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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第五章 悪意
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中二階


「さて、…本当に、梯子(はしご)(のぼ)れるか?」


 手を洗い、羽織まで着直して身繕いしてから問い掛けると、振袖娘(ふりそでむすめ)は、意を決した(よう)な顔をして、(うなず)いた。


―…俺は中二階(ちゅうにかい)を寝室に使ってるから、全く気持ちが分からないけど、こいつにしてみたら、梯子(はしご)(のぼ)るのって、大冒険なんだろうなぁ。


 何なら、幼少の(みぎり)には、(みち)(あき)と一緒に、此の梯子(はしご)の上から飛び降りる遊びをして、よく叱られていたものである。

 こんな事が今更、遣ってみたい程、面白そうに思えているのであれば、(はる)(いち)からしてみれば、気の毒な話だった。


「じゃあ、先に(のぼ)って、後から手を貸してやるから。ゆっくり(あが)って来てくれ」




 (はる)(いち)が、先に中二階に()がり、上から持ち上げてやると、フワリと、あの白梅の香りがした。


 明り取りの細い横長の窓からの淡い光で、早佐の大きな瞳が、美しい(はしばみ)色から、(ふち)の黒い、黄味がかった、明るい、透き通った赤茶色に変じた。


 大きな黒目の周りに、大輪の花の(よう)な虹彩が見える。


 室内で黒っぽく見えていた髪も、光の中で、柔らかな赤味を帯びて、光っている。


―あれ?


 持ち上げてやって以降、相手は、全く(はる)(いち)から離れる気配が無かった。

 早佐は、(はる)(いち)の両手を掴んだ(まま)、キョロキョロと、辺りを見渡した。


 其の瞳が動くと、角膜を透過した光の中で輝く虹彩の(ひだ)が、(かす)かに(きらめ)(よう)に思えた。


 早佐の、其の、透明感の有る瞳の中で踊る光に見入っていると、ふと、(はる)(いち)は、其の、相手の黒目の焦点が、自分に集中した事に気付いた。


「物が無いのですね」


「ああ、寝るのにだけ使ってるから。…調べた事は無いけど、耐荷重が気になってさ。養蚕出来る程度には丈夫な筈なんだけど、古いから、自信が無くて。昔は書斎みたいな使われ方もしてたらしい。布団も、出掛けに、干したついでに奥座敷に片付けたから。殺風景だろ」


 降りよう、という提案に、早佐は返事をしなかった。

 全く(はる)(いち)から離れようとしない。


「暗くなる前に、電気を()けてやるよ。ブレーカーを上げなきゃ。一度降りよう?」


「…必要有りません。日没には、御迎えが来るのでしょう?…真っ暗になる前には、御義兄様(おにいさま)此方(こちら)に御越しになるのでしょう?」


「まぁ、そうだけど」


「…だから、()りません」


「寒くないか?炬燵(こたつ)でも」


「此処で良いのです」


(なん)にも無いぞ、此処」


「…(なに)()りません」




 それきり、相手が黙りこくってしまったので、(はる)(いち)は其の(まま)、早佐を抱いて、中二階に座っていた。


 先月まで、此の相手と、こういう関係になるとは、全く予想していなかった(はる)(いち)は、何と無く、自分の頬を、相手の頬に、くっ付けた。


 早佐は頬を染めて、驚いた様子を見せた。


 落ち着くかと思って、と言ったが、小さな声で、落ち着かないわ、と言われた。

 だが、其れでも、相手が自分から離れる様子が無かったので、(はる)(いち)は、早佐を其の(まま)抱いていて、明り取りの窓からの光が、早佐の髪に落ちるのを眺めていた。


―静かだな。


 冬の太陽が、ゆっくり傾いていく。

 普段は一人で寝起きしている筈の中二階に、仄かな白梅の香りがする。


如何(どう)してかな。


 ()()(ほう)が好きな筈だった。

 家族も()()も居なくなって、此の広い場所に一人で、自棄(やけ)になっていた。

 其れも、そんなに昔の事では無い。

 先月の事だ。

 こういう事になるとは、本当に予想もしていなかったし、此の人間の為に、此の土地屋敷を手放して、此処を出て行くとも、全く考えていなかった。


 其れなのに、先刻(さっき)は一瞬、()()(ねた)ましかった。


 相手の中で、一番大事な物として、高潔な存在として()り続ける()()が。


―何で、こんな奴、好きになったんだろう。


 理佐より我が(まま)で、自分に何でも捨てさせて、自分の命も危険に晒す、こんな人間の、何処が良いのだろう。

 全部を相手の為に手放しても、世界で一番、を、(はる)(いち)にしてくれない人間なんかの、何処(どこ)が良いのだろう。


 どれだけ体の距離が近くても、相手の頭の中の事までは分からない。

 体を重ねても、何も理解出来ない。


 相手の一番にも、如何(どう)やら、してもらえない。


―いや、違うんだよな。


 土地屋敷を手放すタイミングは幾らでも有って、偶然、時期が重なったのだとも言えるし、何かを手放すのは、別に、相手の為だけでも無いのだ。


―此処に居させたくないんだ、こいつを。


 勝手に自分が、此の人間を、瀬原(せばる)集落から連れ出したいと考えているだけで、相手から、何もかも手放せと言われた訳では無いのだ。


―こいつなんかの何処が良いのか、全然分からないけど、如何(どう)してか分からないけど、今持っている物を全部手放しても、こいつを、此処に置いておきたくないんだ。…何でなんだろうな。時々、好きなのと同じくらい、腹が立つのに。


 多分、何故かは分からないが、相手が、自分を、世界の一番にしてくれなくても、其れは変わらない。


 ただ、此処から逃がしてやりたい。


 何を手放しても。




 (やや)あって、良い御屋敷(おやしき)、と、早佐が呟いた。


「私は、此処が好きです」


「そうか」


「…此処を手放される事に、本当に納得なさっているの?」


「其れがさ」


―ああ、また、正直に言っちゃうんだな、俺。此処を、地獄とか、言っちゃった時みたいに。…(なん)でなんだろう。


「此処が大好きなのと同じくらい、此処が、(わずら)わしいんだ。…手放したい訳じゃないのに、手放すんだと思うと、もう守らなくても、継承しなくても、管理しなくてもいい、と思うと、悲しいのと同じくらい、ホッとする。どんなに管理しても、どんなに税金払っても、全然充分じゃない気がしちゃって、完璧には、管理出来ない気がしちゃって。…大好きなのに、一人だと、地獄みたいだと思っちゃって。…縛られてる気になっちゃって。完璧に管理出来ないなら、いっそ、って…」


 そう、と早佐は言った。


「愛憎ね」


「愛憎?」


「無関心ではいられなかったのね。貴男(あなた)、ちゃんと、此の御屋敷(おやしき)と向き合ったのだわ」


「向き合った?」


貴男(あなた)の頭の中の、御先祖だか、よく分からない、架空(かくう)の偉い人が言うのでしょう?管理が出来ていない、掃除が完璧ではない、此の方法では駄目だ、文武両道でなければならない、鍛練が出来ていない、って。ずっと、其れと向き合ってきたのね、一人で。其のくらい、無関心でいられなかったのよ。(ぜろ)か百になってしまうの。愛しているのと同じだけ憎いのよ。持っていたいのと同じだけ()てたいの」


「あ」


 図星だった。


 (はる)(いち)は、何故か、心の何処かが軽くなった気がした。


「架空か」


「ええ、其の存在ってね、実は『貴男(あなた)』なのよ。貴男(あなた)が、『管理が出来ていない』って、自分を責め続けているだけ。『大事なものなのに』って。本当の偉い人が、貴男(あなた)を責めている訳では無いの。だから、そんな気持ちになるのだわ。…私には、そういう存在が居ないから、よく分かる」


「居ない?」


「ええ、姉にも居たのだと思うの。『御姉さんなのだから』とか言ってくる、架空の人が。兄にも居るのかもしれない。『御前は(おさ)なのだから』と言ってくる、頭の中の、架空の人が。他の人にも。(のろ)いみたいに。私には、そういう、向き合う対象すら無かったというだけで」


「無い?」


「ええ。『学校に居るのだから、座って授業を受けなさい』とか、『女の子だから、こうしなさい』とか、『母親なのだからこうしなさい』とか、『こうしないと嫌われる』とか、そういうものと、隔絶されていたの。断絶が有ったと言っても良いでしょうね。其れってね、社会に居る為に、自分に課すものでもあるのよ。私みたいに、社会に自分の席が無いと、自分に課すものも、向き合うべきものも何も無いの。縛られない、自由な存在だけど、席は無いの。守るべき家も伝統も、家風も、何も無い。家族も無い」


―まただ。


 此の女は()ぐ自己完結する。持っていないと言う。与えられないから欲さないと言う。()らない、もう充分だと言う。


()る、って、言われたいなぁ。


 此の人間は、驚く程、自分には手に入らないと思い込んでいる事に関しては、我が(まま)を言わない。


 恐らく其れは、諦めなければならない事が多過ぎた生い立ちにも原因が有るのであろうが、究極の場面で何時(いつ)も、此方(こちら)に何も求めて来ない。


 だから『汝を除て(あなたしかいない)』と思ってはくれたのだろうが、其れを口にしてはもらえない。

 連れ出して逃げてくれ、とは、恐らく、本人の口からは一生聞けない。


 多分、ギリギリのところで、(はる)(いち)を巻き込まない(よう)に、無関係になろうとしてくる。


 そんな気が、如何(どう)しても、してしまい、其れが悲しい。


 其の時、きっと言われるのだ。


 ()らない、と。




 他人を()らないという事自体は、(はる)(いち)は別に、間違った事だとは思っていない。

 家族が居なくなってしまっても自分は生きているし、誰かが居なければ本当に死んでしまうとか、物が食べられないとか、水も飲めなくなるとか、そんな事は滅多に無いのだろうと思う。

 だから、掛け替えの無い存在、というものは有っても、其れが無ければ生きていけない存在というのは、そうそう無いだろうし、だから、他人は()らないのだと言われれば、そうなのかもしれないとも思う。


 だが、(はる)(いち)は此の人間に()ると言ってもらいたくて、悲しい。


 結局、自分は、あんな紙切れ一枚で走り出してしまう(よう)な人間なのに、世界で一番にはしてもらえないし、(はる)(いち)の事も、もしかしたら()らないと思っている。


 其れが悲しい。


 置き場所が無いから、というのもあるが、今も、(はる)(いち)の紺色の羽織袴の(たもと)には、身繕いの時に、懐から移した、あの、折り畳まれた紙が、馬鹿みたいに入っていて、御守りにも呪いにもなっている。


 其れなのに。


―自己完結してる。


 同じ風景を見ていない、という気になる。

 世界の傍観者に恋をしてしまった(よう)な気分になる。

 鳥の(よう)な高い所から物を見ていて、地に足が付いていなくて、一緒に、地面で()(つくば)ってはくれない気がしてしまう。


 (はる)(いち)が立っている地面に、相手は立っていない。

 (はる)(いち)が立っている地面を、とても高い所から傍観していて、自分も本当は地面に立ちたがっている(くせ)に、地面には立てないから最初から望まない、と言う。


 だから時々、(はる)(いち)は、まるで自分が、相手の為にならない、無駄な努力をしようとしている(よう)に感じる。


 何もしなければ良かったのだろうか、と。


()()り下ろしてやりたい。


 そんな高い所から見下(みお)ろすなと言ってやりたい。

 御前も一緒に()(つくば)って、泥に汚れるという事を知れ、と言いたくなる。


 思い上がるな、()()()()()()()、と。


 勝手に無関係になろうとするな、他人を巻き込んで、(みにく)く地べたを這いずり回って、失敗を繰り返して、恥を掻いて、他人に迷惑を掛けて、掛けられて、其れが人間だろう、と。


 一緒に其れを遣る為に、其の御綺麗な所から降りて来い、と。


()だ人間で居ないと』


―あれ?


『裏も表も含めて人間なのだ。自分の裏も見詰めろ。其れに、『皆が幸せ』の『皆』の中に、御前が入っていなかったのも問題だ。御前、残された者が、御前の代わりに得た物で、喜んだと思うのか?』


 何故か、ふと、(かつ)て自分も其れを()った(よう)な気がした。


 そうして、誰かを傷付けた、と。




 (やや)あって、日が暮れるわ、という、小さな声がした。


「意地悪だわ、冬の日は短いのに、日没までだなんて」


 帰りたくないわ、という、小さな声を聞いて、あーあ、と(はる)(いち)は思った。


 結局、此方(こちら)を選ぶのだろうと思った。


 無駄でも、迷惑がられても、()らないと言われても、此の人間を連れて一緒に逃げ出す事を、何度でも選ぶのだろう、と。


 此の人間だけ置いていく、という(ほう)を、如何(どう)しても選ばないのだろう、と。


 冬の日暮れが早いのまでは流石(さすが)に俺のせいじゃないな、と、ぶっきら(ぼう)に言うと、腕の中で、何時(いつ)もの(よう)に、何が楽しいのか、クスクスという、甘い、(かす)れた笑い声がした。


 実は、此の声を聞くのは、別に嫌いでは無いのだが、(はる)(いち)には、其れを口にする気は無い。




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