密談
今日の御稽古は中止しましょう、などと言うや、紀和が気を遣って、女中を使って茶を供してから、直ぐに帰ってしまったので、取り残された二人で、早佐の部屋に向かい合って座りながら、何とも言えない気持ちで、温めの玉露を飲んだ。
女中が、濡れた白足袋と草鞋も、玄関の方へ持って行ってくれたので、治は、気不味そうに、女中から借り受けた白いタオルで頭を拭きながら、濡れた手で振袖に触って済まない、と言った。
いえ、と早佐は言った。
正直、理佐の振袖と思えば大事な物ではあるのだが、今は、其れどころではなかった。
「もう乾きましたし、悉皆屋に出す程ではないでしょう。其れより、如何いう事なのでしょう…。なかなか発表されなかった『水配り』の相手が、蓋を開けてみれば、此の二人の組み合わせ、というのは…」
「そうだよな…。そりゃ、年回りは合うし、本家同士、家格を考えれば不自然ではないけど。逆に言うと、其の程度の理由しか思い付かない組み合わせと言うか。…悪いが、うちの家には女中も居ないし、家格に相応しい体裁なんて無いぞ。言ったら悪いが金は有る。でも、大富豪って訳でもない。金が無い訳でもない、程度の。そりゃ、今からでも、人を雇うとか家を改装するとか何とかすれば良いだろうが。今の儘じゃ、誰が見ても、本家の御嬢様が嫁す様な家とは、とても…」
「…申し訳御座いません。自分で厨に立った事も無い女で…」
「いや、此方こそ申し訳ない。普通、本家の御嬢様に、そんな事、期待しないから。そりゃ、使用人が居る家に嫁がせるものだとばかり思って、周りも育てるだろうし。此処から出よう、とか言ってた段階では、気にする様な事では無かったけど、正式に『水配り』の相手として決まったとなると。…いや、本当に、如何いう訳だ?」
「そうですね…。一先ず、今日、兄が外出したのは、各方面に、『水配り』の組み合わせと実施日を発表する為だった、という事でしょうか」
治が、先程、紀和から聞いた、『水配り』の組み合わせと日程を口にした。
「来年の三箇日が明けた、一月四日か。…そうだ、俺達と合同の『水配り』の相手って、清水本家当主と、本部の藍児さんの娘さんだって?其れこそ、年回りも家格も合ってないよな?…まぁ、跡取りの居ない家だから、若い後妻さんに期待、って事なのか…?」
「…そうとも取れますが…。其れこそ、不自然ではない、程度の組み合わせですよね。理由は察せられるけれど、くらいの」
何しろ、早佐の予想では、組み合わせの相手が逆になる筈だったのだ。情報が少な過ぎて、状況が整理出来ない。
揃って困惑しながら、二人で、そんな事を話していると、女中が、昼の膳を二つ持ってきた。
女中が去ってから、タオルを丁寧に畳んで傍らに置くと、露骨だな、と言って、治は少し頬を染めた。
「婚約者認定された途端、此の扱いか。此の分じゃ、以降、顔パスだろうな…。じゃあ、今度からは玄関から出入りするけど。…如何いうセキュリティだよ」
本家の娘が自室で、茶菓子までなら兎も角、家族以外の男性と食事を摂るなどとは、普段なら考えられない事で、大昔なら、肉体関係の有る男女しかしない事だったのである。
若いのに、流石に、坂元本家の当主とあってか、意外にも、治は、其の仕来りを知っているらしかった。
そんなものかもしれません、と早佐は言った。
「首の跡の事なんて、貴方にしか言われませんでしたし。周囲の私への関心も其の程度か、見て見ぬ振りされているという事で」
「…そういうのが、良くないと思うんだよなぁ。家族に首を絞められている人間が居ても、周りが見て見ぬ振り、が、長の威光で罷り通るというのが。…まぁ、セキュリティとか言ったところで、俺が此処に通えて、半月近く経過して、露見しない時点で、セキュリティも何も無いか…」
さて、と、治は続けた。
「…此処を出辛くなったな」
そうですね、と早佐も言った。
「結婚を反対されているなら駆け落ちも有り得るでしょうが。例えば、年回りが合わないとか、家格が合わないとか」
「そうだよな…。年回りも家格も合って、『水配り』の相手として結婚の承諾も得られて、其処で、一人なら兎も角、二人揃って出奔したら、周りにとっては、不思議な話でしか無いよな」
「そうなのですよね…。里の誰が聞いても、『水配り』の日を御待ちなさいと言われて終わりの話、という感じがします。何の不都合が有って出て行くのか、と」
「今日以降は、大注目だろうしな…。余計、出辛いな。何せ、長の妹の婚約者だし」
「ええ。坂元本家も此れから、御祝いの言葉を言いに、御客様が、引きも切らないのでは?」
「…面倒だな。客を持て成す様な設えにはなってないのに。上座敷は客間として残してあるけど…。奥座敷には炬燵入れちゃったし、俺の寝室は中二階だしな」
「中二階と申しますと…」
「普通、養蚕小屋か、戦時中の米の隠し場所か、密談の場所だよ。俺には使い勝手が良いから自室だが、家によっては、悪けりゃ物置だ。俺は其処で寝起きして、使用人も居ないから、自分で客に茶を出すのさ」
本当に家格程の体裁は無いよ、と、正直に言う其の姿は、早佐には好感が持てたが、何にせよ、困った事になったのは確実だった。
よし、と治は言った。
「取り敢えず結婚しよう」
早佐は、思わず、目を瞬かせてしまった。
「と、申しますと…」
「本家に相応しい体裁を整える為に、屋敷を改装して、使用人を雇うのも手だけど。俺は、瀬原集落から、御前を出してやりたい。だから、屋敷の改装より、瀬原集落を穏便に出る方法を考えよう。で、『水配り』は『水配り』で、キチンと遣ろう」
「其れが、結婚、と」
「そうだ。さぁ、そうと決まれば…就職するか」
「え?」
「土地屋敷は売り払って、実方不動産に買ってもらって、食料品売り場を作ってもらうとして。其の金は懐に入れるにしても、瀬原集落の外に出るなら、職業が祈祷師の儘じゃ不味い。実方不動産に就職させてもらって、県外の店舗担当か、県外の物件の雇われ管理人にでもしてもらって、御前を連れて此処を出る下地と、生活基盤を作る。其のくらいなら、俺の又従兄の家の力を借りても不自然には見えないだろう。其れに、理由は如何あれ、結婚を許した以上は、俺が御前を連れて勤務地に赴く事にも文句は無かろう。まぁ、何の仕事に就くにしても、車の免許は必要だろうし、先ず、来週か再来週から、車の教習所に通うわ。話は其れからだな」
早佐は、相手の、意外過ぎる言葉に、唖然としてから、言った。
「…何故、そんなに具体的なのですか?普通、手に手を取っての逃避行とは、夢物語みたいなものなのでは?」
いや御前、と治は言った。
「其れじゃ掴まって殺されて終わりだろう?具体的に考えてこその作戦だ。よく考えて、準備して、実行に移す。そういうものだ。最初に話を聞いた時に御前の言う事を否定したのは、俺の側に、そういう準備が無かったからだが。俺は、遣るからには着実に遣る」
意外でした、と早佐は正直に言った。
「そうですね、こんな…。私を此処から出す為の準備を、其処まで着実に考えてくださるとは…」
「いや、先刻は今直ぐ此処を出ようとは言ったけど、本来、俺は、着実に考えないと実行に移せない性格だから。『水配り』の相手に、如何して此の組み合わせが選ばれたのかは謎だけど、時間が稼げると考えて、下準備して、出よう。申し訳ないが、就職して、瀬原集落の外に生活基盤を作って、其処に移る、という移住案に反論が有る場合、対案を用意してくれ。其処から、また、案を練り直すから。とは言え、他に資格が有る訳でも無いからな…。一先ず、普免は取る」
いえ、と、困惑しながら早佐は言った。
「…私の様な世間知らずに、出せる対案など有りはしませんし、其方に御任せします」
―此の人の事、無意識に、私に騙される様な御人好しとして、低く見積もっていたのかもしれないわね…。失礼だったかも。
如何やら相手は、十五で交通遺児になってしまった様な苦労人で、早佐が考えているより、ずっと賢く、世間というものを知っているらしかった。
質問をしても宜しいでしょうか、と早佐は言った。
相手は不思議そうに、どうぞ、と言った。
教えて頂いて理解出来るか否かは別なのですが、と前置きしながら、早佐は問うた。
「不動産業は何と無く想像出来ますが、物件の、雇われ管理人というのは…」
「ああ、例えば、向子さんか岐がオーナーの、賃貸物件の管理人にしてもらう訳だ。物件の管理だな。居住者対応とか、共用部分の電球の取り換えとか…。ああ、まぁ、慣れたら、そういう物件を買うくらいの金は有るから、実方不動産を抜けて、自分でオーナーになっても良いのか。あ、申し訳ないけど、確定申告とか、任せても良いか?税理士に頼んでも良いけど」
教えたら俺より御前の方が上手そうだし、と、更に予想外の事を言ってくる相手に向かって、早佐は、良いですが、と、目を瞬かせながら言った。
助かる、と相手は言った。
「全部一人で遣ると、取りこぼしが出そうだからな。嫌でなかったら、本でも読んで、覚えてもらえると助かる。最初は俺も一緒に遣るけど。スケジュールが読めなくてオーバーワークになるかもしれない状況自体がストレスだからさ、作業自体より。結果的に御前に任せられなくても、今後分業出来る可能性が有るだけで、気が楽だな。此れから、手続きが多くて、多分、途中でしんどくなるだろうから、最悪、書類も、書ける部分は御前に書いてもらう物が出て来るかも」
―此れは…甘えてもらえていると捉えて良いのかしら?頼ってもらえている、と。
「構いませんが。…此れは、求婚の言葉という事で、宜しゅう御座いますか?」
「あ」
本当だ、と言って、治は、困った顔をした。
「プロポーズの言葉が、『出来れば代わりに確定申告をしたり、書類を書いたりしてくれ』になった…」
流石に其れは無いな、と、申し訳なさそうに言う治に対して、構いません、と、早佐は正直に言った。
「薔薇を百本渡されるより面白かったです」
其処まで?と訝しがる治に、早佐は、ええ、と言った。
「御前は体が弱いから何も出来ないだろう、とか、学校にも行った事が無いから何をするのも無理だろう、と言われるより、嬉しかった。御前の方が俺より出来るだろうから遣ってみてくれ、なんて、言ってもらえるとは思っていませんでした」
治は、其れを聞いて、ハッとした顔をした。
「…そっか。じゃ、頼むな」
ええ、と答えてから、早佐は、頬が染まった。
―そうだったのね、私。
口にしてから自覚したが、『御前には何も出来ない』と言われるより、『御前にも出来る』と言われた事が嬉しかったのだ。本当に、美辞麗句を並べ立てられながら、花を貰うよりも嬉しかった。
―でも、最高の求婚の言葉だと思ったなんて知られたら、笑われてしまうかしら。
何と無く、そういう事を笑わない相手の様には思えたが、其れは其れで、何故か恥ずかしくなって、早佐は、其れを口には出来なかった。
「あ、薔薇と言えば。飾ってあるやつ」
其れは薔薇?と、治は、早佐の後方に飾られた花瓶を見ながら聞いて来た。
早佐は、消え入りそうな声で、土耳古桔梗です、と言った。
―あ、駄目。
顔に、体中の血が集まって来るかと思うくらい、早佐の頬は紅潮し、体が緊張した。自然と、動悸が早くなる。
令一に、薔薇は好かんと言われた時は、御前に此の良さは分からない、と思えて、寧ろ納得すらしたものだったが、目の前の相手に、自分が気に入っている花を、少しでも馬鹿にされたらと思うと、何故か急に、消えてしまいたいくらい惨めになった。
しかし、相手はアッサリと、綺麗だな、と言った。
早佐は泣きそうになりながら、綺麗ですか?と聞いた。
相手は、早佐の反応に驚いた様子で、綺麗だから飾っているものだとばかり、と言った。
早佐は、其れもそうですね、と言って、少し気分が落ち着いた。
大丈夫か?と、相手は、心配そうに問うてきた。
「如何した?食欲は有るか?一緒に食べられるか?此れ」
「ああ、其れは、大丈夫です、はい」
早佐は、深呼吸をして、動悸を収めようと努力した。
他人と話していて、こんな状態になった記憶が無かった早佐は、不整脈にでもなってしまったのかしら、と訝しんだ。
大丈夫なら良かった、と、困惑した様子で言ってから、相手は、少し目を細めながら、土耳古桔梗か、と、穏やかに言った。
「こんな色のも有るんだなぁ」
「…土耳古桔梗を御存知ですか?」
―意外。花の話が出来る人だとも、思ってはいなかったから。
だってきっと、山茶花の事だって覚えていないものね、と思いながら、早佐が相手の方を見ていると、相手は、遠い日を懐かしむ様な顔をして微笑んだ。
「そう、前に、客先で、白の土耳古桔梗と、白の姜黄が生けてあったのを見て。…あれは、良かったな」
其の笑顔を見て、早佐は、本当に、一瞬、心臓が潰れたかと思うくらい、胸がギュッとした。
―何?
早佐は、何だか狡いわ、と、其の、常には見ない程の優しい笑みを見ながら思った。
相手が、花を見て、そんな風に微笑むとは、予想外も予想外で、早佐は、如何したら良いか分からなくなって、ただ一言、姜黄?と尋ねた。
頬の紅潮が、なかなか引かないので、早佐は本当に困った。
姜黄知らないか?と、相手は意外そうに言った。
「そうか、今度見せてやるよ。寒さに弱い花だけど、咲く時期は長いから、何処かには有るだろう」
耳に響く相手の声は優しく、相手の表情は穏やかだった。早佐は、再び、動悸が早くなってきた。
―如何しよう、本当に、食べられないかも。
相手の、花に対する振舞い一つ一つに、勝手に振り回されてしまった早佐は、食べ物も喉を通らないのではないか、という気分になり、酔いしれたかの様に赤い顔で、相手の顔を見詰めてしまった。
だが、相手が、再び、心配そうな顔をしたので、食べます、と言った。
向かい合って食事をしていると、相手は、安心した様に言った。
「何だ、食べられるのか」
最近食べないと小耳に挟んだから、と言う相手に、早佐は、いえ、と言った。
「食べますよ。最近、味覚が前と違うと言うか、変と言うか。食欲が無いというのではないのです。別に、物を、態と食べないというわけではありませんし」
「そうか」
相手は、微かな笑みを浮かべてから、見事な所作で食事を続けた。
此処までの作法には何の問題も無いどころか、箸の上げ下ろしの一つ一つが、流れる様に美しく、早佐は、其れによって、相手の育ちの良さと、身分が高い事を再認識した。
確かに此れまで、一緒に物を食べた事など無かったが、食事中の相手は、口数は少ないが物腰柔らかで、凛々しく、実に気品が有る様子だった。
―調子が狂うわ。何時もの仏頂面は、何処へ行ってしまったの?
また頬を染めながら、何を食べたのかも分からない気分になりながらも、早佐は、昼の膳を、無理して食べた。
稍あって、白装束姿の岐顕が訪れた。
スラリと開いた襖の前で、廊下に正座しながら、岐顕は、丁寧に一礼し、御食事中のところ、失礼致します、と言った。
「坂元本家当主…。瀬原本家に伺うのであれば御一緒致しますと、申し上げましたのに…。此の雨の中、傘も持たずに。傘と、替えの足袋を御持ち致しましたから、帰りは、其方を御遣いください」
治は、心から、という様子で、忝い、と言った。
逸る御心は御察し致しますが、と、ソトで切ったのか、髪が短くなった義兄は言った。
「此度、『水配り』の御相手が決まりました事、誠に御目出とう御座います」
相手の丁寧な一礼に合わせて、治も早佐も、岐顕の方に向き直り、丁寧に一礼すると、女中達は、静々と去って行った。
女中達が去ってから、岐顕は小声で言った。
「どぉーおなってんだぁ?御前を追っ掛けようとしてたら、実方本家に、急に連絡が来てさ。此処で昼飯なんか出されてるんなら、『水配り』の相手が御互いだって事は聞いたな?…ああ、もう、取り敢えず、もう令一が来ちまうから、心の準備をしろ」
そんな密談をしていたら、廊下の方で、此れは此れは、という声がした。
※悉皆屋 単に『悉皆』、とも。『悉皆』は「一切」の意。着物の一切を引き受けることを看板に掲げたところから、江戸時代、大坂で染物・染替・洗張りなどの注文をとって京都へ送るのを生業とした者の事だったが、転じて、染物や洗張りなどをする業者の名前となった。
振袖は洗える素材ではないので、専用の、洗い張りなどをしてくれるクリーニング店の様な職人さんが居て、此処では、其処に振袖を出す程の事では無い、というくらいの意味だと思って頂ければと思います。




