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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第五章 悪意
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山茶花


 曇天(どんてん)の下で対峙する、白装束姿の兄と、紅い振袖の妹は、(しばら)く、黙って見詰め合っていた。


 (やや)あって、(はや)()は、やっとの事で、花など()し掛けて(なん)心算(つもり)、と冷たく言ったが、相手の表情に喜色を感じ取ると、溜息をついた。


―罵られると喜ぶのだったわ。…困った事。もう、此の人と一言も話したくないわ。


 美しい早佐、と、相手が、もう一度言ったので、早佐は、相手を喜ばせたくないが為に、『馬鹿の一つ覚え』という言葉を、グッと飲み込んだ。


「御前には其の色が似合う」


 ウットリと、そう言う相手に対して、私は頼んでいないわ、と、早佐はハッキリ言った。


「何故、私にばかり、紅い晴れ着を着せるの?一度も、私の欲しい着物の色を聞いた事が無いわよね?自分が着せたいものばかり、私に買い与えて」


 (れい)(いち)は、キョトン、とした様子で、晴れ着は赤だろう、と言った。


 其れは思い込みよ、と早佐は言った。


「其れに、晴れ着は赤だと思うのなら、姉様には、何故、色の薄い、清楚な物ばかり買い与えていたの? 如何(どう)して、私には…。何故、私の好きな色を聞かないの?姉様は、婚礼衣装まで、美しい、白い(かさね)で…」


 令一は、不思議そうに、(みち)(あき)の為だ、と言った。


「あいつが白い服が嫌いだと言ったから。だから、理佐は、婚礼衣装も(こおり)(かさね)にしてやったのだ。あの(かさね)が合う(よう)に、『水配り(ミックバイ)』の時期を二月にしたのだぞ?」


「…姉様の『水配り(ミックバイ)』の御相手が、白い色が嫌いだから…『水配り(ミックバイ)』を二月にした、と、今、そう仰ったの?其れが、御相手の『為』?」


 ああ、と、令一は、明るい声で言った。


「御前が正月の『水配り(ミックバイ)』なのは、紅い色が入った(かさね)を着せてやりたいからだ。目出度い色だし」


「…本気で仰っているの?『水配り(ミックバイ)』の日程が、(かさね)の色目有りきだと」


 早佐の言葉に対し、令一は再び、キョトン、とした顔で、左様(さよう)、と言った。


 もう嫌、と早佐は言った。


「何の話も通じないのね。…何故、姉様を、絞め殺したのよ…」


 早佐は、そう口にしながら、急速に、自分の体から、意識が分離していくのを感じた。


 あるいは其れは現実からの逃避で、あるいは、神の(ごと)き大きな視座へ至る為に、意識が大気に溶けていく際の、単なる前触れだった。


 十六歳の少女の自分は、此の人間から一刻も早く離れたいが、大気に溶けそうになっていく意識は、目の前の人間の行動の全てを、単なる繁殖欲求に付随するものと捉えていた。


 此の存在は、気に入った雌を使って『増えたい』だけなのだ、と。


 ただの、地上によく居る、繁殖が行動理念の生き物で、其の鳴き声が、人間には理解出来ないだけなのだ、と。生き物の繁殖の方法は様々で、其の際に、雄が雌に食べられてしまう事すら有るのだから、目の前の存在が、『増えたい』が為に、他を排除し、自分の種を残そうとする事は、何ら、珍しい事では無いのだと。

 蟷螂(かまきり)鮟鱇(あんこう)の繁殖との差異は、宇宙から見れば僅少(きんしょう)なのだと。




 しかし、分離しかけた意識は、嫌な()()()を拾った。


 意識が、キュッと、其処に集中し、聞きたくない内容を拾った。


「何故絞め殺したかって。岐顕が、縄跳びで遊ぼうと俺が言うのを断ったからだ」


 だから縄で遊んだだけだ、と言ってのける相手に、早佐は、如何(どう)かしているわ、と言った。


「私は、貴方(あなた)に姉様を絞め殺されて、嫌だった」


 姉様は私の『世界』の全てだったのに、と言う早佐に、令一は、何故だ、と言った。


「死んだら其処で終わりだろう?死んだ人間の事は忘れろ。理佐(りさ)が御前の『世界』とやらに、もう居ない事に、何か不都合が有るか?二度と話も出来ないし、二度と御前を可愛がってくれる事も無い。俺が御前を可愛がっている(こと)(ほど)には、御前には意味が無いだろう?第一、何故、御前の『世界』とやらには、理佐しか居なかったのだ?何故俺が居ない?」


 簡単な話よ、と、堪らず早佐は言った。


貴方(あなた)が、誰の事も自分の『世界』に入れないからよ」


 令一は、目を見開いて、早佐の顔を見て来た。


 理解出来ないでしょうけど、と早佐は続けた。


貴方(あなた)は、自分の『世界』に誰も入れる気が無いし、他人にも『世界』が有るのだという事を、理解しようともしないし、認めない。其れなのに、他人の『世界』には、ズカズカと入り込もうとする。だから貴方(あなた)は、私の『世界』だけではなく、誰の『世界』にも入れない、()()になってしまうの。自分ではない他人にも、大事な物が有る事が理解出来ない事までは良い。其れでも、奪う事をしてはいけない。貴方(あなた)が其れを理解出来ない事と、他人の大事な物を奪う事は、全く別の話。他人の気持ちが理解出来なくても、他人を(あや)めない人は幾らでも居る。他人にも『世界』が有る事を理解出来ない事と、其れを認めない事も別の話。結局、貴方(あなた)は、自分の『世界』に他人を入れず、私の『世界』を認めない(まま)、勝手に私の『世界』に入ってこようとするから、侵入を(はば)まれてしまうのよ」


 私は、姉様を殺されて嫌だった、と、もう一度、早佐は言った。


「御父様も御母様も亡くなってしまってから、唯一、私を、家族や妹として、自分の『世界』に入れてくれた人だった。自分が寂しくても、私の体を気遣って、私が寂しくない(よう)に考えてくれる人だった。だから、私も、姉様を自分の『世界』に、家族として、姉として受け入れた。いいえ、外に出してもらえない私の、『世界』の全てで、私には、『世界』其のものだった。其れを、貴方(あなた)が勝手に奪った。私の『世界』を制限した張本人が」


 私は貴方(あなた)の事を(ほとん)ど知らない、と早佐は付け加えた。


貴方(あなた)の描くのだという絵も見た事が無いし、貴方(あなた)が持つ別荘で、貴方(あなた)が何をしているのかも知らない。貴方(あなた)の仕事も見た事が無い。貴方(あなた)は、実際、私の事も自分の『世界』に入れていない。勝手に他人の『世界』は制限して、奪う(くせ)に」


 勝手に私の『世界』に入って来ないで、と言おうとした早佐に対して、令一は、不思議そうに、剥製(はくせい)を作っている、と言った。


 聞き違いかと思った早佐は、え?と聞き返した。


 令一は、正確には、と言って詳しい説明を始めた。


「プラスティネーションという技術なのだが。別荘での俺の話が聞きたかったとは知らなかった」


「…もう良いわ」


 自分の話は結局伝わらないのだ、という事だけが分かって、早佐は溜息をついた。


 悲しみも失望も怒りも、何も兄には届かない。

 姉を失った喪失感すら伝わらないのだ、と。


―やはり、()()()()()をしなければ、対峙すら難しいのでしょうね。


 相手は、少し嬉しそうに言った。


「素晴らしいぞ。美しいものを、美しい(まま)で保存出来るのだ」


 そう、と言って、早佐は、(きびす)を返して、自室に引き返そうとした。


「早佐?」


「そうやって、自分の話だけをしていればいいわ。私は少なくとも、自分の『世界』に貴方(あなた)を入れないし、貴方(あなた)の『世界』にも入らないから」


 そんな事は無い、と驚いた(よう)に相手は言った。


「御前は()()()()()必ず入る」


 意味が分からないわね、と言って、早佐は、兄を置いて、其の場を離れようとした。


 去る早佐の背中に向かって、令一は、そんなに(はる)が良いのか、と言った。


「御前は自分の『世界』に(はる)を入れたいのか?()()の代わりか?」


 早佐は、いい加減にして、と、振り返りもせず、冷たく言った。


「姉様の代わりなど存在するものですか。いいえ、誰しもが掛け替えの無い存在で、其の人の代わりなど居ないの。其れを理解する力も、理解する努力をする気も無いのなら、もう話し掛けないで」


 早佐は、そう言い終えると、駆け出した。


 走ってはいけない、と、声音ばかりは心配そうな兄の声が後方から聞こえる。


 そうだ、確かに、近年、こんなに走った事は無い。

 だが、其れが何だと言うのか。 

 走りたいから走るのだ。

 走れようが、走れまいが、そんな事は関係無い。

 今、走りたいから走るのだ。

 走って、兄から距離を取りたいのだ。


―自分の『世界』に(はる)を入れたいのか?ですって?


 自分を現世(うつしよ)に縛り付けてくれているのは、其の存在だ。()うに、自分の『世界』の中心だ。


―相手の『世界』に入れてもらえるか如何(どう)かは、関係無いの。


 誰の思い出の中にも、誰の記憶の中にも、誰の『世界』の中にも、早佐は居ないのかもしれない。勝手に自分の事情に巻き込んだ時点で、自分も、(はる)の『世界』の異物かもしれない。


 だが其れでも。


 相手の『世界』に入れてもらえなくても、構わないのだ。花が咲いている世の中が()(よう)に、山茶花(さざんか)が存在する世の中が()(よう)に、(はる)が存在する『世界』が大切なのだ。


―あの人の居ない『世界』など()らないし、あの人の為になるなら、もう何も()らないの。


 胸が絞れる(よう)に痛い。

 其れはきっと、走っているからではない。

 ()してや、病などでは無いのだと、早佐には、ハッキリ分かってしまった。


―あの人が好きだからなのだわ。誰かを好きになったぐらいで、あそこまで動悸(どうき)可変(おか)しくなるなんて、と思っていたけれど、違うのだわ。


 もう、きっと、(はる)の為にしか、あんな風にならないのだ。そして、(はる)に対してしか、こんなに胸が痛くならないのだ。


 気付いたら、走りながら、早佐は泣いていた。


 嫌なのに、閉じ込められている、あの自室しか向かう所の無い自分に。

 理佐に(まつ)わる全てに。

 理佐が居なくなってしまってから、きっと、誰の思い出の中にも、誰の記憶の中にも、誰の『世界』の中にも、存在する事が出来ない自分になってしまった事に。

 (はる)の姿が、今、自分の瞳に映っていない事に。

 心を無くしきれなかった自分に。

 恐ろしい事に(はる)を巻き込んでしまった、自分の愚かさに。


―私だって、間違わないで生きたかった。


 何も間違わず、誰も傷付けず、誰も巻き込まずに生きたかった。

 健康な体で、両親揃っていて、仲の良い家族、兄姉(きょうだい)、友達に囲まれて暮らしている、何の罪も無い、ただの十六歳の少女になりたかった。


 そして、学校にも行ってみたかった。


 しかし、其の(いず)れも、早佐には与えられなかった。

 そして、何も間違わずに生きる事は、早佐には出来なかった。


 早佐は間違った事をした。其れは罪だ。

 無関係の相手と肉体関係を持ち、自分の事情に巻き込んで、命の危険に晒し、住み慣れた土地屋敷を手放させ、恐ろしい隠れ里から出奔させようとしている。


 (はる)と居られる事は幸せだが、其れは、間違った手段を敢えて取る事で手に入れた幸せだった。


―今からでも間に合うのかしら。今からでも、あの人を退けられれば、無関係になれて、巻き込む前に戻れるのかしら。あの人から離れられれば。


 きっと、そうなれば、自分の存在も危うくなる程、早佐は傷付くだろうが。


―あの人を、如何(どう)したら、死なせないで済むの?




「此処に居た」


 走りながら涙を拭って、顔を上げると、目の前に、高価そうな紺色の羽織袴を着た、見事な(たたず)まいの人物が居た。


 息を切らして、如何(いか)にも此処まで走ってきた様子だったが、其の姿は、曇天(どんてん)の、冬の庭の風景の中でも、クッキリと、早佐の瞳の中に像を結んだ。


 記憶の中では何時(いつ)も白装束の相手の、そんな姿を見た事が無かった早佐は、目を丸くして、泣くのも忘れて、其の端正な姿を見た。


 相手は、心配そうに言った。


「そんなに走って大丈夫か?…あ、そうだ、あんまり、竹林の方に寄るなよ?」


(はる)(さま)


如何(どう)した?泣いてるのか?(おさ)に何かされたか?」


 早佐が、息を切らしながら、答えられないでいると、(はる)は、あ、山茶花(さざんか)、と言った。


「…頭に花なんか()して、本当に、如何(どう)した?振袖で。(ほん)(どお)りで、(さっ)()も、振袖の娘さんと擦れ違ったけど」


 花弁(はなびら)が散っちゃったなぁ、と言って、(はる)は、令一が早佐に()し掛けた山茶花(さざんか)の花を取ってくれた。

 早佐は何故か急に、其れでホッとした。


「此れ、離れの垣根の山茶花(さざんか)か」

「ええ」


 (はる)は、手元の、大分散ってしまった山茶花(さざんか)の花を見詰めながら、クスッと笑った。


「懐かしいなー、蕾を千切ってさ。…覚えて無いだろ」


―え。


「…まだ蕾だけど、蕾の中で、花はもう、咲く準備が出来ていて、だから、こうして剥くと、蕾の中には、花があるのがわかるだろ、って?」


 早佐の言葉に、うわ、と言って、(はる)は真っ赤になった。


「嘘だろ、覚えてるのかよ。…忘れてくれよ」


(ずる)い」

「え?」


 もう駄目なのだ。


 もう間に合わない。


 此の人物を退(しりぞ)ける事も、自分から無関係になる事も出来ない。


 離れられない。


―分かっているわ、(ずる)いのは、巻き込んだ私だって。でも、(ずる)い。此れで、もう、離れられなくなってしまった。


 『水配り(ミックバイ)』の後、自分が如何(どう)なってしまうのか、早佐にも、もう分からない。

 でも、今、此の瞬間だけは、其れ等の全てが如何(どう)でも良くなってしまった。


―私も、此の人の思い出の中に、此の人の記憶の中に、ほんの少しだけでも存在出来たのね。


 早佐は、泣きながら、相手の首に両腕を回し、相手の唇に唇を重ねた。


 相手は、驚いた様子だったが、早佐を抱き締め返してくれて、口付けに応じてくれた。



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