御焚き上げ
「唐人町商店街で良いって言ったのに、何で大濠公園まで車出すんだよ、岐…」
「ミスド在ったから…」
「じゃあ、もう天神まで行けば良かったのに、近いんだから…。絶対ミスド在ったよ…。まぁ、天気も良かったし、大濠公園で、ちょっと龍を遊ばせてやれたのは良かったけど。あ、そういや、明日は福岡、昼から雨らしいじゃん。傘は持ってきた?」
「…あー。如何だろ?車のトランクに乗せてるかな?雨、久し振りだしな…」
「いや、鹿児島も、六日も十一日も降ったじゃん。ゴミ出しの日が雨だったから、其れだけは覚えてるけど。冬に週一で降ってるのは多い方じゃね?」
久し振りに会った親友が、実は、思いっ切り頭が回っていない様子なのが、今朝から此処まで接してきて、治一にも段々分かってきた。
此の親友は、見た目程は理佐の死から立ち直っておらず、だから、正常な判断が出来ない状態で、龍顕を事故物件まで連れて来てしまったのであろう。
―話が通じる様で通じないというか、思ったより、極端な行動を取るというか。こんな奴だったっけって思うくらい。そりゃ、平気な筈ないしな。未だ、理佐の葬式から一年経ってないし。運転は上手いけど、此れで、高速飛ばしてたかと思うと…そういう事だったら、ついてきて良かったよな、福岡まで…。しかし、失敗した。
「…甘っ…」
結局昼食がドーナッツになってしまったので、治一は、口元を押さえながら、何とか、二個食べ終えた。
テイクアウトになって、事故物件のダイニングテーブルでドーナッツを食う羽目になったのまでは何とか了承出来たが、治一にしてみれば、此れでは食事ではなくて、おやつである。腹は膨れるが、甘過ぎて数は食べられないし、菓子を食べた、という感じがして、食事を食べたという気がしないのだ。
「…何か、駄目だ。食事の後に、デザートで食べれば良かった。其れなら多分、三個食っても平気だったと思うんだけど、単体だと一個で充分だわ。何か、空腹は満たされたのに舌が満たされない感じがする。しょっぱいもんが食いてぇ」
ブラックの缶コーヒーをガブ飲みする治一に対して、相当の甘党の親友は、龍顕に、乳幼児用のヨーグルトを食べさせながら、えー?と言った。
「そう?だから、飲茶にすりゃ良かったのに。店内で食べて帰ってくれば良かったじゃん、龍には、大人とは別に食事の用意が有ったんだから。粉ミルクだって、魔法瓶に入れた湯冷ましと一緒にスティックのを持ち歩いてんだから、何処でも飲ませてやれるし」
「…飲茶に、あんまり良い思い出がねーんだよ」
「えー、じゃ、ドーナッツじゃなくて良かったのに」
「…御前は食べたかったんだろ?」
「そうだけどさぁ…」
良い奴、と言って、岐顕は、クスッと笑った。
―ああ、御前にとっては良い奴だろうさ。御前に遠慮して、何年、理佐が好きだって隠し通したと思ってんだ。
だが結局、其の遠慮をしたのは、治一が、岐顕を本当に親友だと思っているからだった。
「ありがと、治。…本当は、ドーム見るの、嫌だったんだろ?なのに、ついて来てくれたんだ」
そんなんじゃねぇって、と言いながら、治一は、サッサと、自分が食べた物の片付けを始めた。
「そんなん気にしてて博多で仕事出来るかよ。ほら、ドーナッツ食べたきゃ食べてろ。俺はフローリング掃除するからな」
「…俺も遣るって」
「いいから、フローリング掃除が終わるまで絶っっ対、龍を床で遊ばせるなよ?抱いてろ。…俺は…こんな小さい子を、こんな汚い床じゃ遊ばせないからな」
先刻、龍顕の靴と繋ぎを脱がせた際に、其の、小さな小さな靴下の裏が黒くなっていたのを見て、治一は、叫び出したいくらい嫌になったのだった。
親である岐顕の判断力の低下は無理からぬ事だとは思うのだが、乳幼児に、其の判断力の低下から来る不利益を被らせる事だけは、治一は、如何しても承服出来なかった。恐らく自分の靴下も綺麗とは言いかねる状態なのだろうとは思うが、紺色なので見えないし、治一は自己責任で、事故物件だと知って入室したのだ。
だが、未だ一歳にならない龍顕に、そんな判断が出来よう筈も無い。
―嫌なんだよ、こんな小さい子が酷い目に遭うのは。
十五で一切の身寄りを無くしてしまってから、治一は、そう思う事が多くなった。他人事とは思えないのだ。特に、理佐の忘れ形見で、親友の息子だと思うと、治一は、龍顕に対して、如何しても愛着が湧いてしまう。
―いや、未成年だって言うなら、あいつだって…。
早佐の事を思い出すのは、此れが本日何度目か分からない。相手には、あの時、三日と言ったのに、早佐に一言も、何も言わず、一ヶ月逗留の予定で博多に来てしまった事について、治一は、物凄い罪悪感を抱いていた。
―だからって、伝える手段が有るわけでもないんだけど。電話すら掛け合えないからな。
そう、普段着も与えられていない少女に、電話を掛けたところで、あの屋敷の状況では、取り次いでもらえるかすら怪しい。
そんな場所に、殆ど外にも出られない様な状況で暮らしている未成年の女の子。
両親と姉に死なれて、兄の令一しか頼れない、虚弱な少女が、兄が怖い、兄が姉を殺したかもしれない、此処を出たい、と言っていたのを、無責任にも、体の関係だけ持って、其の儘、あの場所に置いてきてしまったのも同じ、と、治一は感じていた。
其れは、最初は確かに、相手から誘われたのだが、関係を持った回数と、其の、突発的であるが故の用意の無さから来る、結果に対しての無責任さについては、何の言い訳も出来ない。
―…立場を考えると、もう会わない方が良いんだろうけど。考え方としては最低な気がするんだよな、其れって。
だが、相手を保護したり、相手の、あの場所を出たいという望みを叶えたりするには、相応の覚悟が必要なのだ。あの場所から早佐を連れ出してやれないのなら、令一に、早佐と肉体関係を持った事を告白し、結婚なりなんなりを申し出て、内定しているであろう、早佐の水配りの相手を取り消してもらい、結婚の許しを得て、あの屋敷から、自分の手元に引き取らなければならない。
―理佐が殺されたとかいう話を、信じる、信じないは一回置いておくとしても。
権力者の妹で、既に結婚が決まっている、未成年の少女の部屋に忍び込んで、肉体関係を持った時点で、海外だったらショットガンを使用されても文句は言えない、という気がしている治一である。
―此の罪悪感を払拭する為に覚悟しなきゃならない、超えるべきハードルの数の多さときたら。でも、『もう会わなきゃいい』って、無責任過ぎないか?良いのか?此れで。
そんな葛藤が、近頃の治一の心を重くさせていた。
葛藤しながら、黙々とフロアワイパーをかける治一に対して、ゴメン、と岐顕は言った。
いいから、と、治一は言った。
「今、ドライシートで埃を取ってるから。其の後、ウェットシートで水拭きした後、雑巾で乾拭きだよ。其れまで其処を動くなよ。箒だと埃が舞いそうだからな…。食事中の人間が居るのに、流石に其れは…」
「…此れで、何で自分の事、綺麗好きで育ちが良いのを認めてくんないのかが謎だよなー…。で?飲茶の良くない思い出って何よ?」
治一は答えられなかった。
マジで女なの?と、驚いた様に岐顕が言うので、治一は、思わず咳き込んでしまった。
「『マジで』って如何いう意味だよ。ってか、飲茶の話を女と結び付けるの早くねぇ?」
「噂になってたから。えー?何?あの、中三までは医者目指して猛勉強してたクソ真面目な治が、マジで女遊びしてんの?とっかえひっかえ?…え、たった一年くらい会ってなかっただけだよね?俺達」
「誇張されてんだよ、そりゃ。其処までの数じゃねぇ」
「…待って待って。誇張、って事は、嘘でもないわけ?」
御前の嫁さんに死なれたのがショックで遣っていた気晴らしだとは親友に言えない治一は、誰から聞いたんだよ、と、誤魔化す様に言った。
「まー、予想はついてるだろうけど、吉野分家の一輝だよ」
「ウサギチャンか」
やめろって、と言って、岐顕は大爆笑した。
一輝は、何故か鞄を黒いリュックしか使用しない。そして汗っかきで、其の背中に背負われたリュックを降ろすと、リュックの形に、服の背中の部分に汗染みが出来ているのが常なのだが、其の、鞄部分から肩に掛ける部分が出ている汗染みの形から、治一は、何かと辛く当たって来る一輝の事を、心の中でだけ、ウサギチャンと呼んでいたのだった。
「…笑うって事は、岐にも、何の事だか意味分かってんだろ?あいつが、グレーとか水色の服を着てる時に、リュックを背負うのをやめりゃ済む話なんだし」
「悪口にしてもウサギチャンは的確過ぎるって。センス良過ぎ。そんな尖がった悪口言うと嫌われるってー。ただでさえ見た目良くてモテるから野郎に嫌厭されてんのに」
岐顕の弁によると、治一は瀬原衆の女の子に人気が有るとの事らしいのだが、治一本人は、全く其れを信じていない。
第一、見た目自体は、岐顕とて、然して治一と条件が違うとは思えないから、嫌厭される理由にはならないし、辛く当たられるのは、十五で交通遺児になった自分に、里での後ろ盾が無いからだと思っている治一は反論した。
「いや、今まで誰かに言った事は無いんだけど、既に嫌われてっから」
「面白過ぎるー。どーすんの、俺、次、あいつに会う時笑ったら」
ゲラゲラ笑う岐顕を見て、ヨーグルトを食べ終えた龍顕が、ニコニコしながら、どーちゅのー、と言った。
ヤバーい、と言って、岐顕は更に笑った。
「龍が覚えるじゃーん。ウケるー。教育に悪ぅい」
「覚えさせとけ。ウサギチャーン、ってな。…だから、此処に住まわす方が教育に悪いって、絶対」
龍顕は、ニコニコしながら、うちゃいたーん、と言った。
御喋り上手だなー、と、言いながら、治一は、サッサと、使っていたドライシートを裏返してフロアワイパーの棒に設置し直し、掃除を再開した。
「…震災の年に生まれた子だったから…今月の二十三日で一歳だっけ?言葉、早くね?」
「そうなんだよ。体も丈夫だし。離乳食も、六ヶ月で始めたんだけど、そろそろ本人がやめたがっててさ。噛み応えの無い物を嫌がるんだよ、御粥とか、短く切った饂飩とか。食欲も旺盛で、あんまり熱も出さないし」
「あー、其れで、よくパン食ってんの?龍。御粥、嫌かぁ」
「そうそう。あれ、口の中で溶けるパンなんだ。本当は一歳くらいからのパンなんだけど、誰が最初に与えたんだか、八ヶ月くらいから、しゃぶって食べる様になっちゃって。まぁ、御腹壊さないし、いいかって」
で?と岐顕は続けた。
「御粥と言えば中華粥かなぁと思って、飲茶の思い出の話に戻ろうかと思うんだけど」
「…会話のキャッチボール、変化球で来るじゃん」
「ウサギチャンなんか暴投じゃねーかよ」
言えって、と言って、岐顕はケラケラ笑った。
「あー、天文館のミスドで逆ナンされた時にさ…」
「…ミスドで?…俺、一回もそういう事無いけどな…。ドーナッツ食ってる時に何でそういう事になんの?」
「…其れは…御一人様で十個以上御購入なのに、御持ち帰りじゃなくて店内で御召し上がりになるから、怖がられてんじゃね?」
声掛け辛ぇよ、と心から言う治一に対して、あ、と岐顕は、何かに気付いた様に言った。
「…『天文館のミスドで』逆ナンされた時?其の時だけじゃないな?逆ナンされたの。さては。あー、治、自分から声掛けてないんだ。…何処で声掛けられんの?他は」
「モスとか?女子高生が多いよ、俺も未成年だし。OLとかだと保険のお姉さんとか」
「前世誘蛾灯かよ…。どんだけ引き寄せてんの?ハンバーガー食いに行ってるだけで、何で、そんな事になるんだ?…待って、仕事用の黒い手帳、もしかして、保険のお姉さんに貰った?」
「あ、分かった?保険加入しなかったけど、何か、くれたわ。タダだし、いいかなって」
怖い、と言って、岐顕が、右手を治一の方に差し出した。
「違う手帳買えって。何を勿体無がって使ってんだ。意外に倹約する奴なのは知ってるけど。そういう時こそ綺麗好きな育ちの良さを発揮させるべきじゃない?」
「…え?何?其の手。手帳渡せって?」
治一は、ま、いいけど、と言って、ジーンズのピスポケットから、仕事用の黒い手帳を出し、フロアワイパーを掛けながらダイニングテーブルの方に近寄って行き、岐顕に手渡した。
手帳を捲った岐顕は、ギャッと言った。
「半分に切られたプリクラ、こんなに挟まってんの?此の手帳…」
「え、去年の七月から出た物らしいのに、よく知ってるな、岐。何か、くれるんだよ、一緒に撮った後、半分。撮ったのは、池袋と…何処だっけな」
岐顕は、御焚き上げだ!と言った。
「こんなん持ってたら運気が下がる!」
「な、何?運気って。金運?」
恋愛運だよ!と岐顕は言った。
そんな運が実在するとして、恋愛としては地を這う様な運気である自覚が有る治一は、ギクッとした。
―もう直ぐ嫁ぐ、嫁入り前の、権力者の妹に手を出しましたとは言えないけど、まぁ、最悪だよな、恋愛運とか言い出したら。
抑、初恋の幼馴染が親友の婚約者になった辺りから、恋愛の運気などと言い出したら、ずっと低空飛行であるので、今更、こんな小さい写真ごときに影響される様な運とも思えないが。
「…いや、でも其れ、撮るのに四百円くらいしてんだぜ?こんな小さい、シールだか何だか分からん様な写真で」
「…いや、だから、其処を勿体無がるなよ。御前の出し前、精々、二百円とか四百円だろ、二人で撮ったら」
「いや?金出した事無いな。一緒に撮ってほしいって言われるだけで」
「…女子高生に四百円出させてんの…?割り勘すら無しで…?」
「いや、俺が頼んだわけじゃないから…」
はい、御焚き上げー、と言って、岐顕は、手帳から抜き取った、プリントシール機で撮影した写真シールの束を右手に持ち、龍顕を左腕に抱くと、キッチンの方に向かった。
「え?まさかコンロで焼くの?今?」
「勿体無いってのかい?こんなん里で見られたら、また妬まれて変な噂立つじゃん。…いやもう、噂でもないのかな…」
「え、や、でも、焼くのは違くない?」
「…龍ぅ?治ちゃんがシールくれるってー。シール遊びしよっかー」
「はるちゃ、ちーるぅ?」
「バッチいから触ったらいけませんっ」
治一は、そう言うと、フロアワイパーを放り出し、一目散にキッチンに向かうと、岐顕から龍顕を抱き取った。
ほらぁ、と岐顕は言った。
「龍に触らせらんない様な、バッチいもんだって、自分でも思ってんだろ?」
其れについては一言も言い返せない治一だったが、狡いぞ、と言った。
「龍を盾に取るなんて…」
龍顕は、治一の腕の中で、キャッキャと笑いながら、はるちゃ、と言った。
「うう…。俺の名前、もう言えるんだな…。ああ、もう、悪かった。龍、もっと良いシール買ってやるからな。あれはバッチいから、ポイしような…」
其れで良し、と言って、岐顕は、コンロの上に写真シールの束を置くと、本当に着火した。
「ばっか、御前、危ないだろ?せめて龍が御前から離れてから焼けよぉ。変な煙でも吸い込んだら如何する」
治一が、そう言って、慌てて換気扇を着けると、岐顕が、呆れ顔で言った。
「…もう既にシールの処遇より龍の健康の方が大事なんだよなぁ。良い奴なのに、何で…」
「あああああ、灰になったシールが、結局フローリングに舞い散ったじゃねーかぁ!今掃除したのにぃ」
「いや、そりゃ御前が慌てて換気扇着けるから、空気の流れが出来ちゃったんじゃん…。コンロの灰を片付けてからにすりゃ…」
「もういい、龍抱いてドーナッツ食ってろって!あーもー」
はいはい、と言いながら、岐顕は治一の言葉に従って、龍顕を治一の腕から抱き取ると、席に戻り、ピンク色のドーナッツを一口齧ってから、言った。
「…こういうのだったら、早佐ちゃんも食べてくれるかなぁ。何だろうね、里って、女の子が喜ぶ様な食べ物も少ないしなぁ。サキが何か差し入れしてくれるって言ってたけど」
「え…?」
「あ、覚えてる?早佐ちゃん。いや、流石に覚えてるか。最後会ったの何時?結構前?」
「あ、やー、覚えてるけど…」
昨日も会ったとは言えない治一は、平静を装って、ティッシュペーパーで、キッチンのフローリングに落ちた灰を丁寧に取ってから立ち上がると、ゴミ袋代わりにしているコンビニの袋にティッシュペーパーを捨て、フロアワイパーによる掃除を再開した。
岐顕は、治一の動揺を知ってか知らずか、ニヤニヤしながら、だよねー、と言った。
「御前、一時期、早佐ちゃんにしか威張れなかったもんねー。何だっけ、ほら、山茶花の垣根の蕾を矢鱈千切ってた頃」
「…うわー…覚えてる…」
治一は、赤面しながら、弓手でフロアワイパーを握った儘、馬手で顔を覆った。
そう、治一が、一人っ子だが長子並みにリーダーシップを取りたがる、という厄介な性格をしていた七歳当時、当然ながら、二つ年上の岐顕も、同い年の友人達も、治一の言う事など聞き入れてくれず、折角治一がした発見も、誰も聞いてくれなかったのだった。
だから、理佐の小さい妹に、自慢げに、自分がした発見を語った事が有るのを、治一は鮮明に思い出した。
「…何で子供って、子供みたいな事するんだろう…」
「…子供だからじゃね?ま、相手は忘れてるでしょうよ、そんなん」
「まぁなー、あいつ五歳とかだったっけな、あの頃。覚えてたら逆に凄いか」
「あ、でも、分かんないよ?めっちゃ頭良いもん、早佐ちゃん。覚えてるかも?」
「あー、そー?」
忘れていてほしいものだと思いながら、治一は、顔を上げて、其れで?と言った。
「何?また具合悪いの?あいつ」
「…また、そんな言い方してー。なーんか、早佐ちゃんには威張った言い方するよねー、昔っから」
「そんな気無いけど…?」
「体が弱い子なんだから、もうちょっと優しく接してやんなさいよ、全く。龍には優しいのにー」
「や、も、そりゃ分かったから。何?あいつが如何したって?」
「あ、そうそう。瀬原本家の厨で噂になってて」
「厨…?ああ、炊事場の事?」
「そうそう、瀬原本家の屋敷は戦後の建て替えで、囲炉裏とか無くなっちゃってるから、炊事場じゃないんだよな。うちの実家なんか、洋風のキッチンになっちゃってるもんなー。あ、そう、そんでさ。最近早佐ちゃんが食欲不振なんだと。食べなきゃ、治るもんも治んないからねぇ」
「…最近?」
「そうそう。そんで、昨日御見舞いに行ってきたわけよ」
「…へー」
食べ物を食べてくれない。
其れは、生きる気持ちが無いのと同義の様に、治一には思えた。
自分と関わっても、早佐には、何の関係も無いのだろう。
例えば、自分に会いたいから、食べて元気になれる様にしよう、という思考をしてくれる人間ではないのだろう。
自分は、相手に何も影響を与えていない存在なのだと思うと、突然、治一は、何もかもが虚しい様に思えた。何故か胸が痛む。
―自己完結して、俺が如何考えてるかなんて、何も考えない女だって事は分かり切ってた筈なのに。
「…で、候補らしいんだけど…でさ、十二月二十一日で治も十八歳だから、水配り出来る年になるわけじゃん?今回…治?聞いてる?」
「…え?」
「…どした?さっきから同じとこばっかり掃除してるよ?疲れた?朝一から長距離移動して、高速乗ったしね」
「あ…。疲れたのかも?…ちょっと座るわ…。あれ?龍?」
「うん、寝ちゃったよー。何処で寝かす?掃除、未だ終わってないよね?」
※背負う 古語で、背負うの意味の、「担う」の転訛からきた鹿児島弁。
※炊事場 炊事場兼作業場を示す方言ですが、個人的に、二ツ屋造の炊事場に使いたいニュアンスの言葉なので、厨やキッチンと分けて使っています。『山行かば』で詳細を書いておりますが、治一の家は、昭和初期に瀬原集落から少し離れた所に移築された坂元分家の屋敷という設定なので、まだ二ツ屋造で、囲炉裏が有ります。
プリクラ、此の頃、角が丸かったですよね。『同じ顔』の複線回収というわけではないですが、岐顕がプリクラを懐かしいと言った理由が此処で出てきます。




