檻
賢顕曰く、治一の曽祖父、坂元栄医師は、平成五年のある日、遂に、瀬原集落を出る事を決意したのだそうである。
息子の了は交通事故に見せ掛けて殺されたかも知れず、次女の逸枝は転落死させられ、其のせいで長女の成子を出奔させなければならなくなる等、散々な扱いを受けても、聡明な坂元本家の人々が耐えてきた理由は一つ、栄の妻、初の心残りの事だった。
実方本家の娘であり、苗の神教の最後の巫女だった彼女の心残りとは、同じく最後の巫女であり、清水本家に嫁いだ妹、仲だった。
仲は、初にとっては、年の離れた可愛い妹で、其れを置いては瀬原集落を離れる事が出来ないと考えている程の絆の強い姉妹だった。其れが、平成五年の八月十七日に、亡くなった。
初は、念願だった、瀬原集落出奔を決意した。
そして折しも8.6水害の後の事で、瀬原集落も、下方限という低地の地域の、小川に近い場所では家屋浸水し、数ヶ月は復旧作業で天手古舞だった事も手伝って、栄が向子に依頼した物件探しも、周囲には発覚しなかった。
何故、移住場所が長崎市だったかというと、坂元分家で最初に、正式に里を出て、熊本県の益城に移住していた人物、坂元直が、当時は未だ存命で、互いに連絡を取る事が出来、其の孫が長崎県の琴海町に住んでおり、長崎大学病院で医師をしていたからだった。
其の、直氏の孫という人物の伝手で、治一の父、紀医師は、長崎市内のクリニックで職を得られる予定になっており、栄夫婦は、向子がオーナーである八階建て物件の最上階に住み、夕や月子と共に、近辺の女子大生向けのアパートの雇われ管理人になる予定だったのだという。
其れは、計画の漏洩を恐れて、夕や月子にすら、一切知らされず、家族旅行を装っての出立、及び、交通事故死に見せ掛けての出奔という形で決行され、無論、たった一人の曾孫、治一にも知らされなかった。
―そうだったのか。
人生初の旅行に気乗りしない夕を、栄が、珍しく、無理に説き伏せて連れて行ったのは、当時の治一から見ても、多少不自然に思えたのだった。そして、今考えると、同じく人生初の旅行だったのにも関わらず、夕より遥かに高齢の初は、夫の提案した温泉旅行に、大乗り気だったのだ。当時、治一の母の月子も、其の、何の不安も無さそうな様子に、少し不思議そうではあった。
「あの…。俺は…?」
顔の皮膚が痺れる程に血の気が引き、青褪めながらも、やっとの事で質問した治一に対して、賢顕は、気の毒そうに言った。
「御前は旅行に行きたがらなかったし、受験生を無理に家族旅行に連れて行くのも不自然だから、置いていく事になったんだ。其れで、孤児になった御前を、向子が自分の不動産会社の社員にして、長崎支店勤務にして、再会させる手筈になってたんだよ」
「あ…。だから向子さん、家族の葬儀の後、俺を、実方不動産に誘ってくださったんですか…?」
治一の疑問に、申し訳なさそうに、そういうわけじゃないけど、と向子は言った。
「…考えてはいたの、交通事故死に見せ掛けて里を出る事には失敗したけど、遠縁でも、親戚が残っているなら、治を、長崎支店勤務にしてあげて、如何にか、瀬原集落から出してあげられないかって。でも、ショックでいらしたのかしら、栄叔父様が亡くなられてから、直ぐ、其の、坂元直さんという方も亡くなられてしまって。オマケに、交通事故ではなくて、殺害されたかもしれないという事であれば、直さんの子孫に御迷惑を掛けてしまうかもしれないから、話自体を無かった事にしなければならなくて。…元々、栄叔父様からの御依頼で、何か起きたら、此方から、彼方への連絡を絶つ約束になっていたの。…正式にとは言え、瀬原集落から出た人間の子孫の所在が里の人間に知られると、迷惑が掛かるから…。…ごめんなさい。…今からでも、直さんの御孫さんに、連絡を取る…?」
「…いえ」
血縁が生きていたのは嬉しいけど、と治一は、考え考え言った。
「…迷惑を掛けるのは確実だろうから…。遠縁が長崎に居るって話は、聞かなかった事にします。顔も見た事が無い様な遠縁の俺が、急に現れたところで…」
せめて直さんが御存命ならね、と、悲しそうに向子は言った。
「栄叔父様よりも御高齢でいらしたから…」
「…はぁ。其れより…。俺の家族は、本当に殺されたんですか…?」
多分な、と賢顕が言った。
「観光バスの手配をしたのが令一だったんだよ。其れに、滅多に無いだろ、脱輪なんて。運転手も一緒に死んじまったから、今となっては分からん部分も多いが、点検に出したばっかりの車両だった事は確かだったらしい。…ま、そういう事だな」
「…何でですか…?うちの家族が、何か殺される様な事…」
理由は分からんが、と前置きしながら、賢顕は言った。
「如何も…。令一と栄さん、揉めてたみたいなんだ」
「…揉めてた?長と?」
「…いや、本当に、よく分からんのだが。理佐と早佐は、本当は養女だって栄さんが言ったら、令一が激高してな」
「…え?…いや、周知の話だと思ってたんですが?何か、其れで揉める様な事に…?」
すまん、と賢顕は言った。
「俺には、本当に、よく分からんのだが。…何か、言ったらいけない事だったらしい。令一にとっては。…あいつは、早佐に惚れ込んでるからな。まぁ、以来、表面上は何時も通りだったが、険悪だったよ、あの二人。其れ以外に理由が思い当たらん。よく旅行を許したな、と思うくらい剣呑な空気だったのが、令一の手配した車両で事故死だろ?…ま、証拠は無いんだが」
治一は次第に頭痛がしてきたが、堪えて、質問した。
「…え…っと…?…すみません。妹でない方が良くないですか?その…結婚とか?したいなら」
御手上げだよ、と賢顕は言った。
「令一の頭の中は、本当に分からないんだが。直近で起きた何かの心当たりが其れしか無いんだよ。其れに、早佐に対する執着も異常だ。ほら、理佐が嫁に行ってから、早佐を、理佐が居た部屋に移しちまったじゃないか。あの、竹林が良くないのに。住まわせてるだけで虐待みたいなもんだぜ。多分、知っててやってんだろ、令一は」
「竹林が良くない?」
「早佐はイネ科アレルギーなんだよ」
「…アレルギー…。…あ!…アレルギー性の喘息…?」
「そうだよ。昔は、そんなもん分からなかったが、竹林の近くで早佐を遊ばせると絶対に発作を起こすのに気付いた由一が、早佐を離れに住まわせていたんだ。最近の検査では、何のアレルギーか詳細に分かるからな。あの子は今のところ食品アレルギーは無いが、ハウスダストとスギ花粉と動物の毛と、イネ科アレルギーだ。イネ科の植物なんて珍しくも無いが、竹林じゃ、如何管理したって雑草の花粉が飛ぶからな」
「…信じられない…。妹が喘息を出すって分かってて、あそこで寝起きさせてるって言うんですか?」
「妹を、万に一つでも、逃がさない為だろ。妹の周りに竹林が在れば、簡易的な檻になるんだからな。全く、学校にも遣らないかと思ったら。…本当に、親が死んだら好き勝手に…。異常だよ。これまた情けない話だが、イネ科アレルギーなんてもんが分かる様になったのも比較的最近だったから、俺達が気付いた時には手遅れだったわけだ。あいつ、まんまと、一番気に入ってる妹を、手近な檻に囲ってやがんだ」
「檻!?竹林が?まさか…」
―…いや、成功してたんだ!竹林の檻に妹を閉じ込める事に。だって、実際に発作は起こしてたじゃないか。俺が発見しなかったら…。あいつ、竹林で動けなくなって、あの儘、長い時間、誰にも発見されなかった可能性だって…。
あの時も、早佐が喘息さえ起こさなければ、崖さえ登り切れたら、車道に出られる筈だったのだ。早佐の体力で其れが可能だったかは分からないが、竹林が無かった場合の方が、早佐が、あの場所を出られる確率は上がっていたわけだ。
「御丁寧に、令一の依頼で、厨じゃ、偶に竹水を料理に使って遣ってるらしいぜ。意図的だろうよ」
「竹水って…。体に良いって言う、アレですか?切った竹から採れる」
そりゃ御前、と賢顕は言った。
「竹もイネ科だからな。竹水自体は体に良いんだろうし、別に、竹水飲んだくらいじゃアレルギー反応は出ないと思うが。要は花粉症だからな。御呪いみたいなもんだろうが、あいつ、よっぽど早佐を、あの場所に寝かし付けておきたいんだな」
聞きながら、震えが止まらなくなってしまった治一に向かって、今日はもう休むか?と、賢顕が、優しく言った。
そうね、と向子も言った。
「じゃあ、あそこで一緒に寝る?あの衝立の奥がベッドなの」
向子は、そう言って、高価そうな透かし彫りの施された、木製の衝立の方を指差した。透かし彫りの隙間に、沢山、美しい青い造花が差し込まれていて、壁紙の白さが、其の造花の可憐さと精巧さを引き立てていた。
「え?…いや…?」
自身以外の一族郎党が殺された話と、令一の異常性の話を聞いた直後に、何故美女と花に囲まれて同じベッドで寝る提案をされているのか分からなくなった治一は、思わず、瞬きが多くなってしまった。
賢顕が、慌てた様に言った。
「おいおいおいおい。ちょっと待ってやってくれ。流石に同じベッドは勘弁してやってくれ」
向子は、キョトン、として、そう?と言った。
「小さい時は偶に、岐と一緒に三人で寝てたじゃないの。本を読んで寝かし付けてあげて」
「いや…。はぁ…」
確かに其れは事実だった。因みに、本のチョイスが『銀河鉄道の夜』等、名作だが短くもない物が多かったので、続きが気になって眠り難かった事まで、よく覚えている。余談だが、岐顕の方が先に寝てしまっていた。
治一が、其れ以上、何とも返答しかねて、頭痛や震えも忘れて、ポカーンとしていると、いやいやいや、と、再び、賢顕が、慌てて言った。
「御前の頭の中じゃ、岐も、こいつも、四、五歳の儘なんだろうがな。来月十八なんだよ、此の子は」
でも、と、向子は、尚も分かっていない様子で続けた。
「御客様をソファーで寝かせるのも申し訳ないわよ。あたしがソファーで寝ないんだったら、寝かせる所が床しかないんだもの。全面カーペット敷きだから、床で寝るのも、其れ程は辛くないでしょうけど。壁をぶち抜かなきゃ、2LDKだったのにね、ごめんなさい」
待ってくれ、と賢顕が言った。
「同衾なんてサービスするくらいなら冷遇して床ででも寝せてやってくれよ。可哀想だろ?」
賢顕が、日本語としては間違っているが、内容としては正当な事を言ってくれたので、治一は、内心同意しながら、未だ瞬きを続けていた。
其れによ、と賢顕は続けた。
「実方本家の独身の娘と、坂元本家の独身の当主が同じベッドで寝たって噂でも広まったら如何するんだよ。…いや、一晩二人で同じマンションに居るだけでも不味い。黒服に連れて来てもらったんなら、何処で漏れるか分からん。俺は責任もって、こいつを百道浜まで送り届けるぞ。御前、自分は五十歳で、こいつが四歳くらいの心算だろうがなぁ。世間は、そう見ちゃくれねぇんだよ。マンションから出て来た若い燕とか言われたら」
「…あれ?向子さん、今年五十歳でしたっけ…?」
目の前の美女の年齢が思い出せなくなっていた治一は、愈々訳が分からなくなって、目を瞬かせながら、確認する様に、そう言った。
―何か…また頭痛くなってきた。えっと、岐が生まれた時、此の人が三十歳で?岐が、今、二十歳だから?…えーっと。可変しいな。三十足す二十は計算出来るんだけど、此の人の年が計算出来ない…。え?五十?…五十なの?
問われた向子の方は、明るく、そうよぉ、と言った。
「終戦の頃に母の御腹に居たらしいの。二月で五十になったわ」
そんな事を言い合っていたら、インターフォンが鳴った。
ガチャガチャと音がして、合鍵を持っているらしい岐顕が入ってきた。
「サキー、こんばんわー」
「こんばんは、岐」
やって来た親友は、髪は幾分短くなっていたが、服は昼間と同じだった。
「もー、皆、全然来ないんだもん。龍寝ちゃったじゃん。車で迎えに来ちゃった。治、倒れたって?大丈夫?」
親友の姿を見て安心したのか、思わず泣いてしまった治一を見て、岐顕が慌てて近寄ってきた。
「え?ホントに大丈夫?治」
よし、と賢顕が言った。
「親友同士の間には入れねぇやな。御前達、慰め合え」
岐顕は、え?と言った。
分かってんだろ、と賢顕は言った。
「御前、治に構ってると元気が出てる。治も、一人で色々抱え込むのは止めな。俺はタクシーで百道浜に行くから、二人でドライブでもしながら帰ってこい。ほら、通りもん食え。遣るから」
「ちょっと、賢兄」
あたしが買ったんだけど、と言う向子を他所に、あ、通りもんだ、と、甘党の親友は、少し嬉しそうに言った。
「三年くらい前に新発売したんだよね、其れ」
そうそう、と賢顕は言った。
「此れ遣るから。御前、龍と離れても平気な様に、練習しろ。治と一緒なら大丈夫だろ」
ほら、と言う賢顕に向かって、少し拗ねた様な顔を見せてから、岐顕は、うん、と言った。
※琴海町 長崎県西彼杵郡だったが、二〇〇六年に長崎市に編入。




