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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第四章 殺人
29/68

暗殺

 白い寝台(ベッド)に腰掛けながら、最後の夜だね、と、自分に声を掛けて来る、自分によく似た姿の人間を見て、(はる)(いち)は、ああ、夢だ、と思った。


 二十歳(はたち)くらいの青年に見えるのだが、よく知っている筈の相手と思うのに、名前が全く思い出せないのだ。


 其の、黒っぽい、自身と似た浴衣を着ている人物に向かって、(はる)(いち)は偉そうに、最後なんて言うな、と命じた。


「ま、病院の個室に寝台(しんだい)二つ入れてもらって(かくま)ってもらう夜は、此れが最後になるかもしれんがな。多少狭いが、快適だったよ。夏でも割合、涼しいし」


 其れはそうだけど、と、(はる)(いち)に似ているのに、(えら)く繊細そうな様子で、相手は答えた。


 何だい、と、此れまた偉そうに、完全に目上の態度で、(はる)(いち)は相手に向かって言った。


「人間、何時(いつ)何時(なんどき)死ぬかも分からんのだ。次の瞬間上から物が落ちて来るか、百年後に畳の上で大往生しているか、俺が先か御前が先か。そんな事は誰にも分からん。明日に備えて寝る以外に、出来る事も無い」


 言いながら、自分でも、其れが強がりである事は、(はる)(いち)にも分かっていた。


 相手は悲しそうに、兄上、と言った。

「…死ぬなんて言わないで」


 (はる)(いち)は、優しい声で、大丈夫だ、と言って、相手の寝台(ベッド)に座り、(あご)を掴んで、自分の方に顔を向かせた。


「右の口元に小さな黒子(ほくろ)が有る方が陶冶(とうや)。無い方が薫陶(くんとう)。俺達、何時(いつ)だって、そっくりで、こんな黒子(ほくろ)でも無きゃ、見分けが付かないくらいだろう?何時(いつ)だって一緒だ。離れ離れになったって、鏡を見れば御互いが居る」


 あー、でも、黒子(ほくろ)()らないなぁ、と言って、(はる)(いち)は、(つと)めて明るく笑ってみせた。

 目の前の相手を安心させたいのだ。


(かおる)の顔の方が良いな。黒子(ほくろ)が無い方が良い。同じ顔なのに優しそうだ」


 (かおる)と呼ばれた相手は、困った(よう)に微笑みながら、そう?と言った。


「…瑠璃(るり)さんの事は良いの?」


 (はる)(いち)は驚いて、相手の(あご)から手を離した。

「…今更、何だって、そんな事、蒸し返すんだい」


「最後の夜だから」


 相手は、小さい声ながら、キッパリと、そう言った。


「身分も何も関係無く話が出来るのも、此処だけだから。此処を出たら俺達、元の場所に帰らなくちゃ。元の自分に戻らなきゃ。そうしたら、(おさ)後継(こうけい)の婚約者を如何(どう)思ってるか、なんて話、二度と、いや、一生出来ない」


 良いも何も無いだろ、と(はる)(いち)は言った。


木戸(きど)()わん。俺は分家とはいえ、上方限(カミホーギリ)の人間だ。兄上が瑛子(えいこ)を他所に嫁がせて、俺に家を継がせてくださる御心算(おつもり)であれば、俺は、()()くは、清水分家の当主になる。そうしたら()(ばる)()の娘なんか、周りに反対されて御終(おしま)いだろ。どの道、(ヨメジョ)には出来ん。俺は水配り(ミックバイ)にも参加していないし」


 でも、と、相手は食い下がった。


瑠璃(るり)さんは上方限(カミホーギリ)で育った娘さんで、母親も吉野分家の人だ。荻平(おぎへい)さんも、出自は()(かく)、立場としては、(おさ)の補佐役で、そんなに身分が低いと考えない人も居るだろうし。其処まで不釣り合いではなかったと俺は思う。婚姻制度や身分の話じゃない。兄上は、其れで良かったの?」


 (かおる)、と、説得する(よう)な声音で、(はる)(いち)は言った。

瑠璃(るり)さんは、(そう)が好きだったんだよ」


 相手は、困った顔をして、冬の月の光でも宿(やど)しているのかと思う(よう)な、繊細な、美しい瞳を此方(こちら)に向けてきた。


 大丈夫だ、と、もう一度、優しい声で、(はる)(いち)は言った。


「此処を出たら元通りだ。楽しかった此処を出るのは不安だが、其れでも、此処を出たら、そんな事は考えなくて済む。俺は、御前にも財産を残してやりたいんだよ。俺だけ分家を継がせてもらって、御前だけ冷や飯食いの末っ子(シッタレ)には、しておきたくないんだ。俺は、祈祷師(ウセンシ)でも畑でも何でも遣って、稼いで、御前の事も食わせてやる。絶対だ。此処を出たら、きっと、(しばら)くは、食う事だけを考えなけりゃならない。此の前も言ったが、嫁取りなんて、本当に、十年くらい先の話だろうよ。そん(とき)ぁ坂元本家の(みっ)ちゃんも、二十歳(はたち)くらいの、年頃だろ。ありゃ美人になる。御前も、そう思うだろ」


 (はる)(いち)が、半分冗談で、()(かく)、目の前の相手を笑わせたくて、そう言うと、相手は悲しい目をした(まま)、微笑んでくれた。


「…坂元家と更に御縁が出来るのは悪くないね。俺より十歳年下のあの子が義姉(ぎし)って思うと面白いけど」


 そうだろ、と言って、(はる)(いち)は微笑んだ。


「俺は、(こう)も気に入ってるんだ。坂元(さかもと)()は、吉野(よしの)()より馬が合う気がするんだよなぁ。あいつ、東京に住んでるらしいじゃないか。どんな所に住んでいるんだか、一度見てみたいもんだな」


坂元(さかもと)()…?東京に住んでる坂元(さかもと)()の知り合いが居るって?


 しかし、(こう)、という名前を聞いて、折角(せっかく)微笑んでくれた相手は俯いてしまった。


(かおる)?」

「兄上、俺…。聞いちゃったんだ」

「何をだよ」


(せい)(きち)さんと(こう)…あと、(そう)(こう)が、井戸のところで話してるの」


「…何だい、御前らしくも無い、盗み聞きかい?」


「そんな心算(つもり)じゃなかったんだけど。行水(ぎょうすい)の後、ちょっと一人になりたくて、気配を殺して垣根の影に隠れていたら、長い話が始まって、出るに出られなくなっちゃって…」


「…何を聞いたんだい?」


(こう)って、(そう)の従弟なんだって」


 (はる)(いち)は、驚きのあまり、目を(しばた)かせて黙ってしまった。


 相手は、言い(にく)そうに、(なお)も言った。


「今の(おさ)は、坂元本家前々当主の、(みさお)殿の長男だったかもしれないんだ。捨て子って事にして、(おさ)の後継にしたんじゃないかって…」


 馬鹿な事を、と言おうとした(はる)(いち)だったが、上手く言葉にならなかった。

 目の前の相手は、自分に黙っている事は有っても、嘘は言わない事を、よく知っていたからだ。


 黙ってしまった(はる)(いち)に向かって、相手は躊躇(ためら)いがちに続けた。


「だから…今の(おさ)って、本当は、坂元本家当主の資格を持っていた方で…。(せい)(きち)さんと(こう)も、(おさ)と同じ家の男系の血筋なんだ。誠吉さんと(おさ)又従兄弟(はとこ)なんだって…。そうすると…。(おさ)の子孫の男系で継がせたいなら…。(そう)(しゅう)に何かあったら、(こう)にも、(おさ)になる資格が…」


「何を言い出すんだ、(かおる)

「兄上は如何(どう)思う?」

如何(どう)って…」

(おさ)(こう)、似てなかった?」


「…其れは、少し思ったけど。二人で話しているところなんか、(そう)(しゅう)より似てるなって。顔と言うよりは骨格かな、誠吉さんとより、()しかしたら…似てる気もした…けど」


 まさかな、と言って打ち消そうとする(はる)(いち)に向かって、相手は首を振ってみせた。


「…本当に(おい)なんだと思う。大体、可変(おか)しいよ。こんな狭い場所に、あんな綺麗な人が二人も。…お(よし)さんの写真、見たでしょう?(おさ)は、お(よし)さんの兄だったと考えると、却って納得出来る気がするんだ」


「…上方限(カミホーギリ)に美形が多いのなんざ、珍しい話でも何でも無いだろ。今更言う(よう)な話じゃない。下方限(シモホーギリ)は何故か、そうでもないけど。(おぎ)(へい)さんや(はち)()さんくらいかな、男前(ヨカニセ)は」


「いや、だから、こんな辺鄙(へんぴ)な、狭い場所に、綺麗な人が集まっているの自体が可変(おか)しいよ。木戸(きど)()わんとか、其の考え方にも理由が」


 其処まで言うと、相手は、困った顔をして、黙ってしまった。(かおる)?と、(はる)(いち)は声を掛けた。

 相手は珍しく、返事をしなかった。


 (はる)(いち)は、相手を抱き締めて、自分の頬を相手の頬に、くっ付けた。

 物心ついた時から、こうやって不安を掻き消し合ってきたのだ。

 御互いに一番近い者は御互いしか居らず、両親(ふたおや)が死んだ時も、戦時下の不安も、こうして二人で乗り越えてきたのだ。年の離れた兄が甘えさせてくれているというだけで、孤児(みなしご)と変わらない境遇を、其れでも、二人で生きてきたのだ。


「言いたくないなら言わなくったって構わない(かんまん)からな。大丈夫だ。(なん)にも、怖い事なんか無いからな」


 相手は脱力した(よう)に、(はる)(いち)の肩に、自身の頭を(もた)せ掛け、甘えた声で言った。


「怖い」


 何が怖い?と、(つと)めて優しい声で、(はる)(いち)は言った。


 証拠も無く他人を殺せる事、と、相手は(かす)れた声で言った。


 そうだったな、と言って、(はる)(いち)は泣きながら、相手を抱き締めている腕の力を強くした。


「一人で抱えなくていいんだ。俺にも其の方法を教えて、楽になっちまえ」


「兄上を人殺しの方法を知っている人にしたくないんだ。兄上は、暗殺法なんて知っても、使わないって、俺は知ってるけど…」


 嫌なんだ、と言う、小さな声を聞いて、(はる)(いち)は更に泣いた。


如何(どう)して一緒に居たのに、御前にだけ、そんな事が分かっちまったんだ。もっと俺が、御前みたいに慎重な性格だったら…」


 目の前の相手の、優しさと繊細さを熟知している(はる)(いち)は、相手の不幸に涙が止まらなかった。


 相手の不幸の全ての身代わりになってやりたいのに、ただ姿が似ているというだけで、相手と自分は同じでは無く、自身には引き継ぐべき財産が用意されているのに、相手には其れが無く、自身には、相手の(よう)な洞察力も思慮深さも欠けていて、相手の不幸に対して、一番に気付いてやる事も出来ないのだ。


 ただ先に生まれただけ、ただ相手より図太い性格なだけの、そんな些細な差が産んだ不公平が、其の時の(はる)(いち)の心を掻き乱していた。


 いいんだ、と、優しい心根の相手は言った。


何時(いつ)か、決心が付いたら、兄上の身を守る為に教えるかもしれない。…遣り方が分かっていれば、其れで殺される事は無いから」


「殺される?」


「考案された事は、何時(いつ)か誰かが実用化に踏み出すよ。爆弾だって(どく)瓦斯(ガス)だってそうだった。『苗の神教(ナエンカンきょう)』の(じゅつ)が暗示だって分れば、此の方法に辿り着く人間は必ず出て来る。其の時、理屈を知っていれば、こんな事では殺されないから」


 自身より深い洞察力を持つ相手に、何も言えず、(はる)(いち)は黙って、相手を抱き締めていた。


 (やや)あって、もう寝よう、と言って、相手は、(はる)(いち)から離れた。


構わない(かんまん)のに」

「兄上?」

「俺の物なんか、何を遣ったって構わない(かんまん)のに」


 しかし、(はる)(いち)の持つ(とぼ)しい物の何を与えても、目の前の人間の不安一つ、払拭して遣れないのだ。土地屋敷一つとっても、()だ相続もしていないのだから、今は自身の所有物ではない。


 相手は、窓からの月明かりに照らされていた。


 降っていた筈の小雨は、何時(いつ)の間にか止んでいたらしかった。七夕は過ぎていたから、暦の上では秋で、其の(かそけ)月桂(げっけい)は、(はる)(いち)の大事な相手を、闇夜の空に浮かぶ雲の(よう)に照らしていた。濃い、(ほとん)ど黒に近い藍色の空に浮かぶ、夜の雲を見ると、此の弟を思い出す。


 空を見るのが、好きだ。


―弟…。


 要らないよ、と相手は言った。

「此の(まま)で良いんだ」


 良くないだろ、と、(はる)(いち)は言った。


 幼馴染の(よう)と、此の人物が所帯を持つには、冷や飯食いの(まま)ではいけないのだ。家か財産の何方(どちら)かが必要なのだから。奥床しい、目の前の相手は、何時(いつ)も、何が欲しい、と、強く主張しない。だから、其の淡い物思いに気付いているのは自分だけだと(はる)(いち)は思っている。


 華奢で色白な女性が好みの、自分よりは比較的大人しいが、自分に負けず劣らず強情な相手は、再び首を振った。


「良いんだ。今持っている良いものが此れ以上欠けちゃうくらいなら、新しい良いものなんか要らないんだ」


 相手は、珍しく、一緒に寝ようと言ってきた。狭いな、と言って無理に笑い合いながら、寝台(ベッド)二つをくっ付けて、其の日は眠った。






(たつ)?何してるんだ」


 場面が切り替わった。やはり夢らしい。


―あれ?(みち)


 (みち)(あき)に酷似した、(はる)(いち)くらいの年の、白装束姿の人物が、庭の隅で新聞紙を広げて、鋏で髪を切っているのに出くわしたので、(はる)(いち)は驚いた。

 相手も驚いている。


「あ、(はる)さん。髪が伸びてしまって。結局、理容器(バリカン)が出て来ないんですよ」


 ああ、と言いながら、(はる)(いち)は、相手の手元に、目が釘付けになった。

 相手は、はにかみながらも、爽やかな笑みを向けて、言ってくれた。


「御気付きですか?俺、両耳の上に、一房ずつ、此の色の毛が生えているのです」

「…はー、こりゃ、見事だなぁ」


 相手が手にしているのは、白っぽい金の色をした、美しい髪だった。

 気付かなかった、と正直に言うと、相手は、気不味そうに笑った。


「此処だけ短くして隠しているんです。そして、他は長めに残してあるんです。生えている範囲が狭いから、坊主にすれば却って目立たなくて、楽なんですけどね。伸びてきた辺りが厄介なんですよ」


「ああ、理容器(バリカン)が無いんじゃなぁ。俺も伸びてきたよ」


 切ってやるよと提案すると、相手は恐縮していたが、鏡が無ければ見え(にく)かろうと言うと、素直に(はる)(いち)に従った。


 硬めだが艶の有る黒髪を残して、金色の髪の辺りを短くしてやると、金髪の部分は、すっかり隠れてしまい、相手は、本当に、普段と何も変わらない姿に見えた。


「有難う御座います。(はる)さん、御上手ですね」


「ああ、(かおる)のを切ってやってたんだ。…(こう)は起きたかい?」


 相手の髪を払ってやりながらの(はる)(いち)の問い掛けに、相手は、気不味そうに、言った。


()だですが…御会いになりますか?明るいですが、そろそろ夕方ですもんね。涼しくなってきたので、着替えさせたんです。(こう)の準備は出来てますから」


 会っておこうかな、と言うと、相手は、丁寧に一礼して、病室まで案内してくれた。


―此処、あの、解体した病院だ。…(クル)(クマ)()だ植えられてないんだな。何時(いつ)の庭なんだろう。


 寝台(しんだい)がズラリと並べられた病室の隅に、衝立(ついたて)が見えた。相手は、(はる)(いち)衝立(ついたて)の中に案内してくれた。


 寝台(しんだい)の上には板が置かれていて、其の上に、美しい、十二単の(よう)な巫女装束を着た、髪の長い女性が寝かされていた。


 髪は、其の濃い紫色の袴に掛る程長く、(はる)(いち)は思わず息を飲んだ。


(こう)だって分っている筈なのに、こう見ると、女の子(オナゴンコ)にしか見えないな。化粧はしてないんだろう?」


 ええ、と言って、相手は、困った(よう)に笑った。

「余程母親に似ているらしいですね」


 母親と言えばさ、と(はる)(いち)は言った。

「お(よし)さんと(おさ)って兄妹(きょうだい)なのかい?」


 相手は俯いてしまい、返事をしてくれなくなった。


 そうなのかい?と、(はる)(いち)は言った。

(たつ)も、(おさ)と…(こう)って、似ていると思ったかい?」


 俺からは何とも、と、相手は言った。


 そうかい?と、(はる)(いち)は言った。


「誠吉さんと(おさ)又従兄弟(はとこ)で…今の(おさ)は、本当は、坂元本家当主の長子(ちょうし)なのかい?(せい)(きち)さんと(こう)も、(おさ)と同じ、坂元家の男系の血筋で…。(おさ)(こう)(けい)が全部死に絶えでもして、男系の血筋の後継者に継がせたいなら」


 (こう)にも(おさ)の資格が有るのかい、という(はる)(いち)の言葉に、相手は、ビクリと体を震わせて、答えなかった。


 良いよ、と(はる)(いち)は言った。


「忘れてくれ。(こう)が、こんなに綺麗に見えるから、邪推したんだな。…里に、こんな綺麗な人間が、何人も居るわけない、って」


「…だから血縁じゃないか、って?」


 相手の、小さな声での問い掛けに、そんなところだ、と言って(はる)(いち)は、話を逸らしてやる事にした。


「…(みやび)やかだなぁ、此れが(かさね)か。蘇芳(すおう)紅梅(こうばい)萌黄(もえぎ)(くれない)


「…(さくら)萌黄(もえぎ)と呼ぶそうですよ。もう盆だから時期は外れてますが。…昼間から着せていたら暑かったでしょうね」


 そうだな、と言って、(はる)(いち)は、眠る人物の(かもじ)と思われる髪が、其の寝顔に掛っているのを、少し避けてやった。

 髪を避けてやった隙間から長い睫毛が露出して、やはり、其の姿は、(はる)(いち)には女性にしか見えなかった。






 病院から母屋に戻る途中、庭で顕彦に会った。

 今まで一緒に話していた相手は、そそくさと母屋の方に向かったが、(はる)(いち)は、顕彦に、丁寧に一礼した。


―うわ、若い。でも、顕彦さんは何故か、顕彦さんだって分かるなぁ。


 不思議と、其の姿は、昔から其処に在る山、といった具合で、何か変わったところが有る(よう)にも思われないのだった。


 ()だ髪が全て黒い、白装束姿の顕彦は、麗しい、大きな瞳を細めて、優しく微笑んでくれた。


「手伝ってくれて助かるよ、(はる)。暑いから、母屋で御茶を貰って飲んでおくれな」


「有難う御座います。…あの」


 (はる)(いち)の問い掛けに、顕彦は、大きな瞳を見開いた。一瞬、(ひる)みそうになるくらい、大きな、美しい瞳だった。


 (はる)(いち)は、気後れしながらも、言った。


「やっぱり、秘伝の巻物なんて無いんだって思うのに。如何(どう)して、(やす)(ちか)さんって、あんなに、(こだわ)るんでしょうか。無理だとは思うけど、巻物が無いって分かってくれれば、こんな面倒な事しなくたって良いのに、って。…すみません、つまらない事を」


 しかし相手は、()を言うな、などとは言わず、優しく微笑んでくれた。


(やす)(ちか)さんが(こだわ)っているのは、お(よし)さんなんだよ」


「…お(よし)さんに?」


『あの人、巫女衣装の髪の長い若い女が()かったんだよ』


―何だ?俺、今、何を聞いた…?







 目の前が、バッと暗くなったかと思うと、シャボン玉の(よう)なものが、フワフワと辺りに舞った。


―…何だ此れ。見た事有るな。






 場面が、また切り替わった。


―あ、姜黄(クルクマ)が植わってる。知ってる庭だ。


 暑いし、目線が妙に低い。

 白地に紺の、籠目模様の浴衣を着せられているところを見ると、夏なのだろう。柄に覚えが有る。


 (はる)(いち)は、トコトコ走って、懐かしい、姜黄(クルクマ)の植えられている塀を越えて、病院の、古びた白い建物の中に忍び込んだ。

 母屋に客が来た隙に抜け出したのだと思う。来客の顔すら見ていない。


 姜黄(クルクマ)は、食用で薬用だと聞くが、祖母の(ゆう)は、其の桃色の花の姿を愛しており、寒さに弱い其の花の事を考えて、塀に寄り添わせる(よう)に球根を植えていた。多年草だが、(ゆう)の死後枯らしてしまった事を、(はる)(いち)は少しだけ後悔している。

 当時は花に慰められる(よう)な性格でも無かったから、幼少の(みぎり)には千切っても平気だったが、ふと気付いて見たら枯らしてしまって、二度と生えて来なかった其の花を見た時には、泣いたものだった。

 今も、花は()(かく)、花を愛する心に対しては、共感するものが有る。


 病院の中は涼しかった。

 雨漏りをする(よう)になったとは聞き及んでいたが、(はる)(いち)は、其処に忍び込むのが好きだった。


 しかし、其の日は、病院の彼方此方(あちこち)で物音がする気がした。


 不思議に思って、一回の廊下をチョロチョロしてから、()()もの(よう)に、寝台(しんだい)も何もかも無くなってしまった病室の、個室だった場所に忍び込むと、珍しく、先客が居た。


「アッコばちゃん」


 先客は、黒っぽい薄物の着物を着た安幾(あき)だった。

 ほっそりしていて、年相応に老いてはいたが、向子(さきこ)と顔立ちが似ており、美しい、優しい人だったと記憶している。

 坂元分家から実方本家の顕彦に嫁いだから、祖父の(さかえ)とも仲が良く、(はる)(いち)は、親戚という意識が強かった。


「まぁ、(はる)ちゃん、また忍び込んで。いけませんよ。此処は、そろそろ取り壊すんですからね」


「でもねぇ、清水のじぃじが、昔此処に住んでたんだって。だからねぇ、此処にね、ほら」


 (はる)(いち)は、床板の隙間に指を突っ込み、メリッと床板を二枚剥がして、隠していた箱からビー玉を取り出して、安幾に見せた。


 まぁ、と言って、安幾はコロコロと笑った。


「そんな所にビー玉を隠していたのね。もう取り壊すのだから、玩具(おもちゃ)は全部出しておしまいなさい」


 当時の(はる)(いち)は、口先だけは良い返事で、はぁい、などと明るく言ったが、再び元通りにビー玉を箱に入れて、床板を元に戻してしまった。

 如何(どう)やら、詳細は思い出せないが、自分の祖父が其の部屋に一時期間借りして住んでいたというだけの話なのだが、縁を感じていたのか、秘密基地扱いしていたらしかった。因みに、此のビー玉の行方は更に思い出せない。


―ボロボロだな。子供が床板剥がせるくらい弱ってたんだ。雨漏りの話も本当だったのかな。


「まぁ、何か言っても、詮無(せんな)い事ね。私だって、今日は此処に忍び込んでいたのだから。外から見ていたら、窓が開いていたものだから気になって、入ったは良いものの、建て付けが悪くて、私の力では窓が閉められないの。…もう、諦めるわ。さぁ、御菓子をあげましょうね。一緒に母屋に戻りましょう」

 (はる)(いち)は、アッコばちゃん大好き、と言って喜んだ。


―何歳なんだろうな、俺。『アキ子おばちゃん』って言えてない。


 思い返すに、本名は安幾(あき)だったのだが、渾名(あだな)は『アキ子おばちゃん』だったのだ。


「まぁー、可愛い事。本当に、御祖父様そっくりねぇ。ふふふ」


 (はる)(いち)が、安幾と、そうやって話していると、背後から、こら、という声がした。


 見れば、若かりし頃の(のり)(あき)だった。仕事を抜けてきたのか、此の陽気に、白衣姿である。


―うわ、髪が()だ黒い。若い。


「まーた此処に忍び込んで。御前が入り込んで危ないから取り壊すんだっつーのに、言う事一つ(ひとっ)も聞きやしない(せん)なー」


―あ、そうだったんだ。悪い事したかも。


 しかし当時の(はる)(いち)は、全く、申し訳ないなどと思う素振りも見せず、口先だけで、ごめんなさい、と言って、ニコッと笑った。今の(はる)(いち)の感覚で考えても、其の態度に反省の色は見えなかった。

 あまり親に叱られた記憶も無いし、安幾にさえ、御菓子など貰っていたのだから、恐らく周囲の、同居している家族以外の大人からも相当甘やかされており、大人が怖くなかったのだろう。


 案の定、賢顕も、其れ以上は(はる)(いち)を叱らず、しょーがねーなー、と言った。


「ま、盆が過ぎりゃ、取り壊すんだ。其れまでの話だな、こんなのも」


  懐かしいなー、と言って、賢顕は、安幾に頼まれて、開いている窓を閉めてくれようとしたが、安幾の言った通り、本当に建て付けが悪くなっていた。


「…古くなっちまったが。昭和初期には白亜(はくあ)の、立派な建物だったんだぜぇ。そんなん言っても分かんないか」


 賢顕は、そう言ってから、ポンポンと、(はる)(いち)の頭を撫でてくれた。


 えへへー、と笑った(はる)(いち)は、ビー玉あげるね、と言って、再び床板を剥がした。


「えっ。おいおい。白蟻みたいな遊びすんなよ。…まぁー、いいやー。其処で遊んでろ。(かなで)ぇ。遊んで遣ってくれ」


 はい、と言って、廊下の方で、ガチャンと音がした。

 白装束姿の(そう)(けん)が、木製の箱を運び出すところだったらしい。


 安幾が、まぁ、と言った。

(かなで)ちゃん、暑いでしょうに、そんな格好で御手伝い?」


「今日は日曜日で、五百(いお)味賀(みか)が病院に遊びに来てたもんだから、先刻(さっき)まで一緒に、鼓と琴の練習をさせてたんです。伶人(れいじん)の家の男の子だから、其の辺りは真面目に遣らせようって事で、練習着は白装束なんですが、こいつ、面倒がって着替えないんですよ…」


 意外や、賢顕は養父の(たつ)(あき)より楽器が上手いらしいと伝え聞く。


 安幾は微笑んだ。


「そう。顔は()()(ねぇ)にそっくりなのに、力持ちさんだから、何だか不思議ねぇ。もう十四歳だったかしら?太郎ちゃんは、もう、ソトの高校に通っているんだものねぇ。早いわぁ」


「そうそう、最近は、此の病院の敷地内に残っている備品を、折を見て処分しておりまして。此れも男手に加えられる年に育ってくれて助かってます。…顕彦さん、母屋に()()も連れて来てくださっていたんですね?」


「ええ、夫婦で坂元本家に御邪魔したのだけれど、ハナさんも見てくださるという事で、私は此処に」


「今、母屋で、顕彦さんと(みち)と一緒に、理佐を遊ばせています」


 そう、と、困った(よう)に眉根を寄せて、安幾は言った。


「あまり、(おさ)の御宅の事に、私の(よう)な坂元家の者が関わらない方が、世間体は良いんでしょうけど、(れい)(いち)君との相性が悪いみたいで…。令一君、赤ちゃん返りは(おさ)まったみたいだけど、紅葉(もみじ)さん、困ってらしたから、坂元本家に連れて来てしまったの」


「先週、鏡花(きょうか)が来たばっかりだもんな…。まぁ、扱いにくい奴ですよ、令一ってのは。六歳だが、(はる)より聞き訳が無い」


 此の前来た赤ちゃんの事?と(はる)(いち)は、奏顕に聞いた。

 そうじゃない(じゃない)?と、奏顕は、実に軽く返答した。

 昭和四十六年に亡くなったのだという賢顕の母、()()に似ているそうで、実方家の子にしてはフワフワした髪をしていて、絵本に出て来る王子様の(よう)な風貌なのに、()(かく)、物事を気にしなさ過ぎるせいで、女の子に人気が無い、とは、伝え聞いた話である。


「今度二歳らしいな。あっつ。遊ぶんなら窓開けようぜ」


 白装束が汚れるのも構わず、足元の物にガンガン脛が当たっても平気な様子で、奏顕は、スタスタと窓の方に歩み寄って、先程自身の父親が頑張って閉めたばかりの窓を、無理に開けた。

 賢顕が、あ、という顔をした。

 安幾も、あら、と言って、困った(よう)に笑った。


(かなで)兄ちゃんは変わってねぇなー。


 優しいのだが、ガサツと言うか、雑な性格をしている此の人物は、其の雑さ故に迷惑も掛けてくれたが、よく遊んでくれた。

 因みに五百(いお)味賀(みか)は、賢顕の弟、顕悟(けんご)の娘である。もう一人の弟、(のぶ)(あき)の娘、(ともえ)と三人で歯科衛生士の資格を取ってくれて、奏顕と歯科を運営するとは、此の時は誰も知らない。


「いや、此処で遊ばなくても…。もう出る気でいたから窓も閉めたのに。…まぁ、いいか。良い機会だから、少し話せますか、安幾さん」


 何かしら、と安幾が答えている間に、奏顕は、木製の木箱から、ゴソゴソと硝子(ガラス)(びん)を出した。

 そんな汚い物で遊ぶなと賢顕は言ったが、床板を剥がして遊ぶ(よう)な奴に対して衛生面を考慮したりはしないという趣旨の事を奏顕が言ったので、黙ってしまった。


 奏顕は、汚れも気にせずに其の場に胡坐を掻くと、瓶を床に並べて、(はる)(いち)に、何かの棒を持たせて、カンカンと其れ等を叩かせてくれた。細口の試薬瓶等も含まれていたので、本当に備品だったものと思われる。


「ない、ぬ、う、よう、れる、られる、せる、させる、まい、ます、た、たい、たがる、そうだ、そうだ、だ、です、らしい、まい、ようだ、を加えて、助動詞(じょどうし)だー」


 (はる)(いち)が叩く横で、自分も瓶を棒で叩きながら、奏顕は適当な歌を歌った。


 じょどうし?と(はる)(いち)が言うと、おいおい、と賢顕が言った。


「『ルビーの指環(ゆびわ)』に合わせて何を歌ってるんだよ…」

「助動詞の覚え方」


 変な事を(はる)に教えるなよ、と言いながらも、賢顕は、重ねて、困った(よう)に言った。

「…いや、助動詞なら…いいのか?御前、成績は本当に良いんだよな…」


(はる)。かろ、かっ、く、う、い、い、けれ。形容詞の活用」

 奏顕は、そう言いながら、リズミカルに瓶を叩いた。


 (はる)(いち)は、キョトンとしながらも、奏顕の真似をして瓶を叩いた。


上手(じょうず)。だろ、だっ、で、に、だ、な、なら。形容詞と形容動詞は命令形無し」

「めい…?」


「はい、()よう醜態(しゅたい)仮名(かめい)の男。()然形、連(よう)形、(しゅう)止形、連(たい)形、()定形、(めい)令形」

「みようしゅうたいかめい…?」

上手(じょうず)


―思い出した。…色々叩き込まれたんだった。…小さい子との遊び方、雑だなー。


 そして(はる)(いち)は、ビー玉の行方の(ほう)の記憶が曖昧な理由にも思い至った。何故か此の後、奏顕に、詰め込み式の中学校教育の内容を、遊びと称して暗記させられたからだろう。他の事の記憶が、本当に曖昧なのだが、教えられた謎の言葉は今も覚えている。脳に刷り込まれた謎の言葉達が効力を発したのは中学入学以降だったが、確かに当時の成績の良さの一助となったのだった。本気で遊んでくれていたのか、自分の勉強のついでに適当に遊んでくれていたのか、今思い返しても全然分からないのが、奏顕の雑さの凄いところだと(はる)(いち)は思う。


 賢顕は、困った顔をして、もういいや、其処で、そうして遊んでおけ、と言った。

「さて、安幾さん。御聞きしたい事が有るんですが。こういう話に覚えは有りますか?」


「何かしら?」


「一に(いわ)く、(あき)()、読んで()()()()となす。(けだ)(また)阿其比(あきひ)()るなり」


 アキ(ヒィ)(さん)、と賢顕が言うと、安幾は、再び、困った(よう)な顔をした。


 賢顕が、失礼ですが、と前置きしてから、閨房術(けいぼうじゅつ)を御使いですね、と言った。


 安幾は、そうなのでしょうね、と、小さい声で言った。

「だから私は薄まって、(ほとん)ど力が残っていない」


「そういうものらしいですよ。第一、輪廻を繰り返すと力が薄まる場合が有る。…閨房術(けいぼうじゅつ)を御自身が御使いだと気付かれたのは何時(いつ)です?」


 娘を産んだ時ね、と安幾は言った。


「…思い返せば、一人目の男の子は多分、初夜で出来た子だったのよね。夫に力を注ぐ寸前だったから妊娠出来たのね、きっと。…こんな話をして申し訳ないけれど」


「いえ、此方(こちら)が聞いたんですから。其れが、(たか)ちゃんですか」


「ええ、あの子は、驚く程、何の力も持っていなかった。そして、以降、私は、夫に力を注ぎ続けてきた事に、全く気付かなかったの。其のせいで、最初の子以降は、妊娠すらしなかったって事に、本当に気付かなかった。そして、やっと娘を産んで、分かったの。私、其れから()()()()が見えるようになってしまった。夫と、最後に産んだ子に、(ほとん)ど力を託してしまったのね。だから()()()()を『見えないようにしてくれていた』力が無い。其の何かを感知する程度の事しか、出来ないけれど。以来、私は、悪いものに(おび)えて暮らしているわけなの。誰にも言えずにね…。もっと力が薄まったら、悪いものすら分からなくなるかもしれないけれど」


向子(さきこ)…あの子は」


 巫女さんなんですか、と賢顕は問うたが、答えられないわ、と安幾は言った。


「私には、そういうものが感知出来ないの。だから、本当に、何なのか分からない。ただ、とても強い何かを持った子だって事は分かる。だから、如何(どう)育ててあげて良いか分からなかった。体の丈夫な子で、本当に良かったと思っているわ」


 そうですね、と賢顕は言った。

「理佐と鏡花の事も、何か御気付きではないですか?」


 安幾は、少し、と言った。


「だから構ってしまうのだと思うわ、心配で、理佐ちゃんを家に呼んで…。でも、鏡花ちゃんみたいに、体が丈夫でない子だと、きっと大変よ」


 鏡花は違うんですよ、と、賢顕が言った。


「霊力が高過ぎて内側から体を蝕んでいるんです。力の強さに、器の強さが足りない。あの子は、体自体は本来、弱いわけではないんです。実際、幾つかのアレルギー以外は普通ですよ。理佐は逆だ。薄まっている」


 ()()(たま)って分かりますか、と賢顕が言った。

「輪廻を繰り返すと力が薄まる事が有る、と、先程言いましたが。理佐は(まさ)しく、そうです」


()()(たま)…」


「人口というのは、増え続けているわけですよ。全員が誰かの生まれ変わりなのだとしたら前世の人数が単純に足りない。そうは思いませんか?」


「考えた事も無かったけれど…。そうね、単純な問題ね」


「ええ、足し算とか引き算とか、そんな、簡単な問題ですよ。ところが、実際は()()(たま)というシステムが有る。分霊(ぶんれい)とも言いますかね。神社を彼方此方(あちこち)勧進(かんじん)出来るのも、其のシステムが有るからですよ。神の魂も人間の魂も、分けて、他のものに移す事が出来る。だから人間の魂は皆、何かの()()(たま)で、其れも、色んなものと、くっ付いたり離れたりして成り立っている。だから、生まれ変わったって、全く同じ人間にはならない。人間は皆、唯一の存在で、魂に何かが混ざって強くなったり、混ざって薄まったりして生まれて来る。そうして、違う人間になって、生まれる前に遣っていた事も忘れてしまうんです。例外も居るでしょうが」


「…理佐ちゃんは、薄まってしまったのね」


「そうです、気付いていますか?」


「ええ、理佐ちゃんを見ていると、私の娘と…時々、二重写しに見える事が有るの。不思議ね、娘を産むまでは、本当に、そんな事は分からなかったのに」


「そうでしょうね、多分、同じ種類で、何処かで別れてきた、同じ()()(たま)を持つ人間なんでしょう、向子(さきこ)()()は。鏡花は多分、逆です。元は、普通の人間でしたが、強烈な()()(たま)と、くっ付いて生まれてきた。だから器の方が、持っている力と合っていない」


「偶然かしら…。そんな女の子を二人も、由一(ゆういち)ちゃん…いえ、(おさ)が養女に迎え入れるなんて…」


 何とも言えません、と賢顕は言った。


(けん)(くん)ですが、今の(おさ)には霊的な力は無いと思いますよ。先代の(おさ)の、永一(とういち)にも無かった。(そう)(にい)ちゃんには、有ったんでしょうが、発揮する場を与えられる前に亡くなってしまった」


「私…」


 分かっていたのに、と言って、安幾は啜り泣いた。

(ひょう)ちゃんが早く亡くなってしまうって。(たか)ちゃんの時も、何かが変だって…」


 ()()()()が見えるんですね、と賢顕は言った。


 ええ、と言って、安幾は肯定した。


()()()…令一君と理佐ちゃんを、あまり、一緒に居させたくないのよ。鏡花ちゃんも。何か悪い事が起きそうな気がするのに、知っていても止める(すべ)を持たないの」


 俺もです、と賢顕は言った。


「俺程度の力では、起きている事の全容も分からない。ずっと傍観者ですよ。後は医者の仕事くらいでしょうか、出来る事は」


 巫女さんが必要なんだろうけどな、と、賢顕は呟いた。

(こう)(にぃ)ちゃんって、覚えてます?」


 安幾は、泣き止んで、黙って賢顕の顔を見た。


「あれは多分、本物の巫女さんだったんだ。…助けてくれるとしたら、本当は(こう)(にぃ)ちゃんなんでしょうけどね。…流石に、頼れませんよ、坂元さん達を散々、()(ざま)(ののし)って、(おとしい)れてきた里の為に力を貸してくれとは。安幾さんも、()()()()が見える事で、長い事、苦しんでいらしたのに、俺には何も出来なくて」


 いいえ、と言って、安幾は、再び泣いた。

「…今日聞いてもらって良かった。誰にも言えなかったのだもの。有難う、(けん)ちゃん」


「アッコばちゃんいじめないでぇ」

 (はる)(いち)は、安幾が泣いているのに気付いて、泣きながら安幾にくっ付いて、言った。


「まぁ、(はる)ちゃん。違うのよ。優しい子ね」


「そうだぞ、泣くな、(はる)。さ、母屋で(みち)達と遊びな。連れて行ってやる。楽しかったか?」


 賢顕が抱き上げてくれたので、(はる)(いち)は機嫌を直して、ニコッと笑った。

「うん。みようしゅうたい、かめいのおとこ」


(かなで)仮名(かめい)の男の醜態(しゅうたい)を見ようとか、教えるなよ…助動詞までにしておけば良かったのに」


(はる)、記憶力良いよ」


 瓶を木箱の中に片付けながら、実に軽く父親に返答する息子に対し、賢顕は、うーん、と言った。


「…だからさ。悪い言葉も()ぐ覚えるだろ」


「ちょっと悪い言葉の方が記憶に定着させ易いよ。(はる)、南極の『極』の漢字の書き方は?」


「きいちごを、くちからくって、またからだす」

上手(じょうず)


 賢顕が、流石に、(かなで)!と言って(たしな)めた。

 目を瞬かせながら親子の遣り取りを見ていた安幾は、クスッと笑った。






 場面が切り替わった。


―あ、病室だ。


 来てくれたのか、と、懐かしい声がした。中学の制服を見せてもらえて嬉しい、と、声の主は言った。


 (はる)(いち)は、もう当時は中二だったし、白装束姿なんて何度も見せているのに、気弱な事を言う、と思い、悲しくなったのを思い出した。


「じぃちゃん、具合は如何(どう)?今日は、俺一人だけで来てって、如何(どう)言う事?」


「御前だけに教えてやりたい事が有るから」


 病室の寝台に腰掛けてほしいと言われたので恐縮したが、結局、(はる)(いち)は、其の言葉に従った。大きくなったな、と言う、優しい声の主の、黒っぽい浴衣から出ている手が以前より痩せていて、(はる)(いち)は更に悲しくなったものだった。


「御前の名前は俺が付けたんだ」

「ああ、そうみたいだね」


()(おう)治水(ちすい)。水を(おさ)める神様に因んだ字なんだ、だから」

 ()()()()けない、と、祖父は力強く言った。

()()かして作られた銃弾なんか、頭に受けない」


「…如何(どう)したの?」


 孫の問い掛けに、相手は、ごめんな、と言った。


「強い名前を与えてしまった。人間なのに強くなるように、()()()()()()()、神に近付くように、(まじな)いを掛けてしまった。()()()死んでほしくなかったから」


「死んだって…(たく)(れい)さんや薫育(くんいく)さんの事?」


 (はる)(いち)の母である、月子(つきこ)の兄弟は早逝してしまったと聞き及んでいたので、其の話かと思った(はる)(いち)だったが、相手は、其れも有るが、と言った。


「いいか、此れから、生きる事で(つら)い思いをしても、救ってはあげられないが、御前だけには、如何(どう)しても、教えておきたい事が有る」


「…何?」


「戦時中の人体実験で、(じゅつ)で人間を殺す方法を考案したのは俺だ」


「…何の話?」


()(ばる)(しゅう)(らく)は、戦時中、軍事協力する事で、食料や軍需品を得ていた時期が有るのさ。其の時、『苗の神教(ナエンカンきょう)』の(じゅつ)を使って、暗殺術を考案する実験をしていたんだ。そして、其れを考案したのは俺だった」


「…じぃちゃん?」


「人体実験をしていたんだ。(じゅつ)が人体に与える影響を調べる為に、解剖もした筈だ。あの頃は、坂元本家の忠義者の下働きが名乗りを上げて、自分から犠牲になった。あれ以来、坂元本家は使用人を使わない。だから今も、坂元本家には使用人が居ないだろう?」


「…いや、確かに、本家なのに、黒服も雇ってないし、炊事場(ナカエ)にも人を雇ってないのは珍しいって言われるけど」


 いいか、と強く言われて、(はる)(いち)は、身を強張(こわば)らせた。

「此れから、(じゅつ)を使って他人を、証拠も無く殺す方法を教える」


「…嫌だ」


「聞きなさい、坂本(さかもと)治一(はるいち)


 ()()()()()()()()()に呼ばれて、(はる)(いち)は、ビクリと体を震わせた。


 御前を守る為なんだ、と、切実な声で相手は言った。


「方法を知っていれば殺されない。だから、聞いてくれ。御前は、方法を知っていても、他人に、そんな事をしない子だって、俺は分かっているから」


「…じいちゃん」


(じゅつ)による暗示で、相手の心臓を止める。何か別の臓器でも良いな。心臓が一番イメージし易いか。其れだけだ」


「…其れだけ?」


「ああ、だが、悪用している奴が居る」

「それ…暗殺者、って事?」


 ()(ばる)(れい)(いち)だ、と、相手は、ハッキリ言った。


()ぐ分かった。十代の孤児(みなしご)で、要人(ようじん)に顔が利くようになる為に、何を遣ったか。…()()使()()()()()可能性も有るが」


 え?と、(はる)(いち)は聞き返した。

「体?…何?」


 ()()だよ、と言って、相手は、其の部分を(つまび)らかにはしなかった。


(かつ)ての()()を、色々な意味で、一人で引き受けている可能性も有るが。ともあれ、実態は、証拠も無く他人を暗殺出来る事で、彼方此方(あちこち)で重用されているんだ」


 いいか?と、相手は念押ししてきた。


「術の存在や、暗示で臓器不全にされる可能性を知っている人間には、暗殺術は通用しない。此れで御前は掛らない」


「暗示で、人が、死ぬ?」


「心不全だ。簡単な話だ。其れで、証拠も無く人が殺せる。()(ばる)(れい)(いち)には気を付けろ。御前が暗殺術を知っている事を、知られるな」


「そんな…。(おさ)が、暗殺を…。だって、(じゅつ)は暗示に使っちゃいけないって、戦後、祈祷師(ウセンシ)にも見張りが付いたって…」


「其れは、俺が当時の清水本家当主に進言して付けてもらったんだよ。(じゅつ)の悪用を避ける為に。誰かが、(じゅつ)の悪い使い方に気付かないとも限らなかったからな。結局、(おさ)が暗殺を遣っているという、最悪の結果になってしまったが」


 神の字を授けた子よ、と、相手は言った。


()(おす)(りゅう)を掴む者。治水(ちすい)水分(みくまり)は蛇神、龍神、山の神。人間の身には過ぎた(まじな)いを乗せたが、如何(どう)か御前が、悲惨な運命から、出来る限り逃れられる(よう)に。地震(なゐ)の神の御加護が有るように」


地震(なゐ)の神?…(なえ)の神だよね?五穀豊穣、子孫繁栄の神なんでしょう?」


「本来は、地震(なゐ)の神。大地(なゐ)()る神だ。地震、そして、火山の神なんだよ」


「…じぃちゃん、如何(どう)して、そんな事知ってるの?」


「…さ、今日の事は忘れなさい。大事な事だから、必要な時が来るまで」


「…じぃちゃん?」


(くず)(こうぞ)(ふじ)(つる)、天の蚕を敷き紡ぎ結い()()(まと)いて、強き子を増やせ。()(こめ)、海は(うお)()て、(わざわい)去る。姿見えぬは山の(かみ)(なり)、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた(かみ)(なり)(りゅう)(じん)(なり)()()ふる山に(よな)(ぐもり)(よな)(いね)なり、(よな)程実る、神の田よ。月の神は山の(かみ)(なり)、山の神は田の(かみ)(なり)。神の田を耕せ」


―駄目だよ、じぃちゃん。(じゅつ)を暗示に使っちゃいけないんだ。



木戸(きど)()わん 「身分が違う」という意味。

末っ子(シッタレ)「尻垂れ」が訛った言葉。「たれ」は接尾語で、「尻」は「最後」の意味。最後の子。

()を言うな 目上の者に口答えするな、という、土地の風潮。

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