瀬原令一
夜、寝巻の浴衣に着替えて、布団の中から、部屋に飾られている土耳古桔梗を眺めながら、早佐は、何とも言えない気分で、那智の事を考えていた。
姉の理佐に対して感じていた様な、姉と共に荼毘に臥してしまった、人間らしい、慕わしい感情が、僅かに蘇って来そうになっていた。
―きっと、迷惑よ。こんな風に思うのは。
しかし何故か、友達になれそうな気がしたのだ。
幻想ではあろうが、同じ年の、対等に話せそうな存在に、初めて出会えた気がしていたのだった。しかも、自身と全く違う存在に。
―戦後に建てられた、比較的新しい、洋風の家に御住まいなのかもしれないわね。きっと、テレビが有って、雑誌が自由に読めて、洋風の垣根と庭が在る御宅で。多分、其処を御手入れなさっているのだわ。普段着だって、沢山御持ちなのかもしれないわ、靴も。
稍あって、土耳古桔梗から、花浜匙に目線を移し、きっと、那智は、こういう色が好きなのだろう、と早佐は思った。
―綺麗な物が御好きな方なのね、きっと。そして、多分、紫や青や、白が御好きなのだわ。だから、こうして、私に、御自身の御好きな花を持って来てくださったのよね。
学校に行けていたら、などとは、一度も思った事が無かった早佐だったが、今夜は、那智と言う学友が出来ていたかもしれないという、令一によって予め消去されていた可能性について思いを馳せると、虚しい気分になった。
―学校に通えていたって、テレビの話も、御洋服の話も、真面に出来なかったでしょうからね。御友達だって、出来たか如何だか分からないけれど。
ただ、今日、那智は、庭に早佐を誘ってくれたのだった。
友達になってくれる可能性は零では無かったのかもしれないのに、其れを最初から与えられなかった事について、早佐は、初めて、辰顕の言っていた、『虐待』という言葉に実感を持った。
―過ぎた愛玩は虐待と同義だと何処かで聞いたけれど。
将に今、そうなのだろう、と思うと、早佐は、本当に虚しくなった。
―私、…学校に行きたかったかもしれない。
其れは、気付いてはいけない事だったのかもしれなかった。
来客が去ってから、再び手元に出してしまった例の本を、枕元に置いてから、愈々虚しくなった早佐は、布団から起き出して、そっと、土耳古桔梗の柔らかな花弁に触れた。
そして、ふと、伊吹を思い出して、自身の腹を撫でた。
小さな愛らしい手が、日中、確かに、早佐の腹を、示す様に叩いていたのだ。
―知らなかった。私、女の子が欲しかったのね。困ったわ。よく物が見えるのも、考えものね。
自身が石女である可能性を、自身の頭から消せない早佐は、自分の心が傷付くのを防ぐ為に、最初から其れを望む事をしなかった、という事に思い至った。
「瓜食めば、子ども思ほゆ。栗食めば、まして偲はゆ。…いづくより来りしものそ、目交に、もとなかかりて、安眠しなさぬ」
―そうねぇ、最初は、存在していなかった筈の命は。私達は、何処から来るのかしらねぇ。
答えを知っている様な、知らない様な気分で、早佐は、自身の腹を撫でた。
「何だ、子でも欲しいのか?」
ふと口遊んだ長歌を遮ってきた声の主に向かって、早佐は鋭い視線を向けた。
「…休んでいる時間に入って来るとは何事ですか。何度も注意しているのに、覚えられない様子ね。寝巻で応対したい年頃だとでも思っているのですか?部屋に立ち入る前に声を掛ける事も思い出せない様な記憶力の良さでいらっしゃるの?良い躾を受けていらっしゃった様ね」
早佐の、心持ち低い声での罵りの言葉に、令一は、何時もの様に、一瞬怯んだ様子を見せたが、此れまた何時もの様に、相好を崩した。
「可愛い早佐。今日は顔色が良さそうだな」
―薄気味が悪い。罵っているのに、毎度の事ながら、何なのかしら。…しかも何だか、今日は、此の人が、煤けて見えるわ。…黒い、何かが、薄っすら体から出ている様な?
しかし、相手にしてみれば、帰りしなに、飼い犬が眠る犬小屋を覗いている心算くらいの事なのかもしれず、仕方が無い事だと思いながら、早佐は、溜息をついてから、御帰りなさいませ、と言った。
兄に食わせてもらっている以上、最低限の礼儀は果たすのが矜持だからである。
言われた方の令一は、嬉しそうに、ただいま、などと言った。
帰って来なければ良かったのに、と、正直に早佐が言うと、令一は嬉しそうに、そうか、そうか、と言った。
会話が噛み合わない。
―まぁ、私の言葉なんて、犬が吠えている様なものでしょうからね。会話を成立させようと思うのが間違いでしょう。
うんざりして溜息をついた早佐に向かって、令一は、何だ?と言った。
「けばけばしい、下品な花だな。薔薇は好かん」
那智からの美しい贈り物を貶されてムッとした早佐は、薔薇では無くて土耳古桔梗ですよと言ったが、令一は、は?と言って、キョトンとした顔をした。
―馬鹿馬鹿しい。詳細を言うだけ無駄ね。
「長ともなると、女の部屋の花にまで御気遣いくださる事ですのね?」
早佐が、嫌味タップリに、暗に『飾っている花にまで口を出すな』と言うと、令一は、また、一瞬怯んだ様子を見せたが、嫣然と微笑んで、言った。
「其れが好きなら好きにすると良い。花粉には気を付けろ」
令一の態度が、犬に対して、其れを噛んでいたかったら玩具にしなさい、と言っている様な態度に思えた早佐は、更にうんざりしたが、なけなしの気力を奮い立たせて、有難う御座います、と言った。
気が変わられて、花を捨てられては堪らない。
「おや。此の前買ってやった本だな」
近寄ってきた令一が、ふと、早佐の近くに有る本を手にして、無造作に捲った。
「…珍しい。此処を破いたのか?落丁にしては…」
「あ…」
早佐は思わず、真っ赤になってしまった。
―嫌だわ。こんな事で動揺してしまうなんて。破いて誰かに渡したなんて、こんな人に気付かれる筈も無いものを。
治と那智は、早佐に残されている人間の部分を刺激して来るのだ。
早佐は、努めて平静を装おうとしたが、令一は、目を剥いて、言った。
「…此のところ、里に居た男、…か」
早佐は、令一の言葉の意味が本当に分からなかったので、何の話です、と冷たく言った。
頬の紅潮は、令一への嫌悪感で、サッと引いた。
「さぁ、もう御帰りになって。本は床にでも置いて。一緒に居るだけで疲れます」
早佐の、更なる冷たい言葉に従ってから、令一は、ウットリとした顔をした。
「御前は可愛いな」
早佐は、はぁ?と言った。
「薄気味が悪い。其れは愛玩ですよ」
早佐の言葉に、令一は硬直した。
何なのだ、と思った早佐は、思った儘を言った。
「愛情の心算かもしれませんがね。貴方の遣る事為す事、教育では無くて飼育です。私の為になる事が殆ど無いではありませんか。私に対しての礼儀を守らず、躾けず、学校にも行かせないで閉じ込めて、自分がしたい様に接して、自分が与えたい物を与えているだけ」
令一は、早佐が見た事も無い様な驚いた顔をした。
早佐は、また分かってしまった。
―本当に『飼育』で『愛玩』だったのだわ。教育、養育との区別はついていなかったのね。
相手にしてみれば、きっちり計量した食事を与え、鎖を着けて立派な犬小屋に繋ぎ、風呂に入れ、病院にも連れて行っているのだから、『飼育』としては恐らく百点だと考えていた筈なのだ。其れがまさか、愛玩犬に『此れは飼育で愛玩だ』と言われるとは思ってもみなかったのであろう。
成程、犬ならば其れで問題は無いのだが、残念ながら早佐は戸籍も持つ人間なのだった。
喋りもするし、日本国憲法に於いて、基本的人権が保障される立場にあり、少なくとも教育の機会均等の権利が奪われた事は、偽り様の無い真実だった。
―此れ程までに擦れ違っていたとはね。本当に、よく物が見えるのも、考えものね。知りたくも無い事を知ってしまう。
もう結構、と早佐は言った。
「飼育としては成功しておりますよ。此れ以上、私に何をさせたいのです?」
―とは言え、体を求められても困るけれど。
罵られたい、と令一は言った。
―…?
あまりの事に、早佐は、本当に意味が分からず、ジッと相手の顔を見た。
令一は、ウットリとした顔で、罵られたい、と、もう一度言った。
「長に、楯突く者も、冗談を言ってくる者も、罵ってくる者も、御前以外に居はしない」
美しい早佐、と言われて、早佐は、思わず吐き気を催した。
―何て事。
早佐は、人生最大の計算違いをしていた事を、今知った。
閉じ込められている、虚弱な、何の力も持たない人間の、せめてもの反撃として遣っていた行為が、全くの逆効果だったとは、本当に、思いもしなかったのである。
―嘘だと言って頂戴。
しかし如何やら、相手の目は本気の光を宿しており、早佐は、自身に罵られたいと本気で思っている存在の実在を知り、総毛立った。
如何やら、本当に、此の、血の繋がらない兄妹は、物心ついてから此の方、ずっと擦れ違い続けていたらしかった。
―ああ、頭が痛い。今日は、よく物が見えるから、知らないで居たかった事を知ってしまう。
如何いう事なのよ、と早佐は言った。
「貴方は姉様を心に懸けていたのではなくて?」
恐らく核心を突かれたであろうに、飽くまでも会話の成立しない義理の兄は、アッサリと、そりゃな、と言った。
「美しい娘だったし。第一、岐顕が懸想していたからな」
「…は?」
「岐顕が欲しがっている物を与えて、奪って遣るのは最高だった。俺より岐顕が好いと言ったから、可哀想に、長生き出来なかったが。龍顕は、俺の子だよ」
早佐は、今聞いた言葉が信じられなかったが、取りも直さず、其れは、殺害と強姦の供述だったので、追及の手を緩めなかった。
「…やっぱり、姉様は自殺ではなく、貴方に殺されたのね」
令一は、薄く笑って返事をしなかった。
噓が発覚しそうな時の癖なのだ。
虚言癖の有る此の兄は、時たま、明確に物を言わない。
否、今日に限っては、先程から聞いた言葉を全て噓だと言ってほしいくらいだったが、早佐は、混乱しながらも、何とか反撃の言葉を探した。
「何の心算で未だに水配りの相手を発表しないのか知らないけれど、那智さんが貴方の御相手でなくて良かったわ。こんな殺人鬼には勿体無い」
何を言う、と、心外そうに、呆れた様に令一は言った。
「あんな、本家の婚礼衣装も持たぬ、下賤の女こそ、俺には相応しくないだろう?髪も切って、悍ましい。男の真似か?」
早佐は、まさか、と言った。
「本家の婚礼衣装と、髪…?そうでない女は愛せないと言うの?」
「そうだ。其れを持たない娘の何が美しい。俺の相手には相応しくない」
「そんな性的な志向を御持ちだったとはね…」
分かったわ、と早佐は言った。
「私が貴方に出来る反撃は、髪を切る事なのね」
何?と、令一は驚いた声を出した。
そうでしょう?と、脅す様に早佐は言った。
「結局、姉様を殺したのだって、姉様が髪を切ったからなのでしょう?」
―ああ、嫌だ。物が、真実が見える様になんて、ならなければ良かったのに。
「其れに、結局、性的志向が、髪の長い、本家の婚礼衣装を持つ女にしか向かないというだけで、貴方が本当に振り向かせたいのは、岐様ただ一人なのだわ。だから岐様の女が欲しかったのよ。良い長ぶっているけれど、結局、冷遇されている坂元本家当主を見て見ぬ振りをしているのも、治様が岐様の親友なのが気に入らな」
急に、令一は、早佐の上に馬乗りになって、首を絞めてきた。
物凄い力だった。
早佐の首元が、ミシミシと音を立てた。
殺しなさいよ、と、早佐は、出ない声を振り絞った。
令一は、ハッとした様子で、慌てて早佐から飛び退いた。
図星ね、と、喘ぎ喘ぎ言った早佐に対して、此の期に及んでも会話の成立しない兄は、頼む、と言った。
「髪を切らないでくれ、早佐。…殺したくない」
早佐は思わず、カッとして、殺してやる、と言いながら、手近な枕を掴んで投げ付けた。
当然、非力な早佐の投げた枕など、令一には掠りもしなかったが、令一は、喜びに打ち震えた顔をして、言った。
何故だか、早佐には、令一が、薄っすらと、何か、何処かで見覚えの有る黒い物に覆われている様な気がした。
「やっと、殺したいと思ってくれたのだな」
早佐は、ハッとした。
―此の人。殺す事は排除方法だけど。自分が殺される事は、愛情表現と受け取っているのだわ。…会話が噛み合う訳が無い。
「いいか?愛憎は表裏一体だ。俺に興味の無かった御前が、俺を殺したいと思うとは。其れはな、俺を愛している事と同じなのだ。同じ棒の端と端が、愛憎なのだよ。俺の事で頭が一杯だろう?そうだ、本当は、御前も岐顕も、俺を愛しているのだ」
「…そうか、貴方…岐様に殺されたいのね?」
「そんな事、遣りもしなさそうなあいつが、じっと耐えているのが堪らない。本心では、俺を殺したくて、俺の事で頭が一杯の筈なのに。其れに、俺の子と知ってか知らずか、俺の子を慈しんでいるのだ。大体生意気なのだ。俺より良い学校に行って、俺よりも周りに人が集まるとはな。岐顕は、全てを俺に渡すべきなのに。頭を俺で一杯にして、俺と一つになるべきなのに」
あと何人だろう、と、恍惚とした顔で令一は言った。
「あと何人、岐顕の大事な人間を奪えば、俺を殺してくれるだろう?だがな、其れは成功しないのだ。様ぁ無い。だから、俺は、永遠に、岐顕の心の中を占めていられるのだよ」
―何かしら。…此の、黒い物かしら。此の存在が、岐様に執着させている…?
令一は、痛む喉元を押さえて呆然とする早佐を置いて、其の儘、嬉しそうに、早佐の部屋から立ち去って行った。
早佐は、縁側に出て、庭に向かって嘔吐した。
『緑色の空』や『相生の松』で、龍顕には、恐らく『父』としての立場が持つプライドから、令一が白状しなかった部分が出てしまいました。




