御祓い
「え?彦じぃと賢おじちゃん?」
玄関で、岐顕の驚く声がしたかと思うと、稍あって、リビングに、黒いナポレオンコートを着た顕彦と、キャメル色のトレンチコートを着た賢顕が入ってきた。
「…おい、岐。事故物件に赤ん坊連れて来る奴が有るか。治、世話ぁ掛けちまったな」
「賢おじちゃん、久し振り。…分かってくれて嬉しいよ…。今日初めて、意見の合う大人に会った。見た目マフィアみたいだけど、二人共」
「バーバリーのコートの何処がマフィアだよ、治。黒のコートは兎も角…」
「いや…強いて言うなら、似合い過ぎちゃってるとこかな、二人共黒いスーツだし…。賢おじちゃんのジュラルミンケースも何か…」
怪しい運び屋みたい、という言葉を、治一は飲み込んだ。
去年還暦を迎えた筈の賢顕もさる事ながら、今年米寿の顕彦の、スタイルの良さが、怖いくらいである。
身長は、二人共、岐顕や治一と横並びで、如何考えても、彼等の世代の男性にしては身長が高い。
其れが、仕立ての良い黒のロングコートや、ブランド物のキャメル色のトレンチコートに身を包んでいて、しかも、二人共、髪色が、黒と金と白の三色なのだ。
本人達曰く、遺伝から来る体質で、大体、四十五歳から五十五歳くらいになると、白髪が増えて来て、黒髪から、此の様な髪型になるらしい。
硬そうな黒髪にメッシュを入れた、という表現が一番近いかも知れないが、綺麗な珍しい髪色で、加えて、二人共、顔も妙に整っているので、俳優ではないのであれば、堅気の感じが全然しないのだ。
―でも…平成に入っても、未だ隠れ里の、祈祷なんてものを生業にしてる場所の人達だから、裏稼業の人っちゃあ、そうかな…。
実際のところ、賢顕は医師なのだが、見た目と出身地を考えると、何が本業なのか、治一は幼い頃から、近所の小父さんとしても、曽祖父や父の同僚としても、散々世話になっていたというのに、今ひとつ分からない。
「さ、岐。顕彦さんと一緒に、百道浜のマンションに行けよ。事故物件に住むバイトとやらは、暫く、俺が肩代わりしてやるからよ」
―百道浜のマンション…?何の話だ?
「え…?賢おじちゃんが?俺、治と…」
「御前、こんな薄汚い、クリーニング業者も入ってない場所で、一ヶ月も赤ん坊を寝泊まりさせる気か?不衛生だぞ。其れは冷静な判断か?龍がハウスダストアレルギーとかに後からなっても、本当に後悔しないか?俺は職業柄、目に見えない黒黴の方が幽霊より怖ぇよ」
治一が其れを言った時は、あまり頭に届いていなさそうな様子だった岐顕だが、医師に『不衛生』と言われ、『其れは冷静な判断か』と聞かれると、困った様な顔をして黙ってしまった。
「俺、明日から福岡で学会なんだわ。バイトったって、アレだろ、毎日此処に住む必要ないだろ?不動産会社の告知義務だけの問題なら、次の人間が入るまでに、一回他人に貸した事実が残りゃ良いだろ。俺が此処を掃除して、何日か泊まってやるよ。ああ、今夜は、ちょと治を借りるな」
「賢おじちゃん…」
そんな顔すんな、と言って、賢顕は、右手で、ポン、と、軽く、岐顕の肩を叩いた。
「運転して、顕彦さんを百道浜のマンションまで連れて行って差し上げろ。そんで、床屋行け。明日また、連絡するから。な?」
顕彦は、黙って、眠っている龍顕を、バスタオルとブランケット毎抱き上げると、優しく、ポンポンと背中を叩いた。
眠った儘の龍顕が、安心した様に、顕彦の首に、自然と手を回して抱き付くのを見て、岐顕は、悲しい顔をして、分かった、と言った。
「…ごめん、治。俺…」
岐顕の表情が、あまりにも哀切だったので、治一は、慌てて、いいよ、と言った。
「二十時に、レンタルの布団が、二組届くんだろ?受け取っておいてやるから」
岐顕が、有難う、と言うと、顕彦も、有難うな、と言って、岐顕を連れて、玄関の方へと向かった。
治一は、油絵を見ないようにしながら、玄関に一番近い和室から、岐顕と龍顕の荷物を取って、岐顕に渡してやった。
「あ、龍。其処、如何した?」
今までは気付かなかったが、龍顕の、寝癖でグチャグチャになった、フワフワの旋毛の辺りに、一房、金色と言って良いくらい、色の薄い髪が生えていた。
ああ、と言って、顕彦が微笑んだ。
「実方家の男はな、こういう髪が生えるんだよ。ほら、俺や賢みたいな、金色の髪がな。生まれ付き、何処かに生えてんだ。な、岐」
「あ、うん」
岐顕は、ポニーテールを解いて、両耳の上の髪を持ち上げて、金色の髪が一房ずつ生えているのを見せてくれた。
「へぇ、知らなかったな」
「うん、見せた事無かったね」
すると、龍顕が目を擦り始めたので、顕彦が、行くぞ、と言った。
「車に乗せると起きるかもな。あんまり長く寝かせると、夜寝ないから、丁度良いかも知れないが」
「さーて。掃除すっか。あ、悪ぃ、治。服貸してくんねぇか?スーツしかねぇ。洗って返すからよ」
「…良いですけど」
「有難うな。天神の、水炊きの店、予約してあっからさ。夕飯奢るからよ」
「あ、有難うございます…」
「折角来たからにゃ、中洲の屋台の方に行くか迷ったけどよ。何か、博多駅から来る途中にタクシーの窓から見ても、スゲー混んでて、嫌になったわ。アレだろ、四月に、何か出来たんだろ?キャナルシティ博多だっけか。那珂川の辺りを運河と表現するたぁ、洒落てるね」
「あー、何か、出来たらしいですね。岐が、劇団四季がどうのって」
「ああ、専用劇場だったっけかな。相変わらず多趣味だな、あいつ」
さー、掃除だ掃除、と言って、矢鱈スタイルの良い六十代は、コートを脱ぐと、椅子に掛けた。
治一の貸した、予備のジーンズと、臙脂色のタートルネックセーターに着替えた賢顕は、サッサと腕捲りし、バケツと雑巾の準備を始めた。
「大濠公園まで行って、ドーナッツ買って、掃除用具も調達してきたってかい。感心、感心。お、風呂用洗剤に、箒まであんのな」
「…俺の服入っちゃうんだ、賢おじちゃん。還暦過ぎなのにスタイル良過ぎて怖い…」
「怖いは余計だろ。粗食だから太れねぇんだわ」
「あー、食べる暇ないんでしたっけ…」
「もー、忙しくってよ。仕事の日は大体、一日、一食から一食半って感じよ。腹減るからさ、朝飯を多めに摂って、で、軽めの昼飯を食うのが夕方になる事が有って、そうなると夕飯が入んねぇのよ。忙しいと、其の昼飯も無しで、風呂入ったら寝ちまうとかな。手術前と学会前は、三日前から酒も飲まない事にしてるしな。休肝日も長ぇ。食える時に肉食いたいんだ、付き合ってくれよ」
「其れでも鶏の水炊きか…。ヘルシーだな…」
「いや、博多に来たら食っとけ、水炊き。旨いから」
「旨いんだろうし、味に疑問を感じた事は無いんだけど…。何か、脚も長くて、マジで怖い、賢おじちゃん」
「実方の血統みたいなもんだよ。大体身長も横並びで生まれて来るんだ。偶に、弁護士の将顕さんみたいな人も居るが、別に、あの人だって横這の小短躰じゃねぇだろ」
「ああ、まぁ、確かに。あの年代の平均身長っていうのかな。スタイルも悪い訳じゃないし、御洒落な人ってイメージですよね。なんか、実方さん達って、平均的に、皆見た目が良いんだよな…怖い…」
「だから、怖いは余計だっつの。まぁ、御前の祖父さん達程は、男前かは分からんがなぁ」
「…いや、了祖父ちゃんもだけど、清水の祖父ちゃんの若い時の写真も、ヤバかったですね。腰抜かすかと思いました。軍服のやつ。何か、双子だったらしいですね、祖父ちゃん」
「薫陶さんな。御前、似てるよ、やっぱ。栄さんにも似てるけど。や、これまた、御前の曽祖父さんの栄さんってぇのが、おっそろしい美形だったんだけど、時代的な話で、若い頃の写真が殆ど残ってねぇんだよな。勿体ねぇ。Du hast den Farbfilm vergessen, mein Michiko! Nun glaubt uns kein Mensch, wie schön's hier war - haha haha!」
賢顕は、何かを軽快に歌いながら掃除を始めた。
伶人の家系の人のせいか、豪く歌が上手い。
「何?其の歌。…みちこ?」
「俺が作った替え歌だよ。ドイツ語でな。『カラーフィルムを忘れちまったんだろ御前、あんなに綺麗だったのに白黒で写っちまって、勘弁してくれよ、今となっては誰も、此処がどんなに綺麗な場所だったか信じてくれねぇじゃねぇか、笑っちまう』みたいな歌だ。Hoch stand der Sophora am Garten von Sebaru」
「瀬原?…どんな替え歌?」
賢顕は、元は風刺の歌なんだよ、と言って笑うと、答えてくれなかった。
「悪ぃ、治。風呂場の掃除遣ってくんねぇか?」
「…はい」
「さて、キッチンも終わった。水拭きも終わった。後は乾拭きだ。掃除機も無いし、畳も水拭きと乾拭きになっちまったのは痛かったが。茶殻でも有れば良かったなぁ」
「茶殻?」
「あ、さては掃除機の時代の子だな、御前」
「そ、掃除機の時代って何…?」
「掃除機が無い時代はなぁ、急須で飲んだ後の御茶の茶殻、分かるか?飲み終わって未だ少し湿ってる茶殻の水気を絞ってから、畳に撒いて、其れを箒で掃いて埃を取ってたんだよ」
「…ごめん、賢おじちゃん。そんな事言われたら、もう絶対、掃除機の時代の子だわ、俺」
「まぁ、もう、平成だしな。先にワイパーは掛けてくれたんだな、助かったよ治。…いやぁ、赤ん坊に、何処で飯食わせてんだ、って、ゾッとしたわ」
「…分かってくれる大人が居て良かった。もう…俺、龍の健康が気になって気になって」
「いやー、御前、病院で育った子だもんな。感覚が俺と近いのかもしれん」
「また病院で育った子って言われた…。まぁ、曽祖父ちゃんも父さんも医者でしたけどね…」
―思い出したくなかったのにな。
しかし、いい加減、十五の時の自分に起きた出来事と向き合う時期なのは、分かっているのだ。
―そう、福岡の、西区の…今宿の病院まで、タクシーを飛ばしてもらって。十一月だったな、あれも。
物思いに耽りそうになった治一に対して、賢顕が、秘密にしててくれるか?と言った。
「ちょっと、御祓いするからよ」
「…え?」
賢顕は、リビングの真ん中で、パァン、と、良い音を立てて、両手を打ち鳴らした。
「ふむ。此処かな?」
賢顕は、場所を移動すると、畳の部屋の押し入れを空け、再び、パァン、と、良い音を立てて、両手を打ち鳴らした。
「成程、真っ直ぐ行くと、キッチンとリビングの境目くらいか」
賢顕は、そう言いながら、キッチンに移動して、コンロに向かって手を合わせて、何事かを唱えた。
「そもそも敬い、謹みて申す。夫れ、三宝大荒神は一切衆生、未生いぜんの主なり。その眷属は九億九万八千五百七十二神にまします。されば荒神は諸神の氏神、よろず人の産土神となり賜う。また影の如くにしたがうは、みな、荒神のなすわざなり。不信心の家には悪事、災難常にきたる。奥堅固の家には災禍の難を受くることなし。かるが故に彼の眷属を守護神とし、悪事、災難ことごとく他方万里の外に吹き払うとの御誓言なり。舎利ほつ、荒神に問いたまうに、荒神こたえて曰く、我が眷属は芥子の如くに変じて、微塵の如くに散乱す。我を信ずる輩は常に富貴繁盛、子孫長久、息災延命を護らせ賜うとの御誓願なり。唵剣婆剣婆蘇婆訶。唵剣婆剣婆蘇婆訶。唵剣婆剣婆蘇婆訶。唵剣婆剣婆蘇婆訶。唵剣婆剣婆蘇婆訶。唵剣婆剣婆蘇婆訶。唵剣婆剣婆蘇婆訶」
唱え終わると、賢顕は、再びリビングの中央に戻ってきて、手を合わせて、言った。
「我、此処に派遣されたる者なり。今より場を清浄し、制圧させて頂く。悪鬼よ去れ、悪鬼よ去れ、悪鬼よ去れ」
其の儘、賢顕は、悪鬼よ去れ、と呟きながら、丁寧に部屋中を乾拭きしていった。其の様子を、治一は、呆然としながら見守っていた。
「さ、終わった。こんなもんだろ。さ、飯行くぞ。ちょっと早いか?カフェでも入って時間潰すか?」
「賢おじちゃん、何?今の…」
「今ので雑霊は居なくなったと思うぜ。後は、出て来てもらわねぇと祓えねぇなぁ」
「え…?」
結局、治一が強請て、歩いて天神に行く事になったので、賢顕は、明治通りを歩きながら、おいおい、と言った。
「折角、地下鉄空港線の駅が近い物件なんだから、唐人町駅から電車に乗ろうぜ?店は十八時からの予約だから、歩いたって間に合うけどよ」
「無理だよぉ。こんな話、電車で出来ないよ。誰にも聞かせられないぃ」
「信じやしねぇと思うけどなぁ」
「賢おじちゃんが秘密って言ったんじゃん」
もうやだー、と言って、治一は顔を覆った。
「やっぱり事故物件だったんだぁ」
「いや、やっぱりも何も、今更。事故物件だったろ?最初から」
落ち着け、と言って、治一が貸した服の儘、治一の黒いパーカーを上に引っ掛けた賢顕が、ポン、と軽く、同じく、ネイビーのブイネックセーターの上から青袋鼠のパーカーを引っ掛けている治一の背中を叩いた。
「天気が良くて、セーター着てりゃ、コートも要らねぇような、良い陽気で。しかも、此れから天神で水炊き奢ってもらえんだぜ?御前。良い日じゃねぇか。何の問題が有るよ。命を取られるでもなしよ」
「問題…」
そう言われると、治一は困った。
何が問題だと言えば、全て問題な気もするのだが、事故物件だと分かっていたのは確かだし、暢気に其処でドーナッツなど食っておいて、確かに、今更、と言われれば其の通りだった。
実際に霊障が有ったというわけでも無く、今日した事と言えば、乳幼児の世話と掃除くらいのもので、普通免許を持たない自分が、親友の運転する車で福岡に来て、公園に行き、眺めの良いマンションの一室で喋っていただけ、とも言える。
「…天気も良くて?…良い日、だったのか、今日は。ただ、矢鱈、衛生面が気になって、怖かっただけで…」
「そうだな…。其処に赤ん坊が居たのだけは問題だったな…」
大丈夫だよ、と、賢顕は明るく言った。
「何だか分かんないから怖いんだよ。大体の事が分かりゃ、対処も出来るし、怖かない」
「…『大体の事』…?」
「金使って調べたんだが、先月、リビングのソファーで住人が亡くなってたんだな。独身男性一人暮らし。住人の死因と職業は分からんかったが、ま、其の辺は祓えたろ」
「…だからソファー無かったんだぁ…」
うわぁ、と言って嘆く治一に、賢顕は、尚も明るく言った。
「あ、思うよな。あの間取りでテレビとダイニングテーブル残ってて、テレビの正面に、コーヒーテーブルもソファーも無い。ダイニングテ―ブルはキッチンに寄せてあるし、ソファーが元々無いとなると、テレビの角度がおかしいんだよな」
「賢おじちゃん、俺、『大体の事』を聞いても、あんまり怖さが減らないんだけど…」
「そうか?第一、あの物件の問題は、先月人が死んだ事じゃないからなぁ」
治一は、あまりの驚きに、短く息を吸い込んで、喉をヒュッと鳴らしてしまった。
賢顕は、ニコニコしながら言った。
「押し入れからキッチン、玄関に向かって真っ直ぐ、霊道が通ってんだよ。其れ程悪いもんじゃないから、赤ん坊も平気で寝てただろ。別に霊道が悪いんじゃないんだよ。店舗とか仕事部屋には向いてるが、寝室には向いてない物件って事だな。特に、病気の人間には良くない。気力が充実してないと引っ張られるからな。大方、あそこの住人も、体調を崩したところに引っ張られたってとこじゃないのかな」
「…いや、あの。え?霊道?」
「そうそう、で、多分前は、其の霊道を塞ぐ様に、玄関入って直ぐの壁に油絵が飾ってあったんだよ。額を掛けてた金具の痕跡が壁に残ってた。あれが良くないんだ。額装の硝子が鏡の役割をして、霊道を塞いじまってたんだな。額の裏に御札が貼ってあったけど、逆効果なんだよな。住んでる人間も、何かザワザワして、如何にかしたかったんだろうなぁ。違和感が有って和室に絵を移動させたってところかな。あの絵は外した方が良いな、と思って、畳を乾拭きする時に、ついでに外して、布で包んで、玄関に近い方の和室の押し入れに隠してきた。…おい、どうした、治。立ち眩みか?」
「…いや、だから、あの絵が怖かったんだ…。…続けてください」
「そうか?で、まぁ、御札を外しちまったんで、御札で抑えてた分は、今夜出て来るかもなぁ。あと、霊道の辺りは賑やかになるかもしれんが。抑、寝室向きの物件じゃないから、其処は諦めが肝心だな」
「御札で抑えてた分…?」
「そう、彼方此方から霊道目指して来るんだな、雑霊が。で、角度的に、ちょっと、溜まっちまうというのかな。あの、玄関に近い方の和室に。で、そういう意味じゃ、御札も効果が有ったんだが。霊道を優先しないとワチャワチャするからな。交通整理だ」
「今夜出て来るかもって言いました…?」
「そりゃ御前、出て来てもらわんと、祓えんからなぁ。いいか?祓ってほしくて出て来るんだぞ?成仏したいんだ、相手は。だから縋って来る。其処からが仕事だ」
「賢おじちゃんって、何なの…?苗の神様の御祈祷と、全然遣り方違うし。大体、苗の神教の御祈祷は目晦ましみたいなもんだけど、本当に御祓いとか言っちゃうし。御医者さんだと思ってたのに…」
「あー。其れはな。俺の祖母さんが祈祷師だったのよ」
賢顕の弁によると、こうである。
実方分家、実方賢顕の父である尚顕の母、賢は、下花棚というところから瀬原集落に嫁いできた女性で、其の実家は、実は荒神様を祀り、御祓いの様な事をしていたらしい。
当時は、隠れ里とは言っても、未だ、周辺集落からの嫁取りは有ったらしく、実方本家前当主の顕彦の母、逸も、瀬原集落外の出身らしい。
「で、うちの祖母さんの実家が、そういう事を生業にしていたのが、廃仏毀釈で白い目で見られる様になったらしいんだな。隠すようにはなったが、近所じゃ嫁の貰い手が無い。そんで、祈祷の仕事で下花棚に行った苗の神教の祈祷師と、祖母さんの親父さんが意気投合して、娘を、うちの祖父さんの嫁にという事になったとか何とか」
「え?廃仏毀釈って…。結構最近じゃない?」
「おお。精々、江戸末から明治初期だろうな。其の頃は、隠れ里って言っても、他所から嫁取りはしてたんだよ。逸さんは春山からだったかな?水配りなんて制度が出来たのは昭和初期だぜ?俺が昭和十年生まれだからよ、やっと其の頃普及してきたか如何か、ってなところで」
「…そうなの?そう言えば、賢おじちゃんって、水配り遣らなかったんだよね?」
「おう。坂元家なんて、御前が初参加だろ?そんくらいのもんだったんだよ。あんなもんに伝統なんか無ぇ。何時まで経っても隠れ里をやめねえから、結婚相手が里の中で見付け難くなっちまったんで考案された、単なる婚姻統制制度だよ。隠れ里なんざやめて、ソトで相手見付けりゃいいだけの話だ」
「…そうなんだ…」
「んー、まぁ、生まれてなかった頃の話をされても、全部歴史みたいに感じちまうよなぁ。でよ、其の、賢さんっていう、俺の祖母さんから習ったのが、さっきの御祓い方法だよ」
「ああ、其処に話が戻るんだ」
「おう、だからよ、苗の神教の作法じゃないから黙っててくれな、って話だ。つっても、まぁ、話したところで信じてもらえるかは別なんだが。…そうだなぁ、『悪鬼』とか言っちゃってるから、かなり神仏混交した、仏教寄りの民間信仰だったんだろうな。俺の父親の尚顕さんは、此れを内緒で遣って、苗の神教の御祈祷とは別に稼いでたらしいぜ」
「…あ、そうなの?学校の先生だと思ってた…」
「おう、内緒な。あの人其れで、学費を自分で貯めて教職取った人なんだよ。御祈祷と御祓いと、後は、器用な人だったから、正月飾りなんか作って売って」
「…其れは凄い」
「な、だから、俺としては尊敬してんだよ。でも、親が苗の神教の御祈祷じゃない方法で稼いでました、とは、大っぴらには言えないだろ。だから、秘密にしてくれな」
「…はい」
「まぁ、今日は、助かったよ、岐を見てくれてて」
「岐?龍じゃなくて?」
「御前と居ると、笑って飯食ってたみてぇじゃねーか。やっぱり、楽しいんだろうな、御前と居ると。自分でも、御前と居ると元気が出るって分かってるんだろうな。ダボダボの服だから分からねぇが、かなり痩せちまったんだよ。だから、龍を連れて事故物件に来る、なんて無茶な事遣ったが、許してやってくれないか?多分、社会復帰のリハビリの心算なんだと思うんだ。向子に内緒でな」
「あ、そうだったんだ…」
「向子が知ってたら、龍を、こんな事に巻き込むのを許す筈ぁ無い。でも、顕彦さんは、今、岐から龍を引き離すのが怖いみたいなんだよ。何とか、龍が居てくれる事で、ギリギリ、岐が精神的にやっていけてるからな。…ちょっとおかしかったろ?話が噛み合わない、とかなかったか?普段しない様な、極端な事を遣るとか」
「あ…」
―そう、幾ら何でも、他人の持ち物を燃やす奴じゃないんだよな、普段は。燃やしてくれても構わない様な物ではあったにしてもさ。
治一の沈黙に対し、賢顕は、やっぱりそうか、と言った。
「…で、岐は岐で、龍が傍に居ても出来るバイトを、回らない頭で考えたってところだろうぜ。で、向子にバレたもんで、顕彦さんが向子に叱られて、福岡に迎えに行く事になったわけなんだが。顕彦さんは、岐の事も尊重してやりたいから、かなり迷ったみたいだったな。御前と居れば気分転換にもなるだろうしよ。で、岐を納得させずに瀬原集落に連れ戻すのも可哀想だって俺に言うもんで。偶然、俺も学会が入ってたからよ。一緒に新幹線で博多駅に来て、まぁ、一先ずは俺がビジホをキャンセルして、其の物件の仕事を肩代わりして、泊るって事にしたってわけだ。で、龍は、去年、岐が買った、百道浜のマンションに泊める、と」
「そうだ、岐、百道浜にマンション買ってたんですか…?」
「んー…。理佐と龍と、家族で住みたかったみたいでな。其れこそ、龍が生まれたから、百道浜のマンションを十二月頭に契約して、手続きついでに仕事してたら、理佐の訃報が入ったもんで。岐としては、忘れたいんだろ、理佐と其処に住みたかった事自体を。向子が社員に手入れさせてるから、物件としては綺麗だが。…悲惨だぜ。3LDKで、夫婦の寝室の他に、子供部屋が二つ在るんだよ。女の子も欲しかったみたいでな…。…御前を、リハビリみたいな事に付き合わせて、悪かったな、ホント」
「そんな…リハビリって…何時もは如何してたんですか?岐」
「夏くらいまで、龍の世話以外は、殆ど寝たきりみたいだったぜ。令一の名前を聞くと吐いちまうし」
「…長の?」
「ああ、其の辺りは、後で説明するよ。個室の店を予約したからさ。二十時に布団が来るって?其れまでにはタクシー使って戻ればいいよな。タップリ話そうぜ」
「…其れって…理佐が自殺じゃないかもって話と関係有ります?」
「…何処でそんな話聞いた?」
賢顕が、立ち止まって、治一の顔を見た。
早佐からだとは言えない治一は、いや、と言って誤魔化した。
「…赤ん坊が十一月二十三日に生まれて、十二月十日に首括るって…。そりゃ、育児ノイローゼとか、無い話じゃないだろうけど。床上げも済んでないのに、そんな…」
「ああ。瀬原衆から、龍の世話をする人を雇ってたからな。一人で何もかも遣ってたって程じゃねぇ。理佐が亡くなった後は解雇したが」
「…そうなんですか」
「令一を手引きした可能性がゼロとは言えないからな。其れで、此れからは、なるべく龍は実方衆で育てようって事になったんだよ」
「…長が犯人なんですか?」
「そんな証拠はないが。…諸事情で、証拠が無いからこそ、令一なんだろうって事になったんだよ。オマケに、自殺じゃないかもしれないとなると」
「…首吊りなのに、踏み台が無い、とか…?」
良く分かったな、と、賢顕は、驚いた様に言った。
「ま、其の辺りは、説明してやろうと思ってたから丁度良いや。…余程のアホじゃなきゃ、踏み台くらい偽装で残すよな、やっぱり」
「…証拠が無いのに、自殺だって思われない様な事、何で…」
此れは俺の勘だけど、と賢顕は言った。
「岐に自殺じゃないと思わせるためだろうな。『奪ってやったぞ』って示したいんだろ」
「…如何いう、…事ですか?」
「俺な、勘が鋭いんだよ。妙な事が分かっちまう事が有る。…多分、妬みの類の感情なんだと思うんだが、令一は、岐に執着が有るんだよ。岐は全く気付いてないが」
「長が…?表面上は、そんな感じしないですけど…。理佐の相手に岐を選んだのも、長だし。嫌いなら、妹の婚約者になんか選ばなければいいのに」
「…嫌いっていうのとも違うんだろうな。令一は、岐のものが欲しいんだと思うんだ。理佐の事も、奪ってやりたかったんじゃないかな」
「…命を?」
其れだけじゃないとは思うんだが、と、賢顕は言った。
「証拠が無い事は、個室で話そうか。…長い夜になるぜぇ」
「…俺…岐が、そんなに大変だったのに、一緒に居なくて…。親友とか、どの面下げて…」
「いや、寝たきりだったからな…。殆ど入院と変わらん感じだったから、御前が居てくれても、龍の世話くらいしかしてもらう事が無かったかもしれんが。其れより」
御前、理佐が好きだったんだろ、と賢顕は言った。
治一は、思わず目を見開いた。
「…其れも、賢おじちゃんの勘…?」
「経験による勘だな。だから、御前は御前で、理佐の事で傷付いてたのに、誰にも言えなかったんだろ。親友の嫁さんだったから」
治一は、知らず知らずのうちに、自分が、涙を零している事に気付いた。
賢顕は、治一の顔を見ない様にしながら、優しく言ってくれた。
「俺もな、昔、結婚出来ない相手が好きだったんだよ」
御前の大伯母なんだけどな、と、賢顕が言った頃、二人は、地下鉄空港線の天神駅の辺りに着いた。
※横這の小短躰 小太りの人。横に肥って背の低い人。「横張り」「こじっくり」の転訛からきた鹿児島方言。「こ」は、「小」、「じっくい」は、「ずんぐり」の転訛。デブの小男、みたいなニュアンスでしょうか。
尚顕さんの秘密も出てきましたね。
因みに此の物件ですが、十年くらい前に、入院中の母の看病の為に、父の友人の御厚意で、病院の近くに貸してもらった福岡の物件がモデルなのですが、未だに親戚の間で、『あれ、事故物件だったんじゃ…』と話題になってます。




