土耳古桔梗
向子が去ってから、入れ替わりに、廊下にゾロリと正座して、一礼してから、女中達が入ってきた。
一番先に入ってきた女中は、大きな花瓶を抱えていた。
一番後ろに居た女中は哺乳瓶を持っており、篠から伊吹を抱き取ってくれ、部屋の隅に控えた。
「まぁ」
花瓶に生けられた、紫と白の美しい花や、青、紫色の薔薇の様な花、白い花糸撫子と、青や淡い紫色の不思議な、葉が茎とほぼ一体化している、全体的なシルエットが細い花を見て、早佐は驚いた。
「…何て、素晴らしい。見た事も無いわ…。此れは…青と紫色の花は薔薇ですか?」
八重咲きの土耳古桔梗です、と、恥ずかしそうに那智は言った。
「複色と単色を、青と紫と白を基調に選びました。手土産に、と、父に頼んで取り寄せてもらいまして…。私の好きな花で恐縮なのですが。…其の…。花浜匙は、私が育てました」
素晴らしいわ、と早佐は言った。
自分の頬が紅潮し、瞳が輝くのが、自分でも分かるくらいだった。
そんな事は初めてだった。
「園芸をなさるのですか?那智さん」
那智さんは御上手ですよ、と、未だ起きない伊吹を抱きながら、篠が優しく言った。
「菊も見事に丹精していらして、感服しましたわ。大輪にするのは難しいでしょうに」
そんな、と言って、那智は恥じらったが、早佐は、素敵、と言った。
「見てみたいわ。私、自分の屋敷の庭以外は殆ど知りませんから」
那智は、益々顔を赤くしたが、意を決した様に、早佐の顔を見て、言った。
「其の様に言って頂けて…。下手の横好きですが、もし宜しかったら、茉莉花の垣根を、見て頂きたいものです…。日当たりが良いせいか、未だ花が咲いておりますので。垣根の近くに植えた金襴紫蘇も、花が咲いて…」
是非、と早佐が思わず言うと、篠も那智も、驚いた様な顔をした。
「…私、誰かに、御庭に誘って頂いたの、初めて」
早佐が、そう言って真っ赤になると、那智も頬を染めた。
あらあら、と言って、篠も頬を染めた。
―困ったわ。対等に話をしようとすると、こんなに恥ずかしいのね。知らなかったわ。
自身の歪みを押し隠そうとすれば、結局素直になるしか無いのだ。
早佐は、包み隠さず、感激や称賛を口にするしかなく、そうすると、こんなに恥ずかしいのだ、という事を知った。
―私今まで、人間関係に期待なんてしていなかったのだわ。如何思われても構わない、っていう態度だった。どうせ、何時か死ぬんだからって。
治に対してすらそうだった。
其れが今、怖いと思われない様にしよう、と、他人に気を遣う事で、殆ど、生まれて初めて、他人の那智に、自分を如何思っているかが気になる様になったのだ。
―物が、よく見える様になると…困る事も有るのね。
しかし其れは、嫌な気持ちでは無かった。
恥ずかしいが、那智に嫌われてはいない気がして、何だか其れが嬉しいのだ。
浜花匙や、早佐の見た事のない、金襴紫蘇、茉莉花の有るのだという庭が、早佐の頭の中で、とても美しく像を結んだ。
揃って恥じらい合って俯いていると、女中達が御茶の準備をし終えて、伊吹を抱いて控えている女中以外は、部屋から去って行った。
「え?トップスのケーキ?」
篠の言葉に、那智も、キャッ、と、喜びの声を上げた。
「嘘、嘘嘘嘘。待って、待って」
「那智さんっ、トップスよ、トップス。トップスのチョコレートケーキ」
「えーっ。嘘だわ。賞味期限三日くらいって雑誌で読みましたもん。九州で見られるなんて」
「私もー!雑誌でしか見た事無いわっ」
「私、赤と白のチェックのテーブルクロス買っちゃいましたもん、トップスのレストランの写真見て」
流石に此の騒ぎで起きた伊吹が、あうぅー、と、不満そうな声を出した。
篠が、嘘、今起きるの?と言った。
其れは起きるだろうな、と思った早佐だったが、向子が、如何して此れを差し入れてくれたのかが分かった。
―…嬉しい。きっと、篠さんや那智さんの事も喜ばせて、私も一緒に同じ物を食べられる様にしてくださったのだわ。…茶室に移動して御茶を点てる様な御持て無しではなくて、本当に良かった。…こんなに、私の部屋で、御客様が喜んで、一緒に御茶を飲んでくれるなんて、思いもしなかった。
伊吹は結局、女中が咥えさせてくれた哺乳瓶から、ゴブゴブと音を立ててミルクを飲んだ。
体が丈夫、と篠が言っていた通り、食欲は旺盛らしい。
篠は、ホッとした顔をして、改めて、嬉しそうにケーキを見てから、ハッとした顔をして、耳まで真っ赤になりながら言った。
「…取り乱しまして、失礼致しました」
私も、と、恥ずかしそうに那智が言った。
「不作法で…申し訳御座いません」
とんでもないわ、と早佐は言った。
「蔦の葉の模様にクリームが絞ってある、美しいチョコレートケーキです事ね。私も初めて見ました。初めてを、皆さんと一緒に味わえて、嬉しゅう御座います」
其れは、本当の、本音だった。
此の場に居る人間が誰も食べた事が無い物を、一緒に食べられる。
しかも、相手に喜んでもらえながら。
そう思うと、早佐は、再び頬が染まった。
篠と那智も、頬を染めた儘、微笑んでくれた。
早佐の知らない、有難いケーキは、如何やら長方形だったらしいのだが、切った人間のセンスで三等分にされて、如何見ても和菓子用の皿に載せられており、早佐には真ん中の部分が供されたらしい。
―分厚いわ。殆ど立方体ね。
しかし、其のチグハグさが、如何にもぎこちない自分の持て成しの態度とは合っている風に思えて、早佐は自然と、クスクス笑った。
篠と那智も笑ってくれて、早佐は嬉しかった。
頂きます、と言ってから食べたケーキは、成程、美味しかった。
三層になっていて、胡桃が入っていて、しっとりしていて、上品な甘さだった。
しかし、三人でケーキを食べていると、ミルクを飲み終えて、女中にゲップをさせてもらった伊吹が、篠を見ながら、あーう、と言った。
伊吹は、篠がチョコレートケーキを口に運ぶ度に、じーっと篠の動きを目で追い、篠が咀嚼を始めると、あーう、と言うのを繰り返していた。
―食べたいのかしら。
伊吹、と篠が言った。
「御母様にも食べさせて頂戴。伊吹はミルクを飲んだでしょう」
そう、『自分の分が無い』と主張しているかの様に伊吹があーう、と唸るので、次第に、篠も那智も、食べ難い雰囲気になってきたのである。
可笑しくなった早佐は、ケーキを食べ終えると、伊吹に向かって、いらっしゃい、と言った。
女中も篠も驚いた顔をしたが、早佐が、此方へ、と言うと、女中が、早佐の所まで来て、伊吹を抱かせてくれた。
「ごめんなさいね、伊吹ちゃん。貴方の分のケーキが無かったわね。未だ食べられないものね。大きくなったら、きっと向子様が食べさせてくださってよ。だから、ケーキが食べられるくらい、元気に大きくなってね。御約束よ」
早佐の言葉に、伊吹は、ニヤッと笑って、早佐の帯を、小さな手で、ポンポンと叩いた。
―え?御腹?
「まぁ、伊吹ちゃん。私の御腹が気になるの?」
伊吹は、再びニヤッと笑うと、傍に正座して控えていた女中の色無地の袖を、グッと掴んだ。
「…あら。抱いて頂ける?」
早佐の言葉を受けた女中は、伊吹を抱くと、歩いて、部屋の隅に戻った。
しかし、女中が座ると、伊吹は、あーう、と言った。
「…立って、歩いて揺らせ、ですって」
早佐の言葉に、女中も、篠も那智も、驚いた顔をしたが、女中が其の通りにすると、伊吹は満足そうに、鼻から、フン、と音を出した。
「扱いが御上手でいらっしゃるのですね」
ケーキを食べ終えた篠は、本当に意外そうに、そう言った。
いえ、と早佐は返した。
「何と無く分かっただけですわ。其れにしても、意思がハッキリしている事。きっと賢い子になるわ」
そう言って頂けて、と、篠は恐縮した。
「先月首が据わったばかりなのに、もう自己主張をするものですから、驚いておりまして」
同じくケーキを食べ終えた那智は、可愛い、と言った。
「私も、そろそろ水配りともなれば…」
ええ、と篠が優しく言った。
「きっと、来年には御子さんが生まれていてよ。那智さん、女の子が欲しいんですってね」
「ええ。名前も考えているんです。茉莉花とか、麻那美とか。植物の字を入れたいんです」
はにかみながら答える那智に、篠は、良いわねぇ、と言った。
「『麻』ね。那智さんらしいわ。麻の葉模様は、小さい子が健やかに成長する為の願いが込められた、魔除けの模様ですものね。きっと、そんな、思いの籠った字を名前に戴いた子は、元気に育ちましてよ」
―凄いわ。
女の子が欲しい、と、ハッキリ言える那智に、自分は石女だと決めてかかっている早佐は、衝撃を受けた。
―考えた事が無かった。
しかし、次の瞬間、私も、と、早佐は口にしてしまっていた。
あら、と篠が優しく言った。
「早佐様も、女の子が宜しいですか?」
「ええ」
―まただわ。口を突いてしまった。
早佐が内心焦っていると、そう言えば、と那智が言った。
「御相手…如何なるのでしょう。発表が全然無くて。御正月には水配りなのに。最近、父が何だか、ピリピリし始めて」
そうねぇ、と、篠が、言い難そうに言った。
「…噂では、清水本家当主の、藤寿様が御参加なさるとか」
ああ、と那智が言った。
「随分前に奥様を亡くされたとか。後妻さんですね、そうなると。そうですね、水配りは、男性側には年齢の決まりは無いし。…でも、再婚は、水配りで無くても良いんですよね?長からの許可制ですから、実質水配りと変わらないし、滅多に再婚する方もいらっしゃらないですが」
「そう、後は、…年齢でいくと、そろそろ、坂元本家当主の治様ですとか。私の知る限りの噂では、そんなところでしょうか。まぁ…後は、清水分家で何人か年回りの合う人は居そうですけれど、清水本家当主と合同となると、本家の方が適切かとは」
篠は、更に言い難そうに、チラチラと、早佐と那智の顔を見た。
治様、と言って、那智は、少し頬を染めた。
満更でも無さそうである。
早佐は、成程、と、強く納得した。
―金持ちの家の後妻。
確かに、水配りは、再婚の場合は必須では無い。再婚は、瀬原集落の中に於いては、配偶者を失った、所謂未亡人の経済的救済措置として使われる事が多く、集落内の互助の様な意味合いが強いからだ。長の許可無しに集落の女性は外に出られないのに、夫を亡くして稼ぎ頭を失うと、其れは殆ど、経済的困窮による死を意味する。集落外に実方医院という病院は在っても、老人ホームの様な福祉施設も無い瀬原集落では、跡取りに先立たれる事と、夫を早くに亡くす事は、文字通りの死活問題なのだ。
だが、長い事再婚しなかった清水本家当主という大物が、態々其れを遣るという事に、何某かの意味が有りそうである。
―私の御相手が藤寿様で、那智さんの御相手が治様。有り得そうな事だわ。
早佐は身分が高いが体が弱い。だが、那智はと言えば、身分は低いが、其れを補って余る程の美貌と健康さを持ち合わせている。
―藤寿様御本人が、今更、後妻に、後継者を産んでほしいと強く欲しているとは考えにくいわ。其れなら、今までも、幾らでも再婚の機会は有ったのだから。伊吹ちゃんを養子に取るという保険も有る様子だし。そうね、私くらい体が虚弱でも、あれくらい御金持ちの家の後妻なら、厨に立たなくても済みそうだし、後継者を産む様に求められなさそうだし。
何せ、集落の最高御権力者の妹ともなれば、確かに、本家の嫁、くらいの鳴り物入りで水配りに臨んだ方が体裁は良い。理佐とて、相手の岐顕は、実方本家後継である一人息子だったのだ。
そして、確かに坂元本家当主とは言え、坂元家は瀬原集落の中では立場が微妙で、生存しているのが治だけともなれば、資産の有無は知らないが、落ち目の家と言っても良い。
―確かに、瀬原本家の娘の私と、坂元本家当主の治様は、有り得ない組み合わせ、という程では無いけれど。失礼ながら、治様と那智さんって、年回りも合うし、『丁度良い』のだわ。
那智も満更では無さそうな様子が、余計に、早佐を納得させた。
御似合いだと思ったのだ。
―嫉妬くらいするべきなのかしら。
しかし、治に対して、殆ど期待というものを持ち合わせていない早佐は、寧ろ、那智のものになるかもしれないものに先に手を付けた様な気分にさえなって、何だか申し訳ない気がした。
甘噛みの度を越して強く噛んでしまって叱られた犬の様な気分になったが、早佐は、其の罪悪感を押し隠し、良かった事、と言った。
「治様なら、年回りも合うでしょうし。御願いすれば御庭の事もさせてくださるかもしれませんよ」
未だ決まっておりませんから、と言って、那智は更に頬を染めた。
「…でも、本家の奥方だなんて…。私、御茶も御花も…」
あら、と早佐は言った。
「…其の様な。覚えれば宜しいだけの御話ですもの。裏でしたら、私も御教え出来ますわ」
那智は、キョトンとした顔で、裏?と言った。
篠が、サッと青褪めた。
早佐も、しまった、と思った。
―御茶、御存じなかったのね。茶室で御迎えしたら、那智さんに悲しい思いをさせてしまったかもしれないわ。自室で良かった事。
あの、と、再び、言い難そうに篠が言った。
「ソトの高校に進学する方々は、茶道部等で、表を学ぶそうですよ。里では、大体の方が紀和さんに教わるので、裏の方が多いですが」
十二代目、瀬原本家当主、瀬原永一の落胤だという噂の有る、瀬原分家の女性、紀和は、気位も高く、永一の死後、早佐の父の由一に申し出て、集落外で、様々な習い事の免許を取得して、現在は、集落内で、御稽古事の先生役として、一目置かれている。
しかし、身分としては、水配りでも、良家に嫁ぐ事は出来ず、色々と納得がいかなかった紀和は、瀬原の一門出身の夫を尻に敷き、御稽古の月謝で、集落内で現金収入を得ている、珍しい女性となった。
成程、本来ならば、由一の姉として育つべき人物だったのである。由一が当時遠慮して、様々な特権を紀和に与えたのであろう事は、早佐にも予想がついた。
永一という人の落胤だと思われる人物は、他にも居るらしいのだが、ハッキリしない。ただ、噂されているのは、女児ばかりだとは聞く。
紀和は、瀬原衆の、早くに亡くなってしまった、三郎次とかいう人の孫だそうである。寡婦になった三郎次の嫁、ユキを気にして、互助の意味合いで、嘗ての三郎次の家に出入りする人間が多かった為、永一と、三郎次の娘のチヨが一緒に居るのを目撃している人間が、当時、大変多かったのだと伝え聞く。
だから紀和は、だけは、当時の状況証拠的に、永一の落胤で殆ど確定だと言われている、というだけの話で、本当は、もっと落胤がいるのであろう、というのが、早佐の聞いた話ある。
永一という人間の節操の無さを、真面目な由一は恥じていたらしいのだが、何方も亡くなっている今となっては、由一が、実際は父親を如何思っていたのか聞く事は出来ない。
「ああ、女性の袱紗の色が、赤ではなくて、朱、という事ですか」
「そうですね。表で覚えていても、里で、裏の御作法の御茶会に呼ばれる身分の方は、そう多くもないでしょうし、困る事は少ない様ですけれど。そうそう、紀和さんから伺いましたが、早佐様、茶筅の使い方が御見事ですとか」
「まぁ、そんな。御作法云々より、点てる方が好きなだけですの。私、御茶は、皆様に気楽に飲んで頂きたいので」
早佐と篠の会話を聞いていた那智が、大きな目を瞬かせた。
―不味いわ。篠さんが、会話を続けようと気を利かせてくださった様だけれど、今は、混乱させてしまうだけね。話題を変えましょう。
今悲しい気持ちにさせてしまっては、御持て成しが台無しだ。
早佐は、今は、紫色の袱紗の存在や、武者小路や薮内流、織部流等の存在は秘する事にした。
突然、伊吹が、大きな声で泣き始めた。
ほぉぎゃあ、ほぉぎゃあ、と例えても良い様な、肺を目一杯有効に使った様な其の泣き声に、話題を変えたかった早佐は、救われた気分になった。
「あらあら。申し訳御座いません。そろそろ御暇致します」
篠は、丁寧に一礼すると、女中から伊吹を抱き取った。
私も、と言って、那智も、丁寧に一礼した。
「御二人共、またいらしてくださいませね」
きっとよ、と言って早佐が微笑むと、篠は微笑み返してくれて、那智は、真っ赤になって、はい、と返事をしてくれた。
早佐と同じ年の那智は、少し仲が良かった、というのを何処かで書きたかったので、書けて良かったと思います。




