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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第三章 確信
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青い場所

 気付けば、早佐は、婚礼衣装そっくりの、十二単の様な着物を着て、()(ばかま)を履いて、青い花畑の(よう)な所に座っていた。


 不思議な場所だ、と早佐は思ったが、其れより、袴が紅い事が嬉しかった。


 袴が紫色は純潔を表しており、新枕(にいまくら)を交わした後は、紅い袴を履くのだ。


 訳の分からない場所に居ても、(はる)との事実を消せずに持って来られたらしい事のみで、早佐は満足しきっていた。


 此の場所は美しいが、そんな事は如何(どう)でも良かった。


 早佐は、人間の心と、精神と、魂が、自分から分離していくのが分かった。


 恋をした人間の心は、西瓜くらいの大きさの、シャボン玉の(よう)な美しい瑠璃色の玉に封じ込められて、ふわりと、紺碧の空の方へ浮かんでいった。

 あれは、体と繋がっているものだ、と、早佐は感じた。

 体が存在していたから感じ、持てた、醜くも美しいものだった。


 精神は凪いでいて、水面に例えるなら本当に(かがみ)(よう)であり、理佐や龍顕への惜しみない愛情に満ちていた。一点の曇りも無く、早佐は、二人の存在を尊んでいた。精神は、空気の(よう)な所に、ただ、在った。


 そして魂は、自身が山の神の眷属になった事を理解していた。


 魂は、早佐の所に戻って来た。




 次の瞬間、おおおおおおん、おおおおおおん、おおおおおおん、という、脳まで揺らしてくるかと思われる程の、地響きの(よう)な音が聞こえて来て、更に、男とも女ともつかない声が重なり、早佐が知っている事を唱えた。


佐久那(さくな)()()に落ちたぎつ(はや)(かわ)の瀬に()()(おり)()()()と云ふ神、大海原に持ち出でなむ』


 何と、早佐と同じ衣装を着た、理佐が現れた。しかし、理佐の(よう)に思われるのだが、顔が判然としない。理佐は、少し離れた所に座っている(よう)な、()ぐ隣に居る(よう)な、遠い山に居る(よう)な感じがして、距離感が掴めない。


()()持ち出で往なば、荒塩(あらしほ)の塩の八百道(やおぢ)八塩道(やしほぢ)の塩の八百会(やほあひ)()(はや)(あき)()()()と云ふ神、持ち可可呑(かかの)みてむ』


 早佐が、ふと見ると、自身の正面に、黒い振袖を着た、美しい、若い娘が居た。顔は判然としないが、何処かで見た(よう)な気がする娘だった。


()()可可呑(かかの)みてば、気吹(いぶき)()()気吹(いぶき)()(ぬし)と云ふ神、(ねの)国底之国(くにそこのくに)気吹(いぶ)き放ちてむ』


 空中から、これまた、早佐と似た(よう)な衣装を着た、(えら)く美しい女性が、紅玉の(よう)な赤い炎を(まと)って、理佐の正面に現れたが、其の女性は、青い花畑に降り立つやいなや、強風を起こし、白装束姿の美丈夫(びじょうふ)に変じた。其の男性の黒髪が、燃える(よう)に、クシャクシャと、美しく、うねっている(よう)に、早佐には思えた。其の男性が座ったので、理佐と早佐と其の男性と黒い振袖の娘で、正方形を作る(よう)にして、向かい合う(よう)に座る形になった。


()()気吹(いぶ)き放ちてば、(ねの)国底之国(くにそこのくに)()(はや)()()()()()と云ふ神、持ち(はや)()()()()失ひてむ』


(はや)()()()()()


 自分の魂の名前を、(はや)()は理解した。

 成程、(ねの)国底之国(くにそこのくに)()す神であったか、と。


 故に、暗く深い物思いを持ち、上の姉が大海原に持ちだした罪を、次の姉が飲み込み、気吹(いぶき)()(ぬし)という兄姉(きょうだい)が吹き飛ばして、自分の()す、(ねの)国底之国(くにそこのくに)まで送り込んでくれたものを、持った(まま)、何処かに(さす)()う、(すえ)の女神たり得るのである。


―龍神であり、山の神であり、(ねの)国底之国(くにそこのくに)の神なのだわ。そして、火山。


 其れはマントルであり、マグマであり、プレートだった。

 龍が飛ぶ(よう)に地中を流れ、流れて、流離(さすら)って、罪や穢れどころか、全ての物を焼き尽くし、流し尽くし、大陸の形までもを変えて、流れて行って、何処かで引っ掛かり、地震(なゐ)を起こすのだ。


地震(なゐ)の神の眷属なのだわ。


 地震の災厄でも地熱の恵みでもある。其の存在が『罪』か如何(どう)か、為す事が恩恵か災厄か、などというところで推し量れる存在ではないのだ。

 そんなものは人間の基準であり、為した事を人間が如何(どう)受け取るかで、神とも、(まが)()(かみ)とも呼ばれるだけなのだ。


―成程、(まが)()(かみ)ね。


 如何(どう)やら自分は、(まが)()(かみ)たり得た事も、早佐は理解した。

 荒ぶる神だ。

 善意だけの存在たり得ない。

 恩恵と災厄の両方を与える、山の神の末席(まっせき)に名を連ねている存在だった。


 ふと、正方形を作って座している真ん中に、巨大な龍が降り立ち、理佐の中に入っていた。

 そして、黒い振袖姿の娘が、スッと、早佐の中に入っていった。


 理佐は、瑠璃色の玉を、早佐に手渡してくれた。

 其れは、先程、早佐から離れていった心だった。


 早佐は、其の受け取った、美しい瑠璃色の玉を見詰めた。


 玉の中には、若い娘が居た。

 早佐は、其れが(かつ)ての自分と悟った。




 其の時の早佐は、身分の低い男が、身分の高い娘を娶って生まれた娘だった。

 夫婦仲は良かったが、母親は、高い身分の生まれだった為に、其の場所の風習を生活の中に持ち込んだ。


 早佐は、其の籤引(くじび)きの習慣によって、『瑠璃(るり)』という美しい名前を貰い、身分の低かった父親は、其の事を自慢にした。


 当時の早佐は健康だったが、尋常中学校までしか通わせてもらえなかった。

 身分の高い、集落に所縁(ゆかり)の娘が女学校に行ったと伝え聞いて、心から羨ましかった。

 本が沢山読みたかったが、紙も物資も不足していて、流通も(とどこお)り、弟妹(ていまい)も多く、辺鄙(へんぴ)な場所で、活字に(かつ)えて暮らしていた。


 時代も悪く、早佐の好きな物は、(ことごと)く我慢の対象になってしまい、母が(たしな)んでいた香を嗅ぐ事も出来なくなり、やがて、父が買ってくれていた少女雑誌まで読めなくなった。


 もっと本が読みたい、と、早佐は思っていた。


 活字である物は、新聞すら拾い読みした。

 しかし、食べ物の少ない状態では、其れは、全く叶わない夢となった。

 野山で薪を拾って、何とか食べ物を搔き集めて、弟妹の為に食事を作った。

 新聞は、包み紙にした後に、掃除や焚き付けに使って、最後は灰燼(かいじん)に帰した。

 美しかった白い手には掻き傷が増えた。


 恋は、していた。


 幼馴染の、少し年上の、美しい男の子だった。


 相手は、何時(いつ)も憂えていた。

 自身の両親の不在を憂えていた。

 そして其の、自身の愛する弟の死を憂えていた。

 そして、自分の住む場所が良くならない事を、憂えていた。


 其の男の子は、集落の身分差や貧富の差を憂えていた。

 漠然とした不公平感などというものではなく、実に具体的に、男の子は、何時(いつ)までも払拭出来ない集落の格差を憂えていた。


 優しいのに、ぶっきら棒で、彼は、()()(ぶっ)(ちょう)(づら)をしていた。


 其の聡明さに恋をした。

 其の不器用な優しさと、上手く微笑めない仏頂面を愛した。


 身分の低い男の娘だが、父親は成り上がりの有力者で、母親からは気位高く育てられた其の時の早佐には、其の(うれ)いが、手に取る(よう)に分かったのだ。

 父親の出自の身分が低いからと(さげす)まれたり、実力者の娘だからと(たてまつ)られたり、誰もが、好き勝手に当時の早佐を評価したが、其れも此れも、集落の中に在る格差が原因だ、という事が、当時の早佐にも分かっていたのだ。


 だが、其れを実感し、言語化して憂えている年の近い人間を、其の時の早佐は、彼以外に知らなかった。


 其の存在は衝撃であり、どんな本を読んでも、どんな勉強をする事が出来ても、自分が、そんな思考に到達出来るとは、到底思えなかった。


 早佐は、彼に成り代わりたい程に彼を乞うた。


 男の子の、淡い色の美しい瞳が(うれ)いで(かげ)るのを、遠くから眺めていた。何時(いつ)も、淡く光っている、其の男の子は、長身で(たくま)しいのに、消えそうに儚い、美しい光を、髪に、瞳に(いただ)いていた。


 嗚呼、あの髪が、瞳が自分のものだったら。

 あの、明晰な頭脳が自分のものだったら。

 自分が、あれらを持っていたら。


 成り代わりたい、と、当時の早佐は夢想していた。

 彼の心が手に入らない事が分かっていたからだ。

 心が手に入らないのならば、せめて、姿なりと、成り代わり、手に入れたい、と。


 彼の心は、溺死してしまった双子の片割れ、弟の所に行ってしまったのだった。

 草原の下で眺める冬の夜空の星の(よう)な遠い場所に、彼の心は、弟と一緒に行ってしまったのだ。


 手に入らないものに対して、結局、当時の早佐()、我慢をしなかった。


 空襲警報の鳴り響く恐ろしい日に、其の機会は訪れた。


 一人で怖くて動けずにいる早佐を、其の男の子は、防空壕まで誘導してくれたのだった。


 其の時。


 空も、家も、山も、人すらも、何処かで焼けているだろうに、早佐は、周囲の不幸には構わず、助けてくれた其の人間を(おとしい)れ、交わったのだ。


 其の優しさに付け込み、怖いから一人にしないでほしいと訴え、(ねや)に引き込んだのだ。


―思い出した。…手慣れているわけね。二度目だったのだもの。成程、やはり私は、健康だろうが、閉じ込められていなかろうが、同じ様な事をする人間だった、というわけね。環境に左右されない性質を持つとは、いっそ天晴(あっぱ)れというものだわ。


 罰は()(くだ)った。


 当時の早佐の誕生日は終戦の日になり、男の子は死んだ。

 早佐は身籠っていたが、御産の途中で亡くなった。我が子の顔も見られなかったから、知らない。


―もう一度遣るなんて。…(まが)()(かみ)になる(はず)だわ。こうして、流離(さすら)うのね。人間の心を捨てて、流離(さすら)うのだわ。地の底を。


 仏教で言うのなら解脱(げだつ)と言うのだろう。

 恐らく、早佐は、二度と輪廻(りんね)転生(てんせい)(のぞ)めない。

 双六(すごろく)で言うなら『()がり』だ。

 神の末席(まっせき)に加えられたのだ。


―だから、本当の両親にも、養父母にも、私が身籠った子にも会えないのだわ。()だ輪廻転生を繰り返す存在とは。


 其れは、『罰』なのかもしれないし、『罰』でも何でもない、ただの予定調和の一つなのかもしれない。


 ただ、二度と恋が出来ないらしい事は確かだった。

 心は、体を持たなければ、何も経験の蓄積が出来ないからだ。


―ああ、最後の恋なんだわ、此れが。人間として。死んで、()()()()()()()()()()、私は(まが)()(かみ)になるのだわ。心と体を、此れ以降、永遠に持たないから、此れが、最後の恋なんだわ。


 だから如何(どう)やら、簡単には死なせてもらえないし、体も失わせてもらえないのだ。


 実際は、解脱(げだつ)をこそが、望ましい状態とされているのだろう。

 生まれ変わるなどとは、思い残しの有る人間のする事であって、何度も同じ相手に会って何度も同じ事をする、何度も結ばれるなどとは、魂には何の得も無いのだ。

 其れは『祝福』であり、『呪い』だ。

 『前世からの運命の恋人』とは、またの名を『輪廻を超えて縛り合っている相手』と呼べるのだ。

 解脱(げだつ)するには、本来は其の(よう)な存在が無い方が良いのだ。


 だから執着を捨てろと、かの宗教は言うのだろう、と、早佐は理解した。


 しかし、其れは、早佐が、其の宗教の範疇外の、(まが)()(かみ)となるからには、関係が有る(よう)で、関係が無い。


―其れでも。体が失われるまでは、何かを乞うて、愛し続けるのだわ。『祝福』でも、『呪い』でも。




 ふと気付くと、理佐が、小さな、白い麻の着物の男の子を抱いていた。

 淡い美しい色の産毛の中に、ピコン、と、一本、旋毛(つむじ)から、金の毛が生えていた。


―何て綺麗なの。(つの)(よう)


 理佐は、青い場所から、小さな男の子を、青い花畑の中に置いて、空に舞い上がると、心と魂に別れ、理佐の心は、何処からか出現した滝壺に身を投げた。


―ああ、御姉様。人間としては、此れで御別れなのですね。思い残しが御有りですか?また、生まれていらっしゃるのですね。


 理佐に置いて行かれた、青い花畑の中の男の子を、早佐は見詰めた。


―何て、愛おしい。


 理佐の魂は、別名を与えられ、美しい、早佐と似た衣装を着た、髪の長い女性に変じた。


(つき)賢木(さかき)(いつ)()御魂(みたま)天疎(あまさかる)向津媛(むかつひめ)(のみこと)


 向津媛(むかつひめ)は、宇宙を支える大きな(つな)に、龍の(よう)に巻かれて助けられながら宙を舞い、日向(ひゅうが)向島(むかいじま)の方へ行くと言って去った。




 ふと、おおおおおおん、おおおおおおん、おおおおおおん、という声が聞こえた。


 花畑の中に、黒い塊が出現した。無数の捻じれた手が重なって、醜い、グチャグチャとした塊になっている。

 黒い塊は、小さな男の子の方に、ゆっくりと向かってきた。


 気吹(いぶき)()(ぬし)が、小さい男の子を花畑から抱き上げ、早佐に、あれを消すのを手伝ってほしい、と言った。


 あれも、誰かの『罪』なのだ。


 自身の闇と近しい(よう)な、自身が其れを産むのを助けた(よう)な、そんな気がして、早佐は、哀れな、と言った。


―きっちり消してあげましょう。持ち(はや)()()()()、失ってあげましょう。


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