振袖
昨日は昼に発つなどと言っていた令一だったが、何を思ったか、午前十時には屋敷を出て行ったので、向子は、其れを見届けると、実方医院に入院している瑛子の見舞いに行くと言った。
令一は、向子どころか、早佐にも、何も、一言も言わずに出て行ったので、仕事着のスーツに着替えた向子は、多分あたしに挨拶したくないのよ、と言って笑っていた。
―昨晩も、あの兄は、私の寝室に現れなかったし、本当にそうなのだとしたら、有難い事。
今日も、白いシャツとタイトスカートが、とてもよく似合っている向子は、去り際、早佐の部屋で、早佐を抱き締めて、言ってくれた。
「あんなに小さかったのに。もう御嫁に行くのね。由一が言っていた冗談が、本当になっちゃった」
「冗談?」
「ふふ。早佐は体が弱いから、病院の近くに御嫁に遣ろうか、って由一が言って。紀が、其れでは、うちの治が候補ですか?何て言って、皆で笑って」
「…父が、そう言っていたのですか?」
そりゃ勿論、冗談よ?と、抱き締めていた腕を解き、早佐から離れながら、向子は笑って言った。
「当時の坂元本家は、『水配り』に参加してすらいなかったから。第一、大事な娘の結婚候補を、立地が理由で選ぶ訳が無いじゃないのぉ」
「…其の場に、兄は居ましたか?」
よく覚えて無いけど、と向子は言った。
「貴女も治も居なかったのは覚えているわ。…じゃ、やっぱり、令一が居たかもね?御腹の弱い子だったから…診察してもらっていたのかも?」
そうですか、と早佐は言った。
―冗談が通じなかった人間が一人、其の場に居たかもしれない、という事ね。
向子と入れ違いで、午後に、早佐に会いに来てくれると約束していた那智が、時間を間違って早く来てしまった、といった趣旨の事を、泣きそうな顔で、しどろもどろ言って、早佐の部屋に来た。
「早め早めに用意していたら、時間が読めなくなってしまって、…歩いて来たら、早めに着き過ぎてしまいまして。…とんだ、失礼な事を。遅れるよりは、と思ったのですが。…私、やっぱり駄目です。不調法な事を、繰り返してしまいます」
「此方は構いません事よ。私が、御会いしたくて御声がけしたのですから。…まぁ、那智さん。如何なさったの?」
明らかに、此処に来る前まで泣いていた顔をしている上に、髪は、髢や簪を付けられて、まるで、長い髪を結ったかの様に誤魔化されていた。
別に、泣き顔も、美しい飾りが付いた結った風の髪も、那智の若々しい美しさを損なってはいなかったが、一番気の毒だったのは、着せ付けられている振袖だった。
金糸の刺繍が入っており、高価そうで、似合っていない事は無かったが、如何にも晴れ着、といった様子で、那智に着せるには黄味が強過ぎる気がした早佐は、困惑しながら言った。
「…朱色の御振袖、御持ちでしたのね」
―何という悪意でしょう。
早佐には分かった。
周囲が、寄って集って、目の前の、十六の娘の、良い所を剥ごうとした事が。
―きっと、良家に嫁ぐなら短い髪はみっともない、地味な色の振袖はみっともない、などと言って、此の人の大事にしていたものを取り上げたのだわ。
其れは、ある意味、学校に行かなかった、身分高い長の妹として傅かれてきた早佐が、其の立場であるが故に守られて、経験して来なかった、此れまで、誰にも向けられて来なかった悪意だった。
あの、と言って、那智は、ポロッと涙を零した。
「此れは、篠さんが貸してくださって」
宜しいのよ、と言って、早佐は、那智を、自室の畳に座らせた。
「宜しいのよ、那智さん。泣いて構わないのよ。此処には、私と貴女しか居ないのだもの」
―『人間』なのだから、泣いても構わないのよ。
愛しい、『人の子』、と、早佐は思った。
当たり前に惑うて、当たり前に泣く、『人間』の娘が、其処に居た。
―さぞ、驚いた事でしょうね。清水本家当主の後妻になんて、自分が選出されるなどとは思いも寄らなかったでしょう。豪華な暮らしも何も望んでおらず、少女らしい夢を広げていた此の人も、あの兄が勝手に決めた『水配り』の被害者ね。
ごめんなさい、と言って、那智は泣いた。
「本当は…家に居たくなくて。早めに家を出てしまったのは本当ですけれど。居辛くて、私…。約束の時間を、二時間も早く嘘をついて、家を出て、ゆっくり、下方限から、歩いてきてしまったんです。其れで、早く着き過ぎてしまって。…私」
構わなくてよ、と早佐は言った。
「兄が早めに発ちましたの。正午に、別の御客様は有るかもしれないけれど、其れは、そんな、怖い御方では無いから。だから、気兼ねは要らないわ。ゆっくり御話を致しましょう?私、会いたかったわ、那智さんに。本当よ。だから御呼びしたのよ」
早佐様、と言って、那智は泣いた。
「…怖いです。本家当主の奥方なんて、何をしたら良いのか。私…」
御友達が居なくなっちゃった、と言って、那智は、長細い、白く美しい指を持つ両手で、顔を覆った。
「一日で、何もかも変わっちゃった。美人だから御金持ちの家に御嫁に行く事になったんでしょう、何て言われて。…だーれも居なくなっちゃった。篠さんも、此れから、旦那様の御仕事の御手伝いが増えるから、今までみたいに御会い出来ないし。私、怖い…」
「那智さん」
御庭に行きましょう、と、早佐が言うと、那智は、ゆっくりとだが、泣き顔を上げてくれた。
「ね、御庭、見せてくださるって仰っていたでしょう?那智さんの御宅の。今日は、私の好きな場所を御見せするわ。自分で手入れをした、良い御庭、という訳ではないけれど。大事にしている場所が在るの」
早佐は、呼吸器を那智に差し出した。
「もし、私が発作を起こしたら、此れを渡してくださらないかしら?キャップを外してくださるだけで宜しいの。酷い時は、握力が弱くなってしまうものだから」
「こんな、大事な物を…。いえ、其処までなさらなければ外出が出来ない御身体でいらっしゃるのに、私と、御庭に出てくださるのですか?」
那智が、そう言って、涙に濡れた目を、丸くして、早佐を見て来た。
大袈裟に考えなくても宜しいのよ、と、早佐は言った。
「何故か今月は、一度しか発作が出ていないの。味覚は少し変な気がするけれど、此処半月程、何の薬も飲んでいないくらい、気分が良いのよ。此れは、念の為。発作が出た時は、此れが要るから。頼めるかしら。信用しているわ、私。きっと、那智さん、私が苦しかったら、此のキャップを外して、私に手渡してくださる方なのだわ」
那智は、ハッとした様子で、はい、と言って、呼吸器を両手で受け取ってくれた。
「きっと御渡しします」
ね、と早佐は言った。
「私にしては、少しだけ歩くのだけれど、庭に出て、離れの在る、山茶花の垣根の所まで御一緒してほしいの。私、もう、長い事、あそこの山茶花の花を見ていないのよ」
庭を二人で歩く道すがら、那智が、ポツポツと語ってくれた内容は、ほぼ、早佐が察したものと同じだった。
「何で、若いのに、あんな、地味な振袖を作ったんだ、って、此の、着付けをしてくれた、近所の人が。晴れ着は赤だろう、って」
そんなのは決め付けよ、と早佐は言った。
今日は、あまり、振袖を沢山持っている事を知られると、却って那智を委縮させてしまうかもしれないと思い、前に会った時に着ていた、豪華な紅花染めの振袖を着ている自分が言うのは説得力が無いかもしれないが、と思いながらも、早佐は、『晴れ着は赤』という言葉を、力強く否定した。
「御目出度いし、魔除けの色だから、晴れ着に使われる色である事は否定しないけれど。私の姉も、白い振袖だったもの。其れに、私、那智さんの振袖、好きだったわ」
そんな、と言って、那智は俯いた。
「地味なのは本当だと思うんです。パッとしない、って。でも、赤なんて、嫌だったんです。白や、青や、紫が好きなんだもの。赤なんて、全然、私らしくない、って。だから、カタログで見掛けた白い反物で、薄墨で描かれた桜の花の柄に、一目惚れしてしまって。父に頼んで、振袖に仕立ててもらったんです。初めて、自分で生地を選んで、仕立ててもらったけど…近所の人に、色味が無くて葬式みたいって、言われました。何を考えているの、って」
地味では無いわ、と、早佐は言った。
「帯を派手にしたかったのよね?」
那智は、歩く足を止めて、早佐の顔を見て来た。
私は分かったわ、と早佐は言った。
「そして、御洋服の様な色合わせて御召しになってみたかったのよね?とても素敵だったわ。見た事が無い、って思ったの。だから、私は、貴女の、あの振袖の、薄墨で描かれた花の、一つ一つを、よく覚えているわ」
素敵だったわよ、と、もう一度、早佐は言った。
「皆、今まで見た事が無いから、あの御振袖が素敵だって事が分からなかっただけよ。髪が短い女の人だって、何時か、此の場所でだって、普通になるわ。私、あの御振袖、好きだったわよ」
那智は、再び泣いた。
「…私。御茶も御花も知らないし。自分で今まで選んできた物は、全部間違ってたって言われて…。此れから、何でも一から始めないといけなくなって…。何にも上手に出来ない。駄目なんです。私に、本家の奥方になる様な価値なんて…」
宜しいのよ、と早佐は言った。
「得意な事は、得意な方が遣ってくださるわ。得意でない事を、無理してなさる必要は無いのよ。そんな事で、自分が駄目だとか、価値が無いなんて、思わないで」
―愛しい、『人の子』。悩み惑う、『人の子』。
ね、と早佐は言った。
「私、沢山歩いた事が無いし、発作が出たら、動けなくなってしまうけれど。でも、那智さん、倒れたら助けてくれるって仰って、こうやって一緒に歩いてくださっているわ。其れは、私は、御稽古は一通り出来るけれど、御料理なんて、した事も無いわ。亡くなった親の顔も、段々、記憶が薄れてきているし、学校も行った事が無いの。那智さんの方が偉いと思うわ。雨の日も、行きたくない日も、学校に行かれたのでしょう?体育の授業、とか、有ったのだわ、きっと。走ったり、体操したり、なさった?私、何もした事が無い。御庭でね、姉の友達の男の子達が木登りしている時だって、ただ見ているだけ。何時も、ただ見ているだけだったの。皆の思い出の中に私は居なくて、ただ、私は、山茶花の垣根の隙間から、其れを見ていたの。姉みたいには、仲間に入れなくて」
―山茶花の花の秘密を、教えてくれた人は居たけれど。
ね、と早佐は、更に言った。
「出来る事とか、出来ない事、遣った事が有る事、無い事なんて、其の程度の違いよ。貴女、私が走れないからといって、私に価値が無いなんて、御思いにならない方でしょう?そうではなくて?」
私、貴女より何も出来ないのよ、と早佐は言った。
「本当よ。貴女の方が、私より、挑戦した事が多くて、経験した事が多くて、継続した事が多いのよ。私、貴女が駄目だなんて、思った事が無いわ」
那智は、早佐の言葉を聞きながら、ボロボロと泣いた。
御話しくださいな、と早佐は言った。
「今まで、御自分で選んでいらした物の事、教えて頂けません事?ね、御家には、赤と白のチェックのテーブルクロスの掛かったテーブルが有るのよね?きっと、テレビも有るのだわ。其れから、御庭に金襴紫蘇を植えていらっしゃるのよね?御庭を大事になさっているのよね?」
御母さんが、と言って、那智は、再び、顔を覆って泣いた。
「茉莉花が好きだったんです、御庭の」
そう、と早佐は言った。
白い、小さい花で、と那智は言った。
「咲き終わると、ポロポロ落ちて来るので、私は、其れを庭で拾うのが好きでした。…御母さんが亡くなって、御父さんは、仕事を変えて。家に居てくれる様になったけど…。酷いんです、最初、袋麵しか作れなかったんです、あの人」
ふくろめん、って何かしら、と思いながら、早佐は、そう、と言った。
那智は、涙を拭いながら続けた。
「そんなだから、家の御掃除や、御庭の事なんて、とても。だから、御掃除と御庭は、私が遣ろう、って。特に庭は、御母さんが好きだったから、って。其れから御料理も、覚えて…。何時か御母さんになったら、生まれた子に、御母さんが作ってくれていたものを、作ってあげるんだ、って。でも。もう、厨に立つ必要も、庭弄りをする必要も無い、って、言われて…。そんな事より、跡継ぎを産みなさい、って」
「ああ…」
―清水本家の嫁とは、そういう事なのでしょうね。本家の体裁。本家の存続。
分からないです、と那智は言った。
「もう、きっと、あんな風に、御茶も飲めない、篠さんとも。篠さんだって、伊吹ちゃんが生まれて、此れから、どんどん忙しくなるし。でも篠さん、私が困っているのを見兼ねて、大事な御振袖を貸してくださって。…御嫁に行くって、何なのか…。如何して、一日で、こんなに、何もかも変わってしまったのか。分かりません。…派手な暮らしを望んでいる訳では、ありませんでした。本当に、玉の輿なんて、狙っていたわけではないんです。私が、何かして、良い御家の奥方に選んでいただいた、という事は無いんです。信じてください」
分かっているわ、と言って、早佐は、両手で、そっと、那智の両手を取った。
「…長が決定したのよね、そうでしょう?」
―私のせいで。
早佐が何もしなければ、『水配り』の組み合わせは逆だった可能性は高い。元々、長の決定は絶対なので、早佐が謝る事では無いが、きっと、早佐が巻き込んだのは、治だけではないのだろう。
治に触れる事が出来た日に、死んでしまえたら良かった、と早佐は思った。
目に最後に映したのが、治で、兄の姿など、二度と見る必要も無く、ただ、最後に好きになった人間が治の儘、消えてしまえたら良かったのに、と。
最後に治の事を考えた儘、意識が無くなれば良かったのに、と。
誰の事も巻き込まないで、消えてしまえたら良かったのに、と。
人間の心など、初めから持たず、何も、痛みも苦しみも感じない儘、何も行動に起こさず、兄の思う通りに、死んだ様に生きて、短い一生を終えれば良かったのに、と。
心は、理佐と共に荼毘に臥した心算だった。
だが、其れは、結局出来ず、心は、隠している事が出来なくなって、恋をしてしまった。
―浅ましくも、あんな紙を、他人の袂に入れて。
恋をしてしまった事を、誰に、何と謝って良いのか、早佐は分からない。
分からないから、目の前の、同い年の、自分より背が高いのに、可憐で、泣いている少女の手を取る。
手は暖かく、涙で湿っていて、ああ、生きている、と思った。
此の人は生きている、と。
首を括られてもいない。
鴨居に吊るされてもいない。
振袖を着て、早佐の目の前に居る、と。
「…私達、『水配り』の御相手が、逆だったら、と、御思いになる?こんな事、伺っても、詮無い事だけれど」
意外にも、那智は、いいえ、と、ハッキリ言った。
「…分かってしまったんです。私に良い事が起きても、喜んでくれる御友達なんか、居なかったんだって。きっと、カッコいい人と結婚しても妬まれて、背が高い人と結婚しても妬まれて、私が誰と一緒になっても、皆、そんなに喜んでくれなかったんだろう、って。私、きっと、御金が無くて、カッコ良くない人と結婚しないと、喜んでもらえなかったって、分かってしまったんです。御友達よりも、条件の良い人と結婚したら、駄目だったんです。だから、…坂元本家も、本家だし。きっと、なんやかんや、言われたんでしょう。如何転んでも、何か嫌な思いをしたんだろうって」
仲が良い心算だったのに、と那智は、俯きながら言った。
「きっと、学校が一緒だったというだけの御友達だったのね。あんなに妬まれるとは、思ってもいませんでした。あの時間は、何だったのかしら?同じ制服を着て、同じ教室で、同じ時間を過ごしていただけ?…無駄な事、だったんでしょうか…」
私、と、早佐は言った。
「貴女と学校に行きたかった」
―言ってしまった。
本当の気持ちを言ってしまった、と早佐は思った。
そうならば、きっと、もう、何も行動せず、死んだ様に生きて、心を、姉の遺体と共に荼毘に臥していた心算になっていた頃には戻れないし、結局、恋をするのも止められず、何もかも、遅かれ早かれ、といった、時間の問題だったのだろう、と。
「私、其れでも、貴女と、学校に行ってみたかった。無駄な時間でも」
那智は、握っている早佐の両手に、縋る様にして、泣いた。
早佐は、自分の両手が、急速に湿っていくのを感じた。
「ね、一番大事な秘密、教えて差し上げるわ。…私ではない人にとっては、無駄な事だと思うの。其れを教えくれた人にとっても、もう、思い出しもしない様な、取るに足らない事だと思うの。…でも、一頃の、私にとっての…。私にとっては、一番大事な秘密だったの。那智さん、山茶花の垣根の所まで、一緒に行ってくださらない事?」
並んで歩きながら、早佐は言った。
「もし、那智さんに御子さんが生まれたら、那智さんが、良いと思っている事を、御子さんに教えて差し上げてね。御花の事や、御料理の事。もし、木に登りたい子が居たら、させて差し上げて。あれはね、何だか、高い所から此方を見ていて、楽しそうに見えたのよ。確かに、無駄な事かもしれないわ。大人になったら、木登りなんて、必要無い事かもしれない。でも、楽しそうに見えたの。小さい時、木に登った時間が無駄でも、私には、良い事みたいに見えたのよ。遣っている子が居るのを、見ていたから」
―私と違って、貴女は、きっと『御母さん』になれるから。
「ね、御子さんの性別に関係無く、那智さんが良いと思う事を教えて差し上げて。其の子がしたい事をさせて差し上げてね。何でも無い、取るに足らない事でも、最初からさせてもらえないより、ずっと良いもの」
早佐の言葉を聞きながら、何故か、那智は泣き止んでくれて、そうですか、と囁いた。
離れに着いた。
曇天の中、離れの垣根の山茶花は、黒に近いかと思う程の濃い緑の葉の隙間で、殆ど開き切りそうで、辺りに散っている花弁は、見事に、地を、鈍い赤で染めていた。
「未だ、蕾が有るかしらねぇ。有った。そう、こういう、少し膨れてきた蕾が良いのよ、那智さん」
早佐は、そっと山茶花の蕾を毟ると、外側の、薄い黄緑色の萼を剥いた。
「ああ、出て来たわ、那智さん」
「…まぁ。小さな御花が入っているんですね」
蕾の中から、柔らかで、小さな、濃い桃色の花弁が出てきた。其の花弁を外側に曲げると、短く、フサフサとした花芯が顔を出した。
早佐は、此れよ、と言った。
「未だ蕾でも、蕾の中で、花はもう、咲く準備が出来ていて、だから、こうして剥くと、蕾の中には、花が有るの」
御分かりになる?と早佐が言うと、那智は、興味深そうに、ええ、と言った。
「御花の赤ちゃんかしら」
「可愛い事を仰ってくださるのね。…此れだけ。たった、此れだけなの。でも、一番大事な秘密。…無駄よね?」
那智は、ハッとした顔をして、首を振った。
いいえ、と早佐は言った。
「咲く筈の御花の蕾を毟ってしまったから、実も出来ない。抑、此れは垣根だから、実が出来る事なんて、山茶花の繁殖とは、何の関係も無いの。観賞用。綺麗に咲くのを見る為だけの物。此れは、ただ、綺麗に咲く筈だった蕾を、咲く前に毟ってしまっただけの行為。…無駄なの」
そんな事は有りません、と那智は言った。
「…上手く言えないけど…。無駄じゃない気がします。綺麗な、秘密の、御花の赤ちゃんが、其処に、入ってる、って思って。私は其れを知らなかったし。…無駄じゃないと思います」
そう?と言って、早佐は微笑んだ。
「では、御約束なさってね。此れを無駄ではないと思ってくださるのなら。貴女の選んできた事、過ごしてきた時間、好んできた物は、何一つ、無駄で、駄目で、無価値ではない、と、御思いになって。私は素敵だと思っているから」
那智は、大きな目を見開いて、早佐を見た。
御庭を見せてくださる?と早佐は言った。
「今。私、貴女とだったら、下方限に行けるかもしれない。午後からの御客様には、屋敷で御待ち頂く様に御願いしても良いのだから」
「早佐様」
「ね。呼吸器、持っていてくださるのよね?其れで、貴女、一緒に歩いてくださるのだわ」
「はい…。私も、早佐様とだったら、家に帰れるかも…しれません」
「何処へ行く心算だ」
突然の男の声に、振袖姿の少女二人は、驚いて、振り返った。
其処には、無表情の、白装束姿の、令一が居た。
―気配が無かった。…何?出掛けたのではなかったの?
長?と言うと、那智は、恐縮して、平身低頭謝罪した。
「失礼致しました。厚かましくも、御庭に御邪魔させて頂いております。瀬原分家、藍児が娘、那智に御座います」
令一は、那智の挨拶には返事をせず、再び、何処へ行く心算だ、と言った。
聞いていらっしゃらなかったの?と、早佐は冷たく言った。
「何処から御聞きだったかは存じ上げませんけれど、私、此の御方の御宅の御庭を見せて頂きたくて。下方限に此れから、赴きたいのです」
「御前が、そんなに歩けるものか」
珍しく、困惑した様に、そう言う令一に、歩かなければ宜しいのね、と、早佐は、更に冷たく言った。
「其れでは、車を出して頂ける?」
其れは、と、令一は、更に、困った様に言った。
車を出して頂ける?と、早佐は、もう一度言った。
「病院に行くのと、距離は変わらないと思いますわよ。其れに、出来ない理由を考えるのではなく、出来る方法を御考えになって。御兄様は頭脳が明晰でいらっしゃる様ですから」
私は此の方の御宅の御庭が見たいの、と、早佐はハッキリ言った。
「昼に発つと言っておいて、あんなに早くに出て行くから、御客様を御招きして、此処で御話をしていたというのに。また、こんなに早く戻っていらした理由は?」
令一は、御前に挨拶をしていなかったから、と、囁く様に言った。
早佐は、呆れて言った。
「…挨拶をしてから発てば良かっただけの話では?其れなのに、向子さんにも何も御挨拶なさらずに…。あれが、実方本家の御息女に対する態度ですか?」
早佐の追及に、令一は、無表情で、黙ってしまった。
―…成程、向子さんが居るのが、本当に嫌だったのかもしれないわ。居なくなった頃合いを見計らって戻って来てみれば、私が部屋に居なかったものだから、相当慌てた様ね。
「まぁ宜しいわ。さ、車を出して頂けないのなら、徒歩にて参るだけの事です」
待て、と焦った様に、令一は言った。
「俺も行く」
―?
早佐は、思わず、那智と、顔を見合わせてしまった。
令一は、もう一度、拗ねた様に、俺も行く、と言った。
那智は、飛び上がって、滅相も御座いません、と言った。
「お、長に御見せ出来る様なものでは、とても。あ、あの。失礼致しました」
那智は、怯えた様子で、早佐に呼吸器を手渡すと、走って、屋敷の玄関の方向に走って行ってしまった。
酷いわ、と早佐は言った。
「長が家を訪問するなんて、そんなに話を大きくしたら、恐縮なさるに決まっているでしょう?…きっと、此れで、遠慮なさって、もう二度と、御庭を見せてくださらなくなったわよ。…御友達になってくださったかもしれないのに。嗚呼、此れで、また、遣りたい事を貴方に潰されたわ。私が出掛けられなくなって、此れで満足?」
令一は、泣きそうな顔をして、俺も行くのだ、と言った。
如何して、と早佐は言った。
「ただ、御庭を見るだけよ。そんな、長い時間ではないのに」
令一は、垣根の、紅い山茶花の花を摘んで、早佐の耳の横の髪に刺した。
早佐は、微かに触れられた部分から、ゾワリと鳥肌が立ったが、令一は、泣きそうな顔の儘、美しい早佐、と言った。
※『晴れ着は赤』 魔除けの色なので、子供の成長を願ったり、祝ったりする行事で、衣服に使われる、というのは、日本の文化としては、よく有った事だと思います。2004年の聞き取りだと、未だ、こう言われて成人式の振袖を買った女子大生が居たので(長崎県五島列島)、結構根強い感覚だったのかもしれません。
あと、地域や年代によっては、蝶の柄を嫌ったようです(死者の霊魂という発想が有ったとか)。
白地に薄墨で描かれた桜の枝の柄の振袖を、地味だからと言われて買ってもらえなかったというのも、聞き取りで出てきた実話です(熊本市)。
購入者の親の年代から見ると、「若いうちしか着られない色を着てほしい」という希望が有るようで、色味が渋いと、購入を嫌がる傾向が有るようです。ただ、七十年代には、一度、渋い色の着物が流行し、母親の勧めで、渋い緑色の着物を購入したという話も有ります(鹿児島市郡山町)。あとは、「髪を結う為に、成人式までは髪を伸ばしておけ」というのは、2000年代の聞き取りでは、よく出ました。
成人式辺りの話の聞き取りは、世代も出て、本当に面白いです。
聞いた話で一番怖かったのは、「成人式の振袖を作る時、呉服屋さんで紹介された、反物を藍染めしてくれる業者さんが、何故か女子短大の門の前で車を停めて待っており、何故か相手は此方と交際する気で、断ったらキレられた」というエピソードでした(…何で学校を知ってるの?というところから怖い)。
短大の門の前で、っていうのがリアルだなぁ、と。




