我儘
早佐には脈絡無く思えた収入の話だったが、相手には、何か考える事が有ったらしく、其れを口にしてから、茶を飲み干し、暫く黙りこくってしまった。
早佐は、治の、先刻まで本通りで敏捷に動いていた、均整の取れた姿が、そんな事などまるで感じさせない、優雅な、紺色の羽織袴に包まれて、自身の隣に座っているのを、改めて見た。
其の折り目正しい姿は、見事な建物と調和しており、端麗としか言い様が無かった。
冬の池の水面の様な静謐な空間と、相手の様子は、同じ、静かで整った雰囲気を纏っており、成程、此の人物は、此処で生まれ育ったもの、と、早佐に納得させた。
飲んでいる御茶以外には、何の熱も、寒さも感じない空間。
乾燥し過ぎてもいない、湿度が高過ぎもしない、上がり框と畳、囲炉裏。
飾られる様に置かれた、恐らく家紋であろう、大きな黒い紋の入った、白い手持ち提灯。
木と漆喰と土間で構成された空間と、婚約者。
本当に、静かで、広くて、時間が止まった様で、此処に居る事に、早佐は、何の苦痛も不安も無かった。
兄に山茶花の花を挿し掛けられて嫌な思いをしていたのは、遠い昔の話で、まるで嘘だったかの様に、早佐は、落ち着いた気分で、ただ、其処に居た。
―そうね、花咲き乱れる極楽ではないのでしょうが。屋敷の主が地獄だと称するのなら、此処は地獄なのでしょう。…なんて、静かで、好い所なのでしょう。…本当に、落ちるなら、こんな地獄が良いわ…。此処に落としてもらいたい。死んだ後に行ける世界が、此処にはなり得ない事は、分かり切っているけれど。
思えば霜降の、楓蔦黄、晩秋に思いを遂げてしまってから、早、立冬も、金盞香の候となったが、曇りがちな冬の日だというのに、厚い、豪奢な振袖のせいか、早佐は寒さを感じなかった。
こんな大事な場所で、食事を作る場所を使わせてくれた相手に対して、早佐は、例え様も無い感謝の念を抱いた。
だが、俯いて土間を見詰める漆黒の瞳は、捉えどころが無く、考え深げで、早佐には、其の考えている内容は推し量れない。
―何かを、とても沢山考えているのでしょうけど、頭の中は見えないわね。
そう、早佐が前に考えていたよりも、如何やら、そうなのだ。
治は頭が良い。
如何やら、特技も多く、技能も高いらしいのだが、本人にとっては出来るのが当たり前だから、取り立てて言い立てる様な事でも無く、其れが凄いという事については、殆ど無自覚で、だから顕示しない。
そして、此の人物は、早佐が思っていたより、ずっと正直で、出来ない事はハッキリ出来ないと言い、出来る事と出来ない事を直ぐ判断出来、出来ないと分かるや、直ぐ他人を頼る事が出来るのだ。
出来る、などという見栄は、一切張らない。
だから、出来る事の其れ程多くない早佐にも、『頼む』などと、嬉しい事を言ってくれて、そして、思っていたより、ずっと繊細で、心配性らしい。
其の人間が立てている計画だから、ある程度は成功の見込みが在る、集落脱出計画だという事は、早佐にも理解出来るのだが。
―不安になるでしょうね。其れは、常識の範囲内での想定で、成功する確率が高い、という事なのだから。兄には常識は通じない。私を諦める気も無い。其れが、先程、本通りで起きた出来事の意味。…此の人を、如何やったら、兄から逃がす事が出来るかしら…。
早佐は、御茶を飲み終えた湯呑を、上がり框に置くと、姉の話が出来て嬉しゅう御座いました、と言った。
「…姉の事を粗略に扱わなかった人と、姉の話が出来るのは、好いものですね。…『可哀想』ではない、美しい姉が、其の人の頭の中に、未だ居てくれる気が致します。其れだけで充分、満足です。姉が誰かに、今も大事に思われているのであれば、他の事は、其れ程、強くは望みません。幸福です」
早佐としては最上級の礼と賛辞を口にした心算だったのだが、相手は、複雑そうな顔をして、そうか、と言った。
―あら?
姉が御好きだったのでしょう?と尋ねると、相手は、益々、複雑そうな顔をした。
「…その…。理佐が、御前にとって、世界で一番大事なのは分かった」
分かってくださるのね、と早佐が言うと、治は、何故か、俯きながら、分かるけど、と言った。
其の姿が、何だか、少し傷付いている様に見えたので、早佐は不思議だった。
「…何か、可変しな事を言ってしまったのかもしれませんね?…私、姉が大事だった事を、兄には、分かってもらえなくて…。貴男には分かって頂けたから、嬉しくて」
「…まぁ、殺害疑惑が出るくらいだから、そうなんだろうな…。其れについてはコメントし難いけど…。最早『大事』という言葉が出るか?ってレベルで、兄妹仲の良し悪しで語れる範疇の人間関係だったかと問われると、もう…」
困惑した様に、そう言う相手に対して、早佐は素直に、変な家で御免なさいね、と言った。
「…私、上手く、その…精神的交流、コミュニケーションと申しますか、そういうものを取る事に、其れほど長けていない様でして、兄とも、そうですが…姉とも、本当に、コミュニケーションが取れていたか否かについては…。その、今以て、自信を持って『姉の事を深く理解出来ていた』とは言えない、と申しますか」
「あー、其れは分かる」
別段、早佐のコミュニケーション能力に対する自己評価について、『そんな事は無い』と否定してほしかった訳では無かったのだが、あまりにも正直に、相手が肯定してきたので、早佐は、思わず吹き出してしまった。
何笑ってんだ?と相手は、不思議そうに続けた。
「うん、まぁ…。御前、コミュニケーション能力が、その…。うん」
こういう関係になる切っ掛けすら、歪み切っていた事は事実だったので、早佐は、相手の自分に対する率直な評価に、可変しくなってしまって、つい、クスクス笑ってしまった。
相手は、更に不思議そうに、笑う箇所有ったか?と言った。
「褒めて無いんだぞ?…まぁ、分かるよ。理佐って、ちょっと…。譲り過ぎな所が有った気がするから。気を遣って、こっちに合わせてくれてたんだろうな、って思う事も有ったし」
「そう、そうなのです。御分かり頂けますか?何でも、私の為に譲ってくれましたから…。私、姉が、本当は、どんな色が好きだったのかも…」
白じゃなかったのか?と問うてくる相手に、早佐は、分からないのです、と、悲しい気持ちで答えた。
「兄が姉に着せていた、というだけだったようでして…。私、姉を、美しい、優れている、優しい、と、奉ってばかりで…。姉個人の事に、キチンと思いを馳せていられなかったのではないかと、最近、思うに到りまして」
再び、治は、分かる、と言った。
「奉る、って言葉、ピッタリだな。神格化というか。…あー、理想化されてんのね、御前の中の理佐は。…いや、他人の事は言えないか。そっか、理佐、白、好きじゃなかったかもしれないって事?言われてみれば、普段着は、制服以外だと、赤っぽい紬だったな」
まぁ、と早佐は言った。
「…知りませんでした…。そうですか、外出の際には、其の様な、普段着の着物に着替えていたのですね…」
早速、知らない姉の姿を知ってしまった早佐は、悄然とした。
そんなに落ち込む?と、相手は、驚きの声を上げた。
「ん、まぁー、ほら、婚礼衣装も白だったし。あれは流石に、自分で選んだんだろ?」
「いえ、其れも、兄が。…態々、姉に白を着せる為に、二月の水配りにしたそうでして」
相手が、目を点にして、何、其の拘り、と言ったので、早佐は、もう一度吹き出してしまった。
「ええ、よく分からない拘りなのですが。…私には赤を着せたいから、正月の水配りにしたらしいですよ」
嘘だろ、と治は言った。
「…婚約者選出理由は立地で?水配りの時期選定理由は襲の色目なの?マジで言ってんの、其れ。…誰かに対して、其処までして着せたい色が有る、って時点で、もう、よく分かんないんだけど…」
「俄かには信じがたいでしょうが…事実です。兄本人から聞きましたから」
えー?と言って、令一より遥かに常識人らしい、以前より言葉遣いに遠慮が無くなってきた婚約者は、首を捻った。
「何だっけ、あの、白いやつ。氷の襲、って…冬の襲だろ?言われてみれば、二月の襲だったっけ?あの時は似合うなー、くらいしか思わなかったけど。…正月は新春とか言うから、梅のイメージで赤を使うってのは分かるんだけど。いっそ、夏の襲で卯花にすれば良かったのに…」
意外にも、相手は、季節の襲について、造詣が深いらしかった。
―…本当に侮れない。坂元本家は、キチンとした教育を後継に施していたのね…。
諸説有るそうですが、と答える早佐に、治は、そうか、と言った。
「…ああ、ま、冬…かぁ。理佐の水配り、二月三日だったから、ギリギリ大寒か?翌日が立春だっけ?」
暦の知識も有るらしい相手に、益々感心しながら、早佐は、そうですね、と言った。
―共通言語が無い訳でも無いとは、有難い事…。
「ただ、卯の花も、実際は三、四月の花ですから。新暦を取るか旧暦を取るか、という合わせ方になってしまうでしょうし。其処を行くと、新春の赤、は、未だ通りが良いと申しますか」
「…通年の祝いの色目の柳とかじゃ駄目だったのか?…いかん、本当に分からん。はー、高貴な御方の考える事は、下々には分からんなぁ。そっか、一生に一度の事なんだから、婚礼衣装くらい、自分で選べるものだとばかり。じゃ、気の毒だったかなぁ、理佐。…御前は?」
「え?」
「好きな色は?」
―…そんな事、生まれて初めて聞かれたわ。
「全部です」
「全部?」
「本当は、どの色にも、好い所が有る様に思えて、嫌いな色など無いのです。世界を彩ってくれる、花の様に思えて。ただ、兄に押し付けられるのは気に入りません。赤を着ろと押し付けられるから、此の振袖も気に入らないし、姉が着ていた物を着てみたい。単なる反発心ですね。色は全て、美しいですよ」
―そして恐らく、貴男が何かを与えてくれるのなら、何だって、全部気に入りそうな気がするわ。…流石に、そうは言えないけれど。
ハッキリ言うなぁ、と、感心した様に、治は言った。
「まー、好きな色を着られたら其れが一番だろうな。自分で選びたい気持ちは分かるよ」
貴男は?と早佐が聞くと、相手は簡潔に、青、と言った。
早佐は、実に自然な此の遣り取りに感心して、青、と復唱した。
―此れがコミュニケーションというものかしら?興味を持って、相手と、好きなものを尋ね合う。…確かに、少なくとも、兄とは出来ていない事ね。
『あいつが白い服が嫌いだと言ったから。だから、理佐は、婚礼衣装も氷の襲にしてやったのだ。あの襲が合う様に、『水配り』の時期を二月にしたのだぞ?』
嫌な鳴き声を思い出してしまった早佐は、あの、と聞いた。
「…御義兄様は、白が御嫌いですか?」
何で?と、治は言った。
「岐、今朝も白いTシャツ着てたけど?」
え?と早佐は聞き返した。
「白、御好きなのですか?御義兄様は」
あー、と治は言った。
「そういうイメージが有るのか。ま、本人は、緑色とかのが好きなんじゃないのかなー。でも、自分では、あんまり白を着ないけど、誰かが白を着てるのを見るのは寧ろ好きらしいよ。…如何した?!」
思わず、クスクス笑ってしまった早佐に、治は、再び驚きの声を上げた。
いえ、と早佐は言った。
「最高の気分になったもので」
更に、ニヤッと笑った早佐に対して、笑いのツボが分からん、と、常識的な婚約者は、実に正直に言ってきた。
「…まぁ、何が面白いか、とか、他人の頭の中なんて分らんよな。こんな申し訳ない持て成しで、最高の気分になってくれるなら、良い話だ」
ええ、と言って、早佐は微笑んだ。
「私にとっては、あそこに、冷蔵庫が在るのを見るだけでも、もう面白いのです。厨に立ち入る事も稀ですからね」
はー、と、困った様に治は言った。
「其処まで言ってもらえたら、白物家電も本望だろうなぁ。電源切っちゃったから、中身は何も無いけど…風呂場に併設の脱衣所には洗濯機も在るぞ?…あ、思い出した。来客には、最初に厠の場所を教えるのが筋だったな。親が居たら叱られてたところだ」
一応教えておく、と言って立ち上がる相手に合わせて、慌てて、早佐も立ち上がった。
「…あら、あそこの硝子、歪んで…。若しかして」
「ああ、透明度の低い硝子は、大正の頃の物らしい。割れた所だけ、今の硝子を入れてるから、外の景色の見え方が違うだろ。…古いよな、博物館みたいだろ?」
―見栄を張るべき客間なら分かるけれど、こんな、内向きの場所に、大正時代は高級品だった、硝子を?!…本当に、気付かないものなのかしら、自分の家に大正時代、硝子を嵌める事が出来たというのが、如何いう事なのか。…そうね、他人の『当たり前』だって、分からないものよね。頭の中も。
案内された厠を見て、早佐は更に驚いた。
「…此れもまさか、大正時代の…?」
よく分かるなぁ、と、上座敷の脇の厠に案内してくれた相手は、また、感心した声を出した。
「大正から有る、染付の陶製だよ。其の頃から水洗らしい。水回りを改装した後も、此れだけ残ったんだ。丈夫だよなー」
「大正時代から水洗…?」
―本気で仰っているのかしら。其れに、此の、高級そうな、白地に青の染付陶器製の便器…。一体、如何いう文化水準だったの?
しかし、相手は、何でも無い事の様に、そうそう、と言った。
「こっちは本来、来客用に大正時代に増設したらしい。元は玄関の方がメインだったんだ。寒いから今は使ってないけど」
「…御手水が二つ?…大正時代に?」
「何でも、情報収集用だったらしい」
―…やはり、用を足している時も外敵の気配を察知する必要が有っての間取りだったのだわ。其れと、往来の会話を聞いての情報収集。…只事ではない話しか、先刻から出て来ないけれど、此の人にしてみれば、古いだけの物なのね。
「後は何か希望が有るか?」
揃って上座敷に発った儘で居ると、理佐の物でも有れば良かったけど、と、申し訳なさそうに、相手は言った。
「小さい時は兎も角、大きくなってからは、縁側までだったからなぁ。何が有ったかなぁ、縫い包みとかも、もう無いしなぁ」
「…若しや、姉は、縫い包みで遊びましたか?」
「あー、母屋に来てた時は、遊んだかも?もう、あんまり覚えて無いけど」
「…実は、兄に、私の喘息を理由に、姉も私も、縫い包みを禁じられておりまして。…縫い包みが好きだったのであれば、姉には、気の毒な事をしました」
成程、と治は言った。
「んー、理佐にまで禁じさせてたのか。…まぁ、縫い包みに、ハウスダストアレルギーのアレルゲンが発生しやすい事は確かだし、姉妹で持ち物に差が出来ない様にするのは、教育方針としては有りなのかな…」
「前吉野本家当主の保親さんという方が、沢山くださっていたらしいですが、都度、兄が燃していた様ですよ」
「え?…や、焼いてたの?」
「実に兄らしい行動です。処分方法としては妥当だったのでしょうね、自然と申しますか」
其処までする?と、目を瞬かせる相手に、他人の首を絞める人間の行動ですよ?と早佐が言うと、相手は、更に困った顔をした。
「…だからさ。そういう事が不自然じゃないってのは、…あ、いいや。続けてくれ。…保親さんって、如何いう人だった?」
「保親さんという方は、御着物ですとか、他にも、両親の死後、何くれなく面倒を見てくださった様子ですが。兄は、嫌だったのか、私達姉妹は、殆ど会わせて頂けませんでしたね。姉が遊びに出ている時や、私を面会謝絶にしている時に御招きしていた様子でして。ですから、為人も、殆ど知りません。御葬式も、兄と姉だけ参加しましたしね」
ふーん、と治は言った。
「一応『保護者』役はしてたのか…」
「え?」
「いや、此方の話だ。…他には、何が見たい?後は庭くらいか?とは言え、管理の悪い庭で…」
「そんな事は有りません。貴男は、古い古いと卑下なさるけれど、綺麗になさっておいでです。御庭も、此処から分かるだけでも、荒れているという事は無いわ」
「うーん、其れを言われるとなぁ。昔は、嫁の背の高さくらいまでは、拭き込まれて、木の部分が黒光りしてたもんだ、なんて言われて育っちゃったもんだから、フロアワイパーで掃除してる事に罪悪感が有るんだよ…」
其の言い方が、あまりにも正直だったので、早佐は、また笑ってしまった。
「ふふふ。ああ、そうだわ、中二階。あそこの梯子、上らせて頂けて?」
「…振袖で?!…大丈夫か?」
「それと、弓を引いてらっしゃるところを見せて頂きたいわ」
治は、本気で言ってるのか?と言った。
「何年ブランク有ると思ってんだよ」
「でも、希望は無いかと仰ったわ」
「…言った」
「ね。…あまり、兄を刺激する訳にもいきませんから、此処に御邪魔出来る機会は、もう訪れないでしょう。後生ですから、見せて頂けません事?」
「『後生だから』とか他人に言われた事無いんだけど!?そりゃ、哀願する時に使う言葉じゃないのかい」
「ええ、哀願ですわ。哀れでしょう?」
そう言って、早佐がクスクス笑うと、そういう性格でしたねぇ、と、諦めた様に言って、治は、両目を閉じた。
「…何で、俺の周りって、断り難い事を頼んでくる奴とか、絡んでくる奴が多いんだろう?」
―其れは、貴男が、聞いてくれそうだからだわ。何と無く、皆、貴男に甘えているのでしょうね。…押しに弱くて、人が好い自覚は、やっぱり無さそうだけれど。
「まぁ、好い事を伺ったわ。ふふふ。そうねぇ、では、断り難い言い方を致しましょうか。二度と此処に来られないかもしれない人間の頼みを聞き届けてくださらない?弓を引いて見せて」
治は、目を開けて早佐の方を見ると、諦めた様に言った。
「…性格、悪ー。羨ましいなー、平気で我が儘が言える性格」
「ええ、私、我が儘を聞いて頂くの、平気だわ。貴男よりも性格が悪い自覚も有るの」
そう言って早佐が微笑むと、質、悪ー、と言って、人の好い婚約者は弓的場に向かってくれた。
厠だけは非公開だったので、違う場所をモデルにしております。




