秘密
白い直衣姿で、烏帽子を略した正装をした賢顕は、治や岐顕から、早佐が令一に首を絞められたと聞いて、大変憤っていた。
「治が知らせてくれて良かった。岐が、花嫁道具の相談に託けて向子を泊まらせる、なんて思い付いたのも流石、立ち回りが上手い。ま、直ぐ跡は消えるだろうが」
他には何もされなかったか、と、豪く心配そうに賢顕が尋ねるので、早佐は、戸惑いながらも、いいえ、と言った。
賢顕は、心から安心した様子で、其れは何より、と言った。
「いやー、『水配り』が決まって良かったなあぁ。嫁入りという形だが、何とか、此処を出られそうじゃないか。令一も、よく決心したよ、御前を嫁に出すなんて。其の前に首絞めるってのは頂けねぇが。如何いう心算なんだか」
まぁ、あいつの考えている事なんて、分からんが、と賢顕は言った。
「あんまり話をした事が無い相手だとは思うが、治、良い奴だからさ。今より酷い事には絶対ならないと思うぞ」
桔梗の花と見紛う様な、美しい青紫色の訪問着を着た向子も、そうね、と言った。
「治は良い子よ。…其れより、令一の動きが気になるわ。…来月は、仕事納めまでは忙しいけど、私も、なるべく鹿児島に居られる様にはするから」
今夜は一緒に寝ましょう、と、優しく言ってくれる向子に、早佐は、はい、と言った。
「其れにしても、兄が、向子さんを此処に泊める事を了承するとは…」
「あいつ、私には興味が無いからかもね」
私が見えないのかも、って思う事が有るくらいだわ、と言う向子に、賢顕は、不思議そうな顔をしたが、まぁ良いさ、と言った。
「年回りが合う相手で良かったな。…坂元本家が本家の御嬢様向きの屋敷かと言われると疑問なんだが、今じゃ手に入らないくらい質の良い木が使われた、立派な古民家だよ。確か曳家か…移築だったと思うんだが、元は江戸末か明治初期に建てられた、文化財クラスの木造建築だ。どんなに豪邸だって、其の辺の新築の家とは訳が違う。早佐、病院に行くついでにでも、坂元本家の建物を見た事は有るか?」
見た事は有りますが、と早佐は言った。
「あれがそうか、と思う程度で。…そうですか、そんなに良い建築物でしたか」
そうだよぉ、と賢顕は言った。
「あんまり、坂元さん達は、自分達の事を、良い風には言わないが。あそこの家の人間が話す内容は、半分くらいの心算で聞けよ?本人達は本当に、自分の事を良い家柄だとは思っていない節が有る。自己評価が低いと言うか…。代々、そういう家風で、全然偉ぶらないし、先祖からの遺産に頼らないで、自分達で医者になったり不動産業を起こしたりして稼いで、質素に、堅実に暮らす人達なんだよ。節税とか、金持ちに見える様に金を使う、なんて振る舞いをしない人達だ、というだけで、落ち目の家なんて、とんでもない話だ。…本当は吉野本家なんかより金が有る筈だぞ」
まぁ、と、早佐は言った。
―あの人の事、別段、育ちが悪いとも、家柄が悪いとも思った事は無かったけれど、実際は、そんなに良いのね。
其れにな、と賢顕は続けた。
「実際は、治、三百坪くらいの土地と、かなりの額の遺産を相続してるんだ。相続税で、どのくらい持って行かれたかは知らないが、ある程度は残っただろうよ。其れを、使っちまったりもしないで、ちゃんと、働いて、固定資産税を払って、土地を残してるんだぜ、未成年なのに。其れだけでも偉いんだが、…十五から祈祷師遣って、あんなに稼ぐ奴も、俺は殆ど見た事が無い。生まれる前から遣ってたのかと思うくらいだぜ」
だからさ、と、賢顕は言った。
「あいつの事、あんまり知らないとは思うんだが、良い奴だし、良い家の当主だ。俺としては、一緒になるのを嫌がらないでやってほしいな、と」
―あ。
早佐は、再び、体中の血液が顔に集まって、動悸が可変しくなる感じがした。
賢顕と向子が、目を丸くして、早佐の顔を見詰めた。
賢顕が、慌てた様に、嫌じゃないなら良いんだ、と言った。
早佐は、俯きながら、小さな声で、はい、と言った。
―そうだったわ、今日は。
自分が恋をしている相手に、一緒に逃げてくれないか、と言われ、好きだと言ってもらえて、早佐には最高だと思う求婚の言葉を貰えて、今は、『水配り』の間だけではあるものの、婚約者になれたのだ。
―そんな事、人生で叶うなんて、思ってはいなかったのに。束の間、一緒に居られるだけで良いと思っていたのに。…そうね、一緒に居られるのは、『水配り』まででしょうけど。…幸せだわ。今、此の時は。御正月までは、きっと幸せ。
早佐が、紅い顔の儘、黙って俯いていると、えー?と賢顕が言った。
「…いや、そんな、幼馴染ったって、大して関わりが無かったよな?其れで、『水配り』の相手に決まって、こんな…満更でも無さそうなのを通り越した感じになるのか…?」
スゲーな治、と賢顕は言った。
「…いや、大体、狡ぃよなぁ…。薫陶さんに似たって、栄さんに似たって男前なのに。どっちにも似たのかよ!ってな。…いや、了に似たって、紀に似たって男前か。如何いう遺伝だよ…。アレだろ、何か、下方限の女の子達に人気なんだろ?治」
―あ、そうだわ、下方限と言えば、那智さん、如何なさったかしら…。後で、女中に、明日会えないか打診してみましょう。
シッ、と向子は言った。
「結婚が決まった子に、態々、そんな話、しなくても良いでしょ?」
失敬、と、困った様に賢顕は言った。
「いや、ま、そうだよな。浮気されないか気になったり、他の女が気になったり、するよな?」
早佐は、未だ赤い顔の儘、いえ、と言った。
「本来なら、嫉妬くらい、した方が良いのかもしれませんが。生きていてくだされば、如何でも構いません。他の人と一緒に居ても構いませんし、本当は私では無い人を好きでも構いません。…長生きして、好きな様に生きてくだされば、本当は、其れが一番宜しいですが、…生きていてくだされば、御無事であれば、…健康でいらっしゃれば。特に、私から相手に望む事は有りません」
―私のせいで、殺されてしまうのかもしれないのだもの。
元々、治が、理佐の方が好きだなどという事は、分かり切っていたのだ。其れを、偶々、こういう関係まで持って来られた、というだけで、治にとっては、其れこそ、事故の様なものだったのだろうと、早佐は思うのだ。一緒になど居られないと思っていた存在の、婚約者にまでなる事が出来たのだ。其れ以上は、早佐にとっては、身に余る、可分な望みというものだった。
本心からそう言った早佐だったが、其れを聞いた賢顕は、両手で顔を覆って、何でぇ?と言った。其の顔は、耳まで赤かった。
「何時の間に、其処まで?あ、も、ごめん。おじちゃんが悪かった。要らん事言った」
早佐は、頬を紅潮させた儘で、いえ、と言った。
「其れより、其の…。変なのです」
賢顕は、居住まいを正すと、如何した?と、心配そうに尋ねてくれた。
あの、と、早佐は、火照る頬に困りながらも、続けた。
「今日は…。自分でも、意味が分からない事で、急に恥ずかしくなったり、動悸が治まらなくなったり。血圧が高い感じ、というか、火照るというか。熱が有るのでしょうか?其れとも、不整脈でしょうか?…喘息用の気管支拡張剤は心臓に負担が掛るとは聞いた事が有りましたが、此れまで心臓に問題が有ると言われた事は無かったのに」
―幾ら、相手が好きだからって、此処までの事になるかしら?第一、こんな事、今まで無かったもの。土耳古桔梗の話をしていた時だって、綺麗だと言ってもらえるまでは、消えてしまいたいくらいの気持ちになったのだもの。ずっと胸が痛くて。遂に心臓にまで不調が来たとなれば、益々、子供を産むのにも差し支えが出て来るのではないかしら。そういう意味でも、若い人の『水配り』の相手には、自分は向かないと思うもの。
子供を授かれないかもしれないと考えると悲しいが、そういう話なら、やはり、治には、健康な相手と一緒になってほしい早佐だった。
―…長生きして、好きな様に生きてほしい。本当に。私と、何の関係も無くなってしまっても構わないから。
しかし、幾ら待っても、賢顕からの返答が無いので、早佐が、恐る恐る顔を上げると、賢顕だけでなく、向子も、揃って、真っ赤になって俯いて、黙り込んでいた。
「あの…賢様?」
ゴメン、と賢顕は、俯いた儘、言った。
「其れ、御医者様には治せないやつだと思う。冷たい無表情だった子が、顔を真っ赤にして、恥ずかしがって、心臓の話をするってのはなぁ…」
そんな、と、早佐は言った。
「薬を増やしても、駄目でしょうか…」
効く薬が無いやつなんだ、と、困った様に賢顕は言った。
「人間だからなるんだよ」
―そうか。私も未だ、『人間』だから…。仕方が無い事、なのね?
今日は、もう退散するわぁ、と、賢顕は、更に顔を赤くして、言った。
「…令一が焼かないと良いけどなぁ。…いや、焼くくらいなら、嫁に出さなきゃいいんだしな。…もう、訳分かんねぇわ」
御手上げだ、と言って立ち上がる賢顕に、向子が、明日は瑛子姉の御見舞いに行くわ、と言った。
「龍も連れて行くから。会わせてあげたいの」
おお、と言って、賢顕は、嬉しそうな顔をした。
「喜ぶぜ、きっと。此処何年かの事を考えると無理も無いが、俺より年下なのに老け込んじまって、気の毒過ぎる。治の事も教えてやろう。身の回りで慶事が有れば、張りが出るだろ。よし、俺が、朝、実方本家に、龍を迎えに行ってやるから、御前は直接、病院に行って良いぜ。明日は、令一が発った後、一旦、福岡に戻るんだろ?」
ありがと、と言う向子に、いやぁ、と賢顕は言った。
「福岡では世話になったな。結局、顕彦さんが朝食に、サラダや何かと出してくれたんだが、クロワッサンも旨かったぜ。で、百道浜から学会の会場に行って、其の儘、新幹線で帰って来てみりゃ、今度の正月の『水配り』の相手が二組決まってて、早佐が首を絞められたとかで、此の騒ぎだったから、結局、御前に礼を言えてなかったかも、と思ってな。有難う、向子。…福岡と言えば」
あの物件に何かしたか?と賢顕は言った。
何も、と向子は言った。
―何の事かしら?
しかし、続く向子の言葉は、賢顕を驚愕させた。
「あたしの持ち物に事故物件は要らない、って言って、書類に判子を押しただけ。後は、あたしの方が強い、って言えば良いの。其れだけ」
「…御前。言霊使いかよ」
―何ですって?
しかし、向子は、キョトンとした顔をした。
「本当は皆、言霊使いの筈よ。此処は言霊の国なんだから。皆、本来は出来る筈よ?」
出来ねーよ、と賢顕は、呆れた様に言った。
「其れは、大して練習しないで自転車に乗れるようになったり、逆上がりが出来るようになったりした奴が、何時間練習しても出来ない奴に、理論上は君も出来るって言ってんのと変わんねぇんだよ」
何隠してんだか知らねぇが、と、溜息交じりに、賢顕は言った。
「言いたくないなら詮索はしないが。…平成五年か?米騒動の年の年明けくらいから、御前、変だぞ?…あと、岐顕と理佐の『水配り』の時だが…何か有ったのか?」
向子は返事をしなかった。
また蚊帳の外かよ、と言って、賢顕は、深呼吸を一つした。
「俺程度に出来る事は少ないが、…あんまり、抱え込むなよ?…ま、いいや。今言ったって、何にもならんしな。明日、龍を迎えに行くから」
じゃあな、と言って、賢顕は、襖の前に正座すると、完璧な作法で一礼し、スラリと襖を開けて、去って行った。
正座して、向かい合って座った儘、今の話は?と尋ねる早佐に、さぁ、と、囁く様な声で、向子は言った。
左様か、と、早佐の口から低い声が出た。
「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命。隠し立てなさると、協力が出来ない」
向子は、ハッとした顔をして、其の子を返して、と言った。
「時期が来たら教えるから。其の子は巫女じゃないんだもの。常処女で居る必要は無い。好きな人と結婚させてあげて。今夜は、あたしと、花嫁道具の話をさせて頂戴。未だ、其の子を人間の儘でいさせてあげてよ」
向子の声を聞いて、早佐は脱力した。其れを、向子は抱き留めて、支えてくれた。
「…向子さん」
ごめんね、と言って、早佐を抱き締めながら、向子は泣いた。
「由一が、初めて我が儘、言ったの。理佐と、早佐を欲しいんだって。あの子達が良いんだ、って。特に早佐は、自分と同じ髪の子なんだ、って。…だから、あたし、其れを聞いて、ああ、見付けてくれたんだ、って。そして、由一は、『譲れないもの』を見付けたんだって…」
向子は、其処まで言ってから、ハッとした顔をして、早佐から離れた。
「あ、…ごめんなさい、あたし」
―…私が養女だという事を、言わない様にしてくださっているのね。
いいえ、と早佐は言った。
「…御姉様と御呼びしても、宜しくて?」
向子は、観念した様に、ええ、と言った。
「…多分、青い花畑に行ったら、本当の事だもの。構わないわ」
―…何か知っていらっしゃる事は確実ね。
「今は御尋ねしませんから。今夜は一緒に休んで…姉の…理佐の思い出を話してくださいませんか?」
私は其れが、とても聞きたい、と早佐が言うと、向子は、泣きながら、分かったわ、と言った。




