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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第四章 殺人
37/68

執着


「よう、久し振りだな、(はる)


 (はる)(いち)が目を開けると、其処は、真っ暗な中に、美しい、シャボン玉の(よう)な物が沢山浮遊している、美しい場所だった。


―見た事が有る(よう)な場所だな。シャボン玉以外、何も無いけど。夜なのかな?


如何(いかが)した、尾羽(おは)(ばり)。我を見忘れたか?」


 声を掛けてくる白装束の人物は、美しい姿をしていた。


 長い、堅そうな黒髪に、白や金の髪が、幾筋か混ざって生えていて、其れが、体を追い越す長さにまで伸びていて、(おうぎ)(よう)に広がっているのが、まるで、大きな山の山裾(やますそ)(よう)に思えた。


 両足首と両手首には、長い鎖が付けられている様子だったが、其れも含めて、大きな山の(よう)に感じる其の人物は、(うつぶ)せに寝込んでいた(はる)(いち)の傍らに、胡坐(あぐら)を掻いて座っていた。


―其処に居たのって、…此の人じゃなかった気がするんだけど。俺も、何時(いつ)の間にか白装束だし。…誰だっけ、誰が、先刻(さっき)まで一緒に居てくれたんだっけ…。


 起き上がって、相手に向き直って胡坐(あぐら)を掻きながら、(はる)(いち)は問うた。


「…何方(どちら)(さま)でしたでしょうか…。確かに、何処かで御見受けした(よう)な御様子ではいらっしゃいますが…」


 無理も無いか、と言って微笑むと、何処かで見た(よう)な其の人物は、片目合図(ウインク)した。


「久し振り過ぎたか。我は(とし)だ。(さい)(せい)木星(もくせい)であり、(りゅう)。穀物そのもの。(たか)(かみ)。山の神の子であり、父でもある」


「山の神の父…」


「御前も、随分様子が変わってしまったなぁ。優れた(つるぎ)であったのに、外国(とつくに)(まじな)いが掛けられて、見る影も無く、ただの人間になってしまったのだな。其の(ほう)、随分、(みず)(まじな)いと相性が良かったらしいな」


 元々、名の多い存在だったが、と、相手が意味の分からない事を言うので、(はる)(いち)は困惑して、言った。


「其の、鎖は?」


「家族の為に、忠義者の頭蓋(とうがい)を外し、命を奪ったので、刑に服している。息子が()()()()ら、一緒に()()()だ。其れまでは、此処に繋ぎ留められている」


()()()


「此処は…」


(ぜろ)地点(ちてん)。祈りの場所だ。彼岸でも此岸でもない場所の端、山裾(やますそ)だ。花畑の方に行きたいか?」


 相手が、(そら)の方を指差すので、(はる)(いち)は、思わず、其方(そちら)を見上げて、花畑?と言った。


 おう、と(とし)は言った。


「青い花畑だ。あそこで一度遊んだら、何度でも会える。()()()には()()()だが。誰ぞ、会いたい者は()らぬか?とは言え、規則(ルール)は有るが。法則と言うべきか?」


規則(ルール)?」


今生(こんじょう)の人間として、生前会った事が有る血縁とは会えん。死んだ後に会える(よう)なら、()()()()()。力の強い存在だろう」


「何故、会えないんですか…?」


(レイヤー)が違うからだ」


 如何(どう)いう事です?と(はる)(いち)が尋ねると、理解出来るか分からぬが、と言いつつも、相手は、説明を試みてくれた。


「生きている人間が見ている世の中はな、様々な要素が重なっているのだ。血縁だったり、祖先が犯した罪であったり、因縁であったり、遺伝であったり、神の加護であったり、運であったり、単なる科学的な偶然であったり。見ていると言いつつ、其れは、生きている人間には可視化されないのだが。其の重なった部分の中で人間は生きている。複雑なものが絡み合って、(そう)になっている次元に人間は居るのだ。肉体と心と魂の存在として。ところが、死ぬと、魂が、肉体の(かせ)から外れる。心も、(まれ)残留(ざんりゅう)思念(しねん)として、地に縛り付けられる事が有るのだが、魂は、もっと自由で、人間の存在する(そう)には留まってくれないのだ。だが、血縁による因縁や加護は残る場合が有る。其処が複雑に、生きている人間を縛り、目を曇らせる。死んだ人間が望めば、生きている血縁を見る事が出来るが、生きている人間には、幾つかの例外を除いて、其の魂を見る事は出来ない仕組みになっている。だから()()()()()()()()()だろう?生まれ変わる準備で忙しい魂も多いしな。(えにし)というのも面白くてな。夫婦(めおと)が、次は親子で生まれるか、兄弟(えおと)で生まれるか、友として生まれるか。輪廻(りんね)円環(えんかん)の中で、同じ集団(グループ)から抜け出せずに回る。だから、御互い生まれ変わっていて、人間の状態でなら会えるがな。他所(よそ)の宗教で言うなら、(そで)()()うも()(しょう)(えん)、というやつだ。何にでも、規則や法則は有る。水は低きに流れるし、地に落ちた物は、勝手に浮かびはしない。『世界』というのは、何でも有りでは無いのだ。法則で構成されていて、其の法則が変わる時に滅び、次の世界が生まれるのだ」


 難しい事を言いますね、と(はる)(いち)は言った。

「じゃあ…。誰に会えるんですかね。俺、家族が(ほとん)ど亡くなっちゃって…」


「まぁ、此の、(とし)くらいかもしれんな。(えにし)だけは有ったが(ゆえ)


 そう言って、相手はケラケラ笑った。


 息子さんは?と(はる)(いち)は問うた。

「えっと…。息子さんと一緒に()()()んですか?」


「そうだ。二度と生まれて来ん。魂の褒美だ」


「其れが()()()で、褒美?」と和


「左様。輪廻(りんね)円環(えんかん)から解き放たれるのだ。魂の修行も旅も終わる。喜びも楽しみも無い代わりに、苦しみも悲しみも無い。永遠(とわ)安寧(あんねい)だ」


「はぁ…」


 流石に『理解出来るか分からぬが』と前置きされるだけあって、分かった様な分からない様な話だ、と思いながら、治一(はるいち)は、えっと、と言った。


「息子さんは、今、何方(どちら)に?」


(くい)として、山の神の(もと)で、(いん)(よう)を繋ぎ止める中心の役割を(にな)っている。()(のぼ)る存在の名前が与えられて、中空(ちゅうくう)の存在として()る。其の(くい)が外れれば、我を(いまし)める(くさり)()けて、一緒に()()()だ」


 御前も()()()か?と、相手は問うてきた。


「忠義者の御前が、主君の身代わりに命を終えた故、褒美に()()()予定であったものが、御前を思う者の力で、今も人間として縫い留められている」


 うちの(かぐ)が済まんな、と相手は謝ってきた。


(かみ)雌雄(しゆう)など本来関係無いが、御前が(かぐ)を切り殺したなどとは隠喩で、子を沢山(たくさん)()したからには似合いの夫婦(めおと)であったものを、(えにし)(ふか)く、兄弟(えおと)として生まれたのに、(かぐ)が御前の死を嘆いて、外国(とつくに)(みず)(まじな)いを使い、御前が()()()のを妨げたのだ。もう一度会おうとして」


 俺は死んだんですか、と(はる)(いち)が尋ねると、そうだ、と相手は言った。


「誰かの命を助ける為に身代わりに死んだとあらば、魂としての褒美は最上級のものが与えられ、(こと)に御前は、心根が清かったが為に、()()()予定だったものを、(かぐ)が悲しんでな。無理も無い」


 ()()()()()()()()、と言って、相手は、人差し指の指先で、(はる)(いち)蟀谷(こめかみ)に、そっと触れてきた。


―パァン。


 蟀谷(こめかみ)に、何か熱い物と衝撃を感じた(はる)(いち)は、(まばた)きをした。


「…今のは?」


輪廻(りんね)に邪魔なので、()()()()()()()()()()()()だ。覚えていれば、恐ろしくて、二度と笑う事など出来ぬであろう。恩情(おんじょう)だな」


 御前は明るくて、よく笑う奴だった、と、相手は言った。


 はぁ、と(はる)(いち)は言った。


「…明るいとか、言われた事ないですけど…。クソ真面目、って言われちゃったし。確かに俺、御綺麗なものしか知らなくて…」


―誰にだっけ…?誰に、真面目とか言われたんだった?


 そうだろうなぁ、と相手は言った。


「自己犠牲を何とも思っていなかった。兄を(うやま)い、常に(あい)(てい)の為に何でも与え、差し出し、(かば)う事を、当然の事だと思っていた。仲間の面倒を見、周囲の目下の身代わりになる事も(いと)わず、最後には、無自覚とは言え、主君の身代わりになって、可惜(あたら)若い命を散らした。心根が清いから、悪いものが目に入らなかったのだろう。さりとて、真っ直ぐ過ぎる。屈託(くったく)というものが(ほとん)ど無かった」


―真っ直ぐ過ぎる、って…其れ、誰に言われたんだっけ。


「物事に然程(さほど)執着(しゅうちゃく)も無かったから、(かぐ)も苦労した(よう)だな。あの手、此の手で、人間の世の中に執着を持たせて、御前を地に縫い留めようとした。だから、あれも、(ほとん)ど力が無い。普通の人間として生まれてくるだろう」


『…瑠璃(るり)さんの事は良いの?』

『…今更、何だって、そんな事、蒸し返すんだい』


―…何だっけ、其れ。何時(いつ)聞いたんだっけ?誰に?


「まぁ、()いではないか。御前は、特別に()()()から、学び漏れが有るのだ。屈託(くったく)も学べ」


「…執着(しゅうちゃく)とか、屈託(くったく)って言われても…」


「以前の御前には、ほぼ無縁だったかもしれないが。そうだ、うちの息子の体を貸してやろう」


「…体?」


「あれは中空(ちゅうくう)の存在なので、あいつの中に入れば、其の目を通して物が見える。そうすれば、()()()()()()()()()()()()()()()()でも見られるぞ。一方的にだが」




 次の瞬間、自分そっくりの、白装束の人間が、坂元本家の縁側で、ははは、と明るく笑っているのを見て、(はる)(いち)仰天(ぎょうてん)した。


―いや、俺、口元に、あんな黒子(ほくろ)、無いか。


 季節は夏らしい。黒っぽい夏着物をモンペに仕立てたのを着た、色っぽい、垂れ目の女性と、もう一人、控え目な様子だが、(はる)(いち)に似た人物が居て、此方(こちら)には黒子(ほくろ)が無かった。


―絶対見た事有る。…でも、誰だ?


 口元に、ごく小さな黒子(ほくろ)の有る人物は、明るく言った。

()い話は無いですが、娘が欲しい気はしますね」


 (はる)(いち)が『中』に入らせてもらっている、此方(こちら)も白装束を(まと)っているらしい人物は、え?と、驚きの声を上げた。


月子(つきこ)って名前、本当に付ける気でいらっしゃるのですか?(はる)さん」


 相手は、面白いだろう、と言って笑った。


―本当だ。明るい、こいつ。…誰だ?


 垂れ目の美女も、楽しそうに言った。地味な()()(がみ)に結っているのに、何とは無しに色っぽく、総合的に見ると、全く地味とは思われない。


「まぁ、御名前まで、もう考えていらっしゃるのですか?綺麗な御名前ですこと」


―…これまた、絶対会った事有るんだよな、此の女の人。…誰だ?


「いえ、結局決めるのは、神立て(カンタテ)ですからね。月子(つきこ)、という名前になるとは限りませんけど」


月子(つきこ)、って、誰だっけ。


「でも、とっても夢の有る御話ですことね。貴男(あなた)に似たら、きっと鼻の綺麗な御子さんになる事でしょう」


 (はる)(いち)も含めた、其の場に居た全員で、思わず、鼻?と聞き返したが、美女は、鼻よ、と明るく言った。


「私、次に生まれる時は、鼻筋が通っていて、ハッキリした眉の顔に生まれたいわ」


 三人で、また、思わず、眉?と聞き返した。


 美女は、そうよ、とハッキリ言った。


「私、描かないと眉がボンヤリしているのよ。一度で良いから柳眉(りゅうび)と言われたかったわ」


―絶対に年上だろうだけど、何だか可愛い事を言う人だな。感じが良い。


 (はる)(いち)が『中』に入らせてもらっている人物も、思わず、という様子で笑ってしまった。


 美女の(ほう)も、笑って、言った。

「ま、(たっ)ちゃん、笑ったわね。ふふふ」


―たつ?


「でも、アッコおばちゃん、別に鼻低くないのに」


―アッコおばちゃん…?


 美女は、クスッと笑って、そう?と言った。


「あのね、何と言うか、こう、ツン、とした、高い鼻って思われたかったのよ。今の鼻だったら、高いとも低いとも、何とも印象を持たれないじゃないの」


 良いですね、と、口元に黒子(ほくろ)の有る人物も、明るく笑って言った。本当に明るい性格らしい、と、(はる)(いち)は思った。


安幾(あき)さん、次は、俺の娘に生まれますか?今生(こんじょう)(えん)が有ったら、もう一度会えるかもしれないでしょう」


「面白い御話ですこと。でも、其れも素敵ね。私の生家(せいか)を買って頂いた御縁も有りますもの。そんな事だって、無いとは限りませんわよね」




 見えたか、と(とし)が聞いてきた。

()()を思い出したか?」


 (はる)(いち)は、()だ戸惑いながら、分かりません、と言った。


―娘が欲しかったって?名前まで決めて。…月子(つきこ)って、誰だっけ?


「…俺は、父は励起(れいき)、母は(よね)執着(しゅうちゃく)なぞ。…(おとうと)?」


―…あれ?紀一(きいち)月子(つきこ)だろ?…俺、一人っ子だし。あ、また…分からなくなってきた。…月子(つきこ)って、誰だっけ?


 分からない、と(はる)(いち)は言った。


『…瑠璃(るり)さんの事は良いの?』


―誰の声だっけ。何で、そんな事聞くんだろう。




 (はる)(いち)が混乱してきたところで、場面が切り替わった。


―あ。(たきぎ)置き場だ。引っ越した先の御近所さんの家の裏だな。俺も薪割(まきわ)りでもしないと。折角(せっかく)兄上が、俺達を引き取ってくださったのだから。


 (はる)(いち)は、()の、他所の家の薪置き場の陰に、人影を見付けた。赤っぽい(つむぎ)に、()せてきた藍色の前掛けをして、豊かな髪を結い上げて、白い手拭いを被って隠しているのであろう人物の、小さな、美しい、白い横顔が、フワリと目に入ってきた。


―あ、近所の小町娘(こまちむすめ)だ。八月の十五日の、盆の真ん中くらいに十二になったとか。


 年に似ず、凛とした横顔が、無心に読んでいるのは、如何(どう)やら、『少女の友』だった。隠れて読んでいる事は明白だったので、(はる)(いち)は、見ない事にした。そんな秘密を知るのは良くない事だと判断したからだ。




 違う日も、小町娘は、其処で『少女の友』を読んでいた。如何(どう)やら、大事に布に(くる)んで、薪置き場に少女雑誌を隠しているらしいのだ。遠くで、彼女を呼ぶ、幼い声を聞き、小町娘は、ハッとした様子で、雑誌を隠すと、御勝手の方に戻っていった。


―ははぁ、さては、弟妹(ていまい)が多いから、相手をさせられるので、隠れて自分の時間を作ろうとして、あんな所で雑誌を読んでいるものか。


 自分にも覚えが有ったので、(はる)(いち)は、頑張れ、と思い、其れに気付いた事を、誰にも言わなかった。




 小町娘は、美しい、何処か気品を感じる顔立ちをしており、年よりも大人びて見えた。だから、あんな年でも小町娘と称されたのであろうが、(はる)(いち)には、気の毒に見えた。


―賢そうで美しく、母親の身分は高いのに。父親が成り上がり者だから、随分複雑な立場に立たされているのだろうな。


 何より気の毒と思うのは、其の、生い立ちの事情に加えて、弟妹(ていまい)が多いという状況が、小町娘に、様々なものを諦めさせている事だった。自由な時間も、一人だけの居場所も、欲しい物も、全て我慢し、他人に譲ってきたのだろう。其処に、両親(ふたおや)に死なれてからというもの、兄が引き取ってくれるまでは、不遇な時期を過ごしてきた自分との共通点を感じて、(はる)(いち)は、見掛ける度に、頑張れ、と思った。




 場面が切り替わった。


 三年振りくらいに見た小町娘は、美しい、年頃の娘になっていた。提灯の光しかない夜に見掛けた其の姿は、桃色の花模様の入った白地の浴衣に、愛らしい、赤い帯を結んでいたが、暗くても、其の、長く、夜風に煽られる、豊かな美しい髪で、白い頬で、(はる)(いち)には、彼女だと分かった。


 (はる)(いち)が見たのは、秘密の逢引きだった。


 小町娘は、陸軍の軍服姿の男の首に、(すが)(よう)に抱き着いて、唇を重ねると、サッと離れて、走り去った。家族の待つ家に、戻ったのだろう。


―ああ、あの子は、(そう)が好きだったんだなぁ。


 (はる)(いち)は、何だか寂しい(よう)な気分になったが、挨拶以外で口を利いた事も無い存在なのだ。此方(こちら)が一方的に相手の秘密を知っているという罪悪感も有り、敢えて関わろうとはしてこなかったのだから、相手が、自分ではない男と逢引きをしていても、其れは当たり前だった。


 良かったな、と、(はる)(いち)は思った。


 あの子は、やっと、此れだけは譲れない、というものに出会ったのだ、と。

 周りに秘密にしても、押し通したい事が出来たのだ、と。


 今度は我慢しなかったのだ、と。




「諦めが良過ぎる」

「うわ、吃驚(びっくり)した」


 目を開けると、(とし)が、自分の顔を覗き込んでいたので、(はる)(いち)はギョッとして飛び退いた。


「…呆れる程の執着(しゅうちゃく)の無さだなぁ。思い出しても其の程度か?『頑張れ』と『良かったな』で済ませたのか。此方(こちら)が驚いたわ」


 相手の、困惑した(よう)な言い方に、(はる)(いち)は、そんな事言われても、と言った。


「…そんな、相手と如何(どう)にかなろうなんて心算(つもり)で見てたんじゃないし。初めに見掛けた時は、相手は十二だったし、子供でしょ。そういう心算(つもり)じゃ、本当に無かった。第一、皆が幸せなら良いでしょう?俺の物なら、何でもあげるから。皆に、笑っててほしかったんだ」


―だから明るかったのかな。何時(いつ)も、冗談を言ってた気がする。大事な人達に笑っていてほしくて。大事な人達にとっての『世界』が、明るくなかったから。


 勉強が足りん、と、相手は、困った(よう)に言った。


「心根が清いのは素晴らしい事だが、やはり、執着と屈託は履修せよ。其の二つを学ばずに()()()のは、やはり問題だ。人間は、そういう風に出来てはいないのだ。裏も表も含めて人間なのだ。自分の裏も見詰めろ。其れに、『皆が幸せ』の『皆』の中に、御前が入っていなかったのも問題だ。御前、残された者が、御前の代わりに得た物で、喜んだと思うのか?御前は、残されて、晴れやかな心持ちで居られたか?三百坪もの土地屋敷と多額の遺産を得て、嬉しかったか?本家当主という立場になって、喜べたか?」


「あ」


月子(つきこ)は…母さんの名前だ。


『良いんだ。今持っている良いものが此れ以上欠けちゃうくらいなら、新しい良いものなんか要らないんだ』

『持ってるものが一つでも欠けるのは、もう嫌だ』


―誰が…言ってくれたんだっけ。


 地に伏して泣く、(はる)(いち)の目から出た涙が、フワフワと浮いて、次々に、暗い中で浮かぶシャボン玉の中に加わっていく。


―大事な人が、悲しんだんだ。何時(いつ)の事だか、もう思い出せないけど。


 愛されていたのだ、と、相手は言った。


「だから、()()()のを延期させられている。如何(いかが)するや?今、()()()か?其れも可能だぞ。俺が、(とつ)(くに)(みず)(まじな)いを解いてやろう。()()()事は、御前が得た、正当な褒美なのだから」


 (はる)(いち)は、顔を上げて、相手を見た。

「…其れって?今、死ぬって事ですか?」


「傍目には、そうだな。如何(いかが)するや?選ばせてやろう程に。魂の褒美か、人間として()だ学ぶか」


「じゃ…生きる方を選んだら…如何(どう)なるんです?」


 其れは感心、と言って、相手は二カッと笑った。

「勤勉。誠に結構。其の場合、俺からの褒美に、『鍵』を贈ろう。さ、如何(いかが)するや」


「鍵?」


―誰かも、くれた。


『御守り代わりにしろよ』


 生きます、と言って(はる)(いち)は泣いた。


()()の『持ってるもの』を、欠けさせちゃいけない。其れが誰だか、思い出せないけど。()だ人間でいないと。今の俺は、何の力も持っていないけど」


 宜しい、と相手は言った。


()()()()()()な。執着の学習、魂の学びの始まりだ。褒美を取らそう」


神立て(カンタテ) 子供の名付けの時に行われる行事。神に伺いを立てる、という様な意味。親戚が集まって、札に、子供の名前を書いて籤を作り、それを引いて名前を決める。

『山行かば』で詳しく説明しております。

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