賎家
令一が出かけてしまい、治達が帰ってしまった後、一人になった早佐は、困った事になった、と思った。
―あの兄の事も、私は低く見積もっていたのね。大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経。私達の事が、あの本を見ただけで分かってしまっていたのだわ。
『…此のところ、里に居た男、…か』
迂闊だった、と、早佐は思った。
令一が諳んじたのは万葉集の歌だが、其の中で詠まれている『大汝』とは、大国主の別名である。
大国主は、国造りの神であり、多くの山や丘の造物者であり、医療神であり、命名神でもある。
其の大国主は、別名の多い神で、其れ等は、大穴牟遅神、大汝、八千矛神、葦原醜男、大物主神、伊和大神、と、挙げれば、枚挙に暇が無いが、兎に角、令一は、あの時、確かに、『大汝』と言った。
―気付いたのだわ、私が、『古事記』の本の、あの部分を破り取った事を。
昨晩、『落丁にしては』と言いながら、早佐の本を見た時に、『古事記』の、大国主に、正妻の須勢理毘売命が詠み掛けた歌の頁が無い事に気付いたのだ。
―写真記憶。…いいえ、普通の物に対する記憶力も良いのかしら。…何と言う事。まさか、有る筈の場所に『無い』頁が存在する事で、此処まで推し量られてしまうなんて。
大国主は、八上比売と交わって、其れ程間が空いていないというのに、須佐之男命の娘の須勢理毘売命と、出会って直ぐ肉体関係を結び、須佐之男命の元から須勢理毘売命を盗み出し、正妻にする。
結局、大国主は、八上比売との間に、先に子を成していたのだが、八上比売が、正妻の須勢理毘売命の嫉妬を恐れて、我が子を置いて実家へ戻って、居なくなってしまう。
また、大国主が高志国の沼河比売に妻問いに行った事が原因で須勢理毘売命が激しく嫉妬。
其れに困惑した大国主が大倭国に逃れようとするのを、床に誘い、留める歌を須勢理毘売命贈り、仲直りする切っ掛けになった、というのが、早佐が破り取り、治の白装束の袂に入れた頁の前後である。
―分かったのだわ。私が、『汝を除て』と、床に誘う存在が居るという事が、あれだけで。
そして、其の頁で、歌を詠み掛けている存在が、須勢理毘売命という事から、早佐と、早佐が其の頁を破り取って贈った相手との間に、既に肉体関係が有る可能性まで察したのだろう。
後は簡単だ。
本部に確認すれば、令一の留守中に、ソトでの仕事を入れず、瀬原集落に残っていた男衆が分かる。彼等の動向を、黒服にでも頼んで、虱潰しに当たればいい。恐らく、其処で分からない様な、単独行動をしていた人間が、消去法で早佐の相手と分かったのだろう。
―…罰が当たったのね。狡い事をしているとは思いながら、通って来てくれる相手を退けもせずに、ズルズルと関係を続けて、あんな歌を贈ってしまったのだから。
結局、自身が、そんな事をしてしまったせいで、令一は、治と早佐の密通に気付き、治が、早佐が贈った頁の歌の内容に気付いてしまった事で動揺させ、令一が居るにも関わらず、危険も顧みずに、早佐の元に来させてしまったのだ。
―悲しい事事だけれど、そうなのね。学校に通えなかった私は、那智さん達との共通言語は、殆ど獲得する事が出来なかったけれど、兄とは、共通言語を持つのだわ。
そして其れは恐らく、治と早佐の間よりも、通じ合える共通言語なのだ。
令一は、ほぼ学校に通っていなかった自分同様、早佐の就学自体を禁じ、外出も殆ど許さず、自分が読む様な本を与え、婉曲に、本当に『自分の仲間』を作りたかったのだ。自分同様の孤独な人間、其れでいて、『自分の言語』が『分かる』存在を作りたかったのだろう。
―成程。『飼育』だと私は思っていたけれど、相手は、本当に『教養』を与えていた心算だったのだわ。自分と同様の。其れも、姉様の様に、『学校教育』というものに染まっていない、自身との『共通言語』となるものを習得させられる様な。
そして、兄の思惑通り、其れを習得出来てしまった早佐は、兄の思う通りに『養育』されてしまったのだ、という事が、早佐には分かってしまった。
―其れにしても、私の『水配り』の相手に、密通相手の治様を選んでくるとは。きっと、そういう事ね。
恐らく、理佐がされた様に、そうされるのだろう。
『水配り』で、何らかの手段を使って岐顕から理佐を奪い、犯した様に、治にも其の様にして、早佐を『奪った』と表明する心算なのだろう。
だから、立地が選出理由などという嘘は、露見しても構わない程度の事だったのだろう。
太々しくも、自分が決められる事に対して、詳しい説明などする必要も無いと考えているか、適当な、噛み合わない様な事を言っても、長の威光で、誰も深く言及して来ない事を、経験的に理解しているのだろう。
―まぁ、今日見た限りでは、坂元本家の元医師の栄様や、病院に対して、何らかの拘りは有る様子だったけれど。諳んじる歌にも、其れが知れるわ。
『大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経』という万葉集の歌に詠まれている、少彦名、即ち、少名毘古那神は、大国主と義兄弟となって、国造りに協力した、大国主同様、多くの山や丘の造物者であり、命名神であり、知識の神であり、薬や医療の神であり、他にも、禁厭、穀物や石の神である、という、多くの性質を持つ神である。
あの万葉集の歌は、『義兄弟として、二柱で国造りをした医療神がいらしたという、此の志都の石屋は、幾代の年月を経てきたことだろう、とても古くから在る』という意味だ。
其の歌を、治の口にした『賎家』という言葉に引っ掛けて、当意即妙に諳んじたのであれば、『志都の石屋』は、故実方分家当主の医師、俊顕と、故坂元本家当主の医師、栄が、実方本家の娘だった初を間に挟んで義兄弟だった事から考えると、『実方医院』の事なのだ。
取り壊すまでは、実方医院の別館が坂元本家の敷地内に在った事と、本館が出来るまでは、其の別館が実方医院本館だった事を考えると、あの歌のもう一つの意味は『義兄弟の二人の医師がいらしたという実方医院は古くなってしまったのだな』で、だから令一は、万葉集から、其の部分を抜粋してで諳んじたのだ。
―あんな短い歌に、其処まで…。兄を見縊っていたわ。
確かに、他人と会話が通じない兄ではある。
世界観が独特で、妹として育った早佐とですら、共通言語を話していても、物事の認識に対して、共通点が少ない。
会話の運びは一方的で、とても、優れた人柄とは言えない、という点に於いては、愚かでもある。
だが、ある特定の分野では異様に高い能力を発揮するし、知能も高いのだ。
だから、相手が自分に分からない事を言っているから、と、蔑ろにすると、痛い目を見るのだ、という事が、早佐には、今回の事で、よく分かった。
そう、世間を知らない早佐とは違い、十代で長となり、宗教団体を運営出来ているという事は、令一には、早佐には分からない、其れなりの才覚なり、知性なりが有るのだ。
―だから、姦計を企てる事も、他人を殺しても罰せられない立場に自分を置く事も可能なのだわ。
化け物、と、早佐は思った。
そして、改めて思い知った。
治を、恐ろしい事に巻き込んでしまった事が。
理佐の身に起きた事を、岐顕が公表しない、という事は、結局、そういう事なのだろう。
義兄の性格から考えるに、実方本家の体裁などと言う理由で、其れを隠蔽しているわけではない筈だ。
理佐が自分から、令一に強姦された事を公表したくないと言ったのを尊重したか、長に逆らって、実方家全体の立場が危うくならない様に、泣き寝入りと、長への恭順を実方本家全体で決め込む事にしたのか、其の両方か、なのだろう。
ところが、治は違う。
其れは確かに、素直ではない所も在るが、あの、正直で、生真面目な、見栄を張る事の無い、守るべき一族の者どころか、自身の事を、失う程の体裁も持っていない、と、本気で思っているであろう人物が、此れから早佐に起きるであろう事に、黙っていられる筈は無い。
そう、坂元家の人間は出奔するのだ。
其の行動原理が、衝動でも、策略を練った結果でも。
きっと、そんな事になったら、何をも顧みず、治は、早佐の為に、長に逆らって行動してしまう。
一緒に、此処から出よう、と、雨の中、傘も差さずに、走って、此の場所まで来て、言ってくれたように。
そして、理佐を殺す事に躊躇が無かった令一の方も、治の行動に対して、思った通りに行動してしまうのだろう。
其れだけは、いけない。
―あの人に手出しはさせない。きっちり消してあげましょう。持ち速佐須良比、失ってあげましょう。
兄を魔として祓う、と、早佐は、改めて、心に誓った。
稍あって、女中が来て、賢顕と向子の到着を告げた。
早佐は、居住まいを正し、来客を迎える心構えをした。




