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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第三章 確信
19/68

瀬原令一

 夜、寝巻の浴衣に着替えて、布団の中から、部屋に飾られている土耳古桔梗(トルコキキョウ)を眺めながら、早佐(はやさ)は、何とも言えない気分で、那智(なち)の事を考えていた。


 姉の理佐(りさ)に対して感じていた(よう)な、姉と共に荼毘(だび)に臥してしまった、人間らしい、慕わしい感情が、僅かに蘇って来そうになっていた。


―きっと、迷惑よ。こんな風に思うのは。


 しかし何故か、友達になれそうな気がしたのだ。

 幻想ではあろうが、同じ年の、対等に話せそうな存在に、初めて出会えた気がしていたのだった。しかも、自身と全く違う存在に。


―戦後に建てられた、比較的新しい、洋風の家に御住まいなのかもしれないわね。きっと、テレビが有って、雑誌が自由に読めて、洋風の垣根と庭が在る御宅で。多分、其処を御手入れなさっているのだわ。普段着だって、沢山御持ちなのかもしれないわ、靴も。


 (やや)あって、土耳古桔梗(トルコキキョウ)から、花浜匙(スターチス)に目線を移し、きっと、那智は、こういう色が好きなのだろう、と早佐は思った。


―綺麗な物が御好きな(かた)なのね、きっと。そして、多分、紫や青や、白が御好きなのだわ。だから、こうして、私に、御自身の御好きな花を持って来てくださったのよね。


 学校に行けていたら、などとは、一度も思った事が無かった早佐だったが、今夜は、那智と言う学友が出来ていたかもしれないという、令一によって(あらかじ)め消去されていた可能性について思いを()せると、虚しい気分になった。


―学校に通えていたって、テレビの話も、御洋服の話も、真面(まとも)に出来なかったでしょうからね。御友達だって、出来たか如何(どう)だか分からないけれど。


 ただ、今日、那智は、庭に早佐を誘ってくれたのだった。

 友達になってくれる可能性は(ゼロ)では無かったのかもしれないのに、其れを最初から与えられなかった事について、早佐は、初めて、辰顕(たつあき)の言っていた、『虐待』という言葉に実感を持った。


―過ぎた愛玩は虐待と同義だと何処かで聞いたけれど。


 (まさ)に今、そうなのだろう、と思うと、早佐は、本当に虚しくなった。


―私、…学校に行きたかったかもしれない。


 其れは、気付いてはいけない事だったのかもしれなかった。

 来客が去ってから、再び手元に出してしまった例の本を、枕元に置いてから、愈々(いよいよ)虚しくなった早佐は、布団から起き出して、そっと、土耳古桔梗(トルコキキョウ)の柔らかな花弁に触れた。


 そして、ふと、伊吹(いぶき)を思い出して、自身の腹を撫でた。


 小さな愛らしい手が、日中、確かに、早佐の腹を、示す(よう)に叩いていたのだ。


―知らなかった。私、女の子が欲しかったのね。困ったわ。よく物が見えるのも、考えものね。


 自身が石女(うまずめ)である可能性を、自身の頭から消せない早佐は、自分の心が傷付くのを防ぐ為に、最初から其れを望む事をしなかった、という事に思い至った。


(うり)()めば、子ども(おも)ほゆ。(くり)()めば、まして(しぬ)はゆ。…いづくより(きた)りしものそ、目交(まなかひ)に、もとなかかりて、安眠(やすい)しなさぬ」


―そうねぇ、最初は、存在していなかった筈の命は。私達は、何処から来るのかしらねぇ。


 答えを知っている(よう)な、知らない(よう)な気分で、早佐は、自身の腹を撫でた。




「何だ、子でも欲しいのか?」


 ふと(くち)(ずさ)んだ(ちょう)()(さえぎ)ってきた声の主に向かって、早佐は鋭い視線を向けた。


「…休んでいる時間に入って来るとは何事(なにごと)ですか。何度も注意しているのに、覚えられない様子(ようす)ね。寝巻で応対したい年頃だとでも思っているのですか?部屋に立ち入る前に声を掛ける事も思い出せない(よう)な記憶力の良さでいらっしゃるの?良い(しつけ)を受けていらっしゃった(よう)ね」


 早佐の、心持ち低い声での罵りの言葉に、令一は、()()もの(よう)に、一瞬(ひる)んだ様子を見せたが、此れまた何時(いつ)もの(よう)に、相好(そうこう)(くず)した。


「可愛い早佐。今日は顔色が良さそうだな」


―薄気味が悪い。罵っているのに、毎度の事ながら、何なのかしら。…しかも何だか、今日は、此の人が、煤けて見えるわ。…黒い、何かが、薄っすら体から出ている(よう)な?


 しかし、相手にしてみれば、帰りしなに、飼い犬が眠る犬小屋を覗いている心算(つもり)くらいの事なのかもしれず、仕方が無い事だと思いながら、早佐は、溜息をついてから、御帰りなさいませ、と言った。

 兄に食わせてもらっている以上、最低限の礼儀は果たすのが矜持(きょうじ)だからである。


 言われた(ほう)令一(れいいち)は、嬉しそうに、ただいま、などと言った。

 帰って来なければ良かったのに、と、正直に早佐が言うと、令一は嬉しそうに、そうか、そうか、と言った。

 会話が噛み合わない。


―まぁ、私の言葉なんて、犬が吠えている(よう)なものでしょうからね。会話を成立させようと思うのが間違いでしょう。


 うんざりして溜息をついた早佐に向かって、令一は、何だ?と言った。


「けばけばしい、下品な花だな。薔薇(そうび)は好かん」


 那智からの美しい贈り物を(けな)されてムッとした早佐は、薔薇(ばら)では無くて土耳古桔梗(トルコキキョウ)ですよと言ったが、令一は、は?と言って、キョトンとした顔をした。


―馬鹿馬鹿しい。詳細を言うだけ無駄ね。


(おさ)ともなると、女の部屋の花にまで御気遣いくださる事ですのね?」


 早佐が、嫌味タップリに、(あん)に『飾っている花にまで口を出すな』と言うと、令一は、また、一瞬(ひる)んだ様子を見せたが、嫣然(えんぜん)と微笑んで、言った。


「其れが好きなら好きにすると良い。花粉には気を付けろ」


 令一の態度が、犬に対して、其れを噛んでいたかったら玩具(おもちゃ)にしなさい、と言っている(よう)な態度に思えた早佐は、更にうんざりしたが、なけなしの気力を奮い立たせて、有難う御座います、と言った。

 気が変わられて、花を捨てられては堪らない。


「おや。此の前買ってやった本だな」

 近寄ってきた令一が、ふと、早佐の近くに有る本を手にして、無造作に(めく)った。

「…珍しい。此処を破いたのか?落丁(らくちょう)にしては…」


「あ…」

 早佐は思わず、真っ赤になってしまった。


―嫌だわ。こんな事で動揺してしまうなんて。破いて誰かに渡したなんて、こんな人に気付かれる筈も無いものを。


 (はる)と那智は、早佐に残されている人間の部分を刺激して来るのだ。


 早佐は、努めて平静を装おうとしたが、令一は、目を剥いて、言った。


「…此のところ、里に居た男、…か」


 早佐は、令一の言葉の意味が本当に分からなかったので、何の話です、と冷たく言った。

 頬の紅潮は、令一への嫌悪感で、サッと引いた。


「さぁ、もう御帰りになって。本は床にでも置いて。一緒に居るだけで疲れます」


 早佐の、更なる冷たい言葉に従ってから、令一は、ウットリとした顔をした。


「御前は可愛いな」


 早佐は、はぁ?と言った。

「薄気味が悪い。其れは愛玩ですよ」


 早佐の言葉に、令一は硬直した。


 何なのだ、と思った早佐は、思った(まま)を言った。


「愛情の心算(つもり)かもしれませんがね。貴方(あなた)の遣る事為す事、教育では無くて飼育です。私の為になる事が(ほとん)ど無いではありませんか。私に対しての礼儀を守らず、(しつ)けず、学校にも行かせないで閉じ込めて、自分がしたい(よう)に接して、自分が与えたい物を与えているだけ」


 令一は、早佐が見た事も無い(よう)な驚いた顔をした。


 早佐は、また分かってしまった。


―本当に『飼育』で『愛玩』だったのだわ。教育、養育との区別はついていなかったのね。


 相手にしてみれば、きっちり計量した食事を与え、鎖を着けて立派な犬小屋に繋ぎ、風呂に入れ、病院にも連れて行っているのだから、『飼育』としては恐らく百点だと考えていた筈なのだ。其れがまさか、愛玩犬に『此れは飼育で愛玩だ』と言われるとは思ってもみなかったのであろう。


 成程、犬ならば其れで問題は無いのだが、残念ながら早佐は戸籍も持つ人間なのだった。

 喋りもするし、日本国憲法に於いて、基本的人権が保障される立場にあり、少なくとも教育の機会均等の権利が奪われた事は、偽り(よう)の無い真実だった。


―此れ程までに擦れ違っていたとはね。本当に、よく物が見えるのも、考えものね。知りたくも無い事を知ってしまう。


 もう結構、と早佐は言った。

「飼育としては成功しておりますよ。此れ以上、私に何をさせたいのです?」


―とは言え、体を求められても困るけれど。


 罵られたい、と令一は言った。


―…?


 あまりの事に、早佐は、本当に意味が分からず、ジッと相手の顔を見た。


 令一は、ウットリとした顔で、罵られたい、と、もう一度言った。

(おさ)に、楯突く者も、冗談を言ってくる者も、罵ってくる者も、御前以外に居はしない」

 美しい早佐、と言われて、早佐は、思わず吐き気を(もよお)した。


(なん)(こと)


 早佐は、人生最大の計算違いをしていた事を、今知った。


 閉じ込められている、虚弱な、何の力も持たない人間の、せめてもの反撃として遣っていた行為が、全くの逆効果だったとは、本当に、思いもしなかったのである。


―嘘だと言って頂戴。


 しかし如何(どう)やら、相手の目は本気の光を宿しており、早佐は、自身に罵られたいと本気で思っている存在の実在を知り、総毛立った。


 如何(どう)やら、本当に、此の、血の繋がらない兄妹は、物心ついてから此の方、ずっと擦れ違い続けていたらしかった。


―ああ、頭が痛い。今日は、よく物が見えるから、知らないで居たかった事を知ってしまう。


 如何(どう)いう事なのよ、と早佐は言った。

貴方(あなた)は姉様を心に懸けていたのではなくて?」


 恐らく核心を突かれたであろうに、飽くまでも会話の成立しない義理の兄は、アッサリと、そりゃな、と言った。


「美しい娘だったし。第一、岐顕(みちあき)が懸想していたからな」

「…は?」


「岐顕が欲しがっている物を与えて、奪って遣るのは最高だった。俺より岐顕が()いと言ったから、可哀想に、長生き出来なかったが。龍顕は、俺の子だよ」


 早佐は、今聞いた言葉が信じられなかったが、取りも直さず、其れは、殺害と強姦の供述だったので、追及の手を緩めなかった。


「…やっぱり、姉様は自殺ではなく、貴方(あなた)に殺されたのね」


 令一は、薄く笑って返事をしなかった。

 噓が発覚しそうな時の癖なのだ。

 虚言癖の有る此の兄は、時たま、明確に物を言わない。

 

 否、今日に限っては、先程から聞いた言葉を全て噓だと言ってほしいくらいだったが、早佐は、混乱しながらも、何とか反撃の言葉を探した。


「何の心算(つもり)(いま)だに水配り(ミックバイ)の相手を発表しないのか知らないけれど、那智さんが貴方(あなた)の御相手でなくて良かったわ。こんな殺人鬼には勿体無い」


 何を言う、と、心外そうに、呆れた(よう)に令一は言った。


「あんな、本家の婚礼衣装も持たぬ、下賤の女こそ、俺には相応しくないだろう?髪も切って、(おぞ)ましい。男の真似か?」


 早佐は、まさか、と言った。

「本家の婚礼衣装と、髪…?そうでない女は愛せないと言うの?」


「そうだ。其れを持たない娘の何が美しい。俺の相手には相応しくない」


「そんな性的な志向を御持ちだったとはね…」

 分かったわ、と早佐は言った。

「私が貴方(あなた)に出来る反撃は、髪を切る事なのね」


 何?と、令一は驚いた声を出した。


 そうでしょう?と、脅す(よう)に早佐は言った。


「結局、姉様を殺したのだって、姉様が()()()()()()()なのでしょう?」


―ああ、嫌だ。物が、真実が見える(よう)になんて、ならなければ良かったのに。


「其れに、結局、性的志向が、髪の長い、本家の婚礼衣装を持つ女にしか向かないというだけで、貴方(あなた)が本当に振り向かせたいのは、(みち)様ただ一人なのだわ。だから(みち)様の女が欲しかったのよ。良い(おさ)ぶっているけれど、結局、冷遇されている坂元本家当主を見て見ぬ振りをしているのも、(はる)様が(みち)様の親友なのが気に入らな」


 急に、令一は、早佐の上に馬乗りになって、首を絞めてきた。


 物凄い力だった。


 早佐の首元が、ミシミシと音を立てた。


 殺しなさいよ、と、早佐は、出ない声を振り絞った。

 令一は、ハッとした様子で、慌てて早佐から飛び退いた。


 図星ね、と、(あえ)(あえ)ぎ言った早佐に対して、此の()に及んでも会話の成立しない兄は、頼む、と言った。


「髪を切らないでくれ、早佐。…殺したくない」


 早佐は思わず、カッとして、殺してやる、と言いながら、手近な枕を掴んで投げ付けた。


 当然、非力な早佐の投げた枕など、令一には(かす)りもしなかったが、令一は、喜びに打ち震えた顔をして、言った。

 何故だか、早佐には、令一が、薄っすらと、何か、何処かで見覚えの有る黒い物に覆われている(よう)な気がした。


「やっと、殺したいと思ってくれたのだな」


 早佐は、ハッとした。


―此の人。殺す事は排除方法だけど。自分が殺される事は、()()()()と受け取っているのだわ。…会話が噛み合う訳が無い。


「いいか?愛憎は表裏一体だ。俺に興味の無かった御前が、俺を殺したいと思うとは。其れはな、俺を愛している事と同じなのだ。同じ棒の端と端が、愛憎なのだよ。俺の事で頭が一杯だろう?そうだ、本当は、御前も岐顕も、俺を愛しているのだ」


「…そうか、貴方(あなた)(みち)様に殺されたいのね?」


「そんな事、遣りもしなさそうなあいつが、じっと耐えているのが堪らない。本心では、俺を殺したくて、俺の事で頭が一杯の筈なのに。其れに、俺の子と知ってか知らずか、俺の子を慈しんでいるのだ。大体生意気なのだ。俺より良い学校に行って、俺よりも周りに人が集まるとはな。岐顕は、全てを俺に渡すべきなのに。頭を俺で一杯にして、俺と一つになるべきなのに」


 あと何人だろう、と、恍惚とした顔で令一は言った。


「あと何人、岐顕の大事な人間を奪えば、俺を殺してくれるだろう?だがな、其れは成功しないのだ。(ざま)ぁ無い。だから、俺は、永遠に、岐顕の心の中を占めていられるのだよ」


―何かしら。…此の、黒い物かしら。此の存在が、(みち)様に執着させている…?


 令一は、痛む喉元を押さえて呆然とする早佐を置いて、其の(まま)、嬉しそうに、早佐の部屋から立ち去って行った。


 早佐は、縁側に出て、庭に向かって嘔吐した。


『緑色の空』や『相生の松』で、龍顕には、恐らく『父』としての立場が持つプライドから、令一が白状しなかった部分が出てしまいました。

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