波乱
其の場に居る人間全員で、声の方に向かって、正座した儘、丁寧に一礼した。
御楽に、という声がしたので、治一は顔を上げた。
白装束に身を包んだ人間の顔は、何故か、見えているのに記憶に残らない、有るか無いか分からないものになっていた。
―瀬原本家当主、瀬原令一。
「久しいな、坂元本家当主。正午に発表したというのに、随分早いな。使者が、坂元本家は無人だったと」
治一が、何とも言えず、左様で、と言うと、入れ違いで御座いましょう、と岐顕が言った。
―珍しい。岐が、長が居るのに喋ってる。
其のくらい心配させているらしい。
証拠は無いが、理佐と、治一の家族が殺されたのだと思っているのだから、親友が警戒するのは無理も無い。
だが、治一の方は、此の期に及んで、相手を、如何思って良いのか分からなかった。頭の何処かでは、此れが、理佐達の仇だ、とは思っているのだが。
―顔が…見えないんだよな。いや、見えるんだけど、目の中で像を結ばないというか。こんな事、初めてだな。
令一は、岐顕の出過ぎた発言に、気を悪くするでもなく、何故か微笑んだ様に見えた。
―表情がギリギリ分かるくらいには顔が見えるか…。
治一が、戸惑いながら相手の顔を見ていると、如何やら、知らず、見詰め合っていたらしい。
ほう、と相手は言った。
「よく見ると、御父上より、曽御祖父様に似ておいでだな」
「よく言われます…」
父親の紀は、何方かと言えば、祖母の夕に似ていたので、父親よりは、母方の祖父に似ていると言われがちな治一だったが、骨格と言うか、雰囲気も含めて、坂元家の中では、曽祖父の栄に似ている、と、よく言われたものだった。今も、栄より先に亡くなった、治一の母方の祖父を知らない人達は、治一の事を、曽祖父に似ている、と言う。
令一は、ふぅむ、と言って、繁々と治一の顔を見た。
―?
治一の方は、相手の顔が、見えるのか見えないのか、自分でも分からないので、如何反応して良いか分からず、ただ、相手の顔の方向を見詰めていた。
状況が掴めないでいると、稍あって、宜しい、という、謎の言葉が下された。
―…何が?
其の後、令一が、治一を、ただ見詰めているだけで、黙ってしまったので、場が静かになってしまった。
困惑した治一は、思い切って、此度は、と言った。
「妹御との『水配り』の相手に御選出賜りまして、誠に、御礼申し上げます。…なれど…。当家、家格に見合った設えを持たぬ、落ち目の家なれば、如何様な理由で、妹御の御相手に御指名頂けたのでしょうか?」
「ああ」
暫く間が有った後、坂元本家は病院に近いので、という、聞き違いかと思う様な返答が有った。
―…理由、立地って事?
坂元本家の立地が妹の結婚相手の選出理由、というのは流石に嘘ではなかろうか、と思った治一だったが、其れ以上、何と言って良いか分からなかった。
暫くの沈黙の後、今度は令一が発言した。
「此の妹は体が弱いので、病院の近くに嫁がせたくてな」
―あ、やっぱり、理由は、そういう事にするんだ。…立地なんだ?本当に?結婚理由、『立地』?
思わず首を傾げそうになりながら、治一は、左様で、と言った。
「しかし、当家、賎家にて、更地にし、転居を予定しております故、先々、当家の立地を、結婚承諾の条件とされますと、条件に合わなくなる可能性が御座居まして」
再び、場に沈黙が訪れた。
稍あって、令一が、左様か、と言った。
治一も、はい、と言った。
「何分、管理も行き届かず。とても、妹御を住まわせられる様な屋敷では御座いませぬ故」
再び、場に沈黙が訪れた。
稍あって、また、令一が、左様か、と言った。
治一も再び、はい、と言った。
―如何しよう。いや、如何すんのかな、此れ。
相手は、まぁ宜しい、と言った。
―…何が?
「美しいものは好きだよ」
「…?左様で御座いますか」
―…何が?
美しいものが好きだから何なんだ、と思いながら、治一は、思わず、また、首を傾げそうになった。
だが、相手が、では此れにて、と言ったので、治一は我が耳を疑った。
―え?居なくなるの?
思わず、何方へ、と尋ねてしまった治一だったが、所用で、と言われて、結局其れ以上聞けなかった。
答えとしても微妙にズレている。
―…こんな、噛み合わなかったっけ、話。
治一が困惑していると、明日の昼に発つ、と令一は言った。
「年末には戻る故、自由に此方へ来て、此の妹の相手をして遣って頂きたい」
「承りました…」
其の場に居た人間全員で、令一に向かって一礼すると、令一は、何事かを諳んじながら、其の場を去った。
「大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経」
―えっと。俺が自分の家を賎家って言った事に引っ掛けた、嫌味なのか、謙遜と受け取って、風流な返しをされたのか、ただ言ってみただけなのかが、其のどれでも無いのか、全く分からん。教養が有るのか、頭が良いのか、何なのかすら。
困惑しきった治一が、岐顕と早佐の方を見ると、二人が、立地が理由は無いでしょう、と言った。本当に、と治一は言った。
「…何だったんだっけ。俺、ちゃんと話せてた?」
治は、ちゃんと話せてたよ、と岐顕は言った。
早佐も、ええ、治様は、と言った。
そう、と治一は言った。
再び、場に沈黙が訪れた。
―何か…スッゲー疲れたな…。
一先ず、と早佐は言った。
「よく有る事ですが、明日から一月以上、兄は、此処には戻って来ない、という事ですね」
そうなるね、と岐顕も言った。
「取り敢えず、今日は、御昼食べ終わっちゃいなよ。俺は、サキに連絡して、此処に来てもらう。嫁入り道具の相談、とか何とか言って、泊ってもらえば、今夜、早佐ちゃんを一人居しなくていい。今夜さえ此の子を一人にしなければ、明日からは、令一は居ないんだから。そんで、治は実方本家においでよ。来客対応面倒でしょ?坂元本家当主が暫く此処に居るって宣伝しとくから、御祝いを言いたい人は、俺の家に来るようにしておいて、捌いてあげる」
「…え?良いの?凄い助かる」
「いやー、言祝ぎに来ました、ってんで、態々、瀬原集落の外の坂元本家に行ってみれば、本家当主が直々に御茶煎れてくれましたー、とかって、相手も気ぃ遣うでしょー」
確かに、と治一は言った。
「いや、だから、ホント、そんな、家格に見合った体裁なんか無いのに…。如何してこうなった?」
何かは有るんだろうけどね、と岐顕は言った。
「取り敢えず、立地が理由なのは嘘だろうけど、もっと考えて、マシな嘘つかないから、立地の理由が使えなくなった時、会話がジェンガみたいになっちゃってたね」
酷過ぎて、笑って良いか真剣に悩んだ、と親友は言った。
想像より酷かったですね、と早佐は言った。
ホントにねー、と言いながら、岐顕は、明るく笑って言った。
「まぁ、従として、俺が此処に控えているから、御二人は昼餉を召し上がってくださいな」
悪いね、と治一が言うと、何の何の、と岐顕は言った。
「俺、家で彦じぃが御飯作って待ってくれてるから」
本音は、令一の近くでで物を食べたくないのだろうが、親友が、妻の仇の令一に会った後だというのに、明るく、そう言ってくれたので、治一は其れ以上追求せず、そう、と言った。
気にしない、気にしない、と、岐顕は言った。
「従、主、待ってる」
「…一人称が『従』の人が控えてる所で昼餉を食べるのは、気になるなー…。まぁ、いいや。頂きます…」
明日も来るから、今夜は絶対に一人にならない様に、と早佐に言って、暇乞いしてから、瀬原本家の外に出ると、傘の用意がしてあるどころか、顕太郎が運転する、黒いロールスロイスが控えていたので、治一は仰天した。
「…太郎兄ちゃん?!」
「治、結婚おめでとー。岐、携帯忘れてたよ」
顕太郎は、左ハンドルの車の運転席の窓から手を出して、テレビのリモコンサイズの携帯電話を、岐顕に手渡した。
「あ、太郎兄ちゃん、有難う。瀬原集落は電波入らないから、存在自体忘れてたわ。え、其れで来てくれたの?」
「いや、ついで。顕彦さんに頼まれたの。新米と、岐に議事録ノートを渡しに実方本家に言ったら、岐は瀬原本家に治と行ったって聞いたから。十月末で、今年の会議終わりだったからさ」
「あー、議案書に載せるやつ?」
「んー、ま、会議メモ程度だから、議案書に書くにも、レジメ見れば充分なんだけど。来年二月の会議までに、内容見せておこうかなって。其れで、今年度の会議終わりだから、会議報告と会務報告書けるでしょ?…ってか、議事録、止めない?もう」
「まーねー、内容公開しないなら、ただの会議メモだから、議事録無くしても良いのにね。議案書には、会議の要点だけ書いて、会議報告にしてるしさ。其れ以上の物ではないし…。其れとも、病院のホームページ作って、議事録公開する?」
「…そーお?手間じゃない?岐の仕事になるでしょ、多分」
「…あー。そーねー。まーでも、先々、ホームページが有るのは良いかもよ?」
ノートの使い道は任すわ、と言って、グレーのスーツ姿の顕太郎が、高価そうなブランド物の濃紺の傘を差して車から出て来て、治一を、丁寧に、後部座席に乗せてくれた。
「有難う、太郎兄ちゃん」
「どーいたしまして。治も新米食べてな」
既に亡き、尚顕という、賢顕の父に似ているのだという顕太郎は、雰囲気として、少し、辰顕にも似た爽やかさも感じられ、顔だけなら、実方家の一族の中で一番整っているかもしれない、と治一は思う。
そんな現役医師に、白衣では無い姿で会うのも初めてだったが、外車で迎えに来てもらうのも初めてで、治一は、恐縮しながら、ソファーと見紛う様な、白い皮張りのシートに座った。
運転席に着き、シートベルトをしながら、ごめんなぁ、と顕太郎は言った。
「精米する暇無かったから、新米、未だ籾殻ついてんのよ」
慣れた様子で助手席に座り、シートベルトを着けながら、いーよいーよ、美味しいから、と、岐顕は言った。
「うち、一度に三合までのやつだけど、精米機有るし。…でも、買い替えよっかな?音が煩くて。龍が起きちゃうかもと思って、朝は使えないんだよね」
「あー、美味いよね。ちゃんとした農家ってより、うちの親父の知り合いが、殆ど趣味みたいにして作って、身内だけで食べてるやつだから、無農薬で。石とか混じっちゃってるけどね、偶に。でも、三十キロ貰ったからさー」
顕太郎は、車のエンジンを掛けながら、覚えてる?と言った。
「永田川の傍に在る田圃の人から貰ったんだけど。ほら、遊びに連れて行ったじゃん、一回。周りに内緒で。そしたら、永田川で治が流されてさー。三メートルくらいだったけど、焦ったー。あそこの田圃の新米」
そーだったー、と言って、岐顕は爆笑した。
治一も、うわー、と言った。
「小学一年生の時だ…。覚えてる。夜に蛍が出るって言って連れて行ってもらったんだけど、遊んでたら急に深い場所が在って…。びしょ濡れで、夜まで結局居られなかったんだ」
「そーそー、川に連れて行った坂元本家後継を、どんぶらこと流しちゃったから、引率者としては本気で焦ったわー。無事育って、御嫁さん貰える事になって、良かったー」
車を発進させながら、本当におめでとう、と、明るく言う顕太郎に対して、治一は、複雑な気持ちで、有難う、と言った。
実方本家に行くと、黒服等に通達させていたとかで、既に、清水分家の正直と、海青が、白装束姿で、治一に、御祝いの言葉を掛けに参上していた。
結局、実方本家で綺麗にしてくれるというので、着ていた白張を脱いで、白い直衣に着替え直した。
其れから、来客の待つ、実方本家の床の間の上座に座って、何で、こんな若輩者なのに、毎度、俺が上座なんだろうか、と思いながら、烏帽子を略した白の直衣姿の二人に対面した。
清水分家の正直は、三十代半ばで、痩せて、男性にしては骨が細そうだが、背は高く、穏やかそうで、若い時は割合、女性に人気が有ったと伝え聞く。
吉野分家の富貴という、小柄な女性と結婚して長いが、子供が居ない。
同じく清水分家の海青は、浅黒くて彫が深い、もう少し顔が濃くなるとインド系に寄るのではないかと思うくらいの、何処かエキゾチックな雰囲気をした人だが、長身の美形だ。巻き毛と言って良いくらいの癖毛だったが、時々、気分なのか、真っ直ぐな髪をしている。
今日も、髪は真っ直ぐだった。
年の頃は二十代半ばだが、昨年、吉野分家の篠と一緒になった。夫婦が一緒に居る所を見た事は無い治一だが、理佐の学友であった篠とは、多少の面識が有った。若いのに仕事が出来る海青と、知的美人、という感じの篠は、割合似合いの夫婦だと、治一は思っている。
銘々に言祝がれながら、『まぁ不自然ではないかなぁ、くらいの組み合わせだなぁ』と思われているのを、犇々と感じながら、只管、此れは此れは、と、誠に有難う御座います、という趣旨の言葉を繰り返した。
稍あって、此方は宜しいのですが、と、海青が呟いた。
其れを受けて、正直が、ああ、と言った。
「那智さん、大変だそうですね。うちの富貴も心を痛めております」
聞くところによると、身分の然程高くない小町娘、瀬原那智の身の上に、降って湧いた玉の輿の話に、周囲は、憶測を飛ばし、遠回しな妬み嫉みで、たった十六歳の少女を近所中で苛んでいるのだと言う。
見た目はキツそうだが、曲がった事が大嫌いな正直の細君、富貴が、其れを聞き付けて、豪く憤っているとの事である。
―うーん、あっちはあっちで、大変そうだな。家格が合わないと、こういう事になるのか…。やっぱり、問題多いな、『水配り』って。
ネコチャン大丈夫かな、と治一は思ったが、やはり、顔は、ハッキリとは思い出せなかった。
其の後、来客が続き、結局、夕飯も何もかも終わり、落ち着いたのは、深夜だった。
龍顕は疾うに寝ていたが、岐顕は、キッチンで、郷土料理の保存食、豚味噌を作っていた。
其れを、疲れ果てた治一は、親友の傍らで、ダイニングテーブルから椅子を持って来て、背凭れの方を抱き締めながら座って、寝巻の浴衣姿で、ボーッと眺めていた。
「此の前、味噌を樽で貰ったからさ。冷蔵庫の豚挽き肉が悪くなる前に、作っておいてあげる。今度、持って帰れば。其の時は、精米した新米もあげるから」
「サンキュ。助かり過ぎる…」
「挽肉は足が速いけど、こうしておくと日持ちするからねー」
俺の『従』、御母さんみたいだな、と思ったが、龍顕が岐顕を『ママ』と呼んでいるのを聞いていると、時々居た堪れなくなるので、治一は、其れについては口に出さない事にした。
「龍、精米機、すっごい見てたね」
夕飯前に、ガーガー、と言いながら、治一の後ろに隠れて、精米されていく米を、ジーッと眺めている龍顕は、とても愛らしかった。
黒い着流し姿に襷と前掛け姿で、炒めた挽肉の油で麦味噌を練りながら過熱していく作業を続ける岐顕は、あー、と言った。
外見だけなら、御母さんと言うよりは、昭和初期くらいの料理人に見えた。
「機械、気になっちゃう子なのよ。俺の仕事部屋の機械も触りたがるから、古いのを玩具にさせてるわ」
「…ド理系さんちの御子さんは、機械が御好きですか」
「…そーかもー。其処が似る?みたいな所が似たりするよね?食べ物の好みとか。ま、機械を気にするっていうのは、男の子だからかもしれないけど。あ、食べ物で思い出したけど、早佐ちゃん、ちゃんと食べてたね、昼。良かった」
「いや、前と味覚が変わったから食べなかっただけらしいよ。大丈夫だって。食欲は有るってさ」
「…え?それって。…いや、まさかな」
岐顕が、驚いた様子で、そう言って、此方を振り返ったが、今日の一連の出来事で疲れ果てていた治一は、特に努力して親友と目を合わせようとはせず、早速、龍顕の手によって、キッチンの低い位置に貼られてしまったアンパンマンのシールを、ボンヤリしながら見詰めていた。
岐顕は、まぁ結婚するんだしね、と、治一には意味が分からない事を言って、作業を再開した。
レシピ聞く?と相手が言うので、治一は、ボンヤリしながら、んー、と言った。
「酒対、味醂対、砂糖対、味噌対、肉が、二対、三対、六対、十対、十」
「…ド理系さん、其の説明で分量が分かるの、多分、俺だけだよ?えっと、じゃあ、肉が一五〇グラムだったら、味噌一五〇グラム、砂糖九〇グラム、味醂四五グラム、酒三〇グラム?…砂糖凄いな…」
「御前も大概、理系じゃん。そうそう、味噌と肉は同量。味噌と肉と砂糖だけだったら、五対、五対、三の分量。良いですか、『主』。料理は化学ですよ」
「はい、『従』…。郷土料理って目分量じゃない?大体。そんなキッチリする?」
「そーいうのは、人生経験の豊富な年寄に敵う訳無いんだから。年寄の作った物を元に、基本の分量を決めて、其処から、挽肉じゃなくて刻み肉にしようかな、とか、大蒜や生姜を入れようかな、とか、加熱時間を長くして柔らかくしようかな、とか、後から、気分でアレンジしなさい。別に郷土料理じゃなくても、醤油を入れ過ぎて、何作っても全部醬油味の煮物になったとか、ザラに有るでしょ。ま、醬油味の煮物の何が悪いって話だけど」
「其れ、生姜焼きで遣った事有るわ…。醤油多かったなー、アレ。あ、此の家の豚味噌、生姜入れないんだね。うちも、入れたり入れなかったり、だけど」
「入れたら、小さい時の俺が食べなかったんだってさ。あ、アレンジったって、砂糖は減らしちゃいけませんよ。増やしても良いけど。高温多湿の地域の郷土料理だから、腐敗除けで多めの砂糖を入れてるんですからね。ジャムと同じ。此の量を一度に食べる訳じゃないんだから、減らしたら痛みやすくなりますよ」
「はい、『従』…」
「あと、教習所の書類を黒服に取り寄せさせましたからね。明日の朝書くんですよ。黒服に申し込みさせますから。そしたら、今日が十七日だから、申し込み明日で…。二十一日から通えるから。良いですか?」
御母さんより細やかかも、と思いながら、治一は、素直に、はい、と言った。
「何から何まで、御世話になります…」
「いや、賢おじちゃんから『治の世話を焼いてる時は元気』って指摘されたけど、本当だなって、今日、再認識したの。こっちこそ、ありがと」
「え?」
「俺、一時期、令一の名前聞くだけで駄目だったんだ」
治一は、親友の背中を見詰めながら、少し間を置いて、うん、と言った。其れがさー、と岐顕は言った。
「今日は、何か、其れどころじゃなくてさー。バッタバタしてたら、あいつと普通に話してたし、早佐ちゃんの結婚相手に決めた理由『立地』とか言い出すから、めっちゃ笑い堪えちゃって。令一が居る空間で笑いそうになった事なんか、今まで一度も無かったもん」
治と居ると元気になる、と言ってくれる親友に、治一は、俺も、と言った。
「有難う。…でも、やっぱ、『立地』は無いよなー」
「なー、言うに事欠いて。テキトー過ぎる。いや、駅近の物件が良いです、とかなら分かるんだけど。妹の結婚相手は病院の近くの家の人が良いです、とか言わないじゃん。もう其れだったら太郎兄ちゃんで良かったじゃん、って話で。医者と結婚させればぁ?って」
言い終わる前に笑ってしまった岐顕の傍らで、確かに、と言って、治一も吹き出してしまった。
「笑ってる場合じゃないんだけど。もう、ずっと、話の内容が頭に入って来なくて」
「あー…何か、容姿を褒められてたね?『主』」
「うっそ。そうなの?…え、じゃあ、何、『立地』の次は、条件、『顔』?」
立地のが未だマシじゃん、と、目を見開きながら言う治一に対して、もう止めて、御腹痛い、と言って岐顕が、笑いを堪えながら泣いていた。
「よ、夜だから大笑い出来ない。龍起きちゃう。…腹筋痛い」
あいつマジ何なの、と言って、岐顕は、笑い過ぎて出てしまった涙を指先で拭った。
「何にしてもさ、先刻話してくれた移住案、俺は応援するから。あいつが何考えてるかは分からないけど、『水配り』までは気を抜かずに、『水配り』当日も、俺が従者になるから」
絶対一波乱有るもんね、と、面倒見の良い『従』は言った。
※豚味噌 鹿児島県の郷土料理。保存食のおかず味噌。麦味噌ときび砂糖で作る事が多いが、普通の砂糖や黒糖でも可。挽肉でも刻んだ肉でも可(要は、其の時に家にある物で作る)。完全に家庭の味なので、家によっては、大蒜(風味付け)や生姜(臭み消し)が入っている。
古来、薩摩武士に、滋養を付ける食べ物として愛好された食品の一つで、元々は奄美大島諸島や沖縄地方において作られていた食品で、蘇鉄味噌を用いて作られていたが、其れ等の地域が薩摩藩の管理下にあった時代に鹿児島県に伝わり、郷土料理の一つになった。
江戸時代に肉食文化が有った事自体が九州っぽいなぁ、と。
大叔母が一度作ってくれた豚味噌が、祖母の豚味噌と味が同じで、仰天した事が有ります。目分量なのに、流石、姉妹。
特に伏線の回収という事では無いのですが、『同じ顔』で、麻那美ちゃんが、Excelが上手いのは、養父の正直さんの仕事を手伝っていたから、という話が出てきますが、優しい養父なのに、ガッチリ身内経営に麻那美ちゃんを組み込んで使っていた辺りが、個人的に、家族の絆を感じるというか、自営業の家の娘さんの、広義の『家事手伝い』で、よく聞くなぁというエピソードなので、組み込んでみました。
多分、麻那美ちゃん、学校法人の議案書の会員名簿とか、Excelで作ってたんだろうなー、と思いながら書きましたが、特に使う当てが無い小ネタになってしまいました。『同じ顔』を加筆修正したら入れるかもしれません。




