予兆
光太郎が帰ってから、早佐が、辰顕と賢顕と一緒に医局に戻ると、椅子に座った岐顕が、沈痛な面持ちで、茶色い粉が掛かった黄色っぽい豆腐の様な、ケーキの様にも見える物を食べていた。
―御義兄様が食べているのであれば、甘そうだけれど。随分、悲しそう。其れに、辰様に、本当に、よく似ておいでだわ。
早佐は、先程の、瑠璃の話が出た時の辰顕の顔を思い出しながら、如何なされました、と問い掛けた。
「御義兄様。甘い物が御好きかと思っておりましたのに。随分渋い御顔で…」
「いや…。うん。美味しいよ?うちの父親御手製のティラミス。作るの早いんだな、って、感心したし、作ってくれた感謝を込めて食べてる」
丸一日くらい冷蔵庫で冷やすと、もっと旨いんだけどね、と言って、岐顕は、感謝という言葉に反して渋い顔の儘、隣の椅子に座って、同じく、其れ程明るくない顔で、モソモソと何かを食べている治に向かって、ノルマだよ、と言った。
「御飯前に申し訳ないけど、なるべく消費して。一生の御願い」
「…一生の御願いの使い方、合ってる?確かに、生まれて初めて『一生の御願い』とか言われたけど…。結局、マスカルポーネチーズ、どのくらい貰ったの?」
「…見せたくない」
「…如何いう事?」
「治が観測する事で、大量のマスカルポーネチーズが実在しちゃう気がして…。親友が客観的に観測しなきゃ、俺の勘違いの可能性も有るかなって。…観測するまで、実家にマスカルポーネチーズが存在するか如何か分かんないって思いたくて…」
「…そんな、シュレディンガーのマスカルポーネチーズみたいな話、有る?観測しないで箱に入れてたら腐るだけだと思うけど…」
其れは猫の話では、と思って早佐が黙って聞いていると、困惑する治に、義兄は、御願い、と、悲しそうに言った。
「夕飯にも、ツナとマスカルポーネチーズを混ぜたディップ作って出すから。しょっぱい系にするから。クラッカーに乗せて食べて。ノルマだよ。朝はマスカルポーネチーズのフルーツサンド。デザートは只管ティラミスか、フルーツのティラミスか、カンノーリ」
「ノルマの有る夕飯、嫌なんだけど…。いや、うん、分かった。食べるから…。そんな顔しないで。断りづらー…」
羽織袴の盛装だというのに、人の好い婚約者は、茶色い粉を零さない様に苦戦しながら、丁寧に、『ノルマ』と言われるものを食べている。
一体全体、何が起きたのだろう、と、早佐が困惑していると、大きなガラス製の、長方形の平皿を持った宋顕が訪れた。
平皿の中身は、如何やら、岐顕と治が食している物らしかった。
「おや、早佐ちゃん。ティラミス食べて行きなさい。夕飯前だけど、此方を助けると思って」
形式的にしか此方に敬語を使ってこない、姉の舅は、穏やかな笑みで、不穏な事を言った。
「『此方を助けると思って』という言われ方で食べ物を勧められた事が無いので、事情を御聞きしても宜しいでしょうか…」
しかし、其の場に居た全員、スッ、スッと目を泳がせて、誰も返事をしなかった。
辰顕も賢顕も、医局に戻ってきてから、一言も発さない。
何か余程の事が起きたのかもしれない、と思った早佐は、小さな声で、頂きます、と言った。
宋顕が、誰とも目を合わせない儘、有難う、と言った。
「いやー、ははは、美味しいかー岐。治と一緒だと元気そうだなー、パン屋を作りたいと言うくらい元気になって」
白々しいくらい明るく、誰とも目を合わせずに、そう言う宋顕に、岐顕も、目を合わせず、おーいしーい、と言った。
「うん、俺、治と居ると、めっちゃ元気だもんね。此れ、めっちゃ美味しー」
普段より瞬きの多い婚約者は、コメントし辛いですね、と言いながらも、美味しいです、と言い添えた。
「えっと、…い、家で作れちゃうんだー、ティラミス。…凄いなー、宋さん」
岐顕は、両目を閉じながら、ねー、と言った。
「…家に帰ったら、彦じぃの作った和食が待ってるよー。野菜の寒天寄せ作ってくれてたんだって…治の好きな、細切りの野菜とハムの寒天寄せ…」
治も、両目を閉じて言った。
「んー、其れは…。明らかに、途中まで作ってた和食の献立に、ツナとマスカルポーネチーズを混ぜたディップとクラッカーが差し挟まれたんだよな?」
岐顕は、ギュッと両目を瞑って、聞こえない、と言った。
「美味しい。俺はマスカルポーネチーズが大好き。毎日食べても大丈夫」
治は、目を開けて、自己暗示?と、気の毒そうに言った。
聞こえない、と、再び義兄は言った。
「俺は俺を裏切らない。マスカルポーネチーズが好きったら好き。だから大丈夫。こんな事じゃマスカルポーネチーズにトラウマを持たない。俺の為に毎日マスカルポーネチーズを食べて無くしてあげるんだ。マスカルポーネチーズの事も嫌いにならない。ずっと好き」
俺はトラウマになりそう、という親友の呟きを無視して、岐顕は、両目を開けて、早佐ちゃんも食べよ、と言った。
「美味しいから。期待するから腹が立つんだ。何も期待しないところに良い事が有るから、余計嬉しいんだ。今日はデザートなんか無い、と思ってたところに此れが出て来たら、絶対、喜びが有るんだ。さぁ、此れは美味しいデザートだから、食べて」
治が、デザートを勧める押しの強さじゃない、と言ったが、岐顕は、再び、美味しいから、と言った。
結局、早佐は、はい、と言って椅子に座った。
岐顕と治と早佐が『ノルマ』を食べ終えた頃、トコトコと、龍顕がやって来た。
早佐は、喜びのあまり、立ち上がって甥を迎えたのだが、残念ながら相手は、治に向かって一直線に歩いて行って、早佐には見向きもしなかった。
「はるちゃ」
食べ終えて口を拭いていた治は、立ち上がって、おー、と言って、龍顕を抱き上げた。
「そう言えば、今日は御昼寝したかー?龍。夜は良い子でねんねしようなー。パンちゃんは如何した?」
そう言いながら、龍顕に向ける治の笑顔が、見た事も無いくらい優しかったので、早佐は、グッと笑いを堪えた。
―仏頂面になんて、一度もなった事が無い人みたいな、優しい顔。でも、笑ったら、きっと恥ずかしがるわ。我慢しなくては。…笑いを堪えるなんて、生まれて初めてかもしれないわ。今までは、楽しい事も、其れ程多くは無かったし、笑いたい時は、好きに笑っていて、相手を慮ったりしなかったもの。
しかし、早佐の視線に気付いてしまった治は、上等な羽織袴姿なのにも関わらず、龍顕を抱き直しながら、真っ赤になって、何だよ、と言った。
「…御前、最近、表情筋、如何したんだよ。しょっちゅう笑ってるよな?」
―…其れは、貴男の事が好きだからだと思うわ。
早佐は、笑いを堪えながら、随分懐かれていらっしゃるのですね、と言った。
治は、更に赤くなって、龍顕を抱いた儘、俯いて、蚊の鳴く様な声で、其の様な事実は無い、と言った。
―可笑しい。せめて、龍ちゃんを離してから仰ったら如何かしら。
「私より龍ちゃんに懐かれていらっしゃる御様子で、複雑な気持ちですわ」
早佐が、そう言って、堪えきれずにクスクス笑うと、五月蠅いな、と言って、治が、真っ赤な顔をした儘、龍顕を寄越してきた。
「また笑ってる。御前が抱けよ、もう」
「ふふふ。喜んで。まぁ、龍ちゃん、重くなりましたねぇ」
「はやちゃ」
「そう、そうですよ。御喋りが上手ですねぇ」
治が、振袖を汚すなよ、と言って手拭いを寄越してきたので、片手で受け取りながら、はい、と返事をした早佐が、ふと見ると、医局に居た全員が、治と早佐の方を見て顔を赤らめていた。
―如何なさったのかしら?御義兄様も、辰様も、賢様も、伊羽子様も。宋様も。あら、広由様も。純様まで。
伊羽子が、明るくなったのは良い事よね、と呟いて、頬を染めながら俯いた。
白衣に縁無し眼鏡姿の純顕が、笑ったの初めて見た、と、同じく、頬を染めて俯きながら言った。
「向子さんが来たよー。早佐ちゃん、長の館まで車で送ってくれるって。お?皆、如何したの?」
顕太郎が、赤面する人々を、不思議そうに見ながら、医局にやって来た。
「あ、龍、電池切れか。今日は帰った方が良いなぁ」
「え?」
早佐が見ると、龍顕は、早佐の腕の中で、スヤスヤと寝息を立てていた。
―可愛い。…帰りたくないわ、やっぱり。此の儘、抱いていたいし、治様とも、離れたくない。
賢顕が、近付いて来て、おー、よしよし、と言って、龍顕を、早佐から抱き取った。
「おじちゃんが、ブーブーに、のんのさせたげよ。愚図らないで寝るもんなー。世界一良い子だなー。こんな良い子、会った事ないでしゅねー」
赤ちゃん言葉を使う賢顕、という、世にも珍しい事象に対して、早佐は、もう一度笑いを堪える羽目になったが、顕太郎が、一瞬、複雑そうな顔をしたのを見逃さなかった。
―如何なさったのかしら。でも、御自身にも御孫さんが御有りでしょうに、こんなに龍ちゃんを褒めるものなのねぇ。他所の御宅の事は分からないけれど。
しかし、さて、行くか、と言った賢顕は、一瞬、凛々しい顔をして、聞こえるか聞こえないか、くらいの声量で、呟いた。
「病気の人間が地味に増えてる。…訃報が増える頃、何か起きるな…。前も、そうだった」




