香炉
早佐が、賢顕に伴われ、生まれて初めて、病院内の敷地に併設されている、辰顕の自宅の応接間に向かうと、訪問着姿の、纏め髪の婦人が出てきて、まぁ早佐ちゃん、と言った。
「今晩は。顔色は良さそうだけれど。駄目よ、幾ら婚約者だからって、結婚前なのに、男の子と二人きりで、長に無断で、こんなに長い時間。直ぐ病院に来なくちゃ。光太郎さん、長い事、御待ちよ。全く、岐ちゃんも、治ちゃんの従者になったとは聞いたけれど、職権乱用よ。男女の御目付の役割も有る筈なのに、妙な気を利かせちゃって、デートみたいな事をさせて」
婦人は、珍しく仕事着では無い、賢顕の細君、伊羽子だった。
長である令一の所業を知らされていないのか、何時も、令一を立てようとする人物なので、早佐は此の人物に今まで然程興味が無く、未だしも、教育としての御稽古事を指導してくれる紀和の方に興味が有った。
だから早佐は、此の人物に対しては、幾らか、女中達同様、家具に近い見方をしていたのだが、今日は、危うい、という感想を持った。
―以前から、兄の行動は、私を心配しての事、としか捉えていない様子の人だったけれど。物が見える様になってみると、何と危うい事、と思ってしまうわ。兄に首を絞められた、などと相談したところで、きっと信じてくれず、私より『保護者』の兄の言い分を信じて、私の身を、兄に引き渡す人、という気がしてしまうわ。『正しい事』の方に導こうとする、とでも申しましょうか。まぁ、兄を如何捉えるか、というのも、立場によって違うのは仕方の無い事だけれど。治様だって、先月までは何も御存じなかったのだろうし。
ただ、伊羽子に関しては、実際目にしていない苛めや虐待の存在を信じない人、という意味での『正しい』人、という感じがするのだ。
だからなのか、此の人物が自分の義母になる可能性が有った事を考えると、益々、相手に興味を無くしていたのだが、今日の早佐は、伊羽子に対して、違う見方をした。
―何かが見えないのか、『敢えて見せてもらえていない』人、という感じがするわね。
実際、何時も御喋りで、何かと庇ってくれる賢顕が、妻の発言に対して一言も発さずに俯いている。
―『其のくらい良いじゃねぇか』とか、『此の子は光太郎さんが来るとは知らなかったんだから』とか、普段なら言いそうなものなのに。単なる恐妻家とも違う様な…。
「御叱りは受けますわ。私の来院の時間が紀和さんまでは伝わっておらず、光太郎さんの御相手を、伊羽子様に御任せしてしまいましたのね?申し訳御座いませんでした」
―…此の分だと、兄にも、坂元本家に寄った事が何時か伝わってしまうかもしれないけれど。良い教訓になったわ。私は兄より、味方が少ないと考えておかなければ。信者の方達の立場なら、私などより、長の方を信じるのが普通、と。
例えば、理佐が令一に辱められたと此の人物に相談したとして、どの程度信じてくれたであろうか、という話である。
長が正しいと信じ込んでいる人間に其れを言ったところで、信じてもらえず、相談した側が恥を掻いただけ、という結果は、充分に有り得たのだ。
―成程。恥を掻く覚悟と、動かぬ証拠が必要、という事ね、告発には。…物が見える様になるのは辛い事。
しかし、素直な早佐の謝罪に、伊羽子は、驚いた様子で、言った。
「まぁ…。怒ったのではないのよ、心配したの。喘息が出なかったのなら、良かったから。…ああ、そうか、御嫁に行けるくらい、大きくなったから、そんな、立派な事を言うのね」
―…そうか。此の人の中の私は、何時も、具合が悪い、小さい、無口な私なのね。吸引の為に、夜中に行き成り運ばれてくる、小さい私なのだわ。そして其れは、若しかしたら、冷たい顔をした、我が儘な私かもしれない。病院でしか会わないのだから、当然と言えば当然かしら。
『心配』という言葉に、『言う事を聞かなければ具合が悪くなるぞ』という、微かなコントロールを感じはしたものの、概ね、此の人物が善人である事は承知している早佐は、有難う存じます、と言った。
「幼い頃から、御世話になっておりましたものね。御蔭様で、正月には嫁ぐ事が決まりました。病院の方々にも、御礼を申し上げなければ」
意外にも、伊羽子は、目を潤ませて、言った。
「…変わったわ、貴女。綺麗に、大きくなって、そんな事も、言う様になったのね。良かった事。御存命であれば、親御さんも喜ばれた事でしょう」
『善人』には違いが無いのだろうと思いながら、早佐が鷹揚に微笑むと、伊羽子も微笑んでくれた。
「さ、御茶を御持ちしますから。光太郎さんが御待ちですよ」
八畳の床の間と八畳の居間の間の襖を開け放して、十六畳にした応接間では、辰顕による、恐らく御持て成しなのであろう、光太郎の血圧検査が行われていた。
「…良くないねぇ、未だ五十五だろ。白髪も殆ど無くて、俺なんかより年下なのに。顔色も、あんまり…」
「はぁ、血圧が高いですか。…おや」
「お、来た来た。はい、此の辺で。光太郎さん、御目当ての方がいらっしゃいましたよ」
定期健診にいらっしゃいよ、などと言いながら、白衣姿の辰顕は、道具を、黒い往診鞄の中に片付けて、早佐を上座に座らせ、自身と賢顕が、早佐を挟んで、左右に控える様に座す形に収めた。
正座した、白い直衣の人物は、丁寧に一礼した。合わせて、早佐と辰顕達も、正座の儘、一礼した。
長目の前髪を分けて、綺麗に整えた口髭と顎髭を持つ、其の瀬原分家の人物は、早佐の記憶の中の姿より端正で、何故か親しみ易い雰囲気を持っていた。
「御久しゅう御座います。瀬原分家、荻平が長男、光太郎に御座います。此度は、早佐様の水配りの御相手が決まりました由、誠に御目出とう御座います」
此の人物は、実は瀬原本家の縁者である。
現当主の令一の祖父、第十二代目の瀬原本家当主、永一の母、瑠璃の弟、つまり、永一の母方の叔父なのだ。
光太郎の父、荻平は、瀬原分家の人間ながら、第十一代当主、瀬原修一の側近まで成り上がった切れ者で、十一代目の後妻に、自身の長女の瑠璃を嫁がせるところまで伸し上がったが、瑠璃は、永一を早産で産み落とすと、十六の若さで死去。
修一の死後、荻平が永一の補佐をしていたが、何故か交通事故死。
以降、修一の前妻の兄、吉野本家当主、保親が、何故か補佐を申し出、其の後に、何故か永一も交通事故死。
永一の遺児、当時二歳だった由一を長として擁立し、自身は補佐の座に君臨し続け、亡くなる其の日まで、由一の死後も、令一の補佐として、瀬原集落内で、権力を持ち続けた。
残された荻平の妻も、娘二人、次男一人も何故か早死にし、荻平の三番目の子供で長男だった、光太郎のみ生き残った。
其の光太郎も、本部の人間ではあるが、とても第十二代目の瀬原本家当主の縁者とは思えない様な閑職に追い遣られ、何故か保親に水配りの相手を選定してもらえず、此の年でも独り身を貫いている。
―保親という人の為人は知らない、と思っていたけれど。こうして、見える様になった目で、此の人の境遇を考えた時、明らかに、自分以外の権力を排しようとした人物だった事が知れるわね…。
そう、祝いの言葉を掛けに来てくれた縁者であるのに、病院の敷地で早佐に挨拶をしなければならない、というのは、そういう事だ。
光太郎は、未だに、瀬原本家の敷居を跨げる立場とは目されておらず、恐らくは、第十二代目の瀬原本家当主、永一の落胤と目されている紀和が、気を利かせて、早佐が病院に行くという話を聞き付けて、光太郎を此処に連れて来てくれたのであろう。
―あの兄に、保親さんが亡くなったから、光太郎さんを取り立ててやろう、などという気遣いが有ろう筈も無いものね。私ですら殆ど思い出さなかったのだもの、気の毒な事をしてしまっているのね。
光太郎は、手にしていた風呂敷包みを丁寧に解くと、桐箱の中から、美しい象牙色の、六角籠目の透かし彫りが鏤められた、無地の耳付香炉を取り出した。
「まぁ、何と見事な透かし香炉でしょう」
早佐が香炉を褒めると、光太郎は、再び、丁寧に一礼してから、言った。
「正真正銘、美山の苗代川窯、白薩摩に御座います。籠目模様は魔除けなれば、本日は、此方を御納め頂きたく、御持ち致しました。何でも、早佐様は、白梅香が御好みとか」
「…ええ、嗜む程度ですが」
季節問わず、好みだからという理由で、時々白梅香を焚き締める早佐だが、別段、香道は嗜まない。
だが、高い香を令一に買わせているのは事実で、紀和経由で、白梅香の事が光太郎に伝わる可能性は充分に有った。
よく御存知です事、と早佐が言うと、何の、と、光太郎は自嘲気味に言った。
「父亡き後、家も落ちぶれて、此の香炉くらいしか、献上出来る様な品も手元には残りませなんだ。白梅香が御好みなれば、日常で御使い頂けるかと思い。献上理由自体が、こじ付けの様なもの。なれど、品自体は、慶応二年の作にて、婚礼の御品には相応しき物かと存じます。是非、御納め頂きたく」
そう言う光太郎が示した桐箱の蓋には、確かに『慶応二年』という墨書きの文字が有った。
「其の様な貴重な物を頂いても宜しいのでしょうか。慶応の頃と申せば、未だ苗代川窯は、藩主向けの御用窯。苗代川焼として珍重されていた白薩摩では御座いませんか」
驚く早佐に、よく御存知で、と言って微笑んでから、光太郎は、懐かしそうに言った。
「母の宝は吉野分家の出身で、此れは、母の嫁入り道具で御座いました。元は祖先の品との事ですが、其れ以上の謂れは秘されております」
―『秘されている』?…分からない、のではなく?其れに、吉野分家の娘さんの嫁入り道具に、慶応二年の作の香炉が…?確かに上方限の方だけれど、分家ですら、祖先が、そんな貴重な物を所有していた、という事が有るのかしら。
治の血筋に感じたのと似た疑念が頭を擡げたが、早佐は、勿体無う御座います、と言った。
「御母堂の形見の御品ともなれば、尚更、御手元に残されては如何でしょうか」
しかし光太郎は、いえ、と、言って、微笑んだ。
「御香も買えぬ程に落ちぶれた家で、嫁入り道具として此れを持たせる娘も居らず。我が家は、此処で絶えます。是非とも、受け取って頂けませんでしょうか」
絶えるなどと、と早佐が言うと、其れ程長くは有りませんので、と答えた光太郎の言葉に、其の場に居た全員が驚いた。
「…ソトで、検査致しまして」
未だ五十五でしょうに、と堪りかねた様に賢顕が言うと、未だ五十五だからです、と光太郎は言った。
「若い程、進行が早いそうですよ。…いえ、此れ以上は釈迦に説法、何より、御目出度い席で口にする事でも御座いませんから、今日は、此れ以上は申し上げますまい。…理佐様の時は、身分を考えて、御祝いを控えておりましたが。…あまり、若くで亡くなられますと、姉を思い出しまして…。せめて早佐様には、此の、籠目模様に守られて頂きたく」
姉?と早佐が問うと、辰顕が沈痛な面持ちで俯いた。
―ああ、十六で、御産で亡くなったのだという、瑠璃さんの事かしら?
光太郎は、ええ、と言って続けた。
「十二代目の永一様の母、瑠璃です。五人姉弟の一番上の、面倒見の良い姉で、母とも慕っておりましたが、早死にしてしまいまして。…此の香炉も、鏡台や何かと、長の館に嫁入り道具として姉の瑠璃が持参しましたが、姉の死後に、実家に戻されました。他は、落ちぶれた際に、少しずつ手放しましたが、此れは母の宝も気に入っていた品でして、此れだけ手元に。…如何か、哀れな、絶える家の者の頼みと思召して、縁者として、此の香炉を受け取っては頂けませんでしょうか。…いえ、受け取って頂けるだけで、望外の喜び。もう一度でも、若い娘さんの生活の中で、香を焚くという仕事を此の香炉にさせて遣れれば尚良し、他に、何か望む事は御座いませんから」
そういう御話ならば、と言って、早佐が一礼すると、有難う御座います、と言って、光太郎も一礼した。
顔を上げた光太郎は、言われてみれば、黄色っぽい顔色をしていた。
光太郎は、優しそうに微笑むと、ほんの僅かばかり砕けた言い方で、思い遣り深い事を言ってくれた。
「貴女、御産と申しましたらね、ほんの十年前までは、此の辺りでは産婆が主流でしたよ。鹿児島駅前のレディースクリニックを、難産の予定になる者が、此処の病院から紹介して頂けるようになったのが、ほんの三十年程前。其処から大病院に緊急搬送されても、助からなかった妊婦も、一人や二人ではありません。其れでも、つい最近までは、隠れ里故、産婆が基本でした。御産とは命懸け。こんな物でも、何かの御守りになれば。せめて、御産だけでも無事に、との願いを込めて、此方の品を送らせて頂きます」
―…そうね、岐様の御母様も、途中で帝王切開になって、救急搬送先の病院で、男の子の双子を産んだ後、肺塞栓で亡くなったそうだものね。岐様が二十歳。…其処まで昔の事ではないわね。
有難く頂戴致します、と早佐が答えると、見事なタイミングで、伊羽子と、薬剤師の、清水分家の青年、賢顕の妹、弥涼の息子の広由が、茶を持って入ってきた。
広由も白衣姿で、此の家には、仕事途中の医療関係者が何人居るのだろうか、と思うと、一種異様な光景だったが、彼等の支えられて、今の自分が在る事は確かだったので、先刻、伊羽子に言った言葉は事実だった、と再認識した早佐は、彼等と、自分の為に貴重な香炉を持って態々来てくれた光太郎に、感謝の念を抱いた。
※白薩摩 高級品の白薩摩、日用品の黒薩摩、と、分けて考えられる事が多いです。薩摩焼や苗代川村の事を書き始めると、絶対にスペースが足りないので、高級品というニュアンスが伝われば、今回は良いかなと思います。
『緑色の空』で佐織ちゃんが紀和さんに出してもらった香炉です。元は瑠璃さんの嫁入り道具でした。




