決心
自動販売機で冷たい飲み物を買って飲んだ後、連れだって歩きながらマンションに戻る道すがら、気付けば親友は、流石に肌寒くなったのか、何時の間にか、パーカーをキチンと着直していた。
良かったじゃん、と岐顕は言った。
「和辛子とか財布に入れなさそうな子でさー。財布自体与えられてなさそうなのはアレだけど」
「…其の話、未だ引っ張んの?!」
「でもさー、財布に和辛子入れる子か入れない子かで言ったら、入れない子の方が好みなんでしょ?」
「そうだけど、そうじゃない。其れは好みの問題じゃない。価値観の問題なんだ。驚きはしたけど、本人が財布に和辛子を入れたい事に関しては批判しない。入れたい人は入れたら良いんだ、自分の財布なんだから。其れ自体が悪いとは、俺は言わない。小銭でビニールが傷付いて、財布の中に和辛子が漏れたらと想像すると、叫び出したい気持ちにはなるけど、其れは俺の価値観だから。其の人が財布に其れを入れたいんだ、という事は尊重したい。俺は其れを財布に入れたくないんだ、という事も尊重してほしいけど」
「価値観…。ああ、じゃあ、財布に和辛子は入れてても良い子だったら好きだし、入れてなくても性格悪かったら嫌い、みたいな?」
「ん…お、あ…。出来れば財布に調味料を入れないという価値観を持っている人の方が望ましいけども…。凄く良い人だったら、…和辛子を財布に入れていても…可」
めっちゃ悩むじゃん、と言って、岐顕が噴き出した。
質問自体が可変しい、と治一は言った。
「そりゃ、財布に和辛子入れてない殺人鬼と、財布に和辛子入れてる女子高生だったら、選ぶのは後者じゃん。でも、普通、其処を基準にはしないじゃん。其の二択にも普通はならないとは思うけど。第一、どんな人が好きかって聞かれて、『財布に和辛子を入れる子です』とはならなくない?」
まーねー、と言って、岐顕はケラケラ笑った。
「やっぱ、治と居ると面白ーい。元気出る」
そう言われると、何と反応して良いか迷って、黙ってしまった治一だったが、岐顕は、良かったと思うよ、と、再び言った。
「早佐ちゃん、太郎兄ちゃんや奏兄ちゃんとの話も有ったみたいなんだけど、相性が良くなかったからさぁ。…まー、令一が、結婚に納得するかは分かんないけど。そっか、早佐ちゃん、治と…」
相性?と、治一が問うと、そうそう、と岐顕が言った。
「早佐ちゃんとは年が離れ過ぎてるのも有るけど、太郎兄ちゃんは露骨に早佐ちゃんを子供扱いするのが癇に障るみたいだし、奏兄ちゃんは雑過ぎて気に入らないみたいだし、賢おじちゃんのとこの息子さん達とは合わなかったっぽいんだよね」
「んー。二人とも、もう結婚しちゃってるし、俺が言うのもアレだけど。…ま、雑、かぁ。でも、俺には優しい兄ちゃん達だけどなぁ。其処まで相性悪い?」
治一の疑問に、そーぉなんだけどぉ、と岐顕は言った。
「凄いよ、奏兄。令一には、『ッス』と『アザッス』と『サーセン』しか言わないもん」
「長に…?」
幾ら何でも雑過ぎないかと治一が言うと、其れがさぁ、と岐顕は言った。
「令一が機嫌を損ねたら、『サーセン、俺バカッスから分かりません』って言うんだ。そしたら令一が真に受けて、気の毒そ~に、そうか馬鹿なのか、ならば仕方が無いな、って言って、全部の事が丸く収まるんだよね、毎回」
「…処世術だとしても、本当に雑に対応して其れなんだとしても、スゲェ…」
「まー、馬鹿だって自称する人間の話を真に受ける方も馬鹿だけどねー。国家試験受かってんだからさ」
「…歯科医だしね」
「で、其の遣り取りを、早佐ちゃんが、冷たーい目で見てる。毎回、此処までがセット。相性も印象も良くないよ多分」
治一は、目に浮かぶようだと思ったが、黙っていた。
それにさー、と岐顕が言った。
「俺等にも酷い渾名付けてたじゃん、奏兄。悪気は無いだろうし、腹も立たなかったけど、人によってはカチンと来るかもよ?」
「…そうだった」
一時期、奏顕に、二人は『共依存の双子』という渾名を付けられていたのだった。単に『仲が良い』と言いたいのだろうが、其の、表現と言おうか心遣いと言おうか、微妙に何かの配慮が足りない感じを、治一の語彙力を総動員して一言で言うと、『雑』になってしまう。
まぁ、結婚出来て良かったね、と治一は言った。
「優しいし、条件だけならイケメン歯医者なんだから…。何か、アレでしょ?水配りの後、ドレス着て写真撮るみたいな事、遣ったんでしょ?」
「まーねー、本家は水配りを披露宴代わりにしちゃうし、大体の家は、水配りの後、両家で軽く食事とかして披露宴代わりにしちゃうから、ドレス着るの自体珍しいよね」
奏顕は従姉の巴にも、其の雑さ故に、『見ているだけでIQが下がる』と罵られていたが、其れでも仲が良い彼等は、今も、歯科医と其のスタッフとして上手く遣っているし、奏顕が優しい事には間違いが無いので、伴侶とも上手く行ってほしいものだと、治一も心から願っている。
そうそう、と岐顕が言った。
「…奏兄が御嫁さんと結婚する前、水配りの相手が決まったタイミングで、両家で話し合いが有ったらしいんだけど」
「あー、清水分家の歩さん?うんうん。水配りの前に、結納みたいな事したってやつね。偶に聞くけど」
「奏兄、『どんな美人も口の中を見れば大体興醒めなんで、俺は、浮気はしないですよ』って言って、場が凍ったらしいよ」
「…『浮気しない』のところだけ言えば良かったのに!」
配慮が雑、と治一が言うと、うーん、と岐顕が言った。
「純兄ちゃんが、『熱を出した時に見る夢みたいだった』って言ってた」
「…悪夢って事?」
顕悟の息子の顕純は、レントゲン技師である。
最近では清水分家の人間も医療技術専門学校等に通ってくれているので、何時かは医療関係者も、実方家の人間だけで回さなくてもよくなるであろうが、彼もまた、身内経営の病院を支える中堅スタッフの一員だった。
治一には、あの、口数少ない職人気質の顕純が其処まで言うとは余程の事、と思われた。
岐顕は、言い難そうに続けた。
「味賀姉は庇ってたけどね。『あいつはあれで、良い奴だから』って」
「…珍しー。一時期、奏兄の事、『成績の良い馬鹿』って呼んでたじゃん」
「其れは…。味賀姉が奏兄と同じ時期にソトの高校に通ってる時、何か食べようよって、学校帰りに天文館で待ち合わせしてたら、永田ビルの前で『殺し屋参上』って言ってポーズ取ってるところを写真に撮ってくれって、一眼レフ渡してきたかららしいよ。高校の制服着てるのに、赤っ恥掻いたわ、って」
「おっ…。そーれは…。え?撮ってあげたのかな、味賀姉」
「…撮ったってさ。早く立ち去りたかったかららしいけど」
「まぁ…。仲は良いんだよね、結局。でも、だからこそ、表立って庇うのは珍しいな」
其れがさ、と、言い難そうに岐顕は言った。
「其の食事会で、相手方から言われたんだって。…歩さん、子宮全摘してるんだって」
「…そうなの?」
「だから、断ってくれても構わない、って言われたらしい。ほら、長が勝手に決めた組み合わせだから…」
「…え、でも、断ったら…。歩さんが周りから『如何して断られたのか』って詮索される事になるし、決めた長の顔も潰れるよね?」
そーだよー、と、小声で岐顕は言った。
「令一が、そういう事情まで知って組み合わせたかは分かんないけどさ。長が決めたら、ほぼ決定なんだから。状況的にも断れないし、奏兄優しいから、そんな理由で断るわけないじゃん。『構いません』っつってさ。ドレスも着せてあげて。夫婦仲だって良いし。今じゃ、奥さんの方が絶対、奏兄の事好きだもんね」
心がイケメンだよ、と言う岐顕に、其れって、と、治一は、小声で聞いた。
「当人同士が良いなら良いけど…。跡取りが必要な家なのは分かり切ってるよね?…そんな組み合わせ…奏兄にも歩さんにも気の毒じゃん」
「いや…。だからさ、俺は、そういうのが水配りの問題点だと思うわけ。自分は其の婚姻統制で結婚しておいて何だけど、好きな人と自由に結婚出来た方が良いじゃん。もう平成なんだからさ。だからさ、早佐ちゃんも、自分で選んだ人と一緒になれる方が絶対良いと思う。…令一が認めるか如何かは別として」
「…やっぱ、長に結婚の許しを得るのは厳しいか…。賢おじちゃんも、長は早佐に気が有るって言ってたけど」
電柱の前で立ち止まると、岐顕は、んー、と言った。
「あいつが早佐ちゃんにベタ惚れなのは一目瞭然だからねぇ。如何いう心算で水配りをさせて早佐ちゃんを嫁に出すのか、未だに分からんもん。俺、ずっと、あいつが自分の御嫁さんにしちゃうのかと思ってたからさ。其れか、病弱を理由にして、一生閉じ込めておくのか」
「…そんなになんだ。考えた事も無かったな…。長が妹を、とか」
「表面上は良い長を演じてるからね、あいつ。病院関係じゃない信者さんは、良い兄だなぁ、くらいの認識だろうから、そんなに早佐ちゃんに執着してるとは思ってもみないだろうな、ってのは分かる」
「ま、自分の留守中に、自分の家で妹と密通してる男なんて、別に、妹に気が無くても気に入らないだろうけど…」
「治は、令一の事、如何思ってんの?」
「え?」
「家族を殺されたかもしんないんでしょ?証拠が無いとはいえ。治自身は、あいつを如何思ってんの?」
「如何…って」
正直言うと、と、治一は前置きして言った。
「分からない…。好きか嫌いかで言うと…。立場が微妙だった坂元家の事は、放っておいてくれてたから、変に絡んでくる奴等よりは、相対的に、『好き』寄りの方だったかな…。俺に無関心でいてくれる事に対しては、寛容だとさえ思ってた」
「んー、ま、表立っては家を取り潰されなかったんだって考えると、寛容に見えはするか。目に見えて意地悪とかされたわけじゃなかったんだろうし、其れには同感だな」
治、絡まれ易いからねぇ、と、親友は気の毒そうに言った。
「そうなんだよ…。慇懃無礼に突っかかられると、何で俺を放っておいてくれないんだ、って思うもんだから…。長は、俺の事、岐の金魚の糞、くらいに思って、スルーしてくれてるのかなって思ってたから、其の点は気が楽だった。真面に話した事すら無いし…」
実際は、証拠は無いとは言え、自身以外の一族郎党を殺されたという話が本当なのであれば、直接絡んでくる一輝達の方が、余程善良な存在だったと言えるのだが。
「証拠が無いせいも有るんだけど、家族が殺されたって聞いても、上手く理解出来ない部分も有って…。実感が無い、と言うか、…如何考えて良いのか。早佐を、あの儘にしておくのは良くない、という事は分かったけど」
そっか、と岐顕は言った。
「で?如何したい?如何するの?早佐ちゃんの事。令一が結婚を認めてくれなかったら」
「ああ、其れは、もう決めた」
「え?」
「あいつを連れて逃げる。瀬原集落から」
「…本気なの?」
「長の許しは得られなさそうだから、無許可で連れ出す。もう決めた」
何で今そんな事言うの、と岐顕は困った様に言った。
「俺、立場的には、聞かなかった事にしなきゃいけないじゃん。そんな大事な事…」
良いんだ、と治一は言った。
「今日、色々知って…。長の事とか、あいつが置かれてる状況とか。だから、あそこに置いてたらいけないんだ、って事が、よく分かったから。状況が如何でも、連れ出す。だから、明日、帰るよ、瀬原集落に」
真っ直ぐ過ぎるよ、と、岐顕は取り成す様に言った。
「自分だって殺されるかもしれないのに。もう少し、自分の事も考えなよ」
良いんだ、と、再び治一は言った。
「其のくらいの覚悟が無いと、したらいけない事なんだよ、本当は。密通も、出奔も。俺は、やっぱり、あいつの状況を知ったんなら、其の儘にしておけない」
「クソ真面目。潔癖症。…そういう事だったら協力する」
止めとけって、と、治一は言った。
「実方本家後継まで巻き込めない」
「…もー。抑、何で密通なんて…。何が切っ掛けなの?此処何年も、殆ど喋った事も無かった筈じゃなかった?二人、仲良くなんてなかったし。第一、らしくないじゃん。何で長の妹と?水配りに参加してるなら、夜這いは御法度。いや、昼でも夜でも駄目なもんは駄目。其れは知ってて参加してる筈じゃん。ヤバいって分かり切ってる事、態々遣る性格じゃないのに。今月、一体何が有ったの?」
―まさか、手帳に大した事を『書いてない』事で突っ込まれて発覚するとはなぁ…。
「…ちょっと…。偶々、相談を受けて。…早佐に。其れで、話してるうちに…そういう事になって」
「何の相談?」
治一は答えられなかった。
岐顕は、ムッとした顔をした。
「此処まで来たら話してよ。あの、部屋で寝込まされてる子が、態々、何の相談だよ」
「…理佐は殺されたんだって」
其れだけ言って、治一は俯いた。
親友の顔など見られなかった。
突然、耳が痛いくらいの静寂が訪れた。
治一は、心臓が痛いくらいの動悸がした。
稍あって、ふぅん、という、冷たい声がした。
「其れで?」
「…怖いから此処を出たい、って。姉は兄に殺された筈だって言うんだ。首吊りなのに踏み台も無いって」
突然、分かった、という、キッパリした言い方をしてから、岐顕は、治一の手に、何かを握らせてきた。
治一は、俯いた儘、自身の手の中を見詰めた。
「鍵?」
「俺のマンションの合鍵。御守り代わりに持ってろ。百道浜のだけじゃなくて、俺の持ち物件は、好きに使って良いから」
「…いや、そんな。巻き込みたくないんだって。其れに、こんな、高級マンションの鍵」
「使わなくても良いから。手帳貰った御礼。海にブン投げて悪かったから、此れ、あげる。御守り代わりにしろよ」
「御守り?」
「此れで、此の鍵は、『理佐にあげられなかった理佐の分の鍵』じゃなくて、『治にあげた合鍵』になったんだ」
心臓の動悸が治まってきた治一が顔を上げると、優しく微笑む親友の顔が有った。
「マンションも、『理佐と住めなかったマンション』じゃなくて、『治が遊びに来てくれたマンション』になったんだ。巻き込むなんて言わないでよ。早佐ちゃんだって、義理だけど妹だし」
俺、傍に居るから、と岐顕は言った。
「ね。一緒に、明日、瀬原集落に帰ろ。何も変わらないかもしんないけど、早佐ちゃんの傍に帰ろ。一緒に。俺だって、失いたくないもの、有るんだよ。親友だって、義妹だって、俺には家族同然なんだ」
持ってるものが一つでも欠けるのは、もう嫌だ、という相手の言葉に、治一は、顔を覆って泣いた。
※永田ビル 永田シロアリの社屋、永田シロアリビル。シロアリ駆除の会社だが、シャッターに『殺し屋参上』と書かれており、長い間、待ち合わせスポットになっていた。ビルは再開発の為に二〇一八年に解体され、待ち合わせ場所としては存在しなくなってしまったが、二〇二〇年に移転し、再オープン。




