おイワさん
「やっぱり九州は日の入りが遅いな。十七時でやっと、此の明るさかよ。…つーか、思ったより早く天神に着いちまったな…。治、歩く速さが俺とそんな変わんねぇんだな。四、五十分くらい、何処かで時間潰すか」
「…そっか、東京とかだと、もう真っ暗ですよね。鹿児島だと、もうちょっと明るいけど」
「おお、十一月ともなれば、十六時半頃には真っ暗だよな、東京は。初めて行ったときは驚いたよ、ビル風も強いし」
「あー、折り畳み傘、ビル風で一本駄目にしたな、そう言えば」
しかし、都会は、出身地より日暮れが早くても、ビルの灯りが雲に反射している気がして、夜も空を仄かに明るく感じるので、治一は、ビルの灯りとビル風の強さを思うと、瀬原集落を出てきたな、と、強く実感して、ホッとする事が有る。
誰も自分を知らなくて、柵も何も無い、自由な人間だと、自分の事を錯覚する事が出来るのだ。
「天神中央公園でも行くか?此の辺から歩いて五分か其処らで着くだろ?」
賢顕の提案に、いいですね、と治一は言った。
「行った事は無いけど、綺麗らしいですね」
「おー、確か、県営でな。平成元年に出来たばっかりらしいぞ。あそこも、病院が近いんだよなぁ」
「へー、そんなに新しいんだ」
「おう、噴水とか在るぞ。行くか」
道すがら、賢顕が、自動販売機でミネラルウォーターを買ってくれたので、此処まで歩いて来て、少し暑く感じてきた治一は、有難く其れを頂戴した。
公園に着く頃には、空が、夕日のオレンジと、サーモンピンクと、ごく淡いパープルとネイビーの、美しいグラデーションになっており、太陽が、其の日最後の輝きを、地平線に仕舞う時間帯になっていた。
そして太陽の代わりに、早くも、一番星や、三日月と半月の真ん中くらいの太さの月が輝きを見せ始めていた。
治一は、暗くなってしまう前の、此の一瞬の、多彩な空の様子が、割合好きだった。
―何時だったかな。岐が、オレンジが、ギュウギュウ潰されてるみたい、って言ったんだ、夕日が沈むのを見て。
きっと、あの日も天気が良い日で、美しい夕焼けが見えたのだろう。
夕暮れは不思議だ。
見詰めていると、治一は何時も、こんな時間に空を眺めていられる事に、何処と無く自由を感じるのだ。
昔は、早く帰って来いと叱られていたが、其れでも、夕暮れになっても、焦る事をしなかった。空が次第に暗くなって、ネイビーが、だんだん黒になっていく様子を見るのが好きだった。
曇りの日も、月明かりが雲を光らせて、雲の縁の黒い闇がネイビーになるのを見るのが好きだった。
ネイビーを濃くすると闇になり、明るくすると青空になるのだと、幼い時は、漠然と思っていた。
そう、空は、治一がどんなに悲しくても、美しく変化する事を止めない。黒い闇になってしまっても、一番暗い夜明け前を超えると、再び、明るく輝き始めるのだ。
―うん。口に出すと在り来たりになっちゃうんだけど。夕暮れって嫌いじゃない。空も。
治一が、ミネラルウォーターを飲みながら、芝生の上で立ち尽くして、ぼんやりと空を見上げていると、隣で、治一と似た様な事をしていた賢顕が、日が沈んだな、と呟いた。
時間帯と立地のせいか、結構、芝生や噴水の近くの彼方此方で、似た様な姿勢で空を見上げているカップルも多く、無関係なのに連帯感が有る様な、しかし柵が無い様な感じがして、其れもまた、治一に、自由を感じさせた。
「スッキリしたか?人間、偶には泣いた方が良いぜ」
「そうなんですかね?…でも、スッキリはしたかな…」
「おう。泣かないとな、引き摺るぜ」
「…引き摺りました?」
「引き摺ったよ。俺の話は大体が経験談だぜ?人生の貴重な先輩だろ」
「…成子って…了祖父ちゃんのお姉さんでしたっけ?里を出て…行方不明になったっていう…」
其のせいで、大正末に出奔した富という坂元本家の女性の件に加えて、更に、坂元家の、瀬原集落に於ける立場が微妙になってしまったので、治一としては、其の名前を聞くのは複雑である。
しかし何故か、誰に聞いても、彼女の出奔という行為自体を貶す者は有っても、口を揃えて『美人だった』と言い、誰も彼女自体を貶さないので、如何いう事なんだろう、と、治一は内心思っている。
今日も、例に漏れず、賢顕は、成子の美貌を褒めた。
「おうよ。すげー美人だったぜ?御母さん似の」
「ああ、うちの曾祖母ちゃん、美人だったらしいですね」
「お初さんは泣き黒子の美人って有名だったよな。昭和の頭くらいの頃、小町娘だったらしいぜ」
賢顕は、ゴクゴクとミネラルウォーターを飲んでから、続けた。
「成子とは同い年でさ。でも、幼馴染過ぎて、俺の存在が男だって事にも気付いてなかったんじゃないかな」
「…そんな事有ります?」
「いやー、終戦間際くらいか?一緒に風呂入ってたもんな、あの頃。そんくらいからの、男女の区別なんか無かった頃からの付き合いだからな。印象が更新されなかったんだろ。少なくとも、恋愛対象にはならなかったのさ」
「…あー、そんなに?確かに俺、幾ら幼馴染でも、風呂に一緒に入った事は無いな…」
時代だよな、と言いながら、賢顕は、空になったペットボトルの蓋を占めた。
「家も、内風呂ったって、五右衛門風呂でさ。今とは全然違うんだ」
「ああ…。うちも、五右衛門風呂、残してますけど、使ってないですね。親父が炊事場の端を増築して、ガス湯沸かし器付きの風呂を作っちゃったから。炊事場も、土間は残してあるけど、竈はもう無いし、ガスコンロが付いてて、俺、薪も集めた事無いや。上座敷にはテレビと炬燵も在るし、囲炉裏の部屋にもエアコン在るんで、自分じゃ火を熾さないし」
治一の家の敷地の近くに有った実方医院別館も、使わなくなって、管理出来ないから、という理由で、昭和五十七年、治一が四歳くらいの時に解体工事が行われたのだ。
其の、廃墟と化す寸前の白い建物に忍び込んで遊ぶのが好きだった治一としては、其れが多少残念だったので、幼かったが、覚えている。
あんな立派な建物でも、時代が過ぎ、使われなくなったら解体されてしまうのだ、と、あの時、漠然と思ったのだった。
しかし、昭和五十三年生まれの治一は会った事が無いが、昭和四十四年に、賢顕の義父の辰顕の母の景、昭和四十六年に、辰顕の父の俊顕が亡くなり、病院の建物を管理する側の人間が次第に減ってきていた事は確かだった。
昭和六十一年には、病院関係の雑務を手伝ってくれていた、顕彦の妻の安幾までも、六十八歳で、老人性の肺炎で亡くなってしまったので、益々、管理者側の数は減り、敷地を相続したのが治一を残すのみとなった今となっては、其の時期に解体したのは英断だったかもしれない。
「時代だなぁ。あー、そうそう、行水って分かるかい。もう、あの頃は、何処の家も子供が多くて。何人も纏めて、並ばせて、逃げ出す奴は順繰りに捕まえて、大人が、次々、流れ作業みたいに子供を洗ってくんだ。そんで、あれだ。思い出した。終戦間際っつったら、暑かったんだよな。八月だった。其れこそ、御前が今住んでる、坂元家でさ、井戸の周りで、子供大勢で、行水させてもらってたんだけど」
「あー、うちの井戸の、あの辺ですか」
井戸も、残しては有るが、蓋をして、もう随分になる。子供が遊んで危ないからと、随分前に鶴瓶も取ってしまった。水道が有れば、敢えては使わない物なのだ。
そう、あの辺だ、と賢顕は言った。
「ある日な、成ちゃんが、行水の時間になると、ピュッと逃げだす様になっちまったんだよ。恥ずかしいから御母さんと御風呂に入りたい、と、こう言うんだな。あれが、十歳だったな」
「ああ、十歳くらいだと、井戸の周りで裸ん坊、っていうのも、そろそろ嫌がるかもなぁ」
「其れで、ああ、そうだったのか、って思ったんだよな。女の子だったっけ、って。思えば、あの辺から意識する様になったんだな。…裸を見られるのは恥ずかしがるのに、終ぞ男として意識してもらえなかったのは…。何でだったのか。眼中に無い、って感じだったなぁ。俺の方も、長男だったし、早めに婚約者が決まっちまってて。其れがまた、成子と同い年で、割と仲が良くてなー」
「ああ、ワコおばちゃん?」
「そうそう。おイワだよ」
「…もう、止しなって」
伊羽子は、賢顕の嫁で、清水分家の娘だった。
治一の祖父、薫陶の姉の子で、遠縁の親戚という事もあってか、治一の事も可愛がってくれる、気の良い人物である。
しかし、止せばいいのに、賢顕は、細君を、時々、おイワと呼んで揶揄う。そして、其の四谷怪談風の呼び名を好まない、医療事務の伊羽子に、医師の賢顕が睨まれる、というところまでがセットの、夫婦のじゃれ合いの様な、傍目には気不味い遣り取りが、病院内では未だに行われている。
多分、今にして思うと、其れは、賢顕なりの愛情表現なのだろうが、治一を含めた、周囲の子供達には其れが分からなかったので、伊羽子に気を遣って、子供達は、彼女をワコおばちゃんと呼ぶようになった、という、微妙に笑えない逸話が有るのだった。
「まぁ、良いだろ。良い奴だからな、伊羽子」
「…奥さんの褒め方、新鮮だなー」
「人間として良い奴だから、長く一緒に遣っていけてんだぜ?医学部生だったから、六年間大学生で、国家試験受けて受かってから、二年研修医を遣って、市立病院に御礼奉公した後に、二十六歳で入籍したから、豪く待たせた上に、其の間勉強してくれて、結婚前に医療事務の資格まで取ってくれてよ。良い奴が一番だよ。金もちょろまかさねぇし、信頼出来らぁ」
「…ちょろまか…。うん、そりゃ、手癖の悪い人よりはね…?でも、もうちょっと言い方有りそうなもんだけど…」
「そんなん、綺麗な言い方したって『横領』が関の山だろうがよ。こっちゃ病院経営しながら、飯食う暇も惜しんで、子供二人育ててたんだぜ?未だに碌に食えてねぇけどよ。息子二人共、国家試験に受かってくれた時にゃ、夫婦揃ってホッとしたもんだよ。白髪もそりゃ増えたさね。もう、息子の大学受験の度に五キロは痩せてたからな、夫婦して。生活は綺麗事じゃねぇんだよ。御前も、良い人間と娶せられるといいなぁ。そろそろ水配りだろ?」
―しまった、今好きな女、性格最悪だった。俺の仕打ちも大概だとは思うけど。
其の点では、相手の性格と、自分の、相手に対する意地悪さが釣り合っている様な気がして、治一が何も言えないでいると、おイワがさ、と賢顕が言った。
「成子が居なくなった時さ、泣いてたんだよ」
「え?」
「成子の妹の逸枝が亡くなって直ぐ、成子が居なくなっちまったもんだから。きっと、逸ちゃんが亡くなったのがショックだったんだ、ってな。伊羽子は、一回も、成子を悪く言わなかったんだよ」
「…そっか、其れで?」
「其の場で求婚したわ。御前、良い奴だな、っつって」
「…其の時、既に婚約者だったのに?」
話の展開についていけなくなった治一は、思わず、手にしていたペットボトルを掴み潰しながら、目を瞬かせて、聞き返してしまった。
賢顕は、だってよ、と言った。
「そんなん親同士が決めた事だったからよ。まー、別に不美人でもないし、ラッキーだったかな、グチグチ言いそうでもねぇし、くらいの、すんげーライトな感じの受け入れ方をしてたんだけどよ、当時」
「…うん、俺の想像より大分ライトだったね、其れ」
「なーんだ、思ってたより良い奴だったんだな、と思って。一緒に暮らせそうだなって思ったんだよ。だから、結婚しようぜって言った。俺ぁ、自分で結婚決めたんだぜ?」
「…すごっ」
結婚って何だろう、と、治一が呟くと、最初は勢いだよ、と言って、賢顕は、ニヤリと笑った。
「続くか如何かは運と信頼だな。そろそろ水炊きの店に行こうぜ」
賢顕が勢いだと言うと説得力が有るな、と思いながら、治一は、はい、と言って従った。
―あ。そうか。
如何やら、本当に、自分は、あの性格が悪い女が好きらしい事を、何と無く再認識しながら、治一は、夜の公園から去った。
『山行かば』の建物が、昭和二十年以降、如何いう変遷を辿ったか書けて良かったです。
顕彦さんは長生きですが、戦後、昭和から平成に入るまでに、結構な数の人が亡くなっています。




