青い場所
気付けば、早佐は、婚礼衣装そっくりの、十二単の様な着物を着て、緋袴を履いて、青い花畑の様な所に座っていた。
不思議な場所だ、と早佐は思ったが、其れより、袴が紅い事が嬉しかった。
袴が紫色は純潔を表しており、新枕を交わした後は、紅い袴を履くのだ。
訳の分からない場所に居ても、治との事実を消せずに持って来られたらしい事のみで、早佐は満足しきっていた。
此の場所は美しいが、そんな事は如何でも良かった。
早佐は、人間の心と、精神と、魂が、自分から分離していくのが分かった。
恋をした人間の心は、西瓜くらいの大きさの、シャボン玉の様な美しい瑠璃色の玉に封じ込められて、ふわりと、紺碧の空の方へ浮かんでいった。
あれは、体と繋がっているものだ、と、早佐は感じた。
体が存在していたから感じ、持てた、醜くも美しいものだった。
精神は凪いでいて、水面に例えるなら本当に鏡の様であり、理佐や龍顕への惜しみない愛情に満ちていた。一点の曇りも無く、早佐は、二人の存在を尊んでいた。精神は、空気の様な所に、ただ、在った。
そして魂は、自身が山の神の眷属になった事を理解していた。
魂は、早佐の所に戻って来た。
次の瞬間、おおおおおおん、おおおおおおん、おおおおおおん、という、脳まで揺らしてくるかと思われる程の、地響きの様な音が聞こえて来て、更に、男とも女ともつかない声が重なり、早佐が知っている事を唱えた。
『佐久那太理に落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ』
何と、早佐と同じ衣装を着た、理佐が現れた。しかし、理佐の様に思われるのだが、顔が判然としない。理佐は、少し離れた所に座っている様な、直ぐ隣に居る様な、遠い山に居る様な感じがして、距離感が掴めない。
『如此持ち出で往なば、荒塩の塩の八百道の八塩道の塩の八百会に坐す速開都比売と云ふ神、持ち可可呑みてむ』
早佐が、ふと見ると、自身の正面に、黒い振袖を着た、美しい、若い娘が居た。顔は判然としないが、何処かで見た様な気がする娘だった。
『如此可可呑みてば、気吹戸に坐す気吹戸主と云ふ神、根国底之国に気吹き放ちてむ』
空中から、これまた、早佐と似た様な衣装を着た、豪く美しい女性が、紅玉の様な赤い炎を纏って、理佐の正面に現れたが、其の女性は、青い花畑に降り立つやいなや、強風を起こし、白装束姿の美丈夫に変じた。其の男性の黒髪が、燃える様に、クシャクシャと、美しく、うねっている様に、早佐には思えた。其の男性が座ったので、理佐と早佐と其の男性と黒い振袖の娘で、正方形を作る様にして、向かい合う様に座る形になった。
『如此気吹き放ちてば、根国底之国に坐す速佐須良比売と云ふ神、持ち速佐須良比失ひてむ』
―速佐須良比売。
自分の魂の名前を、早佐は理解した。
成程、根国底之国に坐す神であったか、と。
故に、暗く深い物思いを持ち、上の姉が大海原に持ちだした罪を、次の姉が飲み込み、気吹戸主という兄姉が吹き飛ばして、自分の坐す、根国底之国まで送り込んでくれたものを、持った儘、何処かに流離う、末の女神たり得るのである。
―龍神であり、山の神であり、根国底之国の神なのだわ。そして、火山。
其れはマントルであり、マグマであり、プレートだった。
龍が飛ぶ様に地中を流れ、流れて、流離って、罪や穢れどころか、全ての物を焼き尽くし、流し尽くし、大陸の形までもを変えて、流れて行って、何処かで引っ掛かり、地震を起こすのだ。
―地震の神の眷属なのだわ。
地震の災厄でも地熱の恵みでもある。其の存在が『罪』か如何か、為す事が恩恵か災厄か、などというところで推し量れる存在ではないのだ。
そんなものは人間の基準であり、為した事を人間が如何受け取るかで、神とも、禍津神とも呼ばれるだけなのだ。
―成程、禍津神ね。
如何やら自分は、禍津神たり得た事も、早佐は理解した。
荒ぶる神だ。
善意だけの存在たり得ない。
恩恵と災厄の両方を与える、山の神の末席に名を連ねている存在だった。
ふと、正方形を作って座している真ん中に、巨大な龍が降り立ち、理佐の中に入っていた。
そして、黒い振袖姿の娘が、スッと、早佐の中に入っていった。
理佐は、瑠璃色の玉を、早佐に手渡してくれた。
其れは、先程、早佐から離れていった心だった。
早佐は、其の受け取った、美しい瑠璃色の玉を見詰めた。
玉の中には、若い娘が居た。
早佐は、其れが嘗ての自分と悟った。
其の時の早佐は、身分の低い男が、身分の高い娘を娶って生まれた娘だった。
夫婦仲は良かったが、母親は、高い身分の生まれだった為に、其の場所の風習を生活の中に持ち込んだ。
早佐は、其の籤引きの習慣によって、『瑠璃』という美しい名前を貰い、身分の低かった父親は、其の事を自慢にした。
当時の早佐は健康だったが、尋常中学校までしか通わせてもらえなかった。
身分の高い、集落に所縁の娘が女学校に行ったと伝え聞いて、心から羨ましかった。
本が沢山読みたかったが、紙も物資も不足していて、流通も滞り、弟妹も多く、辺鄙な場所で、活字に餓えて暮らしていた。
時代も悪く、早佐の好きな物は、悉く我慢の対象になってしまい、母が嗜んでいた香を嗅ぐ事も出来なくなり、やがて、父が買ってくれていた少女雑誌まで読めなくなった。
もっと本が読みたい、と、早佐は思っていた。
活字である物は、新聞すら拾い読みした。
しかし、食べ物の少ない状態では、其れは、全く叶わない夢となった。
野山で薪を拾って、何とか食べ物を搔き集めて、弟妹の為に食事を作った。
新聞は、包み紙にした後に、掃除や焚き付けに使って、最後は灰燼に帰した。
美しかった白い手には掻き傷が増えた。
恋は、していた。
幼馴染の、少し年上の、美しい男の子だった。
相手は、何時も憂えていた。
自身の両親の不在を憂えていた。
そして其の、自身の愛する弟の死を憂えていた。
そして、自分の住む場所が良くならない事を、憂えていた。
其の男の子は、集落の身分差や貧富の差を憂えていた。
漠然とした不公平感などというものではなく、実に具体的に、男の子は、何時までも払拭出来ない集落の格差を憂えていた。
優しいのに、ぶっきら棒で、彼は、何時も仏頂面をしていた。
其の聡明さに恋をした。
其の不器用な優しさと、上手く微笑めない仏頂面を愛した。
身分の低い男の娘だが、父親は成り上がりの有力者で、母親からは気位高く育てられた其の時の早佐には、其の憂いが、手に取る様に分かったのだ。
父親の出自の身分が低いからと蔑まれたり、実力者の娘だからと奉られたり、誰もが、好き勝手に当時の早佐を評価したが、其れも此れも、集落の中に在る格差が原因だ、という事が、当時の早佐にも分かっていたのだ。
だが、其れを実感し、言語化して憂えている年の近い人間を、其の時の早佐は、彼以外に知らなかった。
其の存在は衝撃であり、どんな本を読んでも、どんな勉強をする事が出来ても、自分が、そんな思考に到達出来るとは、到底思えなかった。
早佐は、彼に成り代わりたい程に彼を乞うた。
男の子の、淡い色の美しい瞳が憂いで翳るのを、遠くから眺めていた。何時も、淡く光っている、其の男の子は、長身で逞しいのに、消えそうに儚い、美しい光を、髪に、瞳に戴いていた。
嗚呼、あの髪が、瞳が自分のものだったら。
あの、明晰な頭脳が自分のものだったら。
自分が、あれらを持っていたら。
成り代わりたい、と、当時の早佐は夢想していた。
彼の心が手に入らない事が分かっていたからだ。
心が手に入らないのならば、せめて、姿なりと、成り代わり、手に入れたい、と。
彼の心は、溺死してしまった双子の片割れ、弟の所に行ってしまったのだった。
草原の下で眺める冬の夜空の星の様な遠い場所に、彼の心は、弟と一緒に行ってしまったのだ。
手に入らないものに対して、結局、当時の早佐も、我慢をしなかった。
空襲警報の鳴り響く恐ろしい日に、其の機会は訪れた。
一人で怖くて動けずにいる早佐を、其の男の子は、防空壕まで誘導してくれたのだった。
其の時。
空も、家も、山も、人すらも、何処かで焼けているだろうに、早佐は、周囲の不幸には構わず、助けてくれた其の人間を陥れ、交わったのだ。
其の優しさに付け込み、怖いから一人にしないでほしいと訴え、閨に引き込んだのだ。
―思い出した。…手慣れているわけね。二度目だったのだもの。成程、やはり私は、健康だろうが、閉じ込められていなかろうが、同じ様な事をする人間だった、というわけね。環境に左右されない性質を持つとは、いっそ天晴れというものだわ。
罰は直ぐ下った。
当時の早佐の誕生日は終戦の日になり、男の子は死んだ。
早佐は身籠っていたが、御産の途中で亡くなった。我が子の顔も見られなかったから、知らない。
―もう一度遣るなんて。…禍津神になる筈だわ。こうして、流離うのね。人間の心を捨てて、流離うのだわ。地の底を。
仏教で言うのなら解脱と言うのだろう。
恐らく、早佐は、二度と輪廻転生に臨めない。
双六で言うなら『上がり』だ。
神の末席に加えられたのだ。
―だから、本当の両親にも、養父母にも、私が身籠った子にも会えないのだわ。未だ輪廻転生を繰り返す存在とは。
其れは、『罰』なのかもしれないし、『罰』でも何でもない、ただの予定調和の一つなのかもしれない。
ただ、二度と恋が出来ないらしい事は確かだった。
心は、体を持たなければ、何も経験の蓄積が出来ないからだ。
―ああ、最後の恋なんだわ、此れが。人間として。死んで、体を失ってしまったら、私は禍津神になるのだわ。心と体を、此れ以降、永遠に持たないから、此れが、最後の恋なんだわ。
だから如何やら、簡単には死なせてもらえないし、体も失わせてもらえないのだ。
実際は、解脱をこそが、望ましい状態とされているのだろう。
生まれ変わるなどとは、思い残しの有る人間のする事であって、何度も同じ相手に会って何度も同じ事をする、何度も結ばれるなどとは、魂には何の得も無いのだ。
其れは『祝福』であり、『呪い』だ。
『前世からの運命の恋人』とは、またの名を『輪廻を超えて縛り合っている相手』と呼べるのだ。
解脱するには、本来は其の様な存在が無い方が良いのだ。
だから執着を捨てろと、かの宗教は言うのだろう、と、早佐は理解した。
しかし、其れは、早佐が、其の宗教の範疇外の、禍津神となるからには、関係が有る様で、関係が無い。
―其れでも。体が失われるまでは、何かを乞うて、愛し続けるのだわ。『祝福』でも、『呪い』でも。
ふと気付くと、理佐が、小さな、白い麻の着物の男の子を抱いていた。
淡い美しい色の産毛の中に、ピコン、と、一本、旋毛から、金の毛が生えていた。
―何て綺麗なの。角の様。
理佐は、青い場所から、小さな男の子を、青い花畑の中に置いて、空に舞い上がると、心と魂に別れ、理佐の心は、何処からか出現した滝壺に身を投げた。
―ああ、御姉様。人間としては、此れで御別れなのですね。思い残しが御有りですか?また、生まれていらっしゃるのですね。
理佐に置いて行かれた、青い花畑の中の男の子を、早佐は見詰めた。
―何て、愛おしい。
理佐の魂は、別名を与えられ、美しい、早佐と似た衣装を着た、髪の長い女性に変じた。
『撞賢木厳之御魂天疎向津媛命』
向津媛は、宇宙を支える大きな綱に、龍の様に巻かれて助けられながら宙を舞い、日向の向島の方へ行くと言って去った。
ふと、おおおおおおん、おおおおおおん、おおおおおおん、という声が聞こえた。
花畑の中に、黒い塊が出現した。無数の捻じれた手が重なって、醜い、グチャグチャとした塊になっている。
黒い塊は、小さな男の子の方に、ゆっくりと向かってきた。
気吹戸主が、小さい男の子を花畑から抱き上げ、早佐に、あれを消すのを手伝ってほしい、と言った。
あれも、誰かの『罪』なのだ。
自身の闇と近しい様な、自身が其れを産むのを助けた様な、そんな気がして、早佐は、哀れな、と言った。
―きっちり消してあげましょう。持ち速佐須良比、失ってあげましょう。




