来客
早佐の部屋に通された人物達を見て、早佐は、思わず、ウットリとしてしまった。
先ず、理佐の学友でもあった、篠である。
亡くなった吉野本家当主、保親の、比較的近い身内という話だったが、何とも言えず嫋やかで、美しい容姿をしている女性である。昔から、理佐と庭先で遊んでいる顔触れの中に必ず居た人物であるが、其れが、久し振りに会ってみれば、其の美しい、優しい姿に、何処と無く艶っぽい雰囲気が加わっていた。産後四ヶ月くらいの筈だが、やつれた所は見当たらなかった。
また、篠の抱いている白いベビー服の赤ん坊の、愛らしい事と言ったら無かった。
クシャクシャ、クルクルと、見事な、黒い、艶の有る巻き毛をした男の子で、こんな西洋人形の様な愛らしい姿の赤ん坊を実際に見た事が無かった早佐は、思わず、目の前の赤ん坊の実在を疑ってしまった程、嬉しくなった。
―まぁ、良い子。なんてタイミングで、スヤスヤと眠って。本当に御人形の様だわ。何て可愛いの。…でも、何処かで…?
そして、瀬原分家の娘、那智である。
―何て、素敵なの。
薄い、淡い、殆ど白か銀か、と思われる程の地に、薄墨の、大胆な筆致で、枝垂れ桜が描かれた振袖に、実に鮮やかな、孔雀緑の帯締めと帯揚げ、そして土耳古緑の帯を締めていた。恐らく襦袢も同じ色である。
そして、特筆すべきは、髪だった。
噂には聞いていたが、此れがショートヘアというものか、と、早佐は、其の、那智の、美しい襟足と、はにかんだ様な微笑みが、自身の視界の中で、愛らしく合わさるのを、驚きを持って見詰めた。
不思議と、那智の華やかな容姿に、男の子の様な短い髪が加わると、中性的なのに、豪く煽情的に思えて、却って色気を感じるのだった。
―着物も、何て大胆なの。驚く程色彩が無い振袖に、見た事が無いくらい鮮やかな帯。でも、此の人に、とてもよく似合っているわ。
来客達は、上座に座する早佐に向かって、正座し、丁寧に一礼した。
「御久し振りに存じます、早佐様。清水分家の篠、此方が、息子の伊吹で御座います」
「御初に御目文字仕ります。瀬原分家、藍児の娘、那智と申します。以後、御見知り置きを」
篠と違い、僅かばかり土地の訛の有る言葉で挨拶する那智は、成程、身分は低いのかも知れなかったが、頬を染めながら、一生懸命、といった具合に挨拶する様子が、如何にも初々しく、つられて頬を染めた早佐は、鷹揚に、宜しく御願い致します、としか言えなかった。
―こんな人が居るのね。姉様だって、龍ちゃんを身籠ってから、背中を隠すくらいの長さに切りそろえていらしたけれど、結っているのではなくて、こんなに短い髪の女の人は初めて見たわ。
辰顕が早佐を頭でっかち、という意味を、早佐は、身をもって実感した。
―そうだわ。髪の短い女性だって存在する筈なのに、巻き毛の赤ちゃんだって、実在する筈なのに。私は、本から得た知識でしか、其れを知らなかったのだわ。
此れ程短くはなくとも、胸元くらいまでなら、髪を切ってみたい、と、早佐は思った。とても軽やかで、動き易そうに思えたからだ。此の若々しい三人の来客を見ては、自身の髪が、情念を吸った重い物に思える程で、早佐は、思わず、ウットリとして、ほぅ、と、溜息をついてしまってから、言った。
「那智さんとは同い年ですのに、私が学校に行けなかったもので、此れが初めての御挨拶になってしまいましたわね。ですが、御噂は予々。遠くで、御姿は拝見しておりました。御髪も、素敵でいらっしゃる事ね。私も、そんな風にしてみたいわ」
那智は、真っ赤になると、滅相も御座いません、と言った。
「…でも、嬉しいです。有難う存じます。短い髪、あんまり、褒められませんから。父にも叱られてしまって」
「まぁ、如何して?」
―本家の娘以外は、伸ばす義務などないのに。
よく御似合いでいらっしゃる事よ、と、早佐が心から言うと、那智は、益々赤くなりながら、其れでも、微笑んでくれながら、言った。
「嫁入り前に、少しでも心証を良くしなければならないのに、如何いう心算だ、と、叱られまして。母が亡くなってからは、其れ程口煩い事を言わない人だったのに、中学を卒業する前くらいから、そういう事を言い出して。此の振袖も、色が地味だからと、買うのを随分反対されまして。…でも、私、其れ程身分が高い訳でも御座いませんし。そんな、其処まで見栄えを気にする様な格式の高い御宅に嫁ぐとも思えませんから…。雑誌で見た髪型、遣ってみたかったのです」
―ああ、成程。親は気にするかもしれないわね。
那智本人は知らずとも、父親の藍児には、少なくとも、娘の水配りの相手の身分が高い、という程度には通達が行っている可能性は有るのだ。令一の嫁になるのであれば、本家の娘程髪が長いわけではなくとも、長い髪の方が、釣り合いが取れる、と藍児が考えても不思議ではない。
―くだらない話だけれどね。
神は髪に通じるから、切らずに伸ばせ、などとは、早佐は気に入らない考えである。同源の言葉だとは思えないからだ。どうせ、鋏や剃刀の性能が良くなかった時代に出来た風習だろうと早佐は思っている。
しかし、惰性で、ただ慣習に従って、本家の娘だから、と髪を伸ばしている早佐にとっては、親に逆らって『遣ってみたい事』を遣った那智は、眩しく思えた。
「雑誌が御好きでいらっしゃるの?那智さん」
早佐の言葉に、いえ、と言って、那智は、頬を染めて俯いた。
「雑誌というか…御洒落がしたかったんです。美晴さん達みたいに、ソトの高校に進学する勇気も無くて、こんな、田舎者ですけど、でも未だ、服や鞄の写真を見るのが好きなんです。此の髪型で、あの鞄を持ったらどんなだろう、って思って」
美晴とは、吉野分家の娘である。
清水分家の母親を持つ治の遠縁の親戚で、数年前に、早佐が嫁ぐかと思っていた、実方分家の賢顕の息子、顕太郎に嫁いで、今は、顕之丞と顕悠という二人の息子の母親である。
顕太郎は外科だが、顕太郎の弟の奏顕は歯科で、此方も、早佐とは娶せられず、清水分家の女性と一緒になった。
瀬原集落には、中学校までしか学校が無い。進学したければ、集落外の高校や大学を受験するしか無く、其れは、長に許可を取らなければならない決まりとなっている。女性は、特に、進学以外で瀬原集落を出る機会は無いに等しい。
しかし、辺鄙な隠れ里で育てば、集落外の学校に進学する事に気後れする者も多く、隠れ里の秘密を守りつつ学業を全うせねばならないという苦労も有り、進学率は其れ程高くないと早佐は聞いている。
あ、すみません、と那智は、恥ずかしそうに言った。
「私ばっかり御話してしまって、失礼致しました」
此れまた、美しく髪を結い上げた篠が、コロコロと優しく笑って、言った。
「御洒落ですものねぇ、美晴さん。でも、御珍しい事。那智さん、何時もは、あまり御話にならないのに」
御恥ずかしい、と言って那智は、更に俯いた。
「今日、とても緊張して伺ったんです。まさか、こんなに正式に瀬原本家の敷居を跨げる日が来ようとは思いもしなかったもので。其れに、長の御家族の方に、こんな風に正装で御会い出来るなんて…。でも、御会いしたら…。同い年で、こんなに可愛らしい様子でいらして。思ったより、全然怖くなかったものですから。少し安心してしまって」
其の、那智の素直な様子に、早佐は感心して、本音を言った。
「まぁ、私など、兄に食べさせてもらっているだけの、義務教育も満足に通えなかった者ですわ。私自身が、何の偉い事が御座いましょうか。でも、怖くないと思って頂けて、好う御座いました」
何せ、つい昨日、権威有る実方家の医師を怯えさせてしまった早佐なので、同い年の女性に、そう思ってもらえるのは、最早、僥倖、というところである。違った出会い方をしていたら、怯えさせていた可能性が有るのだ。
早佐は、ほぼ初対面の、此の初々しい存在に対して、自身の歪みを押し隠し、なるべく対等に接しようと心に決めた。
微笑みながら伊吹を抱く篠に向かって、早佐は声を掛けた。
「篠さん、益々御美しくなられた事。其れに何て愛らしい息子さんなのでしょう」
此方は、其れ程珍しいとは思わなかったが、篠の、美しく結われた豊かな髪も、何とも若々しく、此の髪型も良いわね、と早佐は思った。
恐れ入ります、と言って、篠も、恥ずかしそうに頬を染めて、一礼した。
「今日は何処にも預けられなくて、連れて来てしまいましたが。主人に似て、彫が深くて癖毛ですが、体が丈夫な子で、助かっております」
聞けば、篠の舅は長患いで、姑は、平日の午前中、看病で病院に行く事が多いとの事である。もし実家に預けられない日に、夫が集落外で仕事となると、必然的に、伊吹を連れ歩くしかなくなるそうだ。
―何処の家にでも、女中や下働きが居るわけではないものね。其れは、そうよね。
「そうなのですか。まぁ、愛らしい。睫毛も、長い事。…御抱きしても、宜しくて?」
篠は、光栄です、と、驚いた様に言った。
「…でも、御振袖に、涎をつけてしまっては…。そんな見事な、濃い紅色、拝見した事が御座いませんわ」
「まぁ、構いません事よ」
どうせ自分で買った物でも何でも無いのだ。自分で選んだ物ですら無い。自身の事を、何時か本で読んだ、服を着せられている小型犬と大差が無いと考えている早佐は、兄に与えられた衣服を脱ぐ事も汚す事も、然して問題には思えなかった。
高価な服を汚されたくないなら、愛玩動物に着せる方が悪いというものだ。
仮に犬ならば泥の中を走り回るとも限らないのに、其れを考慮しないのは、動物としての早佐を甘く見過ぎているというものである。
早佐にとっては、兄が自分に着せたい着物を着せているという、ただ其れだけの事であって、何百万、何千万しようが、どんな量の紅花が使用されていようが、知った事ではない。
犬ならば、そんな事は気にしない。
「姉の御友達だった方の御子さんを抱けるなんて、思いもしませんでしたもの。光栄なのは此方ですわ。御迷惑でなければ、抱かせて頂けません事?甥を思い出して、嬉しくて」
御友達だなんて、と、恐縮した様に篠は言った。
「恐れ多い事ですわ、御学友にして頂けましたのも、ただ、年が同じだったから、というだけですのに」
其の言葉に壁を感じた早佐は、衝撃を受けた。
理佐は、早佐より優れていて、闊達で、快活で、友人も居る、至って普通の学生だったと、早佐は思い込んでいた。
しかし、実際は恐らく、違ったのだ。
傍目には仲が良さそうだったが、恐らく、身分差により、相手からは、此の様に、明確に線が引かれていたのであろう。
―…孤独だわ。姉様も、孤独でいらしたのだわ。
不思議、と早佐は思った。
―今日は何だか、随分、物事が、よく見える感じがするわ。
「そうですか…。ですが、姉を覚えていらっしゃる方と御会い出来るとは、嬉しい事」
「其の様に言って頂けて」
篠は、更に恐縮した様に一礼し、伊吹を、早佐の方に差し出した。
「其れでは、御言葉に甘えても宜しいでしょうか」
「抱かせて頂けるなら、嬉しゅう御座いますわ」
「…息子が大きくなったら、本家の方に抱いて頂いた果報者だと教えます」
抱かせてもらった伊吹は、甘い、ミルクの香りがして、何とも幸福な柔らかさと、暖かさを兼ね備えていた。
白い、ふっくらとした頬に、素晴らしい、長い睫毛の影が落ちていて、スースーという愛らしい寝息も、小さな手も、何もかもが尊い嬰児だと早佐は感じた。
「まぁ、軽い事。何も何も、小さき物は、皆うつくし。いみじう白く肥えたる児の…数え年だと、一つばかりなる、というところでしょうかね」
篠と那智が、揃って、え?と言った。
しまった、と早佐は思った。
―…『枕草子』の話なんて持ち出すものではないのね。勉強になったわ。
此れまで、姉や医師などとばかり話をしてきたから、話が通じなかった事が無かったのだが、此れぞ将に、頭でっかち、という事だろう。年の近い女性と話す時には、話題選びという事が必要なのかもしれなかった。
―案外、姉様も、こういう事で、疎外感を感じていたかもしれないわね。
自分の話が通じず、話題選びも難しいとなれば、相手が身分差で壁を作っている状態なら、尚更、相手に合わせてもらっている、という引け目を感じて、理佐も孤独を感じていた可能性が有る。
そして、仮に友達が乱暴な言葉を使っている時に、綺麗な言葉しか話せないと、きっと、疎外感を感じる事が有るのだろう、と、早佐は学んだ。
共通の言語、という事である。
今日は、本当に、よく物事が見える、と思いながら、早佐は、抱いている伊吹を、優しく揺すって、言った。
「まぁ、良い子。起きもしないなんて、大らかな。大物に育つ事でしょう」
篠は、意外そうに言った。
「…早佐様、上手に御抱きになられますのね」
「甥を抱かせて頂いておりましたから」
早佐が、そう言った瞬間、じゃあね、と、廊下から声がした。
「私、そろそろ帰るわ。厨の人達と話しておいたからね。三人で御土産食べてよ?そろそろ、御茶を持って来てくれる頃だから。花瓶も頼んだからね」
向子様、と言って、篠と那智が、慌てて立ち上がり、丁寧に一礼した。
あの、と、篠が、小さな声で言った。
「其の紙袋って…」
「あ、見る?ルブタン買っちゃったぁ」
篠と那智は、キャッ、と、喜びの声を上げた。
凄いです、と那智が言った。
「一九九二年に出来たばかりのブランドですよね?わぁ、鹿児島で見られるなんて」
「そう?山形屋で取り寄せてもらっちゃった。私、足が浮腫むと二十四センチが丁度良いから、インポート物の方が、サイズが合うのよ。フランスとかイタリアとかの。スニーカーだと二十三・五センチでもいけるんだけどねー」
素敵、と篠が言った。
あのね、と言って、向子が、ガサゴソと、靴の箱を開けて、中を見せてくれた。
「黒のピンヒールなんだけど。ほら、靴底。こういうの、欲しかったのよ、長い事。黒と赤が似合う友達が居てね」
深紅の靴底、と、那智が感動した様に言った。
「わぁ、履いてみたいです。雑誌で見たんですけど」
那智の言葉を聞いて、向子と篠が、声を揃えて、似合いそう、と言った。
「段々不景気になってきたけど、雑誌は未だ、そんな感じよねぇ。鞄は、如何いうのが好き?」
向子の楽しげな質問に、グッチです、と、明るく言う那智に、再び、向子と篠が、声を揃えて、似合いそう、と言った。
篠が、良いわぁ、と言った。
「パンツスーツとか、絶対似合うわ、那智さん」
うんうん、と向子が言った。
「髪型とも絶対合うわよぉ。何年か前に、デザイナーに、トム・フォードが入ったのよね、グッチ。ね、今度、うちにいらっしゃいよ。御茶しながら御話しましょ。鞄とか、見せてあげられるかも。趣味に合うのが有ると良いけど」
恐縮ですっ、と、那智が言った。
「さ、実方本家に、なんて…」
「良いじゃないのぉ、篠さんといらっしゃいよ。伊吹も一緒にね」
楽しそうな、其の一連の遣り取りを、早佐は、正座した儘、抱いている伊吹を優しく揺らしつつ、ポカーンとしながら見守った。
―私、何も知らないのだわ。
日本語の筈なのに、何も分からないのだ。
辛うじて、黒と赤の色合いが那智に似合いそうだ、という事くらいは理解出来たが、全く会話に入れる気がしなかった。
学校等の、若い女性が集まる場所で、こういった会話が為されていたのなら、理佐が孤独と疎外感を抱えていた事は、ほぼ確実となった。
―雑誌なんて、与えてもらった事も無いもの。兄から与えられた物からしか、私達姉妹は、情報を得る事が出来なかったのだもの。雑誌はおろか、テレビすら無いもの。
だから、病院の待合室のテレビや本で、貪る様に、手に入り得る知識は吸収した早佐だったが、草履以外の履物はおろか、普段着すら持っていない、という自分の異様さが、普段より強烈に意識に上った。
そして、里の中学校の制服はセーラー服だったし、体育の授業も有ったそうだから、早佐よりは随分マシだったとは思うが、理佐とて、篠達程洋服に詳しかったとは思えない。
其れに、話題は、きっと、服だけが問題になるのではないのだ。
テレビも無い家で暮らす姉は、級友達と、一体何の話をしたのだろうか。
―姉様、どの様な御気持ちで、学校に通われていらしたのですか…?
狭い世界に閉じ込められている、育ての親を二人共亡くした、兄に、生活の、ほぼ全てを握られている状態で、此の屋敷の外も知っている理佐が、どんな思いをしていたのかについて、殆ど、生まれて初めて思い至ると、早佐は、途方も無い気持ちになった。
自分ですら、姉を奉り、壁を作っていたのかもしれず、よもや、そんな孤独を味わっていただろうとは、想像してあげる事すら出来なかったのだ。
そして、理佐の婚約者は、岐顕だった。
―ソトを知る、仕事で家を空けがちな相手。
其れに引き換え、と、理佐は思わなかったであろうか。
自分は、外の事は、何も知らない、と。
其れが、どんなに不安だったか、という事について、本当に、今日の早佐は、不思議と、思い至る事が出来た。
あら、と言って近寄ってきた向子が、屈んで、早佐から、実に自然な動作で、伊吹を抱き取ってくれた。
「はー。何も何も、小さき物は、皆うつくし、ってね」
優しげな向子の其の言葉に、早佐は、目を瞬かせて、言った。
「瓜食めば」
そうそう、と言って立ち上がりながら、向子は、早佐に向かって、微笑んで言ってくれた。
「銀も金も玉も何せむに、優れる宝、子にしかめやも。うちの父の口癖」
向子は、其の儘、キョトンとしている篠に、伊吹を優しく渡した。
其の、分かってくれた、という思いで、幾らか孤独を慰められた気がした早佐は、前よりも向子が好きになった気がした。




