暗殺
白い寝台に腰掛けながら、最後の夜だね、と、自分に声を掛けて来る、自分によく似た姿の人間を見て、治一は、ああ、夢だ、と思った。
二十歳くらいの青年に見えるのだが、よく知っている筈の相手と思うのに、名前が全く思い出せないのだ。
其の、黒っぽい、自身と似た浴衣を着ている人物に向かって、治一は偉そうに、最後なんて言うな、と命じた。
「ま、病院の個室に寝台二つ入れてもらって匿ってもらう夜は、此れが最後になるかもしれんがな。多少狭いが、快適だったよ。夏でも割合、涼しいし」
其れはそうだけど、と、治一に似ているのに、豪く繊細そうな様子で、相手は答えた。
何だい、と、此れまた偉そうに、完全に目上の態度で、治一は相手に向かって言った。
「人間、何時何時死ぬかも分からんのだ。次の瞬間上から物が落ちて来るか、百年後に畳の上で大往生しているか、俺が先か御前が先か。そんな事は誰にも分からん。明日に備えて寝る以外に、出来る事も無い」
言いながら、自分でも、其れが強がりである事は、治一にも分かっていた。
相手は悲しそうに、兄上、と言った。
「…死ぬなんて言わないで」
治一は、優しい声で、大丈夫だ、と言って、相手の寝台に座り、顎を掴んで、自分の方に顔を向かせた。
「右の口元に小さな黒子が有る方が陶冶。無い方が薫陶。俺達、何時だって、そっくりで、こんな黒子でも無きゃ、見分けが付かないくらいだろう?何時だって一緒だ。離れ離れになったって、鏡を見れば御互いが居る」
あー、でも、黒子は要らないなぁ、と言って、治一は、努めて明るく笑ってみせた。
目の前の相手を安心させたいのだ。
「薫の顔の方が良いな。黒子が無い方が良い。同じ顔なのに優しそうだ」
薫と呼ばれた相手は、困った様に微笑みながら、そう?と言った。
「…瑠璃さんの事は良いの?」
治一は驚いて、相手の顎から手を離した。
「…今更、何だって、そんな事、蒸し返すんだい」
「最後の夜だから」
相手は、小さい声ながら、キッパリと、そう言った。
「身分も何も関係無く話が出来るのも、此処だけだから。此処を出たら俺達、元の場所に帰らなくちゃ。元の自分に戻らなきゃ。そうしたら、長の後継の婚約者を如何思ってるか、なんて話、二度と、いや、一生出来ない」
良いも何も無いだろ、と治一は言った。
「木戸が合わん。俺は分家とはいえ、上方限の人間だ。兄上が瑛子を他所に嫁がせて、俺に家を継がせてくださる御心算であれば、俺は、行く行くは、清水分家の当主になる。そうしたら瀬原衆の娘なんか、周りに反対されて御終いだろ。どの道、嫁には出来ん。俺は水配りにも参加していないし」
でも、と、相手は食い下がった。
「瑠璃さんは上方限で育った娘さんで、母親も吉野分家の人だ。荻平さんも、出自は兎も角、立場としては、長の補佐役で、そんなに身分が低いと考えない人も居るだろうし。其処まで不釣り合いではなかったと俺は思う。婚姻制度や身分の話じゃない。兄上は、其れで良かったの?」
薫、と、説得する様な声音で、治一は言った。
「瑠璃さんは、綜が好きだったんだよ」
相手は、困った顔をして、冬の月の光でも宿しているのかと思う様な、繊細な、美しい瞳を此方に向けてきた。
大丈夫だ、と、もう一度、優しい声で、治一は言った。
「此処を出たら元通りだ。楽しかった此処を出るのは不安だが、其れでも、此処を出たら、そんな事は考えなくて済む。俺は、御前にも財産を残してやりたいんだよ。俺だけ分家を継がせてもらって、御前だけ冷や飯食いの末っ子には、しておきたくないんだ。俺は、祈祷師でも畑でも何でも遣って、稼いで、御前の事も食わせてやる。絶対だ。此処を出たら、きっと、暫くは、食う事だけを考えなけりゃならない。此の前も言ったが、嫁取りなんて、本当に、十年くらい先の話だろうよ。そん時ぁ坂元本家の成ちゃんも、二十歳くらいの、年頃だろ。ありゃ美人になる。御前も、そう思うだろ」
治一が、半分冗談で、兎に角、目の前の相手を笑わせたくて、そう言うと、相手は悲しい目をした儘、微笑んでくれた。
「…坂元家と更に御縁が出来るのは悪くないね。俺より十歳年下のあの子が義姉って思うと面白いけど」
そうだろ、と言って、治一は微笑んだ。
「俺は、紘も気に入ってるんだ。坂元衆は、吉野衆より馬が合う気がするんだよなぁ。あいつ、東京に住んでるらしいじゃないか。どんな所に住んでいるんだか、一度見てみたいもんだな」
―坂元衆…?東京に住んでる坂元衆の知り合いが居るって?
しかし、紘、という名前を聞いて、折角微笑んでくれた相手は俯いてしまった。
「薫?」
「兄上、俺…。聞いちゃったんだ」
「何をだよ」
「誠吉さんと紘…あと、綜と紘が、井戸のところで話してるの」
「…何だい、御前らしくも無い、盗み聞きかい?」
「そんな心算じゃなかったんだけど。行水の後、ちょっと一人になりたくて、気配を殺して垣根の影に隠れていたら、長い話が始まって、出るに出られなくなっちゃって…」
「…何を聞いたんだい?」
「紘って、綜の従弟なんだって」
治一は、驚きのあまり、目を瞬かせて黙ってしまった。
相手は、言い難そうに、尚も言った。
「今の長は、坂元本家前々当主の、操殿の長男だったかもしれないんだ。捨て子って事にして、長の後継にしたんじゃないかって…」
馬鹿な事を、と言おうとした治一だったが、上手く言葉にならなかった。
目の前の相手は、自分に黙っている事は有っても、嘘は言わない事を、よく知っていたからだ。
黙ってしまった治一に向かって、相手は躊躇いがちに続けた。
「だから…今の長って、本当は、坂元本家当主の資格を持っていた方で…。誠吉さんと紘も、長と同じ家の男系の血筋なんだ。誠吉さんと長は又従兄弟なんだって…。そうすると…。長の子孫の男系で継がせたいなら…。綜と周に何かあったら、紘にも、長になる資格が…」
「何を言い出すんだ、薫」
「兄上は如何思う?」
「如何って…」
「長と紘、似てなかった?」
「…其れは、少し思ったけど。二人で話しているところなんか、綜や周より似てるなって。顔と言うよりは骨格かな、誠吉さんとより、若しかしたら…似てる気もした…けど」
まさかな、と言って打ち消そうとする治一に向かって、相手は首を振ってみせた。
「…本当に甥なんだと思う。大体、可変しいよ。こんな狭い場所に、あんな綺麗な人が二人も。…お富さんの写真、見たでしょう?長は、お富さんの兄だったと考えると、却って納得出来る気がするんだ」
「…上方限に美形が多いのなんざ、珍しい話でも何でも無いだろ。今更言う様な話じゃない。下方限は何故か、そうでもないけど。荻平さんや八次さんくらいかな、男前は」
「いや、だから、こんな辺鄙な、狭い場所に、綺麗な人が集まっているの自体が可変しいよ。木戸が合わんとか、其の考え方にも理由が」
其処まで言うと、相手は、困った顔をして、黙ってしまった。薫?と、治一は声を掛けた。
相手は珍しく、返事をしなかった。
治一は、相手を抱き締めて、自分の頬を相手の頬に、くっ付けた。
物心ついた時から、こうやって不安を掻き消し合ってきたのだ。
御互いに一番近い者は御互いしか居らず、両親が死んだ時も、戦時下の不安も、こうして二人で乗り越えてきたのだ。年の離れた兄が甘えさせてくれているというだけで、孤児と変わらない境遇を、其れでも、二人で生きてきたのだ。
「言いたくないなら言わなくったって構わないからな。大丈夫だ。何にも、怖い事なんか無いからな」
相手は脱力した様に、治一の肩に、自身の頭を凭せ掛け、甘えた声で言った。
「怖い」
何が怖い?と、努めて優しい声で、治一は言った。
証拠も無く他人を殺せる事、と、相手は掠れた声で言った。
そうだったな、と言って、治一は泣きながら、相手を抱き締めている腕の力を強くした。
「一人で抱えなくていいんだ。俺にも其の方法を教えて、楽になっちまえ」
「兄上を人殺しの方法を知っている人にしたくないんだ。兄上は、暗殺法なんて知っても、使わないって、俺は知ってるけど…」
嫌なんだ、と言う、小さな声を聞いて、治一は更に泣いた。
「如何して一緒に居たのに、御前にだけ、そんな事が分かっちまったんだ。もっと俺が、御前みたいに慎重な性格だったら…」
目の前の相手の、優しさと繊細さを熟知している治一は、相手の不幸に涙が止まらなかった。
相手の不幸の全ての身代わりになってやりたいのに、ただ姿が似ているというだけで、相手と自分は同じでは無く、自身には引き継ぐべき財産が用意されているのに、相手には其れが無く、自身には、相手の様な洞察力も思慮深さも欠けていて、相手の不幸に対して、一番に気付いてやる事も出来ないのだ。
ただ先に生まれただけ、ただ相手より図太い性格なだけの、そんな些細な差が産んだ不公平が、其の時の治一の心を掻き乱していた。
いいんだ、と、優しい心根の相手は言った。
「何時か、決心が付いたら、兄上の身を守る為に教えるかもしれない。…遣り方が分かっていれば、其れで殺される事は無いから」
「殺される?」
「考案された事は、何時か誰かが実用化に踏み出すよ。爆弾だって毒瓦斯だってそうだった。『苗の神教』の術が暗示だって分れば、此の方法に辿り着く人間は必ず出て来る。其の時、理屈を知っていれば、こんな事では殺されないから」
自身より深い洞察力を持つ相手に、何も言えず、治一は黙って、相手を抱き締めていた。
稍あって、もう寝よう、と言って、相手は、治一から離れた。
「構わないのに」
「兄上?」
「俺の物なんか、何を遣ったって構わないのに」
しかし、治一の持つ乏しい物の何を与えても、目の前の人間の不安一つ、払拭して遣れないのだ。土地屋敷一つとっても、未だ相続もしていないのだから、今は自身の所有物ではない。
相手は、窓からの月明かりに照らされていた。
降っていた筈の小雨は、何時の間にか止んでいたらしかった。七夕は過ぎていたから、暦の上では秋で、其の幽き月桂は、治一の大事な相手を、闇夜の空に浮かぶ雲の様に照らしていた。濃い、殆ど黒に近い藍色の空に浮かぶ、夜の雲を見ると、此の弟を思い出す。
空を見るのが、好きだ。
―弟…。
要らないよ、と相手は言った。
「此の儘で良いんだ」
良くないだろ、と、治一は言った。
幼馴染の葉と、此の人物が所帯を持つには、冷や飯食いの儘ではいけないのだ。家か財産の何方かが必要なのだから。奥床しい、目の前の相手は、何時も、何が欲しい、と、強く主張しない。だから、其の淡い物思いに気付いているのは自分だけだと治一は思っている。
華奢で色白な女性が好みの、自分よりは比較的大人しいが、自分に負けず劣らず強情な相手は、再び首を振った。
「良いんだ。今持っている良いものが此れ以上欠けちゃうくらいなら、新しい良いものなんか要らないんだ」
相手は、珍しく、一緒に寝ようと言ってきた。狭いな、と言って無理に笑い合いながら、寝台二つをくっ付けて、其の日は眠った。
「辰?何してるんだ」
場面が切り替わった。やはり夢らしい。
―あれ?岐?
岐顕に酷似した、治一くらいの年の、白装束姿の人物が、庭の隅で新聞紙を広げて、鋏で髪を切っているのに出くわしたので、治一は驚いた。
相手も驚いている。
「あ、治さん。髪が伸びてしまって。結局、理容器が出て来ないんですよ」
ああ、と言いながら、治一は、相手の手元に、目が釘付けになった。
相手は、はにかみながらも、爽やかな笑みを向けて、言ってくれた。
「御気付きですか?俺、両耳の上に、一房ずつ、此の色の毛が生えているのです」
「…はー、こりゃ、見事だなぁ」
相手が手にしているのは、白っぽい金の色をした、美しい髪だった。
気付かなかった、と正直に言うと、相手は、気不味そうに笑った。
「此処だけ短くして隠しているんです。そして、他は長めに残してあるんです。生えている範囲が狭いから、坊主にすれば却って目立たなくて、楽なんですけどね。伸びてきた辺りが厄介なんですよ」
「ああ、理容器が無いんじゃなぁ。俺も伸びてきたよ」
切ってやるよと提案すると、相手は恐縮していたが、鏡が無ければ見え難かろうと言うと、素直に治一に従った。
硬めだが艶の有る黒髪を残して、金色の髪の辺りを短くしてやると、金髪の部分は、すっかり隠れてしまい、相手は、本当に、普段と何も変わらない姿に見えた。
「有難う御座います。治さん、御上手ですね」
「ああ、薫のを切ってやってたんだ。…紘は起きたかい?」
相手の髪を払ってやりながらの治一の問い掛けに、相手は、気不味そうに、言った。
「未だですが…御会いになりますか?明るいですが、そろそろ夕方ですもんね。涼しくなってきたので、着替えさせたんです。紘の準備は出来てますから」
会っておこうかな、と言うと、相手は、丁寧に一礼して、病室まで案内してくれた。
―此処、あの、解体した病院だ。…姜黄は未だ植えられてないんだな。何時の庭なんだろう。
寝台がズラリと並べられた病室の隅に、衝立が見えた。相手は、治一を衝立の中に案内してくれた。
寝台の上には板が置かれていて、其の上に、美しい、十二単の様な巫女装束を着た、髪の長い女性が寝かされていた。
髪は、其の濃い紫色の袴に掛る程長く、治一は思わず息を飲んだ。
「紘だって分っている筈なのに、こう見ると、女の子にしか見えないな。化粧はしてないんだろう?」
ええ、と言って、相手は、困った様に笑った。
「余程母親に似ているらしいですね」
母親と言えばさ、と治一は言った。
「お富さんと長って兄妹なのかい?」
相手は俯いてしまい、返事をしてくれなくなった。
そうなのかい?と、治一は言った。
「辰も、長と…紘って、似ていると思ったかい?」
俺からは何とも、と、相手は言った。
そうかい?と、治一は言った。
「誠吉さんと長は又従兄弟で…今の長は、本当は、坂元本家当主の長子なのかい?誠吉さんと紘も、長と同じ、坂元家の男系の血筋で…。長の後継が全部死に絶えでもして、男系の血筋の後継者に継がせたいなら」
紘にも長の資格が有るのかい、という治一の言葉に、相手は、ビクリと体を震わせて、答えなかった。
良いよ、と治一は言った。
「忘れてくれ。紘が、こんなに綺麗に見えるから、邪推したんだな。…里に、こんな綺麗な人間が、何人も居るわけない、って」
「…だから血縁じゃないか、って?」
相手の、小さな声での問い掛けに、そんなところだ、と言って治一は、話を逸らしてやる事にした。
「…雅やかだなぁ、此れが襲か。蘇芳に紅梅、萌黄に紅」
「…桜萌黄と呼ぶそうですよ。もう盆だから時期は外れてますが。…昼間から着せていたら暑かったでしょうね」
そうだな、と言って、治一は、眠る人物の髢と思われる髪が、其の寝顔に掛っているのを、少し避けてやった。
髪を避けてやった隙間から長い睫毛が露出して、やはり、其の姿は、治一には女性にしか見えなかった。
病院から母屋に戻る途中、庭で顕彦に会った。
今まで一緒に話していた相手は、そそくさと母屋の方に向かったが、治一は、顕彦に、丁寧に一礼した。
―うわ、若い。でも、顕彦さんは何故か、顕彦さんだって分かるなぁ。
不思議と、其の姿は、昔から其処に在る山、といった具合で、何か変わったところが有る様にも思われないのだった。
未だ髪が全て黒い、白装束姿の顕彦は、麗しい、大きな瞳を細めて、優しく微笑んでくれた。
「手伝ってくれて助かるよ、治。暑いから、母屋で御茶を貰って飲んでおくれな」
「有難う御座います。…あの」
治一の問い掛けに、顕彦は、大きな瞳を見開いた。一瞬、怯みそうになるくらい、大きな、美しい瞳だった。
治一は、気後れしながらも、言った。
「やっぱり、秘伝の巻物なんて無いんだって思うのに。如何して、保親さんって、あんなに、拘るんでしょうか。無理だとは思うけど、巻物が無いって分かってくれれば、こんな面倒な事しなくたって良いのに、って。…すみません、つまらない事を」
しかし相手は、義を言うな、などとは言わず、優しく微笑んでくれた。
「保親さんが拘っているのは、お富さんなんだよ」
「…お富さんに?」
『あの人、巫女衣装の髪の長い若い女が好かったんだよ』
―何だ?俺、今、何を聞いた…?
目の前が、バッと暗くなったかと思うと、シャボン玉の様なものが、フワフワと辺りに舞った。
―…何だ此れ。見た事有るな。
場面が、また切り替わった。
―あ、姜黄が植わってる。知ってる庭だ。
暑いし、目線が妙に低い。
白地に紺の、籠目模様の浴衣を着せられているところを見ると、夏なのだろう。柄に覚えが有る。
治一は、トコトコ走って、懐かしい、姜黄の植えられている塀を越えて、病院の、古びた白い建物の中に忍び込んだ。
母屋に客が来た隙に抜け出したのだと思う。来客の顔すら見ていない。
姜黄は、食用で薬用だと聞くが、祖母の夕は、其の桃色の花の姿を愛しており、寒さに弱い其の花の事を考えて、塀に寄り添わせる様に球根を植えていた。多年草だが、夕の死後枯らしてしまった事を、治一は少しだけ後悔している。
当時は花に慰められる様な性格でも無かったから、幼少の砌には千切っても平気だったが、ふと気付いて見たら枯らしてしまって、二度と生えて来なかった其の花を見た時には、泣いたものだった。
今も、花は兎も角、花を愛する心に対しては、共感するものが有る。
病院の中は涼しかった。
雨漏りをする様になったとは聞き及んでいたが、治一は、其処に忍び込むのが好きだった。
しかし、其の日は、病院の彼方此方で物音がする気がした。
不思議に思って、一回の廊下をチョロチョロしてから、何時もの様に、寝台も何もかも無くなってしまった病室の、個室だった場所に忍び込むと、珍しく、先客が居た。
「アッコばちゃん」
先客は、黒っぽい薄物の着物を着た安幾だった。
ほっそりしていて、年相応に老いてはいたが、向子と顔立ちが似ており、美しい、優しい人だったと記憶している。
坂元分家から実方本家の顕彦に嫁いだから、祖父の栄とも仲が良く、治一は、親戚という意識が強かった。
「まぁ、治ちゃん、また忍び込んで。いけませんよ。此処は、そろそろ取り壊すんですからね」
「でもねぇ、清水のじぃじが、昔此処に住んでたんだって。だからねぇ、此処にね、ほら」
治一は、床板の隙間に指を突っ込み、メリッと床板を二枚剥がして、隠していた箱からビー玉を取り出して、安幾に見せた。
まぁ、と言って、安幾はコロコロと笑った。
「そんな所にビー玉を隠していたのね。もう取り壊すのだから、玩具は全部出しておしまいなさい」
当時の治一は、口先だけは良い返事で、はぁい、などと明るく言ったが、再び元通りにビー玉を箱に入れて、床板を元に戻してしまった。
如何やら、詳細は思い出せないが、自分の祖父が其の部屋に一時期間借りして住んでいたというだけの話なのだが、縁を感じていたのか、秘密基地扱いしていたらしかった。因みに、此のビー玉の行方は更に思い出せない。
―ボロボロだな。子供が床板剥がせるくらい弱ってたんだ。雨漏りの話も本当だったのかな。
「まぁ、何か言っても、詮無い事ね。私だって、今日は此処に忍び込んでいたのだから。外から見ていたら、窓が開いていたものだから気になって、入ったは良いものの、建て付けが悪くて、私の力では窓が閉められないの。…もう、諦めるわ。さぁ、御菓子をあげましょうね。一緒に母屋に戻りましょう」
治一は、アッコばちゃん大好き、と言って喜んだ。
―何歳なんだろうな、俺。『アキ子おばちゃん』って言えてない。
思い返すに、本名は安幾だったのだが、渾名は『アキ子おばちゃん』だったのだ。
「まぁー、可愛い事。本当に、御祖父様そっくりねぇ。ふふふ」
治一が、安幾と、そうやって話していると、背後から、こら、という声がした。
見れば、若かりし頃の賢顕だった。仕事を抜けてきたのか、此の陽気に、白衣姿である。
―うわ、髪が未だ黒い。若い。
「まーた此処に忍び込んで。御前が入り込んで危ないから取り壊すんだっつーのに、言う事一つも聞きやしないなー」
―あ、そうだったんだ。悪い事したかも。
しかし当時の治一は、全く、申し訳ないなどと思う素振りも見せず、口先だけで、ごめんなさい、と言って、ニコッと笑った。今の治一の感覚で考えても、其の態度に反省の色は見えなかった。
あまり親に叱られた記憶も無いし、安幾にさえ、御菓子など貰っていたのだから、恐らく周囲の、同居している家族以外の大人からも相当甘やかされており、大人が怖くなかったのだろう。
案の定、賢顕も、其れ以上は治一を叱らず、しょーがねーなー、と言った。
「ま、盆が過ぎりゃ、取り壊すんだ。其れまでの話だな、こんなのも」
懐かしいなー、と言って、賢顕は、安幾に頼まれて、開いている窓を閉めてくれようとしたが、安幾の言った通り、本当に建て付けが悪くなっていた。
「…古くなっちまったが。昭和初期には白亜の、立派な建物だったんだぜぇ。そんなん言っても分かんないか」
賢顕は、そう言ってから、ポンポンと、治一の頭を撫でてくれた。
えへへー、と笑った治一は、ビー玉あげるね、と言って、再び床板を剥がした。
「えっ。おいおい。白蟻みたいな遊びすんなよ。…まぁー、いいやー。其処で遊んでろ。奏ぇ。遊んで遣ってくれ」
はい、と言って、廊下の方で、ガチャンと音がした。
白装束姿の奏顕が、木製の箱を運び出すところだったらしい。
安幾が、まぁ、と言った。
「奏ちゃん、暑いでしょうに、そんな格好で御手伝い?」
「今日は日曜日で、五百や味賀が病院に遊びに来てたもんだから、先刻まで一緒に、鼓と琴の練習をさせてたんです。伶人の家の男の子だから、其の辺りは真面目に遣らせようって事で、練習着は白装束なんですが、こいつ、面倒がって着替えないんですよ…」
意外や、賢顕は養父の辰顕より楽器が上手いらしいと伝え聞く。
安幾は微笑んだ。
「そう。顔は喜久姉にそっくりなのに、力持ちさんだから、何だか不思議ねぇ。もう十四歳だったかしら?太郎ちゃんは、もう、ソトの高校に通っているんだものねぇ。早いわぁ」
「そうそう、最近は、此の病院の敷地内に残っている備品を、折を見て処分しておりまして。此れも男手に加えられる年に育ってくれて助かってます。…顕彦さん、母屋に理佐も連れて来てくださっていたんですね?」
「ええ、夫婦で坂元本家に御邪魔したのだけれど、ハナさんも見てくださるという事で、私は此処に」
「今、母屋で、顕彦さんと岐と一緒に、理佐を遊ばせています」
そう、と、困った様に眉根を寄せて、安幾は言った。
「あまり、長の御宅の事に、私の様な坂元家の者が関わらない方が、世間体は良いんでしょうけど、令一君との相性が悪いみたいで…。令一君、赤ちゃん返りは治まったみたいだけど、紅葉さん、困ってらしたから、坂元本家に連れて来てしまったの」
「先週、鏡花が来たばっかりだもんな…。まぁ、扱いにくい奴ですよ、令一ってのは。六歳だが、治より聞き訳が無い」
此の前来た赤ちゃんの事?と治一は、奏顕に聞いた。
そうじゃない?と、奏顕は、実に軽く返答した。
昭和四十六年に亡くなったのだという賢顕の母、喜久に似ているそうで、実方家の子にしてはフワフワした髪をしていて、絵本に出て来る王子様の様な風貌なのに、兎に角、物事を気にしなさ過ぎるせいで、女の子に人気が無い、とは、伝え聞いた話である。
「今度二歳らしいな。あっつ。遊ぶんなら窓開けようぜ」
白装束が汚れるのも構わず、足元の物にガンガン脛が当たっても平気な様子で、奏顕は、スタスタと窓の方に歩み寄って、先程自身の父親が頑張って閉めたばかりの窓を、無理に開けた。
賢顕が、あ、という顔をした。
安幾も、あら、と言って、困った様に笑った。
―奏兄ちゃんは変わってねぇなー。
優しいのだが、ガサツと言うか、雑な性格をしている此の人物は、其の雑さ故に迷惑も掛けてくれたが、よく遊んでくれた。
因みに五百と味賀は、賢顕の弟、顕悟の娘である。もう一人の弟、伸顕の娘、巴と三人で歯科衛生士の資格を取ってくれて、奏顕と歯科を運営するとは、此の時は誰も知らない。
「いや、此処で遊ばなくても…。もう出る気でいたから窓も閉めたのに。…まぁ、いいか。良い機会だから、少し話せますか、安幾さん」
何かしら、と安幾が答えている間に、奏顕は、木製の木箱から、ゴソゴソと硝子瓶を出した。
そんな汚い物で遊ぶなと賢顕は言ったが、床板を剥がして遊ぶ様な奴に対して衛生面を考慮したりはしないという趣旨の事を奏顕が言ったので、黙ってしまった。
奏顕は、汚れも気にせずに其の場に胡坐を掻くと、瓶を床に並べて、治一に、何かの棒を持たせて、カンカンと其れ等を叩かせてくれた。細口の試薬瓶等も含まれていたので、本当に備品だったものと思われる。
「ない、ぬ、う、よう、れる、られる、せる、させる、まい、ます、た、たい、たがる、そうだ、そうだ、だ、です、らしい、まい、ようだ、を加えて、助動詞だー」
治一が叩く横で、自分も瓶を棒で叩きながら、奏顕は適当な歌を歌った。
じょどうし?と治一が言うと、おいおい、と賢顕が言った。
「『ルビーの指環』に合わせて何を歌ってるんだよ…」
「助動詞の覚え方」
変な事を治に教えるなよ、と言いながらも、賢顕は、重ねて、困った様に言った。
「…いや、助動詞なら…いいのか?御前、成績は本当に良いんだよな…」
「治。かろ、かっ、く、う、い、い、けれ。形容詞の活用」
奏顕は、そう言いながら、リズミカルに瓶を叩いた。
治一は、キョトンとしながらも、奏顕の真似をして瓶を叩いた。
「上手。だろ、だっ、で、に、だ、な、なら。形容詞と形容動詞は命令形無し」
「めい…?」
「はい、見よう醜態、仮名の男。未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形」
「みようしゅうたいかめい…?」
「上手」
―思い出した。…色々叩き込まれたんだった。…小さい子との遊び方、雑だなー。
そして治一は、ビー玉の行方の方の記憶が曖昧な理由にも思い至った。何故か此の後、奏顕に、詰め込み式の中学校教育の内容を、遊びと称して暗記させられたからだろう。他の事の記憶が、本当に曖昧なのだが、教えられた謎の言葉は今も覚えている。脳に刷り込まれた謎の言葉達が効力を発したのは中学入学以降だったが、確かに当時の成績の良さの一助となったのだった。本気で遊んでくれていたのか、自分の勉強のついでに適当に遊んでくれていたのか、今思い返しても全然分からないのが、奏顕の雑さの凄いところだと治一は思う。
賢顕は、困った顔をして、もういいや、其処で、そうして遊んでおけ、と言った。
「さて、安幾さん。御聞きしたい事が有るんですが。こういう話に覚えは有りますか?」
「何かしら?」
「一に曰く、秋洲、読んで阿其氏末となす。蓋し亦、阿其比に因るなり」
アキ姫様、と賢顕が言うと、安幾は、再び、困った様な顔をした。
賢顕が、失礼ですが、と前置きしてから、閨房術を御使いですね、と言った。
安幾は、そうなのでしょうね、と、小さい声で言った。
「だから私は薄まって、殆ど力が残っていない」
「そういうものらしいですよ。第一、輪廻を繰り返すと力が薄まる場合が有る。…閨房術を御自身が御使いだと気付かれたのは何時です?」
娘を産んだ時ね、と安幾は言った。
「…思い返せば、一人目の男の子は多分、初夜で出来た子だったのよね。夫に力を注ぐ寸前だったから妊娠出来たのね、きっと。…こんな話をして申し訳ないけれど」
「いえ、此方が聞いたんですから。其れが、貴ちゃんですか」
「ええ、あの子は、驚く程、何の力も持っていなかった。そして、以降、私は、夫に力を注ぎ続けてきた事に、全く気付かなかったの。其のせいで、最初の子以降は、妊娠すらしなかったって事に、本当に気付かなかった。そして、やっと娘を産んで、分かったの。私、其れから悪いものが見えるようになってしまった。夫と、最後に産んだ子に、殆ど力を託してしまったのね。だから悪いものを『見えないようにしてくれていた』力が無い。其の何かを感知する程度の事しか、出来ないけれど。以来、私は、悪いものに怯えて暮らしているわけなの。誰にも言えずにね…。もっと力が薄まったら、悪いものすら分からなくなるかもしれないけれど」
「向子…あの子は」
巫女さんなんですか、と賢顕は問うたが、答えられないわ、と安幾は言った。
「私には、そういうものが感知出来ないの。だから、本当に、何なのか分からない。ただ、とても強い何かを持った子だって事は分かる。だから、如何育ててあげて良いか分からなかった。体の丈夫な子で、本当に良かったと思っているわ」
そうですね、と賢顕は言った。
「理佐と鏡花の事も、何か御気付きではないですか?」
安幾は、少し、と言った。
「だから構ってしまうのだと思うわ、心配で、理佐ちゃんを家に呼んで…。でも、鏡花ちゃんみたいに、体が丈夫でない子だと、きっと大変よ」
鏡花は違うんですよ、と、賢顕が言った。
「霊力が高過ぎて内側から体を蝕んでいるんです。力の強さに、器の強さが足りない。あの子は、体自体は本来、弱いわけではないんです。実際、幾つかのアレルギー以外は普通ですよ。理佐は逆だ。薄まっている」
分け御霊って分かりますか、と賢顕が言った。
「輪廻を繰り返すと力が薄まる事が有る、と、先程言いましたが。理佐は正しく、そうです」
「分け御霊…」
「人口というのは、増え続けているわけですよ。全員が誰かの生まれ変わりなのだとしたら前世の人数が単純に足りない。そうは思いませんか?」
「考えた事も無かったけれど…。そうね、単純な問題ね」
「ええ、足し算とか引き算とか、そんな、簡単な問題ですよ。ところが、実際は分け御霊というシステムが有る。分霊とも言いますかね。神社を彼方此方に勧進出来るのも、其のシステムが有るからですよ。神の魂も人間の魂も、分けて、他のものに移す事が出来る。だから人間の魂は皆、何かの分け御霊で、其れも、色んなものと、くっ付いたり離れたりして成り立っている。だから、生まれ変わったって、全く同じ人間にはならない。人間は皆、唯一の存在で、魂に何かが混ざって強くなったり、混ざって薄まったりして生まれて来る。そうして、違う人間になって、生まれる前に遣っていた事も忘れてしまうんです。例外も居るでしょうが」
「…理佐ちゃんは、薄まってしまったのね」
「そうです、気付いていますか?」
「ええ、理佐ちゃんを見ていると、私の娘と…時々、二重写しに見える事が有るの。不思議ね、娘を産むまでは、本当に、そんな事は分からなかったのに」
「そうでしょうね、多分、同じ種類で、何処かで別れてきた、同じ分け御霊を持つ人間なんでしょう、向子と理佐は。鏡花は多分、逆です。元は、普通の人間でしたが、強烈な分け御霊と、くっ付いて生まれてきた。だから器の方が、持っている力と合っていない」
「偶然かしら…。そんな女の子を二人も、由一ちゃん…いえ、長が養女に迎え入れるなんて…」
何とも言えません、と賢顕は言った。
「賢君ですが、今の長には霊的な力は無いと思いますよ。先代の長の、永一にも無かった。綜兄ちゃんには、有ったんでしょうが、発揮する場を与えられる前に亡くなってしまった」
「私…」
分かっていたのに、と言って、安幾は啜り泣いた。
「平ちゃんが早く亡くなってしまうって。貴ちゃんの時も、何かが変だって…」
悪いものが見えるんですね、と賢顕は言った。
ええ、と言って、安幾は肯定した。
「だから…令一君と理佐ちゃんを、あまり、一緒に居させたくないのよ。鏡花ちゃんも。何か悪い事が起きそうな気がするのに、知っていても止める術を持たないの」
俺もです、と賢顕は言った。
「俺程度の力では、起きている事の全容も分からない。ずっと傍観者ですよ。後は医者の仕事くらいでしょうか、出来る事は」
巫女さんが必要なんだろうけどな、と、賢顕は呟いた。
「紘兄ちゃんって、覚えてます?」
安幾は、泣き止んで、黙って賢顕の顔を見た。
「あれは多分、本物の巫女さんだったんだ。…助けてくれるとしたら、本当は紘兄ちゃんなんでしょうけどね。…流石に、頼れませんよ、坂元さん達を散々、悪し様に罵って、陥れてきた里の為に力を貸してくれとは。安幾さんも、悪いものが見える事で、長い事、苦しんでいらしたのに、俺には何も出来なくて」
いいえ、と言って、安幾は、再び泣いた。
「…今日聞いてもらって良かった。誰にも言えなかったのだもの。有難う、賢ちゃん」
「アッコばちゃんいじめないでぇ」
治一は、安幾が泣いているのに気付いて、泣きながら安幾にくっ付いて、言った。
「まぁ、治ちゃん。違うのよ。優しい子ね」
「そうだぞ、泣くな、治。さ、母屋で岐達と遊びな。連れて行ってやる。楽しかったか?」
賢顕が抱き上げてくれたので、治一は機嫌を直して、ニコッと笑った。
「うん。みようしゅうたい、かめいのおとこ」
「奏…仮名の男の醜態を見ようとか、教えるなよ…助動詞までにしておけば良かったのに」
「治、記憶力良いよ」
瓶を木箱の中に片付けながら、実に軽く父親に返答する息子に対し、賢顕は、うーん、と言った。
「…だからさ。悪い言葉も直ぐ覚えるだろ」
「ちょっと悪い言葉の方が記憶に定着させ易いよ。治、南極の『極』の漢字の書き方は?」
「きいちごを、くちからくって、またからだす」
「上手」
賢顕が、流石に、奏!と言って窘めた。
目を瞬かせながら親子の遣り取りを見ていた安幾は、クスッと笑った。
場面が切り替わった。
―あ、病室だ。
来てくれたのか、と、懐かしい声がした。中学の制服を見せてもらえて嬉しい、と、声の主は言った。
治一は、もう当時は中二だったし、白装束姿なんて何度も見せているのに、気弱な事を言う、と思い、悲しくなったのを思い出した。
「じぃちゃん、具合は如何?今日は、俺一人だけで来てって、如何言う事?」
「御前だけに教えてやりたい事が有るから」
病室の寝台に腰掛けてほしいと言われたので恐縮したが、結局、治一は、其の言葉に従った。大きくなったな、と言う、優しい声の主の、黒っぽい浴衣から出ている手が以前より痩せていて、治一は更に悲しくなったものだった。
「御前の名前は俺が付けたんだ」
「ああ、そうみたいだね」
「禹王治水。水を治める神様に因んだ字なんだ、だから」
今度は冶けない、と、祖父は力強く言った。
「鋳熔かして作られた銃弾なんか、頭に受けない」
「…如何したの?」
孫の問い掛けに、相手は、ごめんな、と言った。
「強い名前を与えてしまった。人間なのに強くなるように、点を一つ足して、神に近付くように、呪いを掛けてしまった。御前は死んでほしくなかったから」
「死んだって…啄励さんや薫育さんの事?」
治一の母である、月子の兄弟は早逝してしまったと聞き及んでいたので、其の話かと思った治一だったが、相手は、其れも有るが、と言った。
「いいか、此れから、生きる事で辛い思いをしても、救ってはあげられないが、御前だけには、如何しても、教えておきたい事が有る」
「…何?」
「戦時中の人体実験で、術で人間を殺す方法を考案したのは俺だ」
「…何の話?」
「瀬原集落は、戦時中、軍事協力する事で、食料や軍需品を得ていた時期が有るのさ。其の時、『苗の神教』の術を使って、暗殺術を考案する実験をしていたんだ。そして、其れを考案したのは俺だった」
「…じぃちゃん?」
「人体実験をしていたんだ。術が人体に与える影響を調べる為に、解剖もした筈だ。あの頃は、坂元本家の忠義者の下働きが名乗りを上げて、自分から犠牲になった。あれ以来、坂元本家は使用人を使わない。だから今も、坂元本家には使用人が居ないだろう?」
「…いや、確かに、本家なのに、黒服も雇ってないし、炊事場にも人を雇ってないのは珍しいって言われるけど」
いいか、と強く言われて、治一は、身を強張らせた。
「此れから、術を使って他人を、証拠も無く殺す方法を教える」
「…嫌だ」
「聞きなさい、坂本治一」
本当の名前を名付け親に呼ばれて、治一は、ビクリと体を震わせた。
御前を守る為なんだ、と、切実な声で相手は言った。
「方法を知っていれば殺されない。だから、聞いてくれ。御前は、方法を知っていても、他人に、そんな事をしない子だって、俺は分かっているから」
「…じいちゃん」
「術による暗示で、相手の心臓を止める。何か別の臓器でも良いな。心臓が一番イメージし易いか。其れだけだ」
「…其れだけ?」
「ああ、だが、悪用している奴が居る」
「それ…暗殺者、って事?」
瀬原令一だ、と、相手は、ハッキリ言った。
「直ぐ分かった。十代の孤児で、要人に顔が利くようになる為に、何を遣ったか。…体を使っている可能性も有るが」
え?と、治一は聞き返した。
「体?…何?」
余興だよ、と言って、相手は、其の部分を詳らかにはしなかった。
「嘗ての余興を、色々な意味で、一人で引き受けている可能性も有るが。ともあれ、実態は、証拠も無く他人を暗殺出来る事で、彼方此方で重用されているんだ」
いいか?と、相手は念押ししてきた。
「術の存在や、暗示で臓器不全にされる可能性を知っている人間には、暗殺術は通用しない。此れで御前は掛らない」
「暗示で、人が、死ぬ?」
「心不全だ。簡単な話だ。其れで、証拠も無く人が殺せる。瀬原令一には気を付けろ。御前が暗殺術を知っている事を、知られるな」
「そんな…。長が、暗殺を…。だって、術は暗示に使っちゃいけないって、戦後、祈祷師にも見張りが付いたって…」
「其れは、俺が当時の清水本家当主に進言して付けてもらったんだよ。術の悪用を避ける為に。誰かが、術の悪い使い方に気付かないとも限らなかったからな。結局、長が暗殺を遣っているという、最悪の結果になってしまったが」
神の字を授けた子よ、と、相手は言った。
「禹は雄の龍を掴む者。治水の水分は蛇神、龍神、山の神。人間の身には過ぎた呪いを乗せたが、如何か御前が、悲惨な運命から、出来る限り逃れられる様に。地震の神の御加護が有るように」
「地震の神?…苗の神だよね?五穀豊穣、子孫繁栄の神なんでしょう?」
「本来は、地震の神。大地振る神だ。地震、そして、火山の神なんだよ」
「…じぃちゃん、如何して、そんな事知ってるの?」
「…さ、今日の事は忘れなさい。大事な事だから、必要な時が来るまで」
「…じぃちゃん?」
「葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、強き子を増やせ。田は米、海は魚得て、禍去る。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。神の田を耕せ」
―駄目だよ、じぃちゃん。術を暗示に使っちゃいけないんだ。
※木戸が合わん 「身分が違う」という意味。
※末っ子「尻垂れ」が訛った言葉。「たれ」は接尾語で、「尻」は「最後」の意味。最後の子。
※義を言うな 目上の者に口答えするな、という、土地の風潮。




