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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第四章 殺人
40/68

分離

 

 今日は久し振りに、紀和(きわ)が稽古に来てくれる予定の日だったので、(はや)()は、律儀にも、朝、床から起き出して、白い振袖を着せてもらった。


 昨日、向子(さきこ)が、ケーキと一緒に、幾枚か持って来てくれていたらしい。


―嬉しい事。姉様の振袖を、仕立て直してくれたなんて。


 理佐は、嫁入りの際に、幾つかの帯以外は、振袖を、実方本家に持っていってしまっていたのだが、其の早過ぎる死によって、其れ等が死蔵されてしまっているのを憂えた瑛子(えいこ)向子(さきこ)が、早佐に合わせて、仕立て直してくれたそうである。


―姉様の方が、十センチ近く、私よりも背が高かったのだもの。仕立て直さないと、合うわけが無いものね。…考えてみると、本当に、似ていない姉妹だったのね。自分で気付くべきだったのかもしれないわ。


 其れでも、早佐は、何も疑いもせず、姉を愛した。

 故に、姉の振袖は、本当に嬉しかった。

 だから迷わず、朝の女中からの報告と同時に、今日着る物として其の中の一つを選んだ。


―首を絞められた跡は、其れ程残っていなくて助かったわ。着替えをしてくれた人達も気付かなかった様子だし、よく見ないと気付かないくらいなのでしょうね。でも、気付かれて、如何(どう)したのかと問われても困るし、そう思うと、御稽古の前の晩に首を絞められるのは迷惑ね。


 首を絞められるのに都合の良い日など、本来、有る筈も無いのだが、其の件も含めて、早佐は、自分の感覚が、次第に鈍化していくのを感じていた。


―感覚が、分離していく気がする。


 人間としての自分と、()()()()()()存在としての自分が、分離し、乖離(かいり)していく感じがするのだ。


 人間としての、十六歳の少女は、毒蛇を見る(よう)な気分で、兄に対して、恐れと嫌悪感を抱いているのに、()()()()()()存在としての自分が、其れ等を些末(さまつ)な事と感じさせるのだ。


 生き物が太古(たいこ)から連綿と、自分本位に命を繋ごうとしてきた事と、何が違うのか、と。


 生き物は、人間は、常に自分本位で、増える事や食う事や、自分を納得させる為の事を続けてきたのであって、兄の振る舞いも、其の一部で、地震や台風、水害に比べたら、ちっぽけで、胡麻粒(ごまつぶ)(よう)だ、と。


 どんどん、目線が高くなっていく。


 どんどん、主語が大きくなっていく。


 足元が見えない。


 自分の存在が分離していき、大気(たいき)に溶けて、世界と自分との境界線が曖昧になっていく。


 自分が、『世界』になっていく。


―段々、()()()()()()()()()()()気がする。


 しかし其れは、一方で、()()()とも言えた。


―あの、兄という魔を祓うには、同じくらいの歪みと闇を抱え、同じくらいの強さの存在にならなければ。同じ(よう)(くる)(かた)をしなければ。


 魔として祓うべき存在を、何時(いつ)までものさばらせておく事は、早佐には得策だと思えない。自身の為にも周囲の為にも、其の威光を削ぐくらいの事はしなければ、何時(いつ)か自身も、理佐の(よう)に命を奪われてしまうであろう、と、早佐は予感している。


 別段、恐ろしい思いをしてまで、兄という魔を、自分で祓う必要性は無いのかもしれないが、早佐にしてみれば、其れは、此処で、兄に飼われている(よう)な暮らしを続けるのであれば、能動的な行動に出て失敗して殺されるか、緩慢に殺されるのを待つか、というだけの違いに過ぎず、そうなのであれば、前者を選ぶだけである。


()()()()()()()()()が、千載一遇の好機。


 其れには、何時(いつ)までも人間の皮を着て、十六歳の少女として、人を愛したり、恐れたりしている訳にはいかないのだ。


―でも、()()()()()()()以上、しなければならない事も有るわ。


 人間なので、服を着て、来客の対応をしなければならない。

 其れには食事を摂って、身支度なりして、()()()()()()をしなければならず、大気(たいき)に溶けている場合ではないのだった。


 そういう意味で、今日は、(はる)という存在と、姉の振袖と、那智(なち)から贈られた花が、自分を、何とか、自分を地に縛り付けて、人間の形に保ってくれている、という気がした。


―まぁ、其の三人の誰にも、会えないのだけれどね。甥の(りゅう)ちゃんにすら自由には会えないのだから、当然だけれど。


 実在の人間から直接慰めてもらう事を全く期待していない、そんな早佐が、朝から支度して、白い振袖を着ているのを見た(れい)(いち)は、一瞬眉を(ひそ)めたが、雨だというのに出かけてしまった。


如何(どう)いう訳か、私には、染料を不断(ふんだん)に使った、豪奢(ごうしゃ)な物を着せたがるけど、姉様には、こういう、白っぽい、清楚な色の物を着せたがったのよね、あの兄は。


 相手の趣味など知りたくも無いが、其れは、不思議と言えば不思議だった。


―白地に、白の牡丹の絵羽柄だけど、肩口より、裾の方に柄が多いのね。其の分、顔の近くで、白地の箇所で、地紋の麻の葉模様が光って、浮き上がって見えて、綺麗だわ。何と無く、(こだわ)りを感じるのよね。


 別段、相手が何かを描いているのを見た事が有るわけでもないくらいの、希薄な関わりの兄なのだが、絵を描く才が有るとは伝え聞いているせいか、色彩的、視覚的なセンスとしては悪くはない、と思える早佐である。


 早佐は、此の、白い振袖に関しても、客観的に見て、美的な感覚としては評価が出来る、と思った。


―首を絞められた事と、相手の美的感覚を分けて評価出来る、というのは、良い事なのかしら?悪い事なのかしら?其れとも、もう、壊れ始めているのかしら?


 ()だ人間を辞める訳にはいかない、と思いながら、早佐は、愛しさを込めて、那智の贈ってくれた土耳古桔梗(トルコキキョウ)の、柔らかな花弁(はなびら)に触れた。


―愛しい、『人の子』。


 恐らく、十六歳の少女として、『人の子』として、当たり前に泣き、笑うのであろう、那智という『存在』自体を、早佐は、(いつく)しみの心で捉え、想った。


 きっと、神などという存在が居るのだとしても、無邪気に、菓子や何かを喜ぶ『存在』に対して、扱いかねて困惑したり、微笑んでしまったりするのであろう、と。


 きっと、花を供えてくれる『人の子』に対して、慈愛を感じる事も有るのであろう、と。




 さて、分かってしまった事が有る。


 令一の『水配り(ミックバイ)』についてだ。


―物が見える(よう)になる、というのは、()くも不便な事だったのね。


 相手は如何(どう)やら、『水配り(ミックバイ)』と、『本家の婚礼衣装』と、『長い髪の本家の娘』を神聖視しているのだ。


―だから、結婚しないし、()()私の体を求めて来ないのだわ。


 『水配り(ミックバイ)』の場に於いて、本家の婚礼衣装を着た『長い髪の本家の娘』と交わる、という事こそが、令一にとっての『結婚』であり、其処での交わりで、自分の子孫を得たいのだろう。


 『本家の髪の長い娘』は現状、早佐しか居ない。


 そして、令一の、理佐に対する強姦と、『龍顕は自分の子である』という供述から導き出される結論としては、()()()()()()としたら『水配り(ミックバイ)』の場、という事だ。


―姉様も、『水配り(ミックバイ)』の時に襲われたのかもしれない。二月の『水配り(ミックバイ)』で、十一月に生まれた(りゅう)ちゃんを自分の子だと考える、というのは、()()()()事になるのでしょうね。


 だから『本家』に嫁がされるのであろう、と、早佐は解釈した。


 家格を重んじる家で、花嫁が婚礼の夜に、花婿ではなく、従うべき(おさ)に襲われたとなれば、()ず公表しない。


 清水本家当主の(ふじ)寿(とし)という人物の人柄は知らないが、多くの事業を経営出来る優秀さが有る時点で、腹に一物(いちもつ)有る人物、と考えて良いと早佐は思う。

 家の立場を考えたら、彼が(おさ)に逆らうとは(つゆ)(ほど)も考えられないので、恐らく、『水配り(ミックバイ)』の時に何が起きても、隠蔽されてしまうのだ。

 つまり、清水本家に嫁がされたところで、兄の早佐に対する影響力は、今までと、何も変わらないのだろう。だから恐らく、相手にしてみれば、早佐を嫁に出したところで『手放した』とは微塵も思っていないという事になるのであろう。

 だから『自分の言いなりになる』であろう、清水本家当主が、令一によって、早佐の嫁ぎ先に選出されるのであろう、と。


―其れを()()()()()のなら、『水配り(ミックバイ)』の時ね。


 ()()()()には、水配り(ミックバイ)の時しかないのだろう。


 其れを、そして、其の時に何を兄にされるのかを考えると、十六歳の少女としての自分は、吐き気がしそうなくらいの嫌悪感に見舞われるのだが、()()()()()()存在としての自分は、其れを、穢れたものに対する拭き掃除くらいの感覚で捉えている。


―嗚呼、分離していく。此の(まま)では、御稽古に差し支えるかも。切り替えないと。


 外は雨だが、外の空気が吸いたくなった早佐は、窓を開けて、縁側に出た。


―え?嘘。あれは。




 竹林の傍に、白装束の人物の姿を見掛けた早佐は、自分の肉体から分離しかかっていた意識が、キュッと、其の人物に向かって集まる気がした。先程まで、自身から乖離(かいり)し、大気に溶けかかっていた意識が、ガッチリと、十六歳の少女の体に固定された。


 分かり切っていた事だが、恋をしている。目の前の相手に。


―何故、また来てしまったの?


 相手の為に、退(しりぞ)けなければ、という気持ちと、姿を一目見られただけでも嬉しい気持ちが、同時に沸き起こって、自分でも驚く程、胸が苦しくなったが、早佐の口からは、御早い御着きです事、という、驚きの言葉しか出なかった。


(しばら)くソトへ行かれているのでは?…こんな雨の中、走っていらっしゃるなんて」


 分離などしていない。声も、手も、自分のものだ、と相手を見詰めながら、早佐は思った。

 此の目は自分の目でしかなく、今此処で見ている人物を、自分以外の体で、感覚で感じたくはない、と。


―ああ、繋ぎ留められる。地に、縫い留められる。


 夢かしら、と、目の前で(いき)()き切っている人物の麗しい姿を、信じられない思いで、早佐は見詰めた。


 髪の先から雨の雫が滴り落ちる程に濡れ、荒い呼吸をしている其の人物は、普段からは考えられない程、蠱惑的に見えた。


 其の人物の熱っぽい視線に絡め取られた早佐は、胸がギュッと締め上げられた。

 退(しりぞ)けなければ、と思うのに、此方(こちら)に近付いてくる相手に対して、早佐は、何も出来ずに居た。


―兄が帰ってきております、と、御伝えしたでしょうに。其れに、嗚呼、今日は、御稽古の日で。此れから紀和(きわ)さんがいらっしゃるのに。見付かってしまう。…何か言わなければ。


「…(はる)(さま)


 濡れ鼠だというのに、相手は、そんな事は気にも留めていない様子で、ズカズカと、縁側に、履き物も脱がずに上がってきた。


「一緒に逃げよう」

「…え?」


「…最初に、ちゃんと聞いてやらなくて、悪かった。此処から逃げよう」


 思わず、捨て置きなさい、と早佐は言った。


「…貴方(あなた)が私に、其処までしてくださる必要は有りません。あれは、もういいと申し上げたでしょう?」


 やっとの事で、体が引き裂かれるかと思う程の思いをして、早佐は、一番聞きたかった言葉を拒否した。


―そんな。今、こんな言葉を聞いてしまうなんて。


 しかし、相手は、常に無い程の熱を秘めた瞳をして、早佐の首元に、そっと右手の指先で触れた。


 触れられた部分が、溶けるのではないか、と思うくらい、其の(かす)かな感触を、早佐の『人間』の部分は喜んだ。


 (はる)の、こんなに見たかったとは自分でも思いもしなかった顔が、近付いてくる。


 吐息が掛かる(よう)な近さで、相手は、首を如何(どう)した、と言った。

「…まさか、首を絞められたのか?…(おさ)に」


―答えてはいけない。


 一言でも、そう言えば、目の前の人間が、此処から自分を連れ出す、という、空恐ろしい事を、令一が()(ばる)集落に戻ってきている時だというのに、実行に移してしまうであろう事が、早佐には分かった。


―此の人、殺されてしまうわ。


 しかし、沈黙が却って、答えとなってしまった(よう)で、其れを受けて(はる)が泣いてしまった事で、早佐は、頭が真っ白になった。


(はる)様」


「駄目だ。此処から出よう、早佐(はやさ)


―あ、名前。


 (ずる)い、と早佐は思った。こんな時に、ちゃんと名前を呼んでくれるなんて、(ずる)い、と。


 涙を(こぼ)しながら、()めて、と早佐は言った。

「此処で生きるというのは、こういう事なのです。捨て置いてください」


 駄目だ、と、言って、相手は、早佐の、白い振袖の両肩を、濡れた両腕で掴んで、真っ直ぐ瞳を見詰めてきた。


「例え家族にだって、首を絞められる事に慣れたら駄目だ。其れは当たり前じゃない。此処で生きる為に、首を絞められても平気になったら駄目だ」


 御願い、と言って、早佐は泣いた。『人間』の部分が、相手の言葉で、喜びと悲しみの両方で、締め上げられる(よう)だった。此の人の傍に居ると、本当に簡単に、自分は『人間』に戻ってしまう、と。


「巻き込んで御免なさい。本当に、御免なさい。放っておいて、御願い。貴方(あなた)、殺されてしまうわ」


―束の間、一緒に居られるだけで、良かったのに。御願いだから、此れ以上を望ませないで。貴方(あなた)を死なせてしまうかもしれない。


 しかし、駄目だ、と言って、(はる)は、濡れた体の(まま)、早佐を抱き締めてきた。


 冷たいが、力強い其れを、()退()ける程の力は、早佐には無かった。


 抱き締められた早佐は、結局、相手の胸に顔を(うず)めて泣いてしまった。


 頼む、と、(はる)は言った。


「俺が平気じゃないんだよ。自分の知らない所で、御前が首を絞められる事に、平気でいられないんだ。一緒に逃げてくれ」


 好きだ、と言われたら、早佐は、もう駄目だった。


 結局二人は唇を重ねた。


 如何(どう)して来たの、と言って、抱き付きながら、早佐は泣いた。


 しかし、来てほしくないなら、あんな物を(たもと)に入れるな、と言われて、顔を上げて、相手の顔を見た。


―そうだ、(ずる)いのは、私だったのだわ。


 何だよ、と、気不味そうに、相手は言った。


「意味が分からないとでも思ってたのかよ。…いや、分からなかったんだけどさ、実際」


 何だか、其の言い方が面白く思えて、こんな時なのに、思わず早佐は吹き出してしまった。


 相手は、早佐を抱き締めた(まま)、何笑ってんだよ、と、ぶっきら(ぼう)に言った。




 (やや)あって、失礼します、という声がしたので、二人は慌てて離れた。


―しまった。紀和さんだわ。私ったら。


 スラリと襖が開いた。


 案の定、廊下に正座していたのは、渋い色の色無地を着た、紀和だった。


 (はる)の姿を見た紀和が、驚きに目を見開いた。


―もう駄目。


「まぁ、坂元本家御当主。御早い御越しで」


 紀和が、困惑した様子で、そう言ったので、(はる)と早佐は、思わず一瞬、目を見合わせた。


 玄関からいらっしゃいましたか(おじゃいやしたと)?と、不思議そうに言う紀和に、(はる)が、えーっと?と言った。


 紀和は、其の場で、正座の(まま)、丁寧に一礼してきた。


御二人(おふたい)水配り(ミックバイ)の御相手に決まりましたそうで、此度は(こんたびあ)、誠に御目出とう御座います」


―…如何(どう)いう事なの?


 早佐は、思わず、再び、(はる)の方を見た。

 相手も、此方(こちら)を見ている。


 紀和は、見詰め合う二人に対して、不思議そうに、御茶でも一杯(ちゃどんいっぺ)御持ちしましょうか?と言って、(おさ)(やかた)だというのに、偉そうに、女中を呼び付けた。



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