。変えられないのが宿命。変えられるのが運命です」
「宿命と運命?」
「ええ、親を選べないとか、そういう、自分では変えられない、予め決まって生まれてきたものを、宿命と言います。対して、自身の努力で変えられるものは、運命と言います。だから、『運命』の相手は、御自身で決めて宜しいのよ。難しいかしら?では、御好きな時に御決めになってね。変更も可能ですから。人間とは、間違うものなのですもの」
―…クーリングオフ制度適用可能、みたいな言い方してくるなぁ。何屋さんなんだ?
「運命は、変えられる?」
「ええ、人生の設計図の様なものですの。偶然性や人間の意思によって変えられるのです。何と、偶然性による変化が許されているとは、美しくも、愛しい事ですね。体が無ければ味わえない事です」
本来は、と、優しい声は言った。
「瀬原、いえ、坂本修一は、吉野絹を娶り、清水鞆寿は、吉野周を娶りました。坂本静吉は坂元分家当主となり、坂本ヨシを娶りました。二人は三人の子に恵まれ、長男の紘一は、伯父の修一の長男、自身の従兄の補佐になりました。彼等は幼馴染で育ち、仲も良く、坂元家は集落内での立場が悪くなる事も無く、集落には、賢く美しい人間が増えました。細々と、幸福の内に、瀬原集落は、時代に合わせて解体され、しかし、信仰も忘れられず、人々は、長く、我々と共に在る筈でした。しかし、そうはなりませんでした。人々は、自分の意志で、喜怒哀楽で行動を起こし、人を愛し、妬み、増えました。愛しい事ですが、巫を追い遣った責めは負わなければならない。運命という定めは、集落の滅びの方向に変更されました。歯車が狂ったからです。もう止まりません。幕引きをする人間を、依り代の女達が産んでくれるでしょう。貴男も、其の一助となるのかもしれませんが、得手勝手に増えなさい。生き物ですから。偶然性による変化が許されているのです。貴男の行動如何によって、誰かの寿命も変わるかもしれないし、貴男の運命も変わるのかもしれない」
―紘一…?
あの、と治一は言った。
「増えろ、って?」
「ああ、何でも宜しいのですよ。貴男の考えを伝えれば、貴男の思考が、他人の頭の中に伝わって、其れが『増えた』事になる。何かを作るのでも、子を成すのでも、自由です。全部、あの祈りの場所を通じて、青い場所に、『意識』として貯めて頂けますからね。そうして皆、宇宙の図書館の本の一冊にも、青い場所に咲く、美しい青い花の一輪にもなれます」
青い場所に御行きになる?という優しい声に、今度にします、と治一は言った。
「そう?私、貴男の事も、愛おしいですよ。何時も愛し子と仲良くしてくださって有難う。さようなら」
琥珀と翡翠の輝きを纏った、美しい女性は、治一が、病院のベッドの上らしき場所で目を開けると、実体化していた。
―いや、顔立ちは似てないか?
早佐、と小さい声で呼ぶと、此方を覗き込んでいた、赤っぽい紬を着た婚約者の顔から、涙が零れて来て、治一の頬を濡らした。
其の温度に、ああ、生きている、と、治一は思った。




