山茶花
曇天の下で対峙する、白装束姿の兄と、紅い振袖の妹は、暫く、黙って見詰め合っていた。
稍あって、早佐は、やっとの事で、花など挿し掛けて何の心算、と冷たく言ったが、相手の表情に喜色を感じ取ると、溜息をついた。
―罵られると喜ぶのだったわ。…困った事。もう、此の人と一言も話したくないわ。
美しい早佐、と、相手が、もう一度言ったので、早佐は、相手を喜ばせたくないが為に、『馬鹿の一つ覚え』という言葉を、グッと飲み込んだ。
「御前には其の色が似合う」
ウットリと、そう言う相手に対して、私は頼んでいないわ、と、早佐はハッキリ言った。
「何故、私にばかり、紅い晴れ着を着せるの?一度も、私の欲しい着物の色を聞いた事が無いわよね?自分が着せたいものばかり、私に買い与えて」
令一は、キョトン、とした様子で、晴れ着は赤だろう、と言った。
其れは思い込みよ、と早佐は言った。
「其れに、晴れ着は赤だと思うのなら、姉様には、何故、色の薄い、清楚な物ばかり買い与えていたの? 如何して、私には…。何故、私の好きな色を聞かないの?姉様は、婚礼衣装まで、美しい、白い襲で…」
令一は、不思議そうに、岐顕の為だ、と言った。
「あいつが白い服が嫌いだと言ったから。だから、理佐は、婚礼衣装も氷の襲にしてやったのだ。あの襲が合う様に、『水配り』の時期を二月にしたのだぞ?」
「…姉様の『水配り』の御相手が、白い色が嫌いだから…『水配り』を二月にした、と、今、そう仰ったの?其れが、御相手の『為』?」
ああ、と、令一は、明るい声で言った。
「御前が正月の『水配り』なのは、紅い色が入った襲を着せてやりたいからだ。目出度い色だし」
「…本気で仰っているの?『水配り』の日程が、襲の色目有りきだと」
早佐の言葉に対し、令一は再び、キョトン、とした顔で、左様、と言った。
もう嫌、と早佐は言った。
「何の話も通じないのね。…何故、姉様を、絞め殺したのよ…」
早佐は、そう口にしながら、急速に、自分の体から、意識が分離していくのを感じた。
あるいは其れは現実からの逃避で、あるいは、神の如き大きな視座へ至る為に、意識が大気に溶けていく際の、単なる前触れだった。
十六歳の少女の自分は、此の人間から一刻も早く離れたいが、大気に溶けそうになっていく意識は、目の前の人間の行動の全てを、単なる繁殖欲求に付随するものと捉えていた。
此の存在は、気に入った雌を使って『増えたい』だけなのだ、と。
ただの、地上によく居る、繁殖が行動理念の生き物で、其の鳴き声が、人間には理解出来ないだけなのだ、と。生き物の繁殖の方法は様々で、其の際に、雄が雌に食べられてしまう事すら有るのだから、目の前の存在が、『増えたい』が為に、他を排除し、自分の種を残そうとする事は、何ら、珍しい事では無いのだと。
蟷螂や鮟鱇の繁殖との差異は、宇宙から見れば僅少なのだと。
しかし、分離しかけた意識は、嫌な鳴き声を拾った。
意識が、キュッと、其処に集中し、聞きたくない内容を拾った。
「何故絞め殺したかって。岐顕が、縄跳びで遊ぼうと俺が言うのを断ったからだ」
だから縄で遊んだだけだ、と言ってのける相手に、早佐は、如何かしているわ、と言った。
「私は、貴方に姉様を絞め殺されて、嫌だった」
姉様は私の『世界』の全てだったのに、と言う早佐に、令一は、何故だ、と言った。
「死んだら其処で終わりだろう?死んだ人間の事は忘れろ。理佐が御前の『世界』とやらに、もう居ない事に、何か不都合が有るか?二度と話も出来ないし、二度と御前を可愛がってくれる事も無い。俺が御前を可愛がっている事程には、御前には意味が無いだろう?第一、何故、御前の『世界』とやらには、理佐しか居なかったのだ?何故俺が居ない?」
簡単な話よ、と、堪らず早佐は言った。
「貴方が、誰の事も自分の『世界』に入れないからよ」
令一は、目を見開いて、早佐の顔を見て来た。
理解出来ないでしょうけど、と早佐は続けた。
「貴方は、自分の『世界』に誰も入れる気が無いし、他人にも『世界』が有るのだという事を、理解しようともしないし、認めない。其れなのに、他人の『世界』には、ズカズカと入り込もうとする。だから貴方は、私の『世界』だけではなく、誰の『世界』にも入れない、異物になってしまうの。自分ではない他人にも、大事な物が有る事が理解出来ない事までは良い。其れでも、奪う事をしてはいけない。貴方が其れを理解出来ない事と、他人の大事な物を奪う事は、全く別の話。他人の気持ちが理解出来なくても、他人を殺めない人は幾らでも居る。他人にも『世界』が有る事を理解出来ない事と、其れを認めない事も別の話。結局、貴方は、自分の『世界』に他人を入れず、私の『世界』を認めない儘、勝手に私の『世界』に入ってこようとするから、侵入を阻まれてしまうのよ」
私は、姉様を殺されて嫌だった、と、もう一度、早佐は言った。
「御父様も御母様も亡くなってしまってから、唯一、私を、家族や妹として、自分の『世界』に入れてくれた人だった。自分が寂しくても、私の体を気遣って、私が寂しくない様に考えてくれる人だった。だから、私も、姉様を自分の『世界』に、家族として、姉として受け入れた。いいえ、外に出してもらえない私の、『世界』の全てで、私には、『世界』其のものだった。其れを、貴方が勝手に奪った。私の『世界』を制限した張本人が」
私は貴方の事を殆ど知らない、と早佐は付け加えた。
「貴方の描くのだという絵も見た事が無いし、貴方が持つ別荘で、貴方が何をしているのかも知らない。貴方の仕事も見た事が無い。貴方は、実際、私の事も自分の『世界』に入れていない。勝手に他人の『世界』は制限して、奪う癖に」
勝手に私の『世界』に入って来ないで、と言おうとした早佐に対して、令一は、不思議そうに、剥製を作っている、と言った。
聞き違いかと思った早佐は、え?と聞き返した。
令一は、正確には、と言って詳しい説明を始めた。
「プラスティネーションという技術なのだが。別荘での俺の話が聞きたかったとは知らなかった」
「…もう良いわ」
自分の話は結局伝わらないのだ、という事だけが分かって、早佐は溜息をついた。
悲しみも失望も怒りも、何も兄には届かない。
姉を失った喪失感すら伝わらないのだ、と。
―やはり、同じ狂い方をしなければ、対峙すら難しいのでしょうね。
相手は、少し嬉しそうに言った。
「素晴らしいぞ。美しいものを、美しい儘で保存出来るのだ」
そう、と言って、早佐は、踵を返して、自室に引き返そうとした。
「早佐?」
「そうやって、自分の話だけをしていればいいわ。私は少なくとも、自分の『世界』に貴方を入れないし、貴方の『世界』にも入らないから」
そんな事は無い、と驚いた様に相手は言った。
「御前は俺の『世界』に必ず入る」
意味が分からないわね、と言って、早佐は、兄を置いて、其の場を離れようとした。
去る早佐の背中に向かって、令一は、そんなに治が良いのか、と言った。
「御前は自分の『世界』に治を入れたいのか?理佐の代わりか?」
早佐は、いい加減にして、と、振り返りもせず、冷たく言った。
「姉様の代わりなど存在するものですか。いいえ、誰しもが掛け替えの無い存在で、其の人の代わりなど居ないの。其れを理解する力も、理解する努力をする気も無いのなら、もう話し掛けないで」
早佐は、そう言い終えると、駆け出した。
走ってはいけない、と、声音ばかりは心配そうな兄の声が後方から聞こえる。
そうだ、確かに、近年、こんなに走った事は無い。
だが、其れが何だと言うのか。
走りたいから走るのだ。
走れようが、走れまいが、そんな事は関係無い。
今、走りたいから走るのだ。
走って、兄から距離を取りたいのだ。
―自分の『世界』に治を入れたいのか?ですって?
自分を現世に縛り付けてくれているのは、其の存在だ。疾うに、自分の『世界』の中心だ。
―相手の『世界』に入れてもらえるか如何かは、関係無いの。
誰の思い出の中にも、誰の記憶の中にも、誰の『世界』の中にも、早佐は居ないのかもしれない。勝手に自分の事情に巻き込んだ時点で、自分も、治の『世界』の異物かもしれない。
だが其れでも。
相手の『世界』に入れてもらえなくても、構わないのだ。花が咲いている世の中が好い様に、山茶花が存在する世の中が好い様に、治が存在する『世界』が大切なのだ。
―あの人の居ない『世界』など要らないし、あの人の為になるなら、もう何も要らないの。
胸が絞れる様に痛い。
其れはきっと、走っているからではない。
況してや、病などでは無いのだと、早佐には、ハッキリ分かってしまった。
―あの人が好きだからなのだわ。誰かを好きになったぐらいで、あそこまで動悸が可変しくなるなんて、と思っていたけれど、違うのだわ。
もう、きっと、治の為にしか、あんな風にならないのだ。そして、治に対してしか、こんなに胸が痛くならないのだ。
気付いたら、走りながら、早佐は泣いていた。
嫌なのに、閉じ込められている、あの自室しか向かう所の無い自分に。
理佐に纏わる全てに。
理佐が居なくなってしまってから、きっと、誰の思い出の中にも、誰の記憶の中にも、誰の『世界』の中にも、存在する事が出来ない自分になってしまった事に。
治の姿が、今、自分の瞳に映っていない事に。
心を無くしきれなかった自分に。
恐ろしい事に治を巻き込んでしまった、自分の愚かさに。
―私だって、間違わないで生きたかった。
何も間違わず、誰も傷付けず、誰も巻き込まずに生きたかった。
健康な体で、両親揃っていて、仲の良い家族、兄姉、友達に囲まれて暮らしている、何の罪も無い、ただの十六歳の少女になりたかった。
そして、学校にも行ってみたかった。
しかし、其の何れも、早佐には与えられなかった。
そして、何も間違わずに生きる事は、早佐には出来なかった。
早佐は間違った事をした。其れは罪だ。
無関係の相手と肉体関係を持ち、自分の事情に巻き込んで、命の危険に晒し、住み慣れた土地屋敷を手放させ、恐ろしい隠れ里から出奔させようとしている。
治と居られる事は幸せだが、其れは、間違った手段を敢えて取る事で手に入れた幸せだった。
―今からでも間に合うのかしら。今からでも、あの人を退けられれば、無関係になれて、巻き込む前に戻れるのかしら。あの人から離れられれば。
きっと、そうなれば、自分の存在も危うくなる程、早佐は傷付くだろうが。
―あの人を、如何したら、死なせないで済むの?
「此処に居た」
走りながら涙を拭って、顔を上げると、目の前に、高価そうな紺色の羽織袴を着た、見事な佇まいの人物が居た。
息を切らして、如何にも此処まで走ってきた様子だったが、其の姿は、曇天の、冬の庭の風景の中でも、クッキリと、早佐の瞳の中に像を結んだ。
記憶の中では何時も白装束の相手の、そんな姿を見た事が無かった早佐は、目を丸くして、泣くのも忘れて、其の端正な姿を見た。
相手は、心配そうに言った。
「そんなに走って大丈夫か?…あ、そうだ、あんまり、竹林の方に寄るなよ?」
「治様」
「如何した?泣いてるのか?長に何かされたか?」
早佐が、息を切らしながら、答えられないでいると、治は、あ、山茶花、と言った。
「…頭に花なんか挿して、本当に、如何した?振袖で。本通りで、先刻も、振袖の娘さんと擦れ違ったけど」
花弁が散っちゃったなぁ、と言って、治は、令一が早佐に挿し掛けた山茶花の花を取ってくれた。
早佐は何故か急に、其れでホッとした。
「此れ、離れの垣根の山茶花か」
「ええ」
治は、手元の、大分散ってしまった山茶花の花を見詰めながら、クスッと笑った。
「懐かしいなー、蕾を千切ってさ。…覚えて無いだろ」
―え。
「…まだ蕾だけど、蕾の中で、花はもう、咲く準備が出来ていて、だから、こうして剥くと、蕾の中には、花があるのがわかるだろ、って?」
早佐の言葉に、うわ、と言って、治は真っ赤になった。
「嘘だろ、覚えてるのかよ。…忘れてくれよ」
「狡い」
「え?」
もう駄目なのだ。
もう間に合わない。
此の人物を退ける事も、自分から無関係になる事も出来ない。
離れられない。
―分かっているわ、狡いのは、巻き込んだ私だって。でも、狡い。此れで、もう、離れられなくなってしまった。
『水配り』の後、自分が如何なってしまうのか、早佐にも、もう分からない。
でも、今、此の瞬間だけは、其れ等の全てが如何でも良くなってしまった。
―私も、此の人の思い出の中に、此の人の記憶の中に、ほんの少しだけでも存在出来たのね。
早佐は、泣きながら、相手の首に両腕を回し、相手の唇に唇を重ねた。
相手は、驚いた様子だったが、早佐を抱き締め返してくれて、口付けに応じてくれた。




