悲しみ
来客が有るまで、自身に宛がわれた客間の文机で、自動車教習所の申し込み書類を書きながら、治一は、昨日の早佐の言葉を思い出していた。
―書類と言えば。…薔薇を百本貰うより面白かった、かぁ。
他で聞いた事が無いという点では個性的でしかない求婚の言葉だったであろうと思うので、面白さでいくと、なかなかのものだろうとは、自分でも思う治一だが。
―個性を出す場面じゃなかったんじゃないか?
確かに他人に求婚するのは初めてだった。
初めての事は上手く出来ないものかもしれないが。
他人に求婚する事に慣れている様では却って問題だろうし、要領良く求婚の言葉を言えない人間も少なからず此の世には存在するであろうが。
―いや、結果、喜んでもらえた?気はするけど。『確定申告』も『書類』も、そういう時に使わない単語なんだよな、多分。軽~い内容に聞こえちゃったかも?
今となっては、確定申告も書類書きも自分で遣れ、と言われなかっただけ、相手が優しかったのかもしれない、と、思えるくらい、治一は、あの時の言葉を訂正したい気持ちになっていた。
―一緒に逃げてくれ、とは言ったけど。あれも、プロポーズかって言うとねぇ。
否、本当は、もう一つ有るのだ。
世にも重い、重い重い、プロポーズの言葉が。
坂元本家の仕来りの、自身の真名を教えるという、求婚の方法が有るのだが。
―其れこそ、個性的でしかない、っていうね。
何時言ったら良いのか分からないくらい重い内容なので、いっそ言わないで一生を終えた方が御互いの為に良いのだろうか、と思ってしまうくらい、其れは、今の治一には口に出し難いものだった。
思えば不思議だ。
真名とは、理佐に対しては、自分から教えてしまいたいと思っていたぐらいのものの筈だったのに、実際言う機会が訪れると、何と無く、相手に悪いかも、と思って躊躇してしまうというのは。
多分、叶わない初恋とは夢の様なもので、だから、夢の様な、歯の浮く様な言葉も、言いたくなるのだろうが、結婚を考える程に現実的な関係になった時、其れ等の言いたかった言葉を実際言う段階になると、思っていたのと違う印象になるのだろう。
―いや、まぁ、落ち着いてからでも良いか。今日は、此の書類を書いたら、袴を着ないといけないし。
此の、細かい、仕来りの有る、暗黙の了解の、身分差による服装規定は、誠に厄介である。
先ず、正装の白装束にも、種類が有るのだ。
一つ目は、作業着や普段着、体術の練習に使用される、白張の狩衣。
二つ目は、儀式等、少し改まった時に身に付ける、浄衣と呼ばれる、麻製の白衣白袴。略す事も多いが、立烏帽子を合わせる決まりが有る。
そして、最上級の正装が、白の直衣という斎服である。檜扇や、無紋の纓を付けた烏帽子である垂纓冠を合わせる決まりで、昨日の来客達は、殆どが、烏帽子を略して、此の姿で挨拶に来てくれた。
御祈祷の時は、特に決まりが無いが、移動が多い場合、動き易さから、白張が選ばれる事が多い。雰囲気重視の現場では、浄衣や直衣が使用されるが、普段は当然、動き易い白張である。
また、長の家に行く時は、余程の儀式でもない限り、『御身の為に作業します』若しくは『慌てて馳せ参じました』という意を示す為に、白張で赴く事が多い。
先日、雨の中を白張で走って行ったのは偶然だったが、態度としては、忠誠心を示す事が出来て、とても良かった。
さて、此処からが問題である。
本家当主同士の挨拶となると、何を着るか、という問題だ。
身分が高い、同格の相手と会う時には、大体、白装束ではない場合は、着流しに羽織、若しくは、其処に袴を履いて、更に盛装する。
羽織は、スーツで言うところのジャケットに当たるので、着用するとしても、袴を着用するか、略するか、というのは、多分に、相手との関係性に寄るところが大きい。
顕彦くらい親しければ、略しても気にされないであろうが、母親が清水分家出身というだけで、殆ど話した事の無い、清水本家当主と会うとなれば、穿いた方が良いかもしれない、という気がする。
―こういうの、難しいよな…。
そして、婚約者となったので、実は、長が居ない時には、長の妹である早佐とも同格になれたと考えて良く、着流しに羽織姿で会いに行っても良いのである。
長は、白装束の白張が基本であるので、其の状態で会うのは、作業着の身分高い相手より盛装など、言語道断、長より偉いという態度を示す事になってしまう。
―ま、だから、今日は、瀬原本家に行く時は、白張に着替えた方が無難だよな。
考えたくは無いが、何時何時長に出くわしても大丈夫な様にしておくのは、心掛けとしては良いと思う治一である。
書類を書いて、顕彦に、黒服を呼んでもらって、書類を渡し、歯を磨いて、袴を着た辺りで、何だかんだで、良い時間になり、治一は、黒服に呼ばれて、実方本家の、板の間の居間に赴いた。
清水本家当主、清水藤寿は、今年三十六歳だが、ガッシリした、少し小柄な体系のせいか、年より老けて見える。
首が太くて眉が太く、迫力の有る目をしているので、将に『西郷さん』という雰囲気なのだが、雰囲気が上品なので、人物像のイメージとしては、治一の中では南洲翁とは重ならない。
相手は、やはり、真珠色の、美しい、揃いの羽織袴で実方本家に訪れたので、袴を着た判断は正しかった、と思い、治一はホッとした。
本来は若輩者の自分から御挨拶に伺うものですのに、と治一が言うと、私も昨日里に戻りましたので、という、穏やかな声が返ってきた。
其処から、此度は誠に、などと言祝ぎ合って、二人して、向かい合って茶を飲みながら、話は『水配り』の事になった。
「なかなか御相手が発表されませんので、気にはなっていたのですが、まさか、こういう組み合わせになるとは…」
藤寿は、困惑気味に、そう言った。
曰く、清水分家から娶った妻を亡くしてから長く、分家から養子を取ろうと思っていたところに、降って湧いた後妻の話で、藤寿は、てっきり、長が、自分の病弱な妹を、後妻に貰ってほしくて、其れをハッキリ言わない形で進められている縁談だと考えていたらしい。
「ところが、蓋を開けてみれば…。いえ、此の年で、十六歳の娘さんが御相手だというのに、此方から、何の不満が有るという訳では無いのですが、御相手の方は大変そうですよ。玉の輿と言って、散々陰口を叩かれているとか。実は…困った事になりまして」
御内密にして頂きたいのですが、と、藤寿は言った。
「…藍児さん、そう長くは…」
「えっ…」
「昨日、御挨拶に伺いましたところ、娘を御願い出来ませんか、と、涙ながらに頼まれまして。昨晩、特別に、実方病院で確認させて頂きましたところ、膵臓が…」
「あっ…」
沈黙の臓器である。
何らかの病が発覚した時点で、相当進行している事が多い。
「…父子家庭でいらっしゃるので、娘さんには言えていらっしゃらないそうで…。其れは、縁有って夫婦となるからには、藍児さんの看病に、人を遣うなり、治療に御金を出すなりして、那智さんへの助力は惜しまない心算ですが。そんな訳で、若い娘さんには御気の毒ですが、藍児さんからも頼まれてしまった手前、此方から、もっと若い人の所へ嫁がせてあげてもらえないかと、長に内密に打診する事も出来なくなりまして…。もう、私自身は、養子を取る気でおりましたので。海青さんの所に、男児も生まれましたから…。だから別段、跡継ぎを産んでもらう事も期待してはおりませんし、形ばかりの夫婦でも構わないのですが。周りは、如何も、若い後妻として嫁入りするのだから、跡継ぎを産め、と強要している様子ですね。確かに、父親の援助を私がする形となれば、そういう役割でも与えてあげない限り、那智さんも肩身が狭いでしょうし…。いやはや」
此方は宜しかったですね、と、困った様に微笑みながら、藤寿は言った。
「年回りと家格が合うのですから。…あんまり御気の毒ですので、那智さんを、花嫁教育という形で、早めに本家に引き取って、少し、風除けになって差し上げようかと考えております。そんな訳で、此方も、那智さんに、もし会う様な事が有りましたら、その…。上流の付き合いには慣れていない、普通の、愛らしい娘さんかと存じますので、何卒、其の心算で、御点を甘くして見て頂けると…」
「あ、いえ、此方こそ。家格ばかりで、体裁など無きに等しい家ですので、其の様な」
治一が、恐縮しきって、そう言って、丁寧に一礼すると、藤寿は、驚いた声で、何を仰いますやら、と言った。
其処に、失礼致します、と言って、清水本家配下の黒服がやって来た。
「申し上げます。長が、里を発たれた由、御伝え致します」
何と、と藤寿は言った。
「正午に発たれるとの御話でしたが。…そうですか。では、私も、そろそろ」
藤寿を見送ってから、一人になった治一は、丸い窓から、曇天の下の竹林を眺めながら、溜息をついた。
―膵臓…。
那智に此れから降りかかる事を想像すると、今日の空の様な、スッキリしない気分になる治一である。
―何か変な組み合わせだ、とは思うんだけど。とは言え、俺がネコチャンの相手になってたら、病気の事を、藤寿さんより何とかしてあげられるとは思えないし…。うちだけじゃなくて、里の中の、どの家も、あの家程の金は無いだろうしなぁ。御金だけで考えると…あとは、実方本家後継の岐が再婚する、くらいか?そんな事、今の所、起こりそうにも無いし。此れは此れで、考え抜かれた、良い組み合わせ、って事なのかな?
そうかと言って、長が、藍児の事まで考えて組み合わせてくれた『水配り』だとも、治一には考えられないのだが。
治一は、文机の前に胡坐を掻くと、懐から出した紙を、文机の上に置いて、折り皺を伸ばした。
上手く行かないな、と、治一は思う。
誰もが、何らかの事情を抱えていて、健康そうに見えても、御金持ちそうに見えても、若くて容姿が良く見えても、誰一人、心から幸福な人間は居ないのではないか、という気になる。
一番の幸せとは、何だろうか、と、治一は夢想する。
理佐と自分が結婚出来た場合だろうか。ただ、そうすると、龍顕が生まれない。其れは何だか、今の治一には違う気がする。あの愛らしい姿を見て、動いて、笑っているところを見ては、今更、其の存在を無しには考えられない。
家族が死ななかった場合だろうか。其れは、確実に、そうだと言える。ただ、其れが上手く行けば、きっと、自分は今頃、長崎に逃げ延びていて、こんな恋文を貰う事は無かった。其れを考えると、胸が苦しい。
理佐が死ななかった場合だろうか。其れも、確実に、そうだと言える。ただ、自分が理佐を諦めきれないか、早佐が自暴自棄にならないかで、二人の関係性に変化は無く、やはり、此の恋文は貰えなかっただろう。
全部を手に入れる事は、出来ない。
其れが、弱冠十七歳にして、治一が得た結論である。
―じゃ、一番悲しかった事って、何かな。何に、一番傷付いた?
家族が死んでしまった事。理佐が死んでしまった事。家族や理佐が殺されたかもしれない事。早佐の窮状を知ってしまった事。
―ああ、選べないなぁ。
幸せに対しては、此れの方が良いかもしれない、と、想像を逞しくする事が出来るのに、悲しい事に対しては、どれが一番悲しい、とか、どれがマシとか、比較して考える事が、全く出来ない。
悲しい事を考えると、自発的には動けない様な、委縮した気持ちになる治一である。
―でも。家を更地にして、売って、此処を出よう。普免は取って。何か、行動はしないと。
此れからの人生に不安が無いと言えば嘘になるが、其れでも、此の恋文をくれた存在を手放す事は、もう出来ないのだ。
其れは、『水配り』の組み合わせなんて、元々関係無い事なのだから。
治一が、そうして物思いに耽っていると、岐顕が部屋にやって来たので、治一は、慌てて、紙を、再び、懐に仕舞った。
「寝かせてくれて有難う、治。着替えるわー」
「お、大丈夫?」
「んー。あ、昨日の白張、洗ったから。乾いたら持ってきてあげる。流石に、雨降ってる中を走ったらさぁ、洗った方が良いでしょ」
「え?サンキュ。手洗い?」
「うち、洗濯機派。ま、泥は部分洗いしたけど。アレでしょ、襟とかの縫い目が弱るかもと思って、手洗い派なんでしょ?で、其れだと絞りが甘くて、乾くのが少し遅れるのが面倒で、洗う回数減らしちゃうんでしょ?ま、其の分、生地のへたりは遅くなるけど」
「…ぜーんぶ御見通しかー。いや、足袋は流石に洗濯機だけどね?俺も」
「ま、絹は家では洗えないけど。木綿や麻だったら、素直に、ネットにでも入れて洗濯機に入れちゃいなさいよ。白張なんて、特に、作業着なんだから。家に居る間は、解けたら縫ってあげるからさ」
「…俺の『従』、優秀過ぎる」
もっと言ってー、と言って、大欠伸をしながら、岐顕は、着替える為に、自室の方へ引き揚げて行った。
―岐は子育てもして、俺の分の洗濯までしてくれるんだから。俺も、シャキッとしないとな…。
治一が、そんな事を思いながら、荷物の整理をしていると、白張に着替えた岐顕が、血相を変えて、部屋に飛び混んできた。
「治!令一が、屋敷に引き返してきたんだって!不味い、早佐ちゃん、今、屋敷に一人じゃないか?!」
『山行かば』でも、白装束を着ている理由と、其の種類を書きましたが、調べた時は自分も「三種類有るんだ」と驚きました。
浴衣も木綿なので、工夫次第では家で洗濯機でも洗えるのですが、洗う頻度は、本当に人によるし、洗い過ぎない方が生地は傷みにくいのは本当なので、皆、白張とか、どうしてるんだろうなぁ、と思って書きました(洗濯機で洗う頻度の多い着物の袂に紙を入れたら、そして其れが気付かれなかったら、と思うと、色んな意味で怖い…)。
驚いたと言えば、此処一週間くらい、薩摩ホグワーツの話が家で出るのですが、『えのころ飯』なんて、五年くらい前は、調べてもなかなか出なかったのになぁ、と感心しております(『山行かば』で、名前だけ出しております)。
多分非常食で、食べていた頻度は高くないと思うのですが、自分で調べても出なかった「腹を針金で結ぶ」という調理法が本当なら、豚料理に近く、また、聞き取りでも、一九九七年くらいでは、沖縄の子から「家に帰ったらジョン(飼い犬)が食べられて居なくなっていた」という話を聞きましたので、其れが本当なら、南九州から沖縄地方を中心に、自分が考えているより、犬を食材として考える、中韓の風習に近い部分が有ったのだろうか?と思うのですが、自分の手持ちの資料では、今の所、確認出来ておりません。
ジョンの話を聞いていたら、隣に居た沖縄の子が「ジョン、赤犬だったの?」と言っていたのが忘れられません。




