傷
御風呂も二つ在るのですか、と、割合小柄な方なのに、華やかな振袖に負けない、高貴な迫力を持った箱入り娘は言った。
―まぁー、こんな御嬢様、こんな古い家に来ても、拉麺くらいしか見せる物が無くて、気の毒だよな、ホント。
そうそう、と治一は言った。
「庭に五右衛門風呂が在るんだけど、寒くてさ。こっちの、炊事場の端に増築した、ガス湯沸かし器付きの風呂しか使ってない。炊事場の土間から風呂に行かないといけないから、履物が要るのは、ちょっと不便かな。あ、ガスコンロの近くに…ああ、有った」
炊事場の方に在る囲炉裏端で五個入りの袋麺を発見した治一が、振袖娘に手渡すと、相手は、恭しく、両手で掲げ持ちながら、頬を染めて、此れが袋麺、と言った。
「袋入りの、乾麺の事だったのですね…」
―そんな、目を輝かせる様な物じゃ無いんだけど…。重ねて気の毒だなぁ。
「まぁ、こんだけの物だよ。インスタント…つまり、御湯を沸かして茹でれば作れちまう簡易な物だから、人によっては、料理のうちにカウントしてなくて、そんな物しか作れないのは、『酷い』って言ったんだろうさ。そうだ、テレビと炬燵も在る。ブレーカー上げて、エアコンも入れてやろう。テレビでも見るか」
いいえ、と言って、頬を染めた儘、早佐は、繁々と袋麺を見詰めていた。
「私、厨で御湯を沸かした事も、コンロとやらの火を点けた事も御座いませんの。全部、本の中の出来事。実は、缶詰も、初めて実物を見たのです。…暫く、此の儘で居させてくださいません事?」
「…そういう話なら、好きなだけ見れば良いと思うけど」
コンロに火くらいだったら点けさせてやるよ、と、あまりにも相手が気の毒になった治一は言った。
「今、ガスの元栓、開けて来てやるからさ。コンロを使うには、土間に出る必要が有るから、御前の草履も持って来てやるし。此処で、少し待てるか?」
勿論、と、頬を染めた儘、早佐は返事をした。
「…実践、させてくださるのですか?」
「…いやー、そんな大仰なもんじゃないと思うけど。そう言ってくれるなら、薬缶で御湯でも沸かしてもらおうかな。電気ポットでなら、御茶は入れられるだろ?薬缶で御湯を沸かしたら、其れで御茶を煎れてもらおうかな。未だ、封を切ってない、頂き物の雁ヶ音が在った筈だ。煎れ方は玉露と、そう変わらないから。煎茶より、少し温めで煎れてもらえれば…」
「御茶まで煎れさせて頂けるのですか…?」
感動した様に、そう言う相手に、治一は慌てた。
「いや、来客に御茶を煎れさせる家なんて、聞いた事無いから。あべこべだよ。しかも、本家で、こんな持て成しなんだぞ?玉露ですら無いんだ。曽祖父ちゃんが雁ヶ音が好きだったから今も偶に貰うだけで、自分じゃ茶葉も買わない様な家なんだってば。喜んじゃ駄目だって」
「…でも、今日、火を点けて、御湯を沸かすところから遣らせて頂けるなんて…考えてもみませんでした。那智さんの御宅の御庭も見させてもらえなくなって、絶望していたところに。生きていれば、こんな好い事も有るものなのですね…」
―はぁ?本部の藍児さんの所の庭を見せてもらえなかったら、絶望?!『生きていれば、こんな好い事も有るものなのですね』って?!…どんだけ閉じ込められて生きて来たんだ?
そんな哀れな事を言う相手の瞳が、何時に無く輝いているので、治一は、あまりの気の毒さに、両目を閉じて、分かったよ、と言った。
「本家の御嬢様に御茶を煎れさせた事は内密にな。其れと、振袖が燃えない様にしてくれよ。良い着物は、恐ろしく燃えるのが早いからなぁ。襷を貸してやる」
早佐は、夢を見る様な瞳をして、ほう、と溜息をついて、有難う御座います、と言った。
―えー?…いや、こりゃ、思ったより不味いぞ。袋麺を作らせてあげた方が良かったのか?
しかし、自身も盛装で、相手も振袖で、袋麺を作らせる勇気も、袋麺を作ってやる勇気も、汁が飛ぶ可能性が有る食べ物を振袖娘に供する勇気も、自分が羽織袴姿なのに、うまかっちゃんを食べる勇気も、全く持ち合わせていない治一だったので、御茶が精々、といったところであった。
―喜んでくれてるみたいだから、其れが御持て成しって事で、良いのかなぁ…。
「じゃ、此れ、襷。玄関に戻って、御前の履物を取って、自分も外に出て、ガスの元栓を開けたら戻ってくる。そうしたら、薬缶をコンロに掛けて、火を点けてもらうから。頼めるか?」
襷を手渡すと、紅い振袖の娘は、はい、と言って、嬉しそうに両手で襷を受け取り、哀れな程喜んだので、見ていられなくなった治一は、玄関に向かって早佐の履物を取ってから、自分も履物を履いて、サッサとガスの元栓を開けに、炊事場の裏に回った。
ガスの元栓を開けて戻ると、相手は、未だ、丁寧に襷掛けをしているところだった。
比較的小柄であるのに対して、振袖の振りが大きかったので、無理からぬ事、と思った治一は、襷掛けを手伝ってやった。
相手は、治一が自分の履物を取ってきた事も含めて、恥ずかしそうに、丁寧に礼を言ってきたので、相手を、性格の悪い女だと思っていた治一は、大変調子が狂った。
「よし、其れじゃ、申し訳ないけど、急須と湯呑と茶托を、其処の戸棚から出してもらって。其処の水道で軽く濯いで。布巾は、其処に掛ってるから、其れで拭いておいてくれ。其れが済んだら、其処の薬缶に、水道の蛇口を捻って、水を入れてくれ。風呂に入れるなら、水道の使い方は分かるもんな?」
「はい」
意外や、襷を掛け終えてからの所作は、無駄なく美しく、あっという間に、後はコンロに火を点けるだけ、という所まで作業が完了した。
―あ、そう言えば、こいつ、紀和さんから御茶とか御花を習ってるんだっけ。御茶の釜は出来るとなると…。コンロの火だけ点けた事無いんだ!バランス悪っ。普通、釜の方が経験無いだろ。
そんな人間が存在するのか、と、一瞬、婚約者の実在を疑いそうになりながら、治一は、火の点け方を教えた。
「そうそう。押しながら回す。此れだけ。はい、点いた」
ガスコンロの青い火を見た早佐は、無言で頬を紅潮させて、其れを凝視していた。
其れに対し、さながら『火を初めて見た人類』だという、失礼な感想を抱いたので、治一は、其れを口にせず、黙って、其の様子を見守った。
喜んでいる婚約者を、類人猿に例えない方が良いと判断したのである。
親友が居たら、生き物シリーズは止めろ、と言われるところだった、と治一は思った。
しかし、見守ると言っても、治一にとっては取り立てて珍しい事でも無いので、薬缶の中の水が沸騰するまでの時間を待つまでに、集中力が切れてしまい、明後日の事を考え始めてしまった。
―類人猿って、猿?人間?…霊長類…?生き物だけど、生き物シリーズに入れていいのかな?人間も生き物か。…人間を人間に例える?って、変か。…いや、抑『生き物シリーズ』って何だよ、岐。俺、別に、そんな心算じゃ…あ、沸いた。
其処から、実にまた、見事な所作で、御茶が煎れられた。
二人で、履物を履いた儘、土間の上がり框に腰掛けて、御茶を飲む事になった。
―いや、御茶は旨いんだけども。履物脱ぐのが面倒だったからって、此れじゃ、農作業の後の行儀だよ。…重ねて、悪い事したかな。
しかし、振袖娘の表情は、大変満足そうだったので、まぁ良いか、と治一は思った。
やがて、早佐は、茶を飲みながら、綺麗な所ですね、と言った。
「広くて寂しくて、静かで、綺麗な所。…冬の池の水面の様です」
寂しいか、と治一は言った。
「そうかもな…。此処に、一人だし。…一人で居ると」
地獄みたいだった、と治一が、思わず囁くと、相手は、小さな声で、そう、と言った。
「地獄って、随分綺麗で、好い所なのね。…落ちるなら、こんな地獄が好いわ」
―あ、大事な実家を、地獄なんて言う気は無かったのにな。…いや、此れが本音か。…『家族に死なれたら、広い家で一人ぼっちで、地獄みたいだった』って。そう、やっぱり辛かった。周りに、あんなに良くしてもらったのに。全然、其れじゃ、埋まらなくて。
そんな筈は無いのに、治一は、相手と自分に、同じ傷が付いていて、癒えない儘で、ただ、こうして、隣に座っている、という気がした。同じ傷、などというものは存在しない筈なのにも関わらず、である。
癒えない傷、というのは存在するとしても。
―治らないよなぁ。
ああ、此処は地獄だったのか、と、治一は思った。
「…そうか。随分、楽しい地獄なんだな、此処は。親友が食べ物を用意してくれてて。御茶が美味しくて。…誰も、生き返ってくれない」
「ええ、綺麗な所です。…好い所だわ」
生きていて、一番悲しかった事は何ですか、と問うてくる相手に、選べない、と、治一は、ハッキリ言った。
「…御前は?」
相手は意外にも、ハッキリと、勿論、姉が死んだ事です、と言った。
「何より耐え難いのは…姉の死に方のせいで、姉が他人から、『可哀想』と思われる様になった事です。私には、姉が世界の全てで。あんな美しい人は、他に居なくて。私は、姉を通して、外を知り、季節を知っていたのに。私には、本当に、此の世に一人しか居ない人だったのに。美しくて、優しくて、私の全てだったのに。皆が『可哀想』と言うのです。『可哀想』な死に方をしてしまったというだけで。あんなに、美しくて、優しくて、頑張って子供を産んだ、立派な人だったのに。可愛い龍ちゃんを産んで、幸せだった筈の人だったのに。全部『可哀想』になってしまった。たった一つ、死に方が『可哀想』だったというだけで、美しかった事も、優しかった事も、立派だった事も、全部、『可哀想』に塗り潰されてしまった。…赤ちゃんを置いて、辛い事が有って、自死を選んだ人だと思われている。…其れが耐え難い。…私の姉は、美しい人です。『可哀想』な人でも、生んだばかりの赤ちゃんを置いて逝く心算だった人でもない。其れなのに、誰かが頭の中で思い出す姉は『可哀想』にされてしまう。…耐えがたい事です」
姉を愛していました、と、早佐は言った。
其の、涙も枯れ果てた様子の、淡々と語る態度を見て、治一は、何とも言えない気持ちになった。
恐らく、目の前に居るのは、愛する者の死によって、一度死んだ人間なのだ。
自分も、恐らく、相手と同じ気持ちで、理佐を愛していたのだと思う。
ただ、一度、理佐と死んでしまった心算の相手の中の、自分の重さが分からない。一度死んで、捨て鉢になった人間の中で、自分が、如何いう存在なのか、分からない。
何か、細い糸の様なもので、辛くも此の世に留まっていてくれている、という気はするのだが、其れが何なのかは知り得ない。
―相手は此処で我慢するって言ってたのに、俺が勝手に、此処で我慢させるのが嫌で、一緒に逃げてくれって言ってるわけだしな。
そうではなくても、生活の苦労は確実にさせてしまう気がするのだ。
今の様な、豪華な振袖を着て、上げ膳据え膳の生活をさせてやる事は、到底無理だからである。
其れは確かに、あんな恐ろしい保護者の元で暮らさせるよりは善いだろうが、世間知らずの相手の、生活水準を下げる事が、果たして善なのか、と問われると、簡単には答えが出せない治一である。
「あのさ」
「はい」
「俺、祈祷師から不動産会社の社員になったら、収入が下がるんだけど。…大丈夫か?遺産や貯金は有るけど。土地屋敷を売ったら、一応、即金で三千万入るけど。…あぶく銭と言うか、何と言うか」
「はぁ」
―…こんな事言っても、何が『大丈夫』か、分かってもらえるかな…。
相手が箱入り育ちの世間知らず過ぎて、どれだけ説明しても、自身の懸念が伝わる気がしなくなった治一は、止めよう、と思った。
―迷うな。今更後には引けないんだから。こいつを瀬原集落に居させたくない、と思うなら、一緒に出るしかないんだから。




