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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第五章 悪意
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予兆


 光太郎(こうたろう)が帰ってから、(はや)()が、(たつ)(あき)(のり)(あき)と一緒に医局に戻ると、椅子に座った(みち)(あき)が、沈痛な面持ちで、茶色い粉が掛かった黄色っぽい豆腐の(よう)な、ケーキの(よう)にも見える物を食べていた。


御義兄(おにい)(さま)が食べているのであれば、甘そうだけれど。随分、悲しそう。其れに、(たつ)(さま)に、本当に、よく似ておいでだわ。


 早佐は、先程の、瑠璃(るり)の話が出た時の辰顕の顔を思い出しながら、如何(いかが)なされました、と問い掛けた。


御義兄(おにい)(さま)。甘い物が御好きかと思っておりましたのに。随分渋い御顔で…」


「いや…。うん。美味しいよ?うちの父親御手製のティラミス。作るの早いんだな、って、感心したし、作ってくれた感謝を込めて食べてる」


 丸一日くらい冷蔵庫で冷やすと、もっと(うま)いんだけどね、と言って、岐顕は、感謝という言葉に反して渋い顔の(まま)、隣の椅子に座って、同じく、其れ程明るくない顔で、モソモソと何かを食べている(はる)に向かって、ノルマだよ、と言った。


「御飯前に申し訳ないけど、なるべく消費して。一生の御願い」


「…一生の御願いの使い方、合ってる?確かに、生まれて初めて『一生の御願い』とか言われたけど…。結局、マスカルポーネチーズ、どのくらい貰ったの?」


「…見せたくない」


「…如何(どう)いう事?」


(はる)が観測する事で、大量のマスカルポーネチーズが実在しちゃう気がして…。親友が客観的に観測しなきゃ、俺の勘違いの可能性も有るかなって。…観測するまで、実家にマスカルポーネチーズが存在するか如何(どう)か分かんないって思いたくて…」


「…そんな、シュレディンガーのマスカルポーネチーズみたいな話、有る?観測しないで箱に入れてたら腐るだけだと思うけど…」


 其れは猫の話では、と思って早佐が黙って聞いていると、困惑する(はる)に、義兄は、御願い、と、悲しそうに言った。


「夕飯にも、ツナとマスカルポーネチーズを混ぜたディップ作って出すから。しょっぱい系にするから。クラッカーに乗せて食べて。ノルマだよ。朝はマスカルポーネチーズのフルーツサンド。デザートは只管(ひたすら)ティラミスか、フルーツのティラミスか、カンノーリ」


「ノルマの有る夕飯、嫌なんだけど…。いや、うん、分かった。食べるから…。そんな顔しないで。断りづらー…」


 羽織袴の盛装だというのに、人の()い婚約者は、茶色い粉を(こぼ)さない(よう)に苦戦しながら、丁寧に、『ノルマ』と言われるものを食べている。


 一体全体、何が起きたのだろう、と、早佐が困惑していると、大きなガラス製の、長方形の平皿を持った(むね)(あき)が訪れた。

 平皿の中身は、如何(どう)やら、(みち)(あき)(はる)が食している物らしかった。


「おや、早佐ちゃん。ティラミス食べて行きなさい。夕飯前だけど、此方(こちら)を助けると思って」


 形式的にしか此方(こちら)に敬語を使ってこない、姉の(しゅうと)は、穏やかな笑みで、不穏な事を言った。


「『此方(こちら)を助けると思って』という言われ方で食べ物を勧められた事が無いので、事情を御聞きしても宜しいでしょうか…」


 しかし、其の場に居た全員、スッ、スッと目を泳がせて、誰も返事をしなかった。


 辰顕も賢顕も、医局に戻ってきてから、一言も発さない。


 何か余程の事が起きたのかもしれない、と思った早佐は、小さな声で、頂きます、と言った。


 (むね)(あき)が、誰とも目を合わせない(まま)、有難う、と言った。


「いやー、ははは、美味しいかー(みち)(はる)と一緒だと元気そうだなー、パン屋を作りたいと言うくらい元気になって」


 白々しいくらい明るく、誰とも目を合わせずに、そう言う宋顕に、岐顕も、目を合わせず、おーいしーい、と言った。


「うん、俺、(はる)と居ると、めっちゃ元気だもんね。此れ、めっちゃ美味しー」


 普段より(まばた)きの多い婚約者は、コメントし(づら)いですね、と言いながらも、美味しいです、と言い添えた。


「えっと、…い、家で作れちゃうんだー、ティラミス。…凄いなー、(そう)さん」


 岐顕は、両目を閉じながら、ねー、と言った。


「…家に帰ったら、(ひこ)じぃの作った和食が待ってるよー。野菜の寒天寄せ作ってくれてたんだって…(はる)の好きな、細切りの野菜とハムの寒天寄せ…」


 (はる)も、両目を閉じて言った。


「んー、其れは…。明らかに、途中まで作ってた和食の献立(こんだて)に、ツナとマスカルポーネチーズを混ぜたディップとクラッカーが差し挟まれたんだよな?」


 岐顕は、ギュッと両目を(つぶ)って、聞こえない、と言った。


「美味しい。俺はマスカルポーネチーズが大好き。毎日食べても大丈夫」


 (はる)は、目を開けて、自己暗示?と、気の毒そうに言った。


 聞こえない、と、再び義兄は言った。


「俺は俺を裏切らない。マスカルポーネチーズが好きったら好き。だから大丈夫。こんな事じゃマスカルポーネチーズにトラウマを持たない。俺の為に毎日マスカルポーネチーズを食べて無くしてあげるんだ。マスカルポーネチーズの事も嫌いにならない。ずっと好き」


 俺はトラウマになりそう、という親友の呟きを無視して、岐顕は、両目を開けて、早佐ちゃんも食べよ、と言った。


「美味しいから。期待するから腹が立つんだ。何も期待しないところに良い事が有るから、余計嬉しいんだ。今日はデザートなんか無い、と思ってたところに此れが出て来たら、絶対、喜びが有るんだ。さぁ、此れは美味しいデザートだから、食べて」


 (はる)が、デザートを勧める押しの強さじゃない、と言ったが、岐顕は、再び、美味しいから、と言った。


 結局、早佐は、はい、と言って椅子に座った。




 岐顕と(はる)と早佐が『ノルマ』を食べ終えた頃、トコトコと、龍顕がやって来た。


 早佐は、喜びのあまり、立ち上がって甥を迎えたのだが、残念ながら相手は、(はる)に向かって一直線に歩いて行って、早佐には見向きもしなかった。


「はるちゃ」


 食べ終えて口を拭いていた(はる)は、立ち上がって、おー、と言って、龍顕を抱き上げた。


「そう言えば、今日は御昼寝したかー?(りゅう)。夜は良い子でねんねしようなー。パンちゃんは如何(どう)した?」


 そう言いながら、龍顕に向ける(はる)の笑顔が、見た事も無いくらい優しかったので、早佐は、グッと笑いを堪えた。


―仏頂面になんて、一度もなった事が無い人みたいな、優しい顔。でも、笑ったら、きっと恥ずかしがるわ。我慢しなくては。…笑いを(こら)えるなんて、生まれて初めてかもしれないわ。今までは、楽しい事も、其れ程多くは無かったし、笑いたい時は、好きに笑っていて、相手を(おもんぱか)ったりしなかったもの。


 しかし、早佐の視線に気付いてしまった(はる)は、上等な羽織袴姿なのにも関わらず、龍顕を抱き直しながら、真っ赤になって、何だよ、と言った。


「…御前、最近、表情筋、如何(どう)したんだよ。しょっちゅう笑ってるよな?」


―…其れは、貴男(あなた)の事が好きだからだと思うわ。


 早佐は、笑いを堪えながら、随分懐かれていらっしゃるのですね、と言った。


 (はる)は、更に赤くなって、龍顕を抱いた(まま)(うつむ)いて、蚊の鳴く(よう)な声で、其の(よう)な事実は無い、と言った。


可笑(おか)しい。せめて、(りゅう)ちゃんを離してから(おっしゃ)ったら如何(いかが)かしら。


「私より(りゅう)ちゃんに懐かれていらっしゃる御様子で、複雑な気持ちですわ」


 早佐が、そう言って、堪えきれずにクスクス笑うと、五月蠅(うるさ)いな、と言って、(はる)が、真っ赤な顔をした(まま)、龍顕を寄越してきた。


「また笑ってる。御前が抱けよ、もう」


「ふふふ。喜んで。まぁ、(りゅう)ちゃん、重くなりましたねぇ」


「はやちゃ」


「そう、そうですよ。御喋りが上手ですねぇ」


 (はる)が、振袖を汚すなよ、と言って手拭いを寄越してきたので、片手で受け取りながら、はい、と返事をした早佐が、ふと見ると、医局に居た全員が、(はる)と早佐の方を見て顔を赤らめていた。


如何(どう)なさったのかしら?御義兄(おにい)(さま)も、(たつ)(さま)も、(けん)(さま)も、伊羽子(いわこ)(さま)も。(そう)(さま)も。あら、(ひろ)(よし)(さま)も。(じゅん)様まで。


 ()羽子(わこ)が、明るくなったのは良い事よね、と(つぶや)いて、頬を染めながら(うつむ)いた。


 白衣に(ふち)無し眼鏡姿の純顕(すみあき)が、笑ったの初めて見た、と、同じく、頬を染めて俯きながら言った。


向子(さきこ)さんが来たよー。早佐ちゃん、(おさ)(やかた)まで車で送ってくれるって。お?(みんな)如何(どう)したの?」


 顕太郎が、赤面する人々を、不思議そうに見ながら、医局にやって来た。


「あ、(りゅう)、電池切れか。今日は帰った方が良いなぁ」


「え?」


 早佐が見ると、龍顕は、早佐の腕の中で、スヤスヤと寝息を立てていた。


―可愛い。…帰りたくないわ、やっぱり。此の(まま)、抱いていたいし、(はる)様とも、離れたくない。


 賢顕が、近付いて来て、おー、よしよし、と言って、龍顕を、早佐から抱き取った。


「おじちゃんが、ブーブーに、のんのさせたげよ。愚図(ぐず)らないで寝るもんなー。世界一良い子だなー。こんな良い子、会った事ないでしゅねー」


 赤ちゃん言葉を使う賢顕、という、世にも珍しい事象に対して、早佐は、もう一度笑いを(こら)える羽目になったが、顕太郎が、一瞬、複雑そうな顔をしたのを見逃さなかった。


如何(どう)なさったのかしら。でも、御自身にも御孫さんが御有りでしょうに、こんなに(りゅう)ちゃんを褒めるものなのねぇ。他所(よそ)の御宅の事は分からないけれど。




 しかし、さて、行くか、と言った賢顕は、一瞬、凛々しい顔をして、聞こえるか聞こえないか、くらいの声量で、呟いた。


「病気の人間が地味に増えてる。…訃報が増える頃、何か起きるな…。前も、そうだった」



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