病院
黄色い車で、一人で迎えに来てくれた親友は、治一と早佐が、車の後部座席に乗り込むと、少し落ち込んだ様子で、一応病院に行こう、と言った。
「建前だけでも、病院には行っておこう。ワコおばちゃんが、治に御目出とうって言いたいらしいし。瑛子ばぁばにも会ってほしいし。紀和さんが、早佐ちゃんに会わせる為に、瀬原分家の光太郎さんを連れて来てくれたから。紀和さんは帰っちゃったけど、光太郎さんが早佐ちゃんと話をするくらいの時間だったら、良いよね?」
「其れは分かったけど…。岐、如何した?」
車を発進させながら、其れが、と、岐顕は呟いた。
「親父が、天神駅東店に届いたファックスを持って来てくれたんだけど…」
「ファックス?」
「俺、危うく、リビング福岡に載るところでさ…」
「…え?フリーペーパーの?」
俺、もう嫌だぁ、と言って、親友は悲しそうに溜息をついた。
相手からは其れ以上の説明は無かったのだが、其の様子が、あまりにも疲れて見えたので、治一は、『何言ってんの?』と言えなかった。車は、無言の三人を乗せた儘、病院に向かった。
営業時間が一応終わっている病院に着くと、早佐は、辰顕の案内で、光太郎に会う為に別室に通された。
治一達が医局に向かうと、龍顕を膝に乗せた白衣姿の顕太郎が、白黒の感熱紙を手にして、大笑いしていた。
「あは、ははは、あははは、リビング福岡って御前。あははははは」
「もー、太郎兄ちゃん、笑い過ぎ」
プリプリ怒る岐顕に、いーじゃん、と言って、感熱紙を手渡すと、顕太郎は、龍顕を抱き上げて、ほーら、と言った。
「かっこいいねー、龍」
龍顕は、あまり理解していない様子で、ニコニコしながら、かっこいね、と言った。
岐顕は再び、もー、と言った。
「龍に見せないでぇ。悲しくなってきたぁ」
「…一体全体、如何したんだよ…」
治一の問いに、親友は、悲しそうに、聞いてよ治ぅ、と言った。
曰く、前回、岐顕がカットモデルを遣った、天神の美容室が、岐顕の写真を撮っていたらしく、店舗紹介記事に使わせてくれないかと交渉して来たらしい。
自宅や携帯の番号を教えるのが面倒で、連絡先を職場にしていたのが運の尽き、其のファックスを受信したのが、まさかの宗顕で、今回、鹿児島に戻ってくる際、持参してくれたそうである。
―親から受ける報告の中でも、なかなか辛い部類に入るかもなー、『御前、無許可でモデルとしてフリーペーパーに載りそうだぞ』って。
「…其れで、如何したの?」
「断ったよ!何が一番酷いって、ビフォーだよ此れ、ビフォー!」
顕太郎が、そりゃ駄目だぁ、と言って、尚笑った。
龍顕が、ニコニコしながら、めだー、と言った。
岐顕は、溜息をつきながら、感熱紙を治一に手渡してくれた。
白黒だが、パーカーにジーンズの、髪を切る前の親友が、物憂げな顔で、俯き加減に、大きく映っていた。
「…うわー。此れ、隠し撮り?」
酷いでしょ、と、悲しそうに言う親友に、治一は何と声を掛けたものか悩んだ。
良い写真過ぎたのである。
―あー…。うん、ビフォーの方を店の手柄にしたくなるよね、此れは。ちょっと気持ちは分かっちゃったなー。遣っちゃ駄目な事はしちゃってるけどさ。
抑、普段なら、隠し撮りの気配に気付かぬ岐顕では無い。
天神で『ボーっとしてたらカットモデルに誘われ』たのだと言っていたが、本当にボーっとしていたのであろう。
―うーん、カットモデルってより、身長的にも、読モか本職のファッションモデルだな…。
髪を掻き上げている瞬間を切り取ったせいか、緩やかに風に煽られている様にも見える、男性にしては長目の髪から、白っぽい髪が一筋、メッシュの様に覗いている。
斜め四十五度とは、よく言ったもので、此の親友の一番の美点である、ツンとした鼻梁と顎から喉にかけてのラインが生み出す横顔の美しさと、長い睫毛の華やかさが、感熱紙の、多少輪郭の暈けた白黒の画像でも、遺憾なく発揮されていた。
撮った者が誰かは知らないが、髪をカットする才能より、写真を撮る才能が有る可能性が有るな、と思うくらい、治一が客観的に見ても、良い出来だった。
色々言いたい事は有ったが、治一は、街角スナップって感じだね、という感想を言うに留めた。
しかし顕太郎は、止せばいいのに、でもさぁ、と言った。
「もう、此れ、モデルになっちまえばー?じゃなきゃ、完全に、地元の調子乗ったアンチャンだし。夜中に友達と屯して、内輪ノリで、外でスケボーしてそう」
岐顕は、酷い、と言ったが、治一は、そう言えば、こいつ、夜中に外でブレイクダンスしてたな、と思った。
―あれは完全に、地元の調子乗ったアンチャンだった。髪は切ってたけど。
こんなに真面目に働いてるのに、と言って、親友は嘆いた。
「なんないもん、モデルにはー!目立ったら隠れ里の事バレちゃうかもしんないのに、そんなのやんないし!第一、高校中退してから、俺、どんだけ働いたと思ってんのさー。百道浜のマンションだって、親には一銭も出してもらってないからね?!」
焼き立てパン屋は買ってもらってなかったっけ、と思ったが、親友が、華やかな見た目に反して真面目な事は誰よりも知っていたので、治一は黙っていた。
そして、此の親友に『治はモテる』などと言われても、今ひとつ腑に落ちないのは、相手の華やかさにも原因が有る。
相手の方が目立つし、明るいし、モテるのではないか、と、治一は、ずっと思っていたし、理佐も岐顕の方を選んだので、此方の容姿を羨む様な発言をされたところで、ピンと来ない。
―目立ったらいけないって自覚が有ったのには驚きだけど…。
長身の華やかな此の人物が、ポニーテールが結べる程の長さの髪で、龍顕を抱いて、明らかに二十個くらいドーナッツが入っている箱を片手に、黄色いフェアレディZに乗り込む姿が、目立たなかった、などと証言したら、地獄で閻魔に舌を抜かれそうである。
だから、其処を考えると、自分は地味だと思い込んでいる治一なのに、其れを口にしても、誰からも肯定してもらえた例は無い。
基準が親友になっているから、自分は地味だと思い込んでいる、という事に対して、自覚すら無い治一は、そう言えば、と言った。
「宋さんは?」
「あれ?親父は?龍と久し振りに遊びたいかと思ったのに」
岐顕も、そう言って、キョロキョロと医局を見渡したが、あの長身の人間が、物に隠れて見えない筈も無かったので、如何やら、目に付く範囲には居ないらしかった。
其れがさ、と、言い難そうに、顕太郎は言った。
「彦じぃから、ヘルプの電話が掛かってきたから、ティラミス作りに帰ったよ。向子さんも、瑛子さんの御見舞いの後、仕事に戻ってたんだけど、里に戻ってくるって…」
―ティラミス?
岐顕は、一瞬黙ってから、もう一回言ってくれる?と言った。
「何か…聞いた事無い単語の組み合わせだな…。聞き取れるし、意味は分かるのに、全然理解出来ない。えっと、親父は、『彦じぃ』から、『ヘルプの電話』が掛かってきたから、『ティラミス』『作り』に『帰った』の?え?サキが帰ってくるくらい、彦じぃがヘルプ出すとか、そんなん、滅多に無くない?」
医局に、波と滝壺の柄の、淡桃果実色の訪問着を着た伊羽子を伴ってやって来た、白衣姿の賢顕が、顕太郎から龍顕を抱き取りながら、其れがさ、と言った。
「令一から、早佐を病院に連れて行ってくれた御礼に、とか言って、実方本家に、大量のマスカルポーネチーズと高級フルーツが届いたとかで、如何にもならなくなったらしくてな。珍しく、顕彦さんがパニックを起こし掛けてたのを見かねて、宋が、マスカルポーネチーズを使った物を作りに帰るから落ち着け、っつって、帰っちまったよ。明日くらい、親戚中にティラミス配りまくるんじゃねぇか?」
あ、無理無理無理、と言って、岐顕は、医局の椅子に座り込んで、頭を抱えた。
「意味が全然分かんない。俺も、其の場に居たらパニック起こしたかも。…え?マスカルポーネチーズ?…好きだけど…。え、大量の?何で?もうティラミスの状態でくれたら良くねぇ?そんで、フルーツは何?フルーツのティラミスとか作れば良いの?フルーツサンドとか?あ、無理無理無理。分からん分からん分からん」
伊羽子が、深く考えちゃ駄目よ、と言った。
「御腹に入れば同じ、って、何時も岐ちゃん、言うじゃないの。ほら、長も、岐ちゃんが好きな物、贈ってくれようと思ったのかもしれないでしょ?従兄弟なんだから。よく分からないけど、そういう、御菓子みたいなの、岐ちゃん、大好きでしょ?何か、そういう事を長に言った覚えは無い?」
―ワコおばちゃん、長が理佐を、とかって、知らないのかな…?
岐顕は、必死で記憶を手繰り寄せるかの様に、眉間に皺を寄せて、言った。
「マスカルポーネチーズ…?そういや、五年くらい前、ティラミスが流行りたての時、チーズが手に入れば自分で作るのに、って、言ったけど」
「あ、俺、其れ覚えてる。学校で。で、実際作ってくれたよね?岐」
ほら、と、優しく伊羽子は言った。
「其れを覚えていてくださったのかもしれないわよ?」
たったあれだけの事を?と言って、岐顕は青褪めた。
「で、聞いてたの?其れを。で、親父への御礼なのに、其れを送ってきたの?大量に?もし、そうだとしたら、…シンプルに怖い」
―まぁね、だって、単なる雑談だったし。確か、何か、『田舎じゃ材料も手に入り難いわー』みたいな愚痴だった気がする。…いや、本当に、あの時の雑談を小耳に挟んで、覚えてて?怖…。いや、流石に、そんな訳無いか?
ホラーなんだけど、と言う岐顕に、そんな事言わないの、と優しく言ってから、伊羽子は、治ちゃん、と言った。
「結婚おめでとう。久し振りねぇ。もう、御嫁さん貰えるくらい大きくなったのねぇ。御父さん達も喜んでると思うわ」
「有難う御座います、ワコおばちゃん。どうも、御無沙汰しておりまして」
賢顕は、不美人では無い、という言い方をしていたが、六十一歳だと思うと、通った鼻筋に、弛み一つ無い、綺麗な顎のラインを保っていて、相当綺麗だと治一は思う。
さ、と、伊羽子は言った。
「面会時間は過ぎてるけど、瑛子ちゃんに会って来てくれない?…治ちゃん達に会ったら、元気になってくれるかも」
賢顕が、珍しく小声で、そうだな、と言ったので、治一は、其の声音に、『治一達に会ったくらいでは癒えないであろう何か』が瑛子に有る事を感じ取った。
―ワコおばちゃんの方が、瑛子さんより年上なんだもんな…。入退院を繰り返してる、って、相当悪いのかな。詳しく聞いてないけど。
「まぁー、岐ちゃん、素敵ねー、モデルさんみたいねぇ。御仕事するの?」
「んーん。岐ちゃんねぇ、モデルさん、しないんだよ、瑛子ばぁば」
「まぁー、しないの?ばぁば、岐ちゃんの御写真好きだわー」
「ありがとー。んー、こりゃいかん。あのね、ばぁば、岐ちゃん、モデルさんしないんだよー?」
「まー、御仕事、何するの?だって。岐ちゃん高校生でしょ?バイトしたら、宋ちゃんに、怒られちゃうの?」
「バイトしないよー?岐ちゃん二十歳で、不動産屋さんでしょ?ばぁば。岐ちゃんは、宋ちゃんの会社、継いだでしょ?」
「え?宋ちゃんの会社?岐ちゃん高校生でしょ?素敵ねー、モデルさんみたいねぇ」
「んー、ありがとー。…いかーん。あのね、瑛子ばぁば」
先程から此の遣り取りが二十回以上繰り返されているが、岐顕が手にしていた感熱紙を、ウッカリ目にしてしまった瑛子が、全く岐顕の職業を理解しないので、治一は、困惑しながら、親友が、根気よく祖母の相手をする様子を見守った。
―おー、此れは…。白髪の量も、たった一年で、豪い事になってるし。とても、ワコおばちゃんの方が年上とは…。其れに、右手首の、大きな包帯…。如何しちゃったんだ?
やおら、瑛子が、治一の目を見詰め、泣き出した。
「薫叔父ちゃん。瑛子、御家に帰る」
「えっ」
「囲炉裏の御家に帰るのよ」
やべ、と岐顕は小声で言った。
「薫陶さんと間違えてるー。ゴメン、治」
「うー、えーっと。あの、あの家はですね、もう」
瑛子が嘗て住んでいた家は、薫陶亡き後、治一の母の月子が解体したのだが、如何やら、瑛子は、其れが思い出せないらしい。
―もう其の家無いです、とか、今言って良いもんかな?
「あ、あー、あの、瑛子さん。俺、治です。結婚の報告に来まして」
まぁ、と言って、瑛子の瞳に、一瞬、正気の光が宿った。
「そうだったのぉ。治ちゃん。んまぁ、久し振りじゃないのぉ。おばちゃんの事を、治ちゃんが忘れてたなんて、情けない事」
―…多分、瑛子さんの方が俺を忘れてたんだろうけど。此処一年くらい、御見舞いにも来なかった事は事実だし、何も言えない。
「あ、いやー。本当に、御無沙汰しておりましてぇ。此の度、結婚する事になりまして」
「んまぁー、結婚?岐ちゃんも…。岐ちゃんも…。御嫁さん…」
あ、不味い、と言って、岐顕が、突然黙り込んだ瑛子に、感熱紙を渡した。
「瑛子ばぁばー。岐ちゃんの御写真だよー。あげるねー。病室に飾れる様にしてもらおっか?…んー、モデルは断るにしても、元の写真は取り返して、ばぁばにプレゼントしちゃおっかなー」
瑛子は、一瞬、呆けた顔をした後、子供の様に喜んで、再び、言った。
「まぁー、岐ちゃん、素敵ねー、モデルさんみたいねぇ。御仕事するの?」
「んーん。岐ちゃんねぇ、モデルさん、しないんだよ、瑛子ばぁば。でも、ばぁばの専属モデルになろっかなー?御写真、沢山あげようかなー」
「わー、素敵ねぇ。ばぁばのモデルさんねぇ。辰顕さんに、そっくり。綺麗な御顔だわー」
「…やー、ホント、父親より辰じぃに似てんのは、マジで何でなのか俺にも分かんなーい」
病室を出てから、岐顕の語るところによると、こうである。
顕彦には、鹿児島駅近くの産院に嫁いだ姪の冴が居たのだが、其の人は、最近亡くなってしまったらしい。
しかし、亡くなる前、顕彦が、せめて龍顕の顔を冴という人に見せたいと言うので、顕彦と瑛子と、向子の三人で、鹿児島駅付近の冴の嫁ぎ先に行ったそうである。
しかし、其の見舞いから戻ったら、理佐が居間で首を括っている状態なのを、最初に発見してしまったのが、向子と、龍顕を抱いていた瑛子だった。
『あの時、あたし、御父様と瑛子姉と一緒に、冴姉の御見舞いに行っていたのよ、龍も連れて』
―確かに、向子さんは、そう言ってた。
以来、体調を悪くした瑛子は、入退院を繰り返しているのだが、病院に入院させていると、斑ボケのような症状になり、そうかと言って、退院させると、フラッシュバックの様な状態に陥る事が有るのだと言う。
「フラッシュバックを起こさせない為に、親父が実方本家をリフォームしたんだけど、コンロをIHにしたら、瑛子ばぁば、分かんなかったみたいで、手を火傷しちゃって。此れが、結構、治んなくてねぇ…。ベロッと、皮膚、取れちゃったのよ。そんで、再入院。…いやー、あんな感じだから、御見舞いっていっても…。親父の事も、繁雪さんと間違ったりして、分かってんだか分かってないんだかでさ。治も、気にしないでね。うちも、詳しく説明出来なくてさ、ゴメンね」
「…そっか」
―俺が居ない間に、瑛子さんがあんな風になっててショックってのもあるけど…。リアルタイムで瑛子さんの様子を知ってたら、もっと辛かったかもな…。やっぱり、俺…。怖くて、実方本家に行けなかったかも。
可愛がっている孫の岐顕が、幼馴染と結婚し、龍顕が生まれた事を、誰よりも喜んでいた瑛子が、自分が龍顕をソトに連れて行って居ない間に、理佐が首を括っていたのを見てしまったとなると、其の苦しみを想像する事は、治一には難しい。
―癒えない傷だ。此処にも地獄が在る。綺麗な病院で、食べ物も有って、孫も綺麗だけど。
そう、楽しい地獄なのだろう。
裕福で美しい身内に囲まれ、高級なフルーツとマスカルポーネチーズが届く、静かで、綺麗な地獄なのだろう。
死んだ者は、誰も帰って来ない。
『君子蘭』で辰顕さんに、和平さんからの手紙を渡してくれた、妹の夫というのが、冴さんの嫁ぎ先の産婦人科医の旦那さんだったのですが、冴さんの話を、やっと書けて良かったです。
四月八日には『地に満つるは槐花』の取材に行けそうで嬉しいです。久し振りの実地です。やっぱり、流行り病のせいで、色々と出来ない事が多かったので、こういうのは嬉しいです。
『君子蘭』『緑色の空』『相生の松』でもモデルとして使っている場所なので、久し振りに行きますが、成果が有ると良いなぁと思います。




