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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第五章 悪意
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香炉


 (はや)()が、(のり)(あき)に伴われ、生まれて初めて、病院内の敷地に併設されている、(たつ)(あき)の自宅の応接間に向かうと、訪問着姿の、(まと)め髪の婦人が出てきて、まぁ早佐ちゃん、と言った。


今晩(こんばん)は。顔色は良さそうだけれど。駄目よ、幾ら婚約者だからって、結婚前なのに、男の子(オトコンコ)と二人きりで、(おさ)に無断で、こんなに長い時間。()ぐ病院に来なくちゃ。光太郎(こうたろう)さん、長い事、御待ちよ。全く、(みっ)ちゃんも、(はる)ちゃんの従者になったとは聞いたけれど、職権乱用よ。男女の御目付の役割も有る筈なのに、妙な気を利かせちゃって、デートみたいな事をさせて」


 婦人は、珍しく仕事着では無い、賢顕の細君(さいくん)()羽子(わこ)だった。


 (おさ)である(れい)(いち)の所業を知らされていないのか、何時(いつ)も、令一を立てようとする人物なので、早佐は此の人物に今まで然程(さほど)興味が無く、()だしも、教育としての御稽古事を指導してくれる紀和(きわ)の方に興味が有った。


 だから早佐は、此の人物に対しては、幾らか、女中達同様、家具に近い見方をしていたのだが、今日は、(あや)うい、という感想を持った。


―以前から、兄の行動は、私を心配しての事、としか捉えていない様子の人だったけれど。物が見える(よう)になってみると、何と(あや)うい事、と思ってしまうわ。兄に首を絞められた、などと相談したところで、きっと信じてくれず、私より『保護者』の兄の言い分を信じて、私の身を、兄に引き渡す人、という気がしてしまうわ。『正しい事』の方に導こうとする、とでも申しましょうか。まぁ、兄を如何(どう)捉えるか、というのも、立場によって違うのは仕方の無い事だけれど。(はる)(さま)だって、先月までは何も御存じなかったのだろうし。


 ただ、()羽子(わこ)に関しては、実際目にしていない(いじ)めや虐待の存在を信じない人、という意味での『正しい』人、という感じがするのだ。


 だからなのか、此の人物が自分の義母になる可能性が有った事を考えると、益々(ますます)、相手に興味を無くしていたのだが、今日の早佐は、()羽子(わこ)に対して、違う見方をした。


―何かが見えないのか、『敢えて見せてもらえていない』人、という感じがするわね。


 実際、何時(いつ)も御喋りで、何かと(かば)ってくれる賢顕が、妻の発言に対して一言も発さずに(うつむ)いている。


―『其のくらい良いじゃねぇか』とか、『此の子は光太郎さんが来るとは知らなかったんだから』とか、普段なら言いそうなものなのに。単なる恐妻家とも違う(よう)な…。


「御叱りは受けますわ。私の来院の時間が紀和さんまでは伝わっておらず、光太郎さんの御相手を、()羽子(わこ)(さま)に御任せしてしまいましたのね?申し訳御座いませんでした」


―…此の分だと、兄にも、坂元本家に寄った事が何時(いつ)か伝わってしまうかもしれないけれど。良い教訓になったわ。私は兄より、味方が少ないと考えておかなければ。信者の方達の立場なら、私などより、(おさ)の方を信じるのが普通、と。


 例えば、理佐が令一に辱められたと此の人物に相談したとして、どの程度信じてくれたであろうか、という話である。

 (おさ)が正しいと信じ込んでいる人間に其れを言ったところで、信じてもらえず、相談した側が恥を掻いただけ、という結果は、充分に有り得たのだ。


―成程。恥を掻く覚悟と、()()()()()が必要、という事ね、()()には。…物が見える(よう)になるのは(つら)い事。


 しかし、素直な早佐の謝罪に、()羽子(わこ)は、驚いた様子で、言った。


「まぁ…。怒ったのではないのよ、心配したの。喘息が出なかったのなら、良かったから。…ああ、そうか、御嫁に行けるくらい、大きくなったから、そんな、立派な事を言うのね」


―…そうか。此の人の中の私は、何時(いつ)も、具合が悪い、小さい、無口な私なのね。吸引(きゅういん)の為に、夜中に行き成り運ばれてくる、小さい私なのだわ。そして其れは、()しかしたら、冷たい顔をした、我が(まま)な私かもしれない。病院でしか会わないのだから、当然と言えば当然かしら。


 『心配』という言葉に、『言う事を聞かなければ具合が悪くなるぞ』という、(かす)かなコントロールを感じはしたものの、(おおむ)ね、此の人物が善人である事は承知している早佐は、有難う存じます、と言った。


「幼い頃から、御世話になっておりましたものね。御蔭様で、正月には嫁ぐ事が決まりました。病院の方々にも、御礼を申し上げなければ」


 意外にも、()羽子(わこ)は、目を潤ませて、言った。


「…変わったわ、貴女(あなた)。綺麗に、大きくなって、そんな事も、言う(よう)になったのね。良かった事。御存命であれば、親御さんも喜ばれた事でしょう」


 『善人』には違いが無いのだろうと思いながら、早佐が鷹揚(おうよう)に微笑むと、()羽子(わこ)も微笑んでくれた。


「さ、御茶を御持ちしますから。光太郎さんが御待ちですよ」




 八畳の床の間と八畳の居間の間の襖を開け放して、十六畳にした応接間では、辰顕による、恐らく御持て成しなのであろう、光太郎の血圧検査が行われていた。


「…良くないねぇ、()だ五十五だろ。白髪も(ほとん)ど無くて、俺なんかより年下なのに。顔色も、あんまり…」


「はぁ、血圧が高いですか。…おや」


「お、来た来た。はい、此の辺で。光太郎さん、御目当ての方がいらっしゃいましたよ」


 定期健診にいらっしゃいよ、などと言いながら、白衣姿の辰顕は、道具を、黒い往診鞄の中に片付けて、早佐を上座に座らせ、自身と賢顕が、早佐を挟んで、左右に控える(よう)()す形に収めた。




 正座した、白い直衣(のうし)の人物は、丁寧に一礼した。合わせて、早佐と辰顕達も、正座の(まま)、一礼した。


 長目の前髪を分けて、綺麗に整えた口髭と顎髭を持つ、其の()(ばる)分家の人物は、早佐の記憶の中の姿より端正で、何故か親しみ(やす)い雰囲気を持っていた。


「御久しゅう御座います。瀬原分家、(おぎ)(へい)が長男、光太郎(こうたろう)に御座います。此度(こたび)は、早佐様の水配り(ミックバイ)の御相手が決まりました(よし)、誠に御目出とう御座います」


 此の人物は、実は瀬原本家の縁者である。


 現当主の(れい)(いち)の祖父、第十二代目の()(ばる)本家当主、永一(とういち)の母、瑠璃(るり)の弟、つまり、永一(とういち)の母方の叔父なのだ。


 光太郎の父、(おぎ)(へい)は、()(ばる)分家の人間ながら、第十一代当主、()原修一(ばるしゅういち)の側近まで成り上がった切れ者で、十一代目の後妻に、自身の長女の瑠璃(るり)を嫁がせるところまで()し上がったが、瑠璃は、永一(とういち)を早産で産み落とすと、十六の若さで死去。

 修一の死後、荻平が永一(とういち)の補佐をしていたが、()()()交通事故死。

 以降、修一の前妻の兄、吉野本家当主、(やす)(ちか)が、()()()補佐を申し出、其の後に、()()()永一(とういち)も交通事故死。

 永一(とういち)の遺児、当時二歳だった(ゆう)(いち)(おさ)として擁立し、自身は補佐の座に君臨し続け、亡くなる其の日まで、由一(ゆういち)の死後も、令一の補佐として、()(ばる)集落内で、権力を持ち続けた。


 残された荻平の妻も、娘二人、次男一人も()()()早死にし、荻平の三番目の子供で長男だった、光太郎のみ生き残った。


 其の光太郎も、本部の人間ではあるが、とても第十二代目の()(ばる)本家当主の縁者とは思えない(よう)な閑職に追い遣られ、()()()保親に水配り(ミックバイ)の相手を選定してもらえず、此の年でも独り身を貫いている。


―保親という人の為人(ひととなり)は知らない、と思っていたけれど。こうして、見える(よう)になった目で、此の人の境遇を考えた時、明らかに、自分以外の権力を排しようとした人物だった事が知れるわね…。


 そう、祝いの言葉を掛けに来てくれた縁者であるのに、病院の敷地で早佐に挨拶をしなければならない、というのは、()()()()事だ。


 光太郎は、(いま)だに、()(ばる)本家の敷居を跨げる立場とは(もく)されておらず、恐らくは、第十二代目の()(ばる)本家当主、永一(とういち)落胤(おとしだね)(もく)されている紀和(きわ)が、気を利かせて、早佐が病院に行くという話を聞き付けて、光太郎を此処に連れて来てくれたのであろう。


―あの兄に、保親さんが亡くなったから、光太郎さんを取り立ててやろう、などという気遣いが有ろう筈も無いものね。私ですら(ほとん)ど思い出さなかったのだもの、気の毒な事をしてしまっているのね。


 光太郎は、手にしていた風呂敷包みを丁寧に解くと、桐箱の中から、美しい象牙色の、六角(ろっかく)籠目(かごめ)()かし()りが(ちりば)められた、無地の耳付(みみつき)香炉(こうろ)を取り出した。


「まぁ、何と見事な()かし香炉(こうろ)でしょう」


 早佐が香炉を褒めると、光太郎は、再び、丁寧に一礼してから、言った。


「正真正銘、美山(みやま)苗代(なえしろ)(がわ)(よう)(しろ)薩摩(もん)に御座います。籠目(かごめ)模様(もよう)は魔除けなれば、本日は、此方(こちら)を御納め頂きたく、御持ち致しました。何でも、早佐様は、白梅(はくばい)(こう)が御好みとか」


「…ええ、(たしな)む程度ですが」


 季節問わず、好みだからという理由で、時々白梅香を焚き締める早佐だが、別段、香道は(たしな)まない。


 だが、高い香を令一に買わせているのは事実で、紀和経由で、白梅香の事が光太郎に伝わる可能性は充分に有った。


 よく御存知です事、と早佐が言うと、(なん)の、と、光太郎は自嘲気味に言った。


「父亡き後、家も落ちぶれて、此の香炉くらいしか、献上出来る(よう)(しな)も手元には残りませなんだ。白梅香が御好みなれば、日常で御使い頂けるかと思い。献上理由自体が、こじ付けの(よう)なもの。なれど、(しな)自体は、慶応二年の作にて、婚礼の御品には相応(ふさわ)しき物かと存じます。是非、御納め頂きたく」


 そう言う光太郎が示した桐箱の蓋には、確かに『慶応二年』という墨書きの文字が有った。


「其の(よう)な貴重な物を頂いても宜しいのでしょうか。慶応の頃と申せば、()苗代(なえしろ)(がわ)(よう)は、藩主向けの御用(ごよう)(がま)苗代(なえしろ)(がわ)(やき)として珍重されていた(しろ)薩摩(さつま)では御座いませんか」


 驚く早佐に、よく御存知で、と言って微笑んでから、光太郎は、懐かしそうに言った。


「母の(かね)は吉野分家の出身で、此れは、母の嫁入り道具で御座いました。(もと)は祖先の(しな)との事ですが、其れ以上の(いわ)れは秘されております」


―『秘されている』?…分からない、のではなく?其れに、吉野分家の娘さんの嫁入り道具に、慶応二年の作の香炉が…?確かに上方限(カミホーギリ)(かた)だけれど、分家ですら、祖先が、そんな貴重な物を所有していた、という事が有るのかしら。


 (はる)の血筋に感じたのと似た疑念が頭を(もた)げたが、早佐は、勿体(もったい)()う御座います、と言った。


御母堂(ごぼどう)形見(かたみ)御品(おしな)ともなれば、尚更(なおさら)、御手元に残されては如何(いかが)でしょうか」


 しかし光太郎は、いえ、と、言って、微笑んだ。


御香(おこう)も買えぬ程に落ちぶれた家で、嫁入り道具として此れを持たせる娘も()らず。我が家は、此処で絶えます。是非とも、受け取って頂けませんでしょうか」


 絶えるなどと、と早佐が言うと、其れ程長くは有りませんので、と答えた光太郎の言葉に、其の場に居た全員が驚いた。


「…ソトで、検査致しまして」


 ()だ五十五でしょうに、と(たま)りかねた(よう)に賢顕が言うと、()だ五十五()()()です、と光太郎は言った。


「若い程、進行が早いそうですよ。…いえ、此れ以上は釈迦に説法、何より、御目出度い席で口にする事でも御座いませんから、今日は、此れ以上は申し上げますまい。…()()(さま)の時は、身分を考えて、御祝いを控えておりましたが。…あまり、若くで亡くなられますと、姉を思い出しまして…。せめて早佐様には、此の、籠目模様に守られて頂きたく」


 姉?と早佐が問うと、辰顕が沈痛な面持ちで(うつむ)いた。


―ああ、十六で、御産で亡くなったのだという、瑠璃(るり)さんの事かしら?


 光太郎は、ええ、と言って続けた。


「十二代目の永一(とういち)(さま)の母、瑠璃です。五人姉弟の一番上の、面倒見の良い姉で、母とも慕っておりましたが、早死にしてしまいまして。…此の香炉も、鏡台や何かと、(おさ)の館に嫁入り道具として姉の瑠璃が持参しましたが、姉の死後に、実家に戻されました。他は、落ちぶれた際に、少しずつ手放しましたが、此れは母の(かね)も気に入っていた(しな)でして、此れだけ手元に。…如何(どう)か、哀れな、絶える家の者の頼みと思召(おぼしめ)して、縁者として、此の香炉を受け取っては頂けませんでしょうか。…いえ、受け取って頂けるだけで、望外(ぼうがい)の喜び。もう一度でも、若い娘さんの生活の中で、香を焚くという仕事を此の香炉にさせて遣れれば尚良(なおよ)し、他に、何か望む事は御座いませんから」


 そういう御話ならば、と言って、早佐が一礼すると、有難う御座います、と言って、光太郎も一礼した。


 顔を上げた光太郎は、言われてみれば、黄色っぽい顔色をしていた。


 光太郎は、優しそうに微笑むと、ほんの(わず)かばかり砕けた言い方で、思い遣り深い事を言ってくれた。 


貴女(あなた)、御産と申しましたらね、ほんの十年前までは、此の辺りでは産婆が主流でしたよ。鹿児島駅前のレディースクリニックを、難産の予定になる者が、此処の病院から紹介して頂けるようになったのが、ほんの三十年程前。其処から大病院に緊急搬送されても、助からなかった妊婦も、一人や二人ではありません。其れでも、つい最近までは、隠れ里故、産婆が基本でした。御産とは命懸け。こんな物でも、何かの御守りになれば。せめて、御産だけでも無事に、との願いを込めて、此方(こちら)の品を送らせて頂きます」


―…そうね、(みち)(さま)の御母様も、途中で帝王切開になって、救急搬送先の病院で、男の子の双子を産んだ後、(はい)塞栓(そくせん)で亡くなったそうだものね。(みち)(さま)二十歳(はたち)。…其処まで昔の事ではないわね。


 有難く頂戴致します、と早佐が答えると、見事なタイミングで、()羽子(わこ)と、薬剤師の、清水分家の青年、賢顕の妹、弥涼(いすず)の息子の(ひろ)(よし)が、茶を持って入ってきた。


 (ひろ)(よし)も白衣姿で、此の家には、仕事途中の医療関係者が何人居るのだろうか、と思うと、一種異様な光景だったが、彼等の支えられて、今の自分が在る事は確かだったので、先刻(せんこく)()羽子(わこ)に言った言葉は事実だった、と再認識した早佐は、彼等と、自分の為に貴重な香炉を持って態々(わざわざ)来てくれた光太郎に、感謝の念を抱いた。


白薩摩(しろもん) 高級品の白薩摩(しろもん)、日用品の黒薩摩(くろもん)、と、分けて考えられる事が多いです。薩摩焼(さつまやき)苗代(なえしろ)(がわ)村の事を書き始めると、絶対にスペースが足りないので、高級品というニュアンスが伝われば、今回は良いかなと思います。


『緑色の空』で佐織ちゃんが紀和さんに出してもらった香炉です。元は瑠璃さんの嫁入り道具でした。

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