無力感
コッソリ涙を拭って立ち上がった治一に、御似合いだと思うけど、と岐顕は言った。
「綺麗な子だと思うし。色素薄い系だから、純和風美人、って感じではないけど、ちょっとハーフっぽさ入ってて。九州顔の美人だよね。意外に、博多美人に多い系統の顔。目が大きくて」
偶に九州ってヘーゼルの目の子が居るもんね、と親友は続けた。
「龍もだし。平も、写真見ると完全に、そうだな。南の方って、何か、結構、色素薄い人が居るよね」
治一は、あのさ、と言った。
「…平ちゃんの事、見えるの?」
こんなに長い時間、此の親友と見詰め合った事が有っただろうか、というくらいの、長い沈黙が、二人の間に訪れた。
「今は、見えない」
「…長の顔も?黒く見える?」
「…時々」
そう言って俯く岐顕に、治一は、更に聞いた。
「…俺に隠してる事、無い?」
「ある」
沢山有る、と、痛みを堪えている様な顔で、親友は言った。
其の、『隠してる事』に対する、内容の有痛性が推し量れる程の表情に、結局、何も言えなくなった治一は、そう、とだけ言った。
ねぇ、と、聞き慣れた、親しみの有る声が言った。
「今度さぁ、瑛子ばぁばに、坂元本家、見せてあげてくれない?実家にそっくりなんだって言ってたからさ」
「勿論」
「俺も、あそこ、好きなんだ。欄間が格子になってて珍しいよね。解体しても、ああいうのを建具とかにして、残しておきたいんだよ」
「…そう」
おやすみ、と言って去る背中に、同じく、おやすみ、という言葉しか掛けられない、無力な治一は、黒い着流し姿の儘、絨毯敷きの床に寝転んだ。
―誰の気持ちも分からない。
親友の気持ちも、婚約者の気持ちも。
一緒に居るのに、近くて、遠い。
楽しいのに寂しくて、寄り添っていても、人肌が更に恋しくなる程寒い。
別れ際の、向子の車に乗り込む、早佐の振袖姿を思い出す。
今は、長の館に帰すしかない婚約者の、最後に此方を見てくる瞳と、後ろ姿を。
―また表情が無くなってた。結局、あの、全部諦めた顔をさせたくなくて、此処を出たいのに。
あんな場所に帰したくなくて、此の集落を出る、などと言って、無力ながらに行動し、努力を重ねている心算でも、結局、其れは、未だ、瀬原集落という、大きな鳥籠の中では、何の効力も発揮していないように感じられる。
実家の中二階での事を思い出す。
親友と大立ち回りをしたり、パン屋が何だと、よく分からない商売の展望を聞かされたり、和食の献立の隙間にフレッシュタイプチーズが差し挟まれて、後期高齢者をパニックに陥らせたり、印象的な事しか無かった様に感じられる一日だったが、結局、思い出すのは、早佐と二人で過ごした、あの、中二階での、白梅香の香りがする、静かな時間だった。
―自分の気持ちも分からない。
相手の美貌には、敢えて注視してこなかった。
そんなものは、相手の幼少期から分かり切っていた事で、取り立てて今更、何か言い立てたい程の形容の言葉も、自分は持ち合わせてはいない心算だった。
大体、そんな麗質に引っ掛かったのかと思うと癪に障るから、相手の事を、美人だとも綺麗だとも、美しいとも、意識に上らせたくはなかった。
だが、今となっては、好みでは無い、という言い訳すら立たない関係性になっており、思い出すのは、あの姿、あの顔、あの声、あの香りだった。
死んだ様な顔をして自室に閉じ込められている顔にさえ、本来は惹き付けられるものが有ったのだが、自分の家の自然光の中で、病院の蛍光灯の下で、客観的に見る婚約者の美しさは、認めざるを得ないものが有り、其れが胸を焼く事が、悔しくて、悲しい。
そして、そんな美しいものを、帰したくない場所に帰さなければならない事が、自分を、無力感に苛ませる。
無関心で居られたら楽だった。
見捨ててしまえたら、楽だったのに。
認めたくないが、全部を捨てても、相手が『欲しい』。
帰る場所、眠る場所が同じで、同じものを食べて、つまらない話を、ずっとしていたい。
そして、相手にも、同じ気持ちでいてほしい。
―泣きそう。
親友に何を褒められようと、妬まれようと、無力感は消えない。
―何もかも遅いのに。
結果的に、長に弓引いた事になるのだ。
密通がバレている否かは治一には不明だが、盛装で長の自宅に駆け込み、相手の家の敷地内で、相手が、閉じ込めたいくらい入れあげている人間と唇を重ねているのを見られて、剰え、閉じ込めている場所から連れ出そうとしている。
此処から先は恐らく、瀬原集落に残るも地獄、出るも地獄の命懸けだ。
其れなのに、其処までして得たいのは、単なる、相手との『平穏』だ。
同じ場所で暮らして、同じ場所で寝起きして、ただの、普通の、例えるなら袋麺を食べる様な、つまらない、何でも無い、だが、安心して暮らせる、平穏な、誰も、誰かに首を絞められない生活が欲しい。
生活をするからには、洗濯物などが出て、其れを干すのだ。
干してある場所が生活の場所であり、其処には、『家族』の分の洗濯物が干されているのだ。
一人分では無くて。
そんな、ちっぽけのものが、命懸けで欲しい。
其れを、安心した状態で、相手と一緒に行いたいから、連れ出したい。
―出来るのか?
其処まで出来るのか、と自問する。
本当に、そんな小さなものの為に、全部を捨てられるのか、と。
小さいからこそ大事で、欲しくて、連れて逃げたいのだ、と思う気持ちと、今までのものを捨てる恐れとが鬩ぎ合う。
本当に其れを遣るのか、という自問は止まず、其れが更に、自分を無力なものに思わせる。
―二十一日までは、毎昼、長の館に伺って。教習所に通い始めたら、午後、毎日会いに行って。来年の一月四日は、水配り。…出来る事って、現状、此のくらいなんだよな。免許を取ってすらいないわけで…。
少なくとも、夜更かしは良くなかろうと判断した治一が、布団を敷こうかと思い、立ち上がった時、俄かに、実方本家全体が騒がしくなった。
「治!」
坂元本家が燃えてる、と叫ぶ、泣き顔の親友が、客間に飛び込んできた。
後の事は、記憶が曖昧だ。




