実方向子
早佐は頭痛と共に目覚めた。
長い夢を見た気がしたが、何も覚えていなかった。
ただ、美しい、青い場所に居た様な気がする。
昼になる頃には頭痛も消え、青い場所の事も忘れてしまったが、昨晩の辰顕の言葉は覚えていたので、女中を呼んで、振袖を着付けてもらった。
其れは、令一の趣味で作られた深い、実に深い色の、深紅の晴れ着で、早佐は全く気に入っていなかったが、大量に紅花を使ったと見えて、高価そうではあったので、訪問着で来てくれるらしい人間に対して、最低限の礼儀は尽くせるであろうと考えて、其れを選んだ。
また、腹が立つ事には、令一の見立てだというのに、似合うのだ。
やれやれ、と、心の中で嘆息する早佐に、女中による薄化粧が施されていった。
毎晩、風呂上がりの髪を毎日手入れしてくれる程手厚く面倒を見てくれる人々だが、令一が自分に対して選んだ日用品の様に思えて、早佐は愛着が持てない。努めて鷹揚に振舞い、微笑んで礼の一つも言えば、優しく接してくれる人々ではあるので、気に入らぬという程でも無いのだが、令一同様、早佐には、然したる興味を持てない存在だった。
だから、年の近い、『日用品』ではない、『人間』の女性の来客は、単純に嬉しかった。
紀和という、瀬原分家の厳しい中年女性が時々来て、御茶と御花を教えてくれる以外では、本当に、早佐の周辺は、興味が無くて認識出来ない、時には顔が有るのか無いのかさえ分からない様に感じる人物ばかりだった。
建物も、構えは豪華なのかも分からないが、物が少なくて殺風景に思えて、辰顕に『杣屋』と語った事は、別段、謙遜というわけでも無く、早佐自身は本当に、自身の寝起きする離れに華やかさが足りないと思っていたのだ。
唯一気に入っている、理佐の御下がりの振袖の帯には、金糸と銀糸の地に四季の花が織り込んであって、其処は華やかな様に思えるが、其れも、自身の、長過ぎる、本家の習慣だからと、惰性で伸ばしている垂髪で隠れてしまって、自分ではよく見えない。
帯は、ふくら雀か巾着結びにされるものと思っていたが、気を遣ってくれたのか、着付けてくれた側の気分だったのか、胡蝶の舞という形に帯を結んでくれたと女中が言っていたのに、見えないのでは、其れ程意味を感じない。
鏡を見ると、深紅の振袖が華やか過ぎる様に感じ、地味だと言って令一は嫌うが、花色の振袖に銀糸の帯にしても良かっただろうか、などと、早佐が思っていると、はぁい、と、明るい声がした。
見れば、実方本家当主、顕彦の娘、実方向子が、何やら、百貨店の紙袋を幾つか、ガサガサと持って立っていた。
「久し振り、早佐。厨に御土産置いてきたから、食べて頂戴ね。食欲が無いんですって?」
「まぁ、本当に、御久し振りです、向子様。有難うございます」
早佐は立ち上がり、丁寧に一礼した。
理佐の葬式以来会っていなかったから、本当に久し振りだった。
此の、岐顕や龍顕の育ての親と言っても過言ではない、美しい女性の事を、本当は気に入っている早佐だったが、令一が此の人物に其れ程興味を持っていないので、其の親しみを、令一に知られない様にしていた。
早佐が向子を割合気に入っていると知れたら、何らかの手段で、向子を此処に入れなくしてしまう様な気がするからである。
だから相手は、自分が早佐に気に入られているとは思っていないであろう。
理佐も、嫁いでから、相当世話になっていたと見えて、向子に全幅の信頼を寄せていたが、早佐には、其れが理解出来る気がする。
ただ、令一の事が無くとも、姉の嫁いだ相手の大叔母、という遠過ぎる関係に、如何いう距離感が適切なのか、早佐は未だに掴みかねている。
今日の向子は、何時ものシニョンに、仕立ての良い白いシャツと黒いタイトスカート姿で、如何にも此れから仕事に行く、という雰囲気だったが、耳に、大きなアメジストのイヤリングをしていて、とても華やかだった。
亡くなった早佐の父である由一より年上だと聞き及んでいるのに、精々三十代前半くらいに見える、其の驚異的な美貌の持ち主の顔を、早佐は繁々と眺めた。
―…不思議。今日は、何処かで見た顔、という気がするわ。知り合いなのだから、当たり前なのに。
一瞬、其の美しい姿に、宇宙を支える、大きな美しい綱が巻き付いている様に思えて、早佐は、思わず、目を瞬かせた。
麗しい、特徴の有る垂れ目を流し目にするのが癖の向子は、今日も其の、色っぽい双眸の上の長い睫毛を伏せながら、微笑んでくれた。
「まぁ、今日は少し顔色が良いじゃないの。私の可愛い子」
御化粧のせいでしょうか、と言う早佐を、百貨店の紙袋を足元に置いた向子は、抱き締めてくれた。
「里の子は、皆私の子よ。十六まで育ってくれて嬉しいわ。御正月には水配りですってね。綺麗よ、早佐」
嘗て此の直情的な愛情表現に自分が飢えていた事を口に出せない早佐は、嬉しかったが、鷹揚に腕を広げて向子を抱き締め返すと、そっと向子から離れて、ただ微笑んだ。
香水なのか、何か、爽やかな花の様な香りがした。
何時も、如何やら本心から『里の子は皆私の子』と言ってくれるらしい、敢えて独身を選んでいるらしい此の人物の言葉を聞くのが、本当は好きなのだ。
もう、『私の子』などと、早佐を呼んでくれる存在は、向子の他に居ないからだ。
努めて、其の人物への親しみを表に出す事を最小限にしている早佐に向かって、向子は、慈母の様な微笑みを向けてくれた。
「由一を思い出すわね。…沢山我慢する子だったわ」
真夜中、未だ子供だった自分達兄妹に代わり、由一を看取ってくれたという此の人物は、時々、由一の事を話してくれる。早佐は、そういう時、此の人物の穏やかな笑みと、美しいシニョンにされた黒髪を見るのが好きだった。襟足が白くて、昔、自分が腕を巻き付けて抱いてもらっていた、紅葉の首を思い出すのである。別に、其れで感傷に浸る様な事は無い早佐だが、ただ懐かしくて、穏やかな気分になり、何時も、ただ、そっと微笑み返すのである。
ああ、そうだ、と向子は言った。
「御客様を御連れしたのよ。私は仕事に行かなくちゃならないから、直ぐ帰るけど」
「あら。篠さんと那智さんですか?」
「ええ。まぁ、離れだろうと、本家に来るって、敷居が高いものらしいわよ。私はピンと来ないけど。だから、二人を連れて一緒に来たってわけ」
有難う御座います、と早佐が言うと、向子は、玄関に待たせているから呼んでもらうわね、と言って、部屋から出て行った。
早佐は、布団を上げられた、殺風景だと自身が感じる自室に正座して、来客達を待った。
―小さな御客様が来るという事であれば、茶室も、何時もの電気ポットも危ないものね。折角、明るいうちに御越しなのに、自分で御茶を点てて差し上げる事も出来ないとは、味気ない事。




