衝動
「頭痛ぇ…」
久し振りに来た実方本家にて、白装束の正装に着替えた治一は、額に右掌を当てた。
大丈夫?と言って、同じく、白装束に着替えた、片頭痛持ちの親友は、愛用の頭痛薬とコップ一杯の水を手渡してくれた。
―何の夢見たか思い出せないけど、変な夢見た気がするなぁ。其の夢見のせいか、あんまり寝た気がしないし、頭がガンガンする…。移動中の車の中でも、結構寝かせてもらったのになぁ。
「予報が当たって、見事に雨だもんね。鹿児島市は朝から降ってるらしいわ。俺も先刻飲んだ」
「サンキュ。…寝不足かな?あんまり俺、頭痛って、ならないんだけど」
「長距離移動もしたしね。疲れも有るんじゃない?治、イブプロフェン派?アスピリン派?龍用のアセトアミノフェンも有るけど」
「あんまり飲んだ事無いから分かんないけど…。此れは?」
「ロキソプロフェン」
「…有難う、ド理系さん。余計頭痛がしてきたから、此れで。…市販薬じゃないな此れ」
「一応俺、医療法人社団『神祇会』理事の息子なんでね。此方、実方医院処方の物となっております」
「あー、宗さん、不動産会社の代表だけじゃなくて、そっちの理事も遣ってんだっけ?」
「そーそー。医療法人財団の現理事は太郎兄ちゃんだけどね」
「ああ。そう言えば…外車を家族の人数分買ったのって、太郎兄ちゃん?」
「そうそう。賢おじちゃんは渋い顔してたけど」
「…俺が聞いて良い話だったのかな?アレ」
「…まぁ、税金対策は大事だと、俺は思うよ」
何はともあれ、と岐顕は言った。
「一応、財団と社団は分けないとね。幾ら身内経営っつってもさー。前は、学校法人関係は彦じぃと顕将さんが遣ってたから。学校法人の方は清水分家の正直さんが、学校法人社団の理事になってくれたから、めっちゃ助かってる」
「学校法人財団の理事は、清水分家の海青さん?」
「そーそー。吉野分家の篠さんと結婚して、此の前、息子が生まれたの。うち、御世話になってるのよー、ホント。もう俺、四月に議案書を四つ分印刷しなくていいんだぁ。其れでも医療法人の方が二つ残ってるけど、印刷は黒服に任せられるようになったし、そろそろ学校機能は実方家と分離したかったからさぁ。清水分家や吉野分家の先生も増えたし」
「学校法人社団は『法楽会』だっけ。宗教のカモフラには余念が無い名前だな…」
神も仏も有るもんだ、つってね、と言って、岐顕は、薬を飲み終えた治一の硝子のコップを受け取ってくれ、キッチンの方まで持って行ってくれた。
―久し振りに来たけど、こんな改装してたんだ。見違えたな。
嘗ては畳敷きだった居間は、欄間も何もかも取り払われて、他の設えだけは和風の儘、見事な板の間になっていた。理佐が首を括ったとされる欄間と、相当汚れてしまったらしい畳と敷居を取り払って嵩上げし、フローリングにしたのだろう。
―…そう思うと嫌だけど、理佐の事を思い出さないインテリアになってるのは、ちょっとホッとした。
其れは別に、治一の為ではなく、此処の住人達の為なのだろうが、理佐の事を思い出したくなくて、此の家に足を踏み入れていなかった治一にとっても、有難い話であった。
治一が、久し振りに足を踏み入れた親友宅の様子に、しみじみとしていると、結局一緒に、岐顕の運転する車に乗って、龍顕を連れて瀬原集落に帰って来てくれた顕彦が来て、よう、と言った。
「龍、寝たわ。昼飯作ろうか?治」
「いや、此れから瀬原本家に行くから、大丈夫です。朝御飯も作ってもらっちゃったし。有難う御座います」
「あ、だから正装なのか。…何の用だ?こんな雨の中。別の日でも良さそうなもんだが」
「あー、まー、その…」
詮索はしねぇが、と言いながらも、言い淀む治一に対して、不思議そうな顔をする顕彦に、治一は、有難う御座います、と、心から言った。
「龍、長距離移動で興奮したかと思ったけど、御昼寝してくれて良かったです」
「そうだなぁ。あ、桜島パーキングエリアで、アンパンマンのシール買ってくれて有難うな。大喜びだったなぁ、龍」
「シール買ってあげるって約束したから、守れて良かったです。瀬原集落に戻って来ちゃうと、買い物が難しいから、あそこで」
「律儀なこった。…何だって、そんな約束したんだ?『シール欲しい』って、自分で言う様な歳かい?」
答えられない治一が、いやぁ、と言って、左手を額に添えると、顕彦が、おや、という顔をした。
「おい、袂から、何か、紙、落としたぞ」
「え?」
「おいおい、何かの本、破ったのかい?感心しねぇなぁ」
罰当たりが、と言いながら、顕彦は紙を拾い、其れを手に取って、おや、と言った。
「お、『古事記』じゃないか。随分趣味の良いもん持ってんな。…え?此の本…」
「紙なんて知らないですけど…何です?其れ」
「いや、本が好きでも無いのに、こんなもん持ってんのかい?」
本が好きな女には会ったが。心当たりなど、早佐しか居ない治一は、うーん、と唸った。
「知り合いの物ですかね?」
「え?自分の物じゃないのか?貰ったのか?」
「…いや、分かんないですけど」
「女からか?隅に置けないな」
顕彦にそう言われると、治一は何だか恥ずかしくなった。
「いや、分かんないんですって。第一、何て書いてあるんです?」
読んでも良いのかよ、と言って、顕彦は紙を広げて読み上げた。
「八千矛の、神の命や、我が大国主。汝こそは、男にいませば、打ち廻る、島の崎々、掻き廻る、磯の崎落ちず、若草の、妻持たせらめ。我はもよ、女にしあれば、汝を除て、男は無し。汝を除て、夫は無し。綾垣の、ふはやが下に、蚕衾、和やが下に、栲衾、騒ぐが下に、沫雪の、若やる胸を、栲綱の、白き腕、そ叩き、叩き愛がり、真玉手、玉手差し枕き、股長に、寝をし寝せ。豊御酒、奉らせ」
「長っ…分かんないです。聞いた上でも分かんないですけど、何て書いてあるんです?」
「私には貴方しかいないって歌だよ」
「え?」
「いやー、何でもなくて、こんな頁破って、態々三つ折りに畳まないだろ。…折ってあるからには、こっちが表なんだよな。こりゃ、結構情熱的な歌だよ」
「…え?」
「大国主に、正妻の須勢理毘売命が詠み掛けた歌だな。須勢理毘売命っつーのがまた、一途で、情熱的な表現をされているんだが、出会って直ぐ、大国主と肉体関係を結んじまうんだよ。爲目合而、相婚、つってな」
其の内容に、ギクリとした治一は、再び、え?と聞き返した。
顕彦は解説を続けた。
「そんで、大国主に浮気された後、喧嘩して、仲直りする歌というか。貴方は行く先々に妻がいるでしょうけど、私には貴方だけです、と言って、まぁ、アレだ、家を空けがちな浮気者の夫が居てだな。其の夫が出掛ける前に、床に誘ってるんだな。視点が、寝室の様子から、体、胸とか腕に移るとことか、生々しいな。腕を差し交して枕にしましょう、とか言ってるからな。結構直接的な誘いだよ。汝を除て、男は無し。汝を除て、夫は無し。言われてみてぇもんだ、こんな事。力強い愛情の告白だな。貴方の他に、男は居ません。貴方の他に、夫は居ません」
治一は、思わず、真っ赤になって、両手で顔を覆って、其の場に屈み込んでしまった。
「え?おい、治?如何した?」
―駄目だ。
会わないと駄目だ、と治一は思った。
―今、会わないと。
気付けば治一は、雨の中、走り出していた。
―ああ、瀬原集落だ。
本家や、家格の高い家が立ち並ぶ、上方限の本通りの石畳が、濡れて、鈍く光っている。
実方系の家々に残る、茅葺の腕木門。
此れが、『木戸が合わん』の、木戸門なのだと言う人も居て、相当の家格を表すのだと言うが、治一は詳しくは知らない。
ともあれ、戻ってきただけで、何百年も時代が逆行した気分になる。
雨の中を走る。
気付けば、止せばいいのに、此の足元の悪い中を、白装束に合わせて、白足袋と草鞋だった。
―つい先刻まで、福岡に居たのに。
テレビが有って、携帯電話が有って、自動販売機が有って、コンビニが在って。
空は電線だらけで、公園や繁華街には人が居て、海の傍には夜景とタワーが在って。
天神でカットモデルになる羽目になった親友は、海浜公園に在る桟橋の上で、ブレイクダンスの技を披露していたというのに。
本当に、つい先刻まで、黄色い車に乗って、高速道路のパーキングエリアで買い物をして、頭痛薬の種類や、社団法人と財団法人の議案書の印刷の話をしていた筈だったのに。
現実的な、食う事や金の事、といった、散文的な世界に居たのに。
―何方かが、嘘で、夢みたいだ。
『夢は現、現は夢。栄枯盛衰も、愛憎も、生病老死も、借り物の肉体を得ているうちに見る夢。全ては夢』
―目に入って来る雨で、視界が暈ける。
現実感は無い。生まれ育った場所なのに、世界は軟焦点で、泥濘も雨粒も、全て美しい様に思える。全部見えているのに、何も見えていない。
『夢で何が悪い。御前が現と感じれば其れが御前の真実だ』
視界と共に、世界と自分の境界線も暈けて、曖昧になっていく。
溺れているかの様な湿度の中で、白梅の香りに包まれた人肌を思い出す。
肌に絡み付いてくるのは、雨で濡れた白装束なのか、長い、艶やかな髪なのか。
―此の、日付すら分からなくなる感覚。
溶けていく。冶けていく。相手の白い肌の中に溶けていく様な感覚が、疾走する自分の肌に、まざまざと蘇ってくる。頭の中が、金泥と岩絵の具の、金彩と不透明な五色とに、塗り潰されていく。腥い五色の、極彩色の油の浮いた水の中に突き落とされて、自分の存在が塗り潰されていく。其れが、不愉快なのと同じくらいの強さの愉悦を、体に叩き込んでくる。
―会いたい。
『駆け出さずにはいられない程の衝動、熱、執着を学べ』
ずっと、何処かで、音としては聞こえない筈の声が聞こえている気がする。
其れは、神祇の声なのか、夜の噴火の音の反響なのか。
冬の雨の中なのに、暑いくらい、体の表面が火照っている。
『手放せない、譲れないものを見付けろ』
―早佐。
『其れでこそ御前だ』
※龍用のアセトアミノフェン カロナールという名称で処方される事が多い解熱鎮痛剤。乳幼児には、基本的に、アセトアミノフェンかイブプロフェンしか使用されない。
因みに『症状がカロナール(軽くなる)』という薬剤師ジョークが有るとか無いとか。
※桜島パーキングエリア 鹿児島県姶良市西餅田に在る。
桜島は見えるけど、桜島に在るわけではない、というのが個人的に面白いです。




