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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第五章 悪意
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 御風呂も二つ在るのですか、と、割合小柄な(ほう)なのに、華やかな振袖に負けない、高貴な迫力を持った箱入り娘は言った。


―まぁー、こんな御嬢様(オゴイサァ)、こんな古い家に来ても、拉麺(ラーメン)くらいしか見せる物が無くて、気の毒だよな、ホント。


 そうそう、と(はる)(いち)は言った。


「庭に五右衛門風呂が在るんだけど、寒くてさ。こっちの、炊事場(ナカエ)の端に増築した、ガス湯沸かし器付きの風呂しか使ってない。炊事場(ナカエ)の土間から風呂に行かないといけないから、履物が要るのは、ちょっと不便かな。あ、ガスコンロの近くに…ああ、有った」


 炊事場(ナカエ)の方に在る囲炉裏端で五個入りの袋麺(ふくろめん)を発見した(はる)(いち)が、振袖娘(ふりそでむすめ)に手渡すと、相手は、(うやうや)しく、両手で(かか)げ持ちながら、頬を染めて、此れが(ふくろ)(めん)、と言った。


「袋入りの、乾麺の事だったのですね…」


―そんな、目を輝かせる(よう)な物じゃ無いんだけど…。重ねて気の毒だなぁ。


「まぁ、こんだけの物だよ。インスタント…つまり、御湯を沸かして茹でれば作れちまう簡易な物だから、人によっては、料理のうちにカウントしてなくて、そんな物しか作れないのは、『酷い』って言ったんだろうさ。そうだ、テレビと炬燵(こたつ)も在る。ブレーカー上げて、エアコンも入れてやろう。テレビでも見るか」


 いいえ、と言って、頬を染めた(まま)、早佐は、繁々(しげしげ)(ふくろ)(めん)を見詰めていた。


「私、(くりや)で御湯を沸かした事も、コンロとやらの火を()けた事も御座いませんの。全部、本の中の出来事。実は、缶詰も、初めて実物を見たのです。…(しばら)く、此の(まま)で居させてくださいません事?」


「…そういう話なら、好きなだけ見れば良いと思うけど」


 コンロに火くらいだったら()けさせてやるよ、と、あまりにも相手が気の毒になった(はる)(いち)は言った。


「今、ガスの元栓、開けて来てやるからさ。コンロを使うには、土間に出る必要が有るから、御前の草履も持って来てやるし。此処で、少し待てるか?」


 勿論、と、頬を染めた(まま)、早佐は返事をした。


「…実践、させてくださるのですか?」


「…いやー、そんな大仰(おおぎょう)なもんじゃないと思うけど。そう言ってくれるなら、薬缶(やかん)で御湯でも沸かしてもらおうかな。電気ポットでなら、御茶は入れられるだろ?薬缶(やかん)で御湯を沸かしたら、其れで御茶を煎れてもらおうかな。()だ、封を切ってない、頂き物の雁ヶ音(かりがね)が在った筈だ。煎れ方は玉露と、そう変わらないから。煎茶より、少し(ぬる)めで煎れてもらえれば…」


「御茶まで煎れさせて頂けるのですか…?」


 感動した(よう)に、そう言う相手に、(はる)(いち)は慌てた。


「いや、来客に御茶を煎れさせる家なんて、聞いた事無いから。あべこべだよ。しかも、本家で、こんな持て成しなんだぞ?玉露ですら無いんだ。(ひい)祖父(じい)ちゃんが雁ヶ音(かりがね)が好きだったから今も(たま)に貰うだけで、自分じゃ茶葉も買わない(よう)な家なんだってば。喜んじゃ駄目だって」


「…でも、今日、火を()けて、御湯を沸かすところから遣らせて頂けるなんて…考えてもみませんでした。那智(なち)さんの御宅の御庭も見させてもらえなくなって、絶望していたところに。生きていれば、こんな()い事も有るものなのですね…」


―はぁ?本部の藍児(らんじ)さんの所の庭を見せてもらえなかったら、絶望?!『生きていれば、こんな()い事も有るものなのですね』って?!…どんだけ閉じ込められて生きて来たんだ?


 そんな哀れな事を言う相手の瞳が、何時(いつ)に無く輝いているので、(はる)(いち)は、あまりの気の毒さに、両目を閉じて、分かったよ、と言った。


「本家の御嬢様(オゴイサァ)に御茶を煎れさせた事は内密にな。其れと、振袖が燃えない(よう)にしてくれよ。良い着物は、恐ろしく燃えるのが早いからなぁ。(たすき)を貸してやる」


 早佐は、夢を見る(よう)な瞳をして、ほう、と溜息をついて、有難う御座います、と言った。


―えー?…いや、こりゃ、思ったより不味いぞ。(ふくろ)(めん)を作らせてあげた方が良かったのか?


 しかし、自身も盛装で、相手も振袖で、(ふくろ)(めん)を作らせる勇気も、(ふくろ)(めん)を作ってやる勇気も、汁が飛ぶ可能性が有る食べ物を振袖娘に(きょう)する勇気も、自分が羽織袴姿なのに、うまかっちゃんを食べる勇気も、全く持ち合わせていない(はる)(いち)だったので、御茶が精々(せいぜい)、といったところであった。


―喜んでくれてるみたいだから、其れが御持て成しって事で、良いのかなぁ…。


「じゃ、此れ、(たすき)。玄関に戻って、御前の履物を取って、自分も外に出て、ガスの元栓を開けたら戻ってくる。そうしたら、薬缶(やかん)をコンロに掛けて、火を()けてもらうから。頼めるか?」


 (たすき)を手渡すと、紅い振袖の娘は、はい、と言って、嬉しそうに両手で(たすき)を受け取り、哀れな程喜んだので、見ていられなくなった(はる)(いち)は、玄関に向かって早佐の履物を取ってから、自分も履物を履いて、サッサとガスの元栓を開けに、炊事場(ナカエ)の裏に回った。




 ガスの元栓を開けて戻ると、相手は、()だ、丁寧に襷掛けをしているところだった。

 比較的小柄であるのに対して、振袖の振りが大きかったので、無理からぬ事、と思った(はる)(いち)は、襷掛けを手伝ってやった。

 相手は、(はる)(いち)が自分の履物を取ってきた事も含めて、恥ずかしそうに、丁寧に礼を言ってきたので、相手を、性格の悪い女だと思っていた(はる)(いち)は、大変調子が狂った。




「よし、其れじゃ、申し訳ないけど、急須と湯呑と茶托を、其処の戸棚から出してもらって。其処の水道で軽く(すす)いで。布巾は、其処に掛ってるから、其れで拭いておいてくれ。其れが済んだら、其処の薬缶(やかん)に、水道の蛇口を捻って、水を入れてくれ。風呂に入れるなら、水道の使い方は分かるもんな?」


「はい」


 意外や、(たすき)を掛け終えてからの所作(しょさ)は、無駄なく美しく、あっという間に、後はコンロに火を()けるだけ、という所まで作業が完了した。


―あ、そう言えば、こいつ、紀和(きわ)さんから御茶とか御花を習ってるんだっけ。御茶の釜は出来るとなると…。コンロの火だけ()けた事無いんだ!バランス(わる)っ。普通、釜の方が経験無いだろ。


 そんな人間が存在するのか、と、一瞬、婚約者の実在を疑いそうになりながら、(はる)(いち)は、火の()け方を教えた。


「そうそう。押しながら回す。此れだけ。はい、()いた」


 ガスコンロの青い火を見た早佐は、無言で頬を紅潮させて、其れを凝視していた。

 其れに対し、さながら『火を初めて見た人類』だという、失礼な感想を抱いたので、(はる)(いち)は、其れを口にせず、黙って、其の様子を見守った。

 喜んでいる婚約者を、類人猿に例えない方が良いと判断したのである。

 親友が居たら、生き物シリーズは()めろ、と言われるところだった、と(はる)(いち)は思った。


 しかし、見守ると言っても、(はる)(いち)にとっては取り立てて珍しい事でも無いので、薬缶(やかん)の中の水が沸騰するまでの時間を待つまでに、集中力が切れてしまい、明後日の事を考え始めてしまった。


―類人猿って、猿?人間?…霊長類…?生き物だけど、生き物シリーズに入れていいのかな?人間も生き物か。…人間を人間に例える?って、変か。…いや、(そもそも)『生き物シリーズ』って何だよ、(みち)。俺、別に、そんな心算(つもり)じゃ…あ、沸いた。




 其処から、実にまた、見事な所作で、御茶が煎れられた。


 二人で、履物を履いた(まま)、土間の()がり(がまち)に腰掛けて、御茶を飲む事になった。


―いや、御茶は旨いんだけども。履物脱ぐのが面倒だったからって、此れじゃ、農作業の後の行儀だよ。…重ねて、悪い事したかな。


 しかし、振袖娘の表情は、大変満足そうだったので、まぁ良いか、と(はる)(いち)は思った。




 やがて、早佐は、茶を飲みながら、綺麗な所ですね、と言った。


「広くて寂しくて、静かで、綺麗な所。…冬の池の水面(みなも)(よう)です」


 寂しいか、と(はる)(いち)は言った。


「そうかもな…。此処に、一人だし。…一人で居ると」


 地獄みたいだった、と(はる)(いち)が、思わず囁くと、相手は、小さな声で、そう、と言った。


「地獄って、随分綺麗で、()い所なのね。…落ちるなら、こんな地獄が()いわ」


―あ、大事な実家を、地獄なんて言う気は無かったのにな。…いや、此れが本音か。…『家族に死なれたら、広い家で一人ぼっちで、地獄みたいだった』って。そう、やっぱり(つら)かった。周りに、あんなに良くしてもらったのに。全然、其れじゃ、埋まらなくて。


 そんな筈は無いのに、(はる)(いち)は、相手と自分に、同じ傷が付いていて、()えない(まま)で、ただ、こうして、隣に座っている、という気がした。同じ傷、などというものは存在しない筈なのにも関わらず、である。


 癒えない傷、というのは存在するとしても。


(なお)らないよなぁ。


 ああ、此処は地獄だったのか、と、(はる)(いち)は思った。


「…そうか。随分、楽しい地獄なんだな、此処は。親友が食べ物を用意してくれてて。御茶が美味しくて。…誰も、生き返ってくれない」


「ええ、綺麗な所です。…()い所だわ」


 生きていて、一番悲しかった事は何ですか、と問うてくる相手に、選べない、と、(はる)(いち)は、ハッキリ言った。


「…御前は?」


 相手は意外にも、ハッキリと、勿論、姉が死んだ事です、と言った。


「何より耐え(がた)いのは…姉の死に方のせいで、姉が他人から、『可哀想』と思われる(よう)になった事です。私には、姉が世界の全てで。あんな美しい人は、他に居なくて。私は、姉を通して、外を知り、季節を知っていたのに。私には、本当に、此の世に一人しか居ない人だったのに。美しくて、優しくて、私の全てだったのに。皆が『可哀想』と言うのです。『可哀想』な死に方をしてしまったというだけで。あんなに、美しくて、優しくて、頑張って子供を産んだ、立派な人だったのに。可愛い(りゅう)ちゃんを産んで、幸せだった筈の人だったのに。全部『可哀想』になってしまった。たった一つ、死に方が『可哀想』だったというだけで、美しかった事も、優しかった事も、立派だった事も、全部、『可哀想』に塗り潰されてしまった。…赤ちゃんを置いて、(つら)い事が有って、自死を選んだ人だと思われている。…其れが耐え(がた)い。…私の姉は、美しい人です。『可哀想』な人でも、生んだばかりの赤ちゃんを置いて()心算(つもり)だった人でもない。其れなのに、誰かが頭の中で思い出す姉は『可哀想』にされてしまう。…耐えがたい事です」


 姉を愛していました、と、早佐は言った。


 其の、涙も枯れ果てた様子の、淡々と語る態度を見て、(はる)(いち)は、何とも言えない気持ちになった。


 恐らく、目の前に居るのは、愛する者の死によって、一度死んだ人間なのだ。


 自分も、恐らく、相手と同じ気持ちで、()()を愛していたのだと思う。


 ただ、一度、理佐と死んでしまった心算(つもり)の相手の中の、自分の重さ(ウェイト)が分からない。一度死んで、捨て鉢になった人間の中で、自分が、如何(どう)いう存在なのか、分からない。


 何か、細い糸の(よう)なもので、(から)くも此の世に留まっていてくれている、という気はするのだが、其れが何なのかは知り得ない。


―相手は此処で我慢するって言ってたのに、俺が勝手に、此処で我慢させるのが嫌で、一緒に逃げてくれって言ってるわけだしな。


 そうではなくても、生活の苦労は確実にさせてしまう気がするのだ。

 今の(よう)な、豪華な振袖を着て、上げ膳据え膳の生活をさせてやる事は、到底無理だからである。


 其れは確かに、あんな恐ろしい保護者の元で暮らさせるよりは()いだろうが、世間知らずの相手の、生活水準を下げる事が、果たして(ぜん)なのか、と問われると、簡単には答えが出せない(はる)(いち)である。


「あのさ」


「はい」


「俺、祈祷師(ウセンシ)から不動産会社の社員になったら、収入が下がるんだけど。…大丈夫か?遺産や貯金は有るけど。土地屋敷を売ったら、一応、即金で三千万入るけど。…あぶく銭と言うか、何と言うか」


「はぁ」


―…こんな事言っても、何が『大丈夫』か、分かってもらえるかな…。


 相手が箱入り育ちの世間知らず過ぎて、どれだけ説明しても、自身の懸念が伝わる気がしなくなった(はる)(いち)は、()めよう、と思った。


―迷うな。今更後には引けないんだから。こいつを瀬原(せばる)集落に居させたくない、と思うなら、一緒に出るしかないんだから。


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