鍵
鍵だ、という、誰かの声を遠くに聞きながら、治一は、虚空を眺めていた。
―え?病院?
何を描いているの、という、聞き覚えの有る声がした。其れは、美しい総白髪の、白衣の人物で、とても背が高かった。
記憶の中よりも若い様に感じたが、間違いなく、其れは、曽祖父の栄五で、治一は泣きそうになりながら、其の姿を見た。
―誰に話し掛けてるんだろう。
診察室のベッド一面に紙を散らかしながら、八歳くらいの白装束の少年が、一心不乱に鉛筆で何かを描き付けているのを見て、治一は息を飲んだ。
顔、顔、顔。
其れは、夥しい数の白いA4のコピー用紙に描かれた、幼い頃の、理佐と早佐の顔だった。
―写真記憶。…此の子、長か?…何か、顔が真っ黒く見えて…。
長が写真の様に絵を描く才を持つとは聞き及んでいたが、実際には其の、長が描いたのだという絵を見た事は無かったので、治一は、何だか空恐ろしい思いで、其れを見詰めた。
いい加減に此方を見なさいよ、と、其の傍らに立っている栄五は、溜息交じりに言った。
「新しい御母さんに、全然懐かないらしいねぇ」
栄五の言葉に、少年は、絵を描くのを止めて、栄五の方も見ずに、側女に懐く謂れは無い、と言った。
そんな言い方は無いでしょう、と栄五が咎めると、少年は、側女が悪ければ端女だ、と言い放った。
「要は後妻であろう。身分低い側室だ。瀬原本家後継の俺が、何故、機嫌を取ってやらねばならない?」
そんな口の利き方を何処で覚えたの、と言いながら、栄五は、溜息をついて、少年の描いている絵を見詰めた。
「此の絵だけ真っ黒だね。何の絵?」
少年は、嬉しそうに、岐顕だ、と言った。
栄五は、戸惑った様子で、そう、と言った。
「従兄が好きなの?」
少年は、やっと栄五の方を見て、勿論、と言った。
栄五は、更に、困った様に言った。
「一緒に遊んでいるのなんて、見た事が無いけど?」
少年は、ふふん、と笑って、得意そうに言った。
「此の前は、縄跳びに誘ったら、断られた。良いだろう?」
栄五は、訝しそうに、何の話?と言った。
「何が良いの?」
「俺の頼みを断る奴は面白いだろう?大好きだ」
栄五は、困惑しきった顔で、そう、と言った。
早佐もだ、と、少年は言った。
「全然言う事を聞かない。理佐は詰まらん。直ぐ泣くし、直ぐ言う事を聞く」
「其れは、君が叩いて、怖がらせたからだろう?」
「叩いたら音がしたのだ。其れが面白かった。面白かったから叩いた」
其れは泣いたって言うの、と、呆れた様に栄五は言った。
「妹を叩いたらいけない」
「父上が叩くなと言うから、もう叩かない」
俺は長の言う事しか聞かない、と、少年は言い放ち、再び、絵を描き始めた。
「まぁ、あれ等は俺の嫁なのだ。好きに扱って構わないだろう?」
何を言っているの?と栄五は言った。
「妹として引き取ったのだから。第一、将来結婚したいなら、優しくしてあげなさいよ」
「優しく、って?物を遣るとかか?」
「…大筋では、叩くよりは合っているけど。其れに、幾ら二人共好きだからって、一人としか結婚出来ないのだから」
「父上は、二人嫁を取った」
「其れは。君の御母さんの浩子さんが亡くなっちゃったから、紅葉さんと結婚しただけでしょ?」
少年は、絵を描く手を止め、顔を上げて、栄五の方を見ると、おや、と言った。
「嫁が死ばもう一人嫁を貰えるのか。良い事を聞いた」
再び、困惑しきった様子で、何の話?と栄五は言った。
二人とも貰う、という話だ、と、絵を描く動作に戻りながら、少年は言った。
「本家の娘でありながら、俺と血が繋がっていない。最高だ。父上は、俺の為に、二人の妹の何方かを用意してくれたのだ。其れでは父上に申し訳ないから、二人とも貰おう」
「用意…?」
「養女などというのは、きっと嘘で、二人共、本当の妹なのだ。そうに決まっている。だから、二人共、俺の嫁にする」
「…戸籍なんて知らないだろうから教えてあげるけど。大人になっても、そういう事を言っていたら、恥を搔くだろうと思うよ」
馬鹿にするな、と、少年は、絵を描きながら、顔も上げずに言った。
「きっと父上が戸籍とやらを偽造してくださったのだ。俺と妹達が結婚出来る様に。十六になる本家の娘とだけ、『水配り』で一緒になってやる」
「…まぁ、君が長になったら好きにしたら?其れまでには、親御さんが反対するなりして、現実を思い知るだろう」
少年は、再び、絵を描く手を止め、顔を上げて言った。
「『長』の命令は絶対だ。其れは遵守する。だが、きっと、父上は結婚を御許しくださる筈だ」
其の根拠の無い自信が怖いな、と栄五が呟くと、長になったら俺が法だ、と少年は言い放った。
―何か、全然、話が噛み合わない子だな…。
そして再び、没頭する様に絵を描き始めた。
そろそろ帰ってくれない?と栄五は言ったが、其の言葉は、少年の耳には入らなかったらしい。全然、絵を描く手を止めなかった。治一が恐々覗き込むと、少年が『岐顕』だと言っていた絵は、何重にも鉛筆の線が重ねられて、真っ黒で、治一には、顔なのか何なのか、何も分からなかった。
『ないしょだぞ、はる。おれ、たまに、れーいちのかおが、みえないんだ。まっくろにみえちゃうんだ。めが、わるいのかなぁ』
―あれ…?
場面が切り替わったが、場所は同じ、病院の診療室だった。
高校生くらいの年齢の、白装束の人間が、認めない、と言って喚き散らしていたが、やはり、顔が分からなかった。
―此の声…長か?
其れに対峙している、美しい総白髪を持つ人物は、記憶の中の通りの栄五だった。
白衣を着た曽祖父は、相手と向かい合って立った儘、黒縁眼鏡をしていても、老いても、尚、凛々しく整った顔で、認めないと言われても困るよ、と言った。
「君の御父さんと君はAB型。君の御母さんはB型。ついでに、紅葉さんはA型。君の妹は二人共O型。此の話は終わり。血縁関係は認められませんでした」
嘘だ、と叫ぶ人物に対して、栄五は、今更でしょう、と言った。
「昔、本家の娘でありながら、俺と血が繋がっていない、最高だ、って言っていただろう?親も亡くなったのだから、妹の何方かと正式に入籍すれば?」
其れは出来ない、と言う相手に対して、栄五は、何でまた、と、呆れた様に言った。
「戸籍も一緒に確認したでしょうよ。結婚も出来る間柄なのだから」
「前にも言ったが、あんな物は、きっと父上が偽造してくれたに違いない、ただの、法的効力の有る紙だ。だから、父上は、きっと、結婚を御承諾くださっていたのに違いない」
「…他人の気持ちを代弁するのは止めない?もう、証明しようもない事だし。あと、ついでに言うけど、『偽造』された『法的効力の有る』『ただの紙』なんていう難しい日本語を、年寄に聞かせないでくれない?頭が痛くなってきた」
曽祖父は、小声で、馬鹿じゃないの?と言ったが、相手は、其れを聞いた風も無く、喚き散らした。
「『長』の命令は絶対だ。父上の御言葉は遵守する」
「…?遵守すれば良いでしょう?何?妹と結婚するな、とは言われていない訳だよね?其の言い方だと」
「遺言状には、妹二人には、自分達が養女である事を教えないでほしい、我が子同然で育てたから、せめて未成年のうちは、自然に知ってしまうまで、どうか教えないでほしい、と書かれていたのだ」
栄五は、困った様に、泣かせる文面じゃないの、と言った。
「…あんまり、自分の親の遺言状の内容とか、他人に聞かせない方が良いと思うけどね?…で…?何?…妹が二十歳になってから結婚すれば良いだけの話では?」
「其の遺言を守ると、『水配り』に間に合わない」
「…え?あれ、本気だったのかな?『十六になる本家の娘』とだけ?」
そう言った切り、ポカーンとして黙ってしまった栄五を他所に、令一は、当然だ、と答えた。
「当たり前だろう。其れが『水配り』だ。二十歳なんて薹が立った女は要らん」
いや、だから、と栄五は言った。
「遺言なんて別に守らなくても、長でしょ?好きにしたら?あの子達が養女だって事は、若い子達は兎も角、大人は皆知っているから、反対する人も出ないでしょうよ。そりゃ、自分達が養女だと知ったら悲しむかもしれないけど、十六で知ろうが、成人してから知ろうが、悲しいものは悲しいだろうから。事実を知るのが四年くらい早まるだけ、と考えれば」
「『長』の命令は絶対だ。其れは遵守する。妹達には、キチンとした相手を其々に見付けて水配りをさせてやる。婚礼衣装も必須だ」
だからぁ、と言って、栄五は頭を抱えた。
「…うーん、そしたら、妹とは結婚出来ないけど?」
「いいや、血の繋がった十六歳の妹と、『水配り』で結婚する」
栄五は顔を上げて、そんな妹は居ないってば、と、言った。
「非実在なの、其れは。血液型のメンデル遺伝の話が理解出来ないって話なら、DNA型鑑定でもすれば?御金は有るでしょ?精度は知らないけど」
DNA型鑑定、と聞いた途端、相手は黙った。
栄五は、溜息をついて、もう、と言った。
「医学的な権威や科学的な権威は信じるのは、何なの?其れを突っ撥ねた途端、傍目にも頭が悪そうに見えるから?」
相手は、其れは、と口籠った。
栄五は、あのね、と言った。
「医者の言葉に医学的権威が無いとは思ってないよね?少なくとも、瀬原集落の中では」
相手は返事をしない。
だからね、と、諭す様な声で、栄五は続けた。
「俺の言葉を信用してくれているから、下痢したり、妹が喘息を出したりしたら、来てくれている筈でしょう?此処に。苗の神様だって、別に、医療の神だという話も聞かないし、御祈祷したって、腹痛も喘息も治らないのは分かっているでしょう?そりゃ、医学だって、薄毛も風邪も水虫も根絶出来てはいないけど、せめて、血液型の遺伝の話くらいは聞き入れてよ。間違って輸血したら大変だから、血液型の詐称だって出来ないよ、俺は」
煩い煩い煩い、と、相手は、再び喚き散らした。
其れには構わず、栄五は、第一、と言った。
「血の繋がった妹と、何で結婚したいの?血が濃くなるだけでしょ?」
相手は返事をしない。
まさか、と栄五は言った。
「血を濃くしたいの?」
相手は、やはり黙っている。
如何いう事なの?と栄五は言った。
「…そんなの、どんな修辞法を駆使されても賛同出来ないよ」
「俺の血は神聖だからだ」
栄五は、神聖、と復唱し、目を点にした。
相手は、神聖な俺の血が濃くなればいい、と言い放った。
待ちなさい、と栄五は言った。
「血を濃くしない為の水配りでしょ?うちは参加してないけどさ」
何故参加しない、と叫ぶ相手に、必要性を感じないから、と栄五は言った。
「何時までも隠れ里なんて続けているから、可変しな事になるの。もう平成だよ?婚姻統制しないといけないようじゃ、先細りでしょうに。こんな狭い場所だから、大体が何処かの遠縁なの。工夫して凌ぐって言ったって限界が有るから、孤児受け入れプロジェクトなんてものを遣っていた訳でしょ?其れで来てくれた妹さん達なのだから、血が繋がっている訳が無い。そりゃ、親も結婚を反対しないだろう、集落内での血を薄める為に他所から連れて来た娘さん達なのだから」
黙れ、と相手は言ったが、黙っても覆らないもの、と栄五は、また、困った様に言った。
「悪いけど、君のY染色体、俺と同じだからね?神聖って言われてもさ」
診療室の中が、シーン、と静まり返った。
稍あって、何を馬鹿な事を、と相手は言った。
馬鹿なものかね、と栄五は言った。
「十一代目の瀬原本家当主、瀬原修一は、俺の又従兄なのさ。其れこそ、俺や紀や、うちの曾孫とでも、DNA型鑑定をしてみれば?金は必要だろうけど、あと何年もすれば、精度も上がって、Y染色体が同じか如何かくらい、分かる様になるかもよ?」
少なくとも、君の妹達よりは血が近いよ、と言う栄五に対し、嘘だ、と相手は言った。
「…では、何か?御前の曾孫も長になる資格は有るとでも?」
―え?
瀬原修一のY染色体を重要視するならの話だけどね、と、栄五は、珍しく、小馬鹿にした様に言った。
「元々は、捨て子を拾って来て、集落の長に据える仕来りだったのを、十一代目の瀬原本家当主、瀬原修一の持つ、あまりのカリスマ性の為に、其の男系の子孫が重視される様になっただけで、本来、長は、世襲制でも何でも無いのさ。誰が遣ったっていい様なものだったから、捨て子が据えられていた。其処に偶々、十代目の瀬原本家当主、瀬原重蔵という人の希望で、当時の坂元本家当主の長子が、極秘で養子に据えられたのさ。だから、世襲制になったのは、俺の生まれた、大正三年以降だよ。君には大昔に感じるだろうけど、俺にしてみれば、生まれた頃の話さ。最近の話だよ」
「…御前の曾孫も長になる資格は有ると…?」
「其処だけ抜粋するの、やめてくれない?…だから、瀬原修一のY染色体に重要性なんて無かったの。世襲制ですらなくて、長になるのは、捨て子で充分だったの」
信じない、と相手は言った。
「十代目の当主が捨て子だったのも、十一代目の当主が御前の又従兄だというのも信じない」
「ま、妹二人との血縁関係の無さを信じてくれないなら、そうだろうね。信じなければ良い。早佐ちゃんが学校に行ける程度には健康だって話も、全然聞き入れてくれないしねぇ。籠で水を汲んでいる気分になるな、君と話してると」
取り消せ、と相手は言った。
「御前の曾孫も長になる資格が有るなんて、嘘だ」
「だから、言ってないでしょ、そんな事。取り消すも何も。そして、瀬原修一のY染色体に重要性なんて無い」
「其れも取り消せ」
「…だから、そしたら、うちの曾孫も長になる資格が有る事になっちゃうでしょうに」
ほらな、と相手は言った。
違う、と栄五は言った。
「…如何したいのさ、一体。何がしたいの、君は」
出て行け、と相手は叫んだ。
「瀬原集落から出て行け。俺の神聖な血を貶める事も、俺の地位を脅かす事も許さん」
再び、診察室を静寂が包み込んだ。
あまりにも栄五が言葉を発しないので、怯んだ相手は、表情こそ見えないが、栄五の顔を見て、ハッとしたらしかった。治一も、曽祖父の方を見てみた。
―うわ。
其れは、曾孫の治一が見ても、ゾクリとする様な、冷たい、だが、美しい笑みだった。
栄五は長かった、と言った。
「有難う。此処を出て行くよ。君から、そう言い出してくれて、助かった。如何切り出そうかと思っていたから。…周りには、旅行だと言って出るから。家族を連れて行っても構わないかな?」
其の、あまりにも優しい声音に、治一は、却ってゾッとした。
相手は、悔しそうに、キー、と言った。
「俺を、置いて行くのか?長の俺を。医者ごときが!御前、俺の主治医だろう?俺の物の筈だ!」
限界、と栄五は、優しく言った。
「何を言っているのか分からない話を聞き続けるのも、限界。今度の冬にインフルエンザが流行する前に引退出来るなんて、幸運だったね。老体に鞭打って、随分長い事働いたから、慰労も兼ねて、温泉にでも浸からせてもらうよ」
美しいものは好きだ、と言う相手の言葉を、栄五は、意味が分からない、と言って、軽く往なした。
「有難う御座います、長。此れで俺達、名実共に、閼伽の他人ですね」
相手は、歯噛みしながら、負け惜しみの様に、其れなら乗り物は手配してやる、と言った。
「何処へでも行ってしまえ!」
そう言って走り去る相手の背中に、優しく、そうするよ、と栄五は言った。
場面が切り替わった。
―あれ?見た事無い家の和室だな。
しかし、其処に居るのは、見知った人物達だった。
―全然知らない人も居るけど。…え?長?
長そっくりだが、随分老いていて、しかし、とても優しそうな、白装束の人物が、
畳の上で胡坐を掻きながら、同じく白装束の顕彦や、岐顕と話をしていた。
―え?岐?わ、青い着物を着た向子さんまで。…やっぱり、髪、長いな…。
何か有るのか?と、顕彦が言った。
「岐、御前、理由を聞くと何時も口を噤むよな?小学校に上がってからは滅多に令一と話さないし。年の近い坂元本家の治とは親友のくせに、令一だけ仲間外れかい?」
いや、と岐顕は言った。
「そうじゃないよ。アイツには取り巻きが沢山出来たから、一緒に遊ばなくなっただけで…。いいや、此の際だから白状するよ。言っても信じてもらえないと思ってさ」
しかし、顕彦が、其の答えに、然程納得していない様子なのを見て取った岐顕は、観念した様に続けた。
「小さい時からなんだけど、一緒に遊んでると、令一から時々、黒い靄みたいなのが出るんだよ。あれが、薄気味悪くてさ。…何か苦手で」
―は?
「うんと小さい時だったかなぁ、其れが、平に纏わり付きそうになっちゃって、俺、怖くて大泣きしちゃったんだよ。後は覚えて無いけど…。いや、やっぱ忘れて。ほら、こんな家に生まれたのに、俺、霊感みたいなのは無いし、見間違えかなって思ってはいるんだけど。兎に角、あんなもんが体から出てくる人間、他に居ないからさ。俺、如何しても、此の人や平と、令一が似てるとは思えないんだ」
場の空気は凍り付いていた。
―長から『時々、黒い靄みたいなのが出る』って?
聞いた人間が驚くのも無理は無い、と治一は思った。
特に、顕彦は、完全に青褪めていた。
「おい。顕平は乳児突然死で、二歳で亡くなってるんだぞ。…御前、其れ、何時見た?」
今度は、其れを聞いた岐顕が、あ、と言って青褪めた。
「…何時見たんだ?…俺…」
多分其の後に亡くなったんだね、と、悲しそうに、誰かが言った。
其の、白装束の、治一が会った事も無い人物は、何処と無く、曽祖父の栄五を思わせる、端正な顔をしていた。
―誰だろう。御爺さんだけど、随分綺麗な人だな。
そんな、と岐顕は言った。
長によく似た、優しそうな老人が、慌てた様子で言った。
「顕平という子の生年月日は?」
「一九七四年の四月二日です、俺と同じ。亡くなったのは一九七六年の五月四日ですが」
岐顕の報告に、優しそうな老人と、端正な顔の老人は、え?と言って、互いの顔を見た。
端正な顔の老人は、そんな、と言った。
「四月二日?…第十一代苗の神教教祖、瀬原本家当主、瀬原修一と同じ日に生まれたのか?」
其れを聞いた顕彦は、顔を伏せ、青い和服姿の向子は、目を見開いた。相当驚いたらしかった。
優しそうな老人は、そんな、と言って、岐顕に駆け寄り、抱き締めながら、泣いた。
「ああ、此の子は、『此の顔じゃなかったから見逃してもらえた』んだ。ああ、もう、如何か、御許しください。せめて此の子は御助けください…」
岐顕は、そんな、と言った。
「顔って、如何いう事です?其の顔に似ると、何が有るんですか?何もしてない人間が、二歳で死ななきゃいけない様な、何が有るって言うんです?俺は、そんな事認めない」
―え?平ちゃんが亡くなったのって…。あの、黒いやつが関係してるの?え?…龍、大丈夫なの?
また、場面が切り替わったが、今度も其の、他所の家の和室らしかった。
―全然知らない、若い、白いセーターを着た女の人と、女の子の赤ちゃんも居る。…何時の、何処なんだろう。…あれ?うちの曾祖母ちゃんにそっくりな、和服の美人も居るな…。
紘一さん、何を気にしているの、と向子が言った。
―紘一?…紘。あ。『東京に住んでる坂元衆の知り合い』…?何だ?何処で聞いたんだ?そんなの…。
紘一、と呼ばれたのは、何処と無く栄五を思わせる様な端正さを持つ、先程の、白装束の老人だった。
何故か、治一には、紘一と向子が、大きな綱と杭の様な物で繋がっている、と感じた。
向子は、相手の返事を待たず、言葉を続けた。
「瀬原集落の被害が大きくなるぞって事でしょ?だから儀式を続行しない、って」
―え?うちの里が、何だって?
「其れで良いの?御米が此の先日本で獲れなくても?」
―はぁ?
急に、何故そんなに大きな話になったのだろうと、治一が困惑していると、向子は、更に、とんでもない事を言った。
「此の家に黒い塊が出続けても?天には穴が開き、地の軛は緩んでいる。何時地震が起きたっておかしくないわ。其方は何も出来ないけど、せめて、微力でも、何か出来る事をしないと」
―分かった。
恐らく其れは、米不足と阪神淡路大震災の事だ。
―じゃあ、少なくとも此れは、平成五年や平成七年より、前の会話なんだ。
だからって、と、紘一は言った。
「俺達の独断で、君達の所に、『あれ』を追い遣る儀式をしても良いのかい?令一君が死んでも?」
―…待って。まさか。『あれ』って、あの、黒いもの?
向子は、キッパリと言った。
「人間は何時か死ぬのよ。其れに、自分が何か御呪いしたせいで人間が死ぬ、何ていう様な発想は思い上がりよ。私達には其れ程の力は無いでしょう?『あれ』を押さえる事も出来ない。真名が分かったって、黒いものは祓えても、日本全体を救えるわけでもない。救える範囲の事しか出来ない」
―真名?
「そうだけど」
口籠る紘一に、向子は更に言った。
「令一なら、もう駄目よ。手遅れ」
岐顕が、サキ、と言って咎めたが、向子は構わず、分かるのよ、と言った。
「令一だけじゃない。真っ当で居られたのは由一だけ。先々代の永一も腐ってたわよ。あんたの御祖父さんを悪く言うのは良くない事だけど、薄々分かってるでしょ?特に令一は、早死にするとしたら、多分に本人の責任も有るでしょうね。遅かれ早かれ、里には、何時か悪い事が起きる事は決定しているの。神様を怒らせるって、そういう事よ。手心を加えてはくれない。私達が罪を犯した張本人じゃない、と言っても無駄。時間の概念も関係無い相手よ。忘れた頃に来る。七代祟るとか言うでしょ。決めて。日本の米を取るか、うちの里を取るか。米が獲れなくなったら、どの道うちの里も困るけど。重ねて言っておくけど、うちの里に悪い事が起きても、今日の儀式のせいだけではないからね。遅いか早いかだけの違いだから。…何方を選んでも多分私達は後悔する。でも、今日を逃したら、御米は助けられない」
もうやめてよサキ、と岐顕が、縋る様に言った。
「今年は御米が獲れないとか、梅雨の先は夏すっ飛ばして、木の葉が散る様な秋になっちゃうくらい寒いとか、年明けた頃から妙な事ばっかり言って、本当なの?此処で他人に二択を迫る様な重大な事が、本当に起きるわけ?サキや俺達が、そんな事背負えるの?」
治一は、其れを聞いて、ゾッとした。
―やっぱり。此れ、平成五年だ。米不足。此の時の向子さんが言った事、当たっちゃったんだ…。
まぁ、如何なるかは見てたらいいわよ、と、向子はハッキリ言った。
米不足が当たってしまった結末を知っている治一は、困惑しながら、続く言葉を聞いた。
「でも、今言える事は、今日の機会を逃したら米は手遅れって事よ。…迷ってるわね、周二さん。…紘一さんは決めたわね?」
向子の言葉で、其の場に居た全員が、治一も含めて、紘一の顔を見た。
―周二さん?って、どの人?
「向子さんには御見通しか」
状況的に、周二という名と思われる、優しそうな老人が、紘?と言って、そう言う紘一の顔を見詰めた。
「随分前に家業を織機から自動車に鞍替えしちゃったからね。自分が売ってる物が世界の大気に与えている影響には自覚的だよ。良い事も悪い事もね」
―はぁ?!何?此の人、自動車会社の社長なの?!どんどん話が大きくなってくるなぁ。
「其れでも今更会社を無くす事は出来ない。そうやって、より利益の有る方を選んで生きて来た。今回も、より被害の少ない方を選択する。決めた。今日、義式をしよう。何か起きたら責任は俺に有る。怨んでくれて構わないし、被害に対する助力は惜しまないから」
此れから起こる事全ての責任を、なるべく負おうとするかの様な、紘一の其の物言いに、周二が、泣きそうな声で言った。
「そんなの。あの場所から、画家になりたいって逃げ出した俺を助けてくれた人間にだけ、今更罪を被せない。今日の決断は俺の責任でもある。怨むなら俺を。…父親が、紘の両親に、あんな事をしたのに…紘達は俺を庇って、家族にしてくれた。俺が残って里を継いでいたら、俺が引き受けられたかもしれないのに、のうのうと生きて…孫まで生まれて、幸せに暮らしてる。…幸せなんだ。里を置いて逃げて、…此処で幸せなんだ。…ごめん、ごめん、岐顕君。其れでまた、あの黒いものを里に追い遣ろうとしている。君達が、どんな目に遭うか…」
―え?!里を置いて逃げた?!…此の、長そっくりの人、誰なの?周二とかいう名前、聞いた事も無いんだけど…。
岐顕が、やめてください、と言った。
「其れは…貴方は良い長になったかもしれないけど。自分が幸せな事を謝る必要は無いですよ。其れに、俺だって今まで、母親は死ぬわ、兄貴は死ぬわ、嫌な目に遭わなかったとは言いませんが、別に不幸じゃない。辛い事が有ったなりに、親戚全体で賑やかに育てられたし、未だ父親は生きてるから家族も居て、友達も居て、其れなりに楽しく暮らしてきたんだ。此れからだって、何か楽しい事を見付け続けて生きて見せる。里で俺達が此れから不幸になるって決め付けないでくださいよ。遣りましょう、儀式。別に俺は、此れから起きる不幸を、此の儀式のせいだとは思わない。其れに、令一が今後、如何なるのかは知らないけど、サキの話を信じるなら、其れは令一の問題って事でしょう。先代は賢君で、尊敬出来る叔父でしたよ。不幸の全てが、そんな、何だかよく分からない黒い塊からくる災いのせいだとも、俺は信じない」
―え?…結局、此の後…黒いものが、余計に、うちの里に?
場面が切り替わった。
黒いものと対峙している、本家の婚礼衣装を着た、長い髪の女性だった。
よく見ると、其れは、早佐だった。
黒いものが、次第に早佐に近付くのが、治一には見えた。
―其れは、其れだけは駄目だ。
はた、と気付くと、治一は、再び、暗い中に、美しいシャボン玉の様な物が飛び交う場所に居た。
夢の中の夢が続いていく様な、不思議な感覚だった。
そして、やはり、治一の傍らには、年が居た。
如何だ、と年が言った。
「『鍵』は役に立ちそうか?」
あれは何なんですか、と治一は言った。
「黒い、靄みたいなものが…」
あれか、と年は言った。
「所謂『悪いもの』だ。苗の神教の術の力を使って祓ってきたものの残り滓とも言う。淀みに溜まる澱。巫女舞を奉納する事で浄化出来ていたものが、十一代目の瀬原修一が巫女を追い出して祭祀が廃れた事で溜まる様になり、行き場を失って、瀬原修一の男系の直系に祟る様になったもの。今は其れを、一人で引き受けている存在が、十四代目というわけだな」
「祟り?…まさか、長が?一人で引き受けて?え、でも。何か…岐の事も追い掛けてきていませんか?岐って…十一代目の、女系の子孫ですよね?」
治一の問いに、そうだろうな、と年は言った。
「御前の主君が巫女を追い払って、巫女舞が廃れた事が元凶だからな。其れは、元凶が居れば、男系の直系だけではなく、其方も追うだろう」
「え?…そう言えば、俺の『主君』って?」
御前が身代わりになっただろう、と年は言った。
「まぁ、御前の方に、そんな自覚は無かったであろうが。今は主従が逆だが、あの男は、御前に感謝していたのだ。今では、何時も御前の傍に居てくれようとしているだろう?」
如何いう事なんだろう、と困惑する治一を他所に、さて、と年は言った。
「俺からの贈り物は以上となる。そして、此れは忠告だが、水の呪いのみで現世に留め置かれている御前は、其の呪いが御前を縛り、守っている時間しか、上がるのを待ってもらえない」
「其れって。…俺、そんなに長く、生きられないんですか?」
治一は、『主君』と言う言葉に抱いた疑問も忘れる程驚いて、年に問うた。
まぁな、と相手は軽く言った。
「其の長さを長いと捉えるか、短いと捉えるかは自由だが、我から見れば、寝る前に火に掛けた粟粥が煮上がりさえしていない程の短い時間だ。夢は現、現は夢。栄枯盛衰も、愛憎も、生病老死も、借り物の肉体を得ているうちに見る夢」
全ては夢、と相手は、何でも無い事の様に言ったが、死を意識した治一は、恐ろしくなった。
そうだ、死を恐れろ、と相手は言った。
「其れでこそ生き物だ。自己犠牲は一度きりで充分だろう。いいぞ。生に執着しろ。増えろ。残り時間を意識しろ。明日は今日より賢いが、今日は明日より若いのだ。夢で何が悪い。御前が現と感じれば其れが御前の真実だ」
御前の本性は剣、と年は言った。
「水の呪いと相性が良く、風の様な知性を備え、土地を扱う程の堅実さを持つが、本性は火の様に熱く、雷の様に鋭く、理想を追い求める剣。駆け出さずにはいられない程の衝動、熱、執着を学べ。経津経津と滾れ。経津経津と斬れ。経津は震。天にて震いて雷となり、地にて震い萌え出ずる春の草木となれ。逆しまに立つ剣よ。手放せない、譲れないものを見付けろ。其れでこそ御前だ」
香も喜んでおる、と相手は言った。
突然、ドンッと、暗闇の中で、大きな音がした。
―此の音。知ってる。夜の…。噴火の音だ。
何の山だっただろうか、と治一が思っていると、花畑の方に行くか?と、もう一度、年が聞いて来た。
「寄り道も悪くなかろうが」
今度にします、と治一は言った。
「時間が無いから」
其の意気だ、と言って、相手は片目合図した。
「此の祈りの場所から祈っている。其の身に幸多からん事を」




