中二階
「さて、…本当に、梯子を上れるか?」
手を洗い、羽織まで着直して身繕いしてから問い掛けると、振袖娘は、意を決した様な顔をして、頷いた。
―…俺は中二階を寝室に使ってるから、全く気持ちが分からないけど、こいつにしてみたら、梯子を上るのって、大冒険なんだろうなぁ。
何なら、幼少の砌には、岐顕と一緒に、此の梯子の上から飛び降りる遊びをして、よく叱られていたものである。
こんな事が今更、遣ってみたい程、面白そうに思えているのであれば、治一からしてみれば、気の毒な話だった。
「じゃあ、先に上って、後から手を貸してやるから。ゆっくり上って来てくれ」
治一が、先に中二階に上がり、上から持ち上げてやると、フワリと、あの白梅の香りがした。
明り取りの細い横長の窓からの淡い光で、早佐の大きな瞳が、美しい榛色から、縁の黒い、黄味がかった、明るい、透き通った赤茶色に変じた。
大きな黒目の周りに、大輪の花の様な虹彩が見える。
室内で黒っぽく見えていた髪も、光の中で、柔らかな赤味を帯びて、光っている。
―あれ?
持ち上げてやって以降、相手は、全く治一から離れる気配が無かった。
早佐は、治一の両手を掴んだ儘、キョロキョロと、辺りを見渡した。
其の瞳が動くと、角膜を透過した光の中で輝く虹彩の襞が、微かに煌く様に思えた。
早佐の、其の、透明感の有る瞳の中で踊る光に見入っていると、ふと、治一は、其の、相手の黒目の焦点が、自分に集中した事に気付いた。
「物が無いのですね」
「ああ、寝るのにだけ使ってるから。…調べた事は無いけど、耐荷重が気になってさ。養蚕出来る程度には丈夫な筈なんだけど、古いから、自信が無くて。昔は書斎みたいな使われ方もしてたらしい。布団も、出掛けに、干したついでに奥座敷に片付けたから。殺風景だろ」
降りよう、という提案に、早佐は返事をしなかった。
全く治一から離れようとしない。
「暗くなる前に、電気を点けてやるよ。ブレーカーを上げなきゃ。一度降りよう?」
「…必要有りません。日没には、御迎えが来るのでしょう?…真っ暗になる前には、御義兄様が此方に御越しになるのでしょう?」
「まぁ、そうだけど」
「…だから、要りません」
「寒くないか?炬燵でも」
「此処で良いのです」
「何にも無いぞ、此処」
「…何も要りません」
それきり、相手が黙りこくってしまったので、治一は其の儘、早佐を抱いて、中二階に座っていた。
先月まで、此の相手と、こういう関係になるとは、全く予想していなかった治一は、何と無く、自分の頬を、相手の頬に、くっ付けた。
早佐は頬を染めて、驚いた様子を見せた。
落ち着くかと思って、と言ったが、小さな声で、落ち着かないわ、と言われた。
だが、其れでも、相手が自分から離れる様子が無かったので、治一は、早佐を其の儘抱いていて、明り取りの窓からの光が、早佐の髪に落ちるのを眺めていた。
―静かだな。
冬の太陽が、ゆっくり傾いていく。
普段は一人で寝起きしている筈の中二階に、仄かな白梅の香りがする。
―如何してかな。
理佐の方が好きな筈だった。
家族も理佐も居なくなって、此の広い場所に一人で、自棄になっていた。
其れも、そんなに昔の事では無い。
先月の事だ。
こういう事になるとは、本当に予想もしていなかったし、此の人間の為に、此の土地屋敷を手放して、此処を出て行くとも、全く考えていなかった。
其れなのに、先刻は一瞬、理佐が妬ましかった。
相手の中で、一番大事な物として、高潔な存在として在り続ける理佐が。
―何で、こんな奴、好きになったんだろう。
理佐より我が儘で、自分に何でも捨てさせて、自分の命も危険に晒す、こんな人間の、何処が良いのだろう。
全部を相手の為に手放しても、世界で一番、を、治一にしてくれない人間なんかの、何処が良いのだろう。
どれだけ体の距離が近くても、相手の頭の中の事までは分からない。
体を重ねても、何も理解出来ない。
相手の一番にも、如何やら、してもらえない。
―いや、違うんだよな。
土地屋敷を手放すタイミングは幾らでも有って、偶然、時期が重なったのだとも言えるし、何かを手放すのは、別に、相手の為だけでも無いのだ。
―此処に居させたくないんだ、こいつを。
勝手に自分が、此の人間を、瀬原集落から連れ出したいと考えているだけで、相手から、何もかも手放せと言われた訳では無いのだ。
―こいつなんかの何処が良いのか、全然分からないけど、如何してか分からないけど、今持っている物を全部手放しても、こいつを、此処に置いておきたくないんだ。…何でなんだろうな。時々、好きなのと同じくらい、腹が立つのに。
多分、何故かは分からないが、相手が、自分を、世界の一番にしてくれなくても、其れは変わらない。
ただ、此処から逃がしてやりたい。
何を手放しても。
稍あって、良い御屋敷、と、早佐が呟いた。
「私は、此処が好きです」
「そうか」
「…此処を手放される事に、本当に納得なさっているの?」
「其れがさ」
―ああ、また、正直に言っちゃうんだな、俺。此処を、地獄とか、言っちゃった時みたいに。…何でなんだろう。
「此処が大好きなのと同じくらい、此処が、煩わしいんだ。…手放したい訳じゃないのに、手放すんだと思うと、もう守らなくても、継承しなくても、管理しなくてもいい、と思うと、悲しいのと同じくらい、ホッとする。どんなに管理しても、どんなに税金払っても、全然充分じゃない気がしちゃって、完璧には、管理出来ない気がしちゃって。…大好きなのに、一人だと、地獄みたいだと思っちゃって。…縛られてる気になっちゃって。完璧に管理出来ないなら、いっそ、って…」
そう、と早佐は言った。
「愛憎ね」
「愛憎?」
「無関心ではいられなかったのね。貴男、ちゃんと、此の御屋敷と向き合ったのだわ」
「向き合った?」
「貴男の頭の中の、御先祖だか、よく分からない、架空の偉い人が言うのでしょう?管理が出来ていない、掃除が完璧ではない、此の方法では駄目だ、文武両道でなければならない、鍛練が出来ていない、って。ずっと、其れと向き合ってきたのね、一人で。其のくらい、無関心でいられなかったのよ。零か百になってしまうの。愛しているのと同じだけ憎いのよ。持っていたいのと同じだけ棄てたいの」
「あ」
図星だった。
治一は、何故か、心の何処かが軽くなった気がした。
「架空か」
「ええ、其の存在ってね、実は『貴男』なのよ。貴男が、『管理が出来ていない』って、自分を責め続けているだけ。『大事なものなのに』って。本当の偉い人が、貴男を責めている訳では無いの。だから、そんな気持ちになるのだわ。…私には、そういう存在が居ないから、よく分かる」
「居ない?」
「ええ、姉にも居たのだと思うの。『御姉さんなのだから』とか言ってくる、架空の人が。兄にも居るのかもしれない。『御前は長なのだから』と言ってくる、頭の中の、架空の人が。他の人にも。呪いみたいに。私には、そういう、向き合う対象すら無かったというだけで」
「無い?」
「ええ。『学校に居るのだから、座って授業を受けなさい』とか、『女の子だから、こうしなさい』とか、『母親なのだからこうしなさい』とか、『こうしないと嫌われる』とか、そういうものと、隔絶されていたの。断絶が有ったと言っても良いでしょうね。其れってね、社会に居る為に、自分に課すものでもあるのよ。私みたいに、社会に自分の席が無いと、自分に課すものも、向き合うべきものも何も無いの。縛られない、自由な存在だけど、席は無いの。守るべき家も伝統も、家風も、何も無い。家族も無い」
―まただ。
此の女は直ぐ自己完結する。持っていないと言う。与えられないから欲さないと言う。要らない、もう充分だと言う。
―要る、って、言われたいなぁ。
此の人間は、驚く程、自分には手に入らないと思い込んでいる事に関しては、我が儘を言わない。
恐らく其れは、諦めなければならない事が多過ぎた生い立ちにも原因が有るのであろうが、究極の場面で何時も、此方に何も求めて来ない。
だから『汝を除て』と思ってはくれたのだろうが、其れを口にしてはもらえない。
連れ出して逃げてくれ、とは、恐らく、本人の口からは一生聞けない。
多分、ギリギリのところで、治一を巻き込まない様に、無関係になろうとしてくる。
そんな気が、如何しても、してしまい、其れが悲しい。
其の時、きっと言われるのだ。
要らない、と。
他人を要らないという事自体は、治一は別に、間違った事だとは思っていない。
家族が居なくなってしまっても自分は生きているし、誰かが居なければ本当に死んでしまうとか、物が食べられないとか、水も飲めなくなるとか、そんな事は滅多に無いのだろうと思う。
だから、掛け替えの無い存在、というものは有っても、其れが無ければ生きていけない存在というのは、そうそう無いだろうし、だから、他人は要らないのだと言われれば、そうなのかもしれないとも思う。
だが、治一は此の人間に要ると言ってもらいたくて、悲しい。
結局、自分は、あんな紙切れ一枚で走り出してしまう様な人間なのに、世界で一番にはしてもらえないし、治一の事も、もしかしたら要らないと思っている。
其れが悲しい。
置き場所が無いから、というのもあるが、今も、治一の紺色の羽織袴の袂には、身繕いの時に、懐から移した、あの、折り畳まれた紙が、馬鹿みたいに入っていて、御守りにも呪いにもなっている。
其れなのに。
―自己完結してる。
同じ風景を見ていない、という気になる。
世界の傍観者に恋をしてしまった様な気分になる。
鳥の様な高い所から物を見ていて、地に足が付いていなくて、一緒に、地面で這い蹲ってはくれない気がしてしまう。
治一が立っている地面に、相手は立っていない。
治一が立っている地面を、とても高い所から傍観していて、自分も本当は地面に立ちたがっている癖に、地面には立てないから最初から望まない、と言う。
だから時々、治一は、まるで自分が、相手の為にならない、無駄な努力をしようとしている様に感じる。
何もしなければ良かったのだろうか、と。
―引き摺り下ろしてやりたい。
そんな高い所から見下ろすなと言ってやりたい。
御前も一緒に這い蹲って、泥に汚れるという事を知れ、と言いたくなる。
思い上がるな、未だ人間だろう、と。
勝手に無関係になろうとするな、他人を巻き込んで、醜く地べたを這いずり回って、失敗を繰り返して、恥を掻いて、他人に迷惑を掛けて、掛けられて、其れが人間だろう、と。
一緒に其れを遣る為に、其の御綺麗な所から降りて来い、と。
『未だ人間で居ないと』
―あれ?
『裏も表も含めて人間なのだ。自分の裏も見詰めろ。其れに、『皆が幸せ』の『皆』の中に、御前が入っていなかったのも問題だ。御前、残された者が、御前の代わりに得た物で、喜んだと思うのか?』
何故か、ふと、嘗て自分も其れを遣った様な気がした。
そうして、誰かを傷付けた、と。
稍あって、日が暮れるわ、という、小さな声がした。
「意地悪だわ、冬の日は短いのに、日没までだなんて」
帰りたくないわ、という、小さな声を聞いて、あーあ、と治一は思った。
結局、此方を選ぶのだろうと思った。
無駄でも、迷惑がられても、要らないと言われても、此の人間を連れて一緒に逃げ出す事を、何度でも選ぶのだろう、と。
此の人間だけ置いていく、という方を、如何しても選ばないのだろう、と。
冬の日暮れが早いのまでは流石に俺のせいじゃないな、と、ぶっきら棒に言うと、腕の中で、何時もの様に、何が楽しいのか、クスクスという、甘い、掠れた笑い声がした。
実は、此の声を聞くのは、別に嫌いでは無いのだが、治一には、其れを口にする気は無い。




