執着
「よう、久し振りだな、張」
治一が目を開けると、其処は、真っ暗な中に、美しい、シャボン玉の様な物が沢山浮遊している、美しい場所だった。
―見た事が有る様な場所だな。シャボン玉以外、何も無いけど。夜なのかな?
「如何した、尾羽張。我を見忘れたか?」
声を掛けてくる白装束の人物は、美しい姿をしていた。
長い、堅そうな黒髪に、白や金の髪が、幾筋か混ざって生えていて、其れが、体を追い越す長さにまで伸びていて、扇の様に広がっているのが、まるで、大きな山の山裾の様に思えた。
両足首と両手首には、長い鎖が付けられている様子だったが、其れも含めて、大きな山の様に感じる其の人物は、俯せに寝込んでいた治一の傍らに、胡坐を掻いて座っていた。
―其処に居たのって、…此の人じゃなかった気がするんだけど。俺も、何時の間にか白装束だし。…誰だっけ、誰が、先刻まで一緒に居てくれたんだっけ…。
起き上がって、相手に向き直って胡坐を掻きながら、治一は問うた。
「…何方様でしたでしょうか…。確かに、何処かで御見受けした様な御様子ではいらっしゃいますが…」
無理も無いか、と言って微笑むと、何処かで見た様な其の人物は、片目合図した。
「久し振り過ぎたか。我は年だ。歳星。木星であり、龍。穀物そのもの。俊き神。山の神の子であり、父でもある」
「山の神の父…」
「御前も、随分様子が変わってしまったなぁ。優れた剣であったのに、外国の呪いが掛けられて、見る影も無く、ただの人間になってしまったのだな。其の方、随分、水の呪いと相性が良かったらしいな」
元々、名の多い存在だったが、と、相手が意味の分からない事を言うので、治一は困惑して、言った。
「其の、鎖は?」
「家族の為に、忠義者の頭蓋を外し、命を奪ったので、刑に服している。息子が上がったら、一緒に上がりだ。其れまでは、此処に繋ぎ留められている」
―上がり?
「此処は…」
「零地点。祈りの場所だ。彼岸でも此岸でもない場所の端、山裾だ。花畑の方に行きたいか?」
相手が、空の方を指差すので、治一は、思わず、其方を見上げて、花畑?と言った。
おう、と年は言った。
「青い花畑だ。あそこで一度遊んだら、何度でも会える。上がるには寄り道だが。誰ぞ、会いたい者は居らぬか?とは言え、規則は有るが。法則と言うべきか?」
「規則?」
「今生の人間として、生前会った事が有る血縁とは会えん。死んだ後に会える様なら、余程の例外。力の強い存在だろう」
「何故、会えないんですか…?」
「層が違うからだ」
如何いう事です?と治一が尋ねると、理解出来るか分からぬが、と言いつつも、相手は、説明を試みてくれた。
「生きている人間が見ている世の中はな、様々な要素が重なっているのだ。血縁だったり、祖先が犯した罪であったり、因縁であったり、遺伝であったり、神の加護であったり、運であったり、単なる科学的な偶然であったり。見ていると言いつつ、其れは、生きている人間には可視化されないのだが。其の重なった部分の中で人間は生きている。複雑なものが絡み合って、層になっている次元に人間は居るのだ。肉体と心と魂の存在として。ところが、死ぬと、魂が、肉体の枷から外れる。心も、稀に残留思念として、地に縛り付けられる事が有るのだが、魂は、もっと自由で、人間の存在する層には留まってくれないのだ。だが、血縁による因縁や加護は残る場合が有る。其処が複雑に、生きている人間を縛り、目を曇らせる。死んだ人間が望めば、生きている血縁を見る事が出来るが、生きている人間には、幾つかの例外を除いて、其の魂を見る事は出来ない仕組みになっている。だから会いに来てくれないだろう?生まれ変わる準備で忙しい魂も多いしな。縁というのも面白くてな。夫婦が、次は親子で生まれるか、兄弟で生まれるか、友として生まれるか。輪廻の円環の中で、同じ集団から抜け出せずに回る。だから、御互い生まれ変わっていて、人間の状態でなら会えるがな。他所の宗教で言うなら、袖振り合うも他生の縁、というやつだ。何にでも、規則や法則は有る。水は低きに流れるし、地に落ちた物は、勝手に浮かびはしない。『世界』というのは、何でも有りでは無いのだ。法則で構成されていて、其の法則が変わる時に滅び、次の世界が生まれるのだ」
難しい事を言いますね、と治一は言った。
「じゃあ…。誰に会えるんですかね。俺、家族が殆ど亡くなっちゃって…」
「まぁ、此の、年くらいかもしれんな。縁だけは有ったが故」
そう言って、相手はケラケラ笑った。
息子さんは?と治一は問うた。
「えっと…。息子さんと一緒に上がるんですか?」
「そうだ。二度と生まれて来ん。魂の褒美だ」
「其れが上がりで、褒美?」と和
「左様。輪廻の円環から解き放たれるのだ。魂の修行も旅も終わる。喜びも楽しみも無い代わりに、苦しみも悲しみも無い。永遠の安寧だ」
「はぁ…」
流石に『理解出来るか分からぬが』と前置きされるだけあって、分かった様な分からない様な話だ、と思いながら、治一は、えっと、と言った。
「息子さんは、今、何方に?」
「杭として、山の神の元で、陰と陽を繋ぎ止める中心の役割を担っている。立ち上る存在の名前が与えられて、中空の存在として居る。其の杭が外れれば、我を縛める鎖も解けて、一緒に上がりだ」
御前も上がるか?と、相手は問うてきた。
「忠義者の御前が、主君の身代わりに命を終えた故、褒美に上がる予定であったものが、御前を思う者の力で、今も人間として縫い留められている」
うちの香が済まんな、と相手は謝ってきた。
「神に雌雄など本来関係無いが、御前が香を切り殺したなどとは隠喩で、子を沢山成したからには似合いの夫婦であったものを、縁深く、兄弟として生まれたのに、香が御前の死を嘆いて、外国の水の呪いを使い、御前が上がるのを妨げたのだ。もう一度会おうとして」
俺は死んだんですか、と治一が尋ねると、そうだ、と相手は言った。
「誰かの命を助ける為に身代わりに死んだとあらば、魂としての褒美は最上級のものが与えられ、殊に御前は、心根が清かったが為に、上がる予定だったものを、香が悲しんでな。無理も無い」
点を一つ足されて、と言って、相手は、人差し指の指先で、治一の蟀谷に、そっと触れてきた。
―パァン。
蟀谷に、何か熱い物と衝撃を感じた治一は、瞬きをした。
「…今のは?」
「輪廻に邪魔なので、忘れさせてもらえている事だ。覚えていれば、恐ろしくて、二度と笑う事など出来ぬであろう。恩情だな」
御前は明るくて、よく笑う奴だった、と、相手は言った。
はぁ、と治一は言った。
「…明るいとか、言われた事ないですけど…。クソ真面目、って言われちゃったし。確かに俺、御綺麗なものしか知らなくて…」
―誰にだっけ…?誰に、真面目とか言われたんだった?
そうだろうなぁ、と相手は言った。
「自己犠牲を何とも思っていなかった。兄を敬い、常に愛弟の為に何でも与え、差し出し、庇う事を、当然の事だと思っていた。仲間の面倒を見、周囲の目下の身代わりになる事も厭わず、最後には、無自覚とは言え、主君の身代わりになって、可惜若い命を散らした。心根が清いから、悪いものが目に入らなかったのだろう。さりとて、真っ直ぐ過ぎる。屈託というものが殆ど無かった」
―真っ直ぐ過ぎる、って…其れ、誰に言われたんだっけ。
「物事に然程執着も無かったから、香も苦労した様だな。あの手、此の手で、人間の世の中に執着を持たせて、御前を地に縫い留めようとした。だから、あれも、殆ど力が無い。普通の人間として生まれてくるだろう」
『…瑠璃さんの事は良いの?』
『…今更、何だって、そんな事、蒸し返すんだい』
―…何だっけ、其れ。何時聞いたんだっけ?誰に?
「まぁ、良いではないか。御前は、特別に上がるから、学び漏れが有るのだ。屈託も学べ」
「…執着とか、屈託って言われても…」
「以前の御前には、ほぼ無縁だったかもしれないが。そうだ、うちの息子の体を貸してやろう」
「…体?」
「あれは中空の存在なので、あいつの中に入れば、其の目を通して物が見える。そうすれば、生きていた時に会った事の有る血縁でも見られるぞ。一方的にだが」
次の瞬間、自分そっくりの、白装束の人間が、坂元本家の縁側で、ははは、と明るく笑っているのを見て、治一は仰天した。
―いや、俺、口元に、あんな黒子、無いか。
季節は夏らしい。黒っぽい夏着物をモンペに仕立てたのを着た、色っぽい、垂れ目の女性と、もう一人、控え目な様子だが、治一に似た人物が居て、此方には黒子が無かった。
―絶対見た事有る。…でも、誰だ?
口元に、ごく小さな黒子の有る人物は、明るく言った。
「好い話は無いですが、娘が欲しい気はしますね」
治一が『中』に入らせてもらっている、此方も白装束を纏っているらしい人物は、え?と、驚きの声を上げた。
「月子って名前、本当に付ける気でいらっしゃるのですか?治さん」
相手は、面白いだろう、と言って笑った。
―本当だ。明るい、こいつ。…誰だ?
垂れ目の美女も、楽しそうに言った。地味な引っ詰め髪に結っているのに、何とは無しに色っぽく、総合的に見ると、全く地味とは思われない。
「まぁ、御名前まで、もう考えていらっしゃるのですか?綺麗な御名前ですこと」
―…これまた、絶対会った事有るんだよな、此の女の人。…誰だ?
「いえ、結局決めるのは、神立てですからね。月子、という名前になるとは限りませんけど」
―月子、って、誰だっけ。
「でも、とっても夢の有る御話ですことね。貴男に似たら、きっと鼻の綺麗な御子さんになる事でしょう」
治一も含めた、其の場に居た全員で、思わず、鼻?と聞き返したが、美女は、鼻よ、と明るく言った。
「私、次に生まれる時は、鼻筋が通っていて、ハッキリした眉の顔に生まれたいわ」
三人で、また、思わず、眉?と聞き返した。
美女は、そうよ、とハッキリ言った。
「私、描かないと眉がボンヤリしているのよ。一度で良いから柳眉と言われたかったわ」
―絶対に年上だろうだけど、何だか可愛い事を言う人だな。感じが良い。
治一が『中』に入らせてもらっている人物も、思わず、という様子で笑ってしまった。
美女の方も、笑って、言った。
「ま、辰ちゃん、笑ったわね。ふふふ」
―たつ?
「でも、アッコおばちゃん、別に鼻低くないのに」
―アッコおばちゃん…?
美女は、クスッと笑って、そう?と言った。
「あのね、何と言うか、こう、ツン、とした、高い鼻って思われたかったのよ。今の鼻だったら、高いとも低いとも、何とも印象を持たれないじゃないの」
良いですね、と、口元に黒子の有る人物も、明るく笑って言った。本当に明るい性格らしい、と、治一は思った。
「安幾さん、次は、俺の娘に生まれますか?今生で縁が有ったら、もう一度会えるかもしれないでしょう」
「面白い御話ですこと。でも、其れも素敵ね。私の生家を買って頂いた御縁も有りますもの。そんな事だって、無いとは限りませんわよね」
見えたか、と年が聞いてきた。
「執着を思い出したか?」
治一は、未だ戸惑いながら、分かりません、と言った。
―娘が欲しかったって?名前まで決めて。…月子って、誰だっけ?
「…俺は、父は励起、母は米。執着なぞ。…弟?」
―…あれ?紀一と月子だろ?…俺、一人っ子だし。あ、また…分からなくなってきた。…月子って、誰だっけ?
分からない、と治一は言った。
『…瑠璃さんの事は良いの?』
―誰の声だっけ。何で、そんな事聞くんだろう。
治一が混乱してきたところで、場面が切り替わった。
―あ。薪置き場だ。引っ越した先の御近所さんの家の裏だな。俺も薪割りでもしないと。折角兄上が、俺達を引き取ってくださったのだから。
治一は、其の、他所の家の薪置き場の陰に、人影を見付けた。赤っぽい紬に、褪せてきた藍色の前掛けをして、豊かな髪を結い上げて、白い手拭いを被って隠しているのであろう人物の、小さな、美しい、白い横顔が、フワリと目に入ってきた。
―あ、近所の小町娘だ。八月の十五日の、盆の真ん中くらいに十二になったとか。
年に似ず、凛とした横顔が、無心に読んでいるのは、如何やら、『少女の友』だった。隠れて読んでいる事は明白だったので、治一は、見ない事にした。そんな秘密を知るのは良くない事だと判断したからだ。
違う日も、小町娘は、其処で『少女の友』を読んでいた。如何やら、大事に布に包んで、薪置き場に少女雑誌を隠しているらしいのだ。遠くで、彼女を呼ぶ、幼い声を聞き、小町娘は、ハッとした様子で、雑誌を隠すと、御勝手の方に戻っていった。
―ははぁ、さては、弟妹が多いから、相手をさせられるので、隠れて自分の時間を作ろうとして、あんな所で雑誌を読んでいるものか。
自分にも覚えが有ったので、治一は、頑張れ、と思い、其れに気付いた事を、誰にも言わなかった。
小町娘は、美しい、何処か気品を感じる顔立ちをしており、年よりも大人びて見えた。だから、あんな年でも小町娘と称されたのであろうが、治一には、気の毒に見えた。
―賢そうで美しく、母親の身分は高いのに。父親が成り上がり者だから、随分複雑な立場に立たされているのだろうな。
何より気の毒と思うのは、其の、生い立ちの事情に加えて、弟妹が多いという状況が、小町娘に、様々なものを諦めさせている事だった。自由な時間も、一人だけの居場所も、欲しい物も、全て我慢し、他人に譲ってきたのだろう。其処に、両親に死なれてからというもの、兄が引き取ってくれるまでは、不遇な時期を過ごしてきた自分との共通点を感じて、治一は、見掛ける度に、頑張れ、と思った。
場面が切り替わった。
三年振りくらいに見た小町娘は、美しい、年頃の娘になっていた。提灯の光しかない夜に見掛けた其の姿は、桃色の花模様の入った白地の浴衣に、愛らしい、赤い帯を結んでいたが、暗くても、其の、長く、夜風に煽られる、豊かな美しい髪で、白い頬で、治一には、彼女だと分かった。
治一が見たのは、秘密の逢引きだった。
小町娘は、陸軍の軍服姿の男の首に、縋る様に抱き着いて、唇を重ねると、サッと離れて、走り去った。家族の待つ家に、戻ったのだろう。
―ああ、あの子は、綜が好きだったんだなぁ。
治一は、何だか寂しい様な気分になったが、挨拶以外で口を利いた事も無い存在なのだ。此方が一方的に相手の秘密を知っているという罪悪感も有り、敢えて関わろうとはしてこなかったのだから、相手が、自分ではない男と逢引きをしていても、其れは当たり前だった。
良かったな、と、治一は思った。
あの子は、やっと、此れだけは譲れない、というものに出会ったのだ、と。
周りに秘密にしても、押し通したい事が出来たのだ、と。
今度は我慢しなかったのだ、と。
「諦めが良過ぎる」
「うわ、吃驚した」
目を開けると、年が、自分の顔を覗き込んでいたので、治一はギョッとして飛び退いた。
「…呆れる程の執着の無さだなぁ。思い出しても其の程度か?『頑張れ』と『良かったな』で済ませたのか。此方が驚いたわ」
相手の、困惑した様な言い方に、治一は、そんな事言われても、と言った。
「…そんな、相手と如何にかなろうなんて心算で見てたんじゃないし。初めに見掛けた時は、相手は十二だったし、子供でしょ。そういう心算じゃ、本当に無かった。第一、皆が幸せなら良いでしょう?俺の物なら、何でもあげるから。皆に、笑っててほしかったんだ」
―だから明るかったのかな。何時も、冗談を言ってた気がする。大事な人達に笑っていてほしくて。大事な人達にとっての『世界』が、明るくなかったから。
勉強が足りん、と、相手は、困った様に言った。
「心根が清いのは素晴らしい事だが、やはり、執着と屈託は履修せよ。其の二つを学ばずに上がるのは、やはり問題だ。人間は、そういう風に出来てはいないのだ。裏も表も含めて人間なのだ。自分の裏も見詰めろ。其れに、『皆が幸せ』の『皆』の中に、御前が入っていなかったのも問題だ。御前、残された者が、御前の代わりに得た物で、喜んだと思うのか?御前は、残されて、晴れやかな心持ちで居られたか?三百坪もの土地屋敷と多額の遺産を得て、嬉しかったか?本家当主という立場になって、喜べたか?」
「あ」
―月子は…母さんの名前だ。
『良いんだ。今持っている良いものが此れ以上欠けちゃうくらいなら、新しい良いものなんか要らないんだ』
『持ってるものが一つでも欠けるのは、もう嫌だ』
―誰が…言ってくれたんだっけ。
地に伏して泣く、治一の目から出た涙が、フワフワと浮いて、次々に、暗い中で浮かぶシャボン玉の中に加わっていく。
―大事な人が、悲しんだんだ。何時の事だか、もう思い出せないけど。
愛されていたのだ、と、相手は言った。
「だから、上がるのを延期させられている。如何するや?今、上がるか?其れも可能だぞ。俺が、外国の水の呪いを解いてやろう。上がる事は、御前が得た、正当な褒美なのだから」
治一は、顔を上げて、相手を見た。
「…其れって?今、死ぬって事ですか?」
「傍目には、そうだな。如何するや?選ばせてやろう程に。魂の褒美か、人間として未だ学ぶか」
「じゃ…生きる方を選んだら…如何なるんです?」
其れは感心、と言って、相手は二カッと笑った。
「勤勉。誠に結構。其の場合、俺からの褒美に、『鍵』を贈ろう。さ、如何するや」
「鍵?」
―誰かも、くれた。
『御守り代わりにしろよ』
生きます、と言って治一は泣いた。
「誰かの『持ってるもの』を、欠けさせちゃいけない。其れが誰だか、思い出せないけど。未だ人間でいないと。今の俺は、何の力も持っていないけど」
宜しい、と相手は言った。
「自分で決めたな。執着の学習、魂の学びの始まりだ。褒美を取らそう」
※神立て 子供の名付けの時に行われる行事。神に伺いを立てる、という様な意味。親戚が集まって、札に、子供の名前を書いて籤を作り、それを引いて名前を決める。
『山行かば』で詳しく説明しております。




