御迎え
朝六時に起きた治一は、実方本家の、寝室への採光用の丸窓から外を見てみたが、十一月の朝は未だ暗く、あまり、よく見えなかった。
本来なら、遠くの方に、長の館の竹林が見える筈なのだが、と思いながら、治一は、寝巻の黒っぽい浴衣から、紺色の着流しに着替えた。
十六畳の板の間に、豪華な臙脂色の絨毯が敷かれた此の部屋は、以前は岐顕の寝室で、現在は楽器置き場兼、客間になっており、将来的には、龍顕の部屋になるらしい。
楽器は、治一を泊めるというので、実方医院の地下の練習室に移動させたそうだが、布団を畳んで、作り付けの観音開きの収納に仕舞うと、あとは、治一が持ってきた荷物と、古風な文机と、桐箪笥くらいしか無い空間で、広々としていて上品な造りなのに、ともすれば殺風景にすらなりそうな雰囲気だった。
―そうそう、前は完全にフローリングで、こんな絨毯とか無くて、岐のセミダブルベッドが入ってたんだ。此処に、しょっちゅう泊めてもらって。あの、丸い窓から、理佐の家の竹林が見えるなぁ、って、思ってたんだった…。
部屋の様子も、住人もすっかり変わってしまった事で、以前の実方本家の様子よりは、理佐を思い出さなくなったとは感じるものの、記憶というのは複雑らしく、こんな、丸窓からの、未だハッキリとは見えない景色からでも、あの頃見ていた景色を思い出す自分に、少し驚きながら、治一は、着流しと揃いの羽織を羽織った。
一応、本家当主として実方本家に逗留させてもらっているので、白装束ではなくとも、せめて実方本家当主の顕彦に対しては礼を尽くさねば、という気持ちからした装いだったが、部屋を出て、当の顕彦に会ってみれば、楽にしてくれて良いのに、の一言だった。
確かに、幼い頃から散々泊めてもらっておいて、今更、というものかもしれない。
しかし、朝食の為に階下に降りていくと直ぐ、治一は、着流しと羽織と白足袋の盛装をした事を後悔した。
龍顕が、既にパワー全開で遊んでおり、ニコニコしながら、グッタリと板の間に倒れ伏す岐顕の背中の上に跨って、容赦無く、父親の白いTシャツの背中部分に、パンダの縫い包みをバンバン叩き付けていたのである。
―しまった。こんな盛装してたら抱き難いわ。
「おいおい、龍。駄目だ、痛い痛い、だよ。バンバンしないの。こっちおいで」
普段よりは動き難い服装ながらも、何とか父子の近くに寄り、龍顕を抱き上げた治一だったが、ニコニコしている龍顕の手にしている縫い包みを見て、思わず、うっ、と言ってしまった。
「此れは…『可哀想なパンダ』?」
床に突っ伏した儘の状態の岐顕が、地から這い上がる様な声で、そうだよぉ、と言った。
治一は、未だ捨ててなかったの?と聞いてはみたものの、笑顔の龍顕から、其の縫い包みを取り上げる事は出来ず、まぁ、捨てられないか、と言った。
『可哀想なパンダ』とは、奏顕が、治一が小三の頃にくれた、愛らしい、パンダの縫い包みだったのだが、様々な経緯で、賢顕の手によって、医局に持ち去られた物である。
先ず、大学一年生だった奏顕が、天文館でナンパされてゲームセンターのユーフォーキャッチャーで取った縫い包みを押し付けられる様にして貰ったのが、此の『可哀想なパンダ』である。
しかし、何分、当時十九歳で若かった事と、夜だった事が重なり、奏顕は、酔っていたらしい相手に、性別を誤認されてナンパされていたので、面倒な事になると判断し、其の儘、天文館から、当時の下宿先に逃走。
しかし、其の持ち前の雑な性格から、処分が面倒になり、帰省時に、未だ九歳だった治一に、縫い包みを押し付けたのである。
そんな事は知らなかった治一は、割と此の縫い包みを大事にしていた。
だが、顕太郎経由で事情を知った、当時小五の岐顕が、大爆笑しながら『可哀想なパンダ、可哀想なパンダ、可哀想なパンダ、曰く付きのパンダ、奏兄がナンパされてゲーセンで貰った、可哀想なパンダ、曰く付きのパンダ』と、『お化けなんてないさ』の替え歌を歌いながら、高く投げてはキャッチして遊んでおり、其れを遭えなく賢顕が目撃。
小さい子に何つーもんをあげるんだ、と、カンカンに怒った賢顕が家に持ち去ったのだが、縫い包みの愛らしい様子に、捨てるに忍びなくなったらしく、医局に放置。
以来、病院に訪れる幼子等を九年近く相手してくれた、既に最初のエピソードから可哀想なパンダの縫い包みだったが、如何いう訳か、治一は、数年ぶりに、此の場で再会してしまったのである。
因みに、当時、賢顕からは、謝罪と共に、ゼリーの詰め合わせが坂元本家に贈られたが、あまり其のゼリーが好きではなかった治一は、パンダの縫い包みの方を返してほしかったのを言い出せず、其の儘思春期を迎え、殆ど此の『可哀想なパンダ』の事を思い出さなかった。
岐顕は、ゾンビの様に、ゆっくり起き上がりながら、洗ってあるから大丈夫よぉ、と言ったが、其の様子が、あまりにも疲れていたので、治一は、如何した?と尋ねた。
「御前が大丈夫じゃなさそうなんだけど?」
「…龍、四時半に泣いて起きて、其処から寝ない。…くっそー、やっぱり、長距離移動と御客様大勢は、興奮させちゃったかぁ」
「御客さん大好きなんだってね、龍…。大興奮でアンパンマンシールの宣伝してたもんね。其れは申し訳ない…」
来客は全員、『アンパンマン、ちーるねぇ、アンパンマンねぇ』と、笑顔で只管主張してくる龍顕を、好ましく見ていた様子だったが、当の龍顕は、来客が嬉し過ぎて、興奮状態にあったらしい。
いや、と岐顕は言った。
「治のせいじゃないから。龍、御機嫌だったし。…でも、ごめん。ちょっと寝て良い?瀬原本家に行くまでには起きるから。あと、七時になったら、賢おじちゃんが来て、龍を、瑛子ばぁばの御見舞いに連れて行ってくれるから…」
「…分かった。龍は、一時間くらい見ておくから、寝てなよ」
治一の言葉に、サンキュ、と言って、岐顕はヨロヨロと立ち上がった。
「…頭痛ぇ。何なの、此の体力。二日連続で長距離移動させちゃったのに、熱も出さなくて、ただ睡眠のリズムが少し崩れただけで、朝の四時半からフルパワーで遊べるの、本当に何で?龍スゲーんだけど。いや、結構体力には自信が有ったのに、見事に、危うく葬り去られそうになった。今日はヤベー」
治一が、父親似の体力だね、と、ボソリと言うと、俺似かぁ、と、諦めた様に言って、岐顕は、ダボダボのチノパンを摺り上げながら、二階の自室に向かった。
―いや、実際、体力バケモンの子は体力バケモンなんだな…。朝の四時半からフルパワーで遊ぶ相手、してやる自信ないぞ。岐もスゲーな。
其処に、先刻二階で会った筈の顕彦が、何時の間にかキッチンに移動していたらしく、朝餉だぞ、と声を掛けて来た。龍顕が、ひこじー、と言って、キャッキャと笑った。
有難うなぁ、と言って、黒っぽい着流しに襷掛けで、紺色の前掛け姿の顕彦が、龍顕を、治一から抱き取った。
「治ちゃんに抱っこしてもらってたのかい。御客さん大好きだもんなぁ、龍。さ、治ちゃんと御飯食べような。岐も、軽く食べてから頭痛薬飲ませたかったんだが。ま、寝かせてやろう」
御馳走になります、と、ずっと顕彦に食べさせてもらってばかりの治一は、礼を言った。
顕彦は、龍顕をベビー用のチェアに座らせ、落ちないようにベルトをしてやりながら、何の、言った。
「明日には、通いの御手伝いさんが来てくれるからな。そうしたら岐も、家で少しは仕事が出来るだろう。宋も、そろそろ帰って来るだろうし」
そうですか、と言いながら、治一は、洋風のダイニングテーブルの椅子に着席した。
小松菜の御浸しと、雌株と、炊き立ての白米と味噌汁、出汁巻き卵と、昨夜岐顕が作っていたと思しき豚味噌、という、相手が朝何時に起きて作ってくれたか分からない様な、キチンとした献立が有難かった。
―此の家、土鍋御飯なんだよなぁ。精米したての新米だし。不味い筈が無いやつ。
『瀬原衆から、龍の世話をする人を雇ってたからな。一人で何もかも遣ってたって程じゃねぇ。理佐が亡くなった後は解雇したが』
『令一を手引きした可能性がゼロとは言えないからな。なるべく龍は実方衆で育てようって事になったんだよ』
―だから、通いの御手伝いさんなのかな。
出来立ての旨い朝食を食べながらも、実方本家が住み込みの御手伝いさんを雇わず、週に何回か、通いの、黒服の奥さんを交代で御願いしているらしいのは、なるべく、龍顕を実方衆で育てようという方針の表れなのかもしれない、と思い、治一は、少し暗い気持ちになった。
龍顕はと言えば、治一の隣で、ニコニコしながら、薄切りの林檎や、新米を炊いた土鍋御飯を、ピンポン玉くらいの大きさの御握りにしてもらった物を食べていた。
御粥を食べてくれないので、少しずつ、普通の堅さに炊いた白米を与えているらしいのだが、こんなに小さくても、精米したての新米の良さも、炊き立ての土鍋御飯の良さも分かるらしかった。
―いや、旨いわ。此れで、美味しいって知っちゃったら、龍、御粥には戻ってくれないかもなぁ。
子育てって大変だな、と思いながら、治一は、龍顕の頬についた米粒を取ってやったが、其の頬は、触れているかいないか、と思うくらい柔らかく、米粒を取ってもらった龍顕の方は、麦茶の入ったマグカップを両手で握りながら、治一に、極上の笑みを向けてきた。
「はるちゃ」
―可愛い。…此れじゃ、朝の四時半に叩き起こされても、相手してあげちゃうだろうな、やっぱり。親って大変だな…。
稍あって、それでさ、と、顕彦が、言い難そうに言いながら、治一に、例の紙を、そっと手渡してきた。
「あ」
治一は、真っ赤になりながら、此処に在りましたかぁ、などと言ったが、昨日の騒ぎで、文庫本を破って贈られた恋文の事など、すっかり失念していた。
慌てて其れを懐に入れながら、赤面する治一を見て、顕彦は、あのさ、と言った。
「その…『水配り』が決まる前からさ、早佐と…。あ、いや、龍の前で言う事でも無いわな。…悪かった。忘れてくれ」
治一は赤い顔の儘、いやぁー、などと言いながら、深くは追求して来ない顕彦の心遣いに感謝した。
―何でか分かんないけど、絶対バレてるぅ。
稍あって、食事を食べ終えた龍顕が、座っている事に飽きたらしく、ニコニコしながらテーブルをバンバン叩き始めたので、顕彦は、御馳走様、って言え、と言った。
ごっちょがま、と言った龍顕だったが、続けて、おににによぉ、と、少し不満そうに言った。
「おににに?…ああ、御握り?」
治一が、龍顕の言葉が一瞬分からずにいると、顕彦が、駄目だ、と言った。
「ちょっとずつな。御腹が未だ、しっかりしてないんだから。ゆっくり、少しずつ食べろ。あと、林檎は食べたんだから、御腹一杯だろう?絶対残すじゃないか。もう、御手々、キレイキレイして、パンちゃんと遊べ」
龍顕は、パンちゃ、と言って、笑顔で手足をジタバタさせた。
―『パンちゃん』って名前になったのか。良かったな。『可哀想なパンダ』よりは良い名前で。
あのパンダって、と、治一が言い難そうに言うと、顕彦は、ああ、と言った。
「病院のだよ。古いから汚いし、止めろって賢は言ったんだけど、龍が気に入っちまって、取り上げられなくなってな。綺麗に洗って乾かして、アルコール消毒して、結局くれたんだよ。ほら、龍、御口と、御手々拭いて」
そんな話をしていると、来客が有った。
未だ六時半だぞ、と、訝しがりながら、顕彦が玄関に出て行った。
御早う御座います、という、明るい、聞き覚えの有る声がした。
稍あって、龍~、と言いながら、白衣姿の賢顕が遣ってきて、ベビー用のチェアから、龍顕を抱き上げた。
龍は、け~ん、と言いながら、ニコニコして、賢顕の額を、ベチベチ叩いた。
「痛。おはよー、龍~。御迎えに来たぞー。あ、こら、顎を齧るな」
そいつ髭伸びてると、顎を齧ってくるぞ、と顕彦が言った。
髭剃ったのになぁ、と言いながらも、賢顕は、笑顔で龍顕に頬擦りした。
「そっかー、歯が生えるから、痒いのかもしれないなぁ。何でも齧りたいのかなぁ。よーっし、龍、三十分早めに病院に行って、おじちゃんと遊ぼ。なーんだ、今日は、角みたいに寝癖が立ってるな。出鱈目に可愛いや」
確かに、今朝の龍顕は、後頭部から、ピョコッと、白っぽい金色の毛が一房飛び出していた。
―実方家の男系の証。
其れを知ってしまうと、賢顕の愛情を疑うわけではないのだが、少し複雑な気持ちになってしまった治一である。
此の人物は、初孫とは血が繋がっておらず、実の孫は養子に出さねばならず、次男には孫が誕生しない予定なのである。
無意識に、愛情の向け所を探してしまっているのではないか、と思ってしまうのだ。
元来、母親の依を亡くした顕平や岐顕の事も可愛がっていた賢顕が、岐顕の息子で、母親の理佐を亡くした龍顕を溺愛しても、何ら不思議ではないのだが。
―そりゃ、悠の事だって、養子に出したい筈は無いもんね…。龍の事可愛がってるの、丞に見られなきゃいいけど…。
少し切ない気持ちになる治一に対して、賢顕は、おめでとう、と言った。
「此の色男。あの箱入り娘を、如何やって、あんなベタ惚れにさせたんだよ」
治一が、真っ赤になって、え?と言うと、龍顕が、べた?と言った。
賢顕は、慌てた様に、あー、ごめんなぁ、と言った。
「おじちゃんが、まーた要らん事言ったなー。頭が良いから、すーぐ、悪い言葉も覚えちゃうんでしゅよねー。はいはい、野暮は退散。顕彦さん、もう、連れて行きますね」
顕彦は、頼んだ、と言った。
ああ、そうそう、と賢顕は言った。
「九時半に、実方本家に、清水本家当主が御越しになりたいそうなんですが、構いませんか?顕彦さん。治に挨拶したいとの事でして。別途、先触れは来るかと思うんですが、昨晩、偶然、藤寿さんが病院に来まして、今日、十八日の、朝九時半に、此方に伺いたい、と。御茶は黒服に出させますから」
「あー、構わんよ。良いかい?治。丁度、羽織まで着てくれたところだったし」
「構いませんが…。顕彦さん、重ね重ね、御世話になります。…袴も穿いた方が良いでしょうか?」
治一の問いに、顕彦は、あー、と言った。
「…相手は穿いて来るかもなぁ。其の辺は、治の判断に任せるよ。あ、黒服で思い出したが、治、教習所の書類、書いておけよ。岐が、黒服に申し込みさせるってさ」
「はい。何から何まで。本当に有難う御座います」
―顕彦さんって、曽祖母ちゃんの御兄さんだけど、本当に、何時も御世話になってるよなぁ、俺。
良いって、と、明るく顕彦は言った。
「御前と居ると、岐が元気なんだよ。感謝してるのは、こっちだ。其れに、こんな朝早くから、龍の相手までさせちまって」
そうだな、と、賢顕が言った。
「岐、本当に、御前と居ると生き生きしてる。ああ、其れにしても、もう教習所か。来月十八だって?嫁も取るってか。っはー、こっちが年取る筈だわ。ま、岐に息子が居るくらいだし、そんなもんかぁ、なー、龍」
龍が、なー、と、笑顔で言ったので、よーしよーし、それじゃ、と言って、賢顕は、本当に、龍顕を連れて、サッサと行ってしまった。
暫く呆気に取られていた顕彦が、慌てて、保冷バックに入れた龍顕用のヨーグルト等の食べ物や、玩具や着替えの入ったバッグを渡しに、玄関の方向に走った。
パンちゃん忘れてますよ、と言って、食事が途中だった治一も椅子から立ち上がり、パンダの縫い包みの頭を右手で鷲掴みにして、玄関までダッシュした。
―教訓。小さい子の居る家では、ギリギリまで盛装しない事。




