仕来り
泣き止んで、疲れた気分でソファーから起き上がろうとしている治一に向かって、岐顕は、此れあげるよ、と言って、冷蔵庫から勝手にスポーツドリンクの入ったペットボトルを出して来て、手渡してくれた。
勝手に冷蔵庫を開けられた家主の向子は、再び、小さな声で、あたしが買ったんだけど、と言ったが、言葉程気にしている風は無かった。
此の、我が子同然に育てた大甥が、自身の所有する物件で、勝手知ったる他人の家、という振舞いをするのも、何時もの事なのだろう。
治一も、有り難く頂く事にした。
「…じゃ、あたし、見送るから、着替えて来るわ」
「あー、俺も、車を、駐車場から、マンションの前まで出して来るわ。治、ちょっと待ってて」
「そうだな、俺も、電話でタクシー呼ぶわ」
「あ、黒服に送らせるわよ?賢兄」
500mlペットボトルのスポーツドリンクを飲み干す治一の傍で、そんな事を言い合っていた三人は、揃って、あ、と言った。
「黒服か…。そうか」
そう言って、渋面を作りながら腕組みする賢顕に向かって、うっかりしてたわ、と、困った様に向子も言った。岐顕も、うーわ、しまった、と言った。
そして、三人は揃って、床に正座すると、ソファーに座っている治一に向かって、丁寧に一礼した。
治一も、あ、と言った。
―此れが有ったかー。忘れてた。嫌だなぁ…。
岐顕が、恭しく言った。
「此度、坂元本家当主、坂元治様におかれましては、我が実方分家の別宅に御越しいただき、誠に、恐悦至極に存じます。つきましては、御身を此の場まで運ばせていただきました、我が家の配下に、御言葉を賜れませんでしょうか」
毎度の事ながら、こういう時は声まで凛々しいのには恐れ入る、と思いながら、治一は重々しく返答した。
「…相分かった。して、彼の者は何処に?」
「外に控えさせております故、此方に召し寄せても宜しゅう御座いましょうか」
「…良きに計らえ。其方の考える者を此方に召し寄せるが良い。さすれば、言葉の一つも掛けよう程に」
「承りました」
もう止めようよぉ、と、治一は泣き声で言った。
「こんなの、もう茶番だよぉ。平成何年だと思ってんのぉ?そりゃ、現本家当主の俺が、此の中で一番身分が高いかもしんないけど、此の中で一番年下じゃん。もう嫌だよぉ、未成年なのに、大人の中で、一番身分が高いの…。気不味いのなんのって」
そう、まさかの一族郎党の死により、実方本家後継の岐顕より、集落の中での序列が上になってしまった治一は、十五歳から、本来は、此の様な扱いと受け答えをする仕来りなのだ。
―中三までは年上の岐の方が、序列が上だったのにぃ。何なんだよ此れ、もー。
もう嫌だぁ、と言う治一に対し、三人は、申し訳なさそうに、仕来りだから、と言った。
ごめんなー、と賢顕は言った。
「一番格上の長を除いたら、もう、御前と同格の人間なんて、里には他の四家の当主の、実方本家当主の顕彦さんと、清水本家当主の藤寿さんと、吉野本家当主の大輝さんくらいしか居ねぇからよ…。本家当主は丁重に扱うのが決まりだからさ、形だけでも。諦めてくれ」
「や、形だけでしかないよね?もう、本当に、形骸化も良いとこじゃん。うちなんて、元々、家格は有るけど、本家然とした体裁は無いもん。使用人も伝統的に雇わないし。俺なんか、一人暮らしで、ゴミ出しも自分で遣ってるし、自分で買い物に行って、作り置きに嵩増し料理作って、冷凍して解凍して食ってんだよ?」
「まぁねー、一つは、其れでも妬まれてんだよね、治」
其れもまた事実だったので、治一は、親友の言葉に、口を噤んだ。
隠れ里の形を保とうという事で、祈祷師等の外向きの仕事や進学等の理由で集落の外に出ない限りは、瀬原集落の人間が買い物したり散髪したり出来る場所は、集落の近くに在る、昔から契約している店舗のみ、と、基本的に決まっている。
しかし、実方医院と坂元本家は、立地的に、元から集落の外に在るので、昔から、其処に住まう者達は、好きな様に、近隣のスーパーやコンビニで買い物が出来るのだ。
―何だったっけな。小学校の頃とかでも、新発売だった、ねるねるねるね食ってただけで、超嫌味言われたもんな。ハイカラだとか何とか。ハイカラもクソも有るかよって話なんだが。まぁー、周りは丸ぼうろとか食ってたんから、今考えてみりゃ、妬まれない様に、見えない所で食えよってもんだけど。…ホントに、小さい頃の俺、アホだわ。
「え、てかさー、嵩増しなの?よく買ってんのって、茸と卵と…?葉物野菜か?小松菜とか、よく食べてる?」
本当に形式的にしか治一に敬語を使わない親友、実方本家後継の一人息子が、首を捻りながら、治一の家の冷蔵庫の中身を、過去の献立から類推してきたので、治一は白状した。
「…安いんだよ、茸。卵も。後は、貰い物の野菜とか」
弱冠二十歳にしてマンションを所有し、黄色いフェアレディZを乗り回している自営業の親友は、衝撃を受けた顔をして、言った。
「そんなっ。てっきり好物なんだとばっかり思ってたから、茸。何種類も纏めて買って冷凍して、マメに自分で冷凍茸ミックス作ってたから、そんなに好きなんだ、と思ってたのに、節約料理だったのっ?肉、肉だ、肉食おう、治。今からでも焼いてあげるっ」
―…しまったー。知られたら絶対心配されるから、言わないでおいたんだったー。
「や、良いって。一年間も食事作って食わせてくれた親友に、流石に其処まで甘えらんねぇよ。金が無い訳じゃないんだ。本家と名乗る程の体裁を保つのに金を使ってないだけなんだ。ほら、良いんだって。旨いよ茸」
本家の娘の理佐を嫁に取れると有らば、無理して人を雇って、屋敷にも手を入れて、本家に相応しい構えを作っただろうが、家族にも死なれて、理佐とも結婚出来なかった当時の治一に、そんな気力と器量が有ろう筈も無く、ただただ、固定資産税等の税金の取り立てを恐れて、節約と貯金に走ったのだった。
―いやもう、固定資産税は諦めたけど、稼げば稼いだだけ、次の年は、其の稼ぎを見込んだ税金取られるって、可変しいだろうよ、此の国。呼吸するだけで金取られてる気分になってたからな、一時期。
「あー、荒稼ぎなさってましたねぇ、そう言えば。…呆れた倹約家だよぉ…」
褒めているのか貶しているのか分からない声音で、そう言う岐顕に、治一は、良いんだって、と、もう一度言った。
「宗さんや奏兄ちゃんにも時々野菜貰ってるし、充分良くしてもらってるからさ。食ってくだけなら充分だから」
親友は、え?と言った。
「野菜?うちの畑の?」
「そうそう」
もう、治一の知っている頃より縮小され、顕彦の趣味の家庭菜園程度の規模らしいが、実方家は、本家も分家も、未だに畑を所有していて、採れ過ぎた茄子や大根等を、よく御裾分けしてくれるのだった。
「家の前に、背負子とか笊とか置いてあって。御座の上とかに。因みに、手紙とか無くても、泥が控えめなのが宗さんとか太郎兄ちゃんからの御裾分け野菜で、泥だらけのが奏兄ちゃんからの。直ぐ分かる」
向子は、泥を取らない方が良い野菜も有るしね、と言ったが、賢顕は、申し訳なさそうに、あいつ雑だなー、と言った。
治一は、御世話になってますよ、と、感謝を込めて言った。
「奏兄ちゃん、時々、色々くれますからね」
岐顕は、知らなかった、と、驚いた様に言った。
「何?うちの父親、そんな、傘こ地蔵みたいな愛情表現してたの?」
「いや、優しいよ?俺の又従兄は…。此の前も、缶入りの、良ーい胡麻油を頂いて。…玄関先に銀色の一斗缶見付けた時は、放火されんのかと思ってギョッとしたけど。まぁー、風味が違うよね。揚げ物に使うのが勿体無くて、片栗粉を塗した榎茸を揚げ焼きにしたけど、塩掛けただけなのに、もう、旨いのなんの」
そうだった、と岐顕は言った。
「俺より親父の方が、治と血が近いんだった…。ややこしいなぁ、もー。親戚多過ぎ」
「身分差の方が此の際、絶対ややこしいだろ…」
そんな事を言い合っていると、正座で足痺れる前に着替えて来るわ、と言って、これまた、形式的にしか治一に敬語を使わない実方本家の娘は、立ち上がった。
そうだったそうだった、と言って、岐顕も、治一の飲み終えたペットボトルを取り上げてくれながら、立ち上がった。
「車回して来るんだった。あー、黒服、態々召し寄せなくてもいっか。俺が車回してきた後で、呼びに行かせる奴が該当者だから、外でサラッと、何か言ってあげれば?御礼とか」
「…仕来りは如何したんだよ。…ま、いっか。…分かった。待ってる」
向子と岐顕が去って、賢顕と二人になった治一は、声を潜めて、言った。
「賢おじちゃん。暗殺の方法は、多分、暗示。術による暗示で、相手の心臓を止める。其れだけ。其れが、戦時中の人体実験で考案された事だったんだ。でも、其れを使ってる人が居る。おじちゃんが言いたいのは、そういう事だったんでしょ?」
賢顕は、ハッとした顔をした。
「…御前、何でそんな事。…ああ、そういう事か。其れに気付いて、戦時中の人体実験を完成させた奴が居るんだな…?其れが令一か…」
「おじちゃん。暗示だから、其れが暗示だって分ってれば、暗殺方法を知っていれば殺されない。気を付けて、おじちゃん。御医者さんだからって、うちの家族みたいに殺されないとは限らないんだから。此の事は、必要な時に、信用出来る人にだけ、話して」
「…治、本当に、何で、そんな事知ってんだ?」
「戦時中に、此の暗殺方法を考案したのが、俺の…清水のじいちゃんだったから。じいちゃん、亡くなる前に、俺にだけ教えてくれたんだ。別に心臓じゃなくたっていいんだ。何かの臓器不全にでも出来れば、証拠も無く人が殺せる、って」
「…そうだったのか…。いやでも、相当の技量が要るぞ、暗示で臓器を止めるなんて芸当は。…化け物か…。成程、暗殺稼業で重宝されてるんだろうとは思ってたが、如何遣って証拠も無く、と。いや…。そうか。分かってんだな、あいつも」
だから首吊りだったんだ、と賢顕は言った。
「あいつにしか出来ないから…集落内関係者で証拠が無く、心不全で人が死んだら、令一が疑われる構造に、使えば使う程、ドンドンなっていくのは目に見えてるもんな、此の先」
そう、と治一は言った。
「心不全が死因の人が周りに溢れたら不味いんだよ。だから、自殺に見せ掛けたり、薬を使ったりして、他の死因を作ってるんだ」
「そうだろうな。首吊りには…。見せしめの意味も有るんだろうけど。貴ちゃん達が保親さんに殺された時みたいに。『逆らうな』ってな。…いいか?坂元本家当主」
賢顕は、坂元本家当主、と、ハッキリ言った。
治一は、賢顕の顔を見た。
賢顕は続ける。
「御礼に、俺が、辰兄の養子になった時に教えてもらった事を教える。坂元家の悲願は、里の改革と、苗の神教の解体。実方家の悲願は、里からの脱出」
「…解体と…脱出?」
「そう。此の二つの家は、里が始まった頃からの盟友だ」
「里の改革と解体、脱出を、望んでた…?うちの家と、実方家が?」
そうだよ、と賢顕は言った。
「だから坂元家は、里に居続ける為の制度、『水配り』に組み込まれる事を望まなかった。だから入らなかったのさ」
「…そんな…」
―そうとも知らず、参加しちまって、俺…。
しかし、考えてみれば確かに、『水配り』とは、瀬原集落の中だけで結婚しても血が濃くならないように、長が結婚相手の組み合わせを考える制度なのだ。里を解体して、外部とも自由に交流出来るようになれば、抑不要なのである。
そうなんだよ、と賢顕は言った。
「そう、里自体の解体を望んでいたから、『水配り』には入らない。だから一つは、令一に煙たがれたのさ。其れを、里で責任ある立場の医師が言っている、という事自体、目障りなのさ。賛同者が出たら厄介だ」
「じゃあ…。うちの家族は、医師だったからこそ、消された?」
賢顕は、だろうな、と、悔しそうに言った。
「盟友の実方家も気持ちとしては同じだったが、宗が信念を曲げて『水配り』に入ってくれて、しかも長の家と縁を持ってくれた御蔭で、里での立場が守られたのさ。辰兄も向子も俺も参加していないのに、あいつが俺達の為に…。宗顕だって、本当は坂元家を裏切るような立場になるから、『水配り』に参加したくはなかった筈だが、仕方なかったのさ。父親の貴ちゃんが殺されてんだからな。…でも、だからって、坂元さん達が俺達を責めた事なんて、一度も無かったよ。本当に、此の二つの家は、盟友なんだ」
「…いや、一族郎党事故死させられるより、ずっと良い。俺だって、実方家の人達を責めようなんて思わない」
治一が、そう言った時、着替えを終えたらしい向子が戻ってきたので、賢顕は、じゃあな、と言って、玄関に向かった。
化粧気の無い向子は、珍しく、垂髪に、黒っぽい紬を着ていたので、治一の目には、安幾の様にも、理佐の様にも見え、一瞬、相手の姿が、目の中で何重にもブレて、像を結ばなかった。
そうだわ、と向子は言った。
「明日は午後から雨らしいわね。傘持って来てるの?治。鹿児島市も明日は、朝から雨らしいけど」
「そうなんですか。傘は有るんですけど」
すると急に、ごめんね、と言って、向子が泣いたので、治一はギョッとした。
「ごめんね、あの子を、宜しくね。あたしじゃ、甘やかしちゃって。…元気にしてあげられないのよ」
―…分かる気がする。甘やかすとか、そういう事じゃなくて、此の姿を見て、理佐を思い出さないのは無理だから。
あたしね、と向子は言った。
「あの時、理佐を一人にしちゃって。あたしが居たら…」
そんなの、と、治一は言った。
「皆、そう思ってますから。別に、そんな事」
違うの、と、向子は言った。
「あの時、あたし、御父様と瑛子姉と一緒に、冴姉の御見舞いに行っていたのよ、龍も連れて」
あたし、と言って、向子が続きを言おうとした其の時、インターフォンが鳴った。
黒服が来たのだろう。
行って、言葉を掛けてあげて、と、向子が言うので、治一は其れに従った。
※500mlサイズペットボトル 1985年に麒麟麦酒(現キリンビバレッジ)が1.5lペットボトル入り飲料を販売以降、大型清涼飲料の容器の主流が、硝子瓶からペットボトルに。但し、大量廃棄を避ける為、ペットボトルは、敢えて、様々なサイズを生産する事が自主規制されていた。作中の舞台、1996年には、リサイクルして再資源として利用できるという考え方の基、自主規制の緩和で500ミリリットル以下の小型サイズも解禁され、翌1997年には、ペットボトルが容器包装リサイクル法に適用された。
調べて思い出しましたが、一時期、ペットボトルを可燃ゴミで出していました。法律が変わったんですね。
※丸ぼうろ 佐賀県佐賀市を代表する銘菓の一つ。「丸芳露」「丸房露」などとも記載される。大分県中津市や薩摩地方の名産品でもある。ボーロ (bolo) とは、ポルトガル語においてはケーキを主とする菓子の総称であり、特定の菓子の名前ではないが、日本語においては小麦粉、砂糖、鶏卵、牛乳を材料とした南蛮焼き菓子の事を指す。小児用の菓子としての衛生ボーロ(馬鈴薯澱粉を主原料とする澱粉質食品)の「ボーロ」も此処から来ている。
『山行かば』で出てきた行商人の人達(「担げ売り」の転訛)の子孫が、戦後も、瀬原集落向けの商店を遣っている、という設定にしておりますが、モデルにしている場所は、未だに食べ物屋さんが多く、御墓参りの帰りに寄りがちです。『声聞くときぞ』で瀬原集落に来てくれていた散髪屋さんの子孫も、其処で未だ散髪屋さんをやっている、という設定です。




