坂元本家
宗顕と岐顕は、黒服達を病院に連れて行く、と言って、治と早佐を、坂元本家で降ろした。
じゃあね、と、岐顕は、笑顔で言った。
「俺は、めっちゃ気を遣って、日没まで迎えに来ない。此の儘、親父と、龍の事も迎えに行っちゃう」
「…『気を遣う』、って、本人達に向かって、態々言わない方が良いと思うな」
しかし、治の言葉には答えず、義兄は、俺ってば気遣いの人だからー、と、明るく言って、黄色い車で去っていった。
―此処が、坂元本家。…凄い。
着物を着た人間が上がれる様な、低い段の石段が三段程敷かれた上に、白漆喰と瓦で作られた、粉う方無き本家門が在った。門にも屋根にも、同じ瓦が使われている。
―門に使われている金具の意匠からして、別格だわ。
驚いて目を見張る早佐に対して、治は、何の衒いも無く、古いだろ、と言った。
―…此の人には、此れが普通なのだわ。本気で、本家としての体裁など無い、古いだけの家だと考えているのね。
早佐は、格の違いを見せ付けられた気分で、黙って、目を瞬かせてしまった。
そして、玄関とは別に、家の敷地の中に入ってからも、玄関に辿り着くまでに、敷石と、曲がりくねった通路、そして、恐ろしく立派な玄関と、其れとは別に、庭に到る場所にも門が在った。
しかも、表玄関の他に、内玄関が在るとの事だった。
―玄関と門が二つも。其れに、此の入り口。恐らく、外敵の侵入を防ぐ為の造りだわ。
通された上座敷の壁紙には、恐らく、嘗ては鮮やかであったのであろう染料が使われていた。
「此の、桃色の様な、茶色の様な物は…」
早佐の問いに、ああ、と、気不味そうに、治は言った。
「紅殻の跡だよ。かなり長い事塗り直してないらしくて、茶色っぽいけど、元は赤らしい」
「紅殻?!」
昔は、インドのベンガル地方からの渡来品で、高価だった筈の染料である。
其れを、自身の先祖が、大量に壁面に塗る事が可能だった、という事が、如何いう事なのか、治自身は、何とも考えていないらしかった。
…新築の、長の館など、比較にならない。…本物の名家なのだわ、此処は。
しかし、治は、見る物無いだろ、と、申し訳なさそうに言った。
「家具も結構処分しちゃって。広過ぎて、そろそろ俺だけじゃ管理がキツいんだよ」
そして治は、上座敷から次の間を通って、玄関に入って直ぐの、下座敷まで戻って、炊事場まで案内しよう、と言った。
―此れは。此れも、表玄関に入って直ぐは、下座敷、そして、囲炉裏端の在る広間。玄関からの侵入者が、奥座敷や、上位の者の為の上座敷に、簡単に侵入出来ない様になっているわ。
早佐が、建物の内部を見渡していると、囲炉裏が珍しいか?と、治が尋ねてきた。
はい、と早佐が言うと、そうか、と言って、治は、囲炉裏の傍まで、早佐を連れて来てくれた。
あら、と早佐は言った。
「此方から見ると気付きましたが、表玄関の方に、何やら、襖が有りますのね?壁かと思っておりましたが。履物の収納にしては大きい様な…。あら、御部屋?にしては細長い様な…」
ああ、と治は、何でも無い事の様に言った。
「弓的場だよ」
「え?」
治は、キョトンとして、見るか?と言った。
早佐も、キョトン、とし返してしまったが、ええ、と答えた。
―此の人にとっては、何もかもが当たり前なのね。でも、見た事も聞いた事も無いわ。
治が開けてくれた襖の中には、細長い、弓の練習場が在った。
「…は?え?此れは?」
弓的場だよ、と、もう一度、治は言った。
「曽祖父ちゃんは、弓の名手だったんだ。一応、文武両道の家風なんだよ、うちは。まぁ、俺は、体術ばっかりで、弓は、何年も、触っても無いけど。此の、弓的場で、雨の日も鍛練出来る様になってるんだ」
「あ…。え?文武両道?」
「そう。本当は、本家当主なんだから、俺も、勉強だけじゃなくて、武芸も出来ないとなんだけど。あんまり真面目に遣ってないから、御先祖には申し訳ないな」
治が強い、というのは、先程、瀬原本家の前で披露された、岐顕との手合わせとやらで、早佐にも分かっていたが、弓ともなると流石に、如何捉えて良いのか分からないくらい驚いた。
無論、先刻の動きも、あんな動きをする人間自体を見た事が無かったので、『驚いた』では、言葉が足りないくらいだったのだが。
―低く見積もっていたどころか。此の人の事、私、何にも分かっていなかったに等しいのかもしれないわ…。
しかし、此の、外敵の侵入を阻む造りの家と、何時でも何かに備えて鍛練を欠かさない家風、というのは、気になる所である。
―何かが可変しいわ。
「…そう言えば、自室の中二階が在るとか?養蚕小屋か、戦時中の米の隠し場所か、密談の場所、と仰っていらっしゃいました?」
治は、よく覚えてるなぁ、と、感心した様に言った。
「そう、中二階。屋根裏部屋みたいな感じかな。あそこの梯子で上るんだ」
囲炉裏の上なんだけどさ、と言って、治は、再び、囲炉裏の所まで戻ってくれた
確かに、広間から見える、奥座敷と納戸の間に梯子が在った。
―あそこで、囲炉裏端では出来ない様な密談を…?
囲炉裏端に着くと、早佐は、不自然な部分を発見した。
「此の、一部分だけ畳では無い、床が板になっている場所は、首座ですか?」
ああ、と言って、治は、パカッと、板を外してくれた。
「秘密の逃走経路なんだ。女子供を、此処から逃がしていたそうだ。未だ使えるぞ。奥座敷にも、秘密の部屋が在るし」
「…逃走経路に、秘密の部屋?」
「そう。其処に家族を隠すんだな」
此れで、此の家が、何かの密談を行いつつ、外敵に備えていた事は、確実になった。
―豪華な壁紙の上座敷に上級の者を置き、玄関に入って直ぐの場所には、練習場と称して、武器となる弓を、何時でも取り出せる場所に配置。此の、囲炉裏端は、上座敷より簡素な造りで、紅殻など塗られていない。恐らく、少し下級の、上級の者を守護する者が配備されていた?其の上には、密談が行われる中二階。そして、武器を持つ守護者の足元から、女子供を逃がしていて…。其の逃走経路が、未だ使える、ですって?曳家だか移築だか、という話だったのに…。
何かが可変しい、と早佐は思った。
―恐らく、本物の名家は、瀬原家などではなく、本来、此方なのだわ。其処までして逃がさなければならない、上級の者の血筋だった、という事。其れが、何時の頃からか、改変されたのだわ。何時かは分からないけれど、坂元家の方が下に見られる様になってしまった。恐らく、何かが起きたのか、貴人だった事が隠蔽されている。
戦慄する早佐を他所に、そう言えば袋麵見るか?と言って、恐らくは尊い血筋の、しかし、其の事が当たり前過ぎて、何ら特別な事だとすら思っていない当主は、スタスタと、炊事場に向かった。
参考にさせて頂いた邸宅は、国の重要伝統的建造物群保存地区の中の最古の物でとされており、市の指定有形文化財とされております。遠縁に子爵(華族)が居る家柄のようです。建物に瓦が使用出来ているという事は、此の辺りでは、十石以上の石高が無ければ許可されなかったそうです。




