悔恨
治一が、黒い着流し姿で、風呂上がりに髪を乾かし終えてから、実方本家の客間で胡坐を掻いて一息ついていると、グラスを手にした、花緑青色の着流し姿の親友が訪れた。
「…こんばんわー。飲みますぅ?」
「未成年なんで遠慮させて頂きますぅ。てか、飲んでんのなんて始めて見たけど」
いやね、と言って、岐顕がグラスを回すと、カラン、と、大きな氷の鳴る音がした。
「親父が珍しく、飲みながら、夜鍋してティラミス作って、社員に配るって言い出したから、ちょっと付き合ってきた。旨いですよー、『久耀』。種子島酒造株式会社」
「…教えてやろうか。自棄酒って言うんだぜ、其れ」
岐顕は、拗ねた様に、聞こえませーん、と言って、一口、芋焼酎のロックを飲むと、客間の文机の上にグラスを置いて、治一の隣に胡坐を掻いた。
「美味しーい。早く一緒に飲めるようになってよー」
「…百歩譲って、今、未成年飲酒するとしましょうや。でもさ、行き成り勧める酒の度数が可変しいんだわ。二十五度ってよ」
「いや、俺も、そんな強くないから」
「…顔色変わってないですけど?」
「いやー、精々ロックで二杯ですよ」
「二十五度を?ロックで二杯?」
御冗談を、と治一は言ったが、親友は、あまり分かっていない様子で、二杯だよ?と言った。
「賢おじちゃん達とかと一緒だと、一升空けちゃうじゃーん。絶対一緒に飲むの嫌だ」
「…基準を親戚にするの、やめよっか。まぁ、宋さんも、今日は飲みたい気分なわけね…」
夜鍋でティラミス作るとか聞いた事無いもんな、と治一が言うと、治こそ、と岐顕が言った。
「なーんで落ち込んでんのー」
「…落ち込んで…ないけど?」
「そっかなー、明らかに元気無いけどー?デート如何だったのよー」
デートじゃねーし、と治一が言うと、そーお?と岐顕は言った。
「こんな場所だからさー、どーせディズニーとか行けるわけじゃないしー。令一が、あの調子じゃ、天文館にすら出向けないんだから。二人っきりで何処かに行けるんだったら、条件としては、もうデートじゃん」
如何だったのよー、と言う岐顕に、溜息をついてから、治一は言った。
「…案外、恋バナ好きだよね?岐」
「やー、だって、自分に一生関係無い話だと思ってるからさー。超興味本位なのー」
「…一生関係無い事有る?何かさー、俺の事、モテるモテるって言うけど、俺は納得してないよ?岐のが目立つし」
「…や、俺はねー。ホント、縁が無いのよー。趣味のせいで…」
「…趣味?岐って、多趣味ではあると思うけど、恋愛に縁が無くなる様な趣味とか有るの?」
「…古い映画を、ちょっと見るのが好き、みたいな、格好良い事言ってみたかったですよ、俺も。…んだよ、小津安二郎作品について、マニアックでなく、適度に語れる未成年ってよー…。同じ趣味にしても、他人に語れるもんと、そうでないもんが有るだろー?」
ズリーよー、と言って、親友は頭を抱えた。
治一は、そんな事言われても、と、戸惑いながら言った。
「趣味が格好良いとか、狡いとか言われても…。全然ピンと来ないし。…理佐にも、言えない様な事だったの?」
顔を上げた岐顕は、見た事も無い様な驚いた顔をして、言えるわけ無いじゃん、と言った。
「…あの、言ったら…場合によってはフラれるかもなのよ。俺だって、好きな子に格好付けたい時期も有ったし」
「…格好付けてたねー、理佐には…。覚えてるわー」
理佐に対しては、此の親友は、非常に優しいというか、紳士的に振舞っていたのである。
治一は、其れを、良い事だと捉えていたのだが。
「…でも、理佐は、聞きたかったと思うな、岐の事」
―理佐は、岐の事が好きだったんだからさ。ただでさえ、共通の話題が無さそうだったし…。理佐は、岐の事が知りたくて、不安だったんじゃないかなぁ。
モテるとか趣味が格好良いとか、謎の事を言われたところで、理佐は岐顕の方を選んだのであるから、治一にしてみれば、其れは本当に、全く理解出来ない葛藤だった。
―映画の話だって、理佐にした事無いし。早佐なんて、映画を見た事が有るか如何かも分からないし。趣味が恋愛に、如何作用するって?…本当に、古い映画を、ちょっと見る、くらいの感じだから、凄く詳しいって心算も無いし。他に大した趣味も無いから、自分からしたら、俺って、つまんない奴、って思うけど。
「でも、実際、趣味でフラれたのよー、高校の時」
「えっ」
「三ヶ月しかもたんかったわー。ま、高一なんて、そんなもんだろうけど」
「…彼女居たんだー。三ヶ月も…?」
言ってなかったっけ、と言って目を瞬かせる親友に、いやー、と言いながら、治一は目を伏せた。
「…聞いてなくて良かったかもー」
少なくとも、理佐が生きている時に知ったら、絶対複雑な気分になっていたであろうと思ったので、治一は、正直に、そう言ったが、岐顕は、そーお?と言って、芋焼酎を一口飲んだ。
「ま、幼馴染と結婚出来るとは思ってなかったからさー、自棄になって、好き勝手してた時期が有ったんですよ。今じゃ子持ちで、マジで無縁」
―他人の事は言えないけど、いや、言えないからこそ、『好き勝手』とか聞くの、怖ぇー。
「高校の時彼女居た、って、立派に恋バナだと思うけどねぇ。…ま、今となっては、無かった事にした方がいい思い出なのか…」
「そーそー。あ、そだ、今までで一番ナシだった子とかって居る?従、気になっちゃうー」
「…其の一人称の方が気になっちゃうー。あ、一人称と言えば」
「…そんなトピックスで引っ掛かる恋バナ有る?」
「…まー、プリクラ一緒に撮って、みたいな逆ナンだったから、一応恋バナなのかなー。池袋で会った子で、クラスでの渾名が『魔法少女』だって子が居て。『魔法少女』を略したとかで、一人称が『マホ』だったなー。話す時、『マホさー』とか、『マホねー』って言う」
「うっひょ、納涼~…」
岐顕が青褪めた顔をして、そう言ったので、怖いだろ、と治一は言った。
「だから、十一月の台詞じゃねーな、『納涼』ってよ…。んで、何か、ハンネ?も、『魔法少女』だったんだって。話が本当に通じなくて、プリクラ撮る前に逃げた」
ハンネって何だったのかなー、と治一が言うと、岐顕は、黙って、グラスを再び文机に置き、自身の両腕を抱いて、震え始めた。
ほら、と治一は言った。
「盛り上がんないじゃん、こんな話したって…」
「いや、違うのよ。自分には縁が無い事だと思ってるから、こんなイケメンだったら、どんな恋バナ聞けるかな、と思って聞くと、途中からジャンルがホラーになるのよ…」
「…他人の恋バナ、勝手に聞き出しておいて、ジャンルをホラーに分類するの、止めた方が良いと思うなー」
聞かなきゃ良いじゃん、と治一が言うと、其れが、と岐顕は、青褪めた儘、言った。
「…何か、クセになるのよ、治の恋バナ…」
「…教えてやろうか。怖いもの見たさって言うんだぜ、其れ」
治一の指摘に、岐顕は、其れだ、と言った。
其れだ、じゃない、と治一は言った。
「だからー、聞いておいて、他人の話を勝手にホラーに分類しないの」
「…いやー、ハンネはね…。胃が、ギュッてなった。怖ぇ~。…そっかそっか、池袋か。そういう事も、有るのかなー。八十年代からグッズ置いてるらしいしね…」
「グッズ?池袋って、何か有るの?」
「…いえ、普通の街ですよ。…時に治さん、秋葉原という街の事は、如何御考えですかね?」
「え?…ビジネス街かなー。電気街とか、用事が無いから行った事無いし。東京駅とか神田が近いせいか、結構、サラリーマン多いし、食べ物屋も多いよね。とは言え、そんなに詳しくも無いけど。神田の古書街にも行った事無いし、何か、あの周辺に、此れといった印象も知識も無いな」
ほほう、と岐顕は言った。
「…宜しいですよ。此れで、趣味の話の一切が出来ない事が判明しました…」
「…何で敬語なの?秋葉原って、アレでしょ、何か、パソコン関係の用事で行ってたんでしょ?岐」
「ええ、パソコンの部品を買って、自分で組み立てを遣ってた人間なものでね?女の子にモテるとか思わない事ね?着てる服はカルバンクラインでも、心はチェックシャツですよ」
「…あー、あのパーカー、カルバンクラインか。…チェックシャツって?」
「…ネル素材の物ですよ。御同輩には、バンダナを所有していらっしゃる方もいらっしゃるでしょうか…。いや、御同輩の方々に対して、何ら思う所は無いですが、チェック柄にペイズリー柄を合わせられる気持ちが理解出来る深みには到達出来ておりません…。故に、外見から察される事は無いし、ファッション自体は、俺は、あの街から、違う意味で浮いているとは思います。逆に、大勢の中で一人ぼっちとも言えましょうか」
「だから、先刻から、何で敬語なの?パソコンの話って、何か、駄目なの?自分で作れるなんて凄いなって思ってたし、今は其れを仕事に使ってるのに、何か良くないの?あと、ファッションって、何か関係有るの?」
「いや…。何でも無い。うん、そういう風に捉えててくれたんだ…。親友が眩しくて、目が潰れそう…。いや、パソコンだけの話でも無いけど…。ま、親の顔よりパソコンの画面を見る時間が長かった様な人間なんですよ…」
「…急に、滅茶苦茶卑屈になったね?!ど、如何したの?趣味の話って、そんな駄目?」
「…駄目なんだ。秋葉原をビジネス街だと思ってて、趣味が古い映画の鑑賞なんて人間に聞かせられる様なもんじゃ…。あ、理佐に、治の趣味とか言った事無いよね?」
「無い無い。言う機会も無かったし、別に言う気も無かったし」
―其れこそ、女の子にしたって、盛り上がらない話じゃないかなー。
「…良かったー。言ってたら、嫉妬で気が狂ってたかも」
「俺の趣味を奥方に言っただけで?!」
怖いよ、と治一が率直に言うと、ズリーよ、と親友は言った。
「んだよ、小津安二郎作品における洗濯物の意味とか、構図の取り方とかぁ。確かに、洗濯物に着目すると映画の見え方が変わってくるんだよなー、くそー。そういうの言ってみたい人生だったぁ」
「ええ…?いや、言えば良いじゃん?何で、人生単位で諦めてんの…?」
「其れは、練習しないで逆上がり出来る人が、特訓しても逆上がり出来ない人に言う台詞なんですー。言ったじゃーん、マリリン・モンローの映画の区別も付かないってー。あんなキャッチーなハリウッド映画で駄目なのに、邦画の深みが俺に分かるかっての」
んもー、と言って、岐顕は、残りの芋焼酎を呷った。
「そんで?今日のデートは如何だったのよー。なーんで落ち込んでんのよー」
「いや、…落ち着いて。言うから。焼酎を呷らないで…。実は酔ってるの?」
不承不承、治一は、今日の報告をする羽目になった。
其の報告に対する親友の点は辛かった。
「…御茶を客に煎れさせるのはセルフサービスが過ぎるし、初めての来客に御不浄の場所を最初に教えないのは…」
「うん、其れは反省してる…。親が生きてたら説教されたかも」
「だが其れを補って余りある弓…。やっぱズリーな…。格好良いんですけどー」
「…狡いと格好良いに帰結する会話のパターンって、何とかなんないの?」
「いや、でも良かったよ、早佐ちゃんの着衣に乱れが無くてさー。振袖だから、帯も自分では結べないだろうし、一回脱いでたら、如何誤魔化してあげようか、結構悩んだもんねー、車運転しながら」
「気の回し方が怖い…。脱いでたら、って…オブラート品切れですか?此の御店。もう、不動産屋さんなんだかパン屋さんなんだか分かんないけど」
「あ、此の店、夜の部はオブラート置いてないんですよ。酉の刻に三水が付いたら酒、夜の八時以降は酒しか置いておりません」
夜の部って言うなよ、と、治一が呆れながら言うと、だってさー、と岐顕は言った。
「なーんかー、すっごい仲良い感じで帰ってくるから、よっぽどだったのかなーと思ったのに、治は元気ないしー」
「…仲良い感じ?」
「いや、だってさ、御互いの遠慮の無さが、もう、最近仲良くなった感じじゃなかったのよ。夫婦感まで醸し出されてて、見る人によっては、肉体関係を疑ったんじゃないかなーって」
「そんな飛躍する?!病院で、あいつと殆ど会話してないけど?」
「えー?自覚無いのー?大人には礼儀正しい良い子ちゃんの治が珍しく、早佐ちゃんにはツンツンで口悪いし、明らかに照れてるし、普段ニコリともしない早佐ちゃんが、クスクス笑いながら其れを軽く往なしてたし。御互いが、御互い以外には普段しない態度を取ってて、もー、何か、見てて、こっちが照れたよね。治、珍しく口悪いのに、振袖の事気に掛けてあげちゃったりして、やっぱり優しいし。…あー、言ってて口が痒くなってきた」
「…そんなに?」
治一が、今ひとつピンと来ないでいると、で?と岐顕は言った。
「傍目には良い感じの二人に見えるのに、何で、治は元気ないの?」
―…言っても良いのかな。
「早佐のさ」
「うん」
「世界一大事な人って」
「うん」
「…理佐、なんだって」
御喋りな親友と一緒に居て、部屋に沈黙が訪れるのは、やはり怖い。
早佐の理佐への気持ちで、岐顕に、理佐の事を、辛い形で思い出させてしまっていたら、と思うと、治一は、なかなか、岐顕の顔を見る勇気が出なかった。
しかし、勇気を振り絞って、治一が岐顕の顔を見ると、相手は、小首を傾げながら、自身の顎に右手を添えていた。
「…岐?」
「何だ?此の複雑な百合…。其処と三角関係?恋バナで聞いた事無いぞ?姉妹百合?ジャンル何だ?」
「…岐?何?園芸の話?」
「あ…、違うんだ。俺が雑食だから、こういう感想が出ただけで、別に特定のジャンルが好きってわけじゃないんだ。面白ければ何でも読むんだから」
「ざ、雑食?…食べ物の好き嫌いが無いって事…?え、読む?飲むの聞き間違い?」
「…ああ~…。口が滑ったぁ。やっぱ、酔ってるのかもぉ。もう寝るわー」
目を泳がせながら立ち上がった岐顕は、文机からグラスを持ち上げた。
文机に残っている水滴をティッシュで拭く治一の背中に向かって、岐顕が、あのさ、と言った。
「早佐ちゃんの気持ちなんて、分かんないけど。俺には、仲が良い二人に見えるし。…不安な事が有ったら、生きてるうちに、御互い、話せておいた方が良いんじゃないかな」
俺も、趣味の話だって、何時か出来るかもって、高を括ってたんだ、という声に、ふと涙してしまった治一は、顔が上げられなかった。




