実方宗顕
さて、揃って、車に乗ろう、と、瀬原本家の前の本通りに出たところ、岐顕が回させていた筈の車は無く、代わりに、瀬原本家の精鋭黒服部隊が待ち構えていたので、岐顕は、先程までの明るさを引っ込めて、静かに、如何いう事だ、と言った。
手練れ揃いの、精鋭の黒服部隊の筈なのに、其の威圧感に、一瞬、身を強張らせたのが、治一にも分かった。
―あ、不味い。
基本的に、明るく親切な親友であるので、其れは、何年かに一度しか見られない光景なのだが、此の儘だと確実に、『岐顕がブチ切れる』という、休火山の噴火レベルの事態が起きる事を、長い付き合いの治一は確信した。
―うーん、しかし、此れ、長の命令なのかな。黒服の監視?やっぱり、早佐を外に出す気は無い、って事?
しかし、止せばいいのに、黒服の一人が、何方へ、などと発言してしまった。
岐顕は、ほう、と、低い声で言った。
こんな時に何だが、怒っている時の声は、好いバリトンなので、直ぐ分かる。
「…『如何いう事だ』と問うた言葉に返事もせず、此方の行き先を問うてくる声が聞こえた様子だが?」
―そりゃそうだぁ。回答以外に発言は許されてないよな?馬鹿たれがぁ。本当に精鋭部隊かよぉ。
恐らく、年齢的には、此の場で一番の若輩者の治一だったが、流石に、大人の黒服に向かって『なっちゃいねぇ』と言いたくなったくらい、其れは、本家後継に対する態度としては失敗だった。
流石に失言に気付いたらしく、言った黒服も、其の上司らしい黒服も動揺の色を見せたが、今更遅い。
うちの黒服達は如何した、と、部下思いの岐顕が、鋭い声を出した。
―まぁ、そりゃ怒るよな。でも、不味い。長の黒服部隊に何かしたら、長に弓引く事になる。
しかし、本家後継の岐顕を此処まで怒らせれば、成り行きとしては仕方が無い事であり、最早、拳は振り上げられているのと同然であり、此の身分の高さの人間が振り上げた拳は、相応の何かに振り下ろされなければ、収め所が無い。
そう、長でも無く、黒服でも無く、此の場で、岐顕より身分が高い人間が収めるしかない。
―…マジッスか岐顕さん。俺、此の状況を、一番身分が高いからって、如何にかしなきゃいけないの?…もう、俺、本家当主、辞めてぇー。
とっとと実方不動産に就職して岐顕の部下になってやる、と思いながら、治一は、岐顕殿、と言った。
此方を振り返った岐顕の目は座っていた。
―…怖ぇー。
治一が、頼む、と念じながら微笑むと、岐顕は、全然納得していない目を向けてきたが、状況に気付いたらしく、ムッとした顔をしてから、溜息をついた。
―そうそう、長に弓引く訳にはいかないでしょ。…そして。
「御手合せ願おう」
『岐顕に向かって言いたくない言葉』のベスト5くらいにはランクインしそうな言葉を、相当無理した笑顔で言う羽目になった治一は、心の中でだけ、最悪だよもう、と言った。
案の定、『手合わせ』という単語を耳にした岐顕の顔は、パァーッと明るくなった。
―うぅ。でも、俺が受けないと、如何にもならない拳だからな…。
岐顕は、邪悪と形容出来るくらいの良い笑顔をしながら、小声で、食べといて良かった、と言って、此方に向かって構えた。
―俺の方は、あんなに食べなきゃ良かった…。別に、食べ過ぎたわけじゃないけど、食べた直後に、何で、こんな事しないといけないの?横っ腹が痛くなるやつじゃん、コレ。羽織袴で本通りを爆走してきた後、羽織袴で、往来で、何で手合せしないといけないの?…あ、食べたばっかりなのは、岐も同じだった。大体、朝から飲まず食わずで、本通りをダッシュ出来たのは、何でなの?マジでバケモンじゃないの?何なの?勝てるわけ無いじゃん。
そして、石畳の道の上で、白足袋に草履というだけでも最悪なのに、白張姿の相手に対して、盛装の治一は、既に分が悪かった。
―何で、こんな目に。…いや、今更迷うな。
治一は、草履と足袋を脱いで裸足になると、足袋を懐に入れ、羽織を脱ぐと、申し訳ない、と言って、早佐に手渡した。
「御持ち頂けるか?」
青褪めた顔で事態を見守っていた早佐は、眼を瞬かせながら、はい、と言って、治一の羽織を受け取ってくれた。
小声で、良いねぇ、と言った岐顕も裸足になったので、治一は、心の中でだけで、んもー、と言ったが、諦めて構えた。
早速、大変重たい蹴りが来た。
―まぁー、足が良く上がります事で。バランスも大変宜しいですねぇ。貧血起こし掛けてた人間の回復力とは思えないのよ。もー、俺だったら口から餡子と糯米出てるね、此の動き。
躱すしかない蹴りだったのだが、躱すと、岐顕は、更に、とても良い笑顔になった。
―こっわ。…あー、反撃ったってなー。此の袴で、何処まで足が上がるんだ?俺。…あ、結構いけたな。
治一の蹴りは、体を少し逸らすだけ、というくらいの、大変小さな動作で、美しく避けられてしまい、相手は其処から、大変重たい突きを、全然無駄のない動作で繰り出してきた。
此れまた、躱すしかなかった。
―あ、やっぱ横っ腹痛くなってきた。うん、俺の突きも避けるよね、そりゃ。うーん、距離取りてぇなぁ。
治一が、岐顕から離れようかと思っていた矢先に、相手が、側転で距離を取ってきた。
黒服達の方から、小さな歓声が上がった。
―あ。俺が此の前遣ったやつ。
側転から、構えの姿勢に戻った岐顕が、ニヤッと笑ってから、小声で、直ぐ終わったら詰まらないもんね、と言った。
―あ、そういう事?…マジッスか。…うーん、じゃあ、岐が前遣ってたやつ、遣るしかないのかー。
治一は、不承不承、相手の蹴りを避けてから後方転回した。
此れまた、黒服達の、小さな歓声が聞こえた。
―うーわ、袴、重っ。バク転向きじゃねーなー。
着地した治一が、もう一度構えの姿勢を取ったところで、其処まで、という、聞き覚えの有る声がしたので、治一は安心した。
「宗顕殿」
一九〇センチはあろうかという長身の、白張姿の又従兄は、穏やかな笑顔で、御久しゅう御座います、と言ってくれた。
相変わらず渋い。
此方は、不機嫌では無くとも好いバリトンで、顔は似ていない親子だが、声は案外似ている。
「此度は、御結婚、誠に御目出とう御座います」
「此れは此れは、有難う存じます」
しかし、治一との手合わせを父親に邪魔された岐顕は、歯噛みしながら、イーッと言った。
父親に対する甘えが噴出する其の姿を、恐らく、早佐も含めて初めて見るのだろう、治一と宋顕以外の人間は、目を点にしていた。
しかし、宗顕は慣れた様子で、何が欲しい?と、穏やかに言った。
岐顕は、唇を尖らせながら、焼き立てパン屋、と言った。
宗顕は、分かった、と言った。
「パン職人が欲しいのか?土地が欲しいのか?上物が欲しいのか?」
「上物。土地はポケットマネーで、自分で買うから。石窯付きの厨房の在る店舗作って。駐車場スペースも舗装して」
「分かった」
「あと、道路も舗装して。今度買う土地の道路拡張したい」
「分かった」
「あと、今度、解体業者紹介して。古民家解体したい。古民家の木材の方は、俺に頂戴」
解体料も出してやろう、と宗顕が言うと、岐顕は、やっと、ニカッと笑った。
治一は思わず、プレゼンしょぼ!と言った。
「あんだけ企画立てられるのに、プレゼン、しょぼ!此れじゃ、ただの御強請りじゃん。御金出してもらうのに、建てたい物の、詳細の説明は、しないの?!」
岐顕は、笑顔で、良いじゃーん、と言って、サッサと、足袋と草履を履き直した。
「親父が書類に捺印する前に説明するからー。やったー、パン屋作ってもーらお」
ちょっと宋さーん、と治一は言った。
「良いんですかぁ?!」
しかし宋顕は、穏やかに微笑んだ儘、宜しいんですよ、と言った。
「儲けは出せる子だと信じておりますから。其の点は心配しておりません」
岐顕は、わーい、と言った。
「親父にもパンあげるねー」
当たり前だろ、と治一は言った。
「宋さんが建てるパン屋なのに、何で宋さんが、御前の許可無しにパン食べられないんだよ!」
岐顕はニコニコしながら、貰ったら俺んだし、と言った。
ちょっと宋さーん、と、治一は再び言った。
「良いんですかぁ?!」
しかし宋顕は、穏やかに微笑んだ儘、再度、宜しいんですよ、と言った。
「岐、糖尿には気を付けろよ」
岐顕は、今度は、少し黙ってから、はい、と言った。
―あ、凄い。岐を黙らせた。
そして、実方本家親子が焼き立てパン屋を手に入れる予定の話を、静かに聞いていた聴衆は、早佐も含めて、全員、目が点だった。
―分かるー。欲しがる物も可変しければ、欲しい物の買い与え方と金の出し方も可変しいんだよなぁ。俺が商売人じゃないからなのか何なのか、儲けが出ればいい、っていうのも、よく分かんないし。
「さ、参りましょうか」
宗顕は、穏やかに、そう言って、早佐に手を差し伸べた。
早佐は、左手で治一の羽織を持った儘、おずおずと、右手を、姉の舅の方へ差し出した。
宗顕は、恭しく早佐の手を取ると、岐、と言った。
「車を運転しなさい。早佐様を病院に御連れする。具合が悪いから、息子に車を回させたのですよね?長の不在中なのですから、何時でも、御姉様の婚家を頼ってくださって構いませんからね。ああ、其れと、御結婚、御目出とう御座います。改めて、御祝いさせて頂きますからね」
―あ、上手い。
宋顕は、此れから病院に向かう事にしてくれる心算なのだ。
其れも、実方本家が出てきた理由を、上手い事、長の不在を理由にして、謂わば、『長が居ない時に早佐の具合が悪くなった』、と、瀬原本家に責任を少し擦り付ける形で、更に『瀬原本家の代わりに早佐を病院に連れて行ってあげた』という貸しを長に作って、実行する気なのだ。
―器が違うわ…。
顕彦が高齢なので、本家後継とは言え、実質の実方本家当主と言って良い存在だが、こういう人間こそが本家当主を名乗るべきだな、と、治一は、感動さえ覚えながら、又従兄の、広い背中を見た。
黒服の中で、言葉を発する者など、ただの一人も居らず、宋顕は、彼等を空気の様に扱って、岐顕に、車を回しておいで、と言った。
「御前の車は、見付けて、清水本家の前に停めさせて頂いているから」
優しい又従兄は容赦無く、しかし穏やかに、走れ、と息子に言った。
岐顕は、其の、威厳タップリの姿に、はい、と返答するや、弾かれた様に、本通りを走っていった。
岐顕の姿が見えなくなってから、此れは独り言だが、と、宗顕は穏やかに言った。
「うちの黒服の姿が見えなんだが」
其の場に居た黒服全員が、サァーッと居なくなり、稍あって、実方家の、数人の黒服が、裏道の彼方此方から、怪我をした様子で戻ってきた。
宗顕は、ほう、と、穏やかに言った。
「怪我をした子達も、別の車で、一緒に病院においで。…後で下手人を報告しなさい。まぁ、こういう事を他人にする人間にも、親兄弟や家族は有ろうから。長に弓引かずとも、落とし前の付け方というのは存在するものだよ。安心しなさい。雇用主には、御前達を守る義務がある。相手も命じられて遣った事かもしれないが、本家にも立場が有るからね…。殊に、うちの一人息子に取っても良い態度と悪い態度、というものは、覚えてもらわねばならないね」
あー、個人的制裁という手が有りましたか、と治一は思ったが、穏やかに、そう言う又従兄が、怒っている岐顕よりも怖かったので、黙って、足袋と草履を履き直した。
早佐が、羽織を、そっと手渡してくれたので、治一は、礼を言って、羽織も着直して、岐顕の運転する車を待った。




