分離
今日は久し振りに、紀和が稽古に来てくれる予定の日だったので、早佐は、律儀にも、朝、床から起き出して、白い振袖を着せてもらった。
昨日、向子が、ケーキと一緒に、幾枚か持って来てくれていたらしい。
―嬉しい事。姉様の振袖を、仕立て直してくれたなんて。
理佐は、嫁入りの際に、幾つかの帯以外は、振袖を、実方本家に持っていってしまっていたのだが、其の早過ぎる死によって、其れ等が死蔵されてしまっているのを憂えた瑛子と向子が、早佐に合わせて、仕立て直してくれたそうである。
―姉様の方が、十センチ近く、私よりも背が高かったのだもの。仕立て直さないと、合うわけが無いものね。…考えてみると、本当に、似ていない姉妹だったのね。自分で気付くべきだったのかもしれないわ。
其れでも、早佐は、何も疑いもせず、姉を愛した。
故に、姉の振袖は、本当に嬉しかった。
だから迷わず、朝の女中からの報告と同時に、今日着る物として其の中の一つを選んだ。
―首を絞められた跡は、其れ程残っていなくて助かったわ。着替えをしてくれた人達も気付かなかった様子だし、よく見ないと気付かないくらいなのでしょうね。でも、気付かれて、如何したのかと問われても困るし、そう思うと、御稽古の前の晩に首を絞められるのは迷惑ね。
首を絞められるのに都合の良い日など、本来、有る筈も無いのだが、其の件も含めて、早佐は、自分の感覚が、次第に鈍化していくのを感じていた。
―感覚が、分離していく気がする。
人間としての自分と、そうではない存在としての自分が、分離し、乖離していく感じがするのだ。
人間としての、十六歳の少女は、毒蛇を見る様な気分で、兄に対して、恐れと嫌悪感を抱いているのに、そうではない存在としての自分が、其れ等を些末な事と感じさせるのだ。
生き物が太古から連綿と、自分本位に命を繋ごうとしてきた事と、何が違うのか、と。
生き物は、人間は、常に自分本位で、増える事や食う事や、自分を納得させる為の事を続けてきたのであって、兄の振る舞いも、其の一部で、地震や台風、水害に比べたら、ちっぽけで、胡麻粒の様だ、と。
どんどん、目線が高くなっていく。
どんどん、主語が大きくなっていく。
足元が見えない。
自分の存在が分離していき、大気に溶けて、世界と自分との境界線が曖昧になっていく。
自分が、『世界』になっていく。
―段々、人間ではなくなっていく気がする。
しかし其れは、一方で、好都合とも言えた。
―あの、兄という魔を祓うには、同じくらいの歪みと闇を抱え、同じくらいの強さの存在にならなければ。同じ様な狂い方をしなければ。
魔として祓うべき存在を、何時までものさばらせておく事は、早佐には得策だと思えない。自身の為にも周囲の為にも、其の威光を削ぐくらいの事はしなければ、何時か自身も、理佐の様に命を奪われてしまうであろう、と、早佐は予感している。
別段、恐ろしい思いをしてまで、兄という魔を、自分で祓う必要性は無いのかもしれないが、早佐にしてみれば、其れは、此処で、兄に飼われている様な暮らしを続けるのであれば、能動的な行動に出て失敗して殺されるか、緩慢に殺されるのを待つか、というだけの違いに過ぎず、そうなのであれば、前者を選ぶだけである。
―仕掛けて来られた時が、千載一遇の好機。
其れには、何時までも人間の皮を着て、十六歳の少女として、人を愛したり、恐れたりしている訳にはいかないのだ。
―でも、未だ人間である以上、しなければならない事も有るわ。
人間なので、服を着て、来客の対応をしなければならない。
其れには食事を摂って、身支度なりして、人間のする事をしなければならず、大気に溶けている場合ではないのだった。
そういう意味で、今日は、治という存在と、姉の振袖と、那智から贈られた花が、自分を、何とか、自分を地に縛り付けて、人間の形に保ってくれている、という気がした。
―まぁ、其の三人の誰にも、会えないのだけれどね。甥の龍ちゃんにすら自由には会えないのだから、当然だけれど。
実在の人間から直接慰めてもらう事を全く期待していない、そんな早佐が、朝から支度して、白い振袖を着ているのを見た令一は、一瞬眉を顰めたが、雨だというのに出かけてしまった。
―如何いう訳か、私には、染料を不断に使った、豪奢な物を着せたがるけど、姉様には、こういう、白っぽい、清楚な色の物を着せたがったのよね、あの兄は。
相手の趣味など知りたくも無いが、其れは、不思議と言えば不思議だった。
―白地に、白の牡丹の絵羽柄だけど、肩口より、裾の方に柄が多いのね。其の分、顔の近くで、白地の箇所で、地紋の麻の葉模様が光って、浮き上がって見えて、綺麗だわ。何と無く、拘りを感じるのよね。
別段、相手が何かを描いているのを見た事が有るわけでもないくらいの、希薄な関わりの兄なのだが、絵を描く才が有るとは伝え聞いているせいか、色彩的、視覚的なセンスとしては悪くはない、と思える早佐である。
早佐は、此の、白い振袖に関しても、客観的に見て、美的な感覚としては評価が出来る、と思った。
―首を絞められた事と、相手の美的感覚を分けて評価出来る、というのは、良い事なのかしら?悪い事なのかしら?其れとも、もう、壊れ始めているのかしら?
未だ人間を辞める訳にはいかない、と思いながら、早佐は、愛しさを込めて、那智の贈ってくれた土耳古桔梗の、柔らかな花弁に触れた。
―愛しい、『人の子』。
恐らく、十六歳の少女として、『人の子』として、当たり前に泣き、笑うのであろう、那智という『存在』自体を、早佐は、慈しみの心で捉え、想った。
きっと、神などという存在が居るのだとしても、無邪気に、菓子や何かを喜ぶ『存在』に対して、扱いかねて困惑したり、微笑んでしまったりするのであろう、と。
きっと、花を供えてくれる『人の子』に対して、慈愛を感じる事も有るのであろう、と。
さて、分かってしまった事が有る。
令一の『水配り』についてだ。
―物が見える様になる、というのは、斯くも不便な事だったのね。
相手は如何やら、『水配り』と、『本家の婚礼衣装』と、『長い髪の本家の娘』を神聖視しているのだ。
―だから、結婚しないし、今は私の体を求めて来ないのだわ。
『水配り』の場に於いて、本家の婚礼衣装を着た『長い髪の本家の娘』と交わる、という事こそが、令一にとっての『結婚』であり、其処での交わりで、自分の子孫を得たいのだろう。
『本家の髪の長い娘』は現状、早佐しか居ない。
そして、令一の、理佐に対する強姦と、『龍顕は自分の子である』という供述から導き出される結論としては、仕掛けて来るとしたら『水配り』の場、という事だ。
―姉様も、『水配り』の時に襲われたのかもしれない。二月の『水配り』で、十一月に生まれた龍ちゃんを自分の子だと考える、というのは、そういう事になるのでしょうね。
だから『本家』に嫁がされるのであろう、と、早佐は解釈した。
家格を重んじる家で、花嫁が婚礼の夜に、花婿ではなく、従うべき長に襲われたとなれば、先ず公表しない。
清水本家当主の藤寿という人物の人柄は知らないが、多くの事業を経営出来る優秀さが有る時点で、腹に一物有る人物、と考えて良いと早佐は思う。
家の立場を考えたら、彼が長に逆らうとは露程も考えられないので、恐らく、『水配り』の時に何が起きても、隠蔽されてしまうのだ。
つまり、清水本家に嫁がされたところで、兄の早佐に対する影響力は、今までと、何も変わらないのだろう。だから恐らく、相手にしてみれば、早佐を嫁に出したところで『手放した』とは微塵も思っていないという事になるのであろう。
だから『自分の言いなりになる』であろう、清水本家当主が、令一によって、早佐の嫁ぎ先に選出されるのであろう、と。
―其れを逆手に取るのなら、『水配り』の時ね。
魔を払うには、水配りの時しかないのだろう。
其れを、そして、其の時に何を兄にされるのかを考えると、十六歳の少女としての自分は、吐き気がしそうなくらいの嫌悪感に見舞われるのだが、そうではない存在としての自分は、其れを、穢れたものに対する拭き掃除くらいの感覚で捉えている。
―嗚呼、分離していく。此の儘では、御稽古に差し支えるかも。切り替えないと。
外は雨だが、外の空気が吸いたくなった早佐は、窓を開けて、縁側に出た。
―え?嘘。あれは。
竹林の傍に、白装束の人物の姿を見掛けた早佐は、自分の肉体から分離しかかっていた意識が、キュッと、其の人物に向かって集まる気がした。先程まで、自身から乖離し、大気に溶けかかっていた意識が、ガッチリと、十六歳の少女の体に固定された。
分かり切っていた事だが、恋をしている。目の前の相手に。
―何故、また来てしまったの?
相手の為に、退けなければ、という気持ちと、姿を一目見られただけでも嬉しい気持ちが、同時に沸き起こって、自分でも驚く程、胸が苦しくなったが、早佐の口からは、御早い御着きです事、という、驚きの言葉しか出なかった。
「暫くソトへ行かれているのでは?…こんな雨の中、走っていらっしゃるなんて」
分離などしていない。声も、手も、自分のものだ、と相手を見詰めながら、早佐は思った。
此の目は自分の目でしかなく、今此処で見ている人物を、自分以外の体で、感覚で感じたくはない、と。
―ああ、繋ぎ留められる。地に、縫い留められる。
夢かしら、と、目の前で息急き切っている人物の麗しい姿を、信じられない思いで、早佐は見詰めた。
髪の先から雨の雫が滴り落ちる程に濡れ、荒い呼吸をしている其の人物は、普段からは考えられない程、蠱惑的に見えた。
其の人物の熱っぽい視線に絡め取られた早佐は、胸がギュッと締め上げられた。
退けなければ、と思うのに、此方に近付いてくる相手に対して、早佐は、何も出来ずに居た。
―兄が帰ってきております、と、御伝えしたでしょうに。其れに、嗚呼、今日は、御稽古の日で。此れから紀和さんがいらっしゃるのに。見付かってしまう。…何か言わなければ。
「…治様」
濡れ鼠だというのに、相手は、そんな事は気にも留めていない様子で、ズカズカと、縁側に、履き物も脱がずに上がってきた。
「一緒に逃げよう」
「…え?」
「…最初に、ちゃんと聞いてやらなくて、悪かった。此処から逃げよう」
思わず、捨て置きなさい、と早佐は言った。
「…貴方が私に、其処までしてくださる必要は有りません。あれは、もういいと申し上げたでしょう?」
やっとの事で、体が引き裂かれるかと思う程の思いをして、早佐は、一番聞きたかった言葉を拒否した。
―そんな。今、こんな言葉を聞いてしまうなんて。
しかし、相手は、常に無い程の熱を秘めた瞳をして、早佐の首元に、そっと右手の指先で触れた。
触れられた部分が、溶けるのではないか、と思うくらい、其の微かな感触を、早佐の『人間』の部分は喜んだ。
治の、こんなに見たかったとは自分でも思いもしなかった顔が、近付いてくる。
吐息が掛かる様な近さで、相手は、首を如何した、と言った。
「…まさか、首を絞められたのか?…長に」
―答えてはいけない。
一言でも、そう言えば、目の前の人間が、此処から自分を連れ出す、という、空恐ろしい事を、令一が瀬原集落に戻ってきている時だというのに、実行に移してしまうであろう事が、早佐には分かった。
―此の人、殺されてしまうわ。
しかし、沈黙が却って、答えとなってしまった様で、其れを受けて治が泣いてしまった事で、早佐は、頭が真っ白になった。
「治様」
「駄目だ。此処から出よう、早佐」
―あ、名前。
狡い、と早佐は思った。こんな時に、ちゃんと名前を呼んでくれるなんて、狡い、と。
涙を零しながら、止めて、と早佐は言った。
「此処で生きるというのは、こういう事なのです。捨て置いてください」
駄目だ、と、言って、相手は、早佐の、白い振袖の両肩を、濡れた両腕で掴んで、真っ直ぐ瞳を見詰めてきた。
「例え家族にだって、首を絞められる事に慣れたら駄目だ。其れは当たり前じゃない。此処で生きる為に、首を絞められても平気になったら駄目だ」
御願い、と言って、早佐は泣いた。『人間』の部分が、相手の言葉で、喜びと悲しみの両方で、締め上げられる様だった。此の人の傍に居ると、本当に簡単に、自分は『人間』に戻ってしまう、と。
「巻き込んで御免なさい。本当に、御免なさい。放っておいて、御願い。貴方、殺されてしまうわ」
―束の間、一緒に居られるだけで、良かったのに。御願いだから、此れ以上を望ませないで。貴方を死なせてしまうかもしれない。
しかし、駄目だ、と言って、治は、濡れた体の儘、早佐を抱き締めてきた。
冷たいが、力強い其れを、撥ね退ける程の力は、早佐には無かった。
抱き締められた早佐は、結局、相手の胸に顔を埋めて泣いてしまった。
頼む、と、治は言った。
「俺が平気じゃないんだよ。自分の知らない所で、御前が首を絞められる事に、平気でいられないんだ。一緒に逃げてくれ」
好きだ、と言われたら、早佐は、もう駄目だった。
結局二人は唇を重ねた。
如何して来たの、と言って、抱き付きながら、早佐は泣いた。
しかし、来てほしくないなら、あんな物を袂に入れるな、と言われて、顔を上げて、相手の顔を見た。
―そうだ、狡いのは、私だったのだわ。
何だよ、と、気不味そうに、相手は言った。
「意味が分からないとでも思ってたのかよ。…いや、分からなかったんだけどさ、実際」
何だか、其の言い方が面白く思えて、こんな時なのに、思わず早佐は吹き出してしまった。
相手は、早佐を抱き締めた儘、何笑ってんだよ、と、ぶっきら棒に言った。
稍あって、失礼します、という声がしたので、二人は慌てて離れた。
―しまった。紀和さんだわ。私ったら。
スラリと襖が開いた。
案の定、廊下に正座していたのは、渋い色の色無地を着た、紀和だった。
治の姿を見た紀和が、驚きに目を見開いた。
―もう駄目。
「まぁ、坂元本家御当主。御早い御越しで」
紀和が、困惑した様子で、そう言ったので、治と早佐は、思わず一瞬、目を見合わせた。
玄関からいらっしゃいましたか?と、不思議そうに言う紀和に、治が、えーっと?と言った。
紀和は、其の場で、正座の儘、丁寧に一礼してきた。
「御二人が水配りの御相手に決まりましたそうで、此度は、誠に御目出とう御座います」
―…如何いう事なの?
早佐は、思わず、再び、治の方を見た。
相手も、此方を見ている。
紀和は、見詰め合う二人に対して、不思議そうに、御茶でも一杯御持ちしましょうか?と言って、長の館だというのに、偉そうに、女中を呼び付けた。




